巡りゆく ~大 栃~
否、関塞があるから国境となった。
それぞれの国の関塞守として、
山間の国の関塞のひとつ。
大きな
板を簀子のように組んで括りつけた床。
櫓は「矢倉」、射手が楯を巡らせた内から遠方を窺い、寄せる敵方を
この
楯をおかずとも、敵方の
物見櫓よりも身二つは高いから、遠くを見ることもできた。
そして、そこに寝転んで木立の合間から見える月は、なかなかによいものだと思った。
今宵の月は居待月。
下弦の月でこれから少しずつやせ細る。月の出が居座って待つような宵になるために居待月と呼ばれるのだ。
それを横になって眺めていた。
良い月だ、と思った。
今頃、彼の弟分たちは夜の山路を馬で駆けているだろう。その助けになる月だが、途中、枝が張って月明かりの届きにくいところがある
だがそれは
慣れぬ
……見越していたのは櫨丈か、それとも。
「俺は櫨丈に……それとも、笙木様か」
見楢は己がが抱える、身の内にのしかかる軛。そのために、すべてを見越して動いたのだろうか。
だがそれはあってはならない。
己は今はまだ、「見楢」を生きている。
ずっとこれからも、そうしていたいと思っている。
「俺が決めることではない。すべてのことが」
何も決めることはできない。ただ受け止めるだけ。
ただその
彼には、夜の路をゆく二人を「見る」手立てがあった。「知る」こともできる。だがそれだけのことだった。それをして何になるのか。
月が、それを見ている。
見ているのは己ではなく、月だ。
ふと頬に風を感じた。いつもならば、通り過ぎるだけの風なのだが、見楢はそこに「意思」を感じ取った。
仕方なく身体を起こすと、狙撃台の床がぎしりと軋んだ音を立てた。
「…………」
風が、音を運んできている。物見櫓の方からのようだった。
この狙撃台よりも物見櫓の方が低いから、これほどはっきりと音が聞こえるものではないはずだ。それで見楢はこれは「風」の仕業だと知る。
軽く息を吐いて、音を拾う。何か、争っているような声。まだ子供のような声と、もうひとつは聞き覚えがあった。
今夜の
郷からの兵士の二人と、
もともと不寝番だった采斗は、「
その代わりを見楢が請負った。もう一人の兵士は采斗の郷の
山間の国側の
そういえば、鍛練のときに采斗がよく見ていた子供がいた。
いや防人としてきているから、
皆揃っての鍛練に日頃から加わらない見楢は、まだその子供の名を知らなかった。
子供を諭すような声のもう一人は采斗の郷の伴部の者で、よく見知っている。
采斗をよく見ているし、頼ってもいる壮年の丈夫で、これまで何度もの関塞詰めで、たびたび顔を合せている。
とぎれとぎれになる二人の声を見楢の耳がひとつずつ拾っていく。
見楢は
だがこうしたことができるから、
どうやら子供の声が、壮年の伴部に食ってかかっている。采斗の居所を突きつめているようだった。
ははあ、と得心の行く。
采斗が関塞を離れたのは、急なことだ。
おそらく采斗のことだから、何も引き継がないで出ていくことはない。己の郷の伴部の者には
だが、郷も、山間の国も、……他国をもまきこむ恐れのある
さすがに采斗の郷の伴部の者は行きとどいているなあ、と感心する。これが見楢の郷であれば、さらりと言ってしまいかねない。
思いのほか、采斗は子供受けがよい。
そっけないふうに見えて、面倒見がよいのだ。
子供を子供扱いしすぎないし、厳しくあたるわりに、突き放すことをしない。郷に戻れば、
幾度か采斗の郷戻りに付き合ったことがあるが、
関塞に防人に来ているくらいだから正丁として数に入れられているのだろうが、労役もはじめてなのだろうという年頃である。ほとんど子供で、鍛練を見てもおぼつかないのを、采斗がよく教えたから懐いたのだろう。
争う声の中に見楢の名前と、この大栃のことが出てくるということは、
「この大栃の狙撃台に主である采斗がいなくて、俺がいることが気に入らない、ってところか?」
それに采斗を探してもいないので、置いて行かれたような気持ちになったのかもしれない。
采斗が関塞を離れたのは、見楢もかかわったためである。
少しならその後始末をするつもりはあるのだが。
「……子供の相手は、なぁ……」
しかも名前すら覚えていない。
いっそう声を大きくする子供。それをたしなめるような壮年の伴部の声。夜中に皆が寝ているのだからおとなしくしろよ、としごくまっとうなことを言ったようだ。
物見櫓で小さな影の動くのが見える。櫓の階段を降りようというのだろう。
ふいに、指笛が鳴るのが聞こえた。
こちらを引き付けるような高い音から急に音を低くする。 それに続けていくつかの音の連なり。
鳴らしているのは、采斗の郷の壮年の伴部だ。
「参ったな。俺に押し付けるつもりか」
それは采斗の郷の
山に入り、得物を追うときに互いの居所を確かめたり、合図に使うほかに、組み合わせると、会話にもなる。
だがこれは采斗の郷で使われているだけで、もともと見楢が知るようなものではない。
「なんで俺が知ってるってわかったんだ?」
見楢はこの指笛を采斗に教えられて知っていたわけではない。采斗も、郷だけで使われる指笛だから、何かがあったときを考えて、郷の者とのやりとり以外に使うことはないし、教えることはないだろう。
壮年の伴部は采斗の郷の窺見なのかと訝ったが、窺見なら、この関塞に入ることはないだろう。
壮年の伴部が平生の見楢の様子を見て己で気付いたのであれば、相当だ。もしかしたら、采斗の伯父である
「しかもそれを、この俺に今まで気付かせなかったのか……」
今まで鍛練のことを思い返してもこの壮年の伴部は、よくできる、というようでもなかった。壮年の者ならではのこなれた様子はあるのだが、
まあいい、と見楢は気にしないことにした。
己は、窺見ではない。窺見になることもないだろう。ただ、櫨丈に手伝いを頼まれることはあっても。
考えを巡らせているうちに、
「おいっ! そこは采斗様の居所だぞ!」
この
壮年の伴部からの指笛は、この子供を見ておいてくれ、というものだ。
どうしたものか、と下を見下ろすと、弓をしっかりとかかえた子供がまっすぐに見上げていた。
采斗には様ってつけるんだなぁ、と采斗との差を感じる。己にこうも子供に好かれるような
「おいっ!
……これでも郷士なんだがな、俺は。
もっとも関塞の皆はすっかり郷士らしくない見楢に慣れてしまっている。だから皆の様子を子供がまねるのは仕方のないところだった。
狙撃台の端から少しだけ顔をのぞかせた。
「ここは誰の居所と決まっているわけじゃあない。采斗がいるときは俺でもはばかるが、奴のいない間は俺がいるのが妥当だろ」
「采斗様がいないからって勝手に!」
「采斗が関塞を離れたのは
まずは理屈で
「そ、そんなわけないだろ!」
「俺は采斗から直に任されているんだがな?」
本当は違うのだが、そいうことにしておこう。もし見楢が関塞に残らなければ、采斗は随身するようなことはしなかっただろうから、偽りにはならない。
「さ、采斗様は! 今夜の
「へぇ?」
見楢は思い違いに気付く。どうやらこの子供は采斗に弓の構えを習うのを楽しみにしていて、あの采斗が約を破ると思えなくて探し回っているらしい。その考えは確かに正しくて、関塞にいるなら一晩相手をしてやったことだろう。
子供の手にしているのは、関塞に備えてある防人のためのもの。まだ己の弓を持っていないのだろう。
だが弓を習うなら、采斗でなくてもよい。
少し考えて、
「お前登ってこいよ。話しにくい」
「え?」
「登れるだろ、このくらい」
「あったりまえだろ! みんなして子供扱いしやがって!」
「じゃあこいよ」
「でもそこは……」
「いいんだって。俺は采斗から任されてるし、ここは狙撃台だからな。弓をやるなら一度ここからの景色を見ておけ」
見楢は縄梯子を投げおろした。おずおずと縄梯子に手をかける子供。
ぎしぎしと軋む音。狙撃台が揺れる。息遣いから登るのに苦心しているのがわかるが、手を出さない。
柔らかい夜風が、見楢の髪と木の葉を揺らす。合間にまた、壮年の伴部が指笛で話しかけてきた。これに応えの指笛をしようかとも思ったが、指笛の読み解きを知っているのを認めるのも、何か悔しい。
がたん、とひときわ揺れて、子供の手が狙撃台の床にかかった。なんとか登り切ったらしい。だが大栃の幹や枝から狙撃台に身体を移すのに苦心している。
「……手を貸すか?」
「い、いらねぇよっ」
子供ならではの意地を出すのをみて、どうしたものかとまた考える。
弾む息遣いが近づいたので、見楢は月を見上げるのをやめた。
「お前、名前なんだ?」
「こ、コウ……」
おそらく書き文字を知らないのだろう。此度の関塞目録の名を思い浮かべて、思い当たるものがある。
「ああ、
先ほどまで大事そうに弓を抱えていたのだが、さすがに持ったままでは
無理だろうとは思ったがよほど弓をやりたいらしいから、持ってくるかとも少しばかり思っていたのだ。
「し、仕方ないだろ! 登れと言うから……!」
いちいち食ってかかってくるところが、子供らしい。ちょうど抗いたい年の頃合いなのだろう。誰もがそういう頃があるものだから、少し見楢は羨ましく思える。
己は、初めから何もかも諦めていた。そうやって今になった。
「責めてるわけじゃないさ。それに弓はここにあるからな」
月明かりの元、見楢は指差す。
この狙撃台にはとりつく手摺などは何もない。大栃の枝がその代わりだ。だが弓と
采斗は不寝番を終える明け方に、この狙撃台からこの弓で弓弦を鳴らす。弓弦の音は風に乗って山間の国に走り、
平生を伝える一度、人の
関塞の兵士や防人にとって、何よりも大切な
「その弓は、采斗様が
「ああ、采斗の弓だ。ここから山間の国に、関塞の平生が伝わる。そう思うと、おかしなことだろう?」
応えがない。絋は弓をまじまじと眺めていた。采斗の弓は三人張の
見楢は引けないこともないが、この弓を引くくらいなら他の手立てを選ぶ。
「絋。いいぞ。構えてみろ」
「で、でも……これは采斗様の」
「あいつが触れられるのを厭うと思うか?」
ふるふると首をふる。
見楢のよく知る采斗なら、使えるのならば使うとよい、そのために
おずおずと絋は弓を手に取った。ぎしり、と狙撃台の床が鳴る。
見楢は大栃から山路を指差した。
「見えるか? この
狙撃台は関塞内に造られた櫓よりも身二つほど高い。高い分、木々に遮られるよりも上から見通すことのできるところが広い。
この夜闇、夜目の利かぬ者では月明かりだけで山路は見えないのだが。絋はまっすぐにその山路を見た。眼はいいのだろう。見楢は少し絋に関心した。気に留めておいて悪くない。
「……この狙撃台からなら、海辺の国からの
絋はじっと、その山路を睨むように、そしてたどたどしく、弓を構える。弓弦を引こうとして、その強さに負ける。
「……遠い、から?」
この子供は、頭も悪くない。思わず見楢は口元を緩める。
「そうだ。この狙撃台からあの林の隙間から見える山路まで、弓射るにはその
見楢は心の中で、采斗の
「見楢さんは? 射れないのか?」
「射れる。……届くが、狙えない」
見楢は一通りなんでも扱えるが、得手としている
それでも射らねばならない、となったらここから射るだろう。厭々ながらも、必ず当てるための手立てを使って。
……なんだか、さん付けに格上げされたなあ? と思う。
「采斗は格が違うんだ。その前に、絋、お前は
構えは悪くない、と言いながら見楢は立ち上がった。ぎしり、とまた狙撃台が音を立てる。狙撃台は大栃を傷めないように、釘も座金も使われていない。縄や綱で枝に括りつけているだけなのだ。
棚に幾つも具えている弓を確かめると、采斗はいつも馬上から射るのに使うものを選んで持ち出したらしい。
それで見楢は、夜明けに鳴らすのによく使っているものを掴んだ。用意の良い采斗は
それを
もちろん、平生から身に付けている得手の
さて。子供の相手はここまでである。
少々、尋ねたいことができた。
見楢は、
瞬きの間に地面が近付き足音も軽やかに柔らかく消す。
大栃の上から、驚くような高い声が聞こえてきた。
振り向きざま、見楢は己の得手とする
喚くような声が聞こえたが、言葉を聞くつもりはない。言葉ではなく、見楢は「見せてやった」。それだけだ。絋が今よりも何かを望むなら、
「……俺は采斗ほど、穏やかなことはできないさ」
待ち構えていたのは、壮年の
「采斗様を穏やかとおっしゃるか。さすがですな」
「子供の相手を押しつけるなよ」
「あれでも
くつくつと壮年の伴部は低く笑う。見楢が怪訝な顔をすると、事訳るように語る。
「物事は巡りゆくといいます。この巡りゆくものを作り上げたのは、先の
「……?」
この山間の国の
郷士からみた
見楢は知っている。
その「物事は巡りゆく」ということは確かなことなのだと。
だが、物事を巡りゆくように運んでゆくのは、
見楢には壮年の伴部が話しだしたことと、今の絋が結び付かなかった。その様子をみて、壮年の伴部は面白がっているようだった。
「あれの・・・絋の父親は
「へえ? そりゃあ・・・あの槙泰か? どうしたんだ、あいつ。まだあんな子供に
「それが急に腰を痛めたようで、動けないというので
見楢にも憶えがあった。確か女ばかりだと聞いていたのだが。
「あれ? おかしいだろ 槙泰のおっさんから娘の話しか聞いたことないぞ」
「絋は幼い頃に
集落でも邑でも、戸にどれだけ御調が課されるかは大きな懸りごとだから、子供の数や戸の正丁の数を寄戸して整えるようにしている。
絋は子供の数合わせに、幼い頃に他の戸に移されたのだろう。
「ああ……じゃあ 槙泰のおっさんに頼んでたような細工物は絋にはできないか」
槙泰には手技があるから、防人の労役にくるたびに、この関塞で使うものをよく修繕してもらっていた。
刀子の柄から、桶、
絋が早くに槙泰の戸の外に出されていたなら、こうした細工物は教えられてはいないだろう。
「でも、へぇ? そういうことか」
見楢は
まだ絋は何やら収まらないらしく、怒った声が聞こえてくる。
壮年の伴部は頷いた。
「あの狙撃台を工夫したのは、槙泰でしたから。絋には言ってはいませんでしたけれども」
「……絋は、防人に来るには早いだろう。
「さあ……弓を使いたいと言っていましたが」
まさか槙泰のように弓を使いたくて防人に来たのか。
「それにしても、
「采斗様も同じことを言っていましたよ。でも来たからには子供扱いはしないと」
それはとても采斗らしい物言いで、だが見楢が思っているのは別のことだ。
ここは国の
本来なら、
「難しい
「・・・初めて聞いた」
櫨丈はあまり己のことを話さない。抱えている
「あの頃から、
このおっさん食えねぇ、と胸の内で見楢は吐き出した。何をどこまで知ってやがんだ。
見楢は櫨丈に
櫨丈が大栃の枝から事もなく飛び下りるのを見て、本当に己にそれができるようになるのかと何度か疑った。
櫨丈だからできるのだろう、と。
「櫨丈に、大栃に登るように言ったのは私ですよ」
「……今のがいちばん驚いた」
「それだけ、櫨丈には才があった。私は促しただけで、その才を見出したのは
「・・・もっと驚くこと言うなよ! それでなんで櫨丈は稲佐様でなくて、笙木様に仕えてる? おかしいだろ?」
壮年の伴部はだから笑いが込み上げてきたのです、と続けた。見楢は力なく笑うよりない。
「稲佐様は
「……あのおっさんたち、
「今でもお仲はよろしいでしょう。仲違いするような方々ではない」
はああああ、と見楢はかなり大きなため息をついた。
確かに笑いがこみあげてくる。
稲佐様が、笙木様に
稲佐様の
櫨丈は同じことを己にさせた。
稲佐様の甥御にあたる采斗がその大栃に、槙泰の手助けで
その
「巡りゆくってのはこういうことか」
「先の御方も姫巫女さまもおもしろいものを巡らせてくださいましたな」
見楢は、
「あーーなんだか力が抜けたぜ……」
「ずいぶんと昼から張り詰めておいででしたな また櫨丈が来たのでしょう」
「あのなぁおっさん・・・どこまでわかってる?」
「もう辞めましたよ。櫨丈にすべてを任せることができるようになってから」
郷ではなく、国の
「櫨丈はあなたにそれをさせようとは思っていないでしょう。ただ……絋を見ていた。いつかは、そうなるかもしれない」
見楢は少しだけ息をついた。
「……少し歩いてくる。
「見楢さまも少し気を抜くといい。お気を付けて。もっともあなたが遅れをとることはありませんでしょうが」
この壮年の伴部にかかれば、己も子供扱いだなと思いながら。
「迷子になったら指笛でも鳴らすさ」
と嘯いた。
当てがあって関塞を出たのではなかった。何も考えていないというときはどうするのか、身体が覚えているものらしい。
見楢は、いつもの己の足取りをたどっていた。
関塞の裏手の獣道のような小道を抜けて横脇にそれるとぽっかりと木々のない夜空がひらいた。
あまり他の者には知られていない場所で、土が硬いためか草むらの丈もあまり高くならない。ときどき見楢が整えていることもあって
兎が現れるから猟人には知られているようだが、見楢は関塞の者には教えたことはない。
……櫨丈にここで
徒手の
「なんで俺はあんなに素直にいうこと聞いたんだろうな。大栃なんて登る
今でも見楢は皆との鍛練に加わらない。
「巡りゆく・・・か」
尋ねようと思っていたことがあったのだが、その気が削がれてしまった。
絋と壮年の伴部とのことで少し考えが変わった。気になっていることがあるのは確かだ。それを聞くつもりは少しもなかったのに。
もしも、巡りゆくものが崩れていったときに、それを直せなくなることはあるのだろうか?
見楢は己の分をわきまえているつもりだったのだ。できることとできないことがあって、いつかもし己にとりつけられた軛がはずれたなら己の
軛ははずれないかもしれない。
軛があるままなら、己は見楢として生きていられる。
その刻まで、……その刻までは、偽りを生きる。
そういうものだと、思ってきたのだ。
「誰も何もしなくても、巡るものは巡っていくんだろう。もしそうなら、俺にその
そのときこの国は、この大地はどうなるのだろう?
聞いたとしても教えてくれるはずはない。そして聞きだすだけのものが今の己にはない。
それでも、尋ねてみようかと思ったのだ。
本当は、己の
絋が気にするから、気になっただけで。
でももし、巡りゆくものがあるなら、もっと別の事を尋ねよう。
尋ねることでまた何かが巡るなら、この「大地が生きるための巡り」に己が関わるのなら……。
いつも火を熾している石組の上に、細い枯れ枝を重ねた。火切を使って熾した火種を少しずつ大きくしていく。
火を熾すことは見楢にとって特別なことだった。煮焚のための火を熾すことも、こうして、「己のための火」を熾すのでも。
それを、儀式のように感じている。
否、
ようやく落ち着いてきた小さな火にそっと息を吹きかけてさらに大きな火にする。
そうしてから見楢は腰帯びた己の得物を手に取った。
息を静め気持ちを静める。
見つめた火に向かい、
手元に残した柄を引くと刃が曲がるように戻ってくる。
戻った鎖を手首に絡ませるように受けて。
また火に刃を投げる……風を切るように。
見る者があれば、
舞うように、風を纏う。
見楢が・・・風をおこしていく。
その風が炎をおこす。
やがて炎が
見楢は鎖鎌を納めた。
己の身の内からつくりだした炎を見つめた。
身の丈ほどに大きく成りながらも、静かに燃える。
ふいに風が炎を巻くように熱く見楢にまとわりついた。
《・・・見楢? どうしたのです、珍しいことをする》
風の声が聞こえてくる。
否、見楢が、己の
「そりゃぁ、いつもできることじゃない。姫巫女さまとは比べるなよ」
だいたい、「風」が絋と壮年の伴部の声を運んできたのだろうに。その言いようにため息が出そうになった。
見楢はずいぶん幼い頃に
生まれるとき、母は火の声を聞いた。
ただその生はただの
隠れ巫王。
できるだけ他の
その時々で、その
だが山間の国の
山間の国の首長としての
その
見楢は火に
見楢というのは通り名だ。
その
大事の折までその
軛が外れて初めてその
大事の折のほかに使えば、
身体を守るためにも、軛あるまま、秘めて生きよ。
軛の外れる時、それは。
明日香と那智の死のことだ。
見楢はそれを望んでいない。だから軛あるまま生きている。
軛が外れないなら、その
そのときまで、大事の折まで、見楢は、見楢として生きる。
これほどの
見楢に課せられた軛は
今の見楢にはそれより大きなことはできない。いつか、軛の外れたら、明日香や水姫のように僅かに気持ちを凝らすだけで「使う」ことができるのだろう。
……そのときには、この山間の国に、他の
父の
僅かな
そのうちに
はじめ太刀に鎖を工夫したが、櫨丈が鎌につけることを思いついた。
徒手の手ほどきをうけた見楢は、太刀にこだわることはない。むしろ徒手と組み合わせて得手としたほうがよいのだろうと。それから櫨丈と見楢は、
戦う手立ては、剣舞に通じる。 剣舞の動きを見楢は鎖鎌に取り入れた。
より風を乗せられるように。
より火が燃えるように。
いつも声を聞くわけではない。それでも風も火も、見楢がそうやって僅かな軛ある
もともと燃える火を僅かに大きくするほどだけであれば、ここまでの手順は要らないのだ。
だが、見楢は自ら、風と火の声を聞くためにずっと工夫してきた。
そして見楢は風と火の声を聞くたびに、さらにその工夫を加えていく。
だからつい、見楢の
《まだ、二人はついていませんよ?》
「あーー話が早いな・・・なんで判ったのかは聞かないでおく」
主紗と采斗の道行が気になっていた。それはお見通しだったのだろう。
炎が大きく揺れて、火の中に二人の姿が映された。
《・・・采斗が先行しているようだな
今、山間の国でふたつの
采斗が
《いつになく、
「……いいんだ。鍛えているつもりだ」
影王は軛が架せられている。
《それほど、二人が気にかかるか》
「そうだな。それ以上に気にかかることはあるんだ」
はじめは、二人の様子がわかればそれでいいと思っていた。だからこれほど
主紗が、まっすぐに自邸の笙木の元へ向かうとは思えなかったのだ。
笙木の元へ向かえば、その後、動きにくくなる。主紗がかかえていることは、どんなことか見楢にはわからない。
……否、もしかしたら、わかっているのかもしれなかった。
国を揺るがすこと。
あるいは明日香にかかわること。
そうでなければ、主紗があそこまでかたくなにはならないだろう。主紗にとって明日香を守ることは国を守ることだ。
明日香の気持ちを守ることは、必ずしも国を守ることではないが、主紗の中で、その違いはきっとついていないだろう。だから、国を見据えた笙木よりも、明日香の元へ向かう。
さあ、采斗はどうでるのだろう。采斗がどう動いても、おそらく何も変わらないし、きっと見楢が思ったようになる。
それを確かめたくて、それをただ思っているよりも、見て聞くために
だが、壮年の伴部と話して、少し考えを変えた。
巡りゆくものは確かにあるのだと思えたから。
「なあ……風よ 今
《……ほんとうに珍しいこと。日頃は影王として己をいらぬほど戒めるあなたが》
《風からは言いにくかろうな おまえは水をつかえぬし》
「なんでそこで水が出てくる? ……俺は聞きたいだけだ。少し気にかかることがある。季節の巡りがちぐはぐだろう? これほど旱で
《見楢。明日香は季節を巡らせていますよ。名を持ってそれを行うから
「そうは思えない。俺はともかく、
己の軛をかせられたままの
季節の巡りがおかしいことはすぐにわかる。だから
だが、明日香が、何かを見ることができないとしたら?
大地の生きるための巡りを、何も知らぬまま糺すことはできない。
見楢は明日香が「何かを見ていない」のではないかと、気にかかっていた。
だが明日香が女首長としてあるうちは、己が何かをすることはない。気に掛けつつも、そのまま何も聞こうとはしてこなかった。これまでは。
やがて、話し始めたのは、見楢に名受させた火である。
《おまえは、水を感じることができるな? 見楢》
「あ、あぁ、それは・・・もちろん」
水を感じるのは、今難しい。ただ、湿ったようにはっきりとは分からなくとも、傍にいるのだとわかる。
《今の明日香には、それがおまえよりも難しい。明日香は風から名受したが 水と仲違いしているようなものだ。風せいではないぞ、明日香が己でなしたことだ》
「・・・はぁ? なんだそれは。どういうことだよ」
《水の方が、風を拒んでいてな 言うことをきかぬ》
「あの
《そうではない。あのイタズラ娘はよくやっているぞ。やりすぎを止める者もおらぬが……まあそれはよい》
「わけがわからない」
《おまえはそのうち気付くだろうな。見楢……軛がはずれるかも知れぬぞ》
「……そんなわけ……ないだろ?」
《いえ、見楢。今明日香が望んでいることがもしも。本当に明日香の望むとおりになれば、あなたの軛ははずれ、
風が、まるで予め定められているかのように告げた。
《水のことは私の預かり知らぬこと。ですが火のいうことは間違いではありません。そしてあなたが影王として感じていることも、きっと間違いのないでしょう》
「おい待てよ……それは、本当に……」
背筋を何か冷たいものが流れたような気がする。
この大地の生きるための巡りが、狂い始めていてもう糺すことができないのではないかという……漠然とした惧れ。
明日香が何もしないのではなく。
もう糺すことができないのではないかということ。
少し前からその考えは見楢の中にあった。でもあまりのことに、己の中で言葉にすらなっていなかったのに。
それははっきりと見楢の中に刻み込まれた。……軛よりも重たい
「そうだとして……どうなる?」
本当にそうだとしたら、見楢の軛が外れたら、それを見楢は糺すことができるのだろうか。できぬのだとしたら、この大地は……どうなってしまうのか。
《どうにもならぬ。今更、何かを変えることはできぬ。
それは遥か
大地の生きるための巡りが狂い始めた時に。自らを糺すことができなくなった時に。
それを委ねるために。
幾度も起きたことをまた繰り返さぬようにと。
それなのに。また、避けられぬ。繰り返される。そういうものだから、変わらない。
《見楢。今、ふたつの
「? あぁ……」
あまりのことに、何も考えられない。
気付いても、知っていても、何もできなくなる。知ったからこそ、何もできないと思い知る。
《お前はそのままでよい。今までのように見楢でよい。そのときまでは、見楢として。……揺り戻しがあるものなのだ。今とは限らぬ。まだ幾度も季節を巡るやもしれぬ。行きつ戻りつ、少しずつ。大地が狂うとは、そうしたものだ》
「いつまで、この大地が巡るか、わからないんだな?」
《それがわかれば、我らは
確かにすべてが狂い始めているのだと、思い知る。火も風も、もう狂ってきているという覚えを持っているのだ。
「はは……まいったな。聞かなきゃよかった」
見楢は座り込んで火を見つめた。やさしく風が見楢をつつむ
「なんでかな。火も風も、今までこんなに……。違うな、俺が聞かなかったんだ。聞いてもしかたないって思ってたから、聞かなかった。だから教えてもらえなかったことは、俺が悪い」
何かが悪いということではないのだが、見楢は己を責めた。
聞いておけば、まだ何かができたかもしれない、何もできなかったかもしれない。
「主紗が来た時、水の気配りを感じたんだ。いつもよりも濃く……。あいつ、何か気付いたんだきっと。それで何かをするために、
だけど、どれだけ急いでももう。きっとできることはない……。
否。見楢は、主紗のことをよく知っている。弟分だから、生まれてからずっと知っている。
「できることはすべてやって、やりつくすんだろうな、あいつ」
主紗のやりたいこと、やれることはまだわからない。でも、それでもし己の
どうせ、火も風も、大地の生きるための巡りも狂い始めているのだ。己の身が蝕まれたとしても、それでいい。
見楢は己が凝らした霊力がおさまりきるまで、ずっと座り込んでいた。
火に見守られて風につつまれて。
いつもの「見楢」を取り戻すために……それだけの刻が要ったのだ。
夜が明けようとしていた。紺碧の中に、淡く立ち昇る陽の光。
するりと立ち上がり、弓を構える。
仄かに……僅かに残った、凝らした己の
弓弦を鳴らす。
平生を報せるための弓弦を。
一度。
……二度。
…………三度。
風に音を乗せて。風の巫女姫、明日香に届くように。
貴女の
しばらくその弓鳴の余韻を残し。
そうしてから、懐から筆頭郷士からの指示書きと、その嗣子あての文書を取り出した。この文書を弟分に渡さずにいたのは当たりだった、と「見楢」は読み込んで己を褒めた。
さて。「見楢」はどのように動くのが良いのだろう。
……どのように動いても、すべてが巡って行くのだから、何かに縛られることはもうない……。
金色の輝きと空 真澄 涼 @masumi_RYOU
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