巡りゆく ~大 栃~

 国境くにざかいには関塞せきがある。

 否、関塞があるから国境となった。

 山路みちにはそれぞれ入るための関塞と、出ていく関塞がある。

 それぞれの国の関塞守として、防人さきもり兵士つわものたちが詰めているのだ。

 山間の国の関塞のひとつ。

 大きな栃木とちがある。

 関塞内せきうちに造られた物見櫓やぐらよりも高いところ、その太い枝に

板を簀子のように組んで括りつけた床。

 櫓は「矢倉」、射手が楯を巡らせた内から遠方を窺い、寄せる敵方を射狙ねらうためのものだ。

 この大栃とちに組まれた床板は狙撃台ねらい、この関塞に役目つとめを持つ兵士が、己の得手である弓射ゆみを生かすために己で作った。

 楯をおかずとも、敵方の征箭そやは枝が防ぐ。

 縄梯子はしごを上げてしまえば、誰もすぐにはこの高さまでは登ることのできない。

 物見櫓よりも身二つは高いから、遠くを見ることもできた。

 そして、そこに寝転んで木立の合間から見える月は、なかなかによいものだと思った。

 見楢みははそは、月を見ていた。

 平生いつもならここから月を見ることはない。 己の弟分がこの狙撃台ねらい主人あるじである。

 不寝番ねずのみはりのある夜は必ずといってこの上にいる。不寝番の折りにはこの狙撃台で一人過ごす。だから見楢は用がなければこの上に登ることもなかった。

 今宵の月は居待月。

 下弦の月でこれから少しずつやせ細る。月の出が居座って待つような宵になるために居待月と呼ばれるのだ。

 それを横になって眺めていた。

 良い月だ、と思った。

 今頃、彼の弟分たちは夜の山路を馬で駆けているだろう。その助けになる月だが、途中、枝が張って月明かりの届きにくいところがある

 だがそれは采斗さいとが承知だ。

 慣れぬ主紗かずさを気に掛けたのだろう、采斗の愛馬である木凜きりんの姿が厩になかった。否、はじめから見楢はそれを見越していた。

 ……見越していたのは櫨丈か、それとも。

「俺は櫨丈に……それとも、笙木様か」

 見楢は己がが抱える、身の内にのしかかる軛。そのために、すべてを見越して動いたのだろうか。

 だがそれはあってはならない。

 己は今はまだ、「見楢」を生きている。

 ずっとこれからも、そうしていたいと思っている。

「俺が決めることではない。すべてのことが」

 何も決めることはできない。ただ受け止めるだけ。

 ただその役割つとめを生きる。

 彼には、夜の路をゆく二人を「見る」手立てがあった。「知る」こともできる。だがそれだけのことだった。それをして何になるのか。

 月が、それを見ている。

 見ているのは己ではなく、月だ。



 ふと頬に風を感じた。いつもならば、通り過ぎるだけの風なのだが、見楢はそこに「意思」を感じ取った。

 仕方なく身体を起こすと、狙撃台の床がぎしりと軋んだ音を立てた。

「…………」

 風が、音を運んできている。物見櫓の方からのようだった。

 この狙撃台よりも物見櫓の方が低いから、これほどはっきりと音が聞こえるものではないはずだ。それで見楢はこれは「風」の仕業だと知る。

 軽く息を吐いて、音を拾う。何か、争っているような声。まだ子供のような声と、もうひとつは聞き覚えがあった。

 今夜の不寝番ねずのみはりは五人である。

 郷からの兵士の二人と、集落むらから防人さきもり労役えだちで来ている三人。

 もともと不寝番だった采斗は、「筆頭郷士いちのごうし密使つかいの随身」として関塞を離れた。

 その代わりを見楢が請負った。もう一人の兵士は采斗の郷の伴部とものべの一人だ。

 山間の国側の小門もんと海辺の国側の小門もんを、それぞれ防人が見ているはずで、ではこの子供のような声は誰だと考えたところでふと思いつく。

 そういえば、鍛練のときに采斗がよく見ていた子供がいた。

 いや防人としてきているから、正丁おとな扱いなのだが、そう思っているのはまだ本人だけだろうと思えるような、小柄な体格からだとまだ少し高い声。

 皆揃っての鍛練に日頃から加わらない見楢は、まだその子供の名を知らなかった。

 子供を諭すような声のもう一人は采斗の郷の伴部の者で、よく見知っている。

 采斗をよく見ているし、頼ってもいる壮年の丈夫で、これまで何度もの関塞詰めで、たびたび顔を合せている。

 とぎれとぎれになる二人の声を見楢の耳がひとつずつ拾っていく。

 見楢は窺見うかみではない。

 だがこうしたことができるから、櫨丈はじたけに見込まれているのだろうと、またしても息をはいた。

 どうやら子供の声が、壮年の伴部に食ってかかっている。采斗の居所を突きつめているようだった。

 ははあ、と得心の行く。

 采斗が関塞を離れたのは、急なことだ。

 おそらく采斗のことだから、何も引き継がないで出ていくことはない。己の郷の伴部の者には事態ことを伝えているはずだ。 どこまであの采斗かが壮年の伴部に伝えているかわからないが、少なくとも関塞長せきのおさに伝えたよりも詳しいはずだった。

 おさはすでに寝てしまっているだろうから、采斗を慕っている子供は壮年の伴部に聞こうとしたのだろう。

 だが、郷も、山間の国も、……他国をもまきこむ恐れのある事態ことを、こんな子供に教えるわけにもいかない。それで言葉を濁して、子供が詰め寄っているというところか。

 さすがに采斗の郷の伴部の者は行きとどいているなあ、と感心する。これが見楢の郷であれば、さらりと言ってしまいかねない。

 思いのほか、采斗は子供受けがよい。

 そっけないふうに見えて、面倒見がよいのだ。

 子供を子供扱いしすぎないし、厳しくあたるわりに、突き放すことをしない。郷に戻れば、一族うからの子供たちの鍛練をよく見ているし、困りごとにもひとつずつ応えているようだった。

 幾度か采斗の郷戻りに付き合ったことがあるが、異母弟おとひとたちのことをろくに構いもしない不出来な己とは大違いだと思ったことがある。

 関塞に防人に来ているくらいだから正丁として数に入れられているのだろうが、労役もはじめてなのだろうという年頃である。ほとんど子供で、鍛練を見てもおぼつかないのを、采斗がよく教えたから懐いたのだろう。

 争う声の中に見楢の名前と、この大栃のことが出てくるということは、

「この大栃の狙撃台に主である采斗がいなくて、俺がいることが気に入らない、ってところか?」

 それに采斗を探してもいないので、置いて行かれたような気持ちになったのかもしれない。

 采斗が関塞を離れたのは、見楢もかかわったためである。

 少しならその後始末をするつもりはあるのだが。

「……子供の相手は、なぁ……」

 しかも名前すら覚えていない。

 いっそう声を大きくする子供。それをたしなめるような壮年の伴部の声。夜中に皆が寝ているのだからおとなしくしろよ、としごくまっとうなことを言ったようだ。

 物見櫓で小さな影の動くのが見える。櫓の階段を降りようというのだろう。

 ふいに、指笛が鳴るのが聞こえた。

 こちらを引き付けるような高い音から急に音を低くする。 それに続けていくつかの音の連なり。

 鳴らしているのは、采斗の郷の壮年の伴部だ。

「参ったな。俺に押し付けるつもりか」

 それは采斗の郷の一族うからと、その伴部たちの間で狩猟のときに使われる指笛の音色だった。

 山に入り、得物を追うときに互いの居所を確かめたり、合図に使うほかに、組み合わせると、会話にもなる。

 だがこれは采斗の郷で使われているだけで、もともと見楢が知るようなものではない。

「なんで俺が知ってるってわかったんだ?」

見楢はこの指笛を采斗に教えられて知っていたわけではない。采斗も、郷だけで使われる指笛だから、何かがあったときを考えて、郷の者とのやりとり以外に使うことはないし、教えることはないだろう。

 壮年の伴部は采斗の郷の窺見なのかと訝ったが、窺見なら、この関塞に入ることはないだろう。

 壮年の伴部が平生の見楢の様子を見て己で気付いたのであれば、相当だ。もしかしたら、采斗の伯父である総領このかみ稲佐いなさか、采斗の父が、わざわざ采斗につけているのかもしれない。

「しかもそれを、この俺に今まで気付かせなかったのか……」

 今まで鍛練のことを思い返してもこの壮年の伴部は、よくできる、というようでもなかった。壮年の者ならではのこなれた様子はあるのだが、技量わざにすごみを感じることがなかったのだ。

 まあいい、と見楢は気にしないことにした。

 己は、窺見ではない。窺見になることもないだろう。ただ、櫨丈に手伝いを頼まれることはあっても。

 考えを巡らせているうちに、大栃とちの下から子供の声が聞こえてきた。

「おいっ! そこは采斗様の居所だぞ!」

 この大栃とちの狙撃台を作ったのは確かに采斗だが、采斗は集落むらからの防人に手伝ってもらっていたはずで、だからといって見楢が登ってはならないところではないのだが。

 壮年の伴部からの指笛は、この子供を見ておいてくれ、というものだ。

 どうしたものか、と下を見下ろすと、弓をしっかりとかかえた子供がまっすぐに見上げていた。

 采斗には様ってつけるんだなぁ、と采斗との差を感じる。己にこうも子供に好かれるような技術わざの持ち合わせはない。

「おいっ! こたえるくらいしろよ!」

 ……これでも郷士なんだがな、俺は。

 もっとも関塞の皆はすっかり郷士らしくない見楢に慣れてしまっている。だから皆の様子を子供がまねるのは仕方のないところだった。

 狙撃台の端から少しだけ顔をのぞかせた。

「ここは誰の居所と決まっているわけじゃあない。采斗がいるときは俺でもはばかるが、奴のいない間は俺がいるのが妥当だろ」

「采斗様がいないからって勝手に!」

「采斗が関塞を離れたのは役目つとめだ。その後を任されるのは郷士しかいないだろ。今、関塞に郷士は俺だけだ」

 まずは理屈で説明ことわけてみるか。

「そ、そんなわけないだろ!」

「俺は采斗から直に任されているんだがな?」

 本当は違うのだが、そいうことにしておこう。もし見楢が関塞に残らなければ、采斗は随身するようなことはしなかっただろうから、偽りにはならない。

「さ、采斗様は! 今夜の不寝番ねずのみはりの折りに、おいらの構えを見てくれるって! そんなの他の人に頼むわけないだろ!」

「へぇ?」

 見楢は思い違いに気付く。どうやらこの子供は采斗に弓の構えを習うのを楽しみにしていて、あの采斗が約を破ると思えなくて探し回っているらしい。その考えは確かに正しくて、関塞にいるなら一晩相手をしてやったことだろう。

 子供の手にしているのは、関塞に備えてある防人のためのもの。まだ己の弓を持っていないのだろう。

 だが弓を習うなら、采斗でなくてもよい。

 少し考えて、

「お前登ってこいよ。話しにくい」

「え?」

「登れるだろ、このくらい」

「あったりまえだろ! みんなして子供扱いしやがって!」

「じゃあこいよ」

「でもそこは……」

「いいんだって。俺は采斗から任されてるし、ここは狙撃台だからな。弓をやるなら一度ここからの景色を見ておけ」

 見楢は縄梯子を投げおろした。おずおずと縄梯子に手をかける子供。

 ぎしぎしと軋む音。狙撃台が揺れる。息遣いから登るのに苦心しているのがわかるが、手を出さない。

 柔らかい夜風が、見楢の髪と木の葉を揺らす。合間にまた、壮年の伴部が指笛で話しかけてきた。これに応えの指笛をしようかとも思ったが、指笛の読み解きを知っているのを認めるのも、何か悔しい。

 がたん、とひときわ揺れて、子供の手が狙撃台の床にかかった。なんとか登り切ったらしい。だが大栃の幹や枝から狙撃台に身体を移すのに苦心している。

「……手を貸すか?」

「い、いらねぇよっ」

 子供ならではの意地を出すのをみて、どうしたものかとまた考える。

 弾む息遣いが近づいたので、見楢は月を見上げるのをやめた。

「お前、名前なんだ?」

「こ、コウ……」

 おそらく書き文字を知らないのだろう。此度の関塞目録の名を思い浮かべて、思い当たるものがある。

「ああ、こうか。絋だな。弓、どうした」

 先ほどまで大事そうに弓を抱えていたのだが、さすがに持ったままでは大栃とちに登れなかったようだ。

 無理だろうとは思ったがよほど弓をやりたいらしいから、持ってくるかとも少しばかり思っていたのだ。

「し、仕方ないだろ! 登れと言うから……!」

 いちいち食ってかかってくるところが、子供らしい。ちょうど抗いたい年の頃合いなのだろう。誰もがそういう頃があるものだから、少し見楢は羨ましく思える。

 己は、初めから何もかも諦めていた。そうやって今になった。

「責めてるわけじゃないさ。それに弓はここにあるからな」

 月明かりの元、見楢は指差す。

 この狙撃台にはとりつく手摺などは何もない。大栃の枝がその代わりだ。だが弓と征箭そや狩箭かりやを具えるため、棚を設えている。

 采斗は不寝番を終える明け方に、この狙撃台からこの弓で弓弦を鳴らす。弓弦の音は風に乗って山間の国に走り、御宮みあらか女首長めおびと殿に伝わるのだ。

 平生を伝える一度、人の来訪おとないを告げる二度。そして火急の三度。

 関塞の兵士や防人にとって、何よりも大切な役目つとめである。

「その弓は、采斗様が弓鳴ゆみなりに使う……」

「ああ、采斗の弓だ。ここから山間の国に、関塞の平生が伝わる。そう思うと、おかしなことだろう?」

 応えがない。絋は弓をまじまじと眺めていた。采斗の弓は三人張の強弓こわゆみだ。とてもではないが絋がそのまま引けるものではない。

 見楢は引けないこともないが、この弓を引くくらいなら他の手立てを選ぶ。

「絋。いいぞ。構えてみろ」

「で、でも……これは采斗様の」

「あいつが触れられるのを厭うと思うか?」

 ふるふると首をふる。

 見楢のよく知る采斗なら、使えるのならば使うとよい、そのために技巧わざを磨け、具えはそのためにある、とか言い出すのだろう。

 おずおずと絋は弓を手に取った。ぎしり、と狙撃台の床が鳴る。

 見楢は大栃から山路を指差した。

「見えるか? この狙撃台ねらいから、海辺の国へ続く山路みちだ。物見櫓やぐらからじゃあ、あの山路は見えない。林に見る先を遮られるからだ」

 狙撃台は関塞内に造られた櫓よりも身二つほど高い。高い分、木々に遮られるよりも上から見通すことのできるところが広い。

 この夜闇、夜目の利かぬ者では月明かりだけで山路は見えないのだが。絋はまっすぐにその山路を見た。眼はいいのだろう。見楢は少し絋に関心した。気に留めておいて悪くない。

「……この狙撃台からなら、海辺の国からの来訪おとないも、兵士つわものにも、林の隙間に見える山路から真っ先に気付くことができる。だから采斗は、ここを狙撃台にした」

 絋はじっと、その山路を睨むように、そしてたどたどしく、弓を構える。弓弦を引こうとして、その強さに負ける。

「……遠い、から?」

 この子供は、頭も悪くない。思わず見楢は口元を緩める。

「そうだ。この狙撃台からあの林の隙間から見える山路まで、弓射るにはその強弓こわゆみじゃないと、征箭そやが届かない。そして、その強弓を、采斗は扱うのに長けている。強弓は隔たりを越えるが、狙うには技巧わざがいる。ここに采斗がいて、他の奴らが使わないのは、采斗でないと意味がないからだ。ここから確かにあの山路に射抜くことができるのは、采斗くらいだろう」

 見楢は心の中で、采斗の一族うからの面々をのぞく、と付け加えた。あの一族は、とにかく弓を得手とする。いったいどうなっているのかというくらい、良く弓を使う。

「見楢さんは? 射れないのか?」

「射れる。……届くが、狙えない」

 見楢は一通りなんでも扱えるが、得手としている徒手むて鎖鎌かまのほかは他の人少しだけできる、というくらいのものなのだ。 

 それでも射らねばならない、となったらここから射るだろう。厭々ながらも、必ず当てるための手立てを使って。

 ……なんだか、さん付けに格上げされたなあ? と思う。

「采斗は格が違うんだ。その前に、絋、お前は身体からだを強くしろ。大栃とちに登るくらいで手間取っているうちは、俺にも凌げない」

 構えは悪くない、と言いながら見楢は立ち上がった。ぎしり、とまた狙撃台が音を立てる。狙撃台は大栃を傷めないように、釘も座金も使われていない。縄や綱で枝に括りつけているだけなのだ。

 棚に幾つも具えている弓を確かめると、采斗はいつも馬上から射るのに使うものを選んで持ち出したらしい。

 それで見楢は、夜明けに鳴らすのによく使っているものを掴んだ。用意の良い采斗はゆぎに征箭を7本常に射したままにしているから、

それを靫負ゆげいた。

 もちろん、平生から身に付けている得手の鎖鎌かまを腰に帯び。

 さて。子供の相手はここまでである。

 少々、尋ねたいことができた。



 物見櫓やぐらから身二つは高い大栃とち狙撃台ねらいの床。

 見楢は、跳躍とんだ。

 瞬きの間に地面が近付き足音も軽やかに柔らかく消す。

 大栃の上から、驚くような高い声が聞こえてきた。

 振り向きざま、見楢は己の得手とする鎖鎌かまを手にとった。分銅を持ち、鎌を縄梯子はしごに高く投げつける。縄の切れた縄梯が、からからと音を立てて落ちてきた。

 喚くような声が聞こえたが、言葉を聞くつもりはない。言葉ではなく、見楢は「見せてやった」。それだけだ。絋が今よりも何かを望むなら、身体からだを作らないとならない。

「……俺は采斗ほど、穏やかなことはできないさ」

 待ち構えていたのは、壮年の伴部とものべである。

「采斗様を穏やかとおっしゃるか。さすがですな」

「子供の相手を押しつけるなよ」

「あれでも正丁おとなですよ、ここに来るのならば」

 くつくつと壮年の伴部は低く笑う。見楢が怪訝な顔をすると、事訳るように語る。

「物事は巡りゆくといいます。この巡りゆくものを作り上げたのは、先の御方おかた姫巫女ひめみこさまどちらかと思いましてな」

「……?」

 この山間の国の首長おびとである霊力者みこは、民のためにその生を捧ぐものだとされている。季節の巡りも人の出会いの巡りも雨の巡りも風の巡りもその巡りゆく物事を霊力者みこが運んでゆくものなのだ。

 郷士からみた首長おびとはそうしたものではないが、民から霊力者みこを思えばそういうものなのだろう。

 見楢は知っている。

 その「物事は巡りゆく」ということは確かなことなのだと。

 だが、物事を巡りゆくように運んでゆくのは、霊力者みこではないのだと。

 見楢には壮年の伴部が話しだしたことと、今の絋が結び付かなかった。その様子をみて、壮年の伴部は面白がっているようだった。

「あれの・・・絋の父親は槙泰しんたいですよ」

「へえ? そりゃあ・・・あの槙泰か? どうしたんだ、あいつ。まだあんな子供に労役えだちを任せるほど老いてはいないだろ。爺よりずっと若い」

「それが急に腰を痛めたようで、動けないというのでおさに断って絋を寄越したとか。絋はまだ正丁おとなというには次の季節を巡らせないとならぬでしょうが、あそこは他に身内に男がいないので、仕方ないのでしょうな」

 見楢にも憶えがあった。確か女ばかりだと聞いていたのだが。

「あれ? おかしいだろ 槙泰のおっさんから娘の話しか聞いたことないぞ」

「絋は幼い頃に寄戸よせこの外に出されたのを呼び戻されたようです。娘に婿をとるつもりでいたようですがうまくまとまらなかったのでしょう」

 労役えだちの他の御調みつぎは戸でまとめて出すから、正丁がいればその御調の量は多くなる。

 集落でも邑でも、戸にどれだけ御調が課されるかは大きな懸りごとだから、子供の数や戸の正丁の数を寄戸して整えるようにしている。

 絋は子供の数合わせに、幼い頃に他の戸に移されたのだろう。

「ああ……じゃあ 槙泰のおっさんに頼んでたような細工物は絋にはできないか」

 槙泰には手技があるから、防人の労役にくるたびに、この関塞で使うものをよく修繕してもらっていた。

 刀子の柄から、桶、小門もん小垣かきの綻びなどを直すほかにも、弓張りも得手としているものだから、槙泰は御調よりも防人としてずっと労役していたほうがよい、などと笑って皆で話していたものである。

 絋が早くに槙泰の戸の外に出されていたなら、こうした細工物は教えられてはいないだろう。

「でも、へぇ? そういうことか」

 見楢は大栃とちを見上げた。

 まだ絋は何やら収まらないらしく、怒った声が聞こえてくる。

 壮年の伴部は頷いた。

「あの狙撃台を工夫したのは、槙泰でしたから。絋には言ってはいませんでしたけれども」

「……絋は、防人に来るには早いだろう。仕丁つかえよほろは空いてなかったのか」

「さあ……弓を使いたいと言っていましたが」

 集落むらの者は猟人さつひとでもないなら、弓を使えるものは限られる。弓張りのできる槙泰は、もちろん弓もよく射ることができたが、戸を出されたから、絋は弓は教えられなかったのだろう。

 まさか槙泰のように弓を使いたくて防人に来たのか。

「それにしても、身体からだがまだできていない。おさがよく許したな」

「采斗様も同じことを言っていましたよ。でも来たからには子供扱いはしないと」

 それはとても采斗らしい物言いで、だが見楢が思っているのは別のことだ。

 ここは国のはたてで、今はいつになく、他国よそくにとの外交まじわりも張り詰めている。

 本来なら、労役えだち仕丁つかえよほろあたりから始めて少しずつ防人さきもり運丁はこびよほろへ割り振られるものだ。そうしているうちに身体ができてくるもので、見楢や采斗のようにはじめから兵士として鍛えるのとはわけが違う。

「難しい表情かおをしなくてもよいでしょう。櫨丈も、はじめそうやって防人にきたんです」

「・・・初めて聞いた」

 櫨丈はあまり己のことを話さない。抱えている役目つとめがあるから話せないことも多いのだろうが、それでも幼い頃のことなどほとんど知らなかった。

「あの頃から、大栃とちは大きくて、この関塞にありました。櫨丈も、大栃を登っては下りて、身体を強くしたんです」

 このおっさん食えねぇ、と胸の内で見楢は吐き出した。何をどこまで知ってやがんだ。

 見楢は櫨丈に徒手むてを仕込まれた。

 身体からだを強くしろと言われて、来る日も来る日も、大栃を登って下りてを繰り返した。

 櫨丈が大栃の枝から事もなく飛び下りるのを見て、本当に己にそれができるようになるのかと何度か疑った。

 櫨丈だからできるのだろう、と。

「櫨丈に、大栃に登るように言ったのは私ですよ」

「……今のがいちばん驚いた」

「それだけ、櫨丈には才があった。私は促しただけで、その才を見出したのは稲佐いなさ様です」

「・・・もっと驚くこと言うなよ! それでなんで櫨丈は稲佐様でなくて、笙木様に仕えてる? おかしいだろ?」

 壮年の伴部はだから笑いが込み上げてきたのです、と続けた。見楢は力なく笑うよりない。

「稲佐様は国外くにそとからいらした笙木様に、櫨丈のような役目つとめのできるものをつけてさしあげたかったのでしょう」

「……あのおっさんたち、過去むかしは仲が良かったのか?」

「今でもお仲はよろしいでしょう。仲違いするような方々ではない」

 はああああ、と見楢はかなり大きなため息をついた。

 確かに笑いがこみあげてくる。

 稲佐様が、笙木様に側近もとこともなる窺見うかみをつけてやりたくて櫨丈を見出した。

 稲佐様の伴部とものべが、櫨丈を鍛えるために、この大栃に登るように促した。

 櫨丈は同じことを己にさせた。

 稲佐様の甥御にあたる采斗がその大栃に、槙泰の手助けで狙撃台ねらいを作った。

 その狙撃台ねらいに己がいて、槙泰の子の絋に、大栃を登るように促した。

「巡りゆくってのはこういうことか」

「先の御方も姫巫女さまもおもしろいものを巡らせてくださいましたな」

 見楢は、霊力者みこが物事を巡りゆくように運んでいくなどということは偽りだと知っている。だけど、それを今は巡りゆくというのはそういうものだ、と思えた。

「あーーなんだか力が抜けたぜ……」

「ずいぶんと昼から張り詰めておいででしたな また櫨丈が来たのでしょう」

「あのなぁおっさん・・・どこまでわかってる?」

「もう辞めましたよ。櫨丈にすべてを任せることができるようになってから」

 郷ではなく、国の窺見うかみだ、と見楢は気付いた。表情かおの曇った見楢に、

「櫨丈はあなたにそれをさせようとは思っていないでしょう。ただ……絋を見ていた。いつかは、そうなるかもしれない」

 見楢は少しだけ息をついた。

「……少し歩いてくる。大栃とちを見ていてくれ」

「見楢さまも少し気を抜くといい。お気を付けて。もっともあなたが遅れをとることはありませんでしょうが」

 この壮年の伴部にかかれば、己も子供扱いだなと思いながら。

「迷子になったら指笛でも鳴らすさ」

と嘯いた。



 当てがあって関塞を出たのではなかった。何も考えていないというときはどうするのか、身体が覚えているものらしい。

 見楢は、いつもの己の足取りをたどっていた。

 関塞の裏手の獣道のような小道を抜けて横脇にそれるとぽっかりと木々のない夜空がひらいた。

 あまり他の者には知られていない場所で、土が硬いためか草むらの丈もあまり高くならない。ときどき見楢が整えていることもあってひるであればよい居所だ。

 兎が現れるから猟人には知られているようだが、見楢は関塞の者には教えたことはない。

 ……櫨丈にここで徒手むてを仕込まれたのだ。

 徒手の技巧わざを他の者に見せることはない、と言って見楢を連れだした。そうして鍛練し、戻ったら大栃をまた登る。

「なんで俺はあんなに素直にいうこと聞いたんだろうな。大栃なんて登る理由わけはなかったのに」

 今でも見楢は皆との鍛練に加わらない。

 関塞長せきおさはそれを知っているから何も言うわない。おかげで見楢はたいてい、この場所でひとり身体からだを動かしていられる。采斗は口やかましく皆との鍛練に加わるように言うが、うすうす気づいてはいるだろう。

「巡りゆく・・・か」

 尋ねようと思っていたことがあったのだが、その気が削がれてしまった。

 絋と壮年の伴部とのことで少し考えが変わった。気になっていることがあるのは確かだ。それを聞くつもりは少しもなかったのに。


 もしも、巡りゆくものが崩れていったときに、それを直せなくなることはあるのだろうか?


 見楢は己の分をわきまえているつもりだったのだ。できることとできないことがあって、いつかもし己にとりつけられた軛がはずれたなら己の役目つとめを果たすだけだ。

 軛ははずれないかもしれない。

 軛があるままなら、己は見楢として生きていられる。

 その刻まで、……その刻までは、偽りを生きる。

 そういうものだと、思ってきたのだ。

「誰も何もしなくても、巡るものは巡っていくんだろう。もしそうなら、俺にその役目つとめはきっと巡ってくる」

 そのときこの国は、この大地はどうなるのだろう?

 聞いたとしても教えてくれるはずはない。そして聞きだすだけのものが今の己にはない。

 それでも、尋ねてみようかと思ったのだ。

 本当は、己の朋輩とものことを尋ねようかと思っていた。

 絋が気にするから、気になっただけで。

 でももし、巡りゆくものがあるなら、もっと別の事を尋ねよう。

 尋ねることでまた何かが巡るなら、この「大地が生きるための巡り」に己が関わるのなら……。

 いつも火を熾している石組の上に、細い枯れ枝を重ねた。火切を使って熾した火種を少しずつ大きくしていく。

 火を熾すことは見楢にとって特別なことだった。煮焚のための火を熾すことも、こうして、「己のための火」を熾すのでも。

 それを、儀式のように感じている。

否、真実まこと、見楢にとっては儀式なのだった。

 ようやく落ち着いてきた小さな火にそっと息を吹きかけてさらに大きな火にする。

 そうしてから見楢は腰帯びた己の得物を手に取った。

 息を静め気持ちを静める。

 見つめた火に向かい、鎖鎌かまの刃を投げる。

 手元に残した柄を引くと刃が曲がるように戻ってくる。

 戻った鎖を手首に絡ませるように受けて。

 また火に刃を投げる……風を切るように。

 見る者があれば、俳優わざおぎ演舞まいかと思うだろう。

 舞うように、風を纏う。

 見楢が・・・風をおこしていく。

 その風が炎をおこす。

 やがて炎が俳優わざおぎの身の丈を越えようとするほどに大きく成る……。

 見楢は鎖鎌を納めた。

 己の身の内からつくりだした炎を見つめた。

 身の丈ほどに大きく成りながらも、静かに燃える。



 ふいに風が炎を巻くように熱く見楢にまとわりついた。

《・・・見楢? どうしたのです、珍しいことをする》

 風の声が聞こえてくる。

 否、見楢が、己の霊力ちからを注いで聞いている。

「そりゃぁ、いつもできることじゃない。姫巫女さまとは比べるなよ」

 だいたい、「風」が絋と壮年の伴部の声を運んできたのだろうに。その言いようにため息が出そうになった。

 見楢はずいぶん幼い頃に名受なうけしている。だがそれを知るのはごくわずか、見楢の父母だけである。

 生まれるとき、母は火の声を聞いた。

 名受なうけの年は七つ、風と火の霊力ちからをもって生まれる。

 ただその生はただの霊力者みこにあらず、隠れ巫王ふおうとして生きよ。

 隠れ巫王。

 霊力者みこの成り代わりのことだという。

 霊力者みこは転生を繰り返す。

 できるだけ他の霊力者ときのない時へと、新たに生を受け、名を受け、霊力者みことしてこの山間の国の民を支え、民に生を捧げる。

 その時々で、その霊力ちからをよく使える者が山間の国の首長おびととなるのだ。

 だが山間の国の首長おびととしての霊力者みこと、民のために生を捧ぐ一族としての霊力者みこは同じ考えではいられない。

 山間の国の首長としての霊力者みこが、民のために生を捧ぐ一族として、霊力ちからを使えなくなった時、隠れ巫王は霊力ちからを使う。

 その霊力ちからを民のために、大地を巡らせるために、使うのだ。

 見楢は火に名受なうけした。

 火群不見楢為影王ほむらみずならすかげみこという。

 見楢というのは通り名だ。

 その霊力ちからは秘せられねばならぬ。

 大事の折までその霊力ちからは軛を架せられる。

 軛が外れて初めてその霊力ちからをそのままに使うことのできるようになる。

 大事の折のほかに使えば、身体からだが蝕まれていく。

 身体を守るためにも、軛あるまま、秘めて生きよ。

 軛の外れる時、それは。

 明日香と那智の死のことだ。

 見楢はそれを望んでいない。だから軛あるまま生きている。

 軛が外れないなら、その霊力ちからはいらないのだ。秘せられたものは、ないものと同じだった。

 そのときまで、大事の折まで、見楢は、見楢として生きる。

 これほどの俳優わざおぎは他にない。

 火群不見楢為影王ほむらみずならすかげみことして生きることのないよう、ただ願っている。

 見楢に課せられた軛は金属かねだ。金属を身に帯びて己の霊力ちからをのせて、やっと小さな霊力ちからになる。火と風の声を聞いて、わずかなことを知るくらいには。

 今の見楢にはそれより大きなことはできない。いつか、軛の外れたら、明日香や水姫のように僅かに気持ちを凝らすだけで「使う」ことができるのだろう。

 ……そのときには、この山間の国に、他の霊力者みこはいないかもしれない。見楢は霊力者みこの成り代わりで、影王かげみこなのだから。

 父の榎生えのきうを押しきって、嗣子むすことして郷を支えるよりも兵士として、太刀や鎖鎌を帯びるようになったのは、きっと金属かねをいつも身に帯びることができるからだ。

 僅かな霊力ちからでも、太刀に霊力ちからを乗せて舞えば風になる。火を熾して風を吹かせば火がさらに燃える。

 そのうちに霊力ちからを乗せて舞うのに、太刀よりもくさりがいいと思った。

 はじめ太刀に鎖を工夫したが、櫨丈が鎌につけることを思いついた。

 徒手の手ほどきをうけた見楢は、太刀にこだわることはない。むしろ徒手と組み合わせて得手としたほうがよいのだろうと。それから櫨丈と見楢は、鎖鎌くさりで戦う手立てをいくつも案じてきたのだ。

 戦う手立ては、剣舞に通じる。 剣舞の動きを見楢は鎖鎌に取り入れた。

 より風を乗せられるように。

 より火が燃えるように。

 いつも声を聞くわけではない。それでも風も火も、見楢がそうやって僅かな軛ある霊力ちからを使えるように手立てを確かめていくことを咎めなかった。

 もともと燃える火を僅かに大きくするほどだけであれば、ここまでの手順は要らないのだ。

 だが、見楢は自ら、風と火の声を聞くためにずっと工夫してきた。

 そして見楢は風と火の声を聞くたびに、さらにその工夫を加えていく。

 だからつい、見楢の霊力ちからよりも大きなことをしてしまいたくなるのだと、風は言い訳したことがあった。

《まだ、二人はついていませんよ?》

「あーー話が早いな・・・なんで判ったのかは聞かないでおく」

 主紗と采斗の道行が気になっていた。それはお見通しだったのだろう。

 炎が大きく揺れて、火の中に二人の姿が映された。

《・・・采斗が先行しているようだな 御宮みあらかに近付けるのは夜明けのころだろう》

 今、山間の国でふたつの霊力ちからを持つのは見楢だけだ。先の首長おびとである水姫みずきは火も風も水も使ったが、見楢は風と火を使う。

 采斗が松明まつを持ち先行し、その松明の火を主紗が追っているのだろう。 松明を持ったまま駆けるのは難しいのだが、それを感じさせない。

《いつになく、霊力ちからを凝らしたな。身体からだはよいのか?》

「……いいんだ。鍛えているつもりだ」

 影王は軛が架せられている。霊力ちからを使いすぎると身体からだが蝕まれる。霊力ちから身体からだが負けないよう、見楢は気を付けているつもりだった。

《それほど、二人が気にかかるか》

「そうだな。それ以上に気にかかることはあるんだ」

 はじめは、二人の様子がわかればそれでいいと思っていた。だからこれほど霊力ちからを凝らすことを考えていなかったのだ。

 筆頭郷士いちのごうしである笙木の密使つかいとして主紗は邸宅やしきへ急ぐだろう。采斗はそれに随従するということになっているが。

 主紗が、まっすぐに自邸の笙木の元へ向かうとは思えなかったのだ。

 笙木の元へ向かえば、その後、動きにくくなる。主紗がかかえていることは、どんなことか見楢にはわからない。

 ……否、もしかしたら、わかっているのかもしれなかった。

 国を揺るがすこと。

 あるいは明日香にかかわること。

 そうでなければ、主紗があそこまでかたくなにはならないだろう。主紗にとって明日香を守ることは国を守ることだ。

 明日香の気持ちを守ることは、必ずしも国を守ることではないが、主紗の中で、その違いはきっとついていないだろう。だから、国を見据えた笙木よりも、明日香の元へ向かう。

 さあ、采斗はどうでるのだろう。采斗がどう動いても、おそらく何も変わらないし、きっと見楢が思ったようになる。

 それを確かめたくて、それをただ思っているよりも、見て聞くために霊力ちからを使うつもりだったのだ。

 だが、壮年の伴部と話して、少し考えを変えた。

 巡りゆくものは確かにあるのだと思えたから。



「なあ……風よ 今女首長めおびと殿は、民のために季節を巡らせて糺しておられるか? 大地を巡らせるようにできているのか?」

《……ほんとうに珍しいこと。日頃は影王として己をいらぬほど戒めるあなたが》

《風からは言いにくかろうな おまえは水をつかえぬし》

「なんでそこで水が出てくる? ……俺は聞きたいだけだ。少し気にかかることがある。季節の巡りがちぐはぐだろう? これほど旱で生活用水みずが減っても、女首長殿が雨雲を呼ばない……。はじめは理由わけがあるのだと思っていたが呼べぬわけでもあるのかよ?」

《見楢。明日香は季節を巡らせていますよ。名を持ってそれを行うから霊力者みこです》

「そうは思えない。俺はともかく、女首長めおびと殿に何か隠しだてでもしているんじゃないのか」

 己の軛をかせられたままの霊力ちからでは、見えぬものもあることを見楢は知っている。だが山間の国の女首長、霊力者みこが何も知らぬはずはない。

 季節の巡りがおかしいことはすぐにわかる。だから霊力者みこはその霊力ちからをもって糺す。糺すことができなくなった大地にかわって。

 だが、明日香が、何かを見ることができないとしたら? 霊力者みこは名受したもの以外でもつながることはできる。使えなくても、判るものはある。

 大地の生きるための巡りを、何も知らぬまま糺すことはできない。

 見楢は明日香が「何かを見ていない」のではないかと、気にかかっていた。

 だが明日香が女首長としてあるうちは、己が何かをすることはない。気に掛けつつも、そのまま何も聞こうとはしてこなかった。これまでは。

 やがて、話し始めたのは、見楢に名受させた火である。

《おまえは、水を感じることができるな? 見楢》

「あ、あぁ、それは・・・もちろん」

 水を感じるのは、今難しい。ただ、湿ったようにはっきりとは分からなくとも、傍にいるのだとわかる。

《今の明日香には、それがおまえよりも難しい。明日香は風から名受したが 水と仲違いしているようなものだ。風せいではないぞ、明日香が己でなしたことだ》

「・・・はぁ? なんだそれは。どういうことだよ」

《水の方が、風を拒んでいてな 言うことをきかぬ》

「あの奥津おきつのお姫さんと、女首長めおびと殿はケンカでもなさったかよ?」

《そうではない。あのイタズラ娘はよくやっているぞ。やりすぎを止める者もおらぬが……まあそれはよい》

「わけがわからない」

《おまえはそのうち気付くだろうな。見楢……軛がはずれるかも知れぬぞ》

「……そんなわけ……ないだろ?」

《いえ、見楢。今明日香が望んでいることがもしも。本当に明日香の望むとおりになれば、あなたの軛ははずれ、霊力ちからをふるうことになる》

 風が、まるで予め定められているかのように告げた。

《水のことは私の預かり知らぬこと。ですが火のいうことは間違いではありません。そしてあなたが影王として感じていることも、きっと間違いのないでしょう》

「おい待てよ……それは、本当に……」

 背筋を何か冷たいものが流れたような気がする。

 この大地の生きるための巡りが、狂い始めていてもう糺すことができないのではないかという……漠然とした惧れ。

 明日香が何もしないのではなく。

 もう糺すことができないのではないかということ。

 少し前からその考えは見楢の中にあった。でもあまりのことに、己の中で言葉にすらなっていなかったのに。

 それははっきりと見楢の中に刻み込まれた。……軛よりも重たい現実うつつ

「そうだとして……どうなる?」

 本当にそうだとしたら、見楢の軛が外れたら、それを見楢は糺すことができるのだろうか。できぬのだとしたら、この大地は……どうなってしまうのか。

《どうにもならぬ。今更、何かを変えることはできぬ。霊力ちからを預けても避けられぬことだというわけだ》

 それは遥か過去むかし

 大地の生きるための巡りが狂い始めた時に。自らを糺すことができなくなった時に。

 それを委ねるために。霊力ちからを名として預けた。

 幾度も起きたことをまた繰り返さぬようにと。

 それなのに。また、避けられぬ。繰り返される。そういうものだから、変わらない。

《見楢。今、ふたつの霊力ちからを持つのはあなただけです。その霊力ちからは確かにあなたのもので、ほかの誰かのものではありません。それをよく、覚えておきなさい》

「? あぁ……」

 いらえしながらも、見楢は上の空である。

 あまりのことに、何も考えられない。

 気付いても、知っていても、何もできなくなる。知ったからこそ、何もできないと思い知る。

《お前はそのままでよい。今までのように見楢でよい。そのときまでは、見楢として。……揺り戻しがあるものなのだ。今とは限らぬ。まだ幾度も季節を巡るやもしれぬ。行きつ戻りつ、少しずつ。大地が狂うとは、そうしたものだ》

「いつまで、この大地が巡るか、わからないんだな?」

《それがわかれば、我らは霊力ちからを、名を、与えぬ……。我らが狂えばわかることもわからぬ》

 確かにすべてが狂い始めているのだと、思い知る。火も風も、もう狂ってきているという覚えを持っているのだ。

「はは……まいったな。聞かなきゃよかった」

 見楢は座り込んで火を見つめた。やさしく風が見楢をつつむ

「なんでかな。火も風も、今までこんなに……。違うな、俺が聞かなかったんだ。聞いてもしかたないって思ってたから、聞かなかった。だから教えてもらえなかったことは、俺が悪い」

 何かが悪いということではないのだが、見楢は己を責めた。

 影王かげみこだから、と決め込んで。何も聞かなかった。

 聞いておけば、まだ何かができたかもしれない、何もできなかったかもしれない。

「主紗が来た時、水の気配りを感じたんだ。いつもよりも濃く……。あいつ、何か気付いたんだきっと。それで何かをするために、御宮みあらかに急ぐんだろう」

 だけど、どれだけ急いでももう。きっとできることはない……。

 否。見楢は、主紗のことをよく知っている。弟分だから、生まれてからずっと知っている。

「できることはすべてやって、やりつくすんだろうな、あいつ」

 主紗のやりたいこと、やれることはまだわからない。でも、それでもし己の霊力ちからがいるのであれば。そのために使っても構わない。たとえ身体が蝕まれても。

 どうせ、火も風も、大地の生きるための巡りも狂い始めているのだ。己の身が蝕まれたとしても、それでいい。

 見楢は己が凝らした霊力がおさまりきるまで、ずっと座り込んでいた。

 火に見守られて風につつまれて。

 いつもの「見楢」を取り戻すために……それだけの刻が要ったのだ。



 夜が明けようとしていた。紺碧の中に、淡く立ち昇る陽の光。

 するりと立ち上がり、弓を構える。

 仄かに……僅かに残った、凝らした己の霊力ちからを込める。風がそれに応えた。

 弓弦を鳴らす。

 平生を報せるための弓弦を。

 

 一度。

 ……二度。

 …………三度。

 風に音を乗せて。風の巫女姫、明日香に届くように。

 貴女の側近もとこ従者ずさが、戻るのをお迎えくださいと。


 しばらくその弓鳴の余韻を残し。

 そうしてから、懐から筆頭郷士からの指示書きと、その嗣子あての文書を取り出した。この文書を弟分に渡さずにいたのは当たりだった、と「見楢」は読み込んで己を褒めた。

 さて。「見楢」はどのように動くのが良いのだろう。

 ……どのように動いても、すべてが巡って行くのだから、何かに縛られることはもうない……。


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金色の輝きと空 真澄 涼 @masumi_RYOU

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