第七和 在っても無いようで、実は在るけどやっぱり意味の無い。それがメニュー。


 窓際さんは、全身の力が抜け、心なしかどこぞのボクサーよろしく白く灰になっているような気がします。

 此処は、あの有名な名言で立ち直らせてさしあげたいところですが、確かあの名言、原作で一度しか使われてなかったはずですから、これはいつかもっと大事な場面で使うために取っておくとしましょう。


 なんだか、窓際さんでは心苦しくなってきました。きっと、今夜家に帰れば窓際どころかベランダの隅にまで追いやられるであろうこの男性を、窓際と呼ぶのはシャレにもならない気がしますし、なんだか私が性悪女みたいに思えてきそうだからです。


 そうだ、せめて係長さん、そう呼んであげることとしましょう。


 憐憫と同情の目を向けて苦笑いしていると、係長さんは顔面をカウンターに突っ伏したまま脱力しきった様子で呟きました。


「こいつはそう言う奴なんだ……今日は家に帰れなくなったじゃねぇか……とりあえずお嬢ちゃん、メニューちょうだい」

「え、メニュー? ここにはないって……」

「いや、メニューはあるに決まってるじゃん芳美ちゃん。飲食店だよここ?」

「で、でも、さっきメニューもレジもないって!!」


 さっきないって言ったのに、そんな傍からあるだなんて、この人仕事する気あるんですか!

 新人に仕事させずに追い出す新手のイジメですか!? まったくもう、都会人はこれだから……。

 とまぁ、憤りもほどほどに、この感情はタッパーに詰めてひとまず置いておくと、ようやく金髪さんは真面目に仕事するのか、メニュー表らしきものを取り出しました。


「あぁ、まぁな。訂正しよう。メニューはあるんだ」

「ならメニューを暗記するので貸してください」


 普段から真面目ですが、この人と居ると私の超絶真面目いい子っぷりが際立って仕方がありません。ほどほどでいいんです、ほどほどで。良い子過ぎてもいらない期待されて思いが重いだけですし。

 係長さんは顔を上げると、こちらも大層重そうなご家庭事情はきっとタッパーにでも詰められたのか、割かし元気そうに愉快そうに笑います。


「あっはっは。お嬢ちゃん、ここでメニューなんて覚えるだけ無駄だよ」

「え、なぜですか?」

「ここのメニューは九割方出てこないからね」

「そのメニューに何の意味が……」


 もはや、メニュー表と呼べるのでしょうか。あんなものいいな、できたらいいなってレベルじゃないですよこれ。できたらいいな。が夢や希望じゃなくてただの願望になっていますよえぇ。ただの作りたい願望表じゃないですか。どこぞの『冷やし中華、はじめたい』じゃないですか。


「その禿は吹かすから気にするな。おい禿、あんまり吹かしたこと言ってるとそのさもしい頭を吹き散らかすぞ。せいぜい六割強だろうが」


 係長さんの発言を聞いてさすがに金髪さんも怒ったのですが、返す言葉が六割強って……そして、容赦のない罵詈雑言に「え、そう言った趣味のお店なの……?」と、あらぬ疑いの目を向けそうになってしまいます。どうでもいいから、誰かこの状況を説明してくださいっ……。


「本当に接客業する気があるのかわからん店だなぁ。六割も九割もそんなに変わらないだろうが」

「大違いだっての。まぁいいや、客として居座るなら何か注文しろよ」

「逆に何が注文できるんだってのよ」

「今日はそうだな、おすすめだな」

「今日も、だろ? まぁいいや、それを頼むよ」


 とりあえず、どうにかなったというか、寧ろどうにもならなかったというか、ひとまずは収まったようです。何はともあれ、お客さんが席に着き、注文をくださったのです。これでようやく私も初仕事ができるというものです。


「あの、店長さん、私は何をしたら」

「芳美ちゃん料理できる?」


 唐突ですが、普通バイト初日の人に料理をさせるでしょうか……バイト経験はありませんが、なんだかおかしい気がします。しかし、初っ端からこの勢いに流された所為か、空気にも慣れてきたのか、別段変でもない気もしなくもなくもなくもないかもしれない?


「え、えぇ、まぁすこしくらいは……」

「じゃぁ、冷蔵庫とそこらの棚から適当に食材見繕って二品くらい作っといて。メインとつまみ俺が作るから」

「えっと、二品ってどんなのを……」

「いや、適当」


 此処でその言葉が出るの!?


「て、適当って……適度って意味の方ですよね……?」

「いや? いい加減につくっといてってこと」


 うわぁを……さらっと酷いことというか、今更ながら最低すぎますねこの人。なぜ接客業なんてやっているんでしょう。これで、よく店長さんにクビにされないものです。さぞ、個々の店長さんは気の大らかで、器が広く、優しさが溢れて、それでいてこんな人材使っても経営が続けられるほどに敏腕経営者の一面を持つさぞ素晴らしい方なのでしょう。


「おい、客の前で堂々といい加減だとか言わないでくれよ。全くひどい店だなぁ」

「す、すみません!」

「あ、いやいいんだよ。悪いのはそこの無精ひげだから」

「無精ひげじゃない、あえてこうしているんだよ。荒野になるよかマシだわ」

「ったく、この減らず口が」


 寧ろ、此処の空気が荒野かはたまた戦場かといった具合なのですが。

 ひとまず、賞味期限が本日のチーズとベーコンを見つけたので、これに野菜を加えていためものを作ります。分量的に数人分になりそうですが、このまま作ってもいいのでしょうか?

(指示を乞うように視線を向けてっと……)

 案の定スルーですねはい。どうせこのままでは廃棄せざるを得ない食材なので、まとめて作ることにしました。


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