巡りゆく ~短 剣~

 行き着く先に、

 満たされる先に、


 すべての崩壊が待っている。


 そして、

 それを越えて征こうとする者が居る。



 風が柔らかく、頬を撫でていくのを感じた。その瞬きの間に、残された風の声。

 ……明日香は、待ち人の帰還かえりを知った。

 夜明け前の紺碧の空の下。風避けのおすいをかぶりなおして、連なる山々の切れ目の先を望む。わずか一点の瑠璃色の海。

 己の側近もとこ従者ずさの帰還に想いを馳せて、本当に待っているのは……側近の従者でないのだと思い直す。

 そう、この山間やまあいの国の女首長めおびと、このおか近隣まわりの国々の同盟きずなとして在る霊力者みこは……、明日香あすかは、己の姉の帰還を待っている。

 だがそれは、その時は、……己の「意思」を決める時だ。きっとその時は近付いている。

 母は正しい。姉と「ひとつ」となり、霊力ちからを合わせれば、雨を呼ぶことができるだろう。

 薄闇に鳴る音がある。待ち人を報せる、この国のはたてからの弓弦の音。風がそれをさやかに、ひっそりと耳元に残して置いていった。

 ああ、ずっと待っていたのだ。待ち人は、必ず来る。

 紺碧の空、山端やまのは、薄く広がり渡っていく陽の光。

 瞳からこぼれる者が頬を伝う。それは哀しみか、喜びか。

 己の「意思」を、決めかねている。



 それは、山間の国の明日香が、山端から昇り行く陽の光を眺めるよりも前の刻。

 陽のすっかり落ちてからのこと。まだ昇る陽の光は、ずいぶん先のことになるだろう。

 ひっそりと臥処ふしどを抜け出す者がある。

今の彼は、ただの農夫であった。労役えだちとして割り当てられた、この己の生国とは較べるべくもない僅かな畑を耕している。

 農夫の一日は早い。朝日の昇る前、空の白む頃にはもう、起き出している。そして陽の落ちれば疲れ果てて眠る。彼ももう眠らなくてはならない。身体からだを休ませて朝に備えなくてはならないのだ。

 こうした平生くらしは彼にとっては珍らかなこと。

 ひとところに落ち着き、こうして畑を営むことなど、幼い頃に仮親かりおやと暮らした頃から久しく絶えてなかった。

 正丁おとなとなり……労役えだちに衛士として出て、そこで徒手むて技術わざを身に付け認められ、そうして今の己があった。

 だがその技術わざをふるうことはあまりない。否、ないほうがよいのだ。もし徒手の技術わざを、鍛練の他に顕すことがあるとすれば、己の役目を果たし損ねる恐れのある時だ。それは決して許されない。

 郷で育ててくれた仮親と一族うから、そして里長さとおやにも総領このかみ殿に益のないことをもたらすようなことは決してあらぬように。

 それだけを己の胸に納めて。たびたび生国を離れて一人で動く。

 頼る者もなく、己の能力ちからを頼みとするだけの場所ところで。

 そして己を頼みとするのは、己だけではないことを知っている。

 だからこそ必ず生きて戻る。

 美しき己の生国。己のさと

 山の向こうに、路の向こうに山間の国がある。



 彼には、おそらく彼だけが知り得ていることがあった。

 他に気付いている者があるかどうか、確かめようもないことである。

 だがそれを己の主にを復命するにはまだ早いと思っていた。否、彼自身がまだその現実うつつを飲み込めていないのだ。

 この大地を流れる、数少ない小川。

 山間の国をかすめるように流れ、海辺の国を横切り海にそそぐ。

 旱の続き、水不足となったこの大地。

 今、多くの者たちがこの小川の流れに命を委ねている。

 だから、小川に「水の流れない刻」のあることなど、あってはならぬ。

 陽のすっかり沈み、人影のなくなる頃。朝、空の白むよりも前までの間。

 小川に水がなくなる。いや、わずかに小川に潜むいおがかろうじて干上がらずにすむ程度となるのだ。手のひらの厚みほどもない深さ……それは水たまりで、流れてはいない……。

 これほど己の技術わざに頼み、生きているというのに。その現実うつつを誰にも言えずに……胸の内に納めていた。



 この海辺の国には定まった首長おびとというものがない。

 幾人かの郷士が話し合い、国を動かしている。この周辺まわりには他にこうした政事まつりごとをしている国はない。

 合議はかりごとをしていては急ぎの事態ことに応じることができなくなるためだ。それに誰が何を決めるのか持分がわかりにくいのだ。

 近隣の国々からすると、おかしな国だと思うのだが、その当人である海辺の国の郷士たちはおかしなことだと思っていない。

 何よりもおかしなところはそれで国が困ることがないことだ。

 国が小さいためだろうと、訳知りのように言う者もいて、それは確かにそうであるのかもしれなかった。

 他の国でいうところの「集落むら」や「郷邑むら」ほどの人が、他の国と同じだけの領地に住まう。

 豊かな山の幸、海の幸がある。なのに人が増えないし、減らない。

 国を営むものだと考える近隣の国々の首長おびとたちは、この国の人々が営む平生くらしは分かりにくいものだろう。

 そのためか、この海辺の国には窺見うかみが多い。国から来る者、あるいはどこかの国の郷から来る者。

 平生いつもであれば、構わない。困ることがないからだ。むしろ都合のよい報告しらせをするように仕向けることもできるから、どの国も他国の窺見が入り込んでもそのままにしている。

 彼は、窺見の間で知られた存在だった。彼の生国、山間の国にある数々の郷から放たれた窺見たちには、窺見同士かれらなりの繋がりがある。技巧わざで彼に敵う者もない。

 主命あってこの海辺の国に留まり、ひるは農夫として過ごし、陽の沈むころには窺見に戻るのだ。

 陽が落ちたものの、まだわずかにほのかな明るさが残る。星がまたたきだしていた。

 海に沈む陽の光を、この国では金色の道と言った。輝きの向こうにさらに道があるのだと。

 それは確かにそうなのだと、彼は、己の主に聞いて知っていた。星を頼りに海を渡るのだという。

 山から海へと、辺りを見回しながら迷いなく歩く。今宵も誰にも会わずに目指す邸宅やしきへすべりこんだ。

 小門もんのようなものはない。邸宅と周囲まわりを隔てるのは、小さな前庭さにわがあるだけ。だが、窺見にとってはかえってこのほうが入りにくい。……隠れるところがあまりにもないのだ。

 もとより窺見が入ることを防ぐようには造作つくったわけでもないのに、そのようになっている。これもまた、彼が己の生国を思い、そしてこれまであまた見てきたなかでも、おかしなことだと思う。

 そっと歩みを進め、この邸宅やしきの奥へ忍ぶ。この頃合にはすでに従婢まかたち舎人とねりの姿もない。

 気配を押し殺したまま階段きざはしを上がり渡殿わたどのを越えた。

 目指す居室へや、御簾越しにゆれる仄かな明かりは、まだ人の起きている証だった。それで、彼は敢えて月明かりに己の影を御簾に映りこませた。

櫨丈はじたけか。中に入るといい」

 柔らかな言葉をかけられる。……こんなところは、己の主人あるじである、郷の総領このかみ殿と似ているように思う。

 物音も忍びやかに、櫨丈は御簾の内へと滑り込んだ。

 海辺の国の郷士、浦飾うらしきは、一人酒を嗜んでいた。

 一人酒を好むところもまた、……笙木しょうきと似ている。そう思って、否、と己の考えを改めた。笙木は他に共に酒を飲む相手がいないのだろう。嗣子むすこが母御に似て、酒に弱いのだ。

 では浦飾はと言えば、一人酒の理由わけがあるのかというとそうでもない。ここのところ客人まろうどがあまりないために、皆と飲むことが少ないだけで、浦飾は独り身だから、ただそれだけが理由わけなのだろう。

 この数日は客人の来訪おとないがあったのだ。

 久々の宴があって、郷士の旦那方も、集落むらの皆も、上機嫌だった。浦飾もそうだ。

 ……そのうちの幾人が気付いて、知っているのだろうか。

 客人まろうどとそれを伴った女の関わり。

 その客人の父御ててごと女の関わり。

 郷士の旦那と父御の関わり。

 漁人いさりひとと客人の関わり。

 客人の父御と漁人と女の関わり。

 「揮尚きしょう若君きみ」と姫君……。

 それらすべてが、糸がほどけぬまま、絡まったまま、ゆるやかに今に繋がってきたのかもしれなかった。

 櫨丈もそれほど細やかに知っているわけではない。己の主はそれほど言葉の多い御仁ではないから。

 ただ、窺見としてあちこちに出向き、そこで関わった者たちから聞き知ることと、わずかに主が言葉少なに話をしてくれたこと、そうして聞き知った中で……きっとこういうことなのだろうと、思える物語かたりごとがあるだけなのだ。

 そしてそれが、今に繋がった物語だったとしても、解きほぐしてよいものなのかどうか、繋がりに関わるわけではない己には分からずにいる。

 だから、……浦飾が一人酒をしていたことに、驚くことはないし、一人酒をしながら、言葉を紡ぎ出したことを訝しんだのかもしれない。

 櫨丈の、この海辺の国での役目は、浦飾の一人酒の相手ではないから。



 山間の国の筆頭郷士いちのごうしである笙木と、海辺の国の郷士の一人である浦飾。この二人は約定きまりを交わしている。

 ひでりが続き、水不足となっている山間の国に、数日ごとに運丁はこびよほろを出す。

 生活用水くらすためのみずのためのよほろだ。

 笙木はこれを私財たからで賄う。

 よほろは海辺の国が出す。

 どちらも担うには軽いものではない。

 この約定きまりは二人の間で行われたものだが、互いに二人は互いの国の郷士の要である。この二人が結んだものならば、半ば国が行う取引といえるだろう。

 そのために、それぞれの国で、他の郷士たちにもその約定が伝えられ、守られることになった。

 だが、約定はただそれだけのことではない。

 窺見を放たない。

 山間の国に枷が課せられた。

 この窺見を放たないという約定があるから、海辺の国の他の郷士は丁を担うことを受けたのだ。

 丁を山間の国から出したとすれば、大勢の山間の国の民が海辺の国に入ることになる。客人まろうどたからとするこの国は、丁も客人なのだ。集落むらではよく迎え入れることだろう……だがそれが続くのは望ましくない。

 どの国も、どの郷も、丁に窺見を紛れ込ませることは、手立てのひとつだった。だから丁を海辺の国から出すのであれば、山間の国は窺見を放たないというのは、おのずから、「窺見を放つ手立てが減るのだから、そのようになるものだ」というだけのことで、実はそれほど大仰なことではない。

 だが、それを飲み込むことのできぬ御仁が、山間の国には思いのほか多いらしい。

 窺見には、国が放つほかに、それぞれの郷が放つ者がある。それを放つなということは、他郷の営みに口を挟むことも同じで、いくら筆頭郷士いちのごうしである笙木と言えども、他郷の者たちは得心できようはずもない。隠れて郷の窺見を放つことは予め考えられることだった。

 だから笙木を先手を打っていた。

 窺見を放たない約定に応じるが、代わりに「櫨丈を遣わす」と。

 それで今、櫨丈は、浦飾の預かりとなっている。浦飾の元で、「山間の国の郷の窺見の動きを窺見している」のである。

 他郷の窺見が海辺の国に入り込まないように見張るほかに、笙木と浦飾の間を連絡つなぎしていた。そのほか、浦飾の下命や求めには、差し障りのないところで応じている。

 このことはすでに山間の国のそれぞれの郷の窺見たちの間にはすでに知れ渡っている。

 山間の窺見で、櫨丈を知らぬ者はないし技巧わざで櫨丈に敵う者もなかった。

 窺見には窺見の繋がりがある。櫨丈の顔を立てて、皆、それぞれの郷への報告しらせは当たり障りのないところを返しているのだろう。

 もめごとがないわけでもないが、それをうまく収めよ、というのが笙木の命だった。

 櫨丈は他国へ窺見として出入りするときには、その国に馴染むように「平生くらし」を営むようにしている。浦飾は、それなら、と労役として農夫をしていればいいと言った。海辺の国は農夫は少ないし、畑やその臥宅ふしど集落むらから離れている。窺見として動きやすかろうという。有難く、櫨丈は仮の身元をいただいていた。

 櫨丈の足ならば、山間の国と海辺の国を半日ほどで行き来ができる。

 時折、山間の国の笙木の元へ復命する。今日のところは、別の命を受けて国境くにざかい関塞せきに寄ってきた。そのまま国境の様子をひととおり見回った。

 毎夜、浦飾の邸宅やしきへ忍ぶわけではないのだが、前夜さきのよのうちに笙木の元へ向かうことは伝えていた。それで浦飾の方で何かがあるかも知れぬと、邸宅に顔を出すことを決めたのだ。

 常ならば浦飾は夜はあまり遅くならないうちに眠る。

 否、浦飾でなくとも、海辺の郷士たちは皆、陽が沈むころには寝付いて、朝日の上がる頃には起き出す。

 集落むらの者たちと変わらない暮らしをしていて、月影や星影に親しむのは、宴のあるときくらいだ。

 それで、陽のすっかり沈んだ今、明かりを灯していることには、意外に思った。そして一人酒をしていることには、ああらしいことだ、と思った。

 ……だが、その表情かおを見た時に、それに続く紡がれた言葉に、訝しんだのだ。

「しばし、酒に付き合わないか、櫨丈。下戸ではないのだろう?」



 山間の国の 御宮みあらか女従者めのずさ殿、と呼ばれる女が居る。彼女は、己の居室へや階段きざはしに腰掛けて、月を眺めていた。

 ひるのことを思い出して、それで平生いつもでは決してしない、夜更かしをしている。

 女従者などと、どこかの筆頭郷士いちのごうし嗣子むすこと並び称される己を振り返る。

 楓は、考え深いなどと思われているらしいのだが、きっとそうではない。この国の女首長めおびとの傍らに長く仕えたから、そうなったのだ。

 先の女首長から、今の姫霊力者ひめみこへ。十五たびほど、季節の巡りを経ただろう。一年は長いものだ。

 だが、この御宮みあらかに来てから季節の巡りがどんどん短くなっていくように思えるのは、己が変わってきたためなのだろうと思う。

 過去むかしは、これほど己に客人まろうどなどなかったのに。

 とりわけ、己の父がこの居室へやを訪うことなど……なかったのに。

 御宮で顔を合わせることはこれまであったが、それは他の御館みたち殿舎みやしろでのことだった。それも彼女の役目のことでの言いつけや、郷のことばかりだった。

 だから遣いを受けたときに少しばかり訝り、それでも訪問おとないを断ることでもない。それで己が出向くと遣いに言って戻したのだが、やはり居室へやへ訪うと遣いを戻してきた。

 ……何か、外に漏らしてはならないような秘事ひめごとがあるのだろうか。

 彼女の……楓は、他の女官まかたちと違い一人で使える小館たち居室へやとして与えられていて、だから周りに聞きとられたくないような話でも障りない。

 父が気遣いを見せているというのに喜びよりもそうし訝りや疑いを思う。己は確かにこの御宮みあらかで、長い時を過ごしてきたのだと、ことのほか思い知る。

 そうして、疑った通りに父は人払いの易い楓の居室へやにやってきたのだ。

 筆頭郷士いちのごうしである紗郷さのさとの笙木と、父の考えが違っていることを、楓は聞き及んでいる。首長である姫霊力者ひめみこの明日香は笙木の考えを取り入れていることも。

 だから、明日香の側仕えであり女従者殿とまで呼ばれる楓は、「戦派」である父とこのところ顔を合わせないように気を付けていた。いとまをとっても、郷にも戻らずにこの御宮みあらかの己の居室へやでゆっくりと過ごすことにしたのもそのためだった。

 郷に戻って父に会えば、明日香様への交渉わたりの役目を負わされてしまうだろう。

 いつもこの季節ころにはいとまをとって郷に戻るのに、戻ってこないものだから、父は自ら娘の居室へやを訪ったなのだ。

 幼い頃、父のいさおを聞いて育った。弓が得手で、剣も徒手むてもよく使うという。狩猟かりでもいくさでも、よく働きを得たのだと。

 だが、当人である父、稲佐いなさは、それを誇るでもない。

 楓はその理由わけを知らないが、叔父から稲佐は皆よりも己が傷付くほうがよいと思っているのだと聞かされたことがあった。きっとそれが理由なのだと思っている。

 そんな父だから、「戦派」などと呼ばれるのは思いの内では苦く感じているだろう。

 民が、民の平生くらしが、旱と水不足で損なわれていくのを見ることが、父の苦しみになって傷付ける。

 ……「戦派」と呼ばれて己が感じるものよりも、皆が傷付くことが許せないだけで、きっと笙木と争うつもりはないのだろう。

 そして、父は笙木の思うところも、知っている。

 笙木が戦を厭うことを知っていてだがそれでも「戦派」と呼ばれている。

 笙木の守りたいものも、稲佐の守りたいものも、明日香の守りたいものも、ただひとつ同じもの。

 手立てが違いすぎて、互いに譲れない。

 そのことに気付いているのは、もちろん楓だけではなくて、側近もとこ従者ずさである主紗もだろう。

 気付いている素振りがあっても、楓も主紗も、それを敢えて口に出して話したりすることはない。政事まつりごと祭事まつりごとも、役目として負う場にいないからだ。

 いずれ主紗は笙木を継ぐ。笙木に他に子はないから、継嗣あとつぎとして政事に関わっていくことになるだろう。

 楓は郷の総領媛このかみのひめだが、郷の些事を取り仕切ることはあっても、この山間の国を、御宮みあらかの「表事おもて」を執ることはない。

 稲佐には幾人か嗣子むすこはいるが、継嗣とは言えない。おそらく郷を継ぐのは、楓の従弟にあたる采斗さいとだろう。采斗は実父である叔父よりも、幼い頃から稲佐の姿を目指していた。

 考え方の曲がらない素直な采斗は、そのままの考えで育ち、兵士となるのだと、郷を飛び出している。

 継嗣という立場と年頃を考えるのならば、もう少し郷のことを気に掛けてもよいはずなのだが、あまり郷に近寄らない。

 そのことに思い当たり、楓は己と同じかと、おかしくなった。

 采斗はまっすぐ過ぎるところがあるが、物事を任せるにの足りる頼みとなる従弟だ。

 稲佐や叔父が、あまり采斗に郷に戻るように言わないのは、他の郷の子弟らと交わるように仕向けているからなのかもしれない。

 主紗との関係つながりは、采斗にとって得難いものだ。

 互いに認め合うものが、己に足りないものだと判っている。その関係つながりは、この山間の国の子孫すえに確かなものを伝えていくだろう。

 稲佐と、笙木の間にある距離へだたりと、きっと似ている。

 頼り過ぎない、だが頼りになる。支えあえる、寄りかからない。持ち寄ったもので補うことのできる、偏りのない間柄。

 ……本当の二人は、そんな関係つながりなのだ。

 幼い頃に気付かなかった父の姿が見えるようになっってきたのは、己が正女おとなになったためだ。見えなかったものが見えるようになってきたのは、背伸びをしたからではない。

 ふう、と声にならない吐息が漏れた。

 暇をとったのだから、日頃はなかなか手のつかない縫物をまとめてやってしまおうかと思っていたのに。

 人に会うことが多くてはかどらない、と己の物思いのせいだというのを、他のせいにする。

 ……幼い、遠き隣国からの客人まろうどは、きっと背伸びをしている。

 己にもそのような頃があったから、判る。

 紛れもなく、背伸びをしているだけ、なのだ。

 そして、稲佐の訪問おとない理由わけはいくつもあるが。つまるところ、「客人まろうどを視ておけ」ということだろう。

「私は、父上の窺見うかみではないのよ……」



 山間の国の女従者殿が、月を見上げて物思いを巡らす頃。

 海辺の国の浜、星空と波音の間で、沖を見ていた。

 遠波とおなみには、少しばかり胸につまる想いがある。

 この国に少し前にから流れてきた巫女様と、そのもっと前に流れてきた巫女様の傍らにある女。

 巫女様はなんでも見透かしておられるように感じて、それで遠波は何も言えない。

 女には何の咎めもあるわけではないのだが、それでも女が流れてきた、そのときのことで己をまだ責めているのだろうか。

 ……数日前に流れてきて、あっという間に去っていった男がいた。

 その男を見て、女が何を思ったのかを推しはかろうとして、遠波は柄にもなく浜に一人、沖を見ていた。

「誰も悪くないし誰のせいでもないよなぁ」

 遠波はそう思っている。

 だが、周りはそうは思っていないのだろう。

 揮尚きしょう、か……。

 そう遠波は呟いた。

 この名を知る者はあまりない。だがこの名を持つ男のことは、皆まだ覚えているだろう。

 とりわけ忘れずにいるのが、笠耶かさやなのだ。だから、笠耶はあの若者にその名をつけた。

 この数日、遠波はそれを思い知らされたのだった。

 笠耶と遠波の間の、おかしな隔たりは、集落むらの皆が感じているところだろう。その隔たりを勘違いしている者がいることも、遠波は知っている。

「そんなんじゃねぇんだよ、そんなんじゃ……」

 今更、男と女の仲だから、で済ませられる間柄ではない。

 それよりももっと奥深く、澱が沈むようにわだかまる出来事。それを皆、忘れているのだろうか。

 否、忘れていない。拘っていないのだろう。

 拘っているのは己であり、笠耶の想いだ。

 いっそ、男と女の仲のこと、であればもっと事や易いのだが、この年になっても遠波には媾合まぐわう女がいるわけでもない。

 笠耶のことがあるから、皆、遠波に女をあてがうようなことをしないのだ。

 遠波は、己に軛をかけている。

 そして、その軛を外そうともがくこともない。

 もう二十たびは季節の巡りを繰り返した、過去むかしの出来事が、今も重くのしかかっている。

 はあ、と似合いもしないため息がついて出た。

 己は、己の父親に似てきているのだろうか?

 季節の経るごとにおぼろげとなったその面影を、己の胸の内に思い描こうとして、だがその面影はやはりはっきりとしたものにはならなかった。

 遠波は沖に出る手立てと、その沖の……金色の輝きの先に続く、海の路のさらに向こうに渡る手立ても知っている。

 おそらくは己の技量わざで渡っていくことのできるだろうことも。

 その海の路の向こうにあるものを、わずかながらに知っていた。

 遠波の父はそれを知らずにこの海で命を落としたが、遠波にそれを知るための手掛かりを残したのだ。

 一人の若者と、小女と言える年端のいかぬ幼子。

 この海の向こうから、金色の路を渡ってきた者たちがいる。



 瓦笥かわらけを傾けながら、浦飾は柔らかな灯台の光を見ていた。口当たりの良い酒が、喉を潤していく。

「静かな夜だ」

 それはこれからの騒乱さわぎを思い描いてのことだろうか。

 櫨丈には浦飾の考えは読めない。

 わずかな塩と楚割すわやりを肴に、勧められた酒を舐めるばかりである。

 浦飾に伝えていないことでも、己の主である笙木には伝えていたりすることがある。それと同じで、どちらにも伝えていないこともある。

 そうしたことも浦飾はすべて飲み込んでいて、それでも度を越した命を下すことはない。

 櫨丈から見た浦飾はよくできた御仁で、だから今こうして何かを決めかねるような、結論こたえのないような物思いの最中さなかに櫨丈のような窺見を傍に置くことが、何やらおかしなことのように感じられた。

 だがこの国はおかしなことが多いものだから、己の考えだけで物事を量らぬ方が良いのだと櫨丈は心得ていた。

 そのようなことをつらつら思っては見ても、今このときだけは、……駆け引きのような物事から離れて、ただ酒を付き合うようにしたほうが、この仮の主にとっては意に適うことなのだろう。

「山間と海辺を半日で行き来するか……。この距離へだたりをな。それにしても笙木殿は気苦労の多いことよ。どうされていた?」

 これからいろいろな気苦労が増えることを知りながら、そんなことを言う。

総領このかみ殿の気苦労のひとつは、若君が戻ることで減りましょうな」

 ふふ、と忍び笑いがどちらともなく漏れてしまう。

「そうさな、だがひとつ減ったところで、増えるのであればさほど変わるまいよ。姫が、若君にお会いになるとは、思いもせぬだろう」

 櫨丈には、それが笠耶と主紗のことなのだと、話ぶりから判った。

 だが、浦飾が笠耶を姫と呼ぶ理由わけまでは知らない。

 浦飾は、笙木の昔馴染みの友とも言える間柄だ。だが笙木はもともと、山間の国を生国としているわけではない。

 ……そのあたりのことは、わずかだが櫨丈は知っていはいるのだが主から直に聞いていることではなかった。

 だが浦飾は櫨丈の知らぬ笙木を、友として、また隣国の郷士として知っているのだろう。

 櫨丈の立場では相槌するほかないことで、浦飾がこの上、話をしようと思うのであれば、それは一族うからの内で話したほうがよいことだ。

 そうした話の中身というものは、聞いてしまうとあとでその国を出入りするのに難儀する。そう櫨丈は身がまえたのだが。

 浦飾は苦く笑った。

「……一族うからの内では、多くを言えぬこともあるのでな」

 浦飾には定まった妻女がない。

 一族うからの内では早く子を成すように勧めているのだが、そのつもりがないらしい。

 そして、そのあたりの事情ことは「山間の国の紗郷の出」である櫨丈の口から出しにくいことが絡んでいる。

 まぁ付き合うがいい、と浦飾は櫨丈の杯に酒を注いだ。

「もう二十たびほども季節が巡っただろう。だが今にまだ物事ことを残している。……姫の思い残しも紗鳴殿のこともきっと同じだ」

 さすがに浦飾から紗鳴の名が出ると、櫨丈は息をのんだ。

 櫨丈の知る限り、もともと紗鳴は浦飾に嫁ぐことになっていたのだという。

 その出会いの場を作るために、紗鳴の父である、紗郷さのさとおさ紗霧さぎりが娘を伴って海辺の国に赴いた。その折りに、紗鳴と笙木は出会ったのだ。

 紗鳴が浦飾をどのように思っていたのかはわからない。

 また、笙木がどのようにして紗鳴の気持ちを手に入れたのかはわからない。

 海辺の国への訪問おとないを終えて、紗霧も紗鳴も山間の国に戻った。それを追うようにして、笙木は海辺の国を出た。……笠耶を置いて、山間の国へ向かったのだ。

「櫨丈よ、私は巫女様のように霊力ちからのあるわけではないから、この先、この旱と水不足がどのようなことを引き起こすかわからぬ。かの『巫女さま方』にもわからぬこの先のことは何も言えぬ」

 何か大事おおごとを話し始めるようなことを、そうとは思えないような気の抜けたゆるやかな口振りで話す浦飾を、その様子に合わせるように。

 櫨丈はゆったりと杯を口に運んだ。

「だが、今判っている、今を推し量ったことだけで動くことは避けたほうがよかろう。国も郷も、区切りとしてはたてさかいもある。だがこのおかは、海と同じだ。大地に糸引かれているわけではないからな。……一族うからの者たちに、このようなことは言えまいよ」

 浦飾の言わんとしていることが、なんとなくだが、捉えられたように思われた。

 だからそのまま、浦飾の過去語むかしがたりを、今はそのまま受け入れよう。

 ひとつ頷き、

「浦飾様の仰せのことは、今はこの櫨丈の胸の内に収めておきましょう。事態ことの動いた時に、識として要ることになるまで、お預かりします」

 柔らかい吐息が聞こえて、わずかに浦飾が笑んだのを知る。

「笙木がお前を窺見として動かす理由わけが分かるな……。いっそこのまま海辺の国の民として住まってくれてもいいのだぞ?」

 どこかで聞いた言葉に、引き抜きの意味を見出して、苦く笑いかえす櫨丈である。



 この海は、父を奪った。

 その事実ことは遠波の想いに深く刻まれているのは確かで、だがそれをそのまま捉えられることに、遠波は未だに馴染めない。

 まだ己が幼い頃のままなのかもしれない。

 あの日のことは覚えている。だが、思い出さないようにしている。

 遠波の父、来凪くなぎは、二十たびほど季節の巡りを振り返った過去むかしに、この海辺の国の浜から突き出るように岬を形作っている岩場へと、大きな篝火かがりを焚かせた。

 巌がいくつも積み重なる岩場はこの浜の湾となり、この岩場の向こうは外海とつうみだ。

 外海は、異国とつくにへと続く海。

 遠目の利く遠波は、正丁おとなたちの止めるのも聞かずにここから沖を見ていた。

 外海から来た見慣れない形の舟が、波の間に呑まれていくのを。

 あの刻とは較べものにならない静かな波音が、場違いのように耳を通り抜けて行った。



来凪くなぎはよい頭だった。この国では外海とつうみいさりでの役目を負うものは強い。外海で漁して獲る魚は他国と交易あきなりするためのものだ。多く獲れる者ほど、よい。来凪は釣りよりも、皆と獲るのが得手だったな。集落むらの者も郷士の皆も、よい頭だと認めていた」

 外海の沖でも頭だったが、おかでも集落むらをよくまとめ頼られていた。

 それがまだ幼子であった遠波には自慢で、今では重荷かもしれぬ。何やら煮え切らぬ重いものを抱えたまま、今になってしまった。

 ……嵐が来ることが判ることがある。山間の首長おびとの姫巫女さまでなくとも。

 あの時、野分のわきが来ると、はっきり判った。

 この国には山間の国のような里長さとおさというものはない。集落むらをまとめるのは、そのときにそれができる者。そしてあの時、集落むらをまとめることができるのは、来凪だった。

 空はまだ青く、だがどんどん風が強くなっていく。

 雲の固まりが次々と走る。波はすでに波頭が崩れて白く飛沫をあげている。

 郷士らは、集落むらや郷の者たちに、水城みずきへ移るように命じていた。潮が満ちる前だったからだ。

 潮の満ちる刻に野分の嵐が重なれば、海に近い集落むらも郷も、波をかぶる。

 波に御館みたち苫屋とまもさらわれる。

 水城みずきには御館みたち御舎みやしろ小館たちがある。女たちはこの館を慌ただしく片付けて清めるはじめた。幾日この水城で過ごすか判らぬから、持てるだけのものを運ぶ。もちろん幼子も手伝う。男は舟を陸にあげて繋げる。波にさらわれぬように、舫いをしておく。

 そして、篝火かがりを焚く備えをしておくのだ。

 ……いつの頃からの慣習ならいか分からぬが、嵐の折には岩場に篝火するのだ。

 もちろんひどい嵐であれば、篝火など見ておくことはできぬ。だから焚いた炎が落ち着いたなら、あとは時折様子を遠くから見に行くくらいのことだ。

 男衆を仕切っていたのは来凪だから、まだ幼子だった遠波は、水城の女たちの手伝いではなく、水城へ集まりだした集落むらの者と、郷士らとの連絡つなぎをしていた。

 主だった郷士らは集まり合議はかりごとしていた。

 連絡つなぎにきた遠波に応じるのは、たいてい、まだ年若い頃の浦飾だ。

 すでに雨が降り始めていた。風も、先ほどからずいぶんと強い。潮の満ちるのはあと少しだろう。

 そろそろ郷士の皆も、水城の御館に移ろうかという頃だったように、浦飾は覚えている。

 その先刻まえに遠波が連絡つなぎにきた折には、集落むらの大半が水城にいくつか設えてある小館たちに入ることができているという報告しらせだった。

 だから遠波の雨けぶる姿が見えた時には、女たちから、郷士らの入る御館みたちの備えができたのだという報告しらせだろうかと考えたのだが。

 その考えははずれた。

 遠波の表情かおが、強張っていた。この風雨に長く打たれて、幼い身体を冷やしたのだろうか。

「どうしたのだ、遠波。冷えるか」

 息せきって駆け寄ってきた遠波に、浦飾は声をかけた。走りとおしできたのだろう、すぐに遠波は声も出せなかった。

「もう雨も風も強い。お前もそろそろ水城へ移れ」

 遠波はふるふると大きく首を振った。髪から雫が飛んで、獣が水滴を身体を震わせて振い落しているようだと、暢気にも思った。

「違う、俺は、連絡つなぎに来たんだ……!」

「うん?」

「誰か、誰でもいいから、郷士さまを、お連れするようにって……!」

「言いつけたのは来凪か? 何かあったのか」

 張り詰めた様子に、ただならぬことがあったのだと気付く。

 誰でもいい? どういうことだ。今は皆ほかの郷士は合議はかりごとしているか、年若い郷士や郷士の妻女、郎女いらつめらは、もう水城へ先に向かっている。

「いいから! 急いで! お願い! しますっ!」

 つまりは己でいいのかと、浦飾は考えて、頷いた。

 浦飾はまだその頃は、……そう、今の主紗とさほど変わらない本当に年若い頃だったから、郷士と集落むらの者とがとても近いこの海辺の国でも、とりわけ集落むらの者たちには近しいと感じられていたかもしれない。

 遠波はそれを賢くも感じ取っていたのだろう。そのせいか、日頃から遠波はあまり浦飾に慮ることがなく……それは今にも続いている。

 遠波は浦飾の腕を思い切りひっぱり、走り始めた。

 だがそれは幼子の足で、走っても浦飾よりも遅い。ただならぬことが起きているのだと感じ取った浦飾は、遠波を置いて先に走ることを決める。

「どこに走ればいい、遠波?」

「海へ、岩場に!」

 岩場では、慣習ならい篝火かがりを焚いているはずだった。それで篝火へ向かえということだと判った。

「先に行く、あとから来い」

 風の強くなった雨の中を、駆ける足を速めた。……今から思えば、このときに遠波に水城へ行けと命じるべきだったかもしれない。だが、まだ年若い浦飾にはそのことに思い至らなかったのだ。

 砂に足を取られても、さすがに幼子の足よりは早い。岩場に、焚かれたばかりの篝火かがりが見えた。幾人か集落むらの者がいる。沖を、外海を見つめながら。

「何か、あったのか!?」

 浦飾は叫んで問うと、見知った集落むらの者が気付いた。

「浦飾さま!」

 指差されたその先、外海に見えたもの。

 それをなんと呼ぶのか、そのときの浦飾は知らなかった。

 あとから、笙木に教えられたのだ。

 三角帆さんかくほの舟だ、と。



三角帆さんかくほの舟……?」

 聞いたことのなく、思わず櫨丈はつぶやいた。浦飾の物語かたりごとを妨げるつもりはなかったのだが。

 浦飾は不快に思うでもなく、三角帆の舟を説明ことわけた。

異国とつくにの舟だ。私も詳しくは判らぬが」

 海辺の国ですなどりに使う舟とは違う、外海とつうみを渡るための舟だ。

 舟に柱を立て、三角の布を張って風を受ける。風の力で進む。

 外海というものは、人手だけでは漕ぎ切れぬ。

 大きなものは何十人と乗込む、鯨のような大海船うみふね。それに張った帆に風を受けてどこまでも大海うみを渡っていく。

「三角帆の舟というものは造ることも、操ることも易く敵うことではないという。だが、この舟は小さな物でも、外海を渡り切り、異国とつくにに行き着く。一人でも、……幼子を連れていても、な」

 漁するための舟ではない。

 大海うみを渡るためのもの。

 風を受け、潮に乗る。星と波を見て、異国とつくにを目指す。

 そうした舟があるのだと、これまでこの海辺の国を来訪おとなった客人まろううどから幾度か聞いたことがあった。

 だが、そうした舟で、この海辺の国を来訪おとなった者はなかったのだ。

 このときまでは。

「だが、この三角帆の舟というものは、風が強すぎると帆や柱によくない。野分はいちばん、避けるものなのだという」

 三角帆の舟は、長く大海を渡ってきた。この野分の大風を避けることはできたのだという。だが、このおか、海辺の国のある陸の影を見て、それが目指す島影だと気付き、無理をした。

 そうして、舟が傷んでしまった。

 傷んだ舟を、それでもできるだけおかに寄せようと苦心していたところに、篝火かがりが見えたのだ。



 兎が跳ねる、という。

 波がうねり、飛沫が跳ねる。

 波がぶつかりあい、潮が跳ねて波の上を飛ぶのだ……兎のように。

 その波が岩場の巌にぶつかり、大きな飛沫を作る。雨が降り始めているが、まだ大雨、というでもない。

 本当は、郷士の誰かに報告しらせたらそのまま水城みずき小館たちへ向かうように言いつけられていた。

 それでも浦飾のだんなに伝えて、それだけで己の役目が終わりだなんて思わなかった。

 その少し前から、外海とつうみすなどりをするようになっていたから、気持ちだけは一人前のつもりだったのだ。

 浦飾の旦那に報告しらせたあと、「先に行く」と言われた。だから、それを「後からついてこい」ということなのだ思った。

 岩場に追いついて、それは幸いだったのか、皆正丁おとなたちは沖を見つめていたから、遠波がこの岩場にいることを気に留めなかった。気付いてはいたが、それどころではなかったのだろう。

 跳ねる波間に、見慣れない……だが傷んだ舟が微かに見える。

 こちらから舟を出すかどうか、正丁おとなたちは、来凪は迷っていた。すでに舟はおかにあげてあり、林の大木に舫ってあったから。

 ここにいる者は皆、海辺の国の男たちで、外海で漁する。遠目の利く者ばかりだ。だから舟を出しても間に合わないほどその見慣れぬ舟が傷んでいることがすぐに判った。それでも迷うのは、舟に縋りつくように見える、幼い小女と、若者。

 その若者が、この岩場の篝火かがりと、その篝火かがりの周りを囲む正丁おとなたちに気付いていることも判っていた。舟をできるだけおかに寄せたいと考えているのも。

 舟を置いて泳ぎ出すことができずにいるのは、幼い小女のためだろう。

 だが、耐えきれなかったのか、小女は舟縁ふなべりからその小さな手を離してしまった。それを見た若者の決断は早かった。それまで苦心して舟を陸に寄せようとしていたのが偽りだったかのように。

 舟を棄てて、荒れる海に飛び込んだのだ。

 二人は互いを綱で繋いでいたらしい。だから小女を抱えて若者が波間から顔を上げたのはすぐのことだった。

 だがその綱は舟にも繋いであったことに、皆気付いた。

 このままでは棄てた舟が沈むのに、二人が巻き込ままれる……。



「……来凪は本当によい頭だったのだ。人柄も含めて。その二人を見捨てることなど、考えられないだろう。皆止めることができなかったし、止めたいとは思わなかった。それに、来凪ならなんとかするだろうと、思えた。そう、思わせる男だった」

 篝火かがりの炎を守れ、と来凪は男たちに言った。そして荒れる波高い外海に飛び込んだ。

 せりあがる波は次の瞬きの内に一気に下がる。高波の飛沫で見えなくなる。

 篝火かがりの炎は充分に燃えて、少しの雨では消えない程ではあったが、大波をかぶれば消えてしまう。篝火が消えてしまえば、来凪も二人も、おかを見失いかねない。

 篝火の炎がさらに大きくなるように、燃えやすい酒を染み込ませた布を加えて、炭を足す。そして波がかぶりにくいように、皆で篝火の前に並んだ。

「遠波に下がれと言ったのだが、あれの父親のことだ。見るなとは言えまいよ」

 来凪は荒れる海でも泳ぎ切ることのできる。否、海辺の国の者ならば、誰も多少の波に臆することはない。

 そして外海とつうみで漁する者は、皆短剣つるぎを身に付けている。

 綱や網が己の身体に絡まることはいつでも在り得るから。

 己の身を守るための短剣を、もちろん来凪はこの時も身に付けていた。

 その短剣を二人のために使おうと、荒れる海に飛び込んだ。

 長く、短く感じる間。幾度も海からの波しぶきを浴びた。その間に、来凪は二人に近付いた。

 傷んだ舟も、高波の間に微かに見える二人も、かなりおかに近付いてきているように思っていたが、まだ距離へだたりがあった。せり上がり、そしてまた下がる大波にまぎれてしまい、細やかなことは岩場からは見えない。

 だが確かに来凪は傷んだ舟にとりつき、綱を短剣で切ったのだろう。

 傷んだ舟の方が、波に耐えられなかったのだろう。

 そして、来凪は、舟を離れるのに遅れたのだろう。

 若者も小女を抱えたままでは来凪に手を伸ばし切れなかったのだろう。

 たとえ手を伸ばしても、己が沈む舟に巻き込まれてしまうかもしれなかっただろう。

 だが、一度は、来凪の腕に届いたらしかった。

 その見慣れぬ形の舟は、浦飾のいる岩場からは見えなくなった。傾いていたところに波をかぶり、そのまま沈んだようだ。

 若者もまた、海の男で、荒れる海を泳ぎ切ることのできた。少女を抱えたまま。

 口に、短剣をくわえて。

 来凪の短剣だ。

 来凪の姿は見えなくなった。

 それきりだった。



 飛沫があがった。

 己の前には、正丁おとなたちと波飛沫。

 そして荒れる外海とつうみ

 うねる波。

 せりあがる。

 潮が波から飛び出して、兎が跳ねるように。

 波が下がって、そのときだけ微かに見えた。

 見慣れぬ舟が、波間に傾いて。

 すでに波がかぶったのだろう、舟底が上になっていた。

 投げ出された幼子。

 己よりも小さい。

 その小女を抱えて男がもがいていた。

 その舟から離れようと。

 遠波は舟を沈ませたことはない。

 だが、沈みそうになったら舟から離れることを、すでに知っている年頃だった。

 小さな舟ならばそれに縋るほうがよいという。

 その見慣れぬ舟は、縋るには沈むことに巻き込まれることを恐れるほどの大きさがある。

 また波がうねってせりあがり、兎の跳ねる。

 まだ幼い己には、正丁おとなほどには見えない。

 だが己の父が、その見慣れぬ舟に躍りかかったのは見えたのだ。

 そして、一度潜る。荒れた海の中へ。

 若い男が何かを手繰り寄せるような動きをして。

 ……正丁おとなたちが何か大声をあげていた。外海に身を乗り出すようにして。

 来凪の姿が見えなくなった。

 手が何かを掴むように。

 そして波に呑まれていった。

 すぐに顔を出すだろうと思った。

 己の父は波の荒れる外海とつうみでも泳ぎ切れるのだから。

 だが、それきりだった。

 それきり、父は、来凪は戻らなかった。

 この海は、嵐の海は、己から父を奪った。

 ただそれだけで、それの他、何もないのだが。

 まだ幼子だった己の中に、深く刻まれてしまったのだ。どうしても振り払うことのできない、現実うつつとして。

 誰が悪いわけでもないことだが、なぜ己はまだ幼子だったのだろうかと、己が正丁おとなならばよかったのだろうかとも思う。

 だが今の己がそのときに岩場に居たとしても、同じことになるのかも知れなかった。

 きっと親父殿は、二人を繋いでいた綱を短剣つるぎで切ったあと、その綱か、それとも他の舫い綱か何かに己の身体からだを絡めとられたのだろう。それで波に沈む三角帆さんかくほの舟からうまく離れることができなかったのだろう。

 今の己が、親父殿よりもうまく、事を進ませることができるとも思えないのだ。

 目の前に相手がいるわけではない。親父殿がいないということは、それを確かめるすべさえもない。

 今の己ができることは、親父殿にできるだろう。

 だが、親父殿にできたことが、今の己にできるのか、この長い刻の隔たりのために、推し量ることもできない。

 そのことを、笠耶を見ていたら、ふと思うことがあるのだった。

 己には、笠耶を救うことはできぬのだと。そして、まだ己は親父殿に並ぶこともできておらぬのだと。

 そんなふうに思うことは、実は己を縛るだけで、軛のかかった子牛と同じだ。己でかけた枷を、己で絡ませてもがいているだけなのだ。

 己はあの頃の幼子のまま、何も変わっていないのかも知れない。それを否応なく、笠耶を見ることで思い知る。

 とりわけ笠耶が揮尚きしょうを忘れていないことを知って、身動きのできない怯えた幼子のような気持ちを味わった。

「忘れるはずもないのに、忘れろとも言えるわけがないよな」

 何しろ、己が忘れることができていないのだから。

 白昼夢ひるゆめの中を漂う異国とつくにの姫君のままの笠耶は、異国の揮尚きしょう若君きみをいつまでも待っているのだ。

 過去むかしを今に成す手立てなどない。

 だからこそ、白昼夢ひるゆめを生きたまま。

 見上げた星空の川の中から、流れる星があった。

 いつかの来訪おとない客人まろうどが、流れる星には願いを掛けるものだと言っていた。

 だが、今の遠波には、己がどんな願いを抱いているのかすら、言葉という形にできずにいるのだ。




「……浦飾様は、その野分の嵐での取りまとめのお働きで、海辺の郷士の方々の間での言葉の力を高めることになったのだと、聞き及んでおります」

 櫨丈がそう言葉を紡いだのは、他に何も言えなかったからだ。

 浦飾は舐めるように飲んでいた杯を、口から離した。

「まだ若かったのだ。そうだな、十八というところか。一人前というには若いが、独り立ちできぬ年頃でもない。だが、確かにそのころから親父殿も一族の皆も、少しは任せてくれるようにはなった。だが、それでも」

 まだ幼い小女をつれて、大海うみを渡ることは適わぬ。それをあの男はやってのけた。

 大風は二日ほど続いた。潮の満ちるのに風が重なり、集落も、郷士の御館も、わずかな郷の邑も、荒れてしまった。苫宅は飛ばされ流されて、舟も傷付いていた。

 水城の周りは林で木が風避けになるから、潮水しおもそこまでは及ばない。

「だが、そこにいつまでもいるわけにもいかぬからな。年嵩の郷士らは郷と邑を、私は集落と浜をまとめた。……来凪がおらんでは、皆、動きにくくなる。郷士は皆それを分かっていたから、誰でもいいから、ひとり郷士をしばらく置いておくことにしたのだろう」

 ふた月ほどは、水城と、造り始めた集落と郷の御館とを行き来していた。

 その間、岩場を見ると、遠波が沖を、外海を眺めていた。

「集落の者は誰も何も言ってやれなかったな。いや、集落の者も来凪が居ないことで、何事もうまくできなくてな。頭がいないことに慣れないうちは、何をするにも時がかかった。平生を取り戻すことばかりで、遠波のことを気に掛けても、してやれることがなかった」

 遠波は心をそこに、その時に残したままなのだ。

「その後、……異国とつくにの二人は?」

「櫨丈、お前の思う通りだな。男は名を変えて、山間に向かった。小女はここで育った」

 櫨丈は、窺見うかみとしてあちこちの国に赴くことがある。だから山間の国では憚りがあって話されることのないことでも、他国よそくにでは話に出ることがあって、山間の国の者たちよりも多くを見知っている。

「……総領このかみ殿は旅の客人まろうどとして、海辺の国に立ち寄られたところを、野分の見舞いのために訪問おとないしていた前総領さきのこのかみ殿にお会いになって、見込まれたのだと聞いております」

 くく、と浦飾は低く笑った。

「ずいぶん言葉を選んだな。この浦飾に気を使ったか、それとも、お前の総領殿にか? ……そうだな、笙木は己の出自を、己から話すことはしないだろう。途方もなく遠く異国とつくにから、大海うみを渡ってきたのだなど、山間の国では受け入れられまい」

 見舞いにかこつけて、前紗郷総領、紗霧さぎりは、娘の紗鳴を伴ったのだ。浦飾との出会いの場を作るために。

 紗霧が笙木を見出したのが先なのか、紗鳴が笙木に出会ったのが先なのか、それはわからない。

 だが、客人として海辺の国にあった笙木が、その後山間の国へ向かったのは確かなことなのだ。

 では笙木は海辺の国を来訪おとなう前、どこにいたのか。

 それを知る者に、櫨丈は出会ったことはない。

 笙木自身は強いて話したことはない。

 紗鳴と山間の国で生きるために、他のすべてを捨てたのだろうと、勝手に思っていたのだが、やむにやまれず、その生国を棄てて、この海辺の国に辿りついたのだろうか。

「櫨丈、たまには推し量るだけではなく、聞いてみないか?」

 虚をつかれたように櫨丈は顔を上げた。

「私はこの海辺の国の郷士だから、他国よそくにのことは識っているだけだ。お前のように、このおかのどの国にも行ったことのあるというわけではない。だがな、ことこのことについてだけは、私がいちばん識っている。

 ……今は窺見うかみをしているわけではないだろう。お前は私の酒に付き合っているのだ」

 敵わないと、思った。浦飾が酒に付き合えと言ったのは、櫨丈が、窺見としてこの国にあるためだ。

 そして己の主人と、やはり似ているのだと思えた。

 だから、つい、思わず己の主人あるじにするように応じてしまったのだ。

「浦飾さまが総領殿に似ておられるのは、その野分のときからの長い付き合いのためでしょう?」

 浦飾は渋い顔をして苦く笑う。

「似ているか? 奴に似ているなど、考えたくないな。だが、付き合いは長くなったな。もう二十も年を数えるだろう。これまであまり想うことはなかったが……奴の嗣子があれほど大きくなるところを見るとな。ちょうど、奴が、この国に来たのも、あのくらいの年頃だった」

 だから、笠耶はあれに、揮尚と仮名かりのなをつけたのだろう。


「……なぜ、二人はこの海辺の国へ? 異国とつくにとは、どこのことなのです?」


 海の向こうに、金色の路がある。

 海のある国には、たいていこうした話が伝わっている。

 だが、現実うつつに海を渡る者はない。


 山間の国は山に囲まれているが、海辺の国のように、領内くにうちに海がある国は多い。

 そうした国は海をおか伝いして、互いの国を行き来することができる。

 ほかの手立てで国を行き来することができるようにと造られたのが、山路みちなのだ。

 たいていの国は、この海辺の国のように広い浜がない。巌の続く、切り立った絶壁かべばかりが海に面している国さえもある。

 山路みちには関塞せきが設けられるが、海を陸を伝うように来るならば、関塞を通らず、旅旌たびふだがなくとも行き来できてしまう。

 それを防ぐために陸に上がるとその国の郷士ごうし首長おびとに、旅旌たびふだを見せるのが慣習ならいだ。

 岩場の少なく、集落も浜辺にあり、海岸がほとんど浜辺になっている海辺の国では、海からの客人まろうどはまず人目につく。

 だが、切り立った絶壁となった海岸きしばかりの国では、人目につかずに、国に入り込むことができるのだ。

 人目につかないのであれば、旅旌がなくともよい。

 人の行き来は、国をまとめるために要ることだから、どの国も、海岸に防人さきもりら、兵士つわものをおいている。

 勝手に陸に上がる者を見定めるためだ。

 こうした国からすると、海辺の国は、おかしな国だと言うだろう。

 そう、確かにおかしな国なのだ。

 窺見としてこの陸にある国を見てきた櫨丈はじたけには、それは間違いのないことだと言い切れる。

 野分の近付くその日、来凪くなぎは見慣れない舟が近付くのに気付いた。

 そして遠波に、郷士を誰か呼んでくるように言いつけた。それは旅旌の習慣ならいを考えてのことなのだ。

 だが、異国とつくにとはどこなのか。

 海の向こう、ほとんど幼子に話す夜語りに言う異国とつくに

 それが本当にあるということは正丁おとなは考えないだろう。

 金色の海の路の向こうに確かにある国などと。

 浦飾は、過去むかし語りを望んだわけではないのだろうと、

櫨丈は思いながら耳を傾けていた。

 ただの感傷きもちだけで話すには、今でなくばならぬ理由わけがない。

「笙木は話したいとは思わないだろうな。だが、来たばかりのころは、話していた。

それをよく憶えている……。話さなくてはならなかったのだろうな、あの時には」

 二人は水城の御館に運ばれたのだが、その後ほとんど、御館からの出入りを禁じられた。

 旅旌たびふだ通行証てがたも何も持たないから、というだけではなく、

二人の話す言葉が、そもそもが違っていた。

「笙木は、少しだが話せたよ。だが、姫は少しも言葉がわからなかった」



 その国の名前は聞いたように思うのだが、浦飾は忘れてしまっていた。

 だが、笙木が教えてくれたことをたくさん覚えている。

 あまりに、この海辺の国と違いすぎた。

 あまりに、この周辺まわりの国と違いすぎた。

 だから、本当に異国とつくにというものがあるのだと、思った。

 この海辺の国に来る前には、大洋にいくつもある「島」を渡ってきたのだという。

 そして、この陸も、島のひとつだというのだが、島にしてはずいぶん大きなものらしい。

「最後」に出た島に、この陸の者がいたという。

 その者は装飾かざり生業なりわいにしていたようで、どうやら陸の海岸きしから離れて外海とつうみに流されたのだろう。

 そのまま潮の流れに乗って、辿りついた先で、新しく生活くらしを営んでいた。

 その者から笙木は言葉を学んだ。

 その島には、数年に一度、こうした者がいるという。潮に流されてくる、言葉の違う者。

 島からこの陸には、潮の流れの方角むきが違うから、来ることができても行くのが難しいらしい、ということが分かっていたのだという。

 幾人もが、この陸を確かめようと沖に舟を出した。だが、戻ってくる者はない。

 行き来がないから、そのままその者がどうなったのか、島から知る手立てはなかっただろう。

 少なくとも浦飾は、こうした「島」から来たという者がいる、という話を耳にしたことはない。

 いるのかもしれないのだが、周辺国まわりのくに郷士ごうし首長おびとからも、そのような話が出てきたことがないし、古老じじからも、確かなものとしての話は知らない。

 ただ、外海とつうみに金色の路が続いていて、その向こうには異国とつくにがある、という物語かたりごとは、こうした島のことを言うのかもしれない。

 だから、古老もしらぬ過去むかしに、そうした者、外海とつうみから客人まろうどがあったのかもしれない。

 だがそれよりも確かに、笙木が大海を渡ってきた、ということのほうが間違いなく大事おおごとなのだ。

 行き来の難しいほど遠く大海うみはたて、そこに確かに、異国とつくにはある。

 言葉の違うのは行き来がないからだ。 互いの意思を伝えることのなかったのであれば、言葉が違うのは頷ける。

 そして、行き来が難しいけれども、行くことができることが、笙木の来訪おとないで確められたことになる。

 大海うみを渡るには、陸の海岸きしを伝って他国よそくにへ向かうのとはを違う、とても技量わざのいることだという。

 潮の流れに負けない強さの舟、そして時には潮に逆らうように風を受けて、あるいは風を切るように、帆を操る。

 舵も櫂も、自在にできるように。

 そして星を見て波を見て向きをはかりながら進む。

 それだけの技量わざをもって、笙木はこの大海うみを渡ってきたのだ。

 


 二人を御館に招いてから、とにかく慌ただしかった。

 来凪のこともあったのだが、皆、水城に移ってきたばかりだった。

 他の郷士らに事訳ことわけし、居室へやを設えた。

 年嵩の郷士らや親父殿は、己の家人や邑人の世話でそればかりにかまけていることはできなかったから、浦飾が相手をすることが多くなる。

 海辺の集落人むらひとからすれば、客人まろうどには違いないから、皆気易く話しかけようとするのだが、姫は言葉がわからないし、笙木も少しの言葉しかわからない。

 旅旌たびふだもない異国とつくにからの来訪おとないだとわかってからは、居室から出るには、誰かがつくようにせよと、郷士らが合議はかりごとで決めた。

 野分は二日ほどで去ったのだが、浦飾がその後、集落のことと水城の後始末などを任されたのは、いちばん、笙木と話をしていたからだと思う。

 笙木が話せる言葉を、少しずつ、じっくり聞くのは、なかなか時のかかることだった。

 だから、傍らにいることが多くなる。

 そのまま、笙木の傍らにいながら、集落のことを取り計らうのが、いちばん手間がかからなくてよいだろうということのようだった。

 笙木のほうも、浦飾やその周りの集落人むらひとから、言葉を確めるようにして覚えていったのだ。

 笙木は、島を生国うまれとしたのではない。

 大きなおか、その南西に面した国を生国としているという。

 とてつもなく大きな陸で、多くの人が住む。

伊都いと」という海辺から、大洋に浮かぶ島々や他の陸へ海船ふねで渡り、手に入れた品々を交易あきなりすることを生業なりわいとしていた。

 生業なりわいといっても、笙木の「家」は国の首長おびとから別の役目つとめを担っていた。その役目を「」というのだ。

 首長おびといくさの際に陣を設け、その陣と首長おびとをここだと示すための幟旗はたを任されるもので、戦の折の近侍もとこと言える役目つとめだという。

 その「揮」を代々になっていたから、その名に冠するようになった。

 笙木の元の名は、しょう把栩はく。「尚」が代々の名で、この陸でいう郷に近いらしい。そのため、尚家しょうけは「揮尚きしょう」で、その嗣子むすこであった笙木は、「揮尚きしょう若君きみ」と呼ばれていたのだ。

 伊都いとという海辺から離れたところに王都みやこがあって、

その王都みやこ首長おびとが住まう。

 山間の国の御宮みあらかよりもずいぶんと大きなものらしいというのは、ずいぶんあとになってから聞いたことだ。

 長い交易あきなりのための船旅たびを終えて、伊都に戻ると、揮尚の若君は……把栩はくは、伊都が敵に陥れられたのを知る。

 家人や尚家、父親の行方も分からぬまま、伝手を頼りに、王都へ向かったのだ。

 その王都で、首長おびとが王都を守れずに、棄てたことに気付いた。

 首長おびとまでも敵に陥れられたようなのだが、把栩は多くを語らなかった。ただ、伊都を陥れた敵と、王都を陥れた者は違うようだった。

 海辺の国に来たばかりの把栩では言葉で伝えられない細やかなことがあったようなのだが、言葉が自在になってからの笙木は、このことをほとんど話さなくなってしまった。

 だから、浦飾は、把栩にとってとても苦しいことがあって、それから逃れてきたのだろうと思っている。

 ただひとつ、この陸にない言葉で、「革命」というのだと、言っていたのを覚えている。

 その王都で、把栩は姫と出会った。

 把栩の生国の、その生国を棄てた首長おびとの姫君。たったひとりの、皇女ひめみこ

 揮尚の若君は皇女をかかえ、大河かわを下り、大海うみを渡り、島々を巡ったのだ。追手にかかることを恐れて、一人で。

 ある島で、把栩は生国が戦で荒れて、皇女を追うどころではないことを行商人あきなりひとから伝え聞く。

 それで、過去むかし、己が生業なりわい交易あきなりのために立ち寄った島に向かった。皇女の行く末を案じて、預け先になるようなところを頼ったのだ。

 把栩にはかねてからの望みがあったのだという。

 伊都を束ねる尚家の若君、揮尚の若君としては行けないどこか。

 言葉も通じぬ、行き来のできるかどうかも怪しい陸。

 海船ふねに、多くの者たちをかかえては行けない。

 尚家としての責を負ったままではできないこと。

 己一人で、陸に向かう。大海を渡って、この陸を探す。

 その望みを、今なら叶えることができようと。

 この陸から流されたという装飾かざり生業なりわいにする者のいる島で言葉を少し覚え、その島の交易あきなりをまとめる郷士のような者に、皇女を預けた。

 生国から、己と皇女をのせて大海を渡った三角帆の舟。この舟に、荷を詰め込んで、海にひとり、漕ぎ出でた……はずだった。

 幼くして王都みやこを追われ、把栩を頼りにしていた皇女は、離れがたいと思ったのか、荷の中に忍んで、三角帆の舟に乗りこんでいたのだ。

 気付いたのはすでに大海うみの上で、戻るつもりにもなれなかったという。

 戻ろうと思えば、戻れたのだ。

 だが、小さき人の願いを揮尚の若君は、拒むことができなかった。

 この陸から流されたという者の話を頼りに星影でおよその場所を考えていたというのだが、ずいぶんと島影を見つけるのに日数のかかったという。

 二十日ほど経った頃、ようやく島影らしきものを見つけて、これで皇女を、成すすべなく死なせるようなことにならずにすんだと、胸の奥から思ったのだと。

 だが、風向きも強さも、間の悪い。

 野分が湧き起こって、この陸の方へ向かっているのも分かった。

 これだけの大風であれば、大海うみを渡る者は、近付きもしないで、避けられるらしい。

 だが、この風をさけて、島影をもし見失ってしまったならば、数日は大洋を漂うことになる。

 すでに二十日も大洋を走っている舟の上、それまで数日おきに島伝いの船旅たびしかしたことのない皇女の身体からだの疲れのことを考えると、少しでも陸に近付くことを決めた。

 ……このために、来凪は、……。

 把栩は己の過ちを悔いていた。遠波に掛ける言葉もないのだと。来凪に手を伸ばしたのだが、掴み切れず、助けられなかった。

 把栩の手に、短剣つるぎが残った。

 来凪が、短剣を渡そうとしたのか、それとも、……言葉がうまく聞き取れなかった。

 来凪にも綱が絡まって、それを切るように言われたのか。

 それとも、短剣を誰かに渡してほしいということだったのか。

 少しでも手を長く伸ばすために、とっさに短剣を向けたのか。

 生国から二人をこの陸まで連れてきた三角帆の舟は、もう浮かぶ力もなかった。

 舟底そこが上にひっくりかえっただけなら、まだ舟というものは浮かぶものだ。だが、波の力で、割れてしまったのだろう。

 その沈む勢いに、来凪は巻き込まれたようだが、把栩も、それを最後まで見ていることができなかった。

 皇女をかかえて、泳ぎ切らなければなかったから。

 手に残った短剣を口にくわえて、岩場の篝火かがりを頼りに。

 この陸の周りには、島はないだろうという。

 いくつか岩礁いわがあるだけで、他に人の住む島はない。

 この島影を見つける少し前に、岩礁に舟の底を少しだけ擦ってしまっていた。おそらくその擦ったところから裂けてしまったのだろう。

 把栩が言葉を探しながら語るものは、浦飾にとってそれほど益のあるものではなかったが、ただいつまでも聞いていたい、いくらでも話してほしいと思うものだった。

 他の郷士や皆に事訳せねばならぬのだ、と言って、いくらでも聞き出した。

 もっとも、あとから実はただ聞きたかったのだということに気付かれてからは、呆れてあまり話してくれなくなったのだが。

 水城の御館の居室で、把栩は姫に上座を設えた。

 だが、姫は把栩の側を離れようとしなかった。

 言葉のわからぬことが、小女には、恐ろしかったのだろう。

 姫にはその生国で賜ったという称号よばれな字名あざながあるというのだが、把栩はそれを決して使わない。

 皇女ひめみこ、とこちらにない言葉で呼んだ。

 この陸でいう姫、にとても近い言葉らしい。

 だから浦飾も姫、と呼ぶようになった。

 姫は、把栩のことを「揮尚」と呼んだ。

 姫も少しずつ、言葉を覚えた。もとより幼いほうが憶えのよいのだという。把栩はほかにも、いくつも言葉を操るというのだが、もうほかの言葉は使わないだろうと言った。

 それは、海辺の国でこの先も暮らして戻るつもりがない、ということのように感じられて、浦飾はそれ以上聞けなかった。

「浦飾殿。この国では、名というものがとてもかなめであると集落むらの女人が教えてくれた」

「……そうだ。名乗って、互いを知ることは、互いを己のこととも思うことと同じだ」

「それは、国や人と繋がりを持つということなのか」

 浦飾は少し考えた。名を知る者は、己の名も、相手の名も知ることになる。

「そうだな。そういうことだ」

 今度は把栩が考えながら言う。

「名を呼ぶことが要であるのならば、私は名を捨てるつもりだ」

 把栩の事訳では、把栩と姫の生国では、名を呼ぶよりも、役目つとめを呼び名に使うものらしい。

 名前を使うことは相手を敬うのならば好ましくないものだ、ということだと浦飾は理解した。

 ずいぶん考え方が違うのだが、異国には違うことばかりだから、それをひとつずつ考え込んでいては話が進まないことを、すでに浦飾は学んでいた。

 把栩が姫を「皇女ひめみこ」と呼ぶのはそういう称号よばれなを柔らかくしたもので、姫が把栩を「揮尚きしょう」と呼ぶのは「揮」という役目をもった尚家の者だから、ということだという。

「……揮尚というのは父のことで、私の役目つとめではなかったのだが」

 姫には、揮尚の若君、というのは難しかったらしく、いつの間にか、揮尚、となったという。

「尚把栩というこの名だが、この名に思いを重ねては、この国で生きるのに、よくない」

まだ、言葉を多く話せない把栩が考えて区切りながら話すことを、浦飾は翻って考えなおした。

「この国で生きるのにふさわしい名を名乗りたい、というのだな」

 しっかりと強い意思の目で、把栩は頷いた。

「こちらの言葉で言いやすい名を考えるつもりだ」

 それから、どうしてその名となったのかわからないのだが、数日を経て、把栩は笙木になったし、姫は笠耶になった。

 浦飾はそれを郷士らの合議で伝えた。そして二人は水城の御館の出入りが自在になった。

 笙木は御館から出入りができるようになってすぐに、海辺の国の景色を確めて、岩場に遠波がたたずむのに気付いたのだ。

 遠波が、来凪の子であることをすでに誰かに聞いていたのだろう。

 あの短剣を遠波に手渡そうとしたのだが、遠波は受取らなかった。

「だがな、櫨丈。遠波は驚いていると思うぞ。こんなかたちで、あの短剣が目の前に現れたからな」

 笑い含みに浦飾が言うことを、櫨丈はいたく同じ気持ちで聞いた。

 笙木の嗣子、主紗が腰に差していたのは、来凪の短剣だったのだ。




 ……かつて波を越えて巡りきた者がいる。

 それらが静かに、また巡りゆこうとしてゆくのを、波が聞き、月が見下ろす。

 ただ気付くのは、通り過ぎてからのことであるらしい。


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