心に軛あるまま路を往く
及びもつかぬ程の
風水火山海川泥砂草木鳥鹿魚人すべてが手を伸ばすように分かれ出で、
意思の巡る如くぞ天に返り地より出づる。身のはかなくなりしとき混沌を駆け意思の白きになりてぞ
……そしていう。
なべて巡りゆきし
語り部がいつ覚えたともおぼつかぬことを
……天地分かるることの始の
山間の国は白々と明るみを増し、一日が始まろうとしている。夜明けとともに民は目を覚まし、空を見上げる。……今日も雨はないのかと。
彼女はもうこの
小さいと言っても、房室を与えられた女官は多くない。殆どの女官は殿舎の広間を
……特に、こんな日には。
楓は本当なら、数日ほど
女首長に仕える身ではあるが、郷に帰れば郷士の
あまり郷に帰らない楓だが、長雨の続くはずのこの季節、
ところが、それらの用意をしている
雨がないのは確かに国の大事で、女首長自らが水を節する中、大きな宴や
郷の者は皆、宴を楽しみにしていただろうし、楓も少しばかり惜しいと思っている。だが、それでも帰る気にはならないのには他に理由があった。
父、稲佐のことである。
語り部や古老たちも覚えのないほど、雨がない。
なぜか山間の
だが、このまま長雨がなければ、いつ井戸が涸れるものか。
民の不安はじわじわと広まっている。今のところ、二日に一度、隣国の海辺の国が樽や甕で水を
かの国の小川はまだ、水を流しているのだ。
稲佐は、海辺の国を警戒していた。この周辺の国々は山間の国を
海に面した海辺の国は海の幸を多く受ける。山深く流れる小川が、海辺の国の
楓の物心つくころまで、戦があったのだという。その戦は
楓には
このさなかに
彼女の大事は国の政事よりも、若き女首長の御身である。このところ少しうち沈んだ様子を見せる女首長の憂いを増やすわけにはいかない。
だから楓は暇をもらったものの
思ったよりも房室の外がざわざわしていて楓は訝しんだ。いつもこんなに騒がしかっただろうか。
だとしても暇をもらっているのだ、こんなに薄暗いうちから起きだすことはない。せめて夜に火守の番をした者たちが休む頃合までは寝ていたい。そう思いながら
初めは遠慮がちにほとほとと。だがしだいに大きくどんどんと
えぇい、暇をもらっているというのに。
叩かれる妻戸の音の大きさに、楓は寝たふりを諦めた。手探りで
「……起きているわ」
ため息しながら胸元をかき合わせて錠を持ち上げる。その頃には妻戸の向こうにいるんが誰だかおよそわかっていた。
「楓様、……あっ」
「いいから。何なの」
楓の声は思わずも機嫌の悪いものとなった。それを察して芹月は手早く伝える。
「御休みのところ申し訳ありません。それがその、さきほど
楓は力が抜けてしまった。どんな大事かと思えば。明日香様はほとんど毎日のように
そうはいっても宮仕えの日の浅い芹月を責められない。彼女はよくやってくれている。ただ、少しばかり「
「わかったから、芹月はいつものように臥処を整えなさい。
居所は分かっている。楓は長くこの
髪を整えながら、楓は今日の暇が返上されたのに気付いた。
彼女はその海から届く透明な風と、その不思議な輝きを見つめている。……理由はあるかもしれない。だが、ただ美しいと思い、好ましいと思うのにはそれほど深い理由は要らないように思われた。そう、海の深く複雑な青色ほどには。
未だ間近に見ぬその輝きを憧憬だけで見つめるほど、彼女は幼くはない。いつのまにかそのようには思えなくなり、それはかつてのように幼子ではなく
彼女は風を使う
丘の草むらは、雨のないせいかいつもの柔らかさがない。
昇り始めた日の光は山の端を
丘には彼女の愛馬、
そして
とうに決めた覚悟は彼女を強張らせていた。これから、この父ほどにも年の離れた笙木に話さねばならぬことは、国も、すべてを巻き込んでいくことなのだと承知していた。
笙木はただ黙ってこの若い女首長の言葉を待った。彼女の様子がただならぬのに気付いて、そっと片膝をついたまま。
ふいに風が大きく明日香の衣の袖を巻き上げた。その声が彼女の覚悟を揺さぶった。
(明日香。いいのですか?)
それは
笙木は己の
それから、言葉を紡ぎ始めた。
「笙木。私は『民のために生を捧ぐ一族』の
これは
なくもない。その言い回しに何か含むものを感じて崩して座したその背筋を再び伸ばした。
やや後ろに控えている笙木を明日香は振り向かなかった。否、振り向けない。今、笙木はどんな
ただ前を、海を見据えて話す。海は
「もし……
雨雲をこの国に、いやこの周辺の国々に寄せることができるだろう。この女首長と
雨と風の
それに
今、
明日香はゆっくりと笙木に向き直った。見えぬ話に戸惑う笙木を見据える。
転生をせずに
この若き女首長、明日香様の仰せは、そういうことなのか。だが、そんな者がどこにいるというのだ。
「……
生まれたとき、すでに意識があった。
『声』を聞いた。それは初めて聞いた音。
己からその
双子の
母はおののき嘆き、それでも二つの産声に恐れる産婆や
双子はその
命じられるままに
あまりの
産まれ落ちたばかりの己にその溢れる
だが確かに姉姫を死なせなくないと強く思った。
男が川べりに繋がれた小舟の縄を切ったのが見えた。その船底に岩で擦ったような傷があり、水が染み込んでくるのも、この先に滝があることも。
なぜ。己が
だが、そんあことはどうでもよかった。姉姫を死なせたくない、死なせない。生きて。
水が応えた。沈みかかった小舟から姉姫を掬いあげた。……だが、それだけでは。
姉姫が生きられぬなら「
その叫びに似た願いに、水が教えた。己が六度の転生を繰り返す
先も続くのだということだ。
生まれ落ちる、ただそれだけでこれほどにも辛い思いをする。それをこの先まだ繰り返すのだ。産事は時も場所も意思も、
水の
そのために本来得るはずの
……己の身には風の
そのときは思いもよらなかった。風だけでは雨を呼べないことなど。
そして山間の国が後年、
そして、狂わせた多くの運命も。
明日香の語るその禍々しい、だが
この若き女首長、前さきの女首長にして
束の間、驚きに自失していたかも知れない。明日香の紡ぐ言葉は「ただひと」の笙木にはあまりに妖しく、畏れが背筋を這い上がる。それが却って彼に気を取り直させた。
明日香は知っていたのだ。笙木や古参の者たちがひた隠していた
笙木は明日香に向き直ると深く礼をとった。若い女首長を侮っていたことに、そして一度は
「よい。責めるつもりはない。水葉を川に流したのは母様の命だ。それに、水葉は生きている。……笙木、だからお前は人殺しなどしていない」
だから……悲しみを一つ減らしてほしい。長く要らぬ悲しみを背負わせたのは明日香なのだ。
詫びる明日香に笙木は苦い顔をした。明日香は「そのこと」を知っているのだ。主紗の母、
笙木は水姫の命により、姉姫を人知れず川に流した。その泣き声は未だ彼の耳奥に残り、ふとした折に心を疼かせる。まるで己の運命を知るような激しく哀しい泣き声。
水姫は姉姫に「水葉」と名付けた。川面をが流る木の葉を思ったのだろう。笙木は船底に穴があるのを知りながら、小舟の繋ぐ縄を切った。……無駄なことと知りながら木札に名を記し、風邪引かぬようにと幾重にも布にくるんで。
小舟はやがて木の葉のようにその流れに沈んだか、先の滝壺に落ち込んだかしたはずだった。
戦を幾度も超えてきた。
己を、
が、あの縄を切った感触は、己が斬られるよりも重苦しく痛い。
それからいくらもたたぬうちに戦が起きた。この近隣ではこれが最も近いとことの戦だろう。初めは小競り合いだったが、山間の国は
そのときは
笙木はわずかな手勢で撃って出た。民が逃れるだけの時が稼げればよい。相手は多勢。囲まれたか、だが、民を逃すだけはできたはずだ。
耳を、泣き声が掠める。
水葉姫か。
ああ、そうか。己はここで死んでも仕方なかろう。
……そう笙木は思った。だがそのとき、どこかで見たような、見なれた女を戦場に見た。とっさに逃げ遅れた民かと思った。ならば、今ひとときだけでも、死ねない……。
女は争う兵の間を縫って一途に駆けり来る。若草色の
なぜ逃げない。それほどにこの戦場に向かい、駆ける
笙木が気を取られたのは
防ごうとした返しの太刀は……間に合わなかった。ああ、斬られる。
笙木が見たのは、血まみれの女。紗鳴。
崩れ落ちるように倒れた紗鳴を支えようと伸ばした腕は届かず、笙木の妻は地に伏した。
弱々しく笑みを浮かべ、紗鳴はただ呟いた。……ご無事で、と。
その涙に潤んだ瞳の閉じるのを、見守ることもできなかった。仕掛けられる刃を笙木は払っていく。
……戦の終結おわりには時がかかった。
笙木は
血の流れた草野原をそろそろと踏みしめる。やがて彼はそのなかに、
その年の初めに、持ち合わせのない色合いの衣がほしいと
色合いも柔らかに仕上がった紗鳴の気に入りは、今は赤黒いもので凝り固まっていた。その衣に包まれた身も息絶えて温もりは闇に返っていた。笙木が躯を抱えると左腕の
……これは人殺しの報いだ。
だが何故紗鳴だ。紗鳴が奪われる。何故己の命ではなかった。ああ、愛しい者が奪われる、そのことが己の命を投げ出すよりも苦しいことなら、そうだまさにそれは報いと言える。
ならば仕方ないのだ。愛しい者を奪われても仕方ないくらいに冷酷に、あの縄を切ったのだから。
笙木が明日香にその生まれの話をすることがなかったのは、双子の姉姫のことを隠すということよりも、笙木が辛いのだ。
姉姫の泣き声、その死を命じた水姫、
どれも切り離せず、笙木の気持ちに影を落とす。
紗鳴は
明日香はいつとはなしに知っていた。
草野原を歩くうちに、地に残った思いを風が匂い立ち感じ取った。笙木は一人でその責めを負うつもりでいることも。
だが、それはひとつも笙木のせいではない。
どうにもならないはずの運命を捻じ曲げた己のために、笙木を苦しめた。笙木をそのように仕向けたのは、ほかならぬ明日香だ。
笙木はそれは違う、と強く言った。
もし運命というものが確かにあるとするなら、明日香が姉姫の生を変えたそのことすらも運命だ。
……だとすると、それを嘆くことすら無駄になる。
選びようもなく、どうすることもなく、ただその流れに運び込まれた木の葉というものは。
流れに身を委ねたとしても、何かに掬い絡めとられたとしても、過ちがあったことにはならない……。
木の葉は己から足掻くことも向かうこともできないのだから。
ウミが大好きだ。
なのにウミを知ることは難しい。
隣国も、
笙木、ウミはむつかしいな。どうしてこの丘からしか見ることができない。
……そうですね、海は、遠いから。
どのくらい、遠いのだ。
学問はむつかしいもの。ウミもわからぬ。
そんなことはありませんよ。海は……確かに気難しい師のようですが、ときに優しい。
そう、水姫様のように。
ウミは気まぐれ者なのか。風音と同じだ。風音は気まぐれ者だから、風は時々しかウミの匂いを運んでくれないんだ。ウミのこともあまり答えてくれない。
母様は違うのに。母様はいつでも、水も風も火も、みんなとお話できる。郷士の皆とむつかしいことも話ているし。
水姫様は
ほんとうか。風音にもできるか。
もちろんです。水姫様は民も郷士も、皆にとって良いように望んでおられる。だから皆も水姫様をお慕い申し上げ、敬い、国がひとつになるのです。
よいように。
えぇ。悲しくても嬉しくても。それがすべて良いように。悩んでも、迷っても。
……わからぬ。
風音様が良いようにと望まれたことが、すべてを良いように導いていくということです。それは難しいことではありませぬ。いつか風音様は水姫様のようにおなりになります。……風音様は海がお好きでしょう。
ああ。ウミはとてもきれいだ。ウミから来た風は気持ちがいいもの。
それはとても良いことです。海を知るために覚えるならば、お嫌いでも難しくても、いつかきっとすべてが良いように思われるでしょう。そのときには水姫様のようにおなりになっておいででしょう。
そうか。嫌いでもよいのだな。
もっとも、お嫌いだということと、おやりにならないということは違いますが。
えぇー。
今、首長としてこの国を統しらす
己の良いように望んだことは、皆のために良いようになっているだろうか。
己の望みが皆の望みであればいい。皆が幸せを望むならば、己も幸せを確かに望むだろう。
皆が幸せでいるなら、いくらでも幸せでいられる、笑っていられる。
なのに、どこか掛け違い、くい違い、皆が海よりも遠く離れて。届かぬ、伸ばした腕。
……
では風は皆の、民の幸せを、この身の傍近くにおかないのか。
海からの風は、あの頃と何も変わらないというのに。
朝焼けの中、明日香は海を見ていた。穏やかなその
明日香は言ってしまった。口から出した言葉は二度と戻らない。そのためだろうか、ここから望む海のようにここで聞く風のように……穏やかな心地がする。
否、違う。笙木の言葉を、
笙木の今までの想いを崩してしまった。今の彼を作った、想いを。なのに、明日香は気が楽に感じるのだ。
苔むした
それは、笙木が失った想いと、これから新しく負う重みであるのに。
そのことに気づいて恥じてみるものの、それよりも、心の奥底の水瓶ににわかにひび入って、じわじわと哀しみもせつなさも苦しみ痛みも呵責が薄れるようにこの身を流れ出ていく。
心寄せる誰かが己の荷の重みを知ってくれる、それだけでこんなに心落ち着き、救われたような気持ちになるのだと知った。
ならば、笙木にとってもそうであってほしい。
笙木は母の臣。今の己が母に及ばなくとも、その荷の重さを今は引き受けられる。
笙木の辛く苦い記憶は風から知った。それを告げずにいたために、余計に負った荷もあったのだろう。だから今は笙木の荷も軽くなっていればいい。
笙木は口を開いた。
「……責めはいたしません。明日香様が良いようにと望まれたことであるなら」
それに、思い出したのです、と笙木は続けた。
笙木の腰には、帯玉の代りに佩いた
……生きているから、幸せを感じるのです。
それは水姫の言葉だ。
辛いことがあっても、また幸せが巡って生きていける。長く忘れていた本当の意味。それは、今明日香に伝えるべき言葉だ。
明日香はできる限りを生きようとしている。良いように良いようにと、すべてを生きようと。だから笙木が伝える言葉には意味があるのだ。
憂いを失くすことが幸せなのではなかった。それを笙木は長く忘れていた。
彼は己の若き女首長に呼び掛ける。
明日香様。
その柔らかい笑顔に、先の女首長の面影を見た。
かつての旅は今ほど楽なものではなかった。人々は
覆われ見失うような道を。
見失わぬように川沿いを行き、山の麓を行き、見渡す景色を
細く獣道よりも頼りないそれは、やがて踏み固められ国を繋ぎ、流れの
国と国の
それぞれの国が市を整えて彼ら
だが、深く
愛しい者に贈る
戦が増えると
大国は小国に
が
戦が減り、
だから道はまた獣が分け踏むほど、猟人がその獣を狙うだけとなった。いずれまた少しずつ荒れては元の叢に覆われるのだろう。
幼い頃、学問の師でもある祖父の
ならばその造作ものもまた営みのうち、いずれ巡りゆく流れの中で埋もれてゆくのだろう。草木に、森に、大地に。
人ひとりでの行いはましてにわかに朝霧のように消えてしまうのかも知れぬ。
それでも人は己を営み続けるのだ。道が路となったように。それすらも、巡りゆく流れのうちなのだから。
祖父の……
整えられた
理由わけはきっと風音様に己が泣いたことを知られたくなかったからだろう。
水姫様は
風音様をお守りしなさい。
その言葉を残して
泣いて泣いた。悲しかった。
それからだ。苦手な武芸を身に付けるために必死になった。
それからだ。
守る人ができたのは。
ずっと、何に代えても、護るのだと決めたのだ。
小川に沿ったかつて人の営みを支えた道は、再び叢に覆われ始めている。
主紗は、そんなことを思いながら頼りない道を分けて歩いていた。
この道は人ひとりでは作られなかった。
木陰の落とす薄闇を払い、茂る叢を分け、蔦を切る。易くはないが、己の道を作りながら歩くのは。
今の己にはちょうどよいと主紗は思った。
他国の王や首長など、
その造りも調度も、首長の住まう
茅葺かれた
置かれた
これらは他国の
山間の国がこの近隣の
年に数度、足を踏み入れる御館。だが、今回は久方振りだ。奥津の王の
奥津の国では、子は父の下で育つ。父の
困ったことはない。両国の橋のたもとをいつでもつかんでいられることに。それは彼女にしかできぬ事があるということ、そしてそれは彼女の在る理由であり、意味だった。そのために生まれてこられた。まだたった十三度の季節を巡っただけだが、両国の「立場」を生きている分だけ、彼女は
彼女は己が何を成すべきか、正しく理解していた。だから今日も、奥津と山間の狭間を生きる。檻の中で美しく羽を広げる孔雀のように。羽を折られても、空を舞わずとも、雄々しく麗しく。
長鳴きの
明日香は那智に、
した
そして早朝に
どこか……明日香の物言いに偽りを感じた。だが、那智は明日香の頼みを受けた。彼女の成すべきことは明日香の意と奥津の王の意を重ね合わせ、擦り合わせることだ。それに、軽々しく
だから那智は目覚めると己の役割を果たすだけだ。
出入り激しくする「御宮の
鶏に毒づき、それでも落ち着いて那智は水の張られた鉢の前に座した。朝の身支度のために、昨夜のうちに客人の御館に仕える
鏡代りに髪を整えた。
鉢の底には
水に揺れる花を掬うように、……那智は両手を浸す。
彼女の
水は那智の呼び掛けに応えて、そろりと彼女の腕に這い上る。そして肩から胸へ腹へ、足へと水は伝って彼女の姿を覆っていく。
だが、
この水は、昨夜、明日香が
明日香を知る水を那智は「使った」。この水は、明日香を映すことのできる水だから。
鳶色の瞳は二重で、黒目がちに。紅もつけぬ唇はだがふっくらと珊瑚色。艶やかな黒髪は豊かに肩口を流れ、背を覆う。
身の丈も、すらりとした指先も、そこに明日香の何もかもそのものがあった。
明日香を映した那智は、客人の御館をそっと出る。
内宮と隣り合う
「……お早い御戻りで」
この声は
それでも那智は慌てることはない。なぜなら今、彼女は「明日香」なのだから。
奥津の国の巫女は「声」を聞く。己の意思を放棄して忘我した果てに「他の存在」の意思を己に成す。その「声」のみを己の身の内と成し、聞くために
だが、
だから、慌てない。
那智の身には今、「明日香の意思」が「声」となって在るのだ。
「楓。
明日香の声で、明日香の言葉を楓に語る。本当の明日香がこの場で言うのと同じことを。楓がいくらこの
「どなたのために、
那智はくすりと笑んだ。
はもう己の意思なのか「己の内にある明日香という名の意思」なのか、判別つかぬほどに那智の身の内に馴染んでしまっていた。
「まぁ、そう言うな。丘まで行かずにすんだろう」
楓は盛大に顔をしかめた。客人のおありなのですから、このようなときくらいはおとなしく
長鳴きの鶏は一日の始まりを告げる。
今日の会合は奥津の
空にはやはり雲がほとんどない。風が頬をそっと撫でて、
同じ波は一つもない。砂を巻き上げて引き寄せては、またまろぶように駆けて、寄せてくる。同じ繰り返しは、同じものだとは限らないのだ。
海辺の国は湾状に形作られた砂洲にある。そしてその湾は、いわばが磯となって囲んだものだ。浜から海を見ると左手から岩場が伸びている。湾の中は波も穏やかで、少しくらいの高波は岩場が防いでくれる。
広い湾の海の
それはまた、海の幸を必要以上にむやみに獲ってまうことを防ぐ意味がある。
今も、湾内にも沖合にも、幾艘かの舟があった。釣糸を垂れる者、銛を携えた者、素潜りに備えた者、仕掛けた網や籠を引き上げる者。毎日繰り返される営みである。
集落の中では女たちが朝餉の仕度をしているだろう。また、
水葉は海が苦手だ。
余程の事がない限り、浜の
海を眺めてどのくらい経ったか。主紗の後ろ姿を送ってからずっとその場に立ち尽くし、気付くと海の彼方をぼんやりと眺めていたのだ。
小川はあと半月で流れなくなる。
彼女は事実を告げた。告げられた男は去って行った。
男は成すべきことを成すだろう。だから彼女も己の意思で成すべきことを成す。たとえ僅かであっても、機が熟せばそれは意味を持つはずだ。
やっと水葉は、己の成すことを見つけたのだった。
ただ漠然とした不安を孤独の内に秘めて過ごした日々の繰り返し。だが、それはもう終わったことだ。
彼女はもう一度去った男の先を見やる。そしてさしあたっての成すべきことに取り掛かった。
大きめの桶が二つ、水を満たして取り残されていたのだ。主紗が
さてどうするか。
だが、主紗と二人で話をするために、早瀬を先に
朝餉の仕度が進まず、音潮がやきもきしているだろう。ならば余計な時をかけることもない。
水葉は桶に向き合い、手をかざした。水の
主紗がやっと持っていた重い桶を、水葉の細い腕が下げ持った。砂地を歩きだす。揺れる水とその重さを感じさせない軽い足取り。さすがに日射しを帯びて熱を持ち始めた砂が足元に絡んで森や林の道を行くようにはいかないが、主紗が見れば、落ち込んだかもしれない。
水葉はそう考えて少し笑った。主紗ならばきっと気付くはずだ。今水葉が桶二つ分の重みしか感じていないことに。
否、それでも主紗は悔しがるだろう。小さなことで悔しがるような男だから。笠耶に侮られて抜けている、と言われたときもそうだ。海辺の郷士たちへの挨拶を笠耶の目の前で事無く済ませた後、見直されでもしたのか、ずいぶん嬉しそうな顔をしていた。
茅壁の
舟が戻る前に炭火を落ち着かせておくために、早くから取り掛かるのだ。
「まあ巫女さま。そんな重い物をここまで。お持ちしますから」
「初めての
海真は時季はずれに実る草木をたくさん知っている。だが、それを誰にも教えない。荒らされては次の実りを失ってしまう。皆それを知っているから、あえて誰
も訊ねたりしなかった。
だから水葉は主紗のことを聞かれてもごまかしてしまった。足の痛みが出て少し休んでいると言えば疑われるはしない。
……どうしたものか。
女たちは巫女さまが持てるような桶が持てないなんて、と怪我を心配してささやきあう。特に若い娘たちは迎えに行こうか、
主紗は若いし顔立ちもすっきりして整っているから、娘たちは近づいて話しかけたくて仕方ないらしかった。
とりあえず水葉は桶を置いて、
「
「……えぇ」
声をかけるにしても何を言えばよいのかがわからず、朝餉のことを尋ねてしまった。互いに含みを感じ取り、話はそれで終わってしまった。そんなわけで、水葉はなんと言訳ことわけるのがよいのかわからなくなってしまった。
人に関わるのが、水葉は苦手だ。だから、これまで人と深くかかわることなく、流れてきた。そういうものだろうと、どこかで思う。
朝餉の仕度の輪から外れた水葉は目に付いた日除けの庇の下に座り込んだ。そっと息を漏らす。
そこに見知った顔が声を掛けた。
山の端から覗いた日の光はやがて空を紺色から薄青へと変えていく。仄かに茜の染め色を落としたような朝焼けを
まいったな、今朝は、釣れない。
一度にまとまっただけ
網を入れるのは
などを作るのに量が要るからだ。
そういったものは、
遠波が釣るのは己の分と浜で待つ者たちへの分、だが、今朝はその分を釣ることができないでいた。
湾の
さてどうするか。遠波は何も釣れていない糸を引き上げてから、
そのまま足を船尾から伸びる櫓にかけ、蹴るように操って舟を進ませた。海辺の国でも幾人もできぬ
遠波は幼い頃にこの海で死んだ父から教わった。今でも舟を操ることで彼にかなう者はほとんどいない。
海の中からの海面は
「よう。受取れ」
放り投げられたのは
「そんな顔するな。仕掛けを上げておいてくれ。どうせ釣れないんだろう」
笑ってその舟は離れていく。
瓢箪には甘茶が入っていたのだ。甘茶は作るのに手間がかかる。この海辺の国ではあまり作らないが、近頃では水を求める山間の国から
したたり落ちる水を首を振って切り、前髪をかきあげた。長いために高く括り上げている後ろ髪も濡れたようだ。まあいい。今朝は仕掛けを上げて、切り上げよう。
先ほどの舟は外海に向かった。十になるかならないか、子どもも一緒だ。ははん、と得心がいく。
これまで仕掛けを上げるのはその子だったのだ。いよいよ沖で、網を操る技を教えるのだろう。湾内で素潜り獲るか銛で突くか、そんなことばかりしていた子が大きくなったものだ。
外海は流れがあって泳ぎにくい。
潜った仲間や舟上の「
この海辺の国では、息の合った動きができるようになるまでは
舟上から潜った仲間の動きを見ながら網を絞る者は、その漁で「頭」とされる。沖に出れば頭には逆らわない。漁を始めるのも引き上げるのも、頭がすべて一人で決める。
幸をもたらす海はまた、人を飲み込む畏れる存在なのだ。沖に出た頭には仲間を預かる責がある。
櫓を漕ぐ子どもの顔は張り詰めたように見えた。だだ父親は先に沖に出ている仲間の舟を向いて、子を構うことはない。
……あんな頃が、あったな。
初めて外海に出たときに父親の背中がいつもよりも大きく見えた。それを思い出して、遠波は少し切なくなった。もう、二十度は「季節の巡り」を経た
遠波の父親は、彼が漁に沖に出るようになってすぐの嵐で死んだ。だから彼の父親は
遠波の父親は
この海は遠波から父親を奪った。だから遠波が沖で網入れる漁をしないのだと思っている者もいるのだが、それは少し違っていた。
来凪亡きあと、遠波に漁を教えたのは来凪の仲間たちだった。優れた頭についていた彼等は皆、厳しくも熱心に教え込んだ。
まだ満足に素潜りもできぬほど幼い頃から、遠波は漁の舟に乗っていた。来凪がいつも乗せていたのだ。
そのおかげか遠目も利くし、潮もいつのまにかよく読めるようになっていた。海鳥の動きをみて潮を見て、時には海を覗き込んで群れを探す。気付くと皆に負けぬほど漁の技を身に付けていた。
年若い者たちを束ねる頭となるように言い渡されたことがある。遠波と年の近い者たちを連れて沖に、外海に出るのだ。
初めて頭として外海に出て、その日の漁は上々だっった。その日の夕に獲物を郷士に
遠波もどうしてかはっきりした理由わけは思い付かない。ただ、あの日、郷士の旦那方が本当に喜んでくれたことと関わりがないわけではないのだと思う。
来凪の死を郷士たちは惜しんでくれていた。だから遠波が独り立ちして頭になったのを喜んだ。それを素直に受取れなかったのかもしれない。
それに、未だ来凪に、父親には克てないのだと思う気持ちがある。そうすることで父親の死を悼む気持ちを思い起こすのだ。……遠波の中の来凪が認めない限り、頭として沖に漕ぎだせない。遠波は己の知らぬうちに、己の心に
外海にでた仲間の舟は遅くなる。それに付き合う気はなかった。遠波は舟を回していくつもある仕掛けを一つずつ引き上げていく。空の物もあるが、海老が数匹ずつ掛っていた。小さなものは海に返し、残りを舟に積んである木箱に放り込む。これで甘茶のぶんの仕事は終えた。
浜の様子を見ようと振り返ると、
壺を器用に頭に置いた早瀬と、桶をふらつきながら下げているのは……
揮尚を見ていると、遠波はどうしてか笑みを浮かべてしまう。
本当は、もっとしっかりした男なのだろうと思う。
遠波から見た「揮尚」……主紗は、見るたびに色の違う。年に釣り合わぬ態度をとったり、物を知らず頼りなかったり、抜けていたり、はしゃいだりする。
だが、どこか煮え切らず、盛り上がりに欠ける。何かを無理に押し隠しているみたいに。定められた何かがあって、その通りに先に進むことが命じられているかのようだった。
それは
見えぬ
頭を任された頃と、揮尚の年はさほど変わらないだろう。遠波のあの頃も、相応ではなかった。そんな風に重ね合わせてしまうから、揮尚はもっと、それなりにしっかりしていて、それなりに頼りなく幼いはずなのだと思う。
早瀬と揮尚。……そして、巫女さま。二言三言、やり取りがあって、早瀬が
あまり巫女さまは
出来事のように感じて、遠波は眺めていた。
巫女さまは揮尚と向き合って、何事か話している。真剣な
揮尚が、巫女さまに片膝で跪いて礼をとった。踵を返して小川に沿った道から森に入っていく。ふと気付いたように振り返す。……海を、見たのだ。
あぁ、行くのか。
遠波はそれが分かった。揮尚はきっと返る場所がある。だから、行くのだ。
多くの者がここに来て、去る。
あるいは生まれて、死ぬ。
海に抱えられたこの場所にはいろいろなものが流れ着くのだ。
人も、その想いも。
水葉に声を掛けたのは、遠波だった。
たった今、戻ってきたのだという。日に焼けた笑顔は快活な印象を受ける。長い髪は漁のためか、濡れていた。
今朝は釣れなくてボウズのせいで、笠耶に魚を持っていけないのだと、申し訳なさそうに言う。水葉の朝夕の御膳にのる魚はこの遠波が釣ってくるのだ。気にしなくてもいいと水葉は隣を指した。己が巫女だから、日除けに入るのを遠慮しているのだと思ったから。
周りを女たちや手伝う子どもが行き交う。少し慌ただしくなってきたようだ。遠波は一度は平気だと断ったが、通りかかった女に赤子の子守を託されて日除けの下に入った。
眼の大きなふくふくした赤子。
「抱いてみますか」
受け渡されたそれは、とても温かい。急に手足を伸ばしてばたつかせたから、水葉は背中を砂地に付けてしまった。遠波が気に入られましたね、と笑う。
「巫女さまは……いつから巫女さまなんですかね?」
その問いに、水葉は答えに困る。今まで、聞かれたこともない。聞いてよいことでもないはずなのだ。少なくとも今まで流れてきた巫女の類のある国では。
ここは、本当に、時の流れも、人も、何もかも違う。
己でさえもそうなのだから、主紗はさぞかし驚いてばかりだったろう。
「さあ……。生まれた時、かな」
それは偽りの応えだった。もしそうであったなら、今ここでこんなふうにこの赤子を抱いていることはないだろう。
「へぇ? さぞ愛らしかったことでしょうね、あ、でもわからないか、いくらなんでも」
「きっとこの子のほうが、可愛い」
なんでです、と遠波が聞いた。
「……私に懐いたもの」
吹き出して大きく笑いだした遠波に、赤子が驚いたのか、ぐずりだしてしまった。慌てて母親が寄ってきて、水葉の手から赤子を抱いた。
「すまない、泣かせてしまった。……名を聞きたい」
母親と赤子、どちらとは言わなかったがわかったようだ。
「美しい白砂の遠浅がいつまでも続くような里を心に持つ、清らかな
浅里はまだぐずり続けていたが、母親は礼を言って
「あんな頃が、皆にある……」
「えぇ、こんな俺にもあったんですよ、こんなに厳つくても」
そうだろう。そして誰もそれを覚えてはいられない。
水葉は忘れてしまっていた方が幸せでいられるだろうことを知っていた。だから浅里は
「浅里は覚えていますよ、きっと。巫女さまが
遠波は水葉の気持ちを透かし見たような物言いをした。それで水葉はそうかもしれない、と思えた。遠波はそれでもいいのだと教えたのだ。
炭火に炙られた、よい匂いがふうわりと潮風に乗る。戻りの遅い沖合の舟を待たずに、浜にいるものだけでの朝餉になりそうだ。
隣からつぶやくような音が聞こえて、水葉は遠波を振り返った。目が合った遠波はだが、なんでもないというように首を振った。
「……揮尚は、行ったんですね」
見えていましたよ、と明るく笑う。何と返してよいものか、水葉は迷った。
「そんな顔しなくていいんです。揮尚が行った、それだけなんですよ?」
あぁ、海辺の民を見くびっていた。彼らは海辺の民だ。受入れ見送る、海辺の民だ。
多くの者がここに来て去って行った。ある者は留まったし、ある者は行くのだ。それはただ、それだけのことなのだ。……ここはそういう所だ、この
この国は。
想いは海に残る。抱え込み沈み込ませ、時に渦巻き、海はすべてを湛えてここに在る。
水葉は海が苦手だ。
海の想いは……ここに残ったすべての想いは、水葉の手のひらには余る。
身の内に流れ込むものが激しく切なく、せめぎ合っってどうしようもなく、重くなる。
寄せる波がまるで己を責めたてるかに感じて、苦しいのだ。
だけど、今は。
岩場の彼方。朝焼けの海が輝いている。そんな風に、思えた。
遠波が立ち上がる。朝餉の仕度を進める女たちに、大きな声で呼びかける。
揮尚は、行きやがった。
女たちと、浜に戻っていた男たちも、遠波を見返した。
遠波は振り返って、にかりと水葉に笑ってみせた。それで、皆を引き受けてくれたのだと気付いた。そっと裾についた砂を払い、
くのだ。
ふと思う。……遠波が言いかけて、だが言わなかったこと。それはカサヤ、という音に似ていた。
揮尚が……主紗が去ったことで、遠波は笠耶が気になったのだろう。笠耶の生まれた場所のものという、その「名」を遠波は知っているのだ。
この国の海が見せてくれたことを、水葉は思い出した。たくさんの想いのうちの、それは僅かなことでしかない。だが。
……確かに遠波は、来凪に似ているのだ。
旅人が関塞を抜けるには
地を耕さずに生きる
関塞はただの門ではない。路を塞ぐように柵や築地を造り、その内には門衛ら
彼らのための
そういった役目の合間には鍛練を行い、関塞内では畑を耕している。夜には
国の果では戦が続いているようなものだ。己の国をその矜持と
山間と海辺も結ぶ
朝日が木々から木漏れて柔らかな光を足元に落とす。
「采斗。またそこにいるのか」
名を呼ぶ声は、彼の真下から聞こえてくる。その声の主が
「いつかうたた寝て、落ちても知らんぞ」
もたれていた背を起こして、采斗は見下ろした。見楢は采斗よりも二つ三つ年上で、そのためか采斗の面倒を見たがるのだ。
「
見楢の姿はまだ昨夜見たまま、
まあいい、と見楢は苦く笑った。
「『落ちない』に賭けたからな。五日の間はうたた寝ることがないようにしてくれ」
なんだそれは、と問いかけると賭物は
くだらん、と采斗は吐き捨てた。女の
時折、
るのは馴染みの女たちの気を引くためだ。長い時は三月にもなる関塞での
だが、そこで采斗は気付いた。行きかけた見楢を身を乗り出すようにして呼びとめる。
「待て。五日だと? 俺はしばらく
見楢は僅かに振り仰いで、皆が一日ずつ譲ったから、有難くそこせ過ごせ、と手をひらひら振って行ってしまった。采斗は頭を抱える。勝手なことを。
たしかに「ここ」を采斗は気に入っていた。
関塞内の物見櫓よりも高い
櫓は「矢倉」、本来は敵襲に備え
だが采斗は
この
そべるのにはゆとりがあるが、ここで
危難を察して忌避しようとすることは生きとし生ける者として正しい感覚といえるだろう。だが「人」として「兵」としては、身の内に至らぬものを抱えていることになるのだ。
日頃の考えを再び巡らせ、采斗は切れ長いその目をさらに細めて眉根を寄せた。賭事にされたことよりも賭物が女の
「
采斗は身を起こし、狙台に立った。傍らの
床がぎしり、と軋んだ音をあげた。
幾重にも太い幹と枝に縄がかけられてこの狙台を支えていた。その縄には上差して
余韻を残さず聞いてしまってから、彼は構えを解き、目を開けた。
ふわりと、風が頬を撫でたように思った。それで、姫巫女様が弓弦の音を聞いたのだと思った。
風に乗った音をどのようにお聞きになるのか知らない。本当に聞いておられるのかどうかも。
だが朝早くに鳴らす弓弦は大事な役目だ。
大きく一度の音は平生のまま、何も変わらぬことを報せる。二度続けたなら、
今朝の音は一度。
その音は
これで
西の空には、有明の下弦の月が薄く残っている。
今、彼女の意識は山間の国の
ただ彼女の身の内に「明日香」という「名」の意思を宿しているのは確かで、だがそれが己の意思とどのように違うのか、本来はまったく異なるはずなのに、その違いを己の意識の上では分けられぬのだ。
このような
そのほかの何か、であるならばはっきりと己との境目を意識できるのだが「ひと」のそれは彼女を惑わせる。まして今、彼女の身の内にあるのは
明日香の意思には風の意思が入り込む。明日香が
それは水の
……水が、それとも風が、あるいは互いが、拒んでいるのだろう。
それでも今、風の声は聞こえるし、水の声も分かる。その気になればおそらく風の
もし、水と風とを使う
それとも己が水の
過分に儀礼的な朝の
那智には水をそのまま使って水を通して「国見」することができるのだが、今彼女は「明日香」としてここに在る。それで風が「いつものように」波紋を起こすのを見届けなくてはならない。
風の
有明の月と、大きな
そして物見櫓。兵士が空仰ぎ、弓弦を弾く。また矢倉門でこちらも見据えて弾く。
三人の兵士が弾いた弓弦が、水盤に一度ずつ波紋を作ったのだ。
山間の国の最果て、三つある
御簾の向こうに控えた男にそれを伝えて、朝の御勤を終える。男は役目を恭しく仰せつかい、退出して御宮の正門脇の詰め所と門殿に
詰め所と門殿の兵士が鳴らした一度の弓弦の音が遠から聞こえてきた頃、
「芹月。楓にはもう休むようにと。暇だったというのに早起きをさせてしまったから」
ようやく慣れてきたのだろう
久し振りに訪れた生国の
「先ほどすでに
「それは楓を起こさぬように、ということか?」
二人、ひとしきりの笑いの後で、芹月は朝餉を整えるために退がっていった。本当ならこの隙に、
伴った者は二人、山間の国にも明るく頼りになる。那智は身の回りのことは
二人は郷士たちとも顔を合わせたことがあり、郷士の伴人らとも通じているからうまくやるだろう。ともかくも今までのところを聞いておこうと思っていた。
「……主紗殿が、いない……」
ふとつぶやいた声が己のものだと気付いて、那智は慌てて見渡したが誰も控えてはいなかったようでほっとする。
居るはずの、
那智がこの生国に戻れば必ず顔を出してくれる、女首長の
こうしてこの場にあれば、その姿は御簾の向こう、衝立の影にあるだろうその人がいない。
初めは明日香の傍らにいるのだと思った。だが、今、その明日香に代った那智の傍にない。
ならば本当の明日香の傍にいつものように控えているのだろうか。
そう考えることは那智にとってはあまりおもしろいことではなかった。仮にも今ここにあるのは、主紗の
まして己は水の名を受けた
だがそれを明日香に申し立てるのも口惜しい。彼にとってのいちばんは彼の
正直にいえば、那智が伴人の二人に聞きたいのは山間の国のことなど口実だった。なぜ主紗の姿がないのか、どこにいるのかを聞きたくて堪らないのだ。
明日香に直にどこにいるかを尋ねるのは、居所がわかったとしても、呼んでくれたとしても、ちっとも嬉しい気持ちにはなれないだろう。
明日香が彼を正しく知っていて、召し出せば彼はすぐに参る、それを目の当たりにするだけなのだから。
那智は明日香に悟られたくはなかった。
久し振りの
だがそれとは別に、主紗に会うことを心待ちにしていて出立までの数日も、いつにない
那智はそれを明日香に知られるのが嫌だった。
那智の身の内には明日香の意思がある。だから明日香ならどう思うか、何を言うか、今の彼女にはわかってしまう。
……那智は主紗が気に入りだからな。主紗、せっかくなのだから、手でも握ってやるといい。
そして風で御簾を巻き上げて、耳まで赤くなった那智の顔を主紗に見せようとするのだ。主紗は気を遣って、否、客人の、奥津王の
己の内に成した明日香の意思に、那智は主紗もいないのに顔を赤らめた。何故このくらいのことで、照れることがある、それがまた口惜しい。
……だが主紗はきっと苦く笑う。その笑みだけは那智に向けられるもの。それを思って少しだけ、それもいい、と思い直した。
そこに
「姫巫女様、いかがなさいました、御顔が赤うございますっ。御熱がございますのっ」
芹月は折敷を置いて身をひるがえした。しまった。水は
芹月は楓を呼ぶつもりだ。彼女が頼るのはいつも
那智の身の内にある明日香の意思が叫んだ。
「芹月、それには及ばない!」
頼りない女官は呼びとめられて裾をさばけずにつんのめるようにして膝をつき、見返した。
「ですが、御身のご様子、ただなりませんっ。姫巫女様の御身を傍から見るうちに心配りいたしますことも
心根のよい
「楓への言い渡しは許さぬ。采配は芹月に任せる。
他に頼るを禁じられた
「では、同じく
いくぶん心許無げな
那智は息を吐いた。薬湯を飲むことになってしまったが、大事になるよりはいい。己はその意思を成した変わり身で、ただそれだけのことだ。
これで芹月も楓に頼り切るようなことはなくなるだろう。明日香の意思もそのことをずいぶんと気に掛けていた。
主紗殿に伝わるだろうか。
藍和は彼の
で知る。……伝わるだろうか。
そして身体からだの様子がよくないのは女首長ではなく、那智なのだと知ってくれるだろうか。
己の身勝手な
山間の国の大川は流れ緩やかな川だった。葦茂り、水鳥が集まり、魚群れなす。堤と堰を設けて水路が田圃を潤すようになったのはさほど古いことではない。
それまでは大川で浮稲を育てて、湿地を開墾しひらいて、籾を
だが浮稲は収量が少なく、山間の国には湿地が少ない。水路を造ってからは収量の多い水稲を田に水引いて育てるようになり、直播くことも減って、近頃では苗代を仕立てる。
大川に沿った道は国の礎だった。
国の
この道に市が立つようになったのは当たり前の成行きだったろう。
市の賑わいは今も変わらないが、その場所は変わった。国を繋ぐ「路」が造られ、それは
いきおい、道を行く者は減った。
田圃や狩猟の行き来も路を通る。それでも魚を捕るには大川へ向かうこの道を行くが、今その大川は水を流さぬ。
朝早い道を行く者は他になかった。
己と我が君。この国の女首長である
明日香をこの道に誘ったのは笙木だった。今、この朝に野駆けて遠駆けるのにこの道ほどふさわしい場所を思いつかなかった。
笙木はこの道を通るたびに歯を食いしばった。だが今朝は穏やかに馬の歩みを進めていた。
「……遠駆けなど、久し振りだ」
明日香の言葉に笙木は顔を上げた。毎朝丘に野駆けて時にはそのまま国見と称して領内を回るのを
「笙木と遠駆けたのは、ずいぶん前のことだろう」
あの頃のままの悪戯な笑みを含んだ
「前を御向きください、危ないでしょう」
「……やはり主紗と同じことを言う」
笙木は面喰った。
白夜なら私を落とさぬ、と明日香は足を速めた。笙木も馬を小走りに追いかける。あの頃のように。
時が流れた。
あの頃はまだ、白夜は仔馬だったのだ。
明日香の遠駆けに、いつの頃からか主紗が付き従うようになり、それも今や伴はなく白夜だけとなった。
……それだけの時が流れた。
ならば己に長くのしかかっていたこの重い枷が外れていくのもうなずける。
明日香が笙木に笑いかける。関塞は今朝も平生のまま、風に弓弦が一度鳴るのを聞いたのだと。今朝も平生なのだと。
平生とはその実、常に変わりゆくものなのだ。変わらぬものこそ、危ぶまれる。それを笙木は知っていた。
変わらぬ想いが残されても、それは過ぎ去った物事。今思い悩むも、僅かの
変わりゆく平生を皆、駆け抜けていくのだ。
国を憂うならば、そこから始めなければならぬのだ。崩れゆくものと生みだされるものがあるのだと。
笙木がこの国に求めたのは、安寧だった。崩れることのない安寧を渇望し腐心することを平生としたが、失うを恐れた。過ぎ去るはずのすべてを、己の枷としてしまった。
過ぎ去ることに逆らっていては、思い残すを枷としたままでは、変わりゆくことはできぬ。それでは平生と呼べない……。
架けられた軛を、
架けられた枷を、
架けられたままでは行けぬ道がある。
道は変わりゆくがために。
道を紡ぎ出すがために。
道を歩き出すがために。
憂いを残したままでは行けぬ道がある。
求めたために失うものがある。
失わぬよう、
傷つけぬよう、
守り通すよう、求めたとしても。
すべて道が変わり行くのならば。
……何も失わずに守れる道など、ありはしない。
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