はじまりの刻をこの手で
巡る。
回る。
動き出す。
変わりゆく。
移ろいゆく。
ただその場に「ある」、その意味は。
「ここ」に、在る意味は。
失わぬように怯え、
変わらぬように恐れ、
行き着く先を求めながら後退り、
取り戻そうと足掻く、
意味は。
どこへ。
どこかへ。
どこも。
どこへも。
「希」は、
「求」は、
どこか。
……かなた、という者がある。
衛士は
両国の
周辺の国々は
山間の国の
「民のために生を捧ぐ一族」として広く知られ、
そのために国々は早くから水の確保に動いた。語り部や古老も覚えのないほど日照り、雨がないというが、暑さに倒れ、渇き死ぬ者がこれまで少ないのは
だが、いくら水を蓄えても、雨のないままではいつか
山間の国とその
また人や家畜の飲み水までは井戸から得ても、作物までは回らない。そしてそれは翌年の飢えとなる。
海辺の国の小川は、大川と対成してそう呼ばれるようになった。大川は山間と海辺を隔てる急斜面、殆ど崖となった斜面を滝となって落ち、海辺の国の浜辺を
流れてから海へと注ぎこむ。
大川が枯れた今、それでも尚、小川は流れ続けている。その恩恵をこの周辺の国々は皆頼みにしている。作物の立ち枯れぬだけの水を海辺の国に求めるのだ。
いきおい水の
その一つが、
その
山間の国は
だが彼の決断は英断をはされない。水の代価として山間の国の
海辺の国は満ち足りた国だ。
広い浅瀬の湾に面し海の幸を手にし、かつての戦では山深く領くにを広げ山の幸を得た。満ち足りたこの国は他国のように
そのためか交易路たる「
山間の国ほどの広さも民の戸数も財も遠く及ばぬこの国は、それでも豊かな海と山に抱かれ、両国は共に
その海辺の国に、山間の国の財が流れ出ることで国同士の
彼らは筆頭郷士があくま
だがいつの間にか「戦派」と呼ばれるようになった者たちもここで引く訳にもいかぬ。彼の国が窺見を遠ざけたのは、のちの戦を見越してのことに違いなく、事を有利に運ぶがためかも知れぬ。
両派の、互いの妥協は
関塞に衛士を送り、兵士を平時の倍と成す。どちらも国の大事にのみ採られる決がなされたのである。
その国の
この時期の蝉は、季節の終わりに鳴くものよりもけたたましい。一匹が鳴き始めると示し合わせたように一斉に声を張り上げる。その鳴き始めの不思議さを味わいたくて山裾の林に分け入った幼い頃を思い出した。ふと腰までもない
背中に編んだ長い髪が揺れた。腰に届くほどの長さがあるがざっくりと編まれて、毛先は革紐で乱雑に括られている。大きめの瞳とその目元、口元が陽気な印象を与えるためか、実際の
彼の名を、
彼は今、
彼は大刀を好まない。この太刀は普通のもの、見楢の体格に合わせるだろう大きさよりも小ぶりに造らせた。弓射るよりも間近に相対した時に、動きやすいことに重きを置いた造りである。そうではあっても、彼にはそれよりも己に合った得手があるのだ。だから、太刀に頼った組み手は決してしない。
しゃがみ込んだ彼は、蝉の大声を耳にしながら、脛当の小紐を括り直した。……腰から垂れた鎖が、じゃらりと音立てた。
瞬時、見楢は受け身を取った。転がりながら己の得手とする得物を構え、膝ついて半身を起こし見まわした。
空蝉の幼木の元、彼がいたあたりには
背後の気配を察して迎え撃つ。鈍い
合った目は鋭く、布の
互いが相手の間合いを嫌い押し合っていた刃を弾いて離れるその一瞬の隙。見楢は相手の利き腕、
そのまま組み伏せようとしたところを、だが鎖を握られて引かれ体勢を崩した。
相手がみぞおちを狙って膝蹴るのを見て取って、崩れた体勢ながらも得物を手放した両腕で防ごうとする。
だが相手は膝蹴りではなく、護った腕ごと、見楢の体を蹴り飛ばした。飛ばされた見楢は背後の幹に、背したたかに打って、呻いた。
その幹、顔の近いところに己の得物が突き刺さり、見楢は身動きを無くす。投げた相手を凝視した。頬当をはずして鼻で笑い、歩み寄ってくるその顔。
「お前は詰めが甘い、見楢」
側にしゃがんで見楢の顔を覗き込んだ。
「鎖に頼りすぎる。
……数年ぶりに会ったその顔。
近頃の櫨丈はあまり
「……いつ、戻った」
絞り出した苦しい声は掠れた。だが要件を訊ねる意図は伝わったようだ。この母方の従兄は、ただ様子を見に会いに来るような暇はない。必ず、何かある。
見楢の考えの通り、櫨丈は無言で
痛む腕で広げた文にざっと目を通して大筋をつかむと、見楢は眉根を寄せた。
「面倒事だな」
委細を知っているらしい櫨丈も頷いた。だが下命の遂行だけが彼の大事で、口を挟む気がないらしく、立ち上がって背を向ける。
次は太刀の腕前を見せてくれ、と言い置いて、櫨丈は山裾の林を抜けていった。
徒手で名の知られた櫨丈には、太刀ではもっと敵わない。幹に刺さったままの己の得物の柄を掴んだ。己の背丈ほどの鎖を連ねた鎌は、櫨丈が仕込んでくれた徒手の技を使う見楢にとっては太刀よりも使い勝手がよい。鎖の鎌を使いやすくするために、わざわざ太刀を小ぶりにしているのだ。
その鎖の鎌で敵わぬうちは、その小ぶりの太刀の刃が櫨丈に届くはずがない。次も見楢は鎖の鎌を構えるだろう。
見楢は文にもう一度目を通した。木札が添えられているのを確めた。そろそろ関塞内の
昼下がりの頃のことである。
岩場に女がいた。
湾を形作る岬のように貼り出た岩場のその端、女が一人たたずんでいた。
巌がいくつも積み重なったこの岩場の向こう側を、この海辺の国では
釣糸を垂れれば大物のかかるところであるが、今は他に誰の姿もなく、だから女はただ海と空の境を見ていた。
何かを思い巡らそうとしていたかも知れぬ。思い返そうとしていたかも知れぬ。それとも何も思いたくないのかも知れぬ。もうそれすらもわからなくなって、だから海と空の境を見ているのだろうと思う。
皆、何かを抱えて生きている。生きている限りは。
海辺の国の
笠耶がその輪に加わらないのも、いつものことだ。
手の空いているときなど、たまたま居合わせたときの他は笠耶は
彼女の立つその場所は安定した巌の上、それも平らに削られ、黒く煤けていた。
平時は焚かれぬ篝火を、笠耶は一度だけ海上から見たことがある。おそらくは、己はそれを思い返そうとしていたのだろう、だがそれは靄の先の何かに阻まれているようで、思い煩うことすらできないでいるのだ。
ふと背後に気配を感じだが振り返らなかった。前を、海を見ていたかった。波が足元の巌にあたり、こぽこぽと音立てた。
「笠耶は……海を見ているのではないのね」
声で、それが巫女様だと分かった。巫女のないこの国に来た旅の巫女様。年端のいかぬ、ちょうど
海を見ているのではない。
確かにそうなのかも知れなくて、笠耶は何も返すことができなかった。
「見ているのは、『この海』ではない……違う?」
頷いた。
「この海を、見ている人もいる」
……今度は頷くことができなかった。
この国に生きる者は、この国の海を見ていて、だからこの海で生きている。己の生きるここは皆の海だが、己の海ではない……皆と違って。
「
運丁とは
「……山間の国だと聞いた」
それは隣国のことだ。
だが笠耶の脳裏に浮かんだのはそのようなことではなかった。その国の名は、彼女に幾つもの複雑な想いを呼び起こすのだ。その想いを語ったことはない。それでもこの年若い巫女は彼女の想うその何かに想い当たるような口振りで話した。
それで笠耶は、ああ、この御方はやはり巫女様なのだと思った。語らずともよいのなら、その方が今は心地よかった。
「
笠耶は振り返った。
揮尚とは笠耶が客人の男につけた名だった。今朝方、見送ったばかりの男は本当は
彼は山間の国に戻っていった。ならば遠波が運丁に行き出会うことのないとは言えなかった。だがその言葉は違う意味を持って笠耶の胸に響いて早鐘を打った。
遠波が、揮尚に会う……。
向かい合った巫女様の
振り切るように笠耶は巫女の横をすり抜けた。足場の悪い岩場を、絡みつく裳裾をたくしあげて足早になった。
あまり
このまま行けば
海辺の国はいつもと変わらぬ平生だった。ただ、女が一人、少しうち沈んだようすを見せていることに気付いてはいたが、敢えて触れようとする者はない。
日の傾く前のことである。
それはきっと
何も考えられないのはそのせいで、何も覚えていないのもそのせいだ。
堅く、柔らかく、眩しく、暗い。
それは、誰だったろう。問いかけることすらなかった。問いかけることすら知らなかった。
ただそのように振る舞うことを望まれて求められて、そのように振る舞ったら、喜ばれて褒められた。
そのように振る舞うことだけを教えられていたから、そのように振る舞わなかったら、酷い仕打ちを受けたような気がする。
なのに、ときどきちゃんと振る舞っていたのに、それでも酷いことをされたような気がする。でも、もしかしたら、……酷いことでもなかったのかも知れなかった。
何故、覚えていないのだろう。
その後に起こった出来事が、強く刻み込まれて胸を叩くから、そのせいなのだろう、きっとそうだ。
夢から覚めて、何も思い返すことができなくなった。
夢はきっと、貘とかいう生き物が喰らって、だからもう思い出すことはない。
あれからもう、見ない。
だけど、もしかしたら今ここに在るすべてが夢で、そうだとしたら、夢から醒めてしまいたい。強く胸を打つ早鐘だけが、醒めた後にあるといい。
そんな夢を、見ている。
幾度目かの倒木をまたぎ越した。
足元は轍の跡すらない、いやそもそも車や輿の通るほどの幅もない。獣道のように続く道である。
小川に沿うように、ときには離れながら、だがつかず離れず道は
森の木々から日射しの木洩れる、荒れた道である。場にふさわしくない、身なりの良い男が歩いていた。
時々、その短剣を抜いて行く手を阻む頭上から垂れた蔓をもどかしそうに薙ぐ。
彼は急いでいた。
だが行く先の見えぬ初めての道、痛む左の足首。気は急くばかり、いくらも進んだように思えない。
早朝、日が昇ってからこの道に入り、一度も休まず歩いてきた。時を確かめようにも、茂る木の葉に遮られて陽の位置はあやふやだった。だかおそらく
でに越えているだろう。
彼には今すぐにでも伺候すべき
長く国を空けたことについてはただ詫びるほかない。
それでも無為に時を費やしたつもりはない。
己が些細な過ちから隣国に入り込んだことは、今はそれなりの意味があったと思える。そうだきっと、己は「そのこと」を知るがために
だが、知ったことを己の主にすぐにでも伝えなくてはならぬというのに。
今、己は道を作りながら歩いているのだと己に言い聞かせた。……道は己の後ろに、己の来た道ができているはずだ。
だが彼には振り返る勇気がなかった。確める勇気がなかった。
彼には護るべき人がいる。何に代えても護るべき人。
だから、そのために行く手を拒むものを薙ぐ。振り払う。それはこの道の先にあるもの、起こることのように感じて、そして己の短剣を抜いて切り払う。
そのように進むのは、今の己にはきっとちょうどよいのだと思った。
彼は不安を拭うように、そして後に続く誰かを守るかのように背の高い草を掻き分けた。だが、振り返ることをしない。
彼の名を
山間の国に数ある
耳に蝉の鳴き声が響く。蝉は何をきっかけにするのか、いっせいに声を張り上げるのだ。
数日前、馬を引いてこの森に入ったときはまださほど蝉の声はなかった。それを思い出して、時の経ったのを思う。そして少し不思議に思う。
……少し、時季が早くはないか。
例年ならばひと月に足らぬ程の雨季が明けると
暦を考えるならば雨季に入ってもおかしくない頃合である。年によって遅れることはあるのだが、季節が遅れているなら、蝉が鳴き出すのは、早い。
季節の巡りが、狂っている。
大地の巡りは些細なことで崩れていく。
その軋みは、こういうことか。見えぬようにだがゆるりと、大地の生きるための巡りが死に向かう。
だが主紗はもう、大地を糺すことができぬことを知ってしまった。
その
彼にできることは限られていた。己の知ったことを、いちはやく己の主に伝えること、そして確めること。
彼の主は風を使う
彼に大地の狂いを教えたのは海辺の国に在る旅の巫女……
それは山間の国の
……水は、おそらく風も火も、彼等の意思は大地の意思に従うから。
すべてが大地の意思に従うならば、風もまたその意思のままに死に行こうとする。風はそれを
大地は生きようとはしないかもしれぬ。だが主紗にはまだすべきことが、できることがある。
彼は己の主、近隣にその名を知らしめる「民のために生を捧ぐ一族」の
幾度目かの蔓を薙ぎ払った。
まだ日の傾く前のことである。
小川の河口から道を遡り林に入り、小道は
四棟が連なり、高床の各棟は
郷士の
今、旅の巫女がここを仮の
巫女は水の
ここ海辺の国には巫女の類はいなかったから、巫女の名の意味も所以もそれ故の重みも畏れも元よりない。
……
彼女は生国を離れてから、旅の
彼女の
巫女様を一行に留め置くことは致しませぬ、と。
彼女自身もどこかでいつかここを出ていくのだろうと漠然と思い、そしてそれは
養父母を恨むようなことはない。彼らはよくしてくれた。それから彼女は一人で旅を続けている。
……だが、この海辺の国ですでに二月を過ごしている。
ここに在らねばならぬ
彼女にはもう果たせぬことである。それでも成すべきことがあるのは心地よい。ただ流れるのではなく。
ここで彼女は巫女様と呼ばれる。ならばいっそ巫女様の役目を果たすのもよい。そのように考えられるようになった己に、少しだけゆとりを感じて笑った。
彼女は今、石垣に腰掛けていた。
渡殿の御館に程近い石垣は彼女の背丈を一回り越える高さがあるが、御館の側、海から見て反対側からは補強や支えのため盛り土されて土手となり、膝下ほどの高さに抱える大きさの石が積まれている。その石垣の石の一つに腰掛けて海側に足を下ろすと、彼女の後ろ、御館のある辺りが周りよりも段高くなっているのがよく分かる。
この石垣を
水城は海と山を隔てるように
ここに腰掛けても海は林を成す木々に遮られて見えない。海から離れていることがこの水城にとって重きこと、それを水葉は知っていた。
二月前、この国に来た頃、この国の海の水をその両手で掬った。その
語り部も古老も知らない、海の出来事。この国、この土地のすべて。すでに起こってしまい、起こりきってしまい、まったく手のくだしようのない。誰のせいでもなく仕方のない、……
だが、それらは関わりのないはずの水葉の意思に迫り来て責め立て、苛むのだ。……海は、この国は。あまりにも多くの想いを抱え込みすぎていると水葉は思った。
この水城は幾年もかけて何代もかけて
少なくない数の怪我人と犠牲を出して、それでもこの水城は皆に求められ続けて、造作と補修を繰り返されて今にある。
これほどまで強い願いと想いを掛けられた造作が疎ましく、同時に恐ろしい。
苦難の行く末にその土に埋もれた想いが忘れ去られて、受ける恩恵だけを頼みにされて有難がられている。
もちろんその恩恵を受けるために造られたものだというのに、水葉は
何故、誰もこの強く重苦しい想いを受け止めずにいられる。何故、この恐ろしさに気付かない、無視できる。
水葉はきゅ、と目を閉じた。
膝の上の拳を握り、首を振った。……考えてはならぬ。考えてしまえば、きっと何もできなくなる。
今は、こんな卑小な己であっても成し遂げるべき事があるのだ。
成すべきことがあるそのことは、彼女をやっと彼女たらしめていた。
生国に捨てられ、流されてここまで生きてきてからやっと。
夢を見ている。夢の中で、夢を見ている。だから夢を
名を呼ばれた。己は……己の名は何だったか? あぁ、名を……忘れていた。
そのようなことがあるか、と言われても、あるのだろう、としか答えられない。忘れていたのだ。いや、名を……捨てたのだったか。そんな夢を見ていたのだ。
……
銀色のきらめきを幾つも越えて、渡っていく。穏やかに、緩やかに。それはいつもあることではなく、とても得をした気分になる。きらめきを足元に見ながら瞳を閉じた。頬に受ける風は凪いでいる。こんな時をいったいどれだけ過ごした来た。
再び呼ばれて振り向いた。
誰だ……いや、いい。そうだ。分かっている。ここは己の場所だ。分からぬはずがないだろう。
ここは……この場所は、なんと気難しい
波が
これがウミだ。もう忘れることはない。
ウミは
輝ききらめく、
だが……何故、
己はそれを知っている。知っているはずではなかったか。何故だ。
夢を見ている。
それは忘れ得ぬ
山間の国の
流れる黒髪はきれいに切り揃えられ背を覆う。小柄なその身を大袖の白い衣と
両国の礼節に則った
きらびやかな、だが嫌みのなく気の利いた
彼女の身の周りにつけられた御館の
彼女はこの国で生まれた。だが父の国元である奥津で育った。この山間の国に彼女の
「
「何事なの? 煩わしいことには応えないから」
「
那智よりも一回りは
那智の父方の母、つまり祖母が出自とする
男勝りな
もう一人は
「ここでは
那智の奥津の国での
奥津は巫女の国である。巫女は名を死ぬまで
名は、巫女にとって要らぬものである。巫女は「ほかの何物か」の声を聞く。ほかの何物かの声を
だが、那智は違った。彼女はこの近隣に名を知らしめる山間の国の
那智の父は奥津の有力な
まだ戦の収まらぬ頃、奥津の国はその
両国の思惑が重なり、那智は生れた。
奥津の国は巫女の国、巫女の
那智が「水」の名を受けたのはそれより五年ののち、まだ十を数えた頃である。
山間の
もし
だが彼女は
ときどき、
まして、
何が違うことがあるだろう。
否、両国を生きる者として、
那智には分かっているのだ。
それでも、なんども彼女はそう繰り返し、女首長に言い続けている。言いようのない安堵を己が得たいがために。
玖足はもう一度、主の「名」を呼びかけた。ただの巫女ならば在り得ぬことである。ときどきこれは本当にこの御方の名であるのか疑念を持つこともないではないのだが、少なくとも主はそのように呼ばれるのを好んでいるのを知っている。
「……手短に言って」
那智様は今にもまぶたを落としそうな様子で、それでも仕方なくといったように身を起こして居ずまいを直した。
「接見されたし、とのことです」
相も変わらず、言葉が少ないにも程がある。確かに手短ではあるのだが。もちろんのこと聞き直されて羽珠は細かく付け加えることとなった。
楓殿はこの
玖足は何事かを察して勘ぐった。彼女の郷の
「いかがなさいます」
「……眠たいし。先ほど会ったし。明日にしてくれないかって答えておいて」
那智は夕餉まで
だが、それを玖足は遮った。
「明日までに
確かに朝、那智は楓と会っている。だがそれは
この国に着いたとき、
楓はまだ年若い女首長の頼みとする
だが楓は
明日に引きのばして、その間に何を仕掛けられぬと限らない。
「羽珠はどう思っている」
那智は玖足がすぐに会え、と言うのに気が乗らない。それでも己の伴人の顔を立てることくらいはしてもいいと思ったのだろう、羽珠に言葉を求めた。ただ
「取り次ぎの者は要件を申しませんでした。だがあれは
ふうん、と那智はやはり気の乗らない声を出して、目配せをした。
玖足が那智の座を作ったので、仕方なくそこへ
上座にあたる
まだ掖月を手放すのは惜しいのだが、
羽珠が館内にないのは取り次ぎの者に伝えに行ったのだろう。それにしては
郷の総領媛はややしばらくの後に、薄青の乱れ模様も匂いやかに美しい、
二人は型どおりのやりとりのあと、向かい合う。
「ご挨拶の遅れましたこと、お詫び申し上げますわ、那智の姫様。
やはり
二人は
「
楓も少し笑って、
そして、そうでなくば、早くに
だが楓にしてみれば、己の半分にも満たぬ少女に口で言い負かされるはずもない。そこは意地がある。
ほほほ、と二人の笑む声に不穏なものを感じて、羽珠は顔を引きつらせた。玖足を見やると、同じように顔をしかめている。……おそらく、取り次ぎの家人も同じだろう。
日の傾くのはまだ先のことである。
主紗は足を止めた。そして見上げる。道が途切れていたから。
正しくは途切れているのではなく、彼の身の丈ほどに巌が重なり、小川は小ぶりの滝となって流れ落ちている。その巌にはどこからか蔦綯った一縄が垂れて、道は上の方で続いているようだった。
巌は苔なして滑りそうだし、足場も滝の雫に濡れて良くない。何よりも、このいつからあるか知れぬ蔦縄をどれほどあてにして己の身の目方をかけてもよいものか。
平生、左足の痛むことのなければ、試してみるだろうが、今のこの身ではそれは適わない。回り道をするのも良い策とは思えなかった。ここは慣れぬ隣国の林、道を失って戻れなくなるかも知れぬ。
考えを巡らせるために、彼は海辺の
ちょうどこの林に入ってから初めて木々が途切れて、空を見ることができた。日の傾きを見て、
そしてやっと己の左足が熱を持って痛いのだと、思い至った。痛みを感じてはいたが、一度考えの中にそのことを入れてしまうと、思いのほか無理をしたようだ。治りかけてて引いたはずの腫れがまた、ふくらんでいる。
そういえば腹も空いている。朝餉の前に水汲みを手伝い、その途中で桶まで放り出してこの道に入ったのだった。
仕方なく主紗は滝成す巌を背にもたれて座った。そっと息を吐く。染み入るように滝の水落ちる音が耳に響いた。その音が彼に冷静さを戻した。目に見えぬ焦りを感じて、ひた進んできたのだ。一息つくのには、いい頃合いだったかもしれない。
腫れた己の左足を見て、ともかく冷やそうと思う。腰下げた蓋付の籠に、
小さな籠をのぞきこんだら、
つまみあげて、それが
もう十年も前のこと、海辺の国から珍しい
だが主紗は幾度か口にしたことがあった。彼の主、女首長である明日香は、一国の首長だというのにそのあたりはくだけている。彼を連れて御苑をそぞろ歩いたときなどに熟れた実を見つけると、手ずから摘んで彼の口の中に放りいれたりするのだ。
甘酸っぱい風味は他に例えようもない。だが主紗にとっては、棘のある枝を気にせずに腕伸ばして摘んでくださった主の気持ちの方が嬉しく、だからそれをたしなめたことはない。
生国を出てきたときに見た浜梨はまだ花を咲かせていた。赤く美しい花だ。これから夏の盛りに、実が太っていくのだ。
左の足首に、水の浸した手巾をのせて冷やす。ついでに、
を括った。
主紗は顔を上げた。
今まで歩いてきた道だ。己が来た道。作った道でもある。
立ち上がって伸びをする。気が楽になった。……まだ、歩いて行ける。
滝の水で顔を洗って、喉を潤す。
そうして、蔦縄に手を掛けて引いた時、「声」が頭に響いた。
聞いたことのない声。だが、どこかで似たような響きを聞いたことが合ったような。
『およしなさい。足に悪い』
辺りを見回しても、何者の姿もない。
『水葉に頼まれたのです。貴方は必ずここで立ち止まるからと』
「水葉様が? では、あなたは水か」
『主紗。貴方は水葉の「名」を知る者。だから私の声が分かる』
意思は名に由来する。名を知らぬ者に、
思い起こせば、海辺の国で水の
だが、……水の
今更ながら、主紗は己の浅はかさに、嗤いが漏れる。あぁ、水葉様はなんと先を見越しておられたことか。
「では水よ、水葉様はなんと?」
『このまま道を行けば、海辺の
この道は国々を繋ぐ
旅旌がなければ関塞を越えられないし、調べられて
『私を、辿りなさい。森に入って、山間の関塞を目指します』
「あなたを、辿る? どのように?」
『私は、どこにでもあるのです。本来ならば』
足元を見ると、草の根の隙間からじわじわと水が湧き出て、水たまりのようになった。
その水は巌を避けるように、斜面を遡って移っていく。
この「流れ」を
すでに海は見えず、ゆるやかに小川が曲線を作っていた。
ここは郷士さま方の林だから、
笠耶は目に付いた幹にもたれて腰掛けていた。どのくらい時が経ったのか、木洩れる日の光は眩しさを失って薄く淡く地面に注ぐ。日の入りはさほど遠くないように思われた。
この林は、
膝を抱えた彼女の耳に、地を踏みしめる音がある。
声など掛けられまいと、身を固くして、行き過ぎるのを待った。誰にも見つかりたくないのだ。
だが足音は乱れず少しずつ近寄り、立ち尽くした。動かぬ笠耶に根負けして、その名を呼ぶ。
「……笠耶。日の暮れぬ前に、夕餉を整えねばならぬのではないかな」
その声は咎めるものではなかった。彼女がここにあるを知っていたようでもある。
巫女様の身の回りのことは笠耶が引き受けていたから、お困りかも知れない。だが、あの巫女様ならば、無理にそれを求めないし、
それは笠耶がもともと
この国に流れ着いてから彼女は
彼女に声を掛けた男は、その隣に腰を下ろした。
「ここは……この国はお辛いか、姫」
姫、と呼ばれた女は顔伏せたまま首を振った。
「
風のように通り過ぎた
彼女は男に声を掛けられてから初めて口を開いた。笑いが込み上げてきたから男に同じ気持ちを味わってもらいたくなったのだ。
「あれでも母親似のつもりだそうだ。本当に間の抜けている」
……そんなところまで、似ている。
顔上げてそこにいるのは
「忘れられぬか、姫?」
頷いた。だが、すぐに首を振る。
「あたしは笠耶。そして、あなたは郷士。……そうしてここで生きてきた」
海辺の民は受け入れ見送る。この国に在る者は皆、海辺の民だ。笠耶もそんな風に生きてきた。それは代えられぬ
……それでも、笠耶には、忘れ得ぬことがある。
忘れぬということだけで、まだそれは彼女にとっての
夢を見た、と笠耶は呟いた。それが夢か現実か、判じ得ぬのだと。浦飾は知っている。だがそれに答えることはない。そういう事柄ではないのだ。
「
それとも、と浦飾は聞いた。
女は眼をつむる。夢の景色を思い描こうとするが、それは適わぬことだ。夢か
浦飾は立ち上がった。これでも郷士だから、幾つも役目を抱えている。首のあたりで玉の擦れる音がした。紅の
郷氏ならばそれなりのものを手に入れることができるし、それなりのものをしてしかるべきだが、浦飾は気にする様子もなくいつも同じものをしている。
「……
そうか、と浦飾は林を抜けていった。彼にとっては慣れたところであるらしく、
一人残された笠耶は勘ぐる。
笠耶に忘れろというつもりか、それとも彼自身が忘れたいのか。そのためにわざわざ選って着たのか。
浦飾の後ろ姿、その一纏めに布かぶせた後ろ髪が、すっかり見えなくなってから笠耶は立ち上がった。
日の入りの前、もうすぐ空が赤く染まる。
使い込んだ
弓というものは射ることよりも射られぬことのほうが数段大切なのだと、彼は師である
山間と海辺を繋ぐ
男はその
なでつけるように後ろに垂れさせて括った総髪。わずかな隙も見逃さぬような切れ長の瞳は、今は閉じられている。見れば眉根が寄って眉間にしわがある。
彼は決して陽気とは言えない性質ではあったが、悩みを抱え込む人物でもなかった。皆怪訝には思うものの声を掛けることはない。ただ一人を除いては。
「
見楢は他には大豆と
采斗と呼ばれた男は瞳を開いて、ゆるりと見楢を目だけで見やる。他愛のない話題のために話掛けたような
もちろん彼の好物が生姜の汁粥だというのは本当だし、だからといってその好物に国を揺るがす
「……うまく言えんが、少しばかり気になることがある」
話し掛けた
「長雨もないのに、蝉が鳴き出した。枇杷も茱萸も少しばかり早い。雨がないのに
そもそも井戸が枯れぬのに、大川が枯れているのがおかしな話なのだ。
「
前の御方、とは
「主紗のやつは、
なるほど
「お前の郷の
なんのことだ、と聞き返した采斗に、見楢は意外な
采斗は那智が
奥津の国の
関塞の兵士の多くは、郷士やその伴人たちだ。彼等の求める報せは
ために絶えず郷とやり取りがあり、己の郷の
だから、采斗はまず己の奴人や伴人が報せを運んでいないことに腹を立てた。だが
そのような大事を見楢に教えられたことを詰るのでは、己の至らなさを露わにするだけのことだ。己が郷の様子をもう少し気に掛けていたなら、皆もそのようにこまめに郷の報せを持ってきていただろう。
那智の出自は「
采斗の郷の
……戦を厭う女首長殿の
考えを巡らせ、黙り込んだ采斗に、見楢はこっそりと笑んだ。少なくとも、彼の意図したとおりに、采斗の「気がかり」は当初とは別のものとなった。
「どうにもならぬことを考えるよりはいいだろう、これからもっと、面倒なことになる」
己の頭の中でつぶやいたはずが、声に漏れていたらしい。采斗が絡んできた。
「面倒事だと? なんだそれは。……戦でも起きると、いうのか」
「お前がそう思うなら、そうかも知れないがな。だが、戦よりも面倒なことはいくらでもあるものだからな。覚えておけよ」
見楢は考え過ぎて、生姜の汁粥を食い逃すな、大栃から落ちる因になっては困る、と言い置いて背を向けた。采斗は今夜は
残された采斗はまた眉根にしわを寄せた。
夕餉の匂い。鳶の高鳴き。蝉の夕鳴き。
己の奴人を呼ぼうかとも思ったが、やめた。五感は思考を和らげる。
交代で夕餉を取るため
関塞の
じきに
梟が低く闇に溶ける声を上げている。木々の枝葉の隙間から木漏れる月影は下弦の月。それはこれから少しずつやせ細る月で、月の出が居座って待つような宵になるために
主紗は森を歩き続けていた。足元には緩やかな斜面、それを這い上る水が「流れている」。
水の
森の中の道なき木々の根元を、じわじわと這うように水たまりが作られていく。振り返ってもその水の流れは、彼が歩いた後ろから、幾層にも重なって積もった枯葉の中へと染み込んでいくために、主紗には、己がどのように歩いてきたのかさえも捉えられずにいた。
この水の標を失うことは闇に取り残されることだ。それは森に迷うことに繋がる。ここはどこだ。足元の標のみが頼りである。わずかな月影を照り返す流れを、そろそろと追いかけるばかりである。
ときに水の標が流れることを止めてしまうことがある。元は水葉の
だから、あれから一度も水は話し掛けてくるようなことがなくとも、主紗は一人で歩いているとは思わなかった。この水の標を辿って進むことは、水葉の意思に適うことなのだと感じられた。
暗闇を一人、手探りでさ迷い歩くような、心細さはなかった。己がここに在ることを知る、誰かが在る。それが彼には心強く感じられるのだ。
きっとまだ、己にできることがあるのだと、信じられるほどに。
いずれ水が流れなくなり、水が雨を降らす意思を持たぬとしても。季節の巡りが狂い、大地が生きようとせぬとしても。
月影は少しずつ闇夜を渡っていく。日の沈んでからどれほど歩いただろう。すでに頃合いは夜半のはず。
水が、ある地点で、「立ち止まった」。
そして柔らかい声で主紗に言う。
『私はこの先には行きません』
その意図を掴みかねて、聞き返した。だが水は行かぬと繰り返した。唐突に、森の中で標を失い、何故、とも問えぬ。
だが。
その瞬きの時、闇が一筋の何かに裂かれた。
頬を掠めて、背後の……おそらくは木に当たり、音立てる。
水が枯葉に染み入るように、消えた。
月見上げていた采斗が、眼下の者に声をかけた。
何か異変はないかと訊ねられて、
不寝番は四、五日に一度ほど、
采斗が「いつもと異なっている」ことを感じたのは、彼が寝不足であるとか夢を見ていたとか腹を空かせているというような理由はまったくなかった。
ただそのように感じただけで、言うなれば「勘」である。
気持ちのざわつくものを感じて、月を見上げた。宵も過ぎて夜半になりかけた頃合いに、山端から飛び出すように昇った明るい影は、下弦の居待月である。
関塞内に焚いた
けた。ゆらゆらとたゆたう
大栃の
それを見て取った一人が、どうした、と聞いたが、采斗自身にもそれを
だが采斗は用を足すはずの
森のどこかで
だが否応なしに高鳴る鼓動が彼の緊張を高めていく。
何故、己はこんなにも張り詰めている。今宵も、例いつもと変わらぬ夜半。月影は生きるすべてに同じく降り注ぎ、そして生気を昂ぶらせるだろう。
だが平生にあるならば、張り詰めて過ごすことは却って己を損なうものだ。……その恐ろしさを知っているはずの己が、何故これほどまでに、何を恐れている。
森には夜に動き出す生き物がある。猪、貂、狸、狐。梟の声が低く耳を打つ。
采斗は特にあてもなく、いつ落ちたとも知れぬ枯葉の重なった土を踏みしめていく。関塞のある路から外れたこのあたりには、いくつか栗木があるのを憶えていた。
気配はできるだけ殺している。それは張り詰めている己のため。だが早鐘を打つこの胸音ばかりは隠せぬように感じられた。せめて足音ばかりは立てるまい。
月影に、木々ではない、何かを見た。
よく鍛練された彼の
箭を二本抜き一つを弓つがえて矯め一つは
狙いは逸れぬ。采斗が狙って射ったがために。
それが、何者かによって射られた箭であることに気付くのに数瞬を要した。
小気味よい音が背後の木から響いて空気を震わせてから、少しずつ静まっていく。突き刺さった箭の揺れが収まってきたのだろう。
右の頬が熱い。箭が掠めたことを理解した。その一瞬に顔を動かせば、死に至っただろうことを悟る。
そのために、痺れたように動けない。
頬から何かが伝っていく。血が滲み出たのだろう。
主紗は辺りの気配を感じようとした。箭の刺さった栗木を後ろにして
周囲に目を配りながら、射られた箭を確める。箭は、
ここはどこだ。まだ、海辺の国を出ていないのか。ならば、
張り詰めたものが闇を支配し、梟だけが声を上げている。
どれだけの時が経ったのか、ほんの瞬きほどの間のことであったかも知れぬ。月が夜空を渡るのがわかるほどの間のことであったかも知れぬ。
枯葉をわずかに踏みしめる音がした。それはわざと立てたもの。その
やがて箭を己の
「……采斗!」
主紗は彼の名を呼んだ。そしてここはすでに山間の国で、関塞の周りだと気付いた。数少ない己の友は、一月ほど前から関塞に赴いたままなのだから。
だが、友はそれに応えず、箭をつがえたまま声を上げた。
「何者だ」
主紗は采斗の性質を思い出す。仮にも幼い頃からの友に向かってその言葉を吐くとは。声音が震えているのは、……怒りが滲んでいるためだろう。
山間の国ではここ数日、己が国を空けていることをどのように扱っていたのだろう。ただ漠然と己の帰る場所で、己の在るべき居場所に、海辺の国を出て歩みを進めてきた、ただそれだけのことだと捉えるには、己の浅見にすぎよう。
そして采斗の父が戦派の一人だ。
采斗自身は
それに得心はいくものの、主紗には言い訳もできない。
采斗低く、抑えた声で告げた。
「俺の友は、この大事の最中に
……近頃はすっかり間抜け扱いされることに抗いを感じぬようになってしまっていたから、この旧来の友の言いように、ほろりとくる主紗である。
誰かが、間抜けだと思うならば、確かに己はそうなのだろう。迂闊に過ぎる。
だが、国を、己の主を裏切ることだけはない。誓って言える。
采斗の
「残念だが、お前の友だ。私は真を見極めずに箭を放つ友を持った憶えはないな」
「真は俺がこの目で見極める。お前が関塞にある由には必ずどこかに偽りがある。それを否定するつもりなら、
主紗は言葉に詰まった。旅旌は身の証となるもの。
「ならば俺はこの箭を放つ。俺に誤りがあるならば、いずれ女首長殿から
まずい。この
采斗という男は一途で強情で生真面目で、柔軟な考えというものはとにかく生まれるときに母御の腹に忘れてきたような奴なのだ。役目であれば、友であろうと、本当に射る。
主紗は言われたままになるわけではないが、目をつむった。しかしいつまで経っても射られるはずの征箭が飛んでこない。痛みも感じない。
代わりに、鈍い音を聞いた。ぶつかり合う音。征箭の放たれた気配。だたそれは主紗を射たものではない。彼は目を開いて、凝らした。
薄闇に見えるのは影ばかり、だが采斗が何者かに組伏せられていた。月光を背にしているためにその者の顔を判じることができない。彼の友は徒手で戦えぬような者ではないというのに。
采斗を抑えつけながら、その何者かが声を出した。
「……黙って見てりゃぁ、お前ら。気が短いにもほどがあるぜ」
「放せ、見楢! ふぬけの肩を持つのか。俺は……!」
「役目を棄てるような友はいない、ってか? 悪いが俺はお前らの兄分でな」
その声と二人のやり取りで、見楢が助けてくれたのだと分かった。どうやら見楢は成り行きを見て聞き耳立てていたようだ。身の気配を隠すのは彼の得意とするところ、また采斗も適わぬ徒手の技にも得心のいく。
采斗はまだ見楢の下でもがいていたが、背に膝を押しあてられて片腕を後ろ手に捕らえられてしまい、どうしようもないらしいことが近付いて分かった。
「見楢、すまない。騒がせた。ここは関塞の近くだな」
「よぅ。
そういうことではなく、と言いかけたのだがそれを制された。采斗を抑えているのとは違う手で、何かを差し出された。
片手で握るほどの小さな木札。その縁には照合するために
「嗣御子殿の旅旌だ。これで文句はないだろう?」
見楢が問いかけた相手は采斗、だが彼はまだどこか不服を残しているらしく、ごまかさせんぞ、と呻いた。だが見楢は改まった声でしゃあしゃあと述べる。
「これは
主紗は父の笙木の手の回っていることを知り、調子を合わせることにする。見楢の母の出自は紗郷と呼ばれる笙木が統べる郷で、
生郷の
「それでは
そういった「
見楢が力を抜くと、采斗は主紗の前に膝をついて礼をとった。
「
つまりは護衛と称して張り付くつもりだろう。
見楢が主紗を連れたのは、関塞の
中で待っていたらしい
「爺はここの
見楢の
この粗宅は、長く関塞で膳夫をしているために下されたもので、他に
中に促されたが、采斗は
……むしろ当てつけのようにも感じる。人気のないこの粗宅に衛りがついているようでは却って目立つ。
だが、主紗と見楢の郷は互いに近しい友族で、采斗の郷はどちらにも与しない。確かに慮るのが筋ではあった。己が逆の立場にあっても、同席せずに控えるだろう。
そして一言漏らさず聞き耳を立てて一つの間違いもなく憶え、それから己の成すべきことを見極めるだろう。
安穏とした海辺の
彼はそのように生きてきたし、変わらぬ「平生」にあったはずだった。だが、己の知らぬものを知った。
ならば、それは戻った、ということにはならないのだろう。己が変わればまた、その平生も変わり行くのに違いない。
見楢が主紗に
「木苺の蜂蜜煮を水に溶かして、
見楢のものには酒が入っているのだろう。采斗のものも作ったようだが、采斗はもちろん固辞している。
向かい合うように座り、で、と促される。見楢はもちろん笙木の意を承知しているが、先に主紗の話を聞こうという腹である。
主紗は悩んだ。これまではただただ歩いて、生国に向かえばよかった。己の見聞きしたことをまず、主である明日香にすべて伝えようと思って足を動かしてきたのだ。
雨は降らない。小川もいづれ流れなくなり、大地は死に逝く。
それを、……「
まだ確めなくてはならないこともある。
今ここで見楢に伝えてよいものか。もちろん見楢は信用のできる伴部だ。だからこそ父は見楢に旅旌を預けたのだ。だが、それでも慎重にしたい。
先に、と主紗は問いかけた。ああ、急速に感覚が戻っていく。
「……父上の
葦簀の影にいる友にも聞こえるようなはっきりとした声。その声高に、見楢はわずかに眉をひそめたが、懐から細竹筒を取り出した。
丸められた文を広げ、主紗は素早くその大意を掴んでいく。
手癖や好む文体にもよるが、日々の雑務や役目の中で身に付けたこと。まして己の父の文ならば、毎日のように見てきた。だから両手を広げたよりも長く巻かれた文ではあったが、読み終えるのにいくらも時はかからなかった。
那智様が御越しになっていること。それも
笙木は、主紗が国外に出たのを察している様子だ。そのために旅旌を密使に持たせた。
要点よく国内の政事の流れと郷の様子、気にかけるべき事柄がまとめられていた。初めから主紗が速読することを考えて書かれていた。
これで国を離れた数日を埋めることができる。いくつかわかりにくい所もあるが急ぎのことではあるまい。
父は己を侮っていないし、軽く見ることもない。それを感じて己に頼むところのある、あの「平生」を取り戻したように思う。
さんざん抜けていると言われたあの数日は、……もう過ぎた
しばらく刻むのを忘れていた
「密使は……
向かい合った男は。目を伏せた。あまり戸口に声を届かせたくないのだ。それはわかる。だが。
「見楢。
「何を、だ」
「今はまだ言えぬ。明日香様に伝えぬうちは、他の誰にも。時が惜しい。馬は使えるか」
「……だぁーかーらっ。そう気短くなるなっての。何を焦る? 何を見て知った? 落ち着け。今は休んだほうがいい。歩き通しに来たんだろうが。
飯食、の言葉に腹がまたきゅるる、と情けない音をたてた。見楢が笑い含みに続ける。
「お前の都合は知らん。俺は
文にそういったことは確かに書かれてあって、見楢は主紗の都合よりも笙木の命じたものを先とみなさなくてはならぬ立場なのは分かる。だが主紗は唇を噛んだ。ここから
主紗の勢いが萎えるのを見て取ると、見楢はここぞとばかりに続ける。
「姫巫女様の許に何をおいても、って駆けつけようとするのもいいけどな。お前、今は暇をもらって
何に先駆けても、まずは父の元へ来るようにと文にはあった。だが、関塞で飯食に時を取られようとも、邸宅で笙木に足止めを受けたくない。
「主紗。急いてコトを運ぶよりも、お前の性分も役目も、策を練ることだ。らしくもないぞ。
主紗はぐっと、詰まってしまった。焦っているのは確かなのだ。水に限りがある。今、こうしている間にも、水は消え行こうとする。
水が消えて大地の巡りが狂う、その始まりと終り、
主紗は
何もしなくとも、水は無くなる。大地は狂う。
それはすでに決まり切ってしまった「物事」だ。では己が動かすものは。
国と、その
ここに生きる「ひと」の意思。
見楢の言うとおり、本当の
限りの在ることならば、策を練り、知恵を絞るほどの余地にも限りがあるということだ。
主紗に今できることは、この二人の友を動かすことだった。少なくとも、それができねば、何も動かせないのに違いない。
主紗にそれを教えた水の
それは、
そして始まるものは、……人々の、民の惑いだ。
ここに至ってようやく、その張り詰めた弦を裁つ手を己の内に抱えていることに思い知る。
あぁ、最悪の
見楢に言われなければ、深く慮ることのないまま、その
見楢は采斗だけではなく、総領殿の嗣御子の扱いにも長けているのである。
「……わかった。たしかに私は焦っていて、らしくないのだろう。だから、まずはおとなしく飯食をちょうだいする」
向かい合った兄分は、戸口に声を掛けた。爺が盆を下げ持って、待っていたのだ。
爺が急ぎ用意したのは、
とは言っても主紗はこれは何だ、と問いかけて教えてくれた爺の作り方の半ばもわからなかったのだが。ともかくもそれを腹に入れて、人心地のついたのだった。
「久方に、満足に食った……」
膳を置き、主紗は父の文をもう一度読み直した。そして文の様子から、明日香の意向がないことを確かめる。父はどのようにして己が隣国に出たことを知ったのだろうか。
……明日香さまならば、風に聞いておられたかもしれないと思っていたのだが。
いや、それはないかと己の考えを否定した。
水の
どちらかが拒むのか。それとも互いが拒むのか。人の身である主紗にはわからない。
この文から読み取れることは、明日香様は己が隣国に出たことを承知していること、そしてそれを父に伝えたこと。この旅旌を見楢に預けたのは父の考えで、明日香様はご存知ではなかろう。
那智様が御越しであるというのに、楓殿が暇をとっているということが気にかかる。名目は
国を出る前のことを思い出す。那智は風に声を乗せて明日香に呼び掛けていたという。
それぞれの「意思」が複雑に絡み合う。その中で、己がどのように立ち回るか……。
身震いがする。面白い。
そうだ、それが己の得手とするところ。それをすべて明日香様を守ることにつながっていくだろう。否、つなげてみせる。
見楢の姿は今この粗宅にない。ふと気付けばずっと葦簀の影にあったはずの采斗の気配もない。もっとも采斗が主紗に気配を悟られぬようにするのは容易いことではあるのだが。
それでも随身する、と言ったからにはあの友のことならば気配を消さず、主紗にわかるようにして付き従うものと思っていた。
戸口から顔を出して覗いてみたのだが、やはり采斗の姿はない。物事を途中で投げ出すような男ではないのだが。
この辺りは関塞の造作の際に木々が抜かれてならされたと見えて、大木がいくつかあるだけである。他の
森の中の道を一人で歩いてきたが、一度誰かに関わってしまうと独りで取り残されると居心地悪い。それでこちらに向かってくる
よりも関わりのない者に見つかることを恐れるよりも、安堵を覚えて、慌てて気持ちを引き締める。
危ぶむ意識が低いようでは、まるで
松明の持ち手は爺だった。見楢に言いつけられたのだという。
主紗は飯食の礼を言った。膳夫の朝は早いというのに夜更かしさせてしまった。いえいえ残り物しかございませんで却って申し訳ないことで、などと言いながら立ち並ぶ御館の裏側目立たないところを選びながら、主紗を連れていく。
「厩か」
爺はおじぎをしながら去っていく。中から見楢が顔を出した。
「その足では歩きは無理だろう。こいつで行くといい。……
漆黒の毛並みも美しく、暗闇に浮かびあがった馬体は引き締まり力を感じさせる。身丈も高く、瞳は苛立ちも怯えもなく静かだ。
「こいつは……お前の郷でも壱弐、とかいう名馬だろう? 聞いているぞ。いいのか、連れて行っても」
すでに鞍置かれた真刀の手綱を引いて厩の外に連れながら見楢はいう。
「構うな。真刀は俺が親父殿から下されたが、気性が大人しい。俺は兵士だから、
真刀は美しい馬首を見楢に寄せた。いいのか、と聞いているように見えた。彼がうなずき、軽くたたくと、小さく鼻をならしてから、主紗に向き直る。
「きっと、大事にしよう。必ず」
見楢は主紗と真刀をこっそりと関塞の門から離れた逆茂木へと連れた。関塞の者たちにすらあまり知られぬ隠された門があるというのだ。
主紗は真刀の鐙に足かけて飛ぶように跨る。左の足首は、怪我に慣れている見楢に診てもらって薬を塗りかえて堅布で巻き直してもらっていた。
真刀の首を頼む、というように撫でて、手綱を取る。
「見楢、面倒を掛けた。この借りは必ず返す」
「あてにはしないさ。それに俺は総領殿に従った。お前には関わりない。……面倒事の主はさっさと行け」
わずかに踏み分けられた獣道が続くからそれを辿れば路に出る、と見楢は小さな門を閉じた。そして少しだけ、息を吐く。
主紗は、少し変わった。いい顔つきになった。
さて、あの子離れできぬ総領殿はそれを見てなんと言うだろうか。思い巡らせて、見楢は誰もいないところで一人、口の端を吊り上げた。
月影を見上げた。俺はなんていい奴なんだ、と一人ごちる。真刀のような良馬、望んでもそうは得られるものではない。ただ、今、己の手元に他の馬がいなかったのだ。
これはもう、それがもったいなかった、と後から思うようなことだけはしてくれるなよ、と願うよりほかにどうにもならないではないか。
「面倒事はもう……起きねーよなぁ……?」
心の奥底から願わずには居られない。こんな役回り、
「
だが、彼の願いは虚しく、きっと面倒事は起こるに違いない。
済んだことを思い煩うのは「
……だから彼はこの「見楢」という役柄を、生まれ落ちたそのときから生きている。
「見楢」を生きる。物語が……終わるまで。
戻る道で彼は
だが彼はその薪を掲げた。それだけで。
燻っていただけの、薪。
それが、「何もしないのに」炎を上げていく。
炎は彼の足もとに、彼自身の影を作った。その炎に揺らめく影を、彼は数瞬……見つめた。
櫓に向かって歩き出す。もともと
仲間の兵士や衛士をの顔を見つけて、悔しいが賭けに負けたと陽気に笑って見せる。
それが「いつも」の見楢だった。
真刀を並足で走らせ、小道を抜ける。しばらく進むと教えられた通りに、幅広く築固められた「
月明かりのために、思いのほか明るい。見楢が真刀に負わせた荷には松明もあったが、使わずにすむだろう。
路の先に、闇深く影がある。馬体がこちらを待ちうけているのだ。
「……采斗。どうした。関塞に在るのがお前の務めだろう」
言われた友は、ふん、とひとつ鼻を鳴らす。
「
まだそれを引きずっていたのか。己の友らしく、笑うよりない。
それに、と采斗は続けた。ひとつ借りがある。戸口まで聞こえるように声高に話した。それを借りたままにしておくのは居心地の悪い。
「お前は、……旅旌なく国境を越えた。否応なく、考えもなく、そのような手抜かりをお前はしないだろう。だがもしも、その越えた先でお前が知り得たこと為したことが、女首長殿を悩ますようならば、俺はこのままお前を行かせられぬ」
つまりは、
主紗は、わかった、と短く言って真刀の腹を蹴った。長く友をしていれば、わかる。なんだかんだと言い訳をするが、采斗は主紗の左の足首が腫れているのを知って、ついてくる気になったのだろう。
采斗は己の馬に真刀の後を追わせた。栃栗毛の彼の駆る馬もまた良馬。その名を
主紗が早駆けすることを見越し、木凜の負担を思い、采斗は
弓は
その合わせた荷の重みは真刀のものとは比べものにならない。だが木凜は早駆る真刀を追い、采斗と息を合わせ駆けを崩さない。
その柔らかい乗り心地、辛抱強さもあること、息切れせずに長く駆けることのできることも含めて、戦場に連れるために生まれた、兵士のための良馬だと、采斗は木凜を可愛がっていた。
前を行く主紗がわずかに振り返った。己を後ろに友があることを確めるために。
それは「道」を一人きりで作り上げた
続く誰かのために切り開き、人は進んでいく。
友が前を向け、慣れぬ夜道はたやすくはないと叫んだ。己の
この路は、続いている。
己の在るべき居場所へと続いている。
その路の
……何に代えても、護る人がいる。
限りを越えるための
たとえその身に余ることだとしても、
待ち受けている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます