第8話
沈黙が続きすぎた車内で、渡辺拓真は苛立っている。買ったばかりの軽自動車のエンジン音は軽快だが、ハンドルを握る彼の気分は軋んでいる。
助手席に座る吉澤鞠子は、先刻から外を流れる湾岸の夜景ばかり眺めていて、一向こちらを向く気配がない。
どこでしくじったんだろう、と渡辺は思う。初デートの場所としてディズニーランドを選んだことに、ミスのあろう筈がない。月並みだとしても、文句のつけようがない選択である筈だ。確かに人混みには辟易したが、土曜の午後のディズニーランドで人混みを回避することなど不可能である。
だからと言って、自分が吉澤の気分を損ねるような発言をしたとも思えない。
そもそも、話は初めから、どこかギクシャクとして弾まなかった。お互い初デートに緊張しているせいだと自分を納得させようとしたが、いつまでたっても上の空といった様子の吉澤鞠子に、やがて渡部はイラつき始めた。自分が必死になって会話を盛り上げようとしているのに、吉澤には全くその意欲がない。確かに話題がつまらないということはあるだろう。自分が決して話し巧者でないことも自覚はしている。しかし、一緒に過ごす時間を少しでも楽しいものにしたいなら、それは当事者二人が意欲して初めて叶うことだ。嫌なら端から誘いに乗らなければいいし、誘いに乗った以上は会話を絶やさぬ努力くらいはすべきだ。
このアトラクションの列に並ぼうかと問えば、
「どっちでもいい」
夕食に何を食べようかと問えば、
「何でもいい」
数歩後を付いて来るだけで、吉澤鞠子に一緒にいる時間を楽しもうなどという気配は微塵もない。これでは渡辺になす術はない。
一度だけ、先を行く渡部が鞠子にシャツの背中を引っ張られ、足を止められたことがある。いよいよ恋人めいた真似がしたくなったかと笑顔を押し殺して振り返った渡部の眼に映ったのは、あらぬ方向を怪訝な表情を浮かべて眺めている鞠子にすぎなかった。これで渡部の苛立ちは、頂に上った。
本当は閉園時間までたっぷり楽しみ、その余勢を駆って「あわよくば」というつもりだったが、そこまで渡辺の辛抱はもたなかった。間もなく電飾のパレードが始まろうというその時間になって、
「帰ろう」
渡辺は、宣言した。
本心を言えば、吉澤が止めることに賭けていた。もう少しあなたといたい、という言葉までは期待していなかったが、せめてその場を去ることを惜しむ気配くらいは見せて欲しかった。しかし、吉澤はあっさりしたもので、「そうね」と一言返しただけで、さっさと出口の方に歩き始める。
この時、渡辺拓真の短絡にスイッチが入った。
―ならば、いい。こっちもそれなりの対応をするだけさ。これから先の付き合いを計算に入れなければいけないわけではなくなった。無理にでも一発やって、それで帳尻を合わせることにしよう。今日使った金は馬鹿にはならない。ディズニーランドのパスポートも食事代も、学生が簡単に払える額ではない。服も靴も新調したし、車だって洗車した。それなりの代償を払って貰わなければ、割に合わない。まあ、一回限りで終わりというのも癪に触るが、いいさ、やらないよりは遥かにましだ、それで勘弁してやろう―
一方・・・。
吉澤鞠子は胸騒ぎを覚えていた。視線は窓外を流れる湾岸の風景に向けられていたが、お台場の観覧車も海辺に煌めくイルミネーションも眼に映ってはいなかった。
―あれは確かに香澄だった―
そういう思いが頭の中心にしこっていて、何やら漠然とした不安を覚えていた。
寺村香澄が失踪してから三日になる。
レイプされたことを香澄から打ち明けられたのは、その前日のことだ。相手は鞠子と香澄の通う高校の一年先輩、丸木一夫のグループだった。札付きの不良たちで、徒党を組んで恐喝、万引き、オヤジ狩り、婦女暴行を繰り返しているような連中だった。
香澄の様子が変わったのは、もう一月も前のことだ。明るかった香澄が、突然寡黙になり虚ろな暗い眼をし始めた。初めは自分が何か香澄の機嫌を損ねるようなことをしたのかと、鞠子は訝しんだ。しかし、それとなく観察していると、香澄が暗い眼を向けるのは自分に対してだけではない。誰に対しても曖昧な対応をするので、やがて休み時間にも香澄はポツンと一人で机に頬杖ついていることが多くなった。
鞠子は香澄と幼馴染である。小学校から高校まで、ずっと同じ校舎を共有してきた。だから、放ってはおけなかったのである。学校帰り、嫌がる香澄を無理やりハンバーガー・ショップに連れ込み、暗い面差しの原因を問い質した。それが、四日前のことだ。
「どうしたの、香澄。最近変だよ。全然口きかないし、話しかけても上の空だし」
遠慮勝ちの声音ながら、単刀直入に鞠子が尋ねる。
香澄は窓外の人並みを眺めているだけで、返事を返そうとはしない。
「ほら、また、そうやってシカトだ。ねえ、なんかあたしが悪いことした?」
視線を外したまま、香澄がかすかに首を振る。
「じゃあ、何でよ。このままじゃ、香澄、孤立しちゃうよ。何か事情があるんでしょ。話してよ。友達じゃない」
友達じゃない、にアクセントを置いた。香澄を心配する気持ちに嘘はなかった。
「話したって、どうしようもないよ。鞠子が困るだけだ」
相変わらず眼を合わせることなく香澄が言う。
「何よ、それ。そりゃ、なんにも出来ないかもしれないけど、一人で溜め込んでないで、人に話せば楽になるってこともあるんじゃない?」
「多分話しても、楽にはならない。益々自分が嫌になるだけだし、鞠子もきっと、わたしが嫌いになるよ」
「何、馬鹿なこと言ってんの。なんであたしが、香澄のこと嫌いになるのよ。あたしは香澄のこと、一番の友達だと思ってるよ。むしろ、そんな風に"他人行儀“に思われていることが…」
「マワされた」
一瞬、香澄が何を言ったのか、鞠子には理解できなかった。発せられた言葉の多義性のせいではない。それが普通の女子高生の会話の中に頻繁に登場する語彙ではなかったからでもない。余りにも事も無げな、まるで他人事のような香澄の言いぶりが、その言葉の意味を一瞬、曖昧にしたのだ。
しかし、一瞬のちには、鞠子は香澄の身に降りかかった災厄を理解していた。しかし、理解したからといって、返す言葉はすぐには見つからない。
「ほら、困るでしょ」
香澄は初めて鞠子に眼を向け、少しばかり蔑むように言った。
「冗談でしょ?」
鞠子は強張った笑顔でやっとそれだけ言った。
「冗談? こんな冗談、面白くもなんともない。マジだよ。あたし、丸木たちに輪姦された」
香澄の口調は挑戦的だった。汚いと思うなら思えばいい、そんな悲壮な自嘲を、鞠子は感じた。そして、突然、涙が溢れた。
涙する鞠子を、香澄はしばらく表情のない眼で凝視めていたが、
「鞠子が泣くことはないよ」
思いやる口調だった。
「なんで丸木なんかに…?」
「あたしが馬鹿だったんだ。三年生の菊田洋介って知ってる? あたし、あいつと付き合ってたんだ。優しい奴なんだよ、ホントは。でも、あいつ、丸木の仲間、ていうか、手下でさ、あたしは最初は知らなかったんだけどね…」
一旦覚悟すると、香澄は饒舌だった。一月余り抑え込んでいた言葉が、堰を切ったように香澄の口から溢れ出た。
つまるところ、菊田を介して香澄は丸木と知り合いになり、そして眼をつけられた。欲しいものは手に入れる、ムカつくものは排除するというのが行動の規範になっている丸木には、常識の持ち合わせもなければ理性という歯止めもない。ある日、菊田の名で、丸木たちの溜り場になっているマンションの一室に呼び出され、そこにいた男たちに次々と犯された。
「その中に菊田君はいたの?」
「いたよ」
事も無げな言い方が、かえって香澄の深い心の傷を窺わせた。
「洋介もあたしにのしかかってきた。でも、立たないんだ。それで、丸木にどやされたりしてた。可哀想みたいだったよ。丸木って恐い奴だ。あいつには誰も逆らえない。頭おかしいんだよ。あたしは、それ以来、何度もあいつにやられてる。しかも、あいつは暴力を振るわないといかないんだ。殴ったり抓ったりしながら、やるんだ。時にはナイフを使うこともある」
そう言って、香澄は、制服の襟首を少し下げて見せた。鎖骨より数センチ下のところに、斜めに入った刃物の傷跡があった。
「背中やお腹は痣だらけだよ」
「なんで警察に行かないのっ!」
周囲を憚りながらも、鞠子は思わず強い口調になっていた。
「そんなことできないよ。あいつらが捕まれば、あたしがあいつらにやられてたこともみんなにわかっちゃう。公表はされないにしても、噂は絶対止められない。そしたら、あたしん家は、この町にいられなくなる。でも、うちのパパの稼ぎじゃあ、引越しなんてとてもできない。それに、あいつらはやがて帰ってくる。そん時に何をされるかわからない。丸木って、本当におかしいんだ」
「でも…」
「半年くらい前、笠山公園で浮浪者が死んだでしょ。なんか殴られたり蹴られたりしてさ。あれ、丸木たちの仕業だよ。丸木が自分で言ってたもん。『もし、おまえがこのことを誰かに喋ったりしたら、おまえの親父もお袋もおまえも、みんなあのホームレスのジジイみたいにしてやるからな』って」
「香澄…」
鞠子には返す言葉がない。香澄の置かれた窮地が身に染みるばかりで、頭がうまく回らない。鞠子に出来たのは、切なく相手の名を呼ぶことだけだった。
結局その時は、なす術のないまま、ただ絶望に似た気持ちを分けてもらっただけで香澄と別れた。別れ際、香澄から事件のことを固く口止めされた。
「鞠子がこのこと、誰かに喋ったら、あたし、死んじゃうからね。警察はもちろん、あたしの親にも、鞠子の親にも、先生にも、とにかく誰にでも」
半ば脅すような香澄の口調に、鞠子は頷きを返すことしかできなかった。丸木が香澄の心に植えつけた恐怖は、並々ならぬもののようだった。
翌日、香澄は学校に来なかった。その翌日も姿を見せなかった。そして、昨日、香澄の母親から、娘の消息を知らないかという問い合わせの電話がかかってきた。母親は力ない涙声で、一昨日から香澄が家に戻らない、連絡もない、と言った。鞠子は、行き先に心当たりはない、と返事を返すことしかできなかった。
前からの約束だったので、同じ高校の三年先輩で今は大学生の渡部拓真とディズニーランドに来てはみたものの、香澄のことが一時も頭を離れず、過剰な色彩、過剰な音楽、過剰な陽気、過剰な人並みがただただ苦痛なだけだった。
渡部の苛立ちも手に取るようにわかったし、申し訳ないとも思ったが、それを改善する心の余裕がなかった。香澄の安否がとにかく気になる。生きているのか、死んでしまったのか。果たして自分の意思で失踪したのか、それとも丸木に無理やり拉致されたのか。警察に行ってすべてを打ち明けるべきか、香澄の口止めに従うべきか。そんなあれこれが繰り返し頭を駆け巡り、自分の内にあるものと周囲の環境とに強い違和を感じていた。
そんな時、鞠子は香澄を見たのである。
暗くなっても未だ人で賑わう夢の国を渡部の背中を追うように歩いていた鞠子は、ホーンテッドマンションの前を過ぎる辺りで、誰かに凝視められていると強く感じた。視線がどこから送られてくるのかはわからなかったが、確かに何者かがじっとこちらを窺っている。鞠子は周囲を見回した。
そして、鞠子は香澄を見た。人の波の中に、寺村香澄が表情のない蒼褪めた顔で立っていた。一瞬のことだったが、それははっきり目立っていた。強烈な違和感。そこにあってはいけないもの。人混みに苛立ちながらもどこか浮付いて熱を帯びた数多の表情の中に、それはどこまでも冷たい顔つきでじっと鞠子を凝視めていた。生者の群れの中に浮いた死者の顔、そう、それはどこかテレビでよく見る心霊写真めいていた。
思わず鞠子は、怯えた手で前を行く渡部のシャツを摑もうとしていた。その刹那、視線を渡部の背中に移してしまい、すぐに視線を戻したものの、そこにもう、その蒼褪めた影はなかった。
「帰ろう」
渡部の苛立った声に、むしろ香澄は救われた気がした。
程なくしてディズニーランドを後にした鞠子は、今、渡部の運転する車中にいるが、脳裏にあるのは、この世のものとは思えないあの香澄の暗い表情ばかりだった。錯覚というには余りにもまざまざとし過ぎていた。かと言って、生身の香澄が、あの場所に立っていたとも思えない。それが証拠に、一瞬眼を離した隙に、その蒼褪めた顔は跡形もなく掻き消えていた。
超常現象などというものには人並みの関心しかなかったが、鞠子には、もう香澄が死んでしまったのではないかという思いが拭い去れなかった。あれは香澄の霊ではなかったのか。
―であるとするならば、何故香澄は自分の前に姿を現したのだろう。役立たずの友人に恨み言を言うためだろうか、それとも最後の別れの挨拶をするためだろうか―
いつの間にか車は、高速道路を降りている。先刻から渡部は押し黙ったままだ。車の走る道に詳しくない鞠子には、自分が今どこにいるのかわからない。車は、対向車の少ない暗い道を走っている。両サイドは小高い丘のようだ。遠くに、原色のイルミネーションに飾られたホテルが乱立しているのが見えた。
ドンッ!
突然、車内に凄まじい音が響き渡った。音だけではない。何か大きなものにぶつかった衝撃が、運転席と助手席の二人の体を揺さぶった。
「なんだ?」
渡部が驚愕混じりの声を上げた。鞠子は何かに衝突したに違いないと、反射的にフロントグラスの向こうを見た。その時だった。あの蒼褪めた香澄の顔が、フロントガラスの向こう側に逆さまに垂れ下がった。
「うわあ」
渡部は狼狽の余りハンドル操作を誤った。鞠子は声すら出なかった。
逆さまの香澄は笑っている。しかし、それは友人に向けた笑みではなかった。こんな不気味な香澄の笑顔を、鞠子は今まで見たことがなかった。白い眼を剥き、口を大きく開いて、ゲラゲラと笑っていた。
車はガードレールを突き破り、歩道を越え、丘の崩落を防ぐコンクリートの壁に激突した。
鞠子の体に激痛が走った。エアバックが顔面を殴打し、シートベルトが胸と肩を締め付けた。しかし、そのお陰で致命的な傷を負わずに済んだ。恐慌状態に陥ってはいたが、意識もはっきりしていた。車は前面を潰して、完全に止まっている。
隣を見ると、渡部も朦朧とはしているが無事らしい。
と、前で、ゴツンゴツンという音がした。その音に誘われるまま視線を移すと、逆さまの香澄の首が笑顔を浮かべてフロントガラスに何度も何度も額を打ち付けていた。
鞠子と渡部は、同時に悲鳴を上げた。もどかしい手で慌ててシートベルトを外し、扉を開け、鞠子は外に転がり出た。運転席側の扉が開かないようで、渡部は訳の分からない叫び声を上げて慌てふためいていたが、助手席側の扉が開いていることに気づくと、腰が抜けたように毬子と同じ側に這い出て来た。
拉げたビートルの上に、まるで四本足の蜘蛛のように、寺村香澄がしがみついていた。そして、フロントガラスを逆さまに覗き込んでいた頭をゆっくりと上げると、地面に這いつくばった鞠子の方に顔を向け、ゲラゲラと笑った。
「香澄」
そう呼びかけてはみたものの、それが虚しい行いだということは鞠子にもわかっていた。そこにいるのは、かつて「香澄」と呼ばれていた何かであり、鞠子の知る香澄とはまったく別の何かであった。
「うわああっ!」
頓狂な声を発して、渡部は逃げようとする。しかし、恐怖に麻痺した彼の動きは、立ち上がるつもりなのか走るつもりなのかわからないぎこちなさで、数歩進むのに途轍もない労力を費やしていた。やっと脚がまともな動きを見せた刹那、彼は哀れにも行く手を阻まれた。
長身の黒衣の男が、障害になったのである。
前のめりに駆け出した渡部は、マタドールの翳した赤いムレタに息巻く闘牛のように、頭から男に突っ込む形になった。
その頭を、黒衣の男は大きな手で鷲摑みにした。先に進めなくなった渡部は、頭を摑まれたままその場に跪いてしまった。そして、喉の奥から搾り出すようなうめきを漏らし、そのうめきは、やがて絶叫に変わった。
鞠子には何が起こっているのかわからなかった。しかし、渡部の苦しみようは尋常ではない。膝を支点に脛を激しくバタつかせ、頭を摑まれた男の手を両の手で必死になって引き離そうとしている。身を不自然に捩じらせ、言葉にならぬ絶叫は人間のものとは思えぬ奇声に転じた。
それは断末魔だった。
パキパキという乾いた音に続いて、濡れた雑巾が床に落ちたような音がした。絶叫は一瞬にして静寂に変わり、渡部の頭は男の手の中で潰れていた。男の握り締めた拳から、血液や脳漿が滴り落ちる。トマトでも握り潰したかのような事も無げな表情が、男の顔に浮かんでいた。
頭部を失った渡部の体が脱力し、ザッと地面に突っ伏す。
鞠子は悲鳴を上げた。香澄がビートルの上で、ケラケラと笑った。
端正な面立ちの黒衣の男が、血塗れの手を鞠子に差し伸べる。
「さあ、お嬢さん、宴を始めよう」
鞠子は身を起こし、尻を地面に付けたまま、後退った。立って駆け出したかったが、竦んだ脚は決して言うこと聞きそうにもない。
優しい面差しで男がゆっくりと近づいて来る。腰を付いたままの鞠子は全力を込めて四本の腕と脚で後退するが、脚は無駄に地面を蹴るばかりでほとんど推進力として役に立たない。香澄が、その二人の様子を見ながらケケケと異様な笑い声を轟かせた。
男の手がまさに鞠子の首筋に触れようとしたその瞬間だった。びゅっという風を切る音とともに、金属の棒が黒衣の男の腹を貫いた。男はその勢いで数歩後退し、自分の腹から突き出た金属の棒を認めると、獣のような咆哮を発し、その棒が放たれたと思しき方向を獣の眼で睨みつけた。獣の眼は、そこに一つの影を捕らえる。途端に、男の相貌が凶悪なものに変わった。
思わず鞠子も、黒衣の男の視線の先に眼をやった。そこに、数々の武器を装備した戦闘服めいたものを身に付け、バズーカのような兵器を肩に載せた一人の男がいた。
「あえばーっ!」
黒衣の男が叫ぶ。
戦闘服の男は、バズーカのような兵器を肩から下ろし、代わりに腰に下げていた洋剣を鞘から抜くと、鞠子に向かって駆け出した。香澄が、蜘蛛の姿勢のままビートルの上から飛び降りる。そして、すっくと立ち上がり、駆け寄る男の行く手を遮った。しかし、次の瞬間、跳ね上がる血飛沫とともに香澄の首が宙を舞っていた。
戦闘服の男の振り切った洋剣が、香澄の首を刎ねたのである。
首を失った香澄の体は、しかし、動きを止めない。地面に落下した首も、恨めしげに男の動きを睨みつけている。体は、その首を探すかのように、跪いて手探りを始めた。
戦闘服の男は、鞠子の傍らに来ると、「走れるか」と聞いた。鞠子は男に支えられて立ち上がりながら、「はい」と答えた。
黒衣の男は、腹に刺さった金属の棒を抜き取り、それを振りかざすと、狼のような唸り声を上げながら、上目遣いに戦闘服の男を睨んだ。
戦闘服の男は、鞠子を自分の背後に隠すと、洋剣を構えて、黒衣の男と対峙した。
「饗庭譚一郎。貴様、また邪魔をするのか」
黒衣の男が、低く呟く。
「主の思し召しによって」
饗庭と呼ばれた男が応える。黒衣の男が眉間に皺を寄せ、金属の棒を投げる構えを見せた。空かさず饗庭は、左手で胸のポケットから小さな瓶を取り出し、その蓋を親指で弾く。黒衣の男が、金属の棒を投げるより先に、瓶の中の透明な液体が、黒衣の男の身に振りかかった。
その液体に触れた黒衣の男の体が、ジュッと音をたてて煙を立ち上らせる。黒衣の男は激痛に顔を歪め、握っていた金属の棒を取り落とした。
その刹那、饗庭が一歩踏み出し、手にしていた洋剣を一閃させる。
黒衣の男の首が、血飛沫とともに舞い上がる。
「さあ、走るぞ」
饗庭が鞠子に言う。そして、その手を取ると、首を失いながら尚聖水の痛みに苦しむ黒衣の男の体を背にして走り始めた。
「向こうに白い車が見えるだろう。あそこまで走るんだ」
確かに、二百メートルほど先に白いバンが停まっていた。敵に知られずに近づくため、かなり離れた場所に停めたものらしい。
鞠子は縺れる足に時々躓きそうになりながらも、なんとか走った。息が切れ、足の力が抜ける。しかし、白いバンは段々と近づいて来る。
バンまであと数十メートル。その時、鞠子は頭上に羽ばたきを聞いた。そして、次の瞬間、行く手を阻むように、地上に二つの影が舞い降りた。
切断された筈の首がすっかり元に戻った黒衣の男と香澄が、十メートル足らず先に立っている。
「くそっ!」
饗庭が苦々しげな声を漏らす。そして、
「止まれ」
強く毬子の腕を引いた。
二人と二体の魔物が対峙した。白いバンは、魔物たちの向こうにある。黒衣の男は端正な顔に冷たい笑みを浮かべ、その横で香澄が、上目遣いに艶然と微笑んでいる。
饗庭は、胸のポケットに手を入れ十字架を取り出すと、何事か呟きながら、それを魔物たちに向けて両手で掲げた。
途端に、香澄は露骨に怯えた表情を見せ、黒衣の男の顔も凶悪に崩れた。
「忌々しいエクソシストめ」
黒衣の男が苦しげに呟く。そして、隣の香澄に何事か囁いた。
すると香澄は、饗庭が両手で掲げる十字架を睨みつけながら、前進し始めた。まるで強烈な逆風に煽られてでもいるかのように、その歩みは重い。眩しげに手を翳しながら、一歩踏み出す度にその表情に苦悶の色を深めてゆく。だが、苦痛に身悶えながらも、香澄は歩みを止めようとはしない。
鞠子は、饗庭の腰にしがみついた。
「イエス・キリストの名において命じる」
饗庭が高らかに宣言する。
「悪霊は、退散せよ」
饗庭が捧げているのはただの木製の古ぼけた十字架に過ぎなかったが、そこからは何か大きなエネルギーが放出されているようだった。香澄はいっそう苦痛に顔を歪め、身悶えた。しかしその重い前進を止めようとはしない。
「イエス・キリストの名において命じる」
饗庭はさらに音声を高め、
「悪霊は、退散せよ」
捧げた十字架を突き出す。
香澄は一瞬怯み、手負いの獣めいた切ない唸りを漏らす。しかし、前進は止めない。
「香澄」
様変わりしたかつての友人の姿を見て、鞠子は思わず呼びかけていた。それに応じたかのように、香澄が鞠子に視線を移す。
「ああ、鞠子、なんであたしを苛めるの?」
香澄の顔に、鞠子のよく知る表情が浮かんでいた。
「鞠子は友達でしょ? 友達なのに、なんであたしに酷いことするの?」
「香澄!」
饗庭の腰に巻いた鞠子の腕が緩む。それを感じ取った饗庭が叫ぶ。
「いかん。耳を傾けるな。あれは君の友人ではない!」
「鞠子。あたしは香澄だよ。丸木に犯された香澄だよ。寂しかったんだ。誰も助けてくれないから、あたしは死ぬしかなかったんだ。酷いよ、鞠子。死んでも、あたしを苛めるの」
「ああ、香澄」
鞠子は饗庭の腰から腕を外した。そして、香澄に震える手を差し伸べる。
「止めろ! あれは魔物だ。君を騙そうとしているんだ。近づいてはいけない!」
饗庭の制する声をよそに、鞠子は香澄の方に力なく一歩踏み出す。
「いかん!」
思わず饗庭は、両手で捧げ持っていた十字架から一方の手を外し、離れる鞠子を引き戻そうとした。
その瞬間だった。支えの甘くなった十字架に向かって、獣の相貌に豹変した香澄が飛び掛った。
「しまった!」
饗庭が叫ぶ。香澄は十字架を胸に抱え、饗庭の手から奪い取った。香澄の、十字架に触れた部分が発火する。苦痛に耐えかねた悲鳴が轟く。だが、十字架を抱えたまま、香澄は容易には饗庭が近づけぬ距離まで走り去る。火は、風に煽られて瞬く間に全身に広がった。十分な距離を走り抜けると、香澄は燃える十字架を投げ捨て、火達磨になって苦痛に絶叫しながら身悶えた。
「かすみーっ!」
鞠子は燃える友人に向かって、あらん限りの声で呼びかける。
「あんな姿になってもあの子は死なない。もう君の知っている友人ではないのだ」
諭すように、饗庭が鞠子に言う。確かに、火炎に包まれて身悶えてはいるが、香澄が斃れる気配はない。焼け爛れてゆく苦痛はあっても、死への絶望は微塵も感じていないかに見えた。
「万事休す、だな」
黒衣の男が饗庭に言った。
「あの粗末な玩具がなければ、もうおまえには打つ手があるまい」
黒衣の男は、季節はずれの外套を閃かせると、右手を突き出し、
「さあ、饗庭譚一郎。私の前で跪け。そして、その少女を私に差し出せ」
憫笑を交えて、高らかに言った。
饗庭は応えない。代わりに鞠子を抱きすくめ、同時に腰に巻いたリモコン装置のボタンを押した。黒衣の男の背後で白いバンが鈍い機械音を立てた。男が訝しげに振り返る。
「伏せろ」
そう言いながら、饗庭は力ずくで鞠子を押し倒す。
バンの前部に仕込まれた銃口が三十度の孤を何度も往復して描きながら、銀の弾丸を立て続けに連射した。そのうちの何発かは、確実に黒衣の男を貫き、男は堪らず跪いた。
饗庭はリモコン操作で発砲を止めると、
「さあ、今のうちだ」
そう言って、立ち上がり、後に続いて立ち上がろうとする鞠子の腕を取った。その手に中指が欠けていることに、鞠子は気づいた。
黒衣の男は、何十発もの銀弾を受けて、前屈みに跪いたまま、身動きが取れないようだった。表情は苦痛に歪み、眼には憎悪が滾っていた。しかし、立ち去る饗庭の背中に向かって、
「貴様をいつか八つ裂きにしてやるぞ、エクソシスト。おまえにも不死を与えてやる。だが、仲間にはしない。貴様には、死ねない運命と永遠の乾きと死ねずに八つ裂きになる苦しみを与えてやる」
苦しげにそう言った声には、どこか揶揄するような楽しげな響きが混じっていた。
白いバンの中は、どこかの戦場の前線基地のようだった。鞠子には何と呼べばいいのかすらわからない数多の電子機器が、狭い車内空間にぎっしりと詰め込まれている。それは今も作動しているようで、そのうちの一つは、ピッピッと電子音を発しながらモニター上に明滅する点を映し出している。
「そいつのお陰で、奴らが近くにいるかどうかがわかる」
訝しげにその機械を眺めていた鞠子に、饗庭と呼ばれた戦闘服の男が言った。運転席を見ると、男の眼がバックミラー越しに鞠子の顔を凝視めていた。男は車を走らせている。どこに向かおうとしているのかは、鞠子にはわからない。しかし、今は、あの怪物から離れることができるなら、どこに連れて行かれてもいいと思っていた。
外装はどこといって特徴のないバンだったが、二人の乗る車の内装はいたって特殊だった。運転席以外のシートはすべて取り外され、電子機器や武器、何が入っているのか分からない金属製や木製の箱などが、詰め込まれるだけ詰め込まれていた。鞠子には座るシートとてなく、仕方なく訳の分からないそれらの備品の隙間に、やっと体を納めていた。
「居心地は良くないが、我慢してくれ。当分この車で寝起きしてもらうので、慣れてもらわなければ困る」
「ここで寝起き…」
男が無言で頷く。
「嫌ですっ! 家に帰らせてください!」
「可哀想だが、当分それはできない。にわかには認めがたいかもしれないが、さっきのあの男は、君を狙っている。今、君が家に戻れば、君の家族も危険に曝すことになる」
「私が狙われている? どういう意味です? あの男は誰なんですか? なんで香澄があいつと一緒だったんですか? ていうか、あれ、香澄なんですか? だいたいあなたは誰なんです?」
そう言うと、鞠子はわっと泣き始めた。
しばらくバックミラー越しに涙する鞠子を眺めていた饗庭は、
「泣かないでくれ。仕方ないんだ」
困ったように言った。
それでも鞠子が泣き止むまでには、かなりの時間が必要だった。やっと肩を間歇的にひくひくさせながらも、涙だけは抑えることのできた鞠子に、
「落ち着いたか」
饗庭は優しく尋ねた。
「落ち着くわけありません。でも、泣いていても仕方ない」
気丈に鞠子が応える。
「その通りだ。じゃ、順番に、答えられる範囲で質問に答えよう。何から聞きたい?」
「あなたは、一体誰なんですか?」
「饗庭譚一郎。カトリック教会の神父だ」
それを聞いた鞠子が眼を丸くする。
「信じられないのも無理はない。こんな物騒な格好をした神父など、見たことも聞いたこともないだろうから。でも、本当なんだ。正真正銘の神父だよ」
「神父さんが何故…。あなたは、わたしのこと、知っているんですか?」
「昔からの知り合いというわけじゃない。でも、今は君を守るために、ここにいる」
「私を守るため?」
「さっきの男、というより怪物というべきだろうが、あいつが君を狙っているというのは、さっき話した通りだ。私の役目は、奴から君を守ることだ」
「あの男は、なんで私を狙っているんですか?」
「それは、わからない」
これは嘘である。饗庭譚一郎は、鞠子が狙われる理由を知っている。
「あれは、誰なんです?」
「瀬島久仁夫。吸血鬼だ」
「吸血鬼?」
鞠子には、今眼の前で話をしている武装した神父すら空想の産物に見える。まして、吸血鬼などと言われても、すぐに納得の行く話ではなかった。しかし、そう思った次の瞬間には、先刻味わったばかりの異様な恐怖の体験が、まざまざと脳裏に甦っていた。吸血鬼という荒唐無稽な存在でも前提にしない限り、とてもあの荒唐無稽な体験を説明できそうにない。
しかし―
「吸血鬼なんて、本当にいるんですか?」
先刻の体験に照らせば、馬鹿な質問だと思いつつも、鞠子はそう尋ねざるを得ない。
「君は神の存在を信じるかね」
饗庭が、問う。
「わかりません。でも、いるのかもしれないとは思います」
「私はキリスト者だが、私にも神の存在を証明することはできない。だが、その存在を信じ、神に帰依することを選んだのが、我々キリスト教徒だ。そして、キリスト教に限らず、人智を超えた何者かの存在を肯定する宗教は数多ある。他人を説得できる自信はないが、少なくとも私にとっては、そうした宗教が存在するということだけで、十分な神の存在証明なのだよ。
確かに神は、物理的な意味で存在するわけではないかもしれない。しかし、信じるという形を通して、我々はその存在を認識している。とすれば、少なくとも概念的にはそれが存在するということだ。私には、神の存在の証明に、これ以上の理屈はいらない。
そして、神が存在するなら、その陰画として、ああした魔物が存在することもまた、私には不思議なことではない。
皮肉な話だが、私は十数年前初めて瀬島久仁夫と出会い、そのお陰で、いっそう強く主の存在を確信した。
まあ、今の君にはにわかには信じがたいだろうし、あんな魔物とは無縁に一生を送ることが出来るならそれに越したことはなかったのかもしれないが、残念ながら君はすでに知ってしまった。それもまた運命であり、そこには何らかの意味がある」
その通りだった。これは既に信じる信じないの問題ではない。現に鞠子は、首を刎ねられても、全身を炎に包まれても、銃弾を浴びせられても、決して死なない存在を目の当たりにしたばかりなのだ。
「あれは死なないのですか?」
香澄のことが頭に浮かんだ。全身が焼け爛れた香澄は、今頃どうしているのだろう。もう元の香澄に戻ることはないのだろうか。
「滅ぼす方法は二つしかない。太陽光線に曝すこと。然るべき儀式を執り行い胸に楔を打ち込むこと。これ以外のいかなる方法でも、奴らを滅ぼすことは出来ない」
「核兵器でも?」
「ああ、核兵器でもだよ。奴らはすでに死者なのだ。だから、通常の意味で人間を死に至らしめるいかなる武器も、奴らには通用しない。奴らは一見そこに肉体をもって存在しているかのようだが、実は物理的存在ではない。現に、奴らは鏡に映らない。従って、たとえ拳銃であろうと核兵器であろうと、物理的なダメージを与えることを目的とした殺傷兵器は、一切奴らには無効だ」
「でも、銃で撃たれたら、苦しそうでした…」
「あれは、聖別された銀の銃弾だ。あの攻撃が有効なのは、銃の殺傷力の故ではない。銃弾が聖別されたものであることが重要なのだよ。しかし、それとても、あの魔物を一時的に麻痺させ得るに過ぎない」
饗庭が深いため息を吐く。その憂鬱に共鳴したのか、しばらく鞠子は押し黙った。
やがて、
「香澄は…。なんで、香澄があいつと一緒になってわたしを…。友達だったのに」
嗚咽混じりに言った。
「可哀想だが、あの子はもう、この世のものではない。瀬島の犠牲者だ。恐らく瀬島は、君に近づくために、まずあの少女を襲ったのだろう。吸血鬼に襲われた者は、自らもまた吸血鬼に身を変じる。そして、不幸にも、自分をかくも過酷な運命に陥れた加害者を主人と仰ぐようになる。彼女はもう、君の友人だった彼女ではない。悪魔の傀儡だ」
「ああ、香澄」
「残念ながら、あの子を生者として救う道はない。魔物として滅ぼされ、魂が瀬島の手から解放されることが、あの子にとっての唯一の救済となる」
「ねえ、教えてください。なんで、なんで私があんな化け物に狙われなければならないんですか? ねえ、お願い、教えて!」
「言ったろう。それは私にもわからない」
生まれながらに背負った過酷な運命を、今、この打ちひしがれた少女に伝えたところで、それが何になるだろう。この少女は、魔物に魅入られ、友人を奪われ、死線を彷徨ったばかりである。悲劇はすでに、この幼い心には十分すぎるほど十分だ。そう考えながら、饗庭は、またしても嘘を吐かなければならなかった慙愧を飲み込んだ。
またしばらく沈黙が続いた。鞠子は、何かを懸命に決意しようとしているように見えた。
「ねえ。もう一つ教えてください。私は家に帰れるんですか? ママやパパに、また会えますよね」
「もちろんだ。すぐに会わせてあげるよ。ほんのしばらくの辛抱だ」
鞠子はうんと頷くと、寂しげな、頼りない笑みを浮かべた。むりやり浮かべた笑顔だった。
これを三つ目の嘘にはするまい、饗庭は前方に広がる闇を凝視めながら、密かに自分に言い聞かせた。
妖都物語 あるいは「黒山羊のパースペクティヴ」 @hal1961
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