巡りゆく ~短 剣~
行き着く先に、
満たされる先に、
すべての崩壊が待っている。
そして、
それを越えて征こうとする者が居る。
風が柔らかく、頬を撫でていくのを感じた。その瞬きの間に、残された風の声。
……明日香は、待ち人の
夜明け前の紺碧の空の下。風避けの
己の
そう、この
だがそれは、その時は、……己の「意思」を決める時だ。きっとその時は近付いている。
母は正しい。姉と「ひとつ」となり、
薄闇に鳴る音がある。待ち人を報せる、この国の
ああ、ずっと待っていたのだ。待ち人は、必ず来る。
紺碧の空、
瞳からこぼれる者が頬を伝う。それは哀しみか、喜びか。
己の「意思」を、決めかねている。
それは、山間の国の明日香が、山端から昇り行く陽の光を眺めるよりも前の刻。
陽のすっかり落ちてからのこと。まだ昇る陽の光は、ずいぶん先のことになるだろう。
ひっそりと
今の彼は、ただの農夫であった。
農夫の一日は早い。朝日の昇る前、空の白む頃にはもう、起き出している。そして陽の落ちれば疲れ果てて眠る。彼ももう眠らなくてはならない。
こうした
ひとところに落ち着き、こうして畑を営むことなど、幼い頃に
だがその
郷で育ててくれた仮親と
それだけを己の胸に納めて。たびたび生国を離れて一人で動く。
頼る者もなく、己の
そして己を頼みとするのは、己だけではないことを知っている。
だからこそ必ず生きて戻る。
美しき己の生国。己の
山の向こうに、路の向こうに山間の国がある。
彼には、おそらく彼だけが知り得ていることがあった。
他に気付いている者があるかどうか、確かめようもないことである。
だがそれを己の主にを復命するにはまだ早いと思っていた。否、彼自身がまだその
この大地を流れる、数少ない小川。
山間の国をかすめるように流れ、海辺の国を横切り海にそそぐ。
旱の続き、水不足となったこの大地。
今、多くの者たちがこの小川の流れに命を委ねている。
だから、小川に「水の流れない刻」のあることなど、あってはならぬ。
陽のすっかり沈み、人影のなくなる頃。朝、空の白むよりも前までの間。
小川に水がなくなる。いや、わずかに小川に潜む
これほど己の
この海辺の国には定まった
幾人かの郷士が話し合い、国を動かしている。この
近隣の国々からすると、おかしな国だと思うのだが、その当人である海辺の国の郷士たちはおかしなことだと思っていない。
何よりもおかしなところはそれで国が困ることがないことだ。
国が小さいためだろうと、訳知りのように言う者もいて、それは確かにそうであるのかもしれなかった。
他の国でいうところの「
豊かな山の幸、海の幸がある。なのに人が増えないし、減らない。
国を営むものだと考える近隣の国々の
そのためか、この海辺の国には
彼は、窺見の間で知られた存在だった。彼の生国、山間の国にある数々の郷から放たれた窺見たちには、
主命あってこの海辺の国に留まり、
陽が落ちたものの、まだわずかにほのかな明るさが残る。星がまたたきだしていた。
海に沈む陽の光を、この国では金色の道と言った。輝きの向こうにさらに道があるのだと。
それは確かにそうなのだと、彼は、己の主に聞いて知っていた。星を頼りに海を渡るのだという。
山から海へと、辺りを見回しながら迷いなく歩く。今宵も誰にも会わずに目指す
もとより窺見が入ることを防ぐようには
そっと歩みを進め、この
気配を押し殺したまま
目指す
「
柔らかな言葉をかけられる。……こんなところは、己の
物音も忍びやかに、櫨丈は御簾の内へと滑り込んだ。
海辺の国の郷士、
一人酒を好むところもまた、……
では浦飾はと言えば、一人酒の
この数日は客人の
久々の宴があって、郷士の旦那方も、
……そのうちの幾人が気付いて、知っているのだろうか。
その客人の
郷士の旦那と父御の関わり。
客人の父御と漁人と女の関わり。
「
それらすべてが、糸がほどけぬまま、絡まったまま、ゆるやかに今に繋がってきたのかもしれなかった。
櫨丈もそれほど細やかに知っているわけではない。己の主はそれほど言葉の多い御仁ではないから。
ただ、窺見としてあちこちに出向き、そこで関わった者たちから聞き知ることと、わずかに主が言葉少なに話をしてくれたこと、そうして聞き知った中で……きっとこういうことなのだろうと、思える
そしてそれが、今に繋がった物語だったとしても、解きほぐしてよいものなのかどうか、繋がりに関わるわけではない己には分からずにいる。
だから、……浦飾が一人酒をしていたことに、驚くことはないし、一人酒をしながら、言葉を紡ぎ出したことを訝しんだのかもしれない。
櫨丈の、この海辺の国での役目は、浦飾の一人酒の相手ではないから。
山間の国の
笙木はこれを
どちらも担うには軽いものではない。
この
そのために、それぞれの国で、他の郷士たちにもその約定が伝えられ、守られることになった。
だが、約定はただそれだけのことではない。
窺見を放たない。
山間の国に枷が課せられた。
この窺見を放たないという約定があるから、海辺の国の他の郷士は丁を担うことを受けたのだ。
丁を山間の国から出したとすれば、大勢の山間の国の民が海辺の国に入ることになる。
どの国も、どの郷も、丁に窺見を紛れ込ませることは、手立てのひとつだった。だから丁を海辺の国から出すのであれば、山間の国は窺見を放たないというのは、おのずから、「窺見を放つ手立てが減るのだから、そのようになるものだ」というだけのことで、実はそれほど大仰なことではない。
だが、それを飲み込むことのできぬ御仁が、山間の国には思いのほか多いらしい。
窺見には、国が放つほかに、それぞれの郷が放つ者がある。それを放つなということは、他郷の営みに口を挟むことも同じで、いくら
だから笙木を先手を打っていた。
窺見を放たない約定に応じるが、代わりに「櫨丈を遣わす」と。
それで今、櫨丈は、浦飾の預かりとなっている。浦飾の元で、「山間の国の郷の窺見の動きを窺見している」のである。
他郷の窺見が海辺の国に入り込まないように見張るほかに、笙木と浦飾の間を
このことはすでに山間の国のそれぞれの郷の窺見たちの間にはすでに知れ渡っている。
山間の窺見で、櫨丈を知らぬ者はないし
窺見には窺見の繋がりがある。櫨丈の顔を立てて、皆、それぞれの郷への
もめごとがないわけでもないが、それをうまく収めよ、というのが笙木の命だった。
櫨丈は他国へ窺見として出入りするときには、その国に馴染むように「
櫨丈の足ならば、山間の国と海辺の国を半日ほどで行き来ができる。
時折、山間の国の笙木の元へ復命する。今日のところは、別の命を受けて
毎夜、浦飾の
常ならば浦飾は夜はあまり遅くならないうちに眠る。
否、浦飾でなくとも、海辺の郷士たちは皆、陽が沈むころには寝付いて、朝日の上がる頃には起き出す。
それで、陽のすっかり沈んだ今、明かりを灯していることには、意外に思った。そして一人酒をしていることには、ああらしいことだ、と思った。
……だが、その
「しばし、酒に付き合わないか、櫨丈。下戸ではないのだろう?」
山間の国の
女従者などと、どこかの
楓は、考え深いなどと思われているらしいのだが、きっとそうではない。この国の
先の女首長から、今の
だが、この
とりわけ、己の父がこの
御宮で顔を合わせることはこれまであったが、それは他の
だから遣いを受けたときに少しばかり訝り、それでも
……何か、外に漏らしてはならないような
彼女の……楓は、他の
父が気遣いを見せているというのに喜びよりもそうし訝りや疑いを思う。己は確かにこの
そうして、疑った通りに父は人払いの易い楓の
だから、明日香の側仕えであり女従者殿とまで呼ばれる楓は、「戦派」である父とこのところ顔を合わせないように気を付けていた。
郷に戻って父に会えば、明日香様への
いつもこの
幼い頃、父の
だが、当人である父、
楓はその
そんな父だから、「戦派」などと呼ばれるのは思いの内では苦く感じているだろう。
民が、民の
……「戦派」と呼ばれて己が感じるものよりも、皆が傷付くことが許せないだけで、きっと笙木と争うつもりはないのだろう。
そして、父は笙木の思うところも、知っている。
笙木が戦を厭うことを知っていてだがそれでも「戦派」と呼ばれている。
笙木の守りたいものも、稲佐の守りたいものも、明日香の守りたいものも、ただひとつ同じもの。
手立てが違いすぎて、互いに譲れない。
そのことに気付いているのは、もちろん楓だけではなくて、
気付いている素振りがあっても、楓も主紗も、それを敢えて口に出して話したりすることはない。
いずれ主紗は笙木を継ぐ。笙木に他に子はないから、
楓は郷の
稲佐には幾人か
考え方の曲がらない素直な采斗は、そのままの考えで育ち、兵士となるのだと、郷を飛び出している。
継嗣という立場と年頃を考えるのならば、もう少し郷のことを気に掛けてもよいはずなのだが、あまり郷に近寄らない。
そのことに思い当たり、楓は己と同じかと、おかしくなった。
采斗はまっすぐ過ぎるところがあるが、物事を任せるにの足りる頼みとなる従弟だ。
稲佐や叔父が、あまり采斗に郷に戻るように言わないのは、他の郷の子弟らと交わるように仕向けているからなのかもしれない。
主紗との
互いに認め合うものが、己に足りないものだと判っている。その
稲佐と、笙木の間にある
頼り過ぎない、だが頼りになる。支えあえる、寄りかからない。持ち寄ったもので補うことのできる、偏りのない間柄。
……本当の二人は、そんな
幼い頃に気付かなかった父の姿が見えるようになっってきたのは、己が
ふう、と声にならない吐息が漏れた。
暇をとったのだから、日頃はなかなか手のつかない縫物をまとめてやってしまおうかと思っていたのに。
人に会うことが多くてはかどらない、と己の物思いのせいだというのを、他のせいにする。
……幼い、遠き隣国からの
己にもそのような頃があったから、判る。
紛れもなく、背伸びをしているだけ、なのだ。
そして、稲佐の
「私は、父上の
山間の国の女従者殿が、月を見上げて物思いを巡らす頃。
海辺の国の浜、星空と波音の間で、沖を見ていた。
この国に少し前にから流れてきた巫女様と、そのもっと前に流れてきた巫女様の傍らにある女。
巫女様はなんでも見透かしておられるように感じて、それで遠波は何も言えない。
女には何の咎めもあるわけではないのだが、それでも女が流れてきた、そのときのことで己をまだ責めているのだろうか。
……数日前に流れてきて、あっという間に去っていった男がいた。
その男を見て、女が何を思ったのかを推しはかろうとして、遠波は柄にもなく浜に一人、沖を見ていた。
「誰も悪くないし誰のせいでもないよなぁ」
遠波はそう思っている。
だが、周りはそうは思っていないのだろう。
そう遠波は呟いた。
この名を知る者はあまりない。だがこの名を持つ男のことは、皆まだ覚えているだろう。
とりわけ忘れずにいるのが、
この数日、遠波はそれを思い知らされたのだった。
笠耶と遠波の間の、おかしな隔たりは、
「そんなんじゃねぇんだよ、そんなんじゃ……」
今更、男と女の仲だから、で済ませられる間柄ではない。
それよりももっと奥深く、澱が沈むようにわだかまる出来事。それを皆、忘れているのだろうか。
否、忘れていない。拘っていないのだろう。
拘っているのは己であり、笠耶の想いだ。
いっそ、男と女の仲のこと、であればもっと事や易いのだが、この年になっても遠波には
笠耶のことがあるから、皆、遠波に女をあてがうようなことをしないのだ。
遠波は、己に軛をかけている。
そして、その軛を外そうともがくこともない。
もう二十たびは季節の巡りを繰り返した、
はあ、と似合いもしないため息がついて出た。
己は、己の父親に似てきているのだろうか?
季節の経るごとにおぼろげとなったその面影を、己の胸の内に思い描こうとして、だがその面影はやはりはっきりとしたものにはならなかった。
遠波は沖に出る手立てと、その沖の……金色の輝きの先に続く、海の路のさらに向こうに渡る手立ても知っている。
おそらくは己の
その海の路の向こうにあるものを、わずかながらに知っていた。
遠波の父はそれを知らずにこの海で命を落としたが、遠波にそれを知るための手掛かりを残したのだ。
一人の若者と、小女と言える年端のいかぬ幼子。
この海の向こうから、金色の路を渡ってきた者たちがいる。
「静かな夜だ」
それはこれからの
櫨丈には浦飾の考えは読めない。
わずかな塩と
浦飾に伝えていないことでも、己の主である笙木には伝えていたりすることがある。それと同じで、どちらにも伝えていないこともある。
そうしたことも浦飾はすべて飲み込んでいて、それでも度を越した命を下すことはない。
櫨丈から見た浦飾はよくできた御仁で、だから今こうして何かを決めかねるような、
だがこの国はおかしなことが多いものだから、己の考えだけで物事を量らぬ方が良いのだと櫨丈は心得ていた。
そのようなことをつらつら思っては見ても、今この
「山間と海辺を半日で行き来するか……。この
これからいろいろな気苦労が増えることを知りながら、そんなことを言う。
「
ふふ、と忍び笑いがどちらともなく漏れてしまう。
「そうさな、だがひとつ減ったところで、増えるのであればさほど変わるまいよ。姫が、若君にお会いになるとは、思いもせぬだろう」
櫨丈には、それが笠耶と主紗のことなのだと、話ぶりから判った。
だが、浦飾が笠耶を姫と呼ぶ
浦飾は、笙木の昔馴染みの友とも言える間柄だ。だが笙木はもともと、山間の国を生国としているわけではない。
……そのあたりのことは、わずかだが櫨丈は知っていはいるのだが主から直に聞いていることではなかった。
だが浦飾は櫨丈の知らぬ笙木を、友として、また隣国の郷士として知っているのだろう。
櫨丈の立場では相槌するほかないことで、浦飾がこの上、話をしようと思うのであれば、それは
そうした話の中身というものは、聞いてしまうとあとでその国を出入りするのに難儀する。そう櫨丈は身がまえたのだが。
浦飾は苦く笑った。
「……
浦飾には定まった妻女がない。
そして、そのあたりの
まぁ付き合うがいい、と浦飾は櫨丈の杯に酒を注いだ。
「もう二十たびほども季節が巡っただろう。だが今にまだ
さすがに浦飾から紗鳴の名が出ると、櫨丈は息をのんだ。
櫨丈の知る限り、もともと紗鳴は浦飾に嫁ぐことになっていたのだという。
その出会いの場を作るために、紗鳴の父である、
紗鳴が浦飾をどのように思っていたのかはわからない。
また、笙木がどのようにして紗鳴の気持ちを手に入れたのかはわからない。
海辺の国への
「櫨丈よ、私は巫女様のように
何か
櫨丈はゆったりと杯を口に運んだ。
「だが、今判っている、今を推し量ったことだけで動くことは避けたほうがよかろう。国も郷も、区切りとして
浦飾の言わんとしていることが、なんとなくだが、捉えられたように思われた。
だからそのまま、浦飾の
ひとつ頷き、
「浦飾様の仰せのことは、今はこの櫨丈の胸の内に収めておきましょう。
柔らかい吐息が聞こえて、わずかに浦飾が笑んだのを知る。
「笙木がお前を窺見として動かす
どこかで聞いた言葉に、引き抜きの意味を見出して、苦く笑いかえす櫨丈である。
この海は、父を奪った。
その
まだ己が幼い頃のままなのかもしれない。
あの日のことは覚えている。だが、思い出さないようにしている。
遠波の父、
巌がいくつも積み重なる岩場はこの浜の湾となり、この岩場の向こうは
外海は、
遠目の利く遠波は、
外海から来た見慣れない形の舟が、波の間に呑まれていくのを。
あの刻とは較べものにならない静かな波音が、場違いのように耳を通り抜けて行った。
「
外海の沖でも頭だったが、
それがまだ幼子であった遠波には自慢で、今では重荷かもしれぬ。何やら煮え切らぬ重いものを抱えたまま、今になってしまった。
……嵐が来ることが判ることがある。山間の
あの時、
この国には山間の国のような
空はまだ青く、だがどんどん風が強くなっていく。
雲の固まりが次々と走る。波はすでに波頭が崩れて白く飛沫をあげている。
郷士らは、
潮の満ちる刻に野分の嵐が重なれば、海に近い
波に
そして、
……いつの頃からの
もちろんひどい嵐であれば、篝火など見ておくことはできぬ。だから焚いた炎が落ち着いたなら、あとは時折様子を遠くから見に行くくらいのことだ。
男衆を仕切っていたのは来凪だから、まだ幼子だった遠波は、水城の女たちの手伝いではなく、水城へ集まりだした
主だった郷士らは集まり
すでに雨が降り始めていた。風も、先ほどからずいぶんと強い。潮の満ちるのはあと少しだろう。
そろそろ郷士の皆も、水城の御館に移ろうかという頃だったように、浦飾は覚えている。
その
だから遠波の雨けぶる姿が見えた時には、女たちから、郷士らの入る
その考えははずれた。
遠波の
「どうしたのだ、遠波。冷えるか」
息せきって駆け寄ってきた遠波に、浦飾は声をかけた。走りとおしできたのだろう、すぐに遠波は声も出せなかった。
「もう雨も風も強い。お前もそろそろ水城へ移れ」
遠波はふるふると大きく首を振った。髪から雫が飛んで、獣が水滴を身体を震わせて振い落しているようだと、暢気にも思った。
「違う、俺は、
「うん?」
「誰か、誰でもいいから、郷士さまを、お連れするようにって……!」
「言いつけたのは来凪か? 何かあったのか」
張り詰めた様子に、ただならぬことがあったのだと気付く。
誰でもいい? どういうことだ。今は皆ほかの郷士は
「いいから! 急いで! お願い! しますっ!」
つまりは己でいいのかと、浦飾は考えて、頷いた。
浦飾はまだその頃は、……そう、今の主紗とさほど変わらない本当に年若い頃だったから、郷士と
遠波はそれを賢くも感じ取っていたのだろう。そのせいか、日頃から遠波はあまり浦飾に慮ることがなく……それは今にも続いている。
遠波は浦飾の腕を思い切りひっぱり、走り始めた。
だがそれは幼子の足で、走っても浦飾よりも遅い。ただならぬことが起きているのだと感じ取った浦飾は、遠波を置いて先に走ることを決める。
「どこに走ればいい、遠波?」
「海へ、岩場に!」
岩場では、
「先に行く、あとから来い」
風の強くなった雨の中を、駆ける足を速めた。……今から思えば、このときに遠波に水城へ行けと命じるべきだったかもしれない。だが、まだ年若い浦飾にはそのことに思い至らなかったのだ。
砂に足を取られても、さすがに幼子の足よりは早い。岩場に、焚かれたばかりの
「何か、あったのか!?」
浦飾は叫んで問うと、見知った
「浦飾さま!」
指差されたその先、外海に見えたもの。
それをなんと呼ぶのか、そのときの浦飾は知らなかった。
あとから、笙木に教えられたのだ。
「
聞いたことのなく、思わず櫨丈はつぶやいた。浦飾の
浦飾は不快に思うでもなく、三角帆の舟を
「
海辺の国で
舟に柱を立て、三角の布を張って風を受ける。風の力で進む。
外海というものは、人手だけでは漕ぎ切れぬ。
大きなものは何十人と乗込む、鯨のような
「三角帆の舟というものは造ることも、操ることも易く敵うことではないという。だが、この舟は小さな物でも、外海を渡り切り、
漁するための舟ではない。
風を受け、潮に乗る。星と波を見て、
そうした舟があるのだと、これまでこの海辺の国を
だが、そうした舟で、この海辺の国を
このときまでは。
「だが、この三角帆の舟というものは、風が強すぎると帆や柱によくない。野分はいちばん、避けるものなのだという」
三角帆の舟は、長く大海を渡ってきた。この野分の大風を避けることはできたのだという。だが、この
そうして、舟が傷んでしまった。
傷んだ舟を、それでもできるだけ
兎が跳ねる、という。
波がうねり、飛沫が跳ねる。
波がぶつかりあい、潮が跳ねて波の上を飛ぶのだ……兎のように。
その波が岩場の巌にぶつかり、大きな飛沫を作る。雨が降り始めているが、まだ大雨、というでもない。
本当は、郷士の誰かに
それでも浦飾のだんなに伝えて、それだけで己の役目が終わりだなんて思わなかった。
その少し前から、
浦飾の旦那に
岩場に追いついて、それは幸いだったのか、皆
跳ねる波間に、見慣れない……だが傷んだ舟が微かに見える。
こちらから舟を出すかどうか、
ここにいる者は皆、海辺の国の男たちで、外海で漁する。遠目の利く者ばかりだ。だから舟を出しても間に合わないほどその見慣れぬ舟が傷んでいることがすぐに判った。それでも迷うのは、舟に縋りつくように見える、幼い小女と、若者。
その若者が、この岩場の
舟を置いて泳ぎ出すことができずにいるのは、幼い小女のためだろう。
だが、耐えきれなかったのか、小女は
舟を棄てて、荒れる海に飛び込んだのだ。
二人は互いを綱で繋いでいたらしい。だから小女を抱えて若者が波間から顔を上げたのはすぐのことだった。
だがその綱は舟にも繋いであったことに、皆気付いた。
このままでは棄てた舟が沈むのに、二人が巻き込ままれる……。
「……来凪は本当によい頭だったのだ。人柄も含めて。その二人を見捨てることなど、考えられないだろう。皆止めることができなかったし、止めたいとは思わなかった。それに、来凪ならなんとかするだろうと、思えた。そう、思わせる男だった」
せりあがる波は次の瞬きの内に一気に下がる。高波の飛沫で見えなくなる。
篝火の炎がさらに大きくなるように、燃えやすい酒を染み込ませた布を加えて、炭を足す。そして波がかぶりにくいように、皆で篝火の前に並んだ。
「遠波に下がれと言ったのだが、あれの父親のことだ。見るなとは言えまいよ」
来凪は荒れる海でも泳ぎ切ることのできる。否、海辺の国の者ならば、誰も多少の波に臆することはない。
そして
綱や網が己の身体に絡まることはいつでも在り得るから。
己の身を守るための短剣を、もちろん来凪はこの時も身に付けていた。
その短剣を二人のために使おうと、荒れる海に飛び込んだ。
長く、短く感じる間。幾度も海からの波しぶきを浴びた。その間に、来凪は二人に近付いた。
傷んだ舟も、高波の間に微かに見える二人も、かなり
だが確かに来凪は傷んだ舟にとりつき、綱を短剣で切ったのだろう。
傷んだ舟の方が、波に耐えられなかったのだろう。
そして、来凪は、舟を離れるのに遅れたのだろう。
若者も小女を抱えたままでは来凪に手を伸ばし切れなかったのだろう。
たとえ手を伸ばしても、己が沈む舟に巻き込まれてしまうかもしれなかっただろう。
だが、一度は、来凪の腕に届いたらしかった。
その見慣れぬ形の舟は、浦飾のいる岩場からは見えなくなった。傾いていたところに波をかぶり、そのまま沈んだようだ。
若者もまた、海の男で、荒れる海を泳ぎ切ることのできた。少女を抱えたまま。
口に、短剣をくわえて。
来凪の短剣だ。
来凪の姿は見えなくなった。
それきりだった。
飛沫があがった。
己の前には、
そして荒れる
うねる波。
せりあがる。
潮が波から飛び出して、兎が跳ねるように。
波が下がって、そのときだけ微かに見えた。
見慣れぬ舟が、波間に傾いて。
すでに波がかぶったのだろう、舟底が上になっていた。
投げ出された幼子。
己よりも小さい。
その小女を抱えて男がもがいていた。
その舟から離れようと。
遠波は舟を沈ませたことはない。
だが、沈みそうになったら舟から離れることを、すでに知っている年頃だった。
小さな舟ならばそれに縋るほうがよいという。
その見慣れぬ舟は、縋るには沈むことに巻き込まれることを恐れるほどの大きさがある。
また波がうねってせりあがり、兎の跳ねる。
まだ幼い己には、
だが己の父が、その見慣れぬ舟に躍りかかったのは見えたのだ。
そして、一度潜る。荒れた海の中へ。
若い男が何かを手繰り寄せるような動きをして。
……
来凪の姿が見えなくなった。
手が何かを掴むように。
そして波に呑まれていった。
すぐに顔を出すだろうと思った。
己の父は波の荒れる
だが、それきりだった。
それきり、父は、来凪は戻らなかった。
この海は、嵐の海は、己から父を奪った。
ただそれだけで、それの他、何もないのだが。
まだ幼子だった己の中に、深く刻まれてしまったのだ。どうしても振り払うことのできない、
誰が悪いわけでもないことだが、なぜ己はまだ幼子だったのだろうかと、己が
だが今の己がそのときに岩場に居たとしても、同じことになるのかも知れなかった。
きっと親父殿は、二人を繋いでいた綱を
今の己が、親父殿よりもうまく、事を進ませることができるとも思えないのだ。
目の前に相手がいるわけではない。親父殿がいないということは、それを確かめる
今の己ができることは、親父殿にできるだろう。
だが、親父殿にできたことが、今の己にできるのか、この長い刻の隔たりのために、推し量ることもできない。
そのことを、笠耶を見ていたら、ふと思うことがあるのだった。
己には、笠耶を救うことはできぬのだと。そして、まだ己は親父殿に並ぶこともできておらぬのだと。
そんなふうに思うことは、実は己を縛るだけで、軛のかかった子牛と同じだ。己でかけた枷を、己で絡ませてもがいているだけなのだ。
己はあの頃の幼子のまま、何も変わっていないのかも知れない。それを否応なく、笠耶を見ることで思い知る。
とりわけ笠耶が
「忘れるはずもないのに、忘れろとも言えるわけがないよな」
何しろ、己が忘れることができていないのだから。
だからこそ、
見上げた星空の川の中から、流れる星があった。
いつかの
だが、今の遠波には、己がどんな願いを抱いているのかすら、言葉という形にできずにいるのだ。
「……浦飾様は、その野分の嵐での取りまとめのお働きで、海辺の郷士の方々の間での言葉の力を高めることになったのだと、聞き及んでおります」
櫨丈がそう言葉を紡いだのは、他に何も言えなかったからだ。
浦飾は舐めるように飲んでいた杯を、口から離した。
「まだ若かったのだ。そうだな、十八というところか。一人前というには若いが、独り立ちできぬ年頃でもない。だが、確かにそのころから親父殿も一族の皆も、少しは任せてくれるようにはなった。だが、それでも」
まだ幼い小女をつれて、
大風は二日ほど続いた。潮の満ちるのに風が重なり、集落も、郷士の御館も、わずかな郷の邑も、荒れてしまった。苫宅は飛ばされ流されて、舟も傷付いていた。
水城の周りは林で木が風避けになるから、
「だが、そこにいつまでもいるわけにもいかぬからな。年嵩の郷士らは郷と邑を、私は集落と浜をまとめた。……来凪がおらんでは、皆、動きにくくなる。郷士は皆それを分かっていたから、誰でもいいから、ひとり郷士をしばらく置いておくことにしたのだろう」
ふた月ほどは、水城と、造り始めた集落と郷の御館とを行き来していた。
その間、岩場を見ると、遠波が沖を、外海を眺めていた。
「集落の者は誰も何も言ってやれなかったな。いや、集落の者も来凪が居ないことで、何事もうまくできなくてな。頭がいないことに慣れないうちは、何をするにも時がかかった。平生を取り戻すことばかりで、遠波のことを気に掛けても、してやれることがなかった」
遠波は心をそこに、その時に残したままなのだ。
「その後、……
「櫨丈、お前の思う通りだな。男は名を変えて、山間に向かった。小女はここで育った」
櫨丈は、
「……
くく、と浦飾は低く笑った。
「ずいぶん言葉を選んだな。この浦飾に気を使ったか、それとも、お前の総領殿にか? ……そうだな、笙木は己の出自を、己から話すことはしないだろう。途方もなく遠く
見舞いにかこつけて、前紗郷総領、
紗霧が笙木を見出したのが先なのか、紗鳴が笙木に出会ったのが先なのか、それはわからない。
だが、客人として海辺の国にあった笙木が、その後山間の国へ向かったのは確かなことなのだ。
では笙木は海辺の国を
それを知る者に、櫨丈は出会ったことはない。
笙木自身は強いて話したことはない。
紗鳴と山間の国で生きるために、他のすべてを捨てたのだろうと、勝手に思っていたのだが、やむにやまれず、その生国を棄てて、この海辺の国に辿りついたのだろうか。
「櫨丈、たまには推し量るだけではなく、聞いてみないか?」
虚をつかれたように櫨丈は顔を上げた。
「私はこの海辺の国の郷士だから、
……今は
敵わないと、思った。浦飾が酒に付き合えと言ったのは、櫨丈が、窺見としてこの国にあるためだ。
そして己の主人と、やはり似ているのだと思えた。
だから、つい、思わず己の
「浦飾さまが総領殿に似ておられるのは、その野分のときからの長い付き合いのためでしょう?」
浦飾は渋い顔をして苦く笑う。
「似ているか? 奴に似ているなど、考えたくないな。だが、付き合いは長くなったな。もう二十も年を数えるだろう。これまであまり想うことはなかったが……奴の嗣子があれほど大きくなるところを見るとな。ちょうど、奴が、この国に来たのも、あのくらいの年頃だった」
だから、笠耶はあれに、揮尚と
「……なぜ、二人はこの海辺の国へ?
海の向こうに、金色の路がある。
海のある国には、たいていこうした話が伝わっている。
だが、
山間の国は山に囲まれているが、海辺の国のように、
そうした国は海を
ほかの手立てで国を行き来することができるようにと造られたのが、
たいていの国は、この海辺の国のように広い浜がない。巌の続く、切り立った
それを防ぐために陸に上がるとその国の
岩場の少なく、集落も浜辺にあり、海岸がほとんど浜辺になっている海辺の国では、海からの
だが、切り立った絶壁となった
人目につかないのであれば、旅旌がなくともよい。
人の行き来は、国をまとめるために要ることだから、どの国も、海岸に
勝手に陸に上がる者を見定めるためだ。
こうした国からすると、海辺の国は、おかしな国だと言うだろう。
そう、確かにおかしな国なのだ。
窺見としてこの陸にある国を見てきた
野分の近付くその日、
そして遠波に、郷士を誰か呼んでくるように言いつけた。それは旅旌の
だが、
海の向こう、ほとんど幼子に話す夜語りに言う
それが本当にあるということは
金色の海の路の向こうに確かにある国などと。
浦飾は、
櫨丈は思いながら耳を傾けていた。
ただの
「笙木は話したいとは思わないだろうな。だが、来たばかりのころは、話していた。
それをよく憶えている……。話さなくてはならなかったのだろうな、あの時には」
二人は水城の御館に運ばれたのだが、その後ほとんど、御館からの出入りを禁じられた。
二人の話す言葉が、そもそもが違っていた。
「笙木は、少しだが話せたよ。だが、姫は少しも言葉がわからなかった」
その国の名前は聞いたように思うのだが、浦飾は忘れてしまっていた。
だが、笙木が教えてくれたことをたくさん覚えている。
あまりに、この海辺の国と違いすぎた。
あまりに、この
だから、本当に
この海辺の国に来る前には、大洋にいくつもある「島」を渡ってきたのだという。
そして、この陸も、島のひとつだというのだが、島にしてはずいぶん大きなものらしい。
「最後」に出た島に、この陸の者がいたという。
その者は
そのまま潮の流れに乗って、辿りついた先で、新しく
その者から笙木は言葉を学んだ。
その島には、数年に一度、こうした者がいるという。潮に流されてくる、言葉の違う者。
島からこの陸には、潮の流れの
幾人もが、この陸を確かめようと沖に舟を出した。だが、戻ってくる者はない。
行き来がないから、そのままその者がどうなったのか、島から知る手立てはなかっただろう。
少なくとも浦飾は、こうした「島」から来たという者がいる、という話を耳にしたことはない。
いるのかもしれないのだが、
ただ、
だから、古老もしらぬ
だがそれよりも確かに、笙木が大海を渡ってきた、ということのほうが間違いなく
行き来の難しいほど遠く
言葉の違うのは行き来がないからだ。 互いの意思を伝えることのなかったのであれば、言葉が違うのは頷ける。
そして、行き来が難しいけれども、行くことができることが、笙木の
潮の流れに負けない強さの舟、そして時には潮に逆らうように風を受けて、あるいは風を切るように、帆を操る。
舵も櫂も、自在にできるように。
そして星を見て波を見て向きをはかりながら進む。
それだけの
二人を御館に招いてから、とにかく慌ただしかった。
来凪のこともあったのだが、皆、水城に移ってきたばかりだった。
他の郷士らに
年嵩の郷士らや親父殿は、己の家人や邑人の世話でそればかりにかまけていることはできなかったから、浦飾が相手をすることが多くなる。
海辺の
野分は二日ほどで去ったのだが、浦飾がその後、集落のことと水城の後始末などを任されたのは、いちばん、笙木と話をしていたからだと思う。
笙木が話せる言葉を、少しずつ、じっくり聞くのは、なかなか時のかかることだった。
だから、傍らにいることが多くなる。
そのまま、笙木の傍らにいながら、集落のことを取り計らうのが、いちばん手間がかからなくてよいだろうということのようだった。
笙木のほうも、浦飾やその周りの
笙木は、島を
大きな
とてつもなく大きな陸で、多くの人が住む。
「
その「揮」を代々になっていたから、その名に冠するようになった。
笙木の元の名は、
その
山間の国の
長い
家人や尚家、父親の行方も分からぬまま、伝手を頼りに、王都へ向かったのだ。
その王都で、
海辺の国に来たばかりの把栩では言葉で伝えられない細やかなことがあったようなのだが、言葉が自在になってからの笙木は、このことをほとんど話さなくなってしまった。
だから、浦飾は、把栩にとってとても苦しいことがあって、それから逃れてきたのだろうと思っている。
ただひとつ、この陸にない言葉で、「革命」というのだと、言っていたのを覚えている。
その王都で、把栩は姫と出会った。
把栩の生国の、その生国を棄てた
揮尚の若君は皇女をかかえ、
ある島で、把栩は生国が戦で荒れて、皇女を追うどころではないことを
それで、
把栩にはかねてからの望みがあったのだという。
伊都を束ねる尚家の若君、揮尚の若君としては行けないどこか。
言葉も通じぬ、行き来のできるかどうかも怪しい陸。
尚家としての責を負ったままではできないこと。
己一人で、陸に向かう。大海を渡って、この陸を探す。
その望みを、今なら叶えることができようと。
この陸から流されたという
生国から、己と皇女をのせて大海を渡った三角帆の舟。この舟に、荷を詰め込んで、海にひとり、漕ぎ出でた……はずだった。
幼くして
気付いたのはすでに
戻ろうと思えば、戻れたのだ。
だが、小さき人の願いを揮尚の若君は、拒むことができなかった。
この陸から流されたという者の話を頼りに星影でおよその場所を考えていたというのだが、ずいぶんと島影を見つけるのに日数のかかったという。
二十日ほど経った頃、ようやく島影らしきものを見つけて、これで皇女を、成すすべなく死なせるようなことにならずにすんだと、胸の奥から思ったのだと。
だが、風向きも強さも、間の悪い。
野分が湧き起こって、この陸の方へ向かっているのも分かった。
これだけの大風であれば、
だが、この風をさけて、島影をもし見失ってしまったならば、数日は大洋を漂うことになる。
すでに二十日も大洋を走っている舟の上、それまで数日おきに島伝いの
……このために、来凪は、……。
把栩は己の過ちを悔いていた。遠波に掛ける言葉もないのだと。来凪に手を伸ばしたのだが、掴み切れず、助けられなかった。
把栩の手に、
来凪が、短剣を渡そうとしたのか、それとも、……言葉がうまく聞き取れなかった。
来凪にも綱が絡まって、それを切るように言われたのか。
それとも、短剣を誰かに渡してほしいということだったのか。
少しでも手を長く伸ばすために、とっさに短剣を向けたのか。
生国から二人をこの陸まで連れてきた三角帆の舟は、もう浮かぶ力もなかった。
その沈む勢いに、来凪は巻き込まれたようだが、把栩も、それを最後まで見ていることができなかった。
皇女をかかえて、泳ぎ切らなければなかったから。
手に残った短剣を口にくわえて、岩場の
この陸の周りには、島はないだろうという。
いくつか
この島影を見つける少し前に、岩礁に舟の底を少しだけ擦ってしまっていた。おそらくその擦ったところから裂けてしまったのだろう。
把栩が言葉を探しながら語るものは、浦飾にとってそれほど益のあるものではなかったが、ただいつまでも聞いていたい、いくらでも話してほしいと思うものだった。
他の郷士や皆に事訳せねばならぬのだ、と言って、いくらでも聞き出した。
もっとも、あとから実はただ聞きたかったのだということに気付かれてからは、呆れてあまり話してくれなくなったのだが。
水城の御館の居室で、把栩は姫に上座を設えた。
だが、姫は把栩の側を離れようとしなかった。
言葉のわからぬことが、小女には、恐ろしかったのだろう。
姫にはその生国で賜ったという
この陸でいう姫、にとても近い言葉らしい。
だから浦飾も姫、と呼ぶようになった。
姫は、把栩のことを「揮尚」と呼んだ。
姫も少しずつ、言葉を覚えた。もとより幼いほうが憶えのよいのだという。把栩はほかにも、いくつも言葉を操るというのだが、もうほかの言葉は使わないだろうと言った。
それは、海辺の国でこの先も暮らして戻るつもりがない、ということのように感じられて、浦飾はそれ以上聞けなかった。
「浦飾殿。この国では、名というものがとても
「……そうだ。名乗って、互いを知ることは、互いを己のこととも思うことと同じだ」
「それは、国や人と繋がりを持つということなのか」
浦飾は少し考えた。名を知る者は、己の名も、相手の名も知ることになる。
「そうだな。そういうことだ」
今度は把栩が考えながら言う。
「名を呼ぶことが要であるのならば、私は名を捨てるつもりだ」
把栩の事訳では、把栩と姫の生国では、名を呼ぶよりも、
名前を使うことは相手を敬うのならば好ましくないものだ、ということだと浦飾は理解した。
ずいぶん考え方が違うのだが、異国には違うことばかりだから、それをひとつずつ考え込んでいては話が進まないことを、すでに浦飾は学んでいた。
把栩が姫を「
「……揮尚というのは父のことで、私の
姫には、揮尚の若君、というのは難しかったらしく、いつの間にか、揮尚、となったという。
「尚把栩というこの名だが、この名に思いを重ねては、この国で生きるのに、よくない」
まだ、言葉を多く話せない把栩が考えて区切りながら話すことを、浦飾は翻って考えなおした。
「この国で生きるのにふさわしい名を名乗りたい、というのだな」
しっかりと強い意思の目で、把栩は頷いた。
「こちらの言葉で言いやすい名を考えるつもりだ」
それから、どうしてその名となったのかわからないのだが、数日を経て、把栩は笙木になったし、姫は笠耶になった。
浦飾はそれを郷士らの合議で伝えた。そして二人は水城の御館の出入りが自在になった。
笙木は御館から出入りができるようになってすぐに、海辺の国の景色を確めて、岩場に遠波がたたずむのに気付いたのだ。
遠波が、来凪の子であることをすでに誰かに聞いていたのだろう。
あの短剣を遠波に手渡そうとしたのだが、遠波は受取らなかった。
「だがな、櫨丈。遠波は驚いていると思うぞ。こんなかたちで、あの短剣が目の前に現れたからな」
笑い含みに浦飾が言うことを、櫨丈はいたく同じ気持ちで聞いた。
笙木の嗣子、主紗が腰に差していたのは、来凪の短剣だったのだ。
……かつて波を越えて巡りきた者がいる。
それらが静かに、また巡りゆこうとしてゆくのを、波が聞き、月が見下ろす。
ただ気付くのは、通り過ぎてからのことであるらしい。
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