第九和 仕事は見て学ばずに、お客様から学びましょう。


「……中継?」

「そう、あのおっさんは野球の中継がある日には、仕事を早退してここに観戦しにくるんだよ」

「あぁ……なるほど。でも、勝手にテレビ使ったりしていいんですか?」


 仕事の早退って……良いんですかね、社会人。それに、テレビをわがもの顔で占有しちゃって……お店的には何も言わなくていいのでしょうか。


「あぁ、そうだな。ここは基本的に店側も、というか俺が主に勝手気ままにする代わりに、客も自由にするようにしてる。それこそ自宅のようにくつろげってな」

「あ、なるほど。それって少し楽しそうで良いですね」


 思わず、ぽつりと口をついて出てしまいました。何かを考えたわけではありません。自分で言ったつもりもありません。ただ、不思議と言葉が零れ落ちるような感覚です。これは初めての体験で、また一歩世間知らずから遠のいた気もします。


「まぁ、これでおもしろくない客は来なけりゃ良い。うちのスタンスについてこれねぇ客はおいていく!」

「言っていることは一見かっこ良さそうですけど、それって接客業としては最低ですよね……」


 ほんと、なんで接客業しているんだろ、この人。


 堂々と胸を張る様は立派ですが、こんな接客だからお客さんが少ないんじゃないでしょうか。店内を見渡せば、席ばかり多く、面積ばかり広い店であることが、かえってお客様の少なさを際立たせて、寒々しい空気を漂わせます。


「つまりあれか、お前は最低についてくる客はドMの変態どもだと言いたいのか。女王様だなお前」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 何でさりげなく私が嫌な人みたいになっているんですか! 酷いのはあなたですからね!」

「上司にむかって思い切ったこと言うなんてなーこれは世間知らずってレッテルが貼られても文句言えないよな~」

「そ、そんな……」


 これが世間……なのでしょうか?


「芳美ちゃん、そいつとまともに取り合うと頭おかしくなるからその辺でよしておいた方がいいよ」


 係長さんは野球中継から一ミリも目を離すことなく、おつまみとお酒を味わいながら私を諭しました。でもなるほど、この人の語る世間を知らなくても世間知らずにはならなそうです。僅かばかり気持ちが軽くなりました。


「そ、そうですね……私も疲れてきました……」

「まぁ、今日は初バイトの初仕事だからな。疲れるのは仕方がない。夜から忙しくなるし、今日はこの辺で帰って良いよ。仕事はだいたいこんなことするんだってわかったでしょ?」

「さっぱり何すればいいかわかってないんですが……」


 そもそも、これまでのいったいどこに仕事を理解できる要素があったのか教えてほしいくらいです。


「え、そう? まぁいいや。わかんなくても。説明するの面倒だしね。そのうちお客さんが何すればいいか教えてくれるよ」

「……お店の人は教えてくださらないんですか」

「そりゃ、めんどくさいしな」

「……」


 わかってましたけどね、えぇ。

 この人はどうやら、私に仕事を覚えさせるきはみじんもないということですかそうですか。


「私はこれからやっていけるんでしょうか……このお店で……」


 大学生活が始まる時は不安にも勝る期待や興奮がありましたが、バイトを始めるにあたって抱く感情は、恐怖と不安ばかりです……。

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