燈夏幻記

青出インディゴ

第1話

 それは夏も終わりに近づいた、ある蒸し暑い夜のことでした。

 山あいの田舎町に虫の鳴く音が響きわたっていました。夜半過ぎの月はまだ輝きの名残をとどめていて、星々がくっきりと星座をかたち作っています。蛍があちらでひとつ、こちらでふたつと舞っていました。

 人の気配はありません。ただ、人以外のものの気配を感じるにはふさわしい夜でした……。


***


 俺はすうっと息を飲みこんで、ドアに置いた手に力を込めた。するとあろうことか、それはなんの抵抗も見せずに開いたのだ。

 深夜の校舎。ここは俺――小泉こいずみ有也ゆうやの通う高校の正面玄関だ。自分から忍びこもうとして来たものの、きっと鍵がかかっているだろうと思っていた。だけど思いがけずドアを開けることができて、俺はむしろ焦ってしまった。

 いや、きっと中に踏みこめばセキュリティシステムが作動して警報が鳴るに違いない。大きな建物って大抵そうだろう? でも通報されようがもうどうにでもなれって感じだった。そもそもこんな真夜中にこっそり学校に来ること自体無謀なんだ。今更なにが起こったって構うもんか。

 うん、俺はかなりヤケになっている。不法侵入で逮捕されたって知るものかと思っている。むしろそっちのほうが都合がいい。それで明日学校に来なくていいのなら、目的は達成されたと同じことだ。

 そう、俺が深夜の校舎に忍びこもうとしている理由、それはただひとつ。日常から、逃げるためだった。

 ドアの向こう側にそっと体をすべりこませる。――警報は鳴らなかった。

 建物は不気味な静寂に包まれている。小さな虫の鳴き声で耳が痛くなるほどだ。玄関も靴箱も夜の暗さに沈んでいて、廊下に立って遠くを見わたしてみると、校舎の奥は完全なる闇だった。わずかに窓から入ってくる月の光で、自分のいる場所だけがかろうじてわかる。夏休み前は行き交う生徒であんなににぎわっていたのに、あのころがまるで幻のようだ。

 俺はさすがに一瞬たじろいだが、すぐに手を握り締め、廊下を歩き出した。目的地は4階の西階段。

 日常から逃げたい、それが今の俺の切なる望みだ。学校は、嫌いだった。俺は今年この高校に入学した。なぜ高校に進学したかったのか、と問われれば、自分でも首をひねらざるを得ない。ただ中学の同級生たちがみんな進学するから、親も教師もそれを望むから、1年前はなんの疑問もなく受験勉強に明け暮れていた。だけど、もしそのころの俺に会えるなら言いたい。本当にそれでいいのか、と。流されているだけじゃないのか、と。実際のところ俺は流されているだけだったんだ。なにをやりたいかもわからず、ただ適当になんとなく生きていただけ。後悔は入学式初日から起こった。マンモス校の入学式会場に詰めこまれた見知らぬ人間たちの群れの中で、俺は自分を見失ってしまった。要するに俺は口下手なのだ。なのに周りは男も女もうるさいやつらばかり。たぶんやつらは、やつらなりの目的を持って入ってきたんだろう。対して俺は無気力。誰とも話さなかった。話す理由がなかった。そんな1学期が続いた。

 俺は歩きながら腕時計を見る。4時ジャスト。時間はたっぷりある。既に3階の階段をのぼっている。

 学校で、俺は周囲を冷めた目で見はじめた。くだらない冗談で笑う阿呆ども。安っぽい話題で簡単に感動するお寒い感性。わかっている。なにより俺自身が周りと違うんだ。結局どこに行ったって同じだ。だったら俺は逃げ出したい。こんなくだらない世界、これ以上いたってしかたない。

 夏休み最終日、俺はそういう結論に達した。そして日常を抜け出す手段を検討した結果、ある「噂」に行き着いたのだ。

「これが四次元への入り口か……」

 目的地に到着した。校舎4階の西階段の踊り場。正面に鏡がかかっている。幅は腕を広げたくらい、高さは俺の身長の1.5倍はありそうな巨大な鏡だ。暗闇に浮かぶ鏡は正直不気味だという感想を否定できない。鏡の中にさえない姿をした俺と、背後の階段が映し出されている。ツルツルとした黒い表面を見ているうちに、妙な畏怖を感じて吸いこまれそうな気持ちになった。うなじの毛が逆立つ。もし背後になにかが映ったら……なんて考えるとやっぱり怖い。

 腕時計は4時10分。あと30分ほど待つ必要がある。

 そう、噂というのは「四次元の鏡の噂」だった。

 どこの学校にも、怪談のひとつやふたつはあるだろう。うちの高校の怪談はこれだった。あれは5月だったか、休み時間にひとりで本を読んでいると、となりの席に集まっている女子生徒たちの会話が漏れ聞こえてきたことがあった。

「四次元の鏡って?」

「まだ知らないの? 有名な話だよ。昔からある噂。先輩から聞いたの」

「やだー怪談?」

 それから、怖いだの、やめてだの、ひとしきり騒ぎがあったあと、誰かひとりが話しはじめた。

「4階の西階段に大きな鏡があるでしょ。あれってなんか不気味だよね。て言うか、そもそもあそこにある意味がないって言うか。あんな場所で化粧直しする人もいないでしょ? でもね、外せない理由があるの。過去に校舎改装のために何度か外そうとしたことがあるんだけど、なぜか工事前に事故や事件が起こってどうしてもできないのね。噂だと、工事の人で下半身不随になった人もいるとか。それで学校側も諦めてそのままにしてるんだけど……実はね」

 女子生徒は雰囲気を出すためか、ここで声を低めた。

「あの鏡は異世界に通じてるの。あそこの前に、4時44分44秒に立って、鏡を見るんだって。そしたらね、鏡の中から四次元世界の怪人が出てきて、見た人を四次元の世界に連れてっちゃうんだよ」

「えー、やばいじゃん! そこ、音楽室のとなりだよ。あたし、部活で帰りに通るのにー」

「大丈夫! 4時って言ってもね、午前4時だから!」

 なーんだと言って、女子たちはどっと笑った。

 俺はくだらない、と思った。と、そのとき、女子のうちのひとりが甲高い声を上げた。

「ねえ、あの人盗み聞きしてない?」

 その声にちらりとそちらを見ると、女子たちは一斉に目をそらす。声を上げたのは確か……ユキとかいう女だ。名前すら満足に覚えていない。いつも無口でいる俺の様子が気になったようだ。本当にくだらない。なぜみんなそんなに他人が気になるのだろう? 少なくとも俺は他人のことなんて構わない。自分たちがそれほど興味深い会話をしているとでも思っているのだろうか。女子たちの態度にイライラして、本を乱暴に閉じてその場を去った。背後で低い笑い声がしているようだった。

 要するによくある学校の怪談だろう。そもそも四次元の世界ってなんだよ? そんなところがあるとして、俺たち三次元の生き物が行けるわけないだろ。それよりそのとき読んでいたSF小説のほうがずっと面白いと思った。だけど話自体は妙に頭にこびりついて忘れることができなかった。なにより「異世界に行く」という部分が、そのときの俺の気持ちに訴求したのかもしれない。俺は1学期を通して、密かに方々から噂に関する情報を集めはじめた。このとき以上のことはわからなかったけれど、ただこの噂が、相当数の生徒たちに信じられていることだけは確かだった。いつしか俺は噂に魅了されていた。

 そして今……。ワラにもすがりつきたいってこんなときに使うのかもしれない。こんな世界どうにでもなれ。俺ひとりがいなくなったところで誰も気にしやしないという思いは、日増しに強くなっていった。教室で俺は完全に空気だった。誰も俺を見ない、気に留めない。気に留めるとしたら、あの女子たちのように、虫けらを枝の先で突っつくような扱いだ。周りにとって俺は無意味な存在だし、俺にとっても周りはそうだった。だったらもうこれ以上この学校に存在している意味はないじゃないか。いや、学校どころか、この世界にさえ。そういう考えを一度持ってしまうと、あとはほとんど自動的に計画が進んでいった。四次元の鏡、上等じゃねーか。異世界だろうかなんだろうが行ってやる。

 腕時計は4時15分。

 顔を上げ、再び鏡を見てぞっとした。

 背後に白いものがいる――。

 上がりそうになった悲鳴をあわてて飲みこむ。見間違いか? いや確かに揺らめいている。俺の背後、階段の真ん中、白い、異形のものが――。

「キミは誰?」

「わあっ!」

 ついに悲鳴を上げてしまった。が、なんの前触れもなく聞こえた声は妖怪じみたしゃがれ声でもなく、どすのきいた男の声でもなく、意外なことに、透き通った若い女の声だった。

「きゃーっ!」

 俺の声に驚いたのか、向こうからも絹を裂くような悲鳴が上がる。なんだなんだ、全然怖い声じゃないぞ。

 鏡から目をそらしてこわごわ振り返ると、階段の真ん中に座りこみ耳をふさいで震えていたのは、白いワンピースの少女だった。

 長い髪の毛は少し茶色がかってる。と言っても、染めたようなけばけばしい色じゃなくて、白人のような自然な茶色だ。その髪の毛がほんのわずかの星明かりに照らされてかすかに透き通り、金色にも見える。肌は抜けるように白くて、ワンピースの色よりもさらに白いくらいだった。年は俺と同じくらいだろう。

「えーと……もしもし?」

 ぎこちなく言うと、

「やだ、キミ、誰?」と、彼女は小さく顔を上げ、細い声で聞き返した。

 うむ、全然怖くない。俺は膝に手を当てて少し屈んで、彼女と近い位置になった。近くで見ると、目の色は完全な黒と言うよりも青に近い。光の加減で藍色にも灰色にも見える。びっくりするほど長いまつ毛をしていて、唇はほんのりピンク色で……まあ、要するに、うん、相当きれいな子だった。まるで三日月のような、という印象を俺は持った。

「俺は小泉有也。この学校の1年」

「あ……あたし、八重垣やえがきホタル。2年よ」

「へえ、先輩ですね」

「敬語はやめてよ。ホタルって呼んで、有也くん」

 彼女のほうも俺を怪異の対象とは見なさなかったらしい。目が合うと初めて笑った。その笑顔が、なんていうかまるで白い花が風に吹かれてさらさら揺れ動くような……そんな笑顔なんだ。彼女は立ち上がった。

「ホタル先輩はなんでここに?」

「ホタルでいいわ。先輩なんてなんだか落ち着かなくなっちゃう」

 いいのだろうか。でも相手が言うんだから「ホタルはなんでここに?」と言い直してみた。彼女は気にしない様子で続けた。

「なんでって……キミこそなんで?」

 俺は肩をすくめた。気の利いた言い訳も思いつかないし、なにより言い訳する必要があるのだろうか。どうせ相手も同じ目的に決まっている。

「四次元の鏡の噂を確かめに来たんだ」

「それってうちの学校に昔から伝わる怪談?」

 俺はうなずく。

「ふうん、有也くんって見かけによらずロマンチストなのね」

 ホタルは微笑んだ。俺は恥ずかしくなってしまう。「見かけによらず」って言うけど、彼女には初対面の俺がどう見えているんだろう。

「でも勇気あるなあ。夜の学校にひとりで来るの怖くなかった?」

「そんなことないよ」まあこれはかっこつけ。「それよりホタルはなんで?」

「あたし? あたしは……なんでだろ。ふらふら迷ってて、気がついたらここにいたって感じかな」

 なんだかずいぶん曖昧な言い方だ。いったいこの子は何者なんだろう。うちの学校の2年って言っていたけど、本当だろうか。こんな目立つ容姿の女子がいたら、いくら学年が違っても気がつくはずだけど、全然覚えがない。

 俺は首を振り、何度目かの時計を確かめた。4時40分。

「やばい、あとちょっとじゃないか」

「なあに?」

「四次元の鏡だよ。噂の時間まであと4分44秒」

「本当に見るつもりなの? 危ないんじゃない?」

 ロマンチストだのなんだのからかっていたくせに、ホタルは突然心配そうな顔つきになる。でも振り切るしかない。突如として現れた不思議な少女に引き止められたからと言って、今更やめるわけにはいかない。夜明けには学校が始まっちまう。

「あなたには関係ないよ。怖いんなら、どこか行ったら」

「あたし心配なのよ、有也くん」

 その後に起こったのはすこぶる奇妙な出来事だった。そしてそのことによって、ホタルが何者であるかを知る機会になったのだった。彼女は言葉と同時に白い手を差し出して、俺の腕をつかんだ。いや、正確には、つかもうとした。しかし実際にはなんの感触もなかった。彼女の手は俺の腕に一瞬たりとも触れることがなかった。俺の腕を突き抜けたのだ。手は目標物を失い、むなしく虚空に振り下ろされる。

 俺は目を見張った。ホタルも戸惑っているようだった。

「あ……」

「今のって……ホタル……?」

 四次元の鏡――そんな俗っぽい怪談にすがって深夜に不法侵入さえした俺だが、なんと本当にこの世ならぬ存在に出会ってしまったらしい。

 普段なら絶対そんなことしないが、どうしても確かめたかった俺は、自分から彼女の白い肩に触れてみた。そして実際に自分の手が突き抜けることをいやと言うほど見せつけられた。確かにホタルの体はそこに存在しているように俺の目には映るのに、どうしても触れることができない。何度手を振り下ろしても肌は触れあうことなくすり抜けてしまう。これは、彼女の体が実体として存在しないということなのか。

 交わらない体と体……それはふたりの生きている次元が違っているということ。

 深夜の学校は、確かに不可思議に満ちている。

「あ!」

 俺は声を上げると同時に振り返り階段を駆け上がった。と言うことは、四次元の鏡も実在するということじゃないか!? 本当に異世界に行けるかも――! それに気づいた俺は必死だった。

「有也くん!」

 背後でホタルが叫んでいる。4時44分42……43……44秒。

 突然、鏡全体が真っ黒になった。なにも映していない。さっきまで映っていた俺も、ホタルも、踊り場も、階段も、なにもかもが見えない。ただ黒い水晶のような鏡面が不気味にてらてら光っている……と思うやいなや、鏡の中からものすごい勢いで吹き出したものがある。

 黒い霧だ。

「きゃー!」ホタルが叫ぶ。

 霧はまたたく間に踊り場全体に広がる。

 俺は思わず――触れないとわかってはいても――彼女の手を握ろうとした。霧があっという間に俺たちを包みこむ。なにもかも、見えなくなった。


 5分? 10分? いや、ひょっとすると数秒も経過していないのかもしれない。おそるおそる顔を上げると、黒い霧は既に消えていた。体が震えてならなかったが、あの鏡を再び見てみると、さっきまでの黒さはまったく消えて、奇怪なほど平穏に辺りの風景を映し出している。

「ホタル!?」

 振り返ると、白いワンピースの彼女が、俺の背後に寄り添うようにして立っていた。向こうも目を開けて俺を見る。おびえた表情を少しだけゆがめてなんとか笑顔を見せようとしている。

「有也くん、だいじょぶ?」

「俺は平気。ホタルは?」

「うん、あたしも。ねえ、さっきのなんだったのかな。夢?」

「夢じゃないだろ。俺もホタルも見たんだし。夢だったらふたり一緒に見ない」

「じゃあなに?」

「わからない」

「ねえ帰ろう? もうこんな怖いとこいやだよ」

 願いを聞いてやりたいのは山々だが、いったいこの世のものならぬ彼女はどこに帰ると言うのだろう。しかしそう聞くのも失礼な気がして言い出せなかった。

「わかった、帰ろう」そう言うのが精いっぱいだった。俺たちはその場をあとにした。

 玄関から外に出ると、驚くべきことが起こっていた。

 真っ昼間だったのだ。

 まさか! さっき鏡を見た時点で4時44分44秒。あれからどれほど時間が経ったとしても、せいぜい20分かそこらだろう。いくら今が夏と言っても、夜明けにすらまだ時間があるはず。だが太陽は天頂にのぼり、蝉がうるさく鳴いている。立っていても汗がじんわりにじみ出す。校庭には大勢の高校生がいて、思い思いに弁当を食べたり、雑談したり、バレーボールで遊んだり……。草むらで昼寝しているやつもいる。どこからどう見ても昼休みの高校だ。

「わけわかんない……」

 俺の気持ちをホタルが完璧に代弁してくれた。

「ひょっとして、ひょっとして、ホントに異世界?」

 俺を少し見上げて目をキラキラさせる。茶色の髪に日の光が反射して、太陽の下で見るといっそうきれいだ。

「そんなことあるわけが……」俺は首を振る。「もしかすると俺たち、目をつぶってる間に半日眠ってたとか?」

「あ! そうなのかなあ」

「いやいや、ないでしょ」

「え、そうなの? あたし結構そういうことあるよ? 家に帰って机に向かったら、いつの間にか朝になってるの」

 意外にボケだな、この人……。

 ホタルはポケットからキラキラ光る薄っぺらい機械を取り出していじくりはじめた。しばらく操作をしていたが、やがて諦めたように再びしまいこんだ。

「やっぱりつながらない」

「それは?」

 尋ねると、ホタルは不思議そうな顔をして答えた。「あたしのスマホ」

 俺は首を振るだけにした。世の中は俺の知らないところで進化しているらしい。友達がいればいろんな情報が入ってくるのだろうが。

 俺は玄関から足を踏み出した。

「こんな状況絶対ありえない。偵察してみよう」ホタルもとことこと後ろを着いてくる。

「ねえ校舎内まわるの? この格好で大丈夫かなあ」

 そうか、ふたりとも私服なんだ。先生に見つかったらちょっとマズイよな。

「そうだな、いったん家に――」

「よう、有也!」

 突然肩を叩かれた。男の声だ。驚いて振り返れば、男子生徒がいた。どこかで見た顔……同じクラスの……原田だったか、原西だったか……。入学から半年経っても、同性のクラスメイトの名前さえ覚えきれていない。仕方ないからしばらく原田と呼ぶことにするが、原田は明るい笑顔を見せている。

「もう着替えてんのか。メシ食ったらバレーやる約束だろ? あっちでみんな待ってんぞ。お前いなきゃ始まんないんだからさ」

 その話し方がいかにも気安い調子だったので、俺は面食らうしかなかった。もちろん俺はクラスのやつらからバレーに誘われたことなんて一度もない。誰かと間違っているのか? でも名前を呼んだよな。俺がいなきゃ始まらないって? なんで俺が? いつも無視し続けてきたくせに。

 俺がなにも言わないでいても、原田は待っているようで全然去る気配がないので、俺は仕方なく口を開いた。

「悪いけど、連れがいるから」

 言いながら、あーもしかしてイジメってやつかもな、と気づいた。その気もないのに誘っておいてあとで無視するつもりなのかも。それで冷たくにらみつけると、原田はぽかんとしている。

「連れって?」

「ほら、この人」

 俺は横にいるホタルを指差す。触ることはできないけど、見りゃわかるだろ。ホタルはなんだかわかっていないだろうが、それでも小首をかしげつつ原田に向かって笑いかけた。

「どこ?」と原田。

「へ?」

 原田は俺の指先を見つめるばかりでちっともホタルに焦点を合わせない。困惑したような表情で対象物を探している。まるで本当に見えていないかのようだ。俺は少し寒気がした。

 そのとき、別方向から声がかかった。

「小泉! 今回の試験もお前が首位だったぞ。我が校始まって以来の天才だ。俺も鼻が高いよ」

 いたのは、担任の男の先生だった。先生の言っていることもまるでトンチンカンだった。やる気のない俺は、いつも成績は下の下。褒められるような点数なんて一度も取ったことがない。それでも、この奇妙な世界に足を踏み入れて初めて会った大人だったから、俺はすがりつくように聞いた。

「先生! 先生はホタルのこと見えますよね。ほら、俺の横にいる、この子です。2年生の八重垣ホタル。知りませんか?」

「うん? 原田以外に誰もいないじゃないか?」

 俺は息を飲んだ。やはり彼女は俺以外の人間には見えないんだ。

「原田ー! なにしてるんだよ、早く始めようぜ!」

 第三の声が、今度は遠くから聞こえた。しかもそれは何度も聞いたことのある……なじみぶかいような……そうでないような……俺はごくりと唾を飲みこみ、勇気を出して声のしたほうを見る。

 校庭の芝生の上に〈俺〉がいた。バレーボールを持って。周りをたくさんのクラスメイトたちに囲まれて。

 世界が、スローモーションになったように感じた。

 遠くにいる〈俺〉は、げらげら笑っている。「なにそいつ、私服ダセー。原田、そんなのと友達なの?」ついで野良猫が足もとに歩いてきたのを乱暴に蹴とばした。

 俺は背を向けた。走り出した。

「有也くん!?」

 背後からホタルが呼びかける。原田も、先生も。

 無視して俺は全力で走る。校庭を走り抜けて、校門を走り抜けて、車道を走り抜けて、街へ。

 混乱、混乱、混乱。

 連続する奇妙な出来事――謎の時間経過、180度違う知りあいの態度、見えない少女、もうひとりの〈俺〉。

 ここは異世界だ。もう信じるしかない。


 2時間後、学校の近所の公園。

 砂場といくつかの小さな遊具があるだけの公園で、俺はジャングルジムに腰かけていた。さっきからまるで力が出ない。となりにはホタル。

 本当は自分の家に帰るつもりだった。でも走っているうちに思い返したんだ。この世界の俺の家は、もうひとりの〈俺〉の家でもあるはずだ。そこに俺が帰ったら家族は妙な顔をするに違いない。この世界の〈俺〉は、俺とはずいぶん違うようだから、ごまかすのも難しいだろう。

「びっくりしちゃったね」とホタル。

 少し答えを待っている様子だったが俺がなにも言わないので、そのまま続けた。

「ここってほんとに異世界なんだね。有也くんがもうひとりいるなんて、びっくりしちゃった」

「その話はやめろ!」

 思わず声を荒げてしまう。ホタルは目を真ん丸にして口をつぐんだ。

「それより俺もびっくりしたよ。あんた、他人には姿が見えないんだな」

「そう……みたいだね」ホタルは少しうつむく。「ねえ、なにをイライラしてるの? なんだか怖いよ」

「わかんないよ。なにもかもわかんない。でも俺疑ってんだ」

「なにを?」

「ホタルが本当にそこに存在してるのか。俺の妄想じゃないのか」

「なあに、それ? どうしてそんなこと言い出すの?」

「だって触ろうとしても透けるし、ほかの人間には見えないだったら、そう考えるのも自然だろ」

「有也くん……あたしはちゃんとここにいるよ」

 日がかげってきていた。蝉の鳴く声はいつの間にかひぐらしに取って代わっている。夕日の照り映える銀色のジャングルジムに腰かけた彼女は、白くて、はかなげで、現実世界にいるって言うより、小説やゲームの世界にいる妖精だっていうほうがしっくりくるような気さえする。俺はため息をついた。

「ほかの誰にも見えなくてもいいよ。あたし、有也くんに姿を見つけてもらってうれしかったんだもん」

 本当に妄想じゃないのか? 妄想にしては現実味がありすぎる。俺の想像の範疇を超えた反応をする。だけど俺と同じ次元にいる存在じゃない。彼女は校舎に住む幽霊なのだろうか? それとも妖精? 四次元世界の怪人……なのかもしれない。

「ごめん」俺は言った。それ以上言い続けることはできなかった。俺は彼女を責めてどうしようと言うのだろう。

「いいよ。有也くんは他人を傷つける人じゃないってわかるから」

「なにそれ。会ったばかりなのに買いかぶりすぎだよ」

「ううん。だって、あの踊り場の鏡から黒いのが出てきたとき、有也くん、手を握ってくれたでしょ……透けちゃったけど。とっさにあんなふうにできる人、そうはいないと思うから」

 俺はなにも言えない。ひぐらしが相変わらずうるさい。夏も終わりだなと、ふと思った。なにも言えず、なにもできず、時間だけが過ぎていった。

「ねえ」とホタルは切り出す。「ずっとここにいるつもりなの?」

「家には帰れない。この世界にはもうひとり〈俺〉がいる。でもホタルは帰ったほうがいいよ。夜になったら危ないぞ」

「いいよ、どうせ誰にも見えないもん。それにたぶんあたしの家は、この世界には存在しないんじゃないかなあ」

「どうして?」

「この世界には、あたしそのものが存在しないんじゃないかと思うの。ここは有也くんの世界みたい」

「俺の?」

「うん……なんだかね、あの学校、あたしの知ってる学校じゃない気がする」

「どこが? ホタルも、うちの生徒なんだろ?」

「そうだけど。でもなんて言うのかな、雰囲気に違和感があるの」

 ホタルの説明は漠然とした物言いで終わり、何度か聞き方を変えて尋ねてみたが、結局彼女はそれ以上を説明することができなかった。会話が途切れて、彼女は顔を上げる。

「ねっ、ここにいよ。一緒にね。明日になったらまたどうしたらいいか決めようよ」

 俺はなんとなく腑に落ちないものを感じながらもうなずいた。年上だからだろうか、すごく華奢な彼女に、不思議と頼りがいを感じてしまうのだ。


 日が落ちた。星がきらめく。昨日と同じように。でも、昨日は全然星なんて見ようともしなかった。とにかく学校に行きたくなくて、日常から逃げ出したかった。でもいざそれが成功すると、果たしてこれが俺の思い描いていた異世界なのだろうかという気になる。この世界はいったいなんなんだ?

 俺たちは場所をブランコに変えて話を続けていた。俺は買った缶ジュースを飲みながら。ホタルはどうやらこの世界の物体には干渉できないようだったので、なにも口にしていない。それでも平気だと言う。名称はなにかということを別にしても、やはり異形のものらしい。

「この世界はなんなんだろう」俺はぽつりと切り出した。

 ホタルは眉をひそめた。

「有也くんがもうひとりいる世界……だね」

「いや、それ以外にも違いがある」

「どういう違い?」

「人格が違うんだ」

 これを話しはじめることは、俺にとってかなりの苦痛を伴うことだった。自分の弱点を相手にさらけ出すことと同じだったから。だが、俺はホタルにならなにもかも知られてもいいと思った。たった一日弱しか一緒にいないのに、同じ異常な出来事に巻きこまれた者同士として、俺たちの間には奇妙な連帯感が生まれつつあった。

「実際の俺は、あんな人気者じゃない。成績だってよくない。バレーどころかスポーツはなにもできない。本当のことを言うと、友達だってひとりもいないんだ。だけどあいつは違った。あんなに仲間に囲まれて、その中心にいて……実際の俺があんなふうな状況にいたことなんて一度もないんだ。それによく考えてみたら、さっき話しかけてきた原田。あいつもあんなやつじゃない。アイドルオタクで、いつもアイドルの話しかしない。いつも同じオタク仲間とつるんでる。絶対ああいう活発なタイプじゃない。それに担任の教師も。理不尽に厳しくて、誰であれ生徒を褒めるところを見たことなんてない」

「えっと……つまり、みんな有也くんの知ってる人たちじゃないってこと?」

「知ってるけど、知らない。なんて言えばいいのかな」俺は頭をかく。

「なんだかみんな、有也くんの知ってる人たちと人格が反転してるみたいね」

 俺はパッと顔を上げる。「それだ! みんな反転してる」

 ホタルの答えを待つより先に立ち上がり、ブランコの前を歩きまわる。そうすると考えがまとまる気がした。

「SFでそういう世界を舞台にしたのを読んだことがある。反転世界。なにもかもが現実世界と真逆なんだ。そうだ、この世界はまさにそれだ。人格が反転した世界。俺たちは鏡を見た――いや、あのとき鏡の世界に入りこんだのかもしれない。鏡は左右を逆に映す――そうだ、まさに反転だ……」

 ふと気づくとホタルが目を丸くしている。俺はハッとして立ち止まった。

「悪い、自分の世界に入ってた」

「ううん。難しいことは知らないけど、有也くんの言うことなんとなくわかる気がする」

「たぶん、ここは理想の俺がいる世界なんだ。俺の理想の世界に来ることができたんだ……と思う」

「そっかあ。よかったね、有也くん」

 そう言ってホタルはにっこり笑う。俺は突然わけもなく胸がうずいた。

「ごめん。俺、自分のことばっかりだ」

「いきなりどうしたの?」

「さっきホタル言ってただろ。ここは俺の世界だって。でも結局俺にとっての世界であるに過ぎない。ここではホタルは置き去りなんだ。なあ、帰りたいだろ。ここから帰る方法を考えないと」

 ホタルは驚いたような目で俺を見ていた。

「帰らなくていいよ」

「は?」

 俺は意表を突かれて間抜けな声を出した。ホタルはうつむきながら静かにブランコを揺らしている。

「あのね、四次元の鏡の前にいた理由……さっきは言わなかったけど、有也くんもいろいろ教えてくれたから……だから教えるね。あたしもね、ひとりぼっちなんだ」

 少し風が吹いた。夏の終わりの涼やかな風。線香花火の残り香のするような。

「あたしの髪の色、変でしょ? 目もね……。あたしね、お父さんがアメリカ人のハーフなの。それでみんなと見た目が違うんだ。小さいころはアメリカに住んでたの。でもお父さんとお母さんが別れて、日本に帰ってきたのよ。日本では見た目のことでからかわれて、考え方や話し方も違うから……みんなとうまくいかなくってね。誰とも仲良くなれないんだ」

 ホタルは顔を上げる。悲しい告白なのに泣いてなんかいなかった。あのきれいな青い目を細めて笑顔を作る。

「誰かと楽しくおしゃべりしたいよ。でも怖いの。今まで誰からも受け入れてもらえなかったから。だから生きてるのがいやになっちゃった。それであの階段に行ったの。四次元の鏡に異世界に連れていってもらいたくて」

 俺は混乱していた。ホタルが、俺と同じ? こんなまっすぐで、素直な人が、俺と同じ苦しみを抱えていた? ホタルは初対面の俺に気さくに話しかけてくれた。俺を信じて寄り添ってくれた。それだけで十分だった。信じられないよ。こんな人が孤独を抱えているなんて。

 俺は――俺はこのとき、初めて強い意志を持つ自分を感じた。

 八重垣ホタルを守りたい。

「ホタル」と俺は言った。

「有也くん?」

 俺の声音に宿るなにかを感じたのだろう、彼女はパッと俺を見た。俺は続けた。

「やっぱり帰ろう。ここは俺の世界でしかないよ。異世界に行くんなら、ホタルも幸せな世界がいいんだ」

 そんな世界があるかはわからないが。なぜなら彼女は異形の存在。それでも俺は……。

「ほんとにいいの、有也くん?」

 俺は力強くうなずく。ホタルはふっと相好を崩した。

「うん、あたしも帰りたい。ほんと言うとね、もうひとりの有也くん、あたし好きじゃない」

「へえ、どうして?」

「だって初めて会った人のこと笑ってた……それに小さな猫を蹴りとばした」

「あれは反転した俺だよ」俺は頭をかいた。

「うん、わかってる。ほんとの有也くんはバレーもできないし、勉強もできないし、人気もないし……」

 俺が閉口していると、ホタルはにっと笑った。

「でも初対面の人に対して優しい人」

 どうしよう。泣きそうになってきた。だから、ぐっとこらえた。


 それから朝までの数時間は、帰る方法を相談しあった。実を言うと、一度学校に戻り、4時44分44秒にあの鏡の前に立ってみさえした。が、今度はまったくの無反応。このことについて話しあった結果、もしこの世界が現実を反転させた世界なのだとすれば、「4」という数字は反転すると意味を成さない形になるからではないかという推論に達した。もしも「1」や「8」のような左右対称の数字だったらもう一度異世界への扉が開いたかもしれないが、確かめるすべはない。そこでさらにふたりで知恵をしぼった。

 ひとつの仮説を得たきっかけは、またしてもホタルだった。

 あれはもう夜明けごろ、俺たちはまだ話しあいを続けていたが、そのさなか、ホタルが小さな悲鳴を上げて飛び上がったのだ。ワンピースの裾を押さえている。見ると、彼女の座っていたブランコの板に、白い薄い布切れが引っかかっていた。古いブランコだったので木製の板がささくれ立っていて、裾が裂けたのだ。それは俺の目には大きな問題になるほどの裂け目ではないように思えたが(もっとも、そこからほっそりした脚がのぞいたときはドキッとしたけど)、女の子であるホタルには洋服のほつれは重大な汚点だったらしい。

「だってこっちだけ裂けてるんだよ。反対側は普通なのに。そういうデザインもあるけど、このワンピースはそうじゃないんだもん。バランスがおかしいよ。も~お気に入りなのに~……」

 しょんぼりするホタルを後目に、俺はある啓示を得た。脳の中で、バラバラだった情報のピースが組みあわさっていく。調和のとれた総体。そこにひとつの傷。そうすると均衡が崩れる。最終的には総体が崩れる……。

 ある予感がした。

「ホタル、学校に戻ろう」

「えっ、帰る方法を思いついたの?」

「そうじゃない。もうすぐ授業が始まるから」

 ホタルの顔ははてなでいっぱいになっている。俺は笑った。多少はじらしてもいいじゃないか?


 着いたときには1時間目の授業が始まっていた。俺たちはそれほど怪しまれることもなく――そもそも俺と同じ顔の生徒がいるのだから当然かもしれないが――学校に足を踏み入れた。

 〈俺〉のいる教室に向かって廊下を歩く。ホタルが小さな足取りで追いすがってくる。

「ねえねえ、どういう作戦なのかそろそろ教えて?」

 俺は歩きながら笑みを見せた。

「そのワンピース。片側がほつれたら、全体のバランスが崩れるんだろ?」

「え? う……うん」ホタルは疑わしそうにこちらを見上げる。

「『4』という数字は左右対称じゃないから、この世界では鏡が反応しない」

「うん……それはさっき話しあったよね。ねえ有也くん、いったいどういうこと?」

「ちょっとした思いつき。この世界は鏡の中の世界で、現実の反転だ。と言うことはあの4階の西階段の鏡を軸にして、現実世界とこの世界は左右対称なんだ。もし左右対称の均衡を崩したらどうなる? 世界に矛盾が生じる。矛盾を抱えた世界は崩壊するだろう」

 ホタルの息を飲む声が聞こえた。教室までもう少し。

「崩壊したら……どうなるの?」

「さあね。なにも起こらないか、この世界の人間じゃない俺たちははじき出されて、正しい世界に戻れるか……それとも永久になにもない空間を漂うか」

「怖いわ、有也くん」

 彼女は手を俺の腕に置こうとした。が、むなしくすり抜ける。俺は心から残念だった。

「でもやってみる価値はある。そう思わないか?」

「どうやって均衡を崩すの?」

「〈俺〉を消す」

「え?」

 ホタルは立ち止まった。俺もまたつられて止まって、言い含めるように話した。

「それが一番手っ取り早い方法だと思う。この世界に来た張本人の俺が、鏡の中の自分を消す。これ以上ない不均衡だろ?」

「あたし、帰れなくてもいいよ」

 突然の言葉に、俺は思わず絶句した。

「なに言ってるんだよ」

「でも怖いもの。鏡の有也くんを消して、ここにいる有也くんまで消えちゃったら? そんなのいやだよ」

 ホタルの涙は、いままで見たことがないほどきれいな涙だった。真珠もダイヤモンドも、ここまでの輝きは放てない。

 俺はひるんだ。はっきり言って。でも願いを聞くわけにはいかなかった。説得するしかないと思った。

「俺、ホタルとふたりで一晩中公園にいて思ったんだ。この世界にいる以上俺たちに居場所はない。あるはずがないんだ。この世界で俺たちは唯一のイレギュラーだから。だからここにいたって幸せになれっこないんだ。この世界はやっぱり理想の世界じゃないよ。ここにはホタルの場所がない。ホタルの場所がない世界なんて、いたくないんだ」

 信じられない。これは本当に俺の言った言葉なんだろうか。俺は口下手で、人前で話すのが恥ずかしくて、誰にも本音をさらけ出したことがなかった。なのにホタルの前では話せるんだ。それはホタルには知ってほしいから。ホタルだけには伝えたいことがあるから。ホタルのおかげで、俺は自分の気持ちを話せたんだ。

 ホタルは少しの間黙っていたが、やがてこくんとうなずいた。

「あたしも有也くんと一緒にいたい。でもこの世界ではそうできないのね」

「そうだ」

「わかった。キミの言うとおりにする。世界を崩壊させよ?」

「うん。〈俺〉を消しに行こう」


 それから間もなく教室に着いた。教室では授業をやっているものとばかり思っていた。が、実際には授業なんてものじゃなかった。

 まず教師がいない。教室内はまるでディスコだった。壁紙ははがれまくり、棚も机も破壊されていないものを探すのが難しいほどだ。酒と煙草のすえたにおいが漂ってくる。ラジカセからは爆音の音楽が響きわたる。汚らしい笑い声。男も女もけばけばしい格好で踊り狂っている。その中心にいるのが、俺と、昨日会った原田だった。俺は長ランにリーゼント、原田は似合わないサングラスなんかかけている。

 これが、現実の反転。

「人気者じゃなくたって、勉強ができなくたって、ほんとの有也くんにはいっぱいいいとこあるよ」ホタルがそっとささやく。

 そうなのかな……なんだかわけがわからなくなってきた。

 さてどうするか。しばらく教室の観察をしていたら、〈俺〉がとんでもないことを言いはじめた。

「おいユキ、脱げよ」

 ユキ……ユキ……その名前には確かに覚えがある。そうだ、俺をバカにしたうちのクラスの女子だ。いつもだったら近づくこともしたくないが、今の彼女は――。

 教室の隅にいるのがユキらしい。見覚えのある彼女とは正反対だが、髪をお下げに結って、きちんと正式の制服を着て、震えながらしゃがみこんでいる。

「脱げって言ってんだろ!」

 頭が真っ白になる。俺が、俺が、こんなこと――。

「少しは楽しませろ、役立たずが! こっち来てストリップしろ、ちょっとはサービスしろ!」

 そう言って下品な笑い声を上げる。周りも同じだった。ユキのか細い悲鳴が聞こえる。原田たちが無理やり彼女を立たせて〈俺〉の前に引きずっていく。

 ホタルが両手を祈るように握りしめてささやいている。「うそよ、うそよ、こんなの有也くんじゃない」

 俺は前に進み出た。

「ホタル、俺行くよ」

 俺たちはしばらく見つめあっていた。やがてホタルが小さくうなずいた。それから俺は教室のドアに手をかけた。その動作の最後の瞬間、彼女がぽつりとつぶやいた。

「ねえ有也くん、生まれ変わりって信じる?」

「えっ、急になに?」

「なんでもない。ただなんとなく怖いの……保証が欲しいのかな」

「よくわかんないけど、信じるよ。ホタルがそれで安心なら」

 ホタルの表情を確かめる前に、俺はドアを開けた。

「やめろ」

 少し震えていたかもしれない。誰も聞いていなかった。破裂しそうなくらいの音楽が鳴っている。〈俺〉の下卑た笑い声が響きわたっている。

「やめろ!」

 戸口近くにいた数人の生徒が振り返った。俺の顔を見て口をあんぐり開けている。俺は思いきって息を吸いこんだ。

「やめろおおっ、有也!!」

 いきなり音楽が止まった。静まり返った教室の中、中央にいた〈有也〉が俺のほうを向いた。ユキが泣きじゃくっている。

「な……なんだ、お前……」

 自分と同じ顔の男が現れたことで、強いショックを受けたようだ。俺は教室に踏み出す。いくら人気者だって、勉強ができたって、こんなやつ、俺は大嫌いだ。

「彼女を離せ」

「なんだって?」

 俺は反転した〈俺〉を見て、自分自身をいやというほど知ることになった。こいつは俺の鏡像。だから本当の俺は人気がなく、友達もおらず、勉強も運動もできない。なかば目を背けていたそれらの事実を、痛烈に思い知った。それは苦しい経験だった。でも、もうひとつの面も知ることができた。俺は初対面の人間を見てバカにしたりしない。教室で暴れたりしない。他人を思いやれる。やるべきことはちゃんとできる。それになにより、いやがる女に手を出したりしない。

「彼女を離せよ。いやがってるだろ」

「おまえは誰だよ? 俺の親戚か?」

「有也くん、足もとに瓶が転がってるわ!」後ろでホタルが叫んだ。それはもちろん誰にも聞こえることなく俺だけに届いた。彼女の言うとおり下を見ると、ビールの瓶が横倒しになっている。間髪入れず思いきりそれを蹴とばした。

 びっくりするほどきれいな弧を描いて瓶は〈俺〉に向かって飛んでいった。

「あの子をこっちへ!」またもホタル。俺は声と同時に動いて、急いでユキの手首を引っつかみ、教室の入り口まで引き寄せた。

 瓶の砕け散る派手な音がした。見ると〈俺〉ではなく周りの男子たちに命中したらしい。ガラスが顔や腕を切り裂き、すさまじい悲鳴が上がる。〈俺〉はそれを見ても眉ひとつ動かさなかった。

 引き寄せたユキはおびえて顔も上げられない。触れられないから意味はないかもしれないが、教室の外のホタルに引き渡した。ホタルが手を挙げて合図する。

「信じらんねー、こいつ! なに正義のヒーローぶってんだよ!」

 〈俺〉が殴りかかってきた。俺は思わず逃げようとしてなんとか踏みとどまり、やつの拳をかろうじて右腕で受け止めた。

 〈俺〉は驚愕の表情を浮かべる。俺の反転だとしたらケンカも強いのだろう。だが負けるわけにはいかないんだ。〈俺〉を消す。そして元の世界に帰るんだ。ホタルと一緒に。

 俺はがらあきの脛を狙って、思いきって蹴りを繰り出した。幸いにもヒットして、うめき声が上がる。

 〈俺〉がいやなやつであるのは、この場合はっきり言ってありがたい。ためらうことなく痛めつけられる。

 〈俺〉にスキができた。

「うわー!」俺は雄たけびを上げて〈俺〉に殴りかかった。その拳が今度は向こうの左腕で防御される。

 あっと思った瞬間、視界が飛んで、天井を見上げていた。同時に頬に激痛が走る。カウンターをくらったのだ。

 間髪入れず腹が踏みつけられた。俺は叫んだ。ゲロがこみ上げた。

 もう許せねえ。踏みつけている足を両手で思いきり殴りつける。あいつがひるむ。

 俺は立ち上がる。痛みによる脂汗で視界がくもっている。

「降参しろよ」と〈俺〉が言う。

「誰が」と俺は言い返す。

 それが合図だったかのように乱闘になった。それはスポーツみたいにかっこいいものじゃない。ケンカに慣れた者同士の合理的なものでもない。ただの泥臭い殴りあい。でも俺たちは本気だった。

 俺はあいつの頬を殴る。〈俺〉は再び俺の腹を目がけて拳を繰り出す。

 痛みと、苦しみと、激しい興奮。その中で、頭の片隅にいまだ残っていた理性が、ふとあることに気づいた。

 〈俺〉に対する加勢がないのだ。

 普通、友達が殴りあいしてたら、助けに入らないか? そうしたら、この大勢に対して俺はひとりだ。すぐやられちまうことは目に見えてる。でも教室内の誰ひとりとして動かない。歓声すら上がらない。教室中の高校生たちは冷めた目で俺たちのケンカを眺めている。〈俺〉なんかどうでもいいというふうに。つまり、〈俺〉は、まったくのひとりぼっちだった。

 対して俺は。

「頑張って、有也くん! そこよ、お願い! 決まって!」

 俺にはホタルがいた。ホタルの声は誰にも聞こえないけれど、姿も見えないけれど、確かにそこに存在していて、俺に勇気を与えてくれる。

 俺はひとりじゃない。手を差し伸べれば、つかんでくれる人がいたんだ。

 でももはや力が湧かなかった。拳は切れてずたぼろだ。口からも鼻からも血が垂れる。目はかすむ。顔も腹も、全身が痛い。もう手が上がらない。

 でもホタルが応援してくれる。だから最後の力を振り絞って体当たりした。

「消えろおおお、小泉有也!」

 俺は叫んだ。叫ぶと同時に、俺たちはもつれあって倒れこんだ。

「かはあっ」

 下敷きになった〈俺〉の口から泡が噴き出す。一瞬のけいれんののち、動きが止まった。

 瞬間、光がはじけた。


 視界が目もくらむような白い光で覆われた。

 なんの前触れもなかった。〈俺〉が消えた。群衆も消えた。教室も消えた。なにもかもが消えた。

 直後、俺は暗闇の中にいた。

 そこは大鏡の前だった。あの、校舎の4階の西階段の踊り場。時刻は……急いで腕時計を確かめると4時44分45秒。

「ホタル!?」

 見まわすと、踊り場の隅に白い姿が倒れている。

「ホタル、大丈夫か!」

 あわてて抱き起こ……そうとしてできずに屈みこんで声をかけ続けると、ホタルはうっすら目を開けた。

「有也く……あ、有也くん……」

 俺の腕の下で、長いまつ毛を震わせてこちらを見上げる。

「あたし、教室にいて……応援してたのに……突然目がくらんで……倒れて……気がついたら……」

「うん、うん、わかってる。俺もそうだ」

 ホタルは突然気がついたように体を起こした。「ここは!」

 その拍子に頭と頭がぶつかりそうになって、すり抜けて重なった。

「わっ」

 思わず赤面して退いたと同時に、俺は体が全然痛みを感じないことに気がついた。あれほどのケガを負ったはずなのに。さっきまでのことがなかったことになっている……?

「ここ、四次元の鏡の所だね! あたしたち、帰って来れたの? 鏡の世界は崩壊したの?」

 ホタルは俺の様子に頓着なく立ち上がってキョロキョロと辺りを見回している。

「そうだと思う。世界は崩壊した。不均衡が起こったから」

「有也くんが、鏡の有也くんを倒したからね!」ホタルは言って、いたずらっぽく微笑んだ。

 俺はわけもなく頬が熱くなった。

「ホタルのおかげだよ。応援してくれたから」

「ほんとに? だったらうれしいな」

 俺たちは見つめあった。たぶんその視線の間には、今までの人生で感じたことのない、温かい感情が流れていたんだ。俺とホタルは似ていた。どちらも孤独を抱えて、世界に自分はひとりぼっちだと思いながら生きてきた。世の中にわかりあえる人なんていないと思っていた。それで世界を捨てようと決心していた。でもそうじゃないと知った。それはどちらか片方だけじゃ決して知りえなかった。俺たちは同志であり、親友であり……それに俺は彼女を好きになっていた。

 俺たちは力を合わせてひとつの冒険を乗り越えた。たった1秒間の冒険。だけど一生に一度の冒険。

 だが、俺たちにはどうしても乗り越えられない壁が、たったひとつだけある。

「ホタル、本当にありがとう。俺はやっと欲しいものが見つかったよ。だけど、これでお別れだ」

 ホタルとずっと一緒にいたかった。でもそれはできないことだった。俺たちは生きている次元が違う。

「どうしてそんなこと言うの、有也くん? あたし、キミとずっと一緒にいたいよ。朝になったら新学期が始まるよ。一緒に登校しよう?」

「ダメだよ……だって」俺は息を吸いこんだ。「俺は四次元の怪人だから」

 ホタルは驚いたような顔はしなかった。たぶんずっと前から気づいていたんだろう。

「いつから自分がそうだって気づいてたの?」と、か細い声でホタルは尋ねた。

「最初、手が透けたときは、正直、俺じゃなくてホタルが人間じゃないんだと思ってた。でも、異世界に着いたとき、ホタルが出したスマホ……だったかな、それを見て、なんとなくおかしいなと思いはじめた」

「あたしも……」と彼女はつらそうにうつむく。「学校の様子、みんなの服装、教室にあったラジカセ? とかを見て、気づいたの。有也くんの見てる世界は、あたしのまだ生まれてない時代の世界だって」

「うん……俺は今から30年前の、ここの学校の生徒だったんだ。でも毎日がつらくてつらくて……いつも世界を呪ってた。こんな世界なんか消えちまえって。ここの踊り場は人が来ないだろ。だからいつもここにひとりでいて、鏡を見ながら、この中に行けたらなあって思ってたんだ。それで気づいたら鏡の世界に縛りつけられちまってたんだ」

「ずうっと、ここにいたの?」

「うん、繰り返し繰り返し、鏡の中と現実を行き来してた。そうだと知らないまま、延々と夏休み最終日を反復してたんだ。俺はもう人間じゃない。でも今日、ホタルが来てくれた。俺はやっと解放されるよ」

 ホタルの白い頬に、ひとすじの涙がこぼれ落ちる。俺はそれをそっとぬぐった……残念ながら透けたけど。ホタルは震えるまつ毛をふせて、俺の指の感触を感じようとでもしているみたいだった。

「約束してね。生まれ変わったら、あたしのところに来て」

「もちろんそうする。ひょっとしたら、もう生まれ変わってるかもしれない」

 ホタルがまぶたを開ける。俺は笑う。彼女も笑った。

 それからホタルは鏡に背を向け、階段を1段ずつ踏みしめながら下りていった。俺はそれをいつまでも見送っていた。

 いつの間にか虫の音が聞こえなくなっていることに気づいた。日が昇りはじめている。


***


 それは夏も終わりに近づいた、ある蒸し暑い夜のことでした。

 学校を出るころには、もう山の端が日の光できらめきはじめたところでした。スズメがかわいらしい声で鳴いています。生あるものが今日という日を開始したのです。

 身支度を終えて再び家を出ると、遠くでかすかに学校のチャイムが鳴っているのが聞こえました。それは不思議と穏やかで、心安らぐ音でした。朝靄をいっぱいに吸いこんであたしは駆け出します。

 ふと、同じように駆けていく男の子がいることに気がつきます。彼はあたしを追い越します。同じ高校の制服。近所の人? 初めて見る人です。今まで周りのことを気にしたことなんてなかったから。でも今朝はすべてが新鮮で、なにもかもが興味深いのです。

 なんだかすてきな胸騒ぎがしました。ちらりと見えた彼の横顔は……まさか、ね。

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燈夏幻記 青出インディゴ @aode

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