はじまりの刻をこの手で

 巡る。

 回る。


 動き出す。


 変わりゆく。

 移ろいゆく。


 ただその場に「ある」、その意味は。

「ここ」に、在る意味は。


 失わぬように怯え、

 変わらぬように恐れ、

 行き着く先を求めながら後退り、

 取り戻そうと足掻く、

 意味は。


 どこへ。

 どこかへ。


 どこも。

 どこへも。


「希」は、

「求」は、


 どこか。

 ……かなた、という者がある。



 山間やまあいの国のはたて、隣国たる海辺うみべの国へと続く「みち」の関塞せきに二十名ほどの兵士と三十名の衛士えじが「防人」としての兵役にあった。

 衛士は集落むらから徴用された民、本来の役割は国の要たる山間の国の首長おびと御在所いましどころを衛る。だが国の大事の折には「防人」として関塞せきに送られるのが慣例ならいである。

 郷士ごうしとその伴部とものべらが兵士として関塞を固めその通行いききを司る数は平時は十名ほど、それも今は増やされていた。

 両国の関係かかわりが悪くなる中にあっても、山間の国は己の隣国に窺見うかみを放てぬ。筆頭郷士いちのごうしが交わした約定きまりのためである。

 軍事いくさごと政事まつりごと外交まじわりも、窺見がなくば不利となる。他国の様子を探る手を失うが、筆頭郷士はそれよりも水を選んだ。

 周辺の国々はひでりから水不足に陥っている。今や水を確かに流す川は海辺の国を流れる小川だけだという。諸国はかろうじてその地下水脈ちのながれや溜め池の水で生きる分を繋いでいる。例年いつも通りならば、まもなく雨季になるはずなのだ。

 山間の国の首長おびとは類い稀なる霊力ちからを宿す霊力者みこだ。

「民のために生を捧ぐ一族」として広く知られ、霊力ちからをもって民を救う。霊力者みこの首長は数か月前、周辺まわりの国々、同盟つながりのある諸国にあてて伝馬つかい国書しらせを持たせた。

 ひでりに意を留めよ、と。

 そのために国々は早くから水の確保に動いた。語り部や古老も覚えのないほど日照り、雨がないというが、暑さに倒れ、渇き死ぬ者がこれまで少ないのは霊力者みこの首長のおかげと言える。

 だが、いくら水を蓄えても、雨のないままではいつか限界かぎりがくる。

 山間の国とその関係つながりの深い奥津おきつの国を緩やかに流れる大川は、この周辺で最も大きな川だというのにすでに水を流さない。大川を成した伏流がまだわずかに井戸に掬えるほどの水をもたらすが、それもいつまで持つかわからない。

 また人や家畜の飲み水までは井戸から得ても、作物までは回らない。そしてそれは翌年の飢えとなる。

 海辺の国の小川は、大川と対成してそう呼ばれるようになった。大川は山間と海辺を隔てる急斜面、殆ど崖となった斜面を滝となって落ち、海辺の国の浜辺を

流れてから海へと注ぎこむ。生活用水くらすためのみずには大川で充分、集落むらからは離れているためにあまり用を成さなかった。

 大川が枯れた今、それでも尚、小川は流れ続けている。その恩恵をこの周辺の国々は皆頼みにしている。作物の立ち枯れぬだけの水を海辺の国に求めるのだ。

 いきおい水のあたいが上がる。もとは水に値などつかなかった。本来ならば売るものでもなく、手に入れるもの。それでも、少なくなれば、珍しくなり、値が付いて大切にもされる。

 周辺諸国まわりのくにが動く中、山間の国も水を得るために手を講じた。筆頭郷士はその旧知である海辺の郷士と密かに約定きまりを交わしたのだ。

 その一つが、窺見うかみを放たぬというもの。

 その期限かぎりは水不足が解消されるまでという曖昧なもの。それとて軍事いくさには不利になりかねぬ、と山間の国内では非難されているが、その代わりに山間の国に優先して水が運ばれる。例え高値であったとしても。

 山間の国は同盟きずな盟主国あるじ国力ちからを落とす訳にはいかない。だが、水を言い訳に争い、戦を起こすこともしない。

 だが彼の決断は英断をはされない。水の代価として山間の国のたからが海辺の国に運び出されることになる。

 海辺の国は満ち足りた国だ。

 広い浅瀬の湾に面し海の幸を手にし、かつての戦では山深く領くにを広げ山の幸を得た。満ち足りたこの国は他国のように交易あきなりに国力や財を費やさずとも自国のみで生きるすべがある。

 そのためか交易路たる「みち」で繋がれた同盟国くに同士での交易あきなりにほど熱心でない。求められて応じても、自ら求めることはあまりない。

 山間の国ほどの広さも民の戸数も財も遠く及ばぬこの国は、それでも豊かな海と山に抱かれ、両国は共に同盟きずなを支えてきたのである。

 その海辺の国に、山間の国の財が流れ出ることで国同士の勢力ちからが大きく変わっていくことを懸念する者たちがいる。

 彼らは筆頭郷士があくま交易関係あきなりのつながりで事を進めようとするのを良しとせず、国力ちからが落ちる前に武力ちからを見せつけるべきだと説いた。そしてあわよくば国境くにざかいに沿うように蛇行して流れる小川の上流かみつながれを山間の国に取り込もうというのだ。

 霊力者みこの首長は戦を好まぬ。戦のために民が欠けるを好まぬ。「民のために生を捧ぐ」限りは許されぬことだと、筆頭郷士の策をとっている。

 だがいつの間にか「戦派」と呼ばれるようになった者たちもここで引く訳にもいかぬ。彼の国が窺見を遠ざけたのは、のちの戦を見越してのことに違いなく、事を有利に運ぶがためかも知れぬ。

 両派の、互いの妥協は関塞せきの増員となった。

 関塞に衛士を送り、兵士を平時の倍と成す。どちらも国の大事にのみ採られる決がなされたのである。



 その国のはたてでは、ひるの鍛練が終わり、和やかなひとときである。午の最中にはわずかにおとなしかった蝉は再び大きな音を響かせる。

 この時期の蝉は、季節の終わりに鳴くものよりもけたたましい。一匹が鳴き始めると示し合わせたように一斉に声を張り上げる。その鳴き始めの不思議さを味わいたくて山裾の林に分け入った幼い頃を思い出した。ふと腰までもない幼木おさなぎの小枝に空蝉ぬけがらを見つけてしゃがみ込む。

 背中に編んだ長い髪が揺れた。腰に届くほどの長さがあるがざっくりと編まれて、毛先は革紐で乱雑に括られている。大きめの瞳とその目元、口元が陽気な印象を与えるためか、実際の年齢としよりも幼く見られがちだった。だが細身であってもよく鍛えられ引締まった体躯からだは年相応かそれ以上、間違いなく兵士ものである。

 彼の名を、見楢みははそという。山間の郷士の庶子むすこに生まれて兵士となった。母は他郷の伴部とものべひめだったから、年こそは年長だがさと総領このかみを継ぐような立場にもならず郷邑むらおさにも収まらず、それでも武芸の心得を修めたために兵士として首長に仕えている。おそらくは郷の総領は異母弟ことはらのおとひとのうちの誰かが継ぐことになるだろうから、そのあたりのことについては気楽なものだ。

 彼は今、胸当むねあて脛当すねあて手甲こうといった小具足こぐそく姿である。鍛練の最中さなかには皮甲よろいを身に付け弓持っていたのだが、この昼日中に体を動かせば蒸れて仕方がない。鍛練が終わってすぐに脱いで皮甲に風通しをして、中身の体躯は木陰を求めて関塞せきの裏手の林に入ったのだ。それでもさすがに腰には太刀を佩いていた。

 彼は大刀を好まない。この太刀は普通のもの、見楢の体格に合わせるだろう大きさよりも小ぶりに造らせた。弓射るよりも間近に相対した時に、動きやすいことに重きを置いた造りである。そうではあっても、彼にはそれよりも己に合った得手があるのだ。だから、太刀に頼った組み手は決してしない。

 しゃがみ込んだ彼は、蝉の大声を耳にしながら、脛当の小紐を括り直した。……腰から垂れた鎖が、じゃらりと音立てた。

 瞬時、見楢は受け身を取った。転がりながら己の得手とする得物を構え、膝ついて半身を起こし見まわした。

 空蝉の幼木の元、彼がいたあたりには刀子とうすが刺さっていた。

 背後の気配を察して迎え撃つ。鈍い金属音かねのおとはひとつ、互いの刃の立てたもの。そしてじゃらりと鎖が揺れて音鳴らす。

 合った目は鋭く、布の頬当ほおあて表情かおは見えない。

 黒橡色くろつるばみ肩衣かたぎぬ、両の手足に堅く巻かれた麻布。山野を音立てず歩くための毛綱貫つなぬきくつ。良く鍛練の積まれたその動きは、だが兵士つわもののそれではない。

 互いが相手の間合いを嫌い押し合っていた刃を弾いて離れるその一瞬の隙。見楢は相手の利き腕、短剣つるぎを握る腕に鎖を絡ませて動きを止める。

 そのまま組み伏せようとしたところを、だが鎖を握られて引かれ体勢を崩した。

 相手がみぞおちを狙って膝蹴るのを見て取って、崩れた体勢ながらも得物を手放した両腕で防ごうとする。

 だが相手は膝蹴りではなく、護った腕ごと、見楢の体を蹴り飛ばした。飛ばされた見楢は背後の幹に、背したたかに打って、呻いた。

 その幹、顔の近いところに己の得物が突き刺さり、見楢は身動きを無くす。投げた相手を凝視した。頬当をはずして鼻で笑い、歩み寄ってくるその顔。

「お前は詰めが甘い、見楢」

 側にしゃがんで見楢の顔を覗き込んだ。

「鎖に頼りすぎる。徒手むてに弱い」

 ……数年ぶりに会ったその顔。櫨丈はじたけだ。文句を言いたいが、見楢はその痛みに声が出ない。

 近頃の櫨丈はあまり領内くにうちにいない。見楢は太刀佩く頃までは、この十も年の離れた従兄に徒手むての技を教わっていたのだが、兵士となって軍衙ぐんがに出仕するようになってからはめっきりと顔を合わすことが減っていた。

「……いつ、戻った」

 絞り出した苦しい声は掠れた。だが要件を訊ねる意図は伝わったようだ。この母方の従兄は、ただ様子を見に会いに来るような暇はない。必ず、何かある。

 見楢の考えの通り、櫨丈は無言でふみを差出した。

 痛む腕で広げた文にざっと目を通して大筋をつかむと、見楢は眉根を寄せた。

「面倒事だな」

 委細を知っているらしい櫨丈も頷いた。だが下命の遂行だけが彼の大事で、口を挟む気がないらしく、立ち上がって背を向ける。

 次は太刀の腕前を見せてくれ、と言い置いて、櫨丈は山裾の林を抜けていった。関塞せきの者たちに姿を見られぬように離れてから路に出るつもりなのだろう。

 徒手で名の知られた櫨丈には、太刀ではもっと敵わない。幹に刺さったままの己の得物の柄を掴んだ。己の背丈ほどの鎖を連ねた鎌は、櫨丈が仕込んでくれた徒手の技を使う見楢にとっては太刀よりも使い勝手がよい。鎖の鎌を使いやすくするために、わざわざ太刀を小ぶりにしているのだ。

 その鎖の鎌で敵わぬうちは、その小ぶりの太刀の刃が櫨丈に届くはずがない。次も見楢は鎖の鎌を構えるだろう。

 見楢は文にもう一度目を通した。木札が添えられているのを確めた。そろそろ関塞内の小館たちに戻らねばならぬだろうが、この文は皆の前で読むわけにいかない。

 昼下がりの頃のことである。



 岩場に女がいた。

 湾を形作る岬のように貼り出た岩場のその端、女が一人たたずんでいた。

 巌がいくつも積み重なったこの岩場の向こう側を、この海辺の国では外海そとうみと呼んだ。その先は異国とつくにへと続く海である。

 釣糸を垂れれば大物のかかるところであるが、今は他に誰の姿もなく、だから女はただ海と空の境を見ていた。

 何かを思い巡らそうとしていたかも知れぬ。思い返そうとしていたかも知れぬ。それとも何も思いたくないのかも知れぬ。もうそれすらもわからなくなって、だから海と空の境を見ているのだろうと思う。

 皆、何かを抱えて生きている。生きている限りは。

 笠耶かさやも、その一人だ。……まだ、生きているから。

 海辺の国の集落むらは、いつもと変わりがなかった。ここ数日の客人まろうどが通り過ぎるように去ったが、それはいつものことで、女たちは乾魚ほしいおを天日に並べ、男たちは夕方のすなどりのために網を繕う。

 笠耶がその輪に加わらないのも、いつものことだ。

 手の空いているときなど、たまたま居合わせたときの他は笠耶は作業しごとに加わらないものだった。そして誰も、敢えて強いることは殆どない。だから彼女は己が望むならばいつまででも海と空の境を見続けることができた。

 彼女の立つその場所は安定した巌の上、それも平らに削られ、黒く煤けていた。篝火かがりの痕である。

 平時は焚かれぬ篝火を、笠耶は一度だけ海上から見たことがある。おそらくは、己はそれを思い返そうとしていたのだろう、だがそれは靄の先の何かに阻まれているようで、思い煩うことすらできないでいるのだ。

 ふと背後に気配を感じだが振り返らなかった。前を、海を見ていたかった。波が足元の巌にあたり、こぽこぽと音立てた。

「笠耶は……海を見ているのではないのね」

 声で、それが巫女様だと分かった。巫女のないこの国に来た旅の巫女様。年端のいかぬ、ちょうど客人まろうどの男くらいの若い御方ではあるが長老おきな方のような者の見かたをなさる、不思議な御方だった。

 海を見ているのではない。

 確かにそうなのかも知れなくて、笠耶は何も返すことができなかった。

「見ているのは、『この海』ではない……違う?」

 頷いた。

「この海を、見ている人もいる」

 ……今度は頷くことができなかった。

 この国に生きる者は、この国の海を見ていて、だからこの海で生きている。己の生きるここは皆の海だが、己の海ではない……皆と違って。

運丁はこびよほろが出るとか」

 運丁とは運脚はこび労役えだちだ。他国への御調みつぎ関塞せきへの荷を運ぶ人夫よほろさとの者ではなく、集落むらに課されている。近頃では運丁と言えば水を他国へ売りに行くことだった。

「……山間の国だと聞いた」

 それは隣国のことだ。奥津おきつ深見ふかみの国への道程みちのりを思えば、これほど近い国はない。重い水樽を幾つも引いても、四・五日で戻ることのできる運丁である。

 だが笠耶の脳裏に浮かんだのはそのようなことではなかった。その国の名は、彼女に幾つもの複雑な想いを呼び起こすのだ。その想いを語ったことはない。それでもこの年若い巫女は彼女の想うその何かに想い当たるような口振りで話した。

 それで笠耶は、ああ、この御方はやはり巫女様なのだと思った。語らずともよいのなら、その方が今は心地よかった。

遠波とおなみ揮尚きしょうに会うかもしれない」

 笠耶は振り返った。

 揮尚とは笠耶が客人の男につけた名だった。今朝方、見送ったばかりの男は本当は主紗かずさと言って、山間の国から誤って国境くにざかいを越えた間抜けな、だが気のいい男。

 彼は山間の国に戻っていった。ならば遠波が運丁に行き出会うことのないとは言えなかった。だがその言葉は違う意味を持って笠耶の胸に響いて早鐘を打った。

 遠波が、揮尚に会う……。

 向かい合った巫女様の表情かおには何もなかった。からかいも侮蔑もなく、いたわりも優しさもない。それは言葉の意味のとおりの他に、違う意味がないからだ。……少なくとも、この年若い旅の巫女にとっては。

 振り切るように笠耶は巫女の横をすり抜けた。足場の悪い岩場を、絡みつく裳裾をたくしあげて足早になった。集落むらに戻れば遠波がいる。……今は顔を合わせたくない。

 あまり集落むらの者が来ることのない小川の向こう、郷士らの邸宅やしきの並ぶ郷の道を笠耶は歩いた。途中すれ違った誰かは郷の邑人むらひと随従つかいひとだったような気もするが、今は会釈が精一杯で、それが誰だったのか気に留めることはできなかった。

 このまま行けば山路みちに出てしまうというところで、道を逸れて林に入った。

 海辺の国はいつもと変わらぬ平生だった。ただ、女が一人、少しうち沈んだようすを見せていることに気付いてはいたが、敢えて触れようとする者はない。

 日の傾く前のことである。



 それはきっと白昼夢ひるゆめだった。

 何も考えられないのはそのせいで、何も覚えていないのもそのせいだ。

 堅く、柔らかく、眩しく、暗い。

 それは、誰だったろう。問いかけることすらなかった。問いかけることすら知らなかった。

 ただそのように振る舞うことを望まれて求められて、そのように振る舞ったら、喜ばれて褒められた。

 そのように振る舞うことだけを教えられていたから、そのように振る舞わなかったら、酷い仕打ちを受けたような気がする。

 なのに、ときどきちゃんと振る舞っていたのに、それでも酷いことをされたような気がする。でも、もしかしたら、……酷いことでもなかったのかも知れなかった。

 何故、覚えていないのだろう。

 その後に起こった出来事が、強く刻み込まれて胸を叩くから、そのせいなのだろう、きっとそうだ。

 夢から覚めて、何も思い返すことができなくなった。

 夢はきっと、貘とかいう生き物が喰らって、だからもう思い出すことはない。

 白昼夢ひるゆめはもう見ない。

 あれからもう、見ない。

 だけど、もしかしたら今ここに在るすべてが夢で、そうだとしたら、夢から醒めてしまいたい。強く胸を打つ早鐘だけが、醒めた後にあるといい。

 そんな夢を、見ている。



 幾度目かの倒木をまたぎ越した。

 足元は轍の跡すらない、いやそもそも車や輿の通るほどの幅もない。獣道のように続く道である。

 小川に沿うように、ときには離れながら、だがつかず離れず道は上流かみつながれへと続いていく。急ではないが僅かな段差が小さな滝を形作っているのを見て、それで確かに己は山間の国へと向かっているのだと思う。

 森の木々から日射しの木洩れる、荒れた道である。場にふさわしくない、身なりの良い男が歩いていた。

 縹色はなだほうは本来、盤領まるくびのものだが、えりを内側に折って垂領たりくびにして着ている。山歩きのために動きやすく着崩した。筒袴つつばかまには足結あゆいをつけ、膝下は脛巾はばきの代わりに長い布を巻き付けている。否、左足首の布は薬を貼って固く巻いてある。歩き方はどこか痛みを堪えて左足を庇っているようである。腰にはとうの蓋付の籠、そして鞘。その大きさから収まっているのは短剣つるぎだろう。

 時々、その短剣を抜いて行く手を阻む頭上から垂れた蔓をもどかしそうに薙ぐ。

 彼は急いでいた。

 だが行く先の見えぬ初めての道、痛む左の足首。気は急くばかり、いくらも進んだように思えない。

 早朝、日が昇ってからこの道に入り、一度も休まず歩いてきた。時を確かめようにも、茂る木の葉に遮られて陽の位置はあやふやだった。だかおそらくひるをす

でに越えているだろう。

 彼には今すぐにでも伺候すべきあるじがあった。

 長く国を空けたことについてはただ詫びるほかない。

 それでも無為に時を費やしたつもりはない。

 己が些細な過ちから隣国に入り込んだことは、今はそれなりの意味があったと思える。そうだきっと、己は「そのこと」を知るがために国境くにざかいを越えたのだ。

 だが、知ったことを己の主にすぐにでも伝えなくてはならぬというのに。

 今、己は道を作りながら歩いているのだと己に言い聞かせた。……道は己の後ろに、己の来た道ができているはずだ。

 だが彼には振り返る勇気がなかった。確める勇気がなかった。

 彼には護るべき人がいる。何に代えても護るべき人。

 だから、そのために行く手を拒むものを薙ぐ。振り払う。それはこの道の先にあるもの、起こることのように感じて、そして己の短剣を抜いて切り払う。

 そのように進むのは、今の己にはきっとちょうどよいのだと思った。

 彼は不安を拭うように、そして後に続く誰かを守るかのように背の高い草を掻き分けた。だが、振り返ることをしない。

 彼の名を主紗かずさという。山間の国の筆頭郷士いちのごうし嗣子むすこである。

 山間の国に数あるさとの中でも広く、肥沃な耕地を抱えた郷を本拠地よりどころとして育ち、いずれは郷の総領このかみとなる立場ではあったが、今のところ伝来の郷を父に任せたまま己は国の首長おびとたる霊力者みこ様の従者ずさとして仕えていた。

 耳に蝉の鳴き声が響く。蝉は何をきっかけにするのか、いっせいに声を張り上げるのだ。

 数日前、馬を引いてこの森に入ったときはまださほど蝉の声はなかった。それを思い出して、時の経ったのを思う。そして少し不思議に思う。

 ……少し、時季が早くはないか。

 例年ならばひと月に足らぬ程の雨季が明けると同時おなじに鳴き出すのだ。

 暦を考えるならば雨季に入ってもおかしくない頃合である。年によって遅れることはあるのだが、季節が遅れているなら、蝉が鳴き出すのは、早い。

 季節の巡りが、狂っている。

 大地の巡りは些細なことで崩れていく。

 その軋みは、こういうことか。見えぬようにだがゆるりと、大地の生きるための巡りが死に向かう。

 霊力者みこは、大地の狂いを糺すという。

 だが主紗はもう、大地を糺すことができぬことを知ってしまった。

 その発端おこりを見つけてしまったような気持ちになり、耳を塞ぎたくなったが、それは意味のないことだ。

 彼にできることは限られていた。己の知ったことを、いちはやく己の主に伝えること、そして確めること。

 彼の主は風を使う霊力者みこ、まったくその予兆きざしを感じずに日々の御勤つとめをこなしているとは考えにくい。それとも風は……何も応えぬというのか。

 彼に大地の狂いを教えたのは海辺の国に在る旅の巫女……霊力者みこ様だった。彼女には水の霊力ちからがあり、水を「使う」。

 それは山間の国の霊力者みこ女首長めおびとが使う風の霊力ちからと見劣りしない。彼女がその霊力ちからで知り得たという大地の巡りの狂いは……水が彼女に教えたこと。では、風は。

 ……水は、おそらく風も火も、彼等の意思は大地の意思に従うから。

 すべてが大地の意思に従うならば、風もまたその意思のままに死に行こうとする。風はそれを霊力者みこに感じ取らせぬうちに、死に向かおうというのか。それとも己の主はすでに察していて、口にすることをためらっているのか。

 大地は生きようとはしないかもしれぬ。だが主紗にはまだすべきことが、できることがある。

 彼は己の主、近隣にその名を知らしめる「民のために生を捧ぐ一族」の霊力者みこ姫、明日香あすかのもとへ帰らねばならぬ。

 幾度目かの蔓を薙ぎ払った。

 まだ日の傾く前のことである。



 小川の河口から道を遡り林に入り、小道は八十足やそあしばかり歩くと見える御館みたちがある。

 四棟が連なり、高床の各棟は階段きざはしを降りずとも移ることのできるようその打竹さきたけの縁を渡り廊が繋ぎ、欄干おばしまが巡っている。これを渡殿わたどの御館みたちと呼んでいる。

 郷士の邸宅やしきにある殿舎みやしろ御館みたちに劣らぬ造りだが、ここに平生から住まう者はない。

 今、旅の巫女がここを仮の神殿かむどのとして借り受けていた。

 巫女は水の霊力ちからを持つ霊力者みこ水葉みなはという。だが彼女をその名で呼ぶ者はこの国にない。

 ここ海辺の国には巫女の類はいなかったから、巫女の名の意味も所以もそれ故の重みも畏れも元よりない。霊力ちからを持った霊力者みこと声を聞く巫女の違いも、この国では必要ではないものであるから、彼女は巫女様、と呼ばれた。

 ……霊力者みことは山間の国の首長の一族うからに生を受ける者。だが多くの者は意を留めず、またそれほど厳しい意味を考えない。

 彼女は生国を離れてから、旅の技芸人わざひと俳優わざおぎの一行に交じり育った。国を、路を流れながら年を重ねて、十二の頃に霊力ちからを操れるようになった。そして一行を出たのだ。

 彼女の養父母やしないおやはまだ彼女が幼いうちに霊力ちからを自在にできず抑える術もなく使ってしまうを見て類稀なるを知った。それでも一行の他の子どもたちと分け隔てることなく育てたが、霊力ちからが操れるようになった彼女に一行を出るように言った。

 巫女様を一行に留め置くことは致しませぬ、と。

 彼女自身もどこかでいつかここを出ていくのだろうと漠然と思い、そしてそれは霊力ちからを、水を「使う」ことができるようになってからだろうと思ってきた。

 養父母を恨むようなことはない。彼らはよくしてくれた。それから彼女は一人で旅を続けている。

 一か所ひとつところに留まることはなかった。生国を持たない彼女はただ流れるより他にない。巫女だというだけで、どこにその宿を求めても待遇もてなしはよい。それでも邑長むらおさや郷士らが事を大きくする前にその地を去った。己の身は地に在るのではなく、流れの中にあるのだと思っていた。

 ……だが、この海辺の国ですでに二月を過ごしている。

 ここに在らねばならぬ理由わけを自ら作り出してしまったことは本分に外れること、それでも成し遂げることを決めた。

 霊力者みこは大地の狂いを糺す。

 彼女にはもう果たせぬことである。それでも成すべきことがあるのは心地よい。ただ流れるのではなく。

 ここで彼女は巫女様と呼ばれる。ならばいっそ巫女様の役目を果たすのもよい。そのように考えられるようになった己に、少しだけゆとりを感じて笑った。

 過去むかしの己を、今、笑う。

 彼女は今、石垣に腰掛けていた。

 渡殿の御館に程近い石垣は彼女の背丈を一回り越える高さがあるが、御館の側、海から見て反対側からは補強や支えのため盛り土されて土手となり、膝下ほどの高さに抱える大きさの石が積まれている。その石垣の石の一つに腰掛けて海側に足を下ろすと、彼女の後ろ、御館のある辺りが周りよりも段高くなっているのがよく分かる。

 この石垣を水城みずきと呼ぶ。造作されてからすでに久しく、詳しいことは伝わらない。盛り土された上の木々は樹齢としふり重ねて太く、植えられてからの時を思わせる。

 水城は海と山を隔てるように領内くにうちを横切っていた。

 ここに腰掛けても海は林を成す木々に遮られて見えない。海から離れていることがこの水城にとって重きこと、それを水葉は知っていた。

 二月前、この国に来た頃、この国の海の水をその両手で掬った。その瞬間またたきに海は彼女の意思に入り込み、「海の見ていたこの国」を見せつけ叩きつけるように意識の中に刷り込ませた。

 語り部も古老も知らない、海の出来事。この国、この土地のすべて。すでに起こってしまい、起こりきってしまい、まったく手のくだしようのない。誰のせいでもなく仕方のない、……過去むかし群像むれ

 だが、それらは関わりのないはずの水葉の意思に迫り来て責め立て、苛むのだ。……海は、この国は。あまりにも多くの想いを抱え込みすぎていると水葉は思った。

 この水城は幾年もかけて何代もかけて役夫よほろたちが築いた。山肌に生えた木々を倒し、山を切り崩し、土を籠に盛り車を押して、舟で下り、また車に移し籠に盛り、運ばれた土を築き上げて槌で突き固める。大石を崩れぬように重ね上げて土を塞き止めて砦のように塁成した。

 少なくない数の怪我人と犠牲を出して、それでもこの水城は皆に求められ続けて、造作と補修を繰り返されて今にある。

 これほどまで強い願いと想いを掛けられた造作が疎ましく、同時に恐ろしい。

 苦難の行く末にその土に埋もれた想いが忘れ去られて、受ける恩恵だけを頼みにされて有難がられている。

 もちろんその恩恵を受けるために造られたものだというのに、水葉は過去むかしの苦しみを身の内に抱えてしまい、恐ろしいのだ。

 何故、誰もこの強く重苦しい想いを受け止めずにいられる。何故、この恐ろしさに気付かない、無視できる。

 水葉はきゅ、と目を閉じた。

 膝の上の拳を握り、首を振った。……考えてはならぬ。考えてしまえば、きっと何もできなくなる。

 今は、こんな卑小な己であっても成し遂げるべき事があるのだ。

 成すべきことがあるそのことは、彼女をやっと彼女たらしめていた。

 生国に捨てられ、流されてここまで生きてきてからやっと。



 夢を見ている。夢の中で、夢を見ている。だから夢を現実うつつと思い、真実まこと現実うつつを忘れている。

 名を呼ばれた。己は……己の名は何だったか? あぁ、名を……忘れていた。

 そのようなことがあるか、と言われても、あるのだろう、としか答えられない。忘れていたのだ。いや、名を……捨てたのだったか。そんな夢を見ていたのだ。

 ……把栩はく。次は忘れまい。己の名だ。

 銀色のきらめきを幾つも越えて、渡っていく。穏やかに、緩やかに。それはいつもあることではなく、とても得をした気分になる。きらめきを足元に見ながら瞳を閉じた。頬に受ける風は凪いでいる。こんな時をいったいどれだけ過ごした来た。

 再び呼ばれて振り向いた。

 誰だ……いや、いい。そうだ。分かっている。ここは己の場所だ。分からぬはずがないだろう。

 ここは……この場所は、なんと気難しい恋人いもだろう。この、ウミという名の愛しいいも

 波が舳先へさきに次々と当たって崩れては航跡うしろへ抜けていく。同じ繰り返しだが、一つとして同じ波はない。

 これがウミだ。もう忘れることはない。

 貴女あなたも覚えておくといい。

 ウミは現実うつつだ。

 輝ききらめく、現実うつつだ。

 だが……何故、現実うつつうつつがこれほどまでに美しい。匂いやかに、麗しいほどに、この影は濃い……。

 己はそれを知っている。知っているはずではなかったか。何故だ。

 夢を見ている。現実うつつの夢を見ている。

 それは忘れ得ぬ白昼夢ひるゆめ



 御宮みあらかには今、客人まろうどがある。

 山間の国の御宮みあらか、客人の御館みたちに迎えられた彼女は、奥津おきつの国の王書ふみを携えた国使つかい、だがまだ年端のゆかぬ少女である。

 流れる黒髪はきれいに切り揃えられ背を覆う。小柄なその身を大袖の白い衣と貫首衣くびぬき帛衣きぬ、茜色の裳に包んだ少女は、容姿に目立ったところはないが、紅を薄く唇にのせて眉墨を引いただけという化粧けわいが却って好もしく、愛らしい。

 両国の礼節に則った行事おこないは一通り滞りなく進められ、形式かたち通りのやり取りを無難にこなし終えた。

 きらびやかな、だが嫌みのなく気の利いた室礼しつらいの奥に掛けられた垂布たれぎぬの影で、少女はそっと息を吐く。礼節やしきたりだらけの公の行事おこないでの立ち居振る舞いは、ただの一つも気が抜けない。やっと張り詰めていたものを解いてよいこの御館に戻り、座り込んだまま動けなくなってしまった。あぁこうして掖月わきづきを抱え込んだまま、眠り込んでしまいそうだ。

 彼女の身の周りにつけられた御館の女官まかたちはなく、奥津から伴った二人がそっと控えているだけである。それが眠気に逆らう気持ちにならぬ言い訳だ。少なくとも、煩わしい応対こたえの要らぬ。

 彼女はこの国で生まれた。だが父の国元である奥津で育った。この山間の国に彼女の所領よりどころはない。だがこの国は彼女にもっと大切なものを与えた。……水を使う霊力者みことしての霊力ちからを。

那智なち様」

 伴人ともびとが彼女の名を呼んだ。眠りに落ちていくのを妨げられて那智はわざと少し機嫌を損ねたような声で応えた。

「何事なの? 煩わしいことには応えないから」

暗見聞姫くらみのきこえひめ様ともあろう方が、そのような口の利きようをなさいませぬよう」

 那智よりも一回りは年齢としの離れた伴人は眉をひそめてたしなめた。那智が奥津に身を移すときに送迎使むかえのつかいを務めてからずっと彼女に仕える伴人で、玖足くたりという。

 那智の父方の母、つまり祖母が出自とする一族うからと近しい友族ともがらむすめで、「ひめ」扱いはされずに側仕そばづかえとして召されたらしい。それ以上は那智もしらない。

 男勝りな女傑じょうぶで、女物の衣裳きぬも襦裙ふたもは身に付けず、盤領袍おとこもののを着て筒袴つつばかま足結あゆいまでしている姿はほれぼれするほど男らしい。那智も日頃から頼りにしているのだが、時折思い込みの激しさと気の強さに手を焼く。着飾れば美しいと分かる凛とした容貌から、手痛い思いをした者も多いらしい。

 もう一人は羽珠はねず、こちらは大人しく穏やかな男で、口数も少ないのだが思慮深い。色白で後ろにひとつにした髪は艶やかに長く、年齢の近い異母姉くたりと面立ちも似ているために、中身が違えて育ったのだ、と言われていた。

「ここでは暗見聞姫くらみのきこえひめではないのだもの…」

 那智の奥津の国での尊称よばれなである。他にも御闇分皇女みくらわけひめ暗見知姫くらみしるひめ御聞皇女きこえひめ御聞大君きこえきみ暗見大君くらみきみ、今までに使われた、呼ばれた名はたくさんあった。だが、那智はそのすべてを覚えていない。

 奥津は巫女の国である。巫女は名を死ぬまで証明あかさない。名の知られたときは、巫女を辞める。否、辞めるときに名を初めて名乗る。元より名のあらぬ者さえもあった。

 名は、巫女にとって要らぬものである。巫女は「ほかの何物か」の声を聞く。ほかの何物かの声を身内みのうちに成すために、己の意思を自ら捨てて忘我する。ために、名は邪魔でしかない。

 だが、那智は違った。彼女はこの近隣に名を知らしめる山間の国の霊力者みこ一族うから、その霊力ちからを水に受けて生まれた。彼女には生れ名と通り名、そして霊力者みことしての受け名があった。それらの名はこの国を去ってから要らぬものとなった。……彼女は巫女となるために、奥津に向かったのだ。

 那智の父は奥津の有力な交易人あきなりひとである。奥津王の年齢としふり離れた同母弟いろとで名を那杞なこ王族おうのうからとして政務まつりをもよく補助たすけている。

 前王さきのおうみめ多く、那杞に異母兄弟ことはらのえとは両手に余る。前王がなくなった頃はまだ太刀佩かぬ子どもだった上に、王嗣ひつぎ皇子みこ、太子には同母兄あにがついていた。那杞の兄がそのまま玉座に即位ついたために、嗣君ひつぎのきみの一人に名を連ねた。まだ太子を設けぬために、身辺はややこしい。

 嗣君ひつぎのきみである那杞が他国の姫を妻問つまどいしたのは理由わけがある。

 まだ戦の収まらぬ頃、奥津の国はその国家資源くにつたからたる鉱山かねのやまを狙われ続けて疲弊していた。背後を突かれぬよう、近隣の大国と手を結ぶ必要があった。また山間の国としてもその鉱山が産み出すたからは魅力的だった。

 両国の思惑が重なり、那智は生れた。

 奥津の国は巫女の国、巫女の御社みやしろを束ねる御社君やしろのきみ王族おうのうから皇女ひめと決まっていた。そのとき王族の未通女おとめのうち大姉おおえであったのが那智である。まだ名受けもせぬ霊力者みこを他国の巫女と成すのにも反発があったが、さき女首長めおびとはそれよりも国の関係つながりを保つことに心を砕いた。

 那智が「水」の名を受けたのはそれより五年ののち、まだ十を数えた頃である。

 山間の霊力者みこであり、奥津の巫女である彼女の名を、水の受け名を呼ぶ者はほとんどない。だから側仕の二人にはそれを求めるが、この生国にある間は、那智は奥津での尊称よばれなを厭う。

 もし霊力ちからを持たぬただの巫女であったなら、名など要らぬ。王族おうのうから故の尊称で呼ばれることを格別に感じることもあるのかも知れない。

 だが彼女は霊力者みこであり巫女でもあるのだった。

 ときどき、霊力ちからを持たぬことを夢見る。霊力ちからなどなくとも、己は山間と奥津の両国を生きることになっただろう。そして、霊力ちからがあっても雨を呼べぬなら、今、両国のどちらも生きていることにもならない。

 まして、霊力ちからがあってもなくとも、御社みやしろの奥であの人を想い募らせて胸を高鳴らせているのだろう。

 何が違うことがあるだろう。

 前世さきのよ霊力者みこが残したわずかな霊力ちからでは雨を呼べぬと、我が身を憂うことがなくなるのだろうか。

 否、両国を生きる者として、霊力ちから及ばぬは耐えられぬという危うきを知りながら、山間の女首長の霊力者みこ様に霊力ちからを合わせて雨を呼ぶことを推すようなことをせずにすむのだ。

 那智には分かっているのだ。霊力ちからを合わせれば、間違いなく己の身は耐えられずに果てる。……だから、雨雲を呼びましょうなどと言えば、女首長は必ず首を振るだろうことを。

 それでも、なんども彼女はそう繰り返し、女首長に言い続けている。言いようのない安堵を己が得たいがために。

 霊力ちからなくば、そんなやりとりをせずにすむのだ。



 玖足はもう一度、主の「名」を呼びかけた。ただの巫女ならば在り得ぬことである。ときどきこれは本当にこの御方の名であるのか疑念を持つこともないではないのだが、少なくとも主はそのように呼ばれるのを好んでいるのを知っている。

「……手短に言って」

 那智様は今にもまぶたを落としそうな様子で、それでも仕方なくといったように身を起こして居ずまいを直した。

 異母弟ことはらのおとである羽珠が少しだけ膝を進めて言う。

「接見されたし、とのことです」

 相も変わらず、言葉が少ないにも程がある。確かに手短ではあるのだが。もちろんのこと聞き直されて羽珠は細かく付け加えることとなった。

 かえで殿が、お会いしたいと申されている。

 楓殿はこの御宮みあらか女官まかたちだ。だが取り次いできたのはこの御宮みあらかの者ではないようだった。彼女のさと伴部とものべだろう。それはつまり、郷の総領媛このかみのひめとしての訪問おとないである、ということだ。

 玖足は何事かを察して勘ぐった。彼女の郷の総領このかみ殿のことを思えば無理からぬことである。

「いかがなさいます」

「……眠たいし。先ほど会ったし。明日にしてくれないかって答えておいて」

 那智は夕餉まで昼寝うたたねするつもりだ。裳を緩めて奥にある御簾の向こう、臥処ふしどに膝を進めようとする。

 だが、それを玖足は遮った。

「明日までに事態ことが変わっていたらいかがなさるのです、とお尋ねしたのです」

 確かに朝、那智は楓と会っている。だがそれは女官まかたちとしての役目にあった楓であって、那智は水の霊力ちからを纏って女首長の姿を映していたのだ。楓は那智に会ったとは思いもよらないだろう。

 この国に着いたとき、門殿もんでんから首長に謁見するための礼会殿らいかいでんへ移る先導さきゆきを務めたのは楓だった。

 楓はまだ年若い女首長の頼みとする女官まかたちで、側近もとこの一人だ。もう一人の側近の従者ずさ、主紗と並び称されて、女従者めのずさ殿、などと呼ばれるほどに。

 だが楓はいとまをとっていた。郷に帰らずにこの御宮みあらかで過ごしているのはこのためかと、玖足は思っている。

 明日に引きのばして、その間に何を仕掛けられぬと限らない。事態ことというものはときには一気に大きく動くものであることを、玖足は知っている。

「羽珠はどう思っている」

 那智は玖足がすぐに会え、と言うのに気が乗らない。それでも己の伴人の顔を立てることくらいはしてもいいと思ったのだろう、羽珠に言葉を求めた。ただ昼寝うたたねがしたいだけで、会わぬわけにいかないことは分かっているのだ。

「取り次ぎの者は要件を申しませんでした。だがあれは家人けにんでしょう」

 ふうん、と那智はやはり気の乗らない声を出して、目配せをした。異母姉弟ふたりは那智の意をあやまたずに捉える。

 玖足が那智の座を作ったので、仕方なくそこへ膝行いざった。奥の上座ではなく。

 上座にあたる五重いつつえ真菰まこもの畳を下りて迎え、郷の総領媛このかみのひめに上座を譲り、媛はそれを固辞して両者が同じ座を作って相対する、というのが型どおりの礼節なのだ。

 まだ掖月を手放すのは惜しいのだが、館内たちうちを整える伴人がそれを上座の畳に置いたため、仕方なく那智は背筋を伸ばして姿勢いずまいをただした。

 羽珠が館内にないのは取り次ぎの者に伝えに行ったのだろう。それにしては階段きざはしを降りる軋んだ音がなかった。

 郷の総領媛はややしばらくの後に、薄青の乱れ模様も匂いやかに美しい、倭文しつり染衣しめころもに淡い花葉色の領巾ひれを肩掛けた姿で階段を軋ませた。

 二人は型どおりのやりとりのあと、向かい合う。

「ご挨拶の遅れましたこと、お詫び申し上げますわ、那智の姫様。御宮みあらか御勤おつとめの持ちます身では、なかなかこのようにお会いするのは礼を失います故、ご遠慮申し上げておりました」

 やはり女官まかたちとしてここに来たわけではないのだと、二人の伴人は確かめあって互いに目線で合図をした。

 二人はしとみを開け放して御簾下ろした打竹さきたけの縁、ちょうど衝立や几帳の影になるあたりに控えていた。楓の連れた取り次ぎの家人も階段の下にあるため、客人の御館には那智と楓しかない。

義叔母おば君はいとまあり、と聞いておりましたから、郷におりますものと思っておりました。お話することはできないと思いましたのに、お訪ねくださいますとは」

 楓も少し笑って、義叔母おばなどと仰られると、急に老けこんだような心地がするなどと続ける。……那智がわざとそのように呼んだことに気付いて余裕で返してみせた。さすが御宮みあらかに長い女官まかたちは女の言い合いに強い。

 そして、そうでなくば、早くに妻問つまどいを受けて郷に帰るだろう。那智は素直にそれだけは感心している。

 だが楓にしてみれば、己の半分にも満たぬ少女に口で言い負かされるはずもない。そこは意地がある。

 ほほほ、と二人の笑む声に不穏なものを感じて、羽珠は顔を引きつらせた。玖足を見やると、同じように顔をしかめている。……おそらく、取り次ぎの家人も同じだろう。

 日の傾くのはまだ先のことである。




 主紗は足を止めた。そして見上げる。道が途切れていたから。

 正しくは途切れているのではなく、彼の身の丈ほどに巌が重なり、小川は小ぶりの滝となって流れ落ちている。その巌にはどこからか蔦綯った一縄が垂れて、道は上の方で続いているようだった。

 巌は苔なして滑りそうだし、足場も滝の雫に濡れて良くない。何よりも、このいつからあるか知れぬ蔦縄をどれほどあてにして己の身の目方をかけてもよいものか。

 平生、左足の痛むことのなければ、試してみるだろうが、今のこの身ではそれは適わない。回り道をするのも良い策とは思えなかった。ここは慣れぬ隣国の林、道を失って戻れなくなるかも知れぬ。

 考えを巡らせるために、彼は海辺の集落むらを出てから初めて足を止めた。

 ちょうどこの林に入ってから初めて木々が途切れて、空を見ることができた。日の傾きを見て、ひるをかなり過ぎていることを知る。

 そしてやっと己の左足が熱を持って痛いのだと、思い至った。痛みを感じてはいたが、一度考えの中にそのことを入れてしまうと、思いのほか無理をしたようだ。治りかけてて引いたはずの腫れがまた、ふくらんでいる。

 そういえば腹も空いている。朝餉の前に水汲みを手伝い、その途中で桶まで放り出してこの道に入ったのだった。

 仕方なく主紗は滝成す巌を背にもたれて座った。そっと息を吐く。染み入るように滝の水落ちる音が耳に響いた。その音が彼に冷静さを戻した。目に見えぬ焦りを感じて、ひた進んできたのだ。一息つくのには、いい頃合いだったかもしれない。

 腫れた己の左足を見て、ともかく冷やそうと思う。腰下げた蓋付の籠に、手巾たなぐいを入れていたはずだと、数日前に森に分け入ったときのことを思い巡らせた。

 小さな籠をのぞきこんだら、湿布はりぐすりが入っていた。そして小さな丸い朱色の固まり。己が入れた覚えはないから、……おそらく笠耶かさやが、入れたのだろう。

 つまみあげて、それが浜梨はまなしの実だと分かった。早生はやなりの実なのだろう。いや、それとも「季節の巡り」が狂っているためなのかも知れないが、主紗にはどちらなのか判じることはできなかった。山間の国には、この浜梨の木はあまりないのだ。

 もう十年も前のこと、海辺の国から珍しい御調みつぎがあった。山間にはめったにない苗木で、美しい花が咲き、実もなるのだと教えられた。

 使者つかいとその随従つかいひとが、内宮うちつみやの垣内に整えられた内庭の御苑みそのに植えてくださったという。

 土壌つちが合わなかったのか、そのうちいくつかは枯れてしまったのだが、残った二本が根付いて、それを元に増やしてきた。それでも珍物うづものの木に違いなく、成った実はまず女首長のもの、客人まろうどのために宴の御膳おもの御合あわせにするにも許しが要る。

 だが主紗は幾度か口にしたことがあった。彼の主、女首長である明日香は、一国の首長だというのにそのあたりはくだけている。彼を連れて御苑をそぞろ歩いたときなどに熟れた実を見つけると、手ずから摘んで彼の口の中に放りいれたりするのだ。

 甘酸っぱい風味は他に例えようもない。だが主紗にとっては、棘のある枝を気にせずに腕伸ばして摘んでくださった主の気持ちの方が嬉しく、だからそれをたしなめたことはない。

 生国を出てきたときに見た浜梨はまだ花を咲かせていた。赤く美しい花だ。これから夏の盛りに、実が太っていくのだ。

 早生はやなりの実は格別に酸っぱかった。だが、疲れた身にはそれが心地よく感じられた。少しだが力がわいてきたように思う。量としては物足りないのかもしれないが、それ以上に気力が出た。

 左の足首に、水の浸した手巾をのせて冷やす。ついでに、皮革沓くつに入った砂を落とす。籠に入っていた湿布を貼りかえて、その上から布を巻きなおした。沓紐

を括った。

 主紗は顔を上げた。

 今まで歩いてきた道だ。己が来た道。作った道でもある。

 立ち上がって伸びをする。気が楽になった。……まだ、歩いて行ける。

 滝の水で顔を洗って、喉を潤す。

 そうして、蔦縄に手を掛けて引いた時、「声」が頭に響いた。

 聞いたことのない声。だが、どこかで似たような響きを聞いたことが合ったような。

『およしなさい。足に悪い』

 辺りを見回しても、何者の姿もない。

『水葉に頼まれたのです。貴方は必ずここで立ち止まるからと』

「水葉様が? では、あなたは水か」

『主紗。貴方は水葉の「名」を知る者。だから私の声が分かる』

 意思は名に由来する。名を知らぬ者に、霊力ちからを持って意思を伝えることができないことを、彼は己の主から聞いて知っていた。

 思い起こせば、海辺の国で水の霊力者みこに会ったときには、名を名乗る霊力者みこに狼狽した。名を軽々しく呼ぶことはできない。許しなくば、その名を口に出すことさえも憚られる。

 だが、……水の霊力者みこ様が、自らの名を明かしたのは、今ここに繋がっているのではないだろうか。こうして、ここで立ち止まることを、あのときにすでに、予見していた。

 今更ながら、主紗は己の浅はかさに、嗤いが漏れる。あぁ、水葉様はなんと先を見越しておられたことか。

「では水よ、水葉様はなんと?」

『このまま道を行けば、海辺の関塞せきに出るのです。貴方は旅旌たびふだがないのでしょうから、越えられまい、と』

 この道は国々を繋ぐ公路みち関塞せきで交わっているという。不正に国境くにさかいを超えた主紗は、旅旌を持っていない。いや、そもそもが国外そとに出る職分ではないために、ないのだ。

 旅旌がなければ関塞を越えられないし、調べられて窺見うかみだとみなされる。騒ぎを起こしたくはない。

『私を、辿りなさい。森に入って、山間の関塞を目指します』

「あなたを、辿る? どのように?」

『私は、どこにでもあるのです。本来ならば』

 足元を見ると、草の根の隙間からじわじわと水が湧き出て、水たまりのようになった。

 その水は巌を避けるように、斜面を遡って移っていく。

 この「流れ」をしるべにせよ、ということかと得心のいった主紗は、水を辿る前に、己の来た道を見やる。

 すでに海は見えず、ゆるやかに小川が曲線を作っていた。



 ここは郷士さま方の林だから、集落むらの者は立ち入らない。林を手入れする邑人むらひと奴人おやつこがたまに枝打ちするくらいなものだ。

 笠耶は目に付いた幹にもたれて腰掛けていた。どのくらい時が経ったのか、木洩れる日の光は眩しさを失って薄く淡く地面に注ぐ。日の入りはさほど遠くないように思われた。

 この林は、集落むら近い林や巫女様の仮住まいなさる渡殿わたどの御館みたちがある林とは違っていた。建材のためにたびたび枝打ちするせいで止まり木に困るのか、小鳥のさえずりが少ない。蝉の声もまばらだった。小川も遠く、水のささやきもない。静かなところだと思った。

 膝を抱えた彼女の耳に、地を踏みしめる音がある。

 声など掛けられまいと、身を固くして、行き過ぎるのを待った。誰にも見つかりたくないのだ。

 だが足音は乱れず少しずつ近寄り、立ち尽くした。動かぬ笠耶に根負けして、その名を呼ぶ。

「……笠耶。日の暮れぬ前に、夕餉を整えねばならぬのではないかな」

 その声は咎めるものではなかった。彼女がここにあるを知っていたようでもある。

 巫女様の身の回りのことは笠耶が引き受けていたから、お困りかも知れない。だが、あの巫女様ならば、無理にそれを求めないし、集落むらの皆もそうだろう。

 それは笠耶がもともと他国者よそのもだからではない。笠耶だからだ。

 この国に流れ着いてから彼女は集落内むらうちに住まうことはなく、渡殿の御館の側に苫宅いおをむすんで住処すみかとしてきた。

 彼女に声を掛けた男は、その隣に腰を下ろした。

「ここは……この国はお辛いか、姫」

 姫、と呼ばれた女は顔伏せたまま首を振った。

揮尚きしょうのことか。……あれは父親似だな」

 風のように通り過ぎた客人まろうどに、笠耶はそんな名をつけた。この国では隣国の名を、今は気軽に呼べないのだという口実により。

 彼女は男に声を掛けられてから初めて口を開いた。笑いが込み上げてきたから男に同じ気持ちを味わってもらいたくなったのだ。

「あれでも母親似のつもりだそうだ。本当に間の抜けている」

 ……そんなところまで、似ている。

 顔上げてそこにいるのは浦飾うらしきだ。浦飾は郷士の一人で、ここは郷の林だから、ここにいてもおかしくはないのかもしれないが。

 随従つかいひとが笠耶がこの林に入ったのを見たのだと浦飾は言った。なのにすぐに来ることなく、夕暮れ近くなるまで待ったことには触れなかった。もちろん、笠耶にとってはそのほうがよかった。

「忘れられぬか、姫?」

 頷いた。だが、すぐに首を振る。

「あたしは笠耶。そして、あなたは郷士。……そうしてここで生きてきた」

 海辺の民は受け入れ見送る。この国に在る者は皆、海辺の民だ。笠耶もそんな風に生きてきた。それは代えられぬ事実まことだ。忘れた過去むかしもどこかにあっただろうが、そんなことはこの国の誰にでもあって、それごと海が皆を抱えてくれる。

 ……それでも、笠耶には、忘れ得ぬことがある。

 忘れぬということだけで、まだそれは彼女にとっての過去むかしではないのだ。今も身の内に抱えて生きている。

 現実うつつ白昼夢ひるゆめの狭間を、生きている。

 夢を見た、と笠耶は呟いた。それが夢か現実か、判じ得ぬのだと。浦飾は知っている。だがそれに答えることはない。そういう事柄ではないのだ。

過去むかし現実いまに成すよしなど……誰も知らぬだろうな」

 それとも、と浦飾は聞いた。貴女ひめ白昼夢ひるゆめの中に住まうのか。

 女は眼をつむる。夢の景色を思い描こうとするが、それは適わぬことだ。夢か現実うつつか判らぬうちは。すでに彼女は醒めてしまっているから。

 浦飾は立ち上がった。これでも郷士だから、幾つも役目を抱えている。首のあたりで玉の擦れる音がした。紅の管玉くだたま瑠璃るりを幾つも重ねたものを二重の環にしたそれは、形からして新しいものではない。銀糸いとだけは取り替えているものの、いつも彼の首にあるため、曇ってしまっていた。

 郷氏ならばそれなりのものを手に入れることができるし、それなりのものをしてしかるべきだが、浦飾は気にする様子もなくいつも同じものをしている。

「……萱草色そのいろほうには合わないよ、それ」

 そうか、と浦飾は林を抜けていった。彼にとっては慣れたところであるらしく、方角むきを気にすることはなく。

 一人残された笠耶は勘ぐる。

 萱草わすれぐさの色。甘子こうじよりも梔子くちなしよりも明るい色味をしたその花は、物思いを忘れさせるという。

 笠耶に忘れろというつもりか、それとも彼自身が忘れたいのか。そのためにわざわざ選って着たのか。

 浦飾の後ろ姿、その一纏めに布かぶせた後ろ髪が、すっかり見えなくなってから笠耶は立ち上がった。

 日の入りの前、もうすぐ空が赤く染まる。



 使い込んだ櫨弓ゆみを肩掛けた男がある。若い。靫負ゆげいてはいるが、その腰にある佩物はきものは不相応に短い。太刀は彼の華奢な体に重いが、それでも兵士ならば身に具すはずのもの。だが短剣かたなの他に刀剣の類はない。彼は己の弓射るその実力ちからに自信があった。その矢継ぎ早に射る己の技を越えて目前に迫られるようなことを考えていない。

 弓というものは射ることよりも射られぬことのほうが数段大切なのだと、彼は師である伯父君おじぎみに教わった。そのようなことがあったとき、組討ちのため徒手むての技も磨いた。徒手では太刀は邪魔になるばかり、最期に己の首を掻き切る短剣かたなさえあればそれでいい。

 山間と海辺を繋ぐ公路みち、山間の関塞せきには大きな栃木とちがある。いつからあるのか、その史書しょもつを紐解いても判らず、古老も語り部も憶えのない。だがその古来ふるきの大木は、旅人に山間の国の始まりと果はたてを告げてきた。

 男はその大栃とちに真向かうように槻木つきにもたれていた。

 なでつけるように後ろに垂れさせて括った総髪。わずかな隙も見逃さぬような切れ長の瞳は、今は閉じられている。見れば眉根が寄って眉間にしわがある。

 彼は決して陽気とは言えない性質ではあったが、悩みを抱え込む人物でもなかった。皆怪訝には思うものの声を掛けることはない。ただ一人を除いては。

 見楢みははそである。彼を己の弟分と見定めていて、なにかと世話を焼きたがる。他の者から見るとそれだけのことだが、それなりに理由はあるのかも知れぬ。それでも見楢自身にとってもその理由は身に差し迫った事態ことではなかったから、声を掛けた理由としては弟分の様子が常ならぬを感じたためだ。

采斗さいと。喜ぶといい。夕餉はお前の気に入りの、生姜はじかみの汁粥だというぞ」

 見楢は他には大豆と野蒜のびるあつもの索餅さくべい、枇杷に茱萸ぐみもあった、と付け加えた。ここ数日はいお楚割すわやりに干瓜やら豆乳だいずせんやらと、乾飯かれいいが少し、といった御膳おもの御合あわせが続いていたから、干物のない飯食めしだと知れて、皆浮かれているのだ。

 采斗と呼ばれた男は瞳を開いて、ゆるりと見楢を目だけで見やる。他愛のない話題のために話掛けたような表情かおが相手にないのを見て取って、それからもたれた背を起こした。

 もちろん彼の好物が生姜の汁粥だというのは本当だし、だからといってその好物に国を揺るがす謀略はかりごとが隠れているなどとは思っていない。かすかにたゆたう匂いに、塩やひしおの加減を好みに合うように仕上げてくれるよう願うばかりである。

「……うまく言えんが、少しばかり気になることがある」

 話し掛けたこたえではないことを承知の見楢である。先を促すように頷いた。

「長雨もないのに、蝉が鳴き出した。枇杷も茱萸も少しばかり早い。雨がないのに果実みのりが早いというのはおかしい」 

 そもそも井戸が枯れぬのに、大川が枯れているのがおかしな話なのだ。

女首長めおびと殿は、何故、さきの御方のようになさらぬ?」

 前の御方、とは女首長あすかの母のことである。亡くなって六年ほどが経つ。今尚慕われる、水を名受けし風と火をも使った稀代の霊力者みこ

「主紗のやつは、かたわらに在りながら、何をしている」

 なるほど側近もとこ従者ずさが、何の進言もしていないのではないかと訝しんでいるということか。黙したまま聞いていた見楢は、采斗の眉根が寄っていた因を見出し、口を開いた。

「お前の郷の総領このかみひめ様にも、同じことを言うといい。もっとも、女従者めのずさ殿はそれどころではなかろうがな」

 なんのことだ、と聞き返した采斗に、見楢は意外な表情かおをして見せた。報せを受けていないのか、遠隣国とおきとなり客人まろうどが御越しだというのに、と。

 采斗は那智が王使つかいとして入国しているのを、ここで知った。

 奥津の国のみちはこの関塞せきを通らない。関塞に詰める兵士たちは、国の最前ではあるが、御宮みあらか領内くにうちのことがつぶさには伝わらないものなのだ。

 御宮みあらかからは公の報告しらせが届くものの、それは必ずしも彼等にとって必要な、知りたいと願うものとは言い難い。また、正式な手続きを経て届く報告しらせには時がかかる。

 関塞の兵士の多くは、郷士やその伴人たちだ。彼等の求める報せは己の郷おのがさとの様子であり、動きだ。政事まつりごと局面かどで、郷はどのように動いているか、そして己はどのように動くべきか。

 ために絶えず郷とやり取りがあり、己の郷の邑人むらひと邸宅やしき奴人おやつこらを関塞内に端下者はしたものとして抱えて、雑用の合間に報せを運ばせるのだ。

 だから、采斗はまず己の奴人や伴人が報せを運んでいないことに腹を立てた。だが表情かおには出さない。

 そのような大事を見楢に教えられたことを詰るのでは、己の至らなさを露わにするだけのことだ。己が郷の様子をもう少し気に掛けていたなら、皆もそのようにこまめに郷の報せを持ってきていただろう。

 那智の出自は「形式上かたちのうえ」では采斗の郷である。その郷の総領媛このかみのひめたる楓は、采斗とは従姉弟いとこという血縁つながりがある。那智の山間の国の来訪おとない帰郷さとがえりとも同じこと、楓の忙しさも分かる。だが、今のこの情勢なりゆきで、関塞にある己への報せがないのが解せない。

 采斗の郷の総領このかみ稲佐いなさ、今は「戦派」の真先に立つ楓の父だ。那智の姫君の御越しも稲佐の駆け引きなのか、それとも。

 ……戦を厭う女首長殿の策略はかりごとか。

 考えを巡らせ、黙り込んだ采斗に、見楢はこっそりと笑んだ。少なくとも、彼の意図したとおりに、采斗の「気がかり」は当初とは別のものとなった。

「どうにもならぬことを考えるよりはいいだろう、これからもっと、面倒なことになる」

 己の頭の中でつぶやいたはずが、声に漏れていたらしい。采斗が絡んできた。

「面倒事だと? なんだそれは。……戦でも起きると、いうのか」

「お前がそう思うなら、そうかも知れないがな。だが、戦よりも面倒なことはいくらでもあるものだからな。覚えておけよ」

 見楢は考え過ぎて、生姜の汁粥を食い逃すな、大栃から落ちる因になっては困る、と言い置いて背を向けた。采斗は今夜は不寝番ねずのみはり。見楢は大栃の枝に敷いた狙撃台たかやぐらから采斗が落ちては、賭けに負けてしまうのだ。

 残された采斗はまた眉根にしわを寄せた。

 夕餉の匂い。鳶の高鳴き。蝉の夕鳴き。

 己の奴人を呼ぼうかとも思ったが、やめた。五感は思考を和らげる。

 交代で夕餉を取るため不寝番ねずのみはりの采斗は後の組である。それまでにすべき彼の役目がいくつかある。

 関塞の四脚門よつあしのもんを閉めて篝火かがりの仕度をさせる。これは民から選んだ衛士たちだけに任せてはならぬ決まりだ。

 じきに山端やまのはに入り日がかかる。



 梟が低く闇に溶ける声を上げている。木々の枝葉の隙間から木漏れる月影は下弦の月。それはこれから少しずつやせ細る月で、月の出が居座って待つような宵になるために居待いまちの月と呼ばれるのだ。その光が降り注ぎ、足元にはわずかばかりの影を作っているからには、月は昇りきってしまい、宵も更けているのに違いなかった。

 主紗は森を歩き続けていた。足元には緩やかな斜面、それを這い上る水が「流れている」。

 水の霊力者みこたる水葉の意思か水の意思か、主紗にはわからない。だが本来なら下方へ流れるはずの水は、彼の道行みちゆきしるべとなって、斜面を登っているのだ。

 森の中の道なき木々の根元を、じわじわと這うように水たまりが作られていく。振り返ってもその水の流れは、彼が歩いた後ろから、幾層にも重なって積もった枯葉の中へと染み込んでいくために、主紗には、己がどのように歩いてきたのかさえも捉えられずにいた。

 この水の標を失うことは闇に取り残されることだ。それは森に迷うことに繋がる。ここはどこだ。足元の標のみが頼りである。わずかな月影を照り返す流れを、そろそろと追いかけるばかりである。

 ときに水の標が流れることを止めてしまうことがある。元は水葉の霊力ちからが及ばぬところか、とも思ったが、しばらく経つとまた流れ始める。幾度か繰り返されるうちに、己が休めるようにしてくれているのだと気付いた。

 だから、あれから一度も水は話し掛けてくるようなことがなくとも、主紗は一人で歩いているとは思わなかった。この水の標を辿って進むことは、水葉の意思に適うことなのだと感じられた。

 暗闇を一人、手探りでさ迷い歩くような、心細さはなかった。己がここに在ることを知る、誰かが在る。それが彼には心強く感じられるのだ。

 きっとまだ、己にできることがあるのだと、信じられるほどに。

 いずれ水が流れなくなり、水が雨を降らす意思を持たぬとしても。季節の巡りが狂い、大地が生きようとせぬとしても。

 月影は少しずつ闇夜を渡っていく。日の沈んでからどれほど歩いただろう。すでに頃合いは夜半のはず。

 水が、ある地点で、「立ち止まった」。

 そして柔らかい声で主紗に言う。

『私はこの先には行きません』

 その意図を掴みかねて、聞き返した。だが水は行かぬと繰り返した。唐突に、森の中で標を失い、何故、とも問えぬ。

 だが。

 その瞬きの時、闇が一筋の何かに裂かれた。

 頬を掠めて、背後の……おそらくは木に当たり、音立てる。

 水が枯葉に染み入るように、消えた。



 月見上げていた采斗が、眼下の者に声をかけた。

 何か異変はないかと訊ねられて、やぐらの楯に肘掛けた同輩なかまの兵士たちは皆、首を振った。彼等にとってはいつもと変わらぬ不寝番ねずのみはり、もちろん、采斗にとっても同じことである。

 不寝番は四、五日に一度ほど、関塞せきにある三月みつきほどの間に二十日は割り当てられる。采斗にとっては今宵は二日続けてのこと、さらに不本意ながら五日間続けることになっていた。

 采斗が「いつもと異なっている」ことを感じたのは、彼が寝不足であるとか夢を見ていたとか腹を空かせているというような理由はまったくなかった。

 ただそのように感じただけで、言うなれば「勘」である。

 気持ちのざわつくものを感じて、月を見上げた。宵も過ぎて夜半になりかけた頃合いに、山端から飛び出すように昇った明るい影は、下弦の居待月である。

 関塞内に焚いた篝火かがりが、鉄籠まがねのかごの中でぱこんと軽く弾

けた。ゆらゆらとたゆたう火群ほむらが、怪しげに皆の足元に影を揺らしている。

 大栃の狙台そだいでいつものように腰掛けていた采斗だが、引き上げてあった縄梯はしごに手を掛けた。それは常ならぬこと、この狙台に上がって、彼は夜が明けるまで降りたことがない。

 それを見て取った一人が、どうした、と聞いたが、采斗自身にもそれを説明ことわけできるほど、何かを感じていたわけではない。それで、小用だと答えた。相手はその言葉通りに捉えて、だからそれ以上の追及はない。

 だが采斗は用を足すはずの小館たちいおとは逆に向かい、林に分け入った。月影と、土地勘を頼りに、その奥の森へ。そのように行く先を決めたのにも理由はなかった。だが、縄梯を下りた時にはもう心に向かう先があったように思う。吸い込まれるようにその森に惹かれたのだ。

 の入ったゆぎを負い直す。彼のそれには二十ものが上差してある。柳葉やないばやじりは彼が好んで使うもの、皆の選ぶ槙葉まきのはよりも細いが、それでも二十もの鉄鏃やじりは重い。並の兵士ならば十、それも青銅あおかねのものを使うだろう。狩猟かりならば七、八がせいぜいだ。

 櫨弓ゆみを肩掛けて、腰には短剣かたな、もちろんのこと皮甲よろいを身に付けて、脛当すねあて手甲こう

 森のどこかで窺見うかみと相対したとしても、徒手や短剣で応じ得るように、常に鍛練している。先に見つけたなら仕掛けられるよりも先に箭をつがえて射放つ自信もある。その自信を持つだけの体力ちから技巧わざもある。

 だが否応なしに高鳴る鼓動が彼の緊張を高めていく。

 何故、己はこんなにも張り詰めている。今宵も、例いつもと変わらぬ夜半。月影は生きるすべてに同じく降り注ぎ、そして生気を昂ぶらせるだろう。

 だが平生にあるならば、張り詰めて過ごすことは却って己を損なうものだ。……その恐ろしさを知っているはずの己が、何故これほどまでに、何を恐れている。

 森には夜に動き出す生き物がある。猪、貂、狸、狐。梟の声が低く耳を打つ。

 采斗は特にあてもなく、いつ落ちたとも知れぬ枯葉の重なった土を踏みしめていく。関塞のある路から外れたこのあたりには、いくつか栗木があるのを憶えていた。

 気配はできるだけ殺している。それは張り詰めている己のため。だが早鐘を打つこの胸音ばかりは隠せぬように感じられた。せめて足音ばかりは立てるまい。

 月影に、木々ではない、何かを見た。

 よく鍛練された彼の身体からだは、いつものように動いた。それは確めずともよく、また意識もしない動き。それまで星の数ほど繰り返した動作を音もなく流れるように。

 箭を二本抜き一つを弓つがえて矯め一つは副矢そわつや、放つ。呆れるほどに、例の如く。

 狙いは逸れぬ。采斗が狙って射ったがために。



 それが、何者かによって射られた箭であることに気付くのに数瞬を要した。

 小気味よい音が背後の木から響いて空気を震わせてから、少しずつ静まっていく。突き刺さった箭の揺れが収まってきたのだろう。

 右の頬が熱い。箭が掠めたことを理解した。その一瞬に顔を動かせば、死に至っただろうことを悟る。

 そのために、痺れたように動けない。熟練てだれの者が脅しのためにそのように射ったのか、未熟いたらぬ者が身の最中さなかを狙って外したのかがわからない。

 頬から何かが伝っていく。血が滲み出たのだろう。

 主紗は辺りの気配を感じようとした。箭の刺さった栗木を後ろにして背面せなかをつけた。こうすれば少なくとも横合いか正面てまえからの襲撃しかない。

 周囲に目を配りながら、射られた箭を確める。箭は、的箭まとやでも狩箭かりやでもない。戦に使う征箭そや正規まともな兵士の用いるものだ。矢羽は本白もとしろで、ものはよいのが月明かりで分かった。それは流れの猟人さつおが誤って射たのではないということを示していた。

 ここはどこだ。まだ、海辺の国を出ていないのか。ならば、事態ことは深刻、海辺の兵士に射られたならば、数日前のようにはいかない。海辺の関塞に送られて身元を問い質されるだろう。

 張り詰めたものが闇を支配し、梟だけが声を上げている。

 どれだけの時が経ったのか、ほんの瞬きほどの間のことであったかも知れぬ。月が夜空を渡るのがわかるほどの間のことであったかも知れぬ。

 枯葉をわずかに踏みしめる音がした。それはわざと立てたもの。その方向むきに気を逸らせて動けば、背を射られるだろう。だから、主紗はますます身を堅くする。

 やがて箭を己の最中さなかに矯めつがえたまま現れた兵士がある。木々の隙間から木漏れる月影に浮かぶその表情かおは強張っていた。だがそれは紛れもなく、見知ったもの。

「……采斗!」

 主紗は彼の名を呼んだ。そしてここはすでに山間の国で、関塞の周りだと気付いた。数少ない己の友は、一月ほど前から関塞に赴いたままなのだから。

 だが、友はそれに応えず、箭をつがえたまま声を上げた。

「何者だ」

 主紗は采斗の性質を思い出す。仮にも幼い頃からの友に向かってその言葉を吐くとは。声音が震えているのは、……怒りが滲んでいるためだろう。

 山間の国ではここ数日、己が国を空けていることをどのように扱っていたのだろう。ただ漠然と己の帰る場所で、己の在るべき居場所に、海辺の国を出て歩みを進めてきた、ただそれだけのことだと捉えるには、己の浅見にすぎよう。

 筆頭郷士いちのごうしたる己の父は、どのように処分しただろう。郷氏は戦派が形成されて、二分している。戦派が父を責めるには充分な出来事だ。女首長の側近もとこ従者ずさが役目を放り出して、行方を報せぬまま数日国を空けているのだ。

 そして采斗の父が戦派の一人だ。

 采斗自身は政事まつりごとと己の役目を混同するような性質ではない。この情勢なりゆきの中で御宮みあらかに詰めることもできず、国のはたてを衛る関塞へと下ったというのに、その関塞を騒がせたのが御宮で女首長を助けているはずの友だ、というのなら、それは怒りに震えもするだろう。

 それに得心はいくものの、主紗には言い訳もできない。

 采斗低く、抑えた声で告げた。

「俺の友は、この大事の最中に御宮みあらかを抜け出して関塞を悩ますような間抜けではない。何者だ」

 ……近頃はすっかり間抜け扱いされることに抗いを感じぬようになってしまっていたから、この旧来の友の言いように、ほろりとくる主紗である。

 誰かが、間抜けだと思うならば、確かに己はそうなのだろう。迂闊に過ぎる。

 だが、国を、己の主を裏切ることだけはない。誓って言える。

 采斗の征箭そやは未だ主紗を捉えたままである。

「残念だが、お前の友だ。私は真を見極めずに箭を放つ友を持った憶えはないな」

「真は俺がこの目で見極める。お前が関塞にある由には必ずどこかに偽りがある。それを否定するつもりなら、旅旌たびふだを見せてみろ」

 主紗は言葉に詰まった。旅旌は身の証となるもの。国外くにそとに向かうならば必ず携える。だが彼は役目柄、それを必要としたことがない。持たぬものを見せることなどできはしない。

「ならば俺はこの箭を放つ。俺に誤りがあるならば、いずれ女首長殿から処罰ばつを授かろう。目をつむれ!」

 まずい。この至近距離ちかさ弓射ゆみの名手である采斗から逃れられるはずもない。

 采斗という男は一途で強情で生真面目で、柔軟な考えというものはとにかく生まれるときに母御の腹に忘れてきたような奴なのだ。役目であれば、友であろうと、本当に射る。

 主紗は言われたままになるわけではないが、目をつむった。しかしいつまで経っても射られるはずの征箭が飛んでこない。痛みも感じない。

 代わりに、鈍い音を聞いた。ぶつかり合う音。征箭の放たれた気配。だたそれは主紗を射たものではない。彼は目を開いて、凝らした。

 薄闇に見えるのは影ばかり、だが采斗が何者かに組伏せられていた。月光を背にしているためにその者の顔を判じることができない。彼の友は徒手で戦えぬような者ではないというのに。

 采斗を抑えつけながら、その何者かが声を出した。

「……黙って見てりゃぁ、お前ら。気が短いにもほどがあるぜ」

「放せ、見楢! ふぬけの肩を持つのか。俺は……!」

「役目を棄てるような友はいない、ってか? 悪いが俺はお前らの兄分でな」

 その声と二人のやり取りで、見楢が助けてくれたのだと分かった。どうやら見楢は成り行きを見て聞き耳立てていたようだ。身の気配を隠すのは彼の得意とするところ、また采斗も適わぬ徒手の技にも得心のいく。

 采斗はまだ見楢の下でもがいていたが、背に膝を押しあてられて片腕を後ろ手に捕らえられてしまい、どうしようもないらしいことが近付いて分かった。

「見楢、すまない。騒がせた。ここは関塞の近くだな」

「よぅ。総領このかみ殿の嗣御子つぎのみこ殿じゃないか。夜更けにお遊びとは感心しないな」

 そういうことではなく、と言いかけたのだがそれを制された。采斗を抑えているのとは違う手で、何かを差し出された。

 片手で握るほどの小さな木札。その縁には照合するために刀子とうすで刺した傷が三つあり、国主御名朱印くにぬしのおなのしるしが押印されている。裏返せば、紗郷さのさとを出自とする書が墨走り、持ち主の名が記されている。紛れもなく、己の名が記されていた。

「嗣御子殿の旅旌だ。これで文句はないだろう?」

 見楢が問いかけた相手は采斗、だが彼はまだどこか不服を残しているらしく、ごまかさせんぞ、と呻いた。だが見楢は改まった声でしゃあしゃあと述べる。

「これは筆頭郷士いちのごうし殿の密使つかいによくお出でなされた。本来ならば御館みたちにお入りいただくところではありますが、ご内密のことと承り、目立たぬ粗宅あらいおにお運びいただきましょう」

 主紗は父の笙木の手の回っていることを知り、調子を合わせることにする。見楢の母の出自は紗郷と呼ばれる笙木が統べる郷で、伴部とものべひめ、主紗の母である紗鳴さなるとは従姉妹の関係つながりがある。友族ともがらである生郷うのさとの郷氏に妻問つまどいを受けて御妻みめとなって生まれたのが見楢である。

 生郷の大兄おおえ君子きみだというのに、母が正妻きさいではないから嗣子あとつぎとは見なされていない。だから時折、主紗の事を「総領の嗣御子殿」といって茶化すのだった。

「それでは先導あない申し受けましょう、悟らるることまかりなりませぬほどに、よしなに」

 そういった「形式かたち」を整えられてしまうと、采斗は弱い。さすが「兄分」は弟分の扱いを心得ているのだった。

 見楢が力を抜くと、采斗は主紗の前に膝をついて礼をとった。

随身ずいしん、務めることを許可おゆるしいただく。御密使みつかい殿」

 つまりは護衛と称して張り付くつもりだろう。自身おのれの目で真実まこと虚実いつわりも見極めるために。

 よし、と答えた主紗の腹が、夜半の森に響いた。



 見楢が主紗を連れたのは、関塞の築地ついじ逆茂木さかもぎの内でも、外れにある小さな草壁の粗宅だった。壁なす草はさほど古いものではないから、打ち捨てられたようなものではないのだろう。

 中で待っていたらしい奴人おやつこは見楢の手下てからしく、少ない言葉を交わすと軽く頭を下げて出ていった。

「爺はここの炊屋かしきや膳夫かしわでだ。何か見繕ってくる。ま、とにかく座れ」

 見楢の乳母人おちのひとの父だという。

 この粗宅は、長く関塞で膳夫をしているために下されたもので、他に縁人よりひともないため、気にするなと事訳ことわけた。

 中に促されたが、采斗は葦簀よしずの入口に立った。堅苦しくも随身の役目を果たそうというのだろう。

 ……むしろ当てつけのようにも感じる。人気のないこの粗宅に衛りがついているようでは却って目立つ。密使つかいがここにいると言ってるようなものだ。

 筆頭郷士いちのごうし密使つかいといえば公使でなくともそれに近い大事ことだ。

 だが、主紗と見楢の郷は互いに近しい友族で、采斗の郷はどちらにも与しない。確かに慮るのが筋ではあった。己が逆の立場にあっても、同席せずに控えるだろう。

 そして一言漏らさず聞き耳を立てて一つの間違いもなく憶え、それから己の成すべきことを見極めるだろう。

 安穏とした海辺の集落むらで過ごした数日は確かに彼に得難いものを教えたのだ。だが彼はそこから再び、張り詰めた「平生」に戻ってきた。

 彼はそのように生きてきたし、変わらぬ「平生」にあったはずだった。だが、己の知らぬものを知った。

 ならば、それは戻った、ということにはならないのだろう。己が変わればまた、その平生も変わり行くのに違いない。

 見楢が主紗に円座わろうだを敷いた。そして隅にあるかめやら壺やらを勝手知ったる様子であけて何やら用意している。手渡された瓦笥かわらけに口付けると、仄かに甘い。そしてすう、と心地よい涼しげな香りがする。わずかな辛味も疲れを軽くするように感じられた。

「木苺の蜂蜜煮を水に溶かして、薄荷油めぐさのあぶらを垂らした。お前のには酒は入ってないから、安心して飲め」

 見楢のものには酒が入っているのだろう。采斗のものも作ったようだが、采斗はもちろん固辞している。

 向かい合うように座り、で、と促される。見楢はもちろん笙木の意を承知しているが、先に主紗の話を聞こうという腹である。

 主紗は悩んだ。これまではただただ歩いて、生国に向かえばよかった。己の見聞きしたことをまず、主である明日香にすべて伝えようと思って足を動かしてきたのだ。

 雨は降らない。小川もいづれ流れなくなり、大地は死に逝く。

 それを、……「霊力者みこではない見楢」や他の誰かに、どう伝えるのがよいのだろう。

 まだ確めなくてはならないこともある。御宮みあらかの、それぞの郷士たちの情勢なりゆきのことも。

 今ここで見楢に伝えてよいものか。もちろん見楢は信用のできる伴部だ。だからこそ父は見楢に旅旌を預けたのだ。だが、それでも慎重にしたい。

 先に、と主紗は問いかけた。ああ、急速に感覚が戻っていく。

「……父上の密使つかいが来たな? それを聞く」

 葦簀の影にいる友にも聞こえるようなはっきりとした声。その声高に、見楢はわずかに眉をひそめたが、懐から細竹筒を取り出した。

 丸められた文を広げ、主紗は素早くその大意を掴んでいく。速読はやよみは彼の得手、文書ふみには形式かたちがあるから、己の求めるものの書かれた所は文の調子でおよその見当のつくものである。

 手癖や好む文体にもよるが、日々の雑務や役目の中で身に付けたこと。まして己の父の文ならば、毎日のように見てきた。だから両手を広げたよりも長く巻かれた文ではあったが、読み終えるのにいくらも時はかからなかった。

 那智様が御越しになっていること。それも交易あきなりの関わりで、急ぎの王書ふみを携えて。それから。

 笙木は、主紗が国外に出たのを察している様子だ。そのために旅旌を密使に持たせた。

 要点よく国内の政事の流れと郷の様子、気にかけるべき事柄がまとめられていた。初めから主紗が速読することを考えて書かれていた。

 これで国を離れた数日を埋めることができる。いくつかわかりにくい所もあるが急ぎのことではあるまい。

 父は己を侮っていないし、軽く見ることもない。それを感じて己に頼むところのある、あの「平生」を取り戻したように思う。

 さんざん抜けていると言われたあの数日は、……もう過ぎた出来事ことになった。

 しばらく刻むのを忘れていた時量ときはかりの水が一気に溢れていく。時の狭間に残したひとときがある。再び逢うことを約した女がいる。だがそれはその時まで、誰にも知られぬ狭間に偲ばせるのだ。

「密使は……櫨丈はじたけだな。戻っているのか」

 向かい合った男は。目を伏せた。あまり戸口に声を届かせたくないのだ。それはわかる。だが。

「見楢。事態ことが大きく動くぞ。属派を気にするどころではない。私はそれを見てきた」

「何を、だ」

「今はまだ言えぬ。明日香様に伝えぬうちは、他の誰にも。時が惜しい。馬は使えるか」

「……だぁーかーらっ。そう気短くなるなっての。何を焦る? 何を見て知った? 落ち着け。今は休んだほうがいい。歩き通しに来たんだろうが。飯食めしもじきに来る」

 飯食、の言葉に腹がまたきゅるる、と情けない音をたてた。見楢が笑い含みに続ける。

「お前の都合は知らん。俺は総領このかみ殿によろしくあたるよう、託された。だからお前はまずは腹を満たせ」

 文にそういったことは確かに書かれてあって、見楢は主紗の都合よりも笙木の命じたものを先とみなさなくてはならぬ立場なのは分かる。だが主紗は唇を噛んだ。ここから御宮みあらかまで、馬を駆ってどのくらいかかるか、やったことがなくても知っている。

 主紗の勢いが萎えるのを見て取ると、見楢はここぞとばかりに続ける。

「姫巫女様の許に何をおいても、って駆けつけようとするのもいいけどな。お前、今は暇をもらって邸宅やしきにいることになってる。駆け込む先は御宮みあらあじゃあない。紗郷の邸宅だ、わかるよな?」

 何に先駆けても、まずは父の元へ来るようにと文にはあった。だが、関塞で飯食に時を取られようとも、邸宅で笙木に足止めを受けたくない。

「主紗。急いてコトを運ぶよりも、お前の性分も役目も、策を練ることだ。らしくもないぞ。事態ことなんてものは何もなくとも転がり出す。それをお前は今、己の手で無理にでも転がそうとしているだろう。違うか? 向かぬことを急いてやろうとするな。……仕損じても知らんぞ、俺は」

 主紗はぐっと、詰まってしまった。焦っているのは確かなのだ。水に限りがある。今、こうしている間にも、水は消え行こうとする。

 水が消えて大地の巡りが狂う、その始まりと終り、限界はたてが遠からず、やってくる。

 主紗は事態ことを動かさなくてはならない。そのために、生国に急ぎ戻った。だが、その限界はたてにあるものを思い描くことができない。描く未来さきもなくあてもなく、動かすものとはなんだ。何を動かせばいい。

 何もしなくとも、水は無くなる。大地は狂う。

 それはすでに決まり切ってしまった「物事」だ。では己が動かすものは。

 国と、そのことわり

 政事まつりごとと、祭事まつりごと

 ここに生きる「ひと」の意思。

 見楢の言うとおり、本当の事態ことなどというものは、すでに主紗に関わりのなく動き始めてしまっているのだ。できることなどいくらもない。

 限りの在ることならば、策を練り、知恵を絞るほどの余地にも限りがあるということだ。

 主紗に今できることは、この二人の友を動かすことだった。少なくとも、それができねば、何も動かせないのに違いない。

 限界はたては誰にも気付かれることのなく、じわじわと忍び寄っている。気付いたときには水はなく、大地は死に至っているはずだったのだ。

 主紗にそれを教えた水の霊力者みこは……己の他の誰にも教えなかった。

 限界はたてを教えるということ。

 それは、事態ことを動かす発端はじまりになるということだ。

 そして始まるものは、……人々の、民の惑いだ。

 ここに至ってようやく、その張り詰めた弦を裁つ手を己の内に抱えていることに思い知る。

 あぁ、最悪の事態ことがもし起こるとしても、その始まりを引き起こすのは己のこの手だ……。

 見楢に言われなければ、深く慮ることのないまま、その発端はじまりの弦を裁ち切り、できたはずのことまでできぬようなことになってしまっていたかもしれない。

 見楢は采斗だけではなく、総領殿の嗣御子の扱いにも長けているのである。

「……わかった。たしかに私は焦っていて、らしくないのだろう。だから、まずはおとなしく飯食をちょうだいする」

 向かい合った兄分は、戸口に声を掛けた。爺が盆を下げ持って、待っていたのだ。



 爺が急ぎ用意したのは、野蒜のびるあつものに湯がいた索餅さくべいを浸し、鶏の卵を溶いて流し込み、半熟なまにえに固めたもの。麦縄汁まろぎのなわもどきのようなものだった。それに塩漬けの瓜が副菜あわせあわせだった。

 とは言っても主紗はこれは何だ、と問いかけて教えてくれた爺の作り方の半ばもわからなかったのだが。ともかくもそれを腹に入れて、人心地のついたのだった。

「久方に、満足に食った……」

 飯食めしは己らしさを取り戻すのに必要だとかなりまじめに思った。確かに見えるはずのものが、見えぬようになっていたのだ。

 膳を置き、主紗は父の文をもう一度読み直した。そして文の様子から、明日香の意向がないことを確かめる。父はどのようにして己が隣国に出たことを知ったのだろうか。

 ……明日香さまならば、風に聞いておられたかもしれないと思っていたのだが。

 いや、それはないかと己の考えを否定した。

 水の霊力者みこ、水葉の意思を受けた水は、山間の関塞に近付いたところでその歩みを止めた。それは「すみわけ」のようなものではないだろうか。生きる者たちが他の者を拒むことで自らを保つのに似ている。

 どちらかが拒むのか。それとも互いが拒むのか。人の身である主紗にはわからない。

 この文から読み取れることは、明日香様は己が隣国に出たことを承知していること、そしてそれを父に伝えたこと。この旅旌を見楢に預けたのは父の考えで、明日香様はご存知ではなかろう。

 那智様が御越しであるというのに、楓殿が暇をとっているということが気にかかる。名目は王使つかいであるという。

 国を出る前のことを思い出す。那智は風に声を乗せて明日香に呼び掛けていたという。

 それぞれの「意思」が複雑に絡み合う。その中で、己がどのように立ち回るか……。

 身震いがする。面白い。

 そうだ、それが己の得手とするところ。それをすべて明日香様を守ることにつながっていくだろう。否、つなげてみせる。

 見楢の姿は今この粗宅にない。ふと気付けばずっと葦簀の影にあったはずの采斗の気配もない。もっとも采斗が主紗に気配を悟られぬようにするのは容易いことではあるのだが。

 それでも随身する、と言ったからにはあの友のことならば気配を消さず、主紗にわかるようにして付き従うものと思っていた。

 戸口から顔を出して覗いてみたのだが、やはり采斗の姿はない。物事を途中で投げ出すような男ではないのだが。

 この辺りは関塞の造作の際に木々が抜かれてならされたと見えて、大木がいくつかあるだけである。他の御館みたち小館たち臥宅ふしいお苫屋とまからも離れている。篝火かがりの明かりは届かないから、慣れぬ主紗には周りの様子はわからない。

 森の中の道を一人で歩いてきたが、一度誰かに関わってしまうと独りで取り残されると居心地悪い。それでこちらに向かってくる松明まつを見つけた時には訝しむ

よりも関わりのない者に見つかることを恐れるよりも、安堵を覚えて、慌てて気持ちを引き締める。

 危ぶむ意識が低いようでは、まるで御宮みあらかに、……己のあるべき居場所に戻ることを躊躇っているようではないか。

 松明の持ち手は爺だった。見楢に言いつけられたのだという。

 主紗は飯食の礼を言った。膳夫の朝は早いというのに夜更かしさせてしまった。いえいえ残り物しかございませんで却って申し訳ないことで、などと言いながら立ち並ぶ御館の裏側目立たないところを選びながら、主紗を連れていく。

「厩か」

 爺はおじぎをしながら去っていく。中から見楢が顔を出した。

「その足では歩きは無理だろう。こいつで行くといい。……真刀まとという」

 漆黒の毛並みも美しく、暗闇に浮かびあがった馬体は引き締まり力を感じさせる。身丈も高く、瞳は苛立ちも怯えもなく静かだ。

「こいつは……お前の郷でも壱弐、とかいう名馬だろう? 聞いているぞ。いいのか、連れて行っても」

 すでに鞍置かれた真刀の手綱を引いて厩の外に連れながら見楢はいう。

「構うな。真刀は俺が親父殿から下されたが、気性が大人しい。俺は兵士だから、戦場いくさばに連れることもあり得る。……お前は馬の扱いが上手いだろう。真刀、大事にしてもらうんだぞ」

 真刀は美しい馬首を見楢に寄せた。いいのか、と聞いているように見えた。彼がうなずき、軽くたたくと、小さく鼻をならしてから、主紗に向き直る。

「きっと、大事にしよう。必ず」

 見楢は主紗と真刀をこっそりと関塞の門から離れた逆茂木へと連れた。関塞の者たちにすらあまり知られぬ隠された門があるというのだ。

 主紗は真刀の鐙に足かけて飛ぶように跨る。左の足首は、怪我に慣れている見楢に診てもらって薬を塗りかえて堅布で巻き直してもらっていた。

 真刀の首を頼む、というように撫でて、手綱を取る。

「見楢、面倒を掛けた。この借りは必ず返す」

「あてにはしないさ。それに俺は総領殿に従った。お前には関わりない。……面倒事の主はさっさと行け」

 わずかに踏み分けられた獣道が続くからそれを辿れば路に出る、と見楢は小さな門を閉じた。そして少しだけ、息を吐く。

 主紗は、少し変わった。いい顔つきになった。

 さて、あの子離れできぬ総領殿はそれを見てなんと言うだろうか。思い巡らせて、見楢は誰もいないところで一人、口の端を吊り上げた。

 月影を見上げた。俺はなんていい奴なんだ、と一人ごちる。真刀のような良馬、望んでもそうは得られるものではない。ただ、今、己の手元に他の馬がいなかったのだ。

 これはもう、それがもったいなかった、と後から思うようなことだけはしてくれるなよ、と願うよりほかにどうにもならないではないか。

「面倒事はもう……起きねーよなぁ……?」

 心の奥底から願わずには居られない。こんな役回り、技芸人わざひと小説げきにだってそうはない。これまでに幾度引き受けてきた役柄だろう。

俳優わざおぎにでも、なるか……?」

 現実うつつでないだけ、ましである。

 だが、彼の願いは虚しく、きっと面倒事は起こるに違いない。

 歩揺かんざしを手に入れ損ねた。仕方がない、母上への贈り物は市で見繕うとしよう。傷ものではなく。

 済んだことを思い煩うのは「見楢おのれ」らしくないことだ。だから彼は敢えて考え込むようなことはしない。皆から見た「見楢」をなぞらえるために。

 俳優わざおぎというものは始まればその小説げきを降りることができないものだ。物語かたりごとが終わる、その時まで。

 ……だから彼はこの「見楢」という役柄を、生まれ落ちたそのときから生きている。

 「見楢」を生きる。物語が……終わるまで。

 戻る道で彼は篝火かがりの側を通った。松明の代わりに、薪をひとつ引き抜いた。折悪しく、あまり燃えていない。

 だが彼はその薪を掲げた。それだけで。

 火勢いきおいが……強まっていく。

 燻っていただけの、薪。

 それが、「何もしないのに」炎を上げていく。

 炎は彼の足もとに、彼自身の影を作った。その炎に揺らめく影を、彼は数瞬……見つめた。

 櫓に向かって歩き出す。もともと不寝番ねずのみはりが割り当てられていたのだ。

 仲間の兵士や衛士をの顔を見つけて、悔しいが賭けに負けたと陽気に笑って見せる。

 それが「いつも」の見楢だった。



 真刀を並足で走らせ、小道を抜ける。しばらく進むと教えられた通りに、幅広く築固められた「みち」に出た。

 月明かりのために、思いのほか明るい。見楢が真刀に負わせた荷には松明もあったが、使わずにすむだろう。

 路の先に、闇深く影がある。馬体がこちらを待ちうけているのだ。

「……采斗。どうした。関塞に在るのがお前の務めだろう」

 言われた友は、ふん、とひとつ鼻を鳴らす。

密使つかい殿に随身の許可ゆるしを得たからだ」

 まだそれを引きずっていたのか。己の友らしく、笑うよりない。

 それに、と采斗は続けた。ひとつ借りがある。戸口まで聞こえるように声高に話した。それを借りたままにしておくのは居心地の悪い。

「お前は、……旅旌なく国境を越えた。否応なく、考えもなく、そのような手抜かりをお前はしないだろう。だがもしも、その越えた先でお前が知り得たこと為したことが、女首長殿を悩ますようならば、俺はこのままお前を行かせられぬ」

 つまりは、監視みはりする、ということか。

 主紗は、わかった、と短く言って真刀の腹を蹴った。長く友をしていれば、わかる。なんだかんだと言い訳をするが、采斗は主紗の左の足首が腫れているのを知って、ついてくる気になったのだろう。

 采斗は己の馬に真刀の後を追わせた。栃栗毛の彼の駆る馬もまた良馬。その名を木凜きりんという。

 主紗が早駆けすることを見越し、木凜の負担を思い、采斗は皮甲よろいを脱いで小具足姿だ。だが靫負ゆげいたままで、征箭の数は減らしているが、重いことには変わりない。

 弓は櫨弓はじゆみから騎射のりうちのための合弓、竹を貼り合わせしなりを増し、いくぶん小さくても長距離へだたりのたけの飛ぶ物を肩かけている。

 その合わせた荷の重みは真刀のものとは比べものにならない。だが木凜は早駆る真刀を追い、采斗と息を合わせ駆けを崩さない。

 その柔らかい乗り心地、辛抱強さもあること、息切れせずに長く駆けることのできることも含めて、戦場に連れるために生まれた、兵士のための良馬だと、采斗は木凜を可愛がっていた。

 前を行く主紗がわずかに振り返った。己を後ろに友があることを確めるために。

 それは「道」を一人きりで作り上げた未来さきも、こうであるかのように。

 続く誰かのために切り開き、人は進んでいく。

 友が前を向け、慣れぬ夜道はたやすくはないと叫んだ。己の騎乗うまのり技巧わざを知らぬ友ではないだけに、気持ちを知る。

 

 この路は、続いている。

 己の在るべき居場所へと続いている。


 その路の未来さきに、彼等の為すべきことがある。

 苦難くるしみを伴うとしても。



 ……何に代えても、護る人がいる。


 限りを越えるための哀惜かなしみが。




 たとえその身に余ることだとしても、

 待ち受けている。






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