10.さよなら、俺の故郷

 異世界通信を終えたじいは、学校の支度を整えていた。家の中は、驚くほど静かだ。母は仕事が早番らしく、既に家を出ている。引きこもりの弟じす太は、当然のごとくまだ起きていない。じいは一人、階下に下り、朝食のトーストを頂く。

「ふう…」

 食べ終えた食器を片付けながら、昨日の激闘を思い返す。結果的には勝利を収められたが、途中危うい状況が多々あって、精神的にかなり疲労した。と言っても、じいはパソコンの前でキーボードを打ち込んだり、叫んでたりしてただけなのだが。

 返事をする者の居ない家に、一応行ってきますと声を掛けて、じいは通学の途についた。


「きゃー、大変よー。お化け、お化けが出たわー」

 近所の太った主婦が、足の無い人間が窓から家を覗き込んでいたと、大声で騒ぎ立てている。

 ホラーかミステリーか知らないが、関わる気は更々ない。じいは完全スルーを決め込んで、その場を通り過ぎる。もう、彼にとってはお馴染みの光景だ。

 早く自分もチャットの住むあの異世界に行ければ、この小説のジャンルもファンタジーに確定し、このようなジャンル攻めに合わなくてすむのに。じいは高速で落下してくる謎の未確認飛行物体を器用に回避しながら、そんな事を考えていた。


「おはよう、じい」

 今日も教室に着くなり、隣の席の村井が挨拶する。

「…あと何回俺とお前の挨拶シーンは描写されるんだ」

 ワンパターンな日常描写に、じいは辟易していた。

「じい、お前何か疲れてるのに、どこか満足げな表情してるな。さては朝から一発かましてきたな?」

「ちげーよ。お前と一緒にすんなよ」

「俺は二発だ」

「…そうっすか」

 じいは最近下ネタが増えてきたこの小説の行く末に、一抹の不安を覚えた。



*



 午前の授業が終わる。今日は時限数が多いから、異世界通信は大分遅くなってしまう。じいはそれが、ひどく待ち遠しかった。


 チャイムが鳴り終わると同時に、一人屋上へ直行し、物思いに耽る。テーマは、昨日自らが発動した魔法。その前に、じいからの忠告。ここから先は辻褄合わせの設定解説なので、よほど物好きな人でない限り、次の鉤括弧のある段落まで読み飛ばして頂きたい。


 ―イッカ戦の最終局面、チャットの剣を氷漬けにしてその窮地を救ったのは、他でもない、じいその人であった。まるで当然の如く魔法が発動していたが、チャットによると、あれは滅多な事では起きない出来事だったという。

 曰く、魔法を発動するには、が不可欠だ。即ち、である。魔力源とは名の通り、魔法の源となるエネルギーのことで、魔法生成者とはそれを用いて魔法のもとを作り上げる者。もとの段階では魔法は実際に効果を現すことは無く、これを実際に見える形として発現するのが、魔法発現者である。コンピューターで言えば、魔力源は電源、魔法生成者はコンピューター本体、魔法発現者はモニター、プリンター等の出力デバイスといったところだろう。

 この魔力源・魔法生成者・魔法発現者は同一人物が担っているのが普通なのだが、例外もある。今回の場合は、じいが魔力源及び魔法生成者となり、ドラゴンが魔法発現者であった。じいが自身に秘めた魔力を基に、"アイス"という詠唱呪文を唱える事で氷魔法の基が発生。それがスカイプを通じて通話相手のドラゴンに伝導し、ドラゴンの体がそれを発現した。これがあの冷凍ビーム発生の経緯だ。

 ここで注目すべきは、じいが魔力源と魔法生成者の役割を担えた事、言い換えれば、優れた魔法使いであった事だ。魔法が存在しない世界というのは、魔法発現能力が存在しない世界のことを指す。裏を返せば、魔法が無いじい達の世界においても、魔力と魔法生成の能力だけを持ち合わせている人間は存在し得るのだが、その数は非常に少ない。素質を持っていたとしても、全く訓練無しにまともな魔法を生成する事はまず不可能だ。にも拘わらずじいは卓越した才能とセンスを元に、見事な氷魔法を生成してみせた。こんな事ができるのは、数千万人に一人だという。これが、一つ目の奇跡。

 ところでこの事例のように魔法発動の三要素を複数の人間が分担するのは非常に難しく、よほど相性のいい者同士で無いと成功しないらしい。つまり、じいとドラゴンはとても相性が良かった訳だ。

 因みに初めてじいがチャットと通話した時にドラゴンが氷魔法を発動したのも、同じ原理。二つの事例で特筆すべきなのは、じいとドラゴンが協力して魔法を使うぞという意思疎通も無く、魔法を発現させたこと。普通はお互い示し合わせて慎重にやらないと成功しないものを、彼らは意図せず難なくとこなしてみせた。二人の相性の良さは、普通じゃ有り得ない程に抜群だったわけだ。これが二つ目の軌跡であった。

 こうした二つの奇跡が合わさって、あの素晴らしい氷魔法は発生された訳だ―。


 と、何ともご都合主義の後付け設定に苦笑しながら、ふと時計を見やると、時刻は12時26分。

「チャリオットを使うって言ってたから、そろそろ帝都に着いた頃かな」

 チャット達の動向が、気になって仕方ない。昼休みはあと三十分強。決して長くは無いが、少し様子を訊くくらいの時間はあるだろう。

 結局じいは、チャットに連絡してみることにした。



*



 チャットが自宅に着いたのは、午前11時頃であった。因みに帝都ミヤコーと日本の間には時差が無いため、丁度この時、じいが居る教室の時計も11時を差している。


「ただいまー」

 チャットは鍵のかかっていない玄関扉を開いて、自らの帰宅を告げる。

「ニート!おかえりなさい、心配したのよ。まさか朝まで帰って来ないだなんて思わないから」

 チャットの母マンマは、少々大袈裟な程の心配の念を示しながら、息子を出迎える。

「悪い、母ちゃん。俺も日帰りのつもりだったんだがな、色々あって」

 母には、あまり多くを語らないチャット。


「疲れたでしょう?ゆっくりお休みなさい」

「いや、また直ぐに出発するよ。俺、また戦士として戦おうと思うんだ」

「!そんな、急にどうしたの?」

 マンマは息子の突然の告白にたじろぐ。

「帝国、思ったよりやばいみたいなんだ。俺が参戦しなきゃ、いずれデビタンに国を滅ぼされちまう」

「でも、危険よ。止めた方がいいわ」

「心配すんな、母ちゃん。俺は百回を斬られたって死なない男だぜ」

「あなたの強さはわたしが一番よく知っているわ。でもあなたは十年のブランクがあるし、ジーファンタの戦士たちは皆あなたを信用していない。そんな状態で戦うなんて無茶よ」


 チャットの母マンマ・カーチャンは、かつて自身も優秀な戦士だった。多彩な魔法を使いこなし、チャットの父である夫と共に、デビタン達と勇敢に戦った。性格は大胆豪快で、決して妥協を許さぬ厳しい教育方針でチャットを育て上げた。

 だが、十二年前デビタンの大侵攻で夫を失って以来、マンマはすっかり弱気になった。息子までをも失いたくないという気持ちからか、チャットが戦いに出る事に否定的になり、自身も剣と杖を置いた。

 己の身を案じてくれる母をありがたく思いつつも、そんな風にすっかり人が変わってしまった彼女の姿を見る事に、チャットはどこかやりきれない思いを感じていた。

 臆病風に吹き曝しのマンマは、今度のチャットの参戦宣言に際しては特に強情に、それを引き留めようと試みる。


「必ず帰ってくる、約束するよ、母ちゃん」

「そう、どうしても、なのね……」

 だがチャットの強い意志に、結局は引き下がらざるを得なかった。

 

「荷物まとめて、すぐ出るよ」

 チャットは二階の自室に上がると、例によって手際よく身支度を済ませ、母に行ってきますとだけ言って、家を出た。言いたい事は、移動中にしたためておいた、ダイニングテーブル上の置手紙に全て記しておいた。だから、別れの言葉はそれで十分だった。

 オッパイはチャリオットを飛ばしても、帝都から三日以上かかる。非常に遠い地だ。一度戦列に加われば、戦いが終わるまで二度とこの帝都に戻る事は無いだろう。チャットは三十年を過ごした故郷の姿をしっかりと目に焼き付けながら、ゆっくりと街路を北に進んでいった。



*



 一時間半後、チャットは深い森の中に居た。背の高い木々が所狭しと立ち並んでいるのに、どこからか橙色の仄かな光が差し込んでいて、暖かい空気を醸成している。地面の草花は誰の手入れも入らないのに、美しい繁茂を保って、綿のように柔らかい芝生を成している。一面を淡い黄緑色に彩られたこの森は、フォレスの森と言った。

 帝都の北方に広がる小さな森林で、都の民が癒しを求めて散歩する景勝の地である。と同時に、武術・魔術の鍛錬の場として、戦士たちが集う修行の地でもあった。チャットがこの森を訪れたのは、無論後者としての利用を意図してである。


 ポヨン。

「ん」

 お馴染みのメッセージ着信音。相手は知れている。


[帝都には無事戻れたか、チャット?]


[ああ、もうその帝都を再出発して、近くの森を歩いている所だ]


[森?俺にも見せてくれよ!]


 じいのその反応は、大方予想通りであった。チャットは仕方なくドラゴンの首輪にくくりつけた小型端末を立ち上げる。

「にゃー!にゃー!」

 通話が繋がるなり、喧しいほど元気な鳴き声が響き、画面は白い前脚に叩かれて上下に激しく揺れる。朝と違って頗るテンションが高いドラゴン。

 これは攻撃ではなく、歓待の意を示す行為だ。セッキー関所の奪還成功以来、ドラゴンは妙にじいに懐いている。飼い主であるチャットよりも、じいの方をより慕っているのではないかと思わせる程だ。

【今度は元気だなー、ドラゴン】

「すまんな、じい。直ぐに落ち着かせるから」

 チャットの指示でドラゴンが前脚をどけると、広い視界が開けた。


【おおお、綺麗な森だな!】

「ここは帝都人達にも人気のスポットだからな。俺も昔はよく訪れたもんだ」

【ピクニックに来たのか?】

「んな訳ねーだろ。修行だよ、修行」

 チャットはレッドソードを抜いて、画面越しのじいに見せつける。


「奥に進むと開けた大きな空間があって、人も殆ど訪れないから、武芸の稽古にぴったりなんだ。俺も戦列に戻る前に、少しは昔の勘を取り戻しておこうと思ってな」

 ちゃんとした考えがあっての行動で、じいは安心した。


「学校は、丁度いま昼休みか?」

【ああ。あと三十分ほど時間がある】

 チャットはじいと世間話をしながら、森の奥へと進んでいく。

【…ん?】

 ふと、じいは視界の奥に人影を捉えた。

【チャット、誰か居るぞ】

「先客か?」

【敵じゃないよな?】

「有り得ねえと言いたい所だが、関所が落とされた経緯がある以上、断言はできねえな」

 チャットとドラゴンは、ゆっくりとその人影に近づいていく。かなりガタイがいい。男か。


 先に声を掛けてきたのは、その男の方だった。

「ニートじゃねえか、久しぶりだなあ、うん!」

「おお、マスキングさん!」

 正体がわかると、チャットは足取りを軽くして男に近づいていく。

【…知り合いなのか?】

「ああ、俺の親父の元一番弟子で、俺の兄弟子にあたる人だ。マスキングさんという」

「マスキングだ。チャットが世話になっている」

【初めまして。…俺は】

「おっと、ちょっと待て」

 じいが迷い気味に言い淀んでいると、案の定チャットが口を挟んだ。そう、チャットは今まで、じいがファンタジー世界の住人に自己紹介をするのを阻んできた。チャットの母然り、ジーペン達ジーファンタの戦士然り。例外は店主ドルセであったが、それも含めて何か理由があるのだろう。じいは黙って、チャットの指示を待つ。


「じい、この世界の人間には、無闇に本名は明かさないようにしてくれ。ここは俺が適当に偽名で紹介する」

【…わかった】

 じいは小さくうなずく。


「マスキングさん、こいつの名前は増食ますたべだ」

【ちょっと待て何だその名前】

増食ますたべくんか、よろしく」

 訂正する間もなく、じいの異世界での通名増食ますたべは、マスキングに受け入れられた。


「安心しろ、こっちの世界ではマスタベという音に卑猥なニュアンスは無い」

 という弁明を用意している時点で、じい(自慰)から発想した名前であることはバレバレである。

【てかなんで漢字使ってんだよ】

「漢字はこっちでも偶に使うぞ。そっちで言うヘボン式ローマ字くらいの頻度で使う」

 やっぱりこいつら同じ世界の住人じゃないのか、とじいは若干疑う。

【それにしても当て字が少々強引過ぎるだろ】

 既出なのに何度もルビ振りを繰り返している所からも、読みづらい事は明白である。


「聞いたぜ、セッキー関所の件。お前がジーファンタの勝利を導いたらしいじゃねえか、うん」

「いや、増食ますたべのお蔭だ。俺とドラゴンだけじゃあ、奴らに八つ裂きにされておしまいだったよ」

「ほう、増食ますたべくんが」

 チャットは関所の戦いを詳細に話しながら、じいの事を所々で褒める。が、じいの方は増食ますたべという通名が引っかかって、なかなか素直に喜べない。


「なるほど、それでこの森に修行に来たって訳か。いいんじゃねえか、うん。地道な鍛錬こそが勝利への最たる近道だからな」

「マスキングさんこそ、どうしてこんな所に居るんだ?確か北東の防衛戦で戦ってるって聞いていたが」

「ああ、つい今朝方までそうだったんだがよ、セッキーが落ちたって話を聞いて、転移魔法で都まで飛んできたんだ。帝都の陥落だけは何としても防いでやろうと思ってよ。だがいざ都に着いたら、もう関所は奪還されたっていうじゃねえか、うん。正直拍子抜けしたが、せっかく久々に戻ってきたんだから、フォレスの森でも散歩しようかなと思って、ここいらをうろついていた次第だ」

 二人は非常に砕けた調子で話している。マスキングはチャットよりも更に一回り上の歳に思われたが、全くその年齢差を感じさせない。兄弟弟子というだけあって、甚だ強い信頼関係で結ばれているのであろうと、じいは思った。


「じゃあ、暫くはこっちに残って帝都の防衛にあたるつもりなのか?」

「ああ、そのつもりだ。またいつデビタンの野郎どもが都に不意打ちを仕掛けてくるかわからないからな、うん」

「そいつは心強い。マスキングさんが都を守ってくれているとなりゃ、俺たち遠征組も、安心して戦えるってもんよ」

 チャットはマスキングの強さを高く評価しているようだった。確かに筋骨隆々として逞しいボディに、凛々しく引き締まった顔つきは、正に歴戦の戦士を思わせる貫禄だ。

「さて、そろそろ剣を振るいに行くかな」

「無茶すんじゃねえぞ。十年間の引きこもり生活は、相当体を鈍らしているだろうからな、うん」

 マスキングは揶揄からかうように言う。

「あ、そういやこの先に最近妙な連中が現れるらしい。なんでも、戦士たちの得物を奪ったりするとか。お前の事だから心配ないだろうが、一応気を付けろよ」

「得物を?ま、気を付けるよ」

 チャットはマスキングの忠告を軽く受け流し、再び森の奥へと進んでいった。短かったが、濃いやり取りであったと、傍から見ていたじいは思う。


【戦士にも、お前を信頼してくれている人が居るんだな】

「マスキングさんは特別だよ。ジーファンタの戦士の中で、唯一俺を信頼しててくれている人だ」

【お前も、あの人を信頼しているみたいだな】

「まあな。幼い時から傍に居て、兄みたいな存在だった」

 兄みたいな存在、か。じいはその言葉はじいの心の淵にこびりついて、なかなか消え入ってくれなかった。


 時刻は、午後0時35分。

 チャット達の命を狙う新たな危機が、その背後からゆっくりと迫りつつあった。

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