心に軛あるまま路を往く

 及びもつかぬ程の過去むかし天地あめつち分かるることの始まりありし。

 混沌くらきほとりのただそにありて漂うなべて萌ゆる如く成り出すは、天と地との分かるること、なべての物事ことの分かれし導かれしがはじまり


 風水火山海川泥砂草木鳥鹿魚人すべてが手を伸ばすように分かれ出で、おのがほかの何者でもなき意思を持った。


 意思の巡る如くぞ天に返り地より出づる。身のはかなくなりしとき混沌を駆け意思の白きになりてぞ天返あまがえりしつる。地に出づるは意思の新しき巡りなり。


 ……そしていう。

 霊力者みこはその霊力ちからによって、ついの別れも新たな生も、天地に戻さぬのだと。己の霊力のみで混沌を巡り、のちの子孫すえに霊力と生と意思をもたらすのだと。


 なべて巡りゆきし現世うつしよ、天地分かれて始まりし。


 語り部がいつ覚えたともおぼつかぬことを後世のちのよに伝うのは、確かにすべてが巡りゆきのだと語るがために。

 ……天地分かるることの始の物語かたりごとである。



 山間の国は白々と明るみを増し、一日が始まろうとしている。夜明けとともに民は目を覚まし、空を見上げる。……今日も雨はないのかと。

 御宮みあらかはこの国の首長おびと御在所いましどころころであり、政事まつりごととの場である。広く垣が巡らされ、いくつもの御館みたち御舎みやしろが立ち並ぶ。その一画には、首長に仕える女官まかたちのための殿舎みやしろがある。

 かえでは殿舎に房室へやを与えられた、若い女首長めおびとの信頼篤い女官の《まかたち》の一人だ。

 彼女はもうこの御宮みあらかで十五たび、季節を巡った。退出するような理由わけもとりたててなく、父親の稲佐いなさは郷士の一人で、彼女が女首長に仕えることを必要としているためか、妻問つまどい婚いよばいの話もあったが立ち消えとなったまま、この小ぢんまりとした房室を住処すみかとしている。

 小さいと言っても、房室を与えられた女官は多くない。殆どの女官は殿舎の広間を衝立ついたて壁代かべしろ垂布たれぎぬとばり立蔀たてしとみを間仕切りにして過ごしている。だが房室は板籠いたこめられているから、朋輩なかまの女官の様子をいちいち気に留めずに寝起きができるのである。

 ……特に、こんな日には。

 楓は本当なら、数日ほどいとまをもらってさと邸宅やしきに帰り、ゆっくりしようと考えていた。

 女首長に仕える身ではあるが、郷に帰れば郷士のむすめ

 族人うからひと伴部とものべの者からは媛様ひめさまと呼ばれる立場にある。

 あまり郷に帰らない楓だが、長雨の続くはずのこの季節、祭事まつりごとや行事の少なくなるのを見計らって暇をもらっていた。楓の帰るのに合わせて、皆、氏族うからの者も集まり、宴や一族うから祭典まつりを行うのが常となっていたのである。

 ところが、それらの用意をしている族人うからひと伴部とものべの者たちには悪いが、楓は続く旱ひでりや水不足を理由に、帰るのをはじめて取り止めてしまった。

 雨がないのは確かに国の大事で、女首長自らが水を節する中、大きな宴や祭典まつりを郷士らができるはずもない、というのは楓にとってとりあえずもっともらしい言い訳になってくれた。

 郷の者は皆、宴を楽しみにしていただろうし、楓も少しばかり惜しいと思っている。だが、それでも帰る気にはならないのには他に理由があった。

 父、稲佐のことである。

 語り部や古老たちも覚えのないほど、雨がない。

 なぜか山間の領内くにうちを流れる大川は真っ先に干上がってしまった。それでも井戸は水位が下がったものの、水がまったく汲めないほどでもないため、まだ渇き死ぬような事態ことには至っていない。

 だが、このまま長雨がなければ、いつ井戸が涸れるものか。

 民の不安はじわじわと広まっている。今のところ、二日に一度、隣国の海辺の国が樽や甕で水を行商あきなりに来て、筆頭郷士いちのごうしである笙木しょうき様が私財たからで贖っているという。

 かの国の小川はまだ、水を流しているのだ。

 稲佐は、海辺の国を警戒していた。この周辺の国々は山間の国を同盟きずなの要、盟主国あるじしている。海辺の国にたからを流せば、国と国の間にある見えない均衡つりあいの糸が、切れるか、絡むか……。

 海に面した海辺の国は海の幸を多く受ける。山深く流れる小川が、海辺の国の領内くにうちに組み込まれたのはそう古いことではない。

 楓の物心つくころまで、戦があったのだという。その戦は領地くにの境を大きく変えた。小川もまた、その上流かみつながれ国境くにざかいがはっきりしないまま、誰も立ち入らぬ場所となった。

 稲佐いなさは笙木に、水を購うよりもあいまいになったままの国境を、この際にはっきりさせるように迫っていた。そのためには兵を出すことも厭わず、やむを得ないのだと。かの国と話し合うにしても兵力の差をみせつけてから、この水不足は兵を出す余裕も削いでいく、ぐずぐずしてはいられないのだからと。

 楓には政事まつりごとの難しいことは伝わらない。それでも笙木と対立する稲佐が「戦派」と呼ばれているのは聞き及んでいた。女首長めおびとが本当に戦になるのを恐れて笙木の意見を取り入れていることも。

 このさなかにさと邸宅やしきに戻ったなら、父に「戦派」の考えを女首長の耳に入れるように交渉わたりの役目を負わされてしまうだろう。だがそれは女首長の心に適うものとも思われない。

 彼女の大事は国の政事よりも、若き女首長の御身である。このところ少しうち沈んだ様子を見せる女首長の憂いを増やすわけにはいかない。

 だから楓は暇をもらったもののさとには戻らずに、この板籠いたごめの房室でゆっくりと過ごそうと考えていた。ここは彼女だけの房室、暇をもらったからには誰にも朝寝を気がねすることもなく、他の女官まかたちが起きだす様子に気がついてもあわてることなくうとうとしていられる。……はずなのだ。

 思ったよりも房室の外がざわざわしていて楓は訝しんだ。いつもこんなに騒がしかっただろうか。

 だとしても暇をもらっているのだ、こんなに薄暗いうちから起きだすことはない。せめて夜に火守の番をした者たちが休む頃合までは寝ていたい。そう思いながら衾麻ふすまを被り直したのだが。

 初めは遠慮がちにほとほとと。だがしだいに大きくどんどんと妻戸つまどを叩く音がする。隣の房室かと思い込みたいが、音が大きくなるにつれて自分を呼んでいるのは間違いないのだと思うよりなかった。

 えぇい、暇をもらっているというのに。同輩なかまには伝えたつもりでいたのだが、誰かに伝え忘れただろうか、それとも何か。

 叩かれる妻戸の音の大きさに、楓は寝たふりを諦めた。手探りできぬを引き寄せる。袖を通すと、それは郷に戻らないのならせめてと、伴部とものべの者が届けてきた真新しい倭文しつり表衣うわつきぬだと気付く。薄青に染めた麻糸を綾に織った乱れ模様は楓好みに仕上がっていて、これも郷に戻らなかったのを惜しませる。

「……起きているわ」

 ため息しながら胸元をかき合わせて錠を持ち上げる。その頃には妻戸の向こうにいるんが誰だかおよそわかっていた。

「楓様、……あっ」

 芹月せりつきはしまった、と口を押さえた。つい昨日にも楓に「様」を付けてはならないと言われたばかりなのだ。ここは郷ではなく御宮みあらかなのだからと。だが郷ではずっとそのように呼んでいたし、氏族うから総領媛このかみのひめの名を軽々しく呼ぶこともできないから、「楓殿」と呼ぶように気をつけていたのに。彼女は今、慌てているのだ。

「いいから。何なの」

 楓の声は思わずも機嫌の悪いものとなった。それを察して芹月は手早く伝える。

「御休みのところ申し訳ありません。それがその、さきほど内殿うちどのに参りましたら、臥処ふしど姫巫女ひめみこ様がいらっしゃらないのです。

 楓は力が抜けてしまった。どんな大事かと思えば。明日香様はほとんど毎日のように御宮みあらかを抜け出しておしまいになるし、探せばわかるところよりも遠くには決して行くことはない。

 そうはいっても宮仕えの日の浅い芹月を責められない。彼女はよくやってくれている。ただ、少しばかり「氏族うからの媛様」を当てにしすぎているだけで。

 女官まかたちをまとめる女首長付きの側近もとこ従者ずさ主紗かずさ殿も暇をとているためか、皆、どこか浮足だっているのかも知れなかった。主紗殿が戻ってから入れ違いに暇をもらうべきだっただろうか。

「わかったから、芹月はいつものように臥処を整えなさい。霊力者みこ様は私が探します」

 居所は分かっている。楓は長くこの御宮みあらかに仕えてきた。

 髪を整えながら、楓は今日の暇が返上されたのに気付いた。



 女首長めおびとは海を見つめていた。山に囲まれたこの国で唯一遥か遠く海を見渡せるこの丘。青瑠璃の玉よりもまだ青く、藍を幾度も重ねた染衣しめころもよりもきらきらしい青、群青の海がとぎれた山並みからわずかに見える。

 彼女はその海から届く透明な風と、その不思議な輝きを見つめている。……理由はあるかもしれない。だが、ただ美しいと思い、好ましいと思うのにはそれほど深い理由は要らないように思われた。そう、海の深く複雑な青色ほどには。

 未だ間近に見ぬその輝きを憧憬だけで見つめるほど、彼女は幼くはない。いつのまにかそのようには思えなくなり、それはかつてのように幼子ではなく首長おびととして、この国の霊力者みことしてここにあるのだと確かに彼女に思わせる。

 彼女は風を使う霊力者みこ

 明日香あすかというその「名」を風から「受けた」。幼いころ呼ばれた名、母がそう名付けたという「通り名」で呼ばれることはもうない。明日香はこの山間の国の首長なのだから。

 丘の草むらは、雨のないせいかいつもの柔らかさがない。

 昇り始めた日の光は山の端を真緋あけに染めて、有明の薄闇を払うように一日の始まりを告げる。

 丘には彼女の愛馬、白夜びゃくやと栗毛の馬。

 そして筆頭郷士いちのごうしである笙木しょうき

 とうに決めた覚悟は彼女を強張らせていた。これから、この父ほどにも年の離れた笙木に話さねばならぬことは、国も、すべてを巻き込んでいくことなのだと承知していた。

 笙木はただ黙ってこの若い女首長の言葉を待った。彼女の様子がただならぬのに気付いて、そっと片膝をついたまま。

 ふいに風が大きく明日香の衣の袖を巻き上げた。その声が彼女の覚悟を揺さぶった。

(明日香。いいのですか?)

 それは霊力者みこを案じるものではなく。ただそれだけを述べる。……霊力ちからは風のものではなく、それを「使う」霊力者みこのものだからだ。

 笙木は己のおすいを明日香に掛けようとした。風の強さを案じたのだ。明日香はそれを断り、楽に座すように言ってから。

 それから、言葉を紡ぎ始めた。

「笙木。私は『民のために生を捧ぐ一族』の霊力者みこだ。霊力者みこは転生を繰り返す。……だが転生をせずに霊力ちからを得る手立てがなくもない」

 霊力ちからを永遠にするために生をついえた霊力者みこは、その霊力ちからをもって時空に綻びを作り上げる。そして一族うから子孫すえにまた生を得る。生まれ変わるのだ。

 これは一族うから秘事ひめごと、郷士でも限られたものにだけ伝えられる。笙木はもちろん知ることではあったが、今、明日香の告げたことは。

 なくもない。その言い回しに何か含むものを感じて崩して座したその背筋を再び伸ばした。

 やや後ろに控えている笙木を明日香は振り向かなかった。否、振り向けない。今、笙木はどんな表情かおをしている、そして己は。

 ただ前を、海を見据えて話す。海は勇者いさおの心を持っている。こんなに己を奮い立たせてくれるのだから。そう、己の心に言い聞かせながら。

「もし……霊力ちからを得た者がいるなら。そして力を合わせることができるなら」

 雨雲をこの国に、いやこの周辺の国々に寄せることができるだろう。この女首長と霊力ちからを合わ得る者がいたなら。だがそれは叶わぬこと、女首長の霊力ちからでは風を呼び起こすことはできても、雨雲をわき立たすことができない。

 雨と風の霊力ちからがあって、広く領内くにうちに雨を降らすことができるのだ。

 それに霊力ちからを合わせるためには、霊力ちからに差があってはできない。この近隣の国に名をとどろかす霊力者みこ一族うから、その霊力者姫みこひめ霊力ちからに適う者はいない。

 今、一族うから霊力ちからを受けた者は他にただ一人、女首長の従妹にあたる那智なちだ。彼女はまだ年端のいかぬ少女で、わずかに水を使うが、女首長と霊力ちからを合わせるには耐えられないだろう。

 霊力ちからを合わせることは適わぬ。

 明日香はゆっくりと笙木に向き直った。見えぬ話に戸惑う笙木を見据える。

 転生をせずに霊力ちからを得た者がいるならば。

 この若き女首長、明日香様の仰せは、そういうことなのか。だが、そんな者がどこにいるというのだ。

「……水葉みなはが。水の霊力ちからを得ている」



 生まれたとき、すでに意識があった。

『声』を聞いた。それは初めて聞いた音。霊力ちからで聞いた音。風の音だ。

 己からその霊力ちからを現したのではなかった。ただ聞くともなしに。わかったのは、その声は己に向けられているのではないということ。風は産中うぶさなかの母、水姫みずきに話しかけていた。

 双子の妹姫おとひめは、霊力者みこである。十四の年に名を受けさせるのだと。だが、姉姫えひめ霊力者みこではないのだと。

 母はおののき嘆き、それでも二つの産声に恐れる産婆や産事うぶごとに仕えた女官まかたちらに気丈に命じたのだ。双子の姉姫を天に返すのだと。悲鳴にもにた吐息と悲嘆、その訳もなぜかすでに理解していた。

 双子はその見姿見形みめかたちを一つのえなの内で「血から」分けてしまうのだという。そしてそれを恐れ忌む慣習ならいのために、霊力ちからを持たぬ霊力者みこではない姉姫は生きられぬのだと。

 命じられるままに女官まかたちらはのろのろと動き出した。

 あまりの禍事まがごとを目の当たりにして、自失したまま。やがて産みの報せの鐘を鳴らす役目の者が呼ばれ、悟らるること罷りならず、側近もとこひと産屋うぶやに参らせよ、そう命じられたのちに参らせた者が姉姫を抱えていったのだ。

 産まれ落ちたばかりの己にその溢れる霊力ちからを抑えることができなかったのか。それともそんな気にならなかったのか。

 産事うぶごとは生と死が入り乱れる。霊力者みこともなればなおさらに。

 前世さきのよを生きた霊力者みこ霊力ちからも時も場所も渦巻き乱れる。そのとき思ったことは……本当にそのとき己の思ったことか、それとも風に名を受けたあとの己が思ったのか、前世の霊力者みこがそのように思ったものか、判からない。

 だが確かに姉姫を死なせなくないと強く思った。

 男が川べりに繋がれた小舟の縄を切ったのが見えた。その船底に岩で擦ったような傷があり、水が染み込んでくるのも、この先に滝があることも。

 なぜ。己が霊力者みこだから。双子で生まれたから。生まれてこなければよかったのか。

 だが、そんあことはどうでもよかった。姉姫を死なせたくない、死なせない。生きて。

 水が応えた。沈みかかった小舟から姉姫を掬いあげた。……だが、それだけでは。

 姉姫が生きられぬなら「今生いま」などいらない、この生を明け渡しても構わない。一つ胞ひとつえの片身を奪われるくらいなら、二人で生きられぬなら。

 その叫びに似た願いに、水が教えた。己が六度の転生を繰り返す霊力者みこであること。そして二度の生を生き、今三度目の生を得たのだと。それは己の生はこの

先も続くのだということだ。

 生まれ落ちる、ただそれだけでこれほどにも辛い思いをする。それをこの先まだ繰り返すのだ。産事は時も場所も意思も、混沌くらきほとりで混ざり合う。……今しかない、今、この瞬間ときなら姉姫を生かすことができる。幾度も生きるその生を、辛い思いの繰り返しとしても、今に手繰り寄せることができるその霊力ちからが己に息づいている。

 水の霊力者みことしての霊力ちからと、後世のちのよに生きるはずだった生を姉姫のものにするのだ。

 そのために本来得るはずの霊力ちからを失うとしても。姉姫を生かすのだ。双子なのだから。その片身を、半身を失うわけにはいかないのだ。

 ……己の身には風の霊力ちからが残った。 姉姫は、水葉は水の霊力ちからを宿した。

 そのときは思いもよらなかった。風だけでは雨を呼べないことなど。

 そして山間の国が後年、ひでりから水不足に陥ることも。

 そして、狂わせた多くの運命も。



 明日香の語るその禍々しい、だが現実うつつ物語かたりごとを笙木は受け止められずにいた。否、それをしかと聞いていられるほど、己を保ってはいなかった。

 この若き女首長、前さきの女首長にして霊力者みこの大姫、水姫様の残した双子の妹姫の口から、その姉姫の名を聞くことになろうとは。

 束の間、驚きに自失していたかも知れない。明日香の紡ぐ言葉は「ただひと」の笙木にはあまりに妖しく、畏れが背筋を這い上がる。それが却って彼に気を取り直させた。

 明日香は知っていたのだ。笙木や古参の者たちがひた隠していた禍事まがごとを。……何故、隠しおおせると思い込んでいただろう。これほどまで、人の生を変え得るほどの霊力ちからを持つ霊力者みこ姫を相手にして。

 笙木は明日香に向き直ると深く礼をとった。若い女首長を侮っていたことに、そして一度は一つ胞ひとつえひとつえの姉姫を奪ったことに。深く深く。

「よい。責めるつもりはない。水葉を川に流したのは母様の命だ。それに、水葉は生きている。……笙木、だからお前は人殺しなどしていない」

 だから……悲しみを一つ減らしてほしい。長く要らぬ悲しみを背負わせたのは明日香なのだ。

 詫びる明日香に笙木は苦い顔をした。明日香は「そのこと」を知っているのだ。主紗の母、紗鳴さなるを失ったときのことも。



 笙木は水姫の命により、姉姫を人知れず川に流した。その泣き声は未だ彼の耳奥に残り、ふとした折に心を疼かせる。まるで己の運命を知るような激しく哀しい泣き声。

 水姫は姉姫に「水葉」と名付けた。川面をが流る木の葉を思ったのだろう。笙木は船底に穴があるのを知りながら、小舟の繋ぐ縄を切った。……無駄なことと知りながら木札に名を記し、風邪引かぬようにと幾重にも布にくるんで。

 小舟はやがて木の葉のようにその流れに沈んだか、先の滝壺に落ち込んだかしたはずだった。

 戦を幾度も超えてきた。

 己を、族人うからひtpを、邑人むらひとを守るために幾度も斬った。だ

が、あの縄を切った感触は、己が斬られるよりも重苦しく痛い。

 それからいくらもたたぬうちに戦が起きた。この近隣ではこれが最も近いとことの戦だろう。初めは小競り合いだったが、山間の国は祝事いわいごとのすぐあとを突かれたせいか、みな浮足だった。

 そのときはむら御宮みあらかのほど近くにまで敵方が入り込んでいた。戦場いくさばを移さねばならない。

 笙木はわずかな手勢で撃って出た。民が逃れるだけの時が稼げればよい。相手は多勢。囲まれたか、だが、民を逃すだけはできたはずだ。

 耳を、泣き声が掠める。

 水葉姫か。

 ああ、そうか。己はここで死んでも仕方なかろう。

 ……そう笙木は思った。だがそのとき、どこかで見たような、見なれた女を戦場に見た。とっさに逃げ遅れた民かと思った。ならば、今ひとときだけでも、死ねない……。

 女は争う兵の間を縫って一途に駆けり来る。若草色の染衣しめころもの裾をひるがえし。

 なぜ逃げない。それほどにこの戦場に向かい、駆ける理由わけが何処にある。生と死と入り乱れ、猛りくるこの戦場に。

 笙木が気を取られたのは一瞬ひととき、それでも熟練てだれの敵には充分な間、刃のきらめきが己が身に降りかかる。

 防ごうとした返しの太刀は……間に合わなかった。ああ、斬られる。

 血飛沫しぶき真緋あかく……飛んだ。だが、痛みを感じない。

 笙木が見たのは、血まみれの女。紗鳴。

 崩れ落ちるように倒れた紗鳴を支えようと伸ばした腕は届かず、笙木の妻は地に伏した。

 弱々しく笑みを浮かべ、紗鳴はただ呟いた。……ご無事で、と。

 その涙に潤んだ瞳の閉じるのを、見守ることもできなかった。仕掛けられる刃を笙木は払っていく。

 ……戦の終結おわりには時がかかった。

 笙木は領内くにうちのほぼ最中にある邑外れの草野原に戻り、見渡した。火箭ひやの射かけられた草野原はまだ燻り、負った傷に動けぬ者や折れた刃、征箭そやが残り、屍となった者たちが転がっていた。

 血の流れた草野原をそろそろと踏みしめる。やがて彼はそのなかに、甲冑よろいかぶとではなく、染衣しめごろもを見つける。

 その年の初めに、持ち合わせのない色合いの衣がほしいと伴部とものべに無理を言い、いつもなら刈安かりやす草の黄色に藍を重ねて萌葱もえぎ色を染めるところを、黄肌きはだの木の皮で染め付けてから淡く藍を重ねて染めた若草色の染衣。

 色合いも柔らかに仕上がった紗鳴の気に入りは、今は赤黒いもので凝り固まっていた。その衣に包まれた身も息絶えて温もりは闇に返っていた。笙木が躯を抱えると左腕の手纏たまきがかさりと音立てた。

 ……これは人殺しの報いだ。

 だが何故紗鳴だ。紗鳴が奪われる。何故己の命ではなかった。ああ、愛しい者が奪われる、そのことが己の命を投げ出すよりも苦しいことなら、そうだまさにそれは報いと言える。

 ならば仕方ないのだ。愛しい者を奪われても仕方ないくらいに冷酷に、あの縄を切ったのだから。

 笙木が明日香にその生まれの話をすることがなかったのは、双子の姉姫のことを隠すということよりも、笙木が辛いのだ。

 姉姫の泣き声、その死を命じた水姫、一瞬ひとときでもその死を受け入れた己、そのために失った紗鳴。

 どれも切り離せず、笙木の気持ちに影を落とす。

 紗鳴は嗣子むすこの主紗がたった一つのうちに死んでしまった。主紗は母の温もりを知らずに育った。そのことですら、笙木にとっては「報い」なのだ。

 明日香はいつとはなしに知っていた。

 草野原を歩くうちに、地に残った思いを風が匂い立ち感じ取った。笙木は一人でその責めを負うつもりでいることも。

 だが、それはひとつも笙木のせいではない。

 どうにもならないはずの運命を捻じ曲げた己のために、笙木を苦しめた。笙木をそのように仕向けたのは、ほかならぬ明日香だ。

 笙木はそれは違う、と強く言った。

 もし運命というものが確かにあるとするなら、明日香が姉姫の生を変えたそのことすらも運命だ。

 ……だとすると、それを嘆くことすら無駄になる。

 選びようもなく、どうすることもなく、ただその流れに運び込まれた木の葉というものは。

 流れに身を委ねたとしても、何かに掬い絡めとられたとしても、過ちがあったことにはならない……。

 木の葉は己から足掻くことも向かうこともできないのだから。



 ウミが大好きだ。

 なのにウミを知ることは難しい。

 隣国も、政事まつりごとも、山ほど知らないといけない。ただ、ウミが知りたいだけなのに。

 笙木、ウミはむつかしいな。どうしてこの丘からしか見ることができない。

 ……そうですね、海は、遠いから。

 どのくらい、遠いのだ。

 風音かざね様。先日、学問の師がお話されたでしょう。この領内くにの隣国に、海辺の国があると。海はその目前まなさきに広がっているのです。

 学問はむつかしいもの。ウミもわからぬ。

 そんなことはありませんよ。海は……確かに気難しい師のようですが、ときに優しい。

 そう、水姫様のように。

 ウミは気まぐれ者なのか。風音と同じだ。風音は気まぐれ者だから、風は時々しかウミの匂いを運んでくれないんだ。ウミのこともあまり答えてくれない。

 母様は違うのに。母様はいつでも、水も風も火も、みんなとお話できる。郷士の皆とむつかしいことも話ているし。

 水姫様は霊力ちからをお持ちで、政事まつりごとをなさるから首長なのではありませんよ。もっと簡単なことです。

 ほんとうか。風音にもできるか。

 もちろんです。水姫様は民も郷士も、皆にとって良いように望んでおられる。だから皆も水姫様をお慕い申し上げ、敬い、国がひとつになるのです。

 よいように。

 えぇ。悲しくても嬉しくても。それがすべて良いように。悩んでも、迷っても。

 ……わからぬ。

 風音様が良いようにと望まれたことが、すべてを良いように導いていくということです。それは難しいことではありませぬ。いつか風音様は水姫様のようにおなりになります。……風音様は海がお好きでしょう。

 ああ。ウミはとてもきれいだ。ウミから来た風は気持ちがいいもの。

 それはとても良いことです。海を知るために覚えるならば、お嫌いでも難しくても、いつかきっとすべてが良いように思われるでしょう。そのときには水姫様のようにおなりになっておいででしょう。

 そうか。嫌いでもよいのだな。

 もっとも、お嫌いだということと、おやりにならないということは違いますが。

 えぇー。

 今、首長としてこの国を統しらす明日香おのれは、母のようになっているだろうか。

 己の良いように望んだことは、皆のために良いようになっているだろうか。

 己の望みが皆の望みであればいい。皆が幸せを望むならば、己も幸せを確かに望むだろう。

 皆が幸せでいるなら、いくらでも幸せでいられる、笑っていられる。

 なのに、どこか掛け違い、くい違い、皆が海よりも遠く離れて。届かぬ、伸ばした腕。

 ……霊力ちからを得ても、風は海を傍近くにはしてくれない。

 では風は皆の、民の幸せを、この身の傍近くにおかないのか。

 海からの風は、あの頃と何も変わらないというのに。



 朝焼けの中、明日香は海を見ていた。穏やかなそのはたては、その雲の少ない空は、今日も雨を連れてきてはくれないのだろう。

 明日香は言ってしまった。口から出した言葉は二度と戻らない。そのためだろうか、ここから望む海のようにここで聞く風のように……穏やかな心地がする。

 否、違う。笙木の言葉を、反応こたえを待つことができないからだ。それは安堵とも違う。

 笙木の今までの想いを崩してしまった。今の彼を作った、想いを。なのに、明日香は気が楽に感じるのだ。

 苔むしたいわおのように重い、動かしがたい荷を下ろした。誰かがこの荷の重さを知った、それだけで、こんなにも気が楽になった。

 それは、笙木が失った想いと、これから新しく負う重みであるのに。

 そのことに気づいて恥じてみるものの、それよりも、心の奥底の水瓶ににわかにひび入って、じわじわと哀しみもせつなさも苦しみ痛みも呵責が薄れるようにこの身を流れ出ていく。

 心寄せる誰かが己の荷の重みを知ってくれる、それだけでこんなに心落ち着き、救われたような気持ちになるのだと知った。

 ならば、笙木にとってもそうであってほしい。

 笙木は母の臣。今の己が母に及ばなくとも、その荷の重さを今は引き受けられる。

 笙木の辛く苦い記憶は風から知った。それを告げずにいたために、余計に負った荷もあったのだろう。だから今は笙木の荷も軽くなっていればいい。

 笙木は口を開いた。

「……責めはいたしません。明日香様が良いようにと望まれたことであるなら」

 それに、思い出したのです、と笙木は続けた。

 笙木の腰には、帯玉の代りに佩いた手纏たまきがある。翡翠の勾玉と珊瑚の破片かけらしろがねの撚糸に通したもの。あの草野原で伏した紗鳴に温もりを求めて……目に留ったもの。地に返らぬそれは、確かに紗鳴の左手首にあったのだ。

 ……生きているから、幸せを感じるのです。

 それは水姫の言葉だ。

 辛いことがあっても、また幸せが巡って生きていける。長く忘れていた本当の意味。それは、今明日香に伝えるべき言葉だ。

 明日香はできる限りを生きようとしている。良いように良いようにと、すべてを生きようと。だから笙木が伝える言葉には意味があるのだ。

 憂いを失くすことが幸せなのではなかった。それを笙木は長く忘れていた。

 彼は己の若き女首長に呼び掛ける。

 明日香様。

 その柔らかい笑顔に、先の女首長の面影を見た。



 かつての旅は今ほど楽なものではなかった。人々は交易あきなりのための荷を、あるいは他国への御調みつぎを背負い、愛しい者への土産を持ち、己の食糧かてを下げ、獣の踏むだけの道を行った。通う者なくば、すぐにでも草木に

覆われ見失うような道を。

 見失わぬように川沿いを行き、山の麓を行き、見渡す景色をしるべにし、手にした鉈でくさむらを払い枝を切り落とし、次に通うための道を作った。あるいは己に続く者のために。

 細く獣道よりも頼りないそれは、やがて踏み固められ国を繋ぎ、流れの猟人さつお技芸人わざひとが通い、人の行き来が増え、そのぶんだけ叢が薄くなる。道は人ひとりでは作られないものだ。

 国と国の関係つながりが深くなると、互いに自国では得られないたから交易あきなりで得ようとする。そのための市が開かれ、市をすみかに渡ることを生業なりわいとする者たちが現れる。

 それぞれの国が市を整えて彼ら行商人あきなりのひとを迎え入れると、道は賑わい、国々の関係つながりはより深くなっていった。

 だが、深く関係つながりを持つことはまた己の国の利を他国に押し付けることでもあり、争いを生んだ。大国と小国の差が広がり、たからを得られぬ小国は大国へと御調みつぎする。大国はその御調みつぎをも争い始める。

 愛しい者に贈る玉石たまを市で得るために、山野に分け入りきざしを射た弓箭は、憎しみいもない他国の者たちを狙い、皆で狩猟かりの獲物を切り分けた刃は見知らぬ敵から己が身を守るために手にするようになったのだ。

 戦が増えると兵士つわもの防人さきもりも多くなる。そして他国に彼等を送り出すには、また報告しらせに馬が走るには、道は狭すぎ遠すぎた。

 大国は小国に労役えだちを課し、幅の広く遠回りにならぬ「みち」を造らせたのだ。大木を倒しその切り株を引き抜く。その材は駅家うまやになり、くり抜かれて兵士の喉を潤す井戸となった。削られた山肌は突き固められ大岩

土砂つちすなの流れださぬように杭打たれ、水捌けのための側溝みぞ距離へだたりを知るための塚が整えられた。

 たからを守るための手段てだてを大国から得るために、小国は「路」を造作つくったのだ。

 戦が減り、同盟きずなの結ばれた今は、国の行き来のほとんどにこの「路」が使われている。その多くは山路だが、かつての道とは比べることのできぬほど易く行きやすい。

 だから道はまた獣が分け踏むほど、猟人がその獣を狙うだけとなった。いずれまた少しずつ荒れては元の叢に覆われるのだろう。

 幼い頃、学問の師でもある祖父の紗霧さぎりが教え諭した。人ひとりでは行えぬ営みもやがて埋もれゆくのだと。

 ならばその造作ものもまた営みのうち、いずれ巡りゆく流れの中で埋もれてゆくのだろう。草木に、森に、大地に。

 人ひとりでの行いはましてにわかに朝霧のように消えてしまうのかも知れぬ。

 それでも人は己を営み続けるのだ。道が路となったように。それすらも、巡りゆく流れのうちなのだから。

 祖父の……師匠せんせいの穏やかな瞳が閉じられたのはそれから間もなくだった。母の死は幼すぎて理解できず覚えもない。だから物心ついて悲しみを知ってから初めての死別わかれだった。

 魂呼たまよばう声にも戻らず逝った。ただちにもがりのための殯宮もがりのみやが設えられて、女首長である水姫様の使う火の中ですべてに返っていったのだ。

 整えられた御陵みはかの前で、やっと泣いた。他の誰にも見られてはならないと思ったから、ひとりになってからやっと。

 理由わけはきっと風音様に己が泣いたことを知られたくなかったからだろう。

 水姫様は師匠せんせいの最期の意思を火からお聞きになったのだという。その意思を伝えられて、だから、ひとりになるまで泣かなかった。

 風音様をお守りしなさい。

 その言葉を残して師匠せんせいは逝った。

 泣いて泣いた。悲しかった。

 それからだ。苦手な武芸を身に付けるために必死になった。短剣つるぎだけは人並みに扱えるようになった。

 それからだ。

 守る人ができたのは。

 ずっと、何に代えても、護るのだと決めたのだ。

 小川に沿ったかつて人の営みを支えた道は、再び叢に覆われ始めている。

 主紗は、そんなことを思いながら頼りない道を分けて歩いていた。

 この道は人ひとりでは作られなかった。

 木陰の落とす薄闇を払い、茂る叢を分け、蔦を切る。易くはないが、己の道を作りながら歩くのは。

 今の己にはちょうどよいと主紗は思った。



 御宮みあらかには客人まろうど御館みたちとよがれる館がある。

 他国の王や首長など、御使者つかいが留まる、日頃は使われることのない、ただ清掃きよめられるだけの御館。この御館はいくつもある他の御館や御舎みやしろとは違う。

 その造りも調度も、首長の住まう内殿うちどののに引けを取らぬ。

 茅葺かれた切妻きりつまの大屋根は太い垂木たりき棟持柱むなもちばしらに支えられ、その周りには打竹さきたけの縁が巡らされて、ひさしが施されていた。縁の目先まなさきには前庭にわがあり、よく手入れされた花が季節ごとに競って咲き、客人の目を和ませる。

 階段きざはしを上ると、館内たちうちは板壁としとみが外を隔て、壁代かべしろ垂布たれぎぬがさらに館内を分ける。垂布の向こう側には御簾があり、臥処ふしどとなっている。

 置かれた文机ふづくえも灯台もひつ手筥てばこも、質の良い漆塗り。

 衝立ついたて屏風へいふうに描かれた景色も草木も季節をあしらい、美しい。几帳の布は裾濃すそご染められて涼しげで、五重いつつえの真菰の畳を縁取った絹のぬいも見事なもの。臥処のふすまにかわを落とした掻練かいねりの絹で柔らかい。

 円座わろうだ掖月わきづきも筆も硯も、文挟ふみはさみさえも、何もかもが洗練されているのだ。

 これらは他国の御使者つかいに見せつけるためのものだ。これらの品を見た者は山間の国の技工人わざひと工匠たくみ技術わざの巧さを知る。そして市で買い求め、御調みつぎして手に入れようとし、山間の国との関係つながりを深めようとする。

 山間の国がこの近隣の盟主国あるじとしてあるのは、その軍事力いくさごとのちからのためでも、霊力ちからの畏怖を纏った女首長のためだけでもない。多くの民が身に付けた技巧わざにより、己の国を国たらしめてきた。

 那智なちはこの「客人の御館」が気に入っている。奥津おきつの国では王宮みあらか御社みやしろにすらない素晴らしい御館。……もっとも、御社は巫女の祭祀まつり生活くらしの場、装飾かざりは要らぬものではあるのだが。

 年に数度、足を踏み入れる御館。だが、今回は久方振りだ。奥津の王の御使者つかいとして帰国するのは。

 奥津の国では、子は父の下で育つ。父の氏族うからのものとなる。それに慣習ならって、那智は幼い頃に生国を去った。それでも生国は彼女に「民のために生を捧ぐ一族」としての霊力ちからを与えてくれた。一族うから霊力ちからを得るのはごくわずか、だから彼女は奥津の巫女であり、山間の霊力者みこでもあるのだ。

 困ったことはない。両国の橋のたもとをいつでもつかんでいられることに。それは彼女にしかできぬ事があるということ、そしてそれは彼女の在る理由であり、意味だった。そのために生まれてこられた。まだたった十三度の季節を巡っただけだが、両国の「立場」を生きている分だけ、彼女は早熟おとなだった。

 彼女は己が何を成すべきか、正しく理解していた。だから今日も、奥津と山間の狭間を生きる。檻の中で美しく羽を広げる孔雀のように。羽を折られても、空を舞わずとも、雄々しく麗しく。

 長鳴きのくたかけが薄らぐ空よりも早く朝を知らせた。すでにこの御宮みあらかの女首長の姿がないことも、彼女は知っていた。昨日のうちに二人が決めていたことだから。

 明日香は那智に、筆頭郷士いちのごうし説明ことわけして、那智の持参

した王書ふみの受入れを詳しく話したいから、と言った。

 そして早朝に御宮みあらかを抜け出すための手伝いを頼んだ。朝に行われる会合はかりごとに明日香の代りに臨席して、筆頭郷士いちのごうしのいない場を収めることを。

 どこか……明日香の物言いに偽りを感じた。だが、那智は明日香の頼みを受けた。彼女の成すべきことは明日香の意と奥津の王の意を重ね合わせ、擦り合わせることだ。それに、軽々しく異論ことごとを唱えられる身ではない。

 だから那智は目覚めると己の役割を果たすだけだ。

 臥処ふしど物見まどをそっと押し上げて様子を窺う。この物見は客人の御館の裏手が見える。隣り合った小館たちの先、木々の向こうには女官まかたちら、舎人とねり従者ずさのための殿舎みやしろ雑舎ぞうしゃ舎人所とねりどころが並んでいる。

 出入り激しくする「御宮の住居人すまいひと」たちを見て、少しばかり寝過したらしいことを悟った。この御宮みあらかの垣内の、さらに内垣うちつかきの奥、内殿うちどのにおわすはずの女首長のお姿がお見えにならぬためだろう。

 鶏に毒づき、それでも落ち着いて那智は水の張られた鉢の前に座した。朝の身支度のために、昨夜のうちに客人の御館に仕える女官まかたちが置いていったものだ。

 鏡代りに髪を整えた。

 鉢の底には螺鈿かいすりの花が沈んでいる。

 水に揺れる花を掬うように、……那智は両手を浸す。

 彼女の霊力ちからは使いようによっては明日香のそれを凌ぐだろう。水の霊力ちからと、巫女の力を合わせ持つ、類稀なるその身のために。

 水は那智の呼び掛けに応えて、そろりと彼女の腕に這い上る。そして肩から胸へ腹へ、足へと水は伝って彼女の姿を覆っていく。

 だが、夜着かいまき単衣ひとえ帛衣きぬには染み込まない。やがて顔も髪も、身のすべてが水の膜に覆われた。

 この水は、昨夜、明日香が女官まかたちに持たせたものだ。明日香は用意させたこの水を清め祓うために、などといってから掬うしぐさをしてその両手をくぐらせてから、女官まかたちにもたせたはずだった。そう、この水は、明日香に触れている。

 明日香を知る水を那智は「使った」。この水は、明日香を映すことのできる水だから。

 鳶色の瞳は二重で、黒目がちに。紅もつけぬ唇はだがふっくらと珊瑚色。艶やかな黒髪は豊かに肩口を流れ、背を覆う。括緒くくりおのある白い大袖の衣に、紗絹うすぎぬの裳を胸高に着こんで、浅萌葱あさもえぎ領巾ひれを肩掛けたその姿。

 身の丈も、すらりとした指先も、そこに明日香の何もかもそのものがあった。

 明日香を映した那智は、客人の御館をそっと出る。前庭にわに植えられた薔薇そうびの棘に気をつけながら内宮うちつみやへと歩きだす。そこはこの国の女首長の御居所いましどころ

 内宮と隣り合う内庭うちつにわ、その木陰に小門もんもんがある。その網代あじろの戸を開けようとしたとき、背後から声を掛けられた。

「……お早い御戻りで」

 この声は女官まかたちの楓だ。いとまを得ていると聞いていたのに。

 それでも那智は慌てることはない。なぜなら今、彼女は「明日香」なのだから。

 奥津の国の巫女は「声」を聞く。己の意思を放棄して忘我した果てに「他の存在」の意思を己に成す。その「声」のみを己の身の内と成し、聞くために精神こころを凝らしすぎて戻れなくなる者や体を壊す者もある。

 だが、霊力者みこでもある那智は身を危うくすることなく、水の声を聞くことができるのだ。忘我に耐える精神こころも身体も伴わずとも、水を通じて「他の存在」の意思と声も、己の身に成すこともできる。

 だから、慌てない。

 那智の身には今、「明日香の意思」が「声」となって在るのだ。

「楓。いとまを取ったのだろう。何故、ここにいる」

 明日香の声で、明日香の言葉を楓に語る。本当の明日香がこの場で言うのと同じことを。楓がいくらこの御宮みあらかで長く過ごしていたとしても、疑うことはできない。

「どなたのために、いとま返上かえしたとお思いなのです」

 那智はくすりと笑んだ。女官まかたちに気付かれる前に入れ替わるつもりでいた思惑ははずれてしまったが、これも返って明日香様らしいのだろう。そう思ったの

はもう己の意思なのか「己の内にある明日香という名の意思」なのか、判別つかぬほどに那智の身の内に馴染んでしまっていた。

「まぁ、そう言うな。丘まで行かずにすんだろう」

 楓は盛大に顔をしかめた。客人のおありなのですから、このようなときくらいはおとなしく内殿うちつどのにおいでください、と小言をはじめる。

 小門もんに入ると、内殿うちつどの半蔀はじとみを開ける芹月と目が合った。潤みだしたその目につい、悪かったと思う。だがまたその目を盗んで抜け出すだろう。そして楓が探しに来るだろう。

 長鳴きの鶏は一日の始まりを告げる。

 今日の会合は奥津の王書ふみの扱いと、その返書こたえのためのもの。臨席し、滞りのないように申し渡さねばならぬ。両国の交易あきなりをもう一度見直すためにも、海辺の国との関わり方を考えるためにも。

 空にはやはり雲がほとんどない。風が頬をそっと撫でて、炊屋かしきやから朝餉の匂いを運んできた。



 同じ波は一つもない。砂を巻き上げて引き寄せては、またまろぶように駆けて、寄せてくる。同じ繰り返しは、同じものだとは限らないのだ。

 海辺の国は湾状に形作られた砂洲にある。そしてその湾は、いわばが磯となって囲んだものだ。浜から海を見ると左手から岩場が伸びている。湾の中は波も穏やかで、少しくらいの高波は岩場が防いでくれる。

 広い湾の海のめぐみだけでも、この集落むらの者たちは食べていけるのだろうが、大物を求めて湾の外、沖合へ舟を漕ぎ出すことも多い。

 それはまた、海の幸を必要以上にむやみに獲ってまうことを防ぐ意味がある。

 今も、湾内にも沖合にも、幾艘かの舟があった。釣糸を垂れる者、銛を携えた者、素潜りに備えた者、仕掛けた網や籠を引き上げる者。毎日繰り返される営みである。

 集落の中では女たちが朝餉の仕度をしているだろう。また、音潮ねしおが束ねているはずだ。

 水葉は海が苦手だ。

 余程の事がない限り、浜の集落むらには出てこない。仮宮かりみや神殿かむどのは森へと続く道の途中、林を分け入ったところにある。一日海を見ないで過ごすことは珍しくなかった。

 海を眺めてどのくらい経ったか。主紗の後ろ姿を送ってからずっとその場に立ち尽くし、気付くと海の彼方をぼんやりと眺めていたのだ。

 小川はあと半月で流れなくなる。

 彼女は事実を告げた。告げられた男は去って行った。

 男は成すべきことを成すだろう。だから彼女も己の意思で成すべきことを成す。たとえ僅かであっても、機が熟せばそれは意味を持つはずだ。

 やっと水葉は、己の成すことを見つけたのだった。

 ただ漠然とした不安を孤独の内に秘めて過ごした日々の繰り返し。だが、それはもう終わったことだ。

 彼女はもう一度去った男の先を見やる。そしてさしあたっての成すべきことに取り掛かった。

 大きめの桶が二つ、水を満たして取り残されていたのだ。主紗が早瀬はやせと運んできたもの。朝餉のためには、この水のほかにもう一度か二度、行き来しなくてはならないはずだ。

 さてどうするか。集落むらの者を呼びに行ってもよいが。

 だが、主紗と二人で話をするために、早瀬を先に集落むらへ行かせた。そのあと水を汲みに来る者がないから、人払いしたものと思われているかも知れなかった。

 朝餉の仕度が進まず、音潮がやきもきしているだろう。ならば余計な時をかけることもない。

 水葉は桶に向き合い、手をかざした。水の霊力ちからを具えたその両手に応えて水が小魚が跳ねたように、たぽん、と音を立てて波紋を作った。

 主紗がやっと持っていた重い桶を、水葉の細い腕が下げ持った。砂地を歩きだす。揺れる水とその重さを感じさせない軽い足取り。さすがに日射しを帯びて熱を持ち始めた砂が足元に絡んで森や林の道を行くようにはいかないが、主紗が見れば、落ち込んだかもしれない。

 水葉はそう考えて少し笑った。主紗ならばきっと気付くはずだ。今水葉が桶二つ分の重みしか感じていないことに。霊力ちからで水を浮かせて、桶と己の歩みに合わせて動かしているだけだ。

 否、それでも主紗は悔しがるだろう。小さなことで悔しがるような男だから。笠耶に侮られて抜けている、と言われたときもそうだ。海辺の郷士たちへの挨拶を笠耶の目の前で事無く済ませた後、見直されでもしたのか、ずいぶん嬉しそうな顔をしていた。

 茅壁の居宅いおりの横をすり抜けると、女たちが火をおこしていた。

 火切ひきりを使って火を熾すのはさほど難しいことではないが、焚付たきつけから炭に火を移すのはやはりこつの要る。

 舟が戻る前に炭火を落ち着かせておくために、早くから取り掛かるのだ。

「まあ巫女さま。そんな重い物をここまで。お持ちしますから」

 海真みまさが気付いてそう言ったが、水葉は断った。霊力ちからを使っているから重くはないし、海真の手には籠があったのだ。籠に盛られた、仄かに赤みを帯びた……朱色といったほうが近い実を見た。水葉が意外そうに見たから、海真は笑いかけた。

「初めての浜梨はまなしです。まだすっぱいでしょうけれど」

 海真は時季はずれに実る草木をたくさん知っている。だが、それを誰にも教えない。荒らされては次の実りを失ってしまう。皆それを知っているから、あえて誰

も訊ねたりしなかった。

 他国よそから客人まろうどが来ると、必ず海真はその秘密の草木から実りを採ってくる。きっと、主紗のために森に分け入ったのだろう。集落むらの近くの浜梨はまだ青くて小さいから。

 だから水葉は主紗のことを聞かれてもごまかしてしまった。足の痛みが出て少し休んでいると言えば疑われるはしない。

 ……どうしたものか。

 女たちは巫女さまが持てるような桶が持てないなんて、と怪我を心配してささやきあう。特に若い娘たちは迎えに行こうか、接骨木やまたづで薬を作ろうかとはしゃいでいる。

 主紗は若いし顔立ちもすっきりして整っているから、娘たちは近づいて話しかけたくて仕方ないらしかった。

 とりあえず水葉は桶を置いて、霊力ちからを収めた。雑穀の入った瓦笥かわらけの鍋に早瀬がその水を注いだ。何かを言いたそうな素振りを見せている。早瀬は主紗を気に入っていたようだから、水葉にとられた、とでも思っているのかも知れなくて、それを思うとつい水葉は声をかけてしまった。

汁粥しるがゆにするのかしら」

「……えぇ」

 声をかけるにしても何を言えばよいのかがわからず、朝餉のことを尋ねてしまった。互いに含みを感じ取り、話はそれで終わってしまった。そんなわけで、水葉はなんと言訳ことわけるのがよいのかわからなくなってしまった。

 人に関わるのが、水葉は苦手だ。だから、これまで人と深くかかわることなく、流れてきた。そういうものだろうと、どこかで思う。霊力ちからを使うと人として扱われなくなる。だが霊力ちからを使い水の意思を糺すこともできない。己はどこまでも半端なのだ。

 朝餉の仕度の輪から外れた水葉は目に付いた日除けの庇の下に座り込んだ。そっと息を漏らす。

 そこに見知った顔が声を掛けた。



 山の端から覗いた日の光はやがて空を紺色から薄青へと変えていく。仄かに茜の染め色を落としたような朝焼けを遠波とおなみは気に入っている。それを眺めながら、少しつぶやいた。

 まいったな、今朝は、釣れない。

 一度にまとまっただけすなどる網を、遠波はあまり使わない。釣りに拘っているわけではないが、せわしなく網を手繰ることよりも、釣糸を垂れて待っていることの方が性に合っているのだと考えている。

 網を入れるのは行商あきなりの者たちに売るためや、集落むらの備えや蓄え、そして郷士への御調みつぎのための乾魚ほしいお燻魚いぶしいお

などを作るのに量が要るからだ。

 そういったものは、集落むらの者が総出で用意する。もちろん遠波も作業しごとに加わるが、網入れは手伝いもしていない。

 遠波が釣るのは己の分と浜で待つ者たちへの分、だが、今朝はその分を釣ることができないでいた。

 湾の外海そとうみを見やると、幾艘かが網を引き揚げているのが見えた。それで皆の食う分は困らないのを確かめた。

 さてどうするか。遠波は何も釣れていない糸を引き上げてから、海面みなもに顔をつけた。底には海丹うに海鼠なまこが見える。

 そのまま足を船尾から伸びる櫓にかけ、蹴るように操って舟を進ませた。海辺の国でも幾人もできぬ技巧わざだ。こうすると両手が空く上に、海底うみぞこを見ながら動くことができる。

 遠波は幼い頃にこの海で死んだ父から教わった。今でも舟を操ることで彼にかなう者はほとんどいない。

 海の中からの海面は白銀しろがねに光って見える。その光の中に近付いてくる舟があったから、遠波は顔を上げた。

「よう。受取れ」

 放り投げられたのは瓢箪ひさごだった。有難く頂戴して、栓を抜いて口を付けた。水かと思ったが違う。やられた、と思ったのが顔に出た。

「そんな顔するな。仕掛けを上げておいてくれ。どうせ釣れないんだろう」

 笑ってその舟は離れていく。

 瓢箪には甘茶が入っていたのだ。甘茶は作るのに手間がかかる。この海辺の国ではあまり作らないが、近頃では水を求める山間の国から交易あきなりで手に入る。遠波が顔をしかめたのは決して嫌いなのではなく、得にくい物を寄越すからには見返りを求められているのに気付いたためだ。

 したたり落ちる水を首を振って切り、前髪をかきあげた。長いために高く括り上げている後ろ髪も濡れたようだ。まあいい。今朝は仕掛けを上げて、切り上げよう。

 先ほどの舟は外海に向かった。十になるかならないか、子どもも一緒だ。ははん、と得心がいく。

 これまで仕掛けを上げるのはその子だったのだ。いよいよ沖で、網を操る技を教えるのだろう。湾内で素潜り獲るか銛で突くか、そんなことばかりしていた子が大きくなったものだ。

 外海は流れがあって泳ぎにくい。すなどりいおの群れを探し当てて群れを囲うように網を投げるところから始まる。そのあと、何人かが海に潜って広げられた網の内に獲物を追い込み逃げぬように囲い直しかずせ直しながら網を絞っていき、そして引き上げていく。

 潜った仲間や舟上の「かしら」とのやり取りと、魚との駆け引き。潮の流れを読み、手早く網を手繰る。

 この海辺の国では、息の合った動きができるようになるまでは正丁おとなとみなされない。

 舟上から潜った仲間の動きを見ながら網を絞る者は、その漁で「頭」とされる。沖に出れば頭には逆らわない。漁を始めるのも引き上げるのも、頭がすべて一人で決める。

 幸をもたらす海はまた、人を飲み込む畏れる存在なのだ。沖に出た頭には仲間を預かる責がある。

 櫓を漕ぐ子どもの顔は張り詰めたように見えた。だだ父親は先に沖に出ている仲間の舟を向いて、子を構うことはない。

 ……あんな頃が、あったな。

 初めて外海に出たときに父親の背中がいつもよりも大きく見えた。それを思い出して、遠波は少し切なくなった。もう、二十度は「季節の巡り」を経た過去むかしのことだ。

 遠波の父親は、彼が漁に沖に出るようになってすぐの嵐で死んだ。だから彼の父親は正丁おとなになった遠波を知らない。

 遠波の父親は来凪くなぎといった。優れた頭でよく潮を読み群れを見つけ、人柄もよかった。郷士たちの信頼も厚く、おかでも皆をよくまとめたのだという。

 この海は遠波から父親を奪った。だから遠波が沖で網入れる漁をしないのだと思っている者もいるのだが、それは少し違っていた。

 来凪亡きあと、遠波に漁を教えたのは来凪の仲間たちだった。優れた頭についていた彼等は皆、厳しくも熱心に教え込んだ。

 まだ満足に素潜りもできぬほど幼い頃から、遠波は漁の舟に乗っていた。来凪がいつも乗せていたのだ。

 そのおかげか遠目も利くし、潮もいつのまにかよく読めるようになっていた。海鳥の動きをみて潮を見て、時には海を覗き込んで群れを探す。気付くと皆に負けぬほど漁の技を身に付けていた。

 年若い者たちを束ねる頭となるように言い渡されたことがある。遠波と年の近い者たちを連れて沖に、外海に出るのだ。

 初めて頭として外海に出て、その日の漁は上々だっった。その日の夕に獲物を郷士に御調みつぎし、だがそれ以来遠波は頭として漁していない。

 遠波もどうしてかはっきりした理由わけは思い付かない。ただ、あの日、郷士の旦那方が本当に喜んでくれたことと関わりがないわけではないのだと思う。

 来凪の死を郷士たちは惜しんでくれていた。だから遠波が独り立ちして頭になったのを喜んだ。それを素直に受取れなかったのかもしれない。

 それに、未だ来凪に、父親には克てないのだと思う気持ちがある。そうすることで父親の死を悼む気持ちを思い起こすのだ。……遠波の中の来凪が認めない限り、頭として沖に漕ぎだせない。遠波は己の知らぬうちに、己の心にくびきをかけていた。

 外海にでた仲間の舟は遅くなる。それに付き合う気はなかった。遠波は舟を回していくつもある仕掛けを一つずつ引き上げていく。空の物もあるが、海老が数匹ずつ掛っていた。小さなものは海に返し、残りを舟に積んである木箱に放り込む。これで甘茶のぶんの仕事は終えた。

 浜の様子を見ようと振り返ると、集落むらから離れた辺りに人影があった。遠波は遠目が利くのだ。

 壺を器用に頭に置いた早瀬と、桶をふらつきながら下げているのは……揮尚きしょうだ。ふと笑みをもらす。

 揮尚を見ていると、遠波はどうしてか笑みを浮かべてしまう。

 本当は、もっとしっかりした男なのだろうと思う。

 遠波から見た「揮尚」……主紗は、見るたびに色の違う。年に釣り合わぬ態度をとったり、物を知らず頼りなかったり、抜けていたり、はしゃいだりする。

 だが、どこか煮え切らず、盛り上がりに欠ける。何かを無理に押し隠しているみたいに。定められた何かがあって、その通りに先に進むことが命じられているかのようだった。

 それは山路みちにあるわだちから車が外れるのを恥じて、だがその事を悟られるのを恐れている子牛に似ている。……揮尚にも、くびきが掛けられているのだ。

 見えぬくびきを感じたならば、遠波は己を重ね合わせて見ていることになる。だから、放っておけない。

 頭を任された頃と、揮尚の年はさほど変わらないだろう。遠波のあの頃も、相応ではなかった。そんな風に重ね合わせてしまうから、揮尚はもっと、それなりにしっかりしていて、それなりに頼りなく幼いはずなのだと思う。

 早瀬と揮尚。……そして、巫女さま。二言三言、やり取りがあって、早瀬が集落むらに歩き出した。だがどこか気が進まない様子だ。何かあったか。

 あまり巫女さまは集落むらや浜には出てこない。それにいつもなら笠耶が傍についているのに。郷士の旦那方と話すなら、小川を超えて行くだろう。どこか珍しい

出来事のように感じて、遠波は眺めていた。

 巫女さまは揮尚と向き合って、何事か話している。真剣な表情かお、それに揮尚の様子も少し改まっているように思えた。

 揮尚が、巫女さまに片膝で跪いて礼をとった。踵を返して小川に沿った道から森に入っていく。ふと気付いたように振り返す。……海を、見たのだ。

 あぁ、行くのか。

 遠波はそれが分かった。揮尚はきっと返る場所がある。だから、行くのだ。

 理由わけなど、考えない。それが海辺の民だ。

 多くの者がここに来て、去る。

 あるいは生まれて、死ぬ。

 海に抱えられたこの場所にはいろいろなものが流れ着くのだ。

 人も、その想いも。



 水葉に声を掛けたのは、遠波だった。

 たった今、戻ってきたのだという。日に焼けた笑顔は快活な印象を受ける。長い髪は漁のためか、濡れていた。

 今朝は釣れなくてボウズのせいで、笠耶に魚を持っていけないのだと、申し訳なさそうに言う。水葉の朝夕の御膳にのる魚はこの遠波が釣ってくるのだ。気にしなくてもいいと水葉は隣を指した。己が巫女だから、日除けに入るのを遠慮しているのだと思ったから。

 周りを女たちや手伝う子どもが行き交う。少し慌ただしくなってきたようだ。遠波は一度は平気だと断ったが、通りかかった女に赤子の子守を託されて日除けの下に入った。

 眼の大きなふくふくした赤子。橡色つるばみの布にくるまれて時折手足をもぞもぞと動かす。女の子だ。水葉は目を細めた。赤子はどんな子でも可愛い。あるいは可愛らしいと思わせることが生き延びるための知恵なのかもしれない。

「抱いてみますか」

 受け渡されたそれは、とても温かい。急に手足を伸ばしてばたつかせたから、水葉は背中を砂地に付けてしまった。遠波が気に入られましたね、と笑う。

「巫女さまは……いつから巫女さまなんですかね?」

 その問いに、水葉は答えに困る。今まで、聞かれたこともない。聞いてよいことでもないはずなのだ。少なくとも今まで流れてきた巫女の類のある国では。

 ここは、本当に、時の流れも、人も、何もかも違う。

 己でさえもそうなのだから、主紗はさぞかし驚いてばかりだったろう。

「さあ……。生まれた時、かな」

 それは偽りの応えだった。もしそうであったなら、今ここでこんなふうにこの赤子を抱いていることはないだろう。

「へぇ? さぞ愛らしかったことでしょうね、あ、でもわからないか、いくらなんでも」

「きっとこの子のほうが、可愛い」

 なんでです、と遠波が聞いた。

「……私に懐いたもの」

 吹き出して大きく笑いだした遠波に、赤子が驚いたのか、ぐずりだしてしまった。慌てて母親が寄ってきて、水葉の手から赤子を抱いた。

「すまない、泣かせてしまった。……名を聞きたい」

 母親と赤子、どちらとは言わなかったがわかったようだ。浅里あさり、とぐずる赤子に柔らかく呼び掛ける。水葉は浅里の名を言祝ことほいだ。

「美しい白砂の遠浅がいつまでも続くような里を心に持つ、清らかな郎女いらつめになることでしょうね、浅里」

 浅里はまだぐずり続けていたが、母親は礼を言って集落むらの外れへ向かった。泣き声を気にしたのだろうが、嬉しそうにあやしながら。

「あんな頃が、皆にある……」

「えぇ、こんな俺にもあったんですよ、こんなに厳つくても」

 そうだろう。そして誰もそれを覚えてはいられない。

 水葉は忘れてしまっていた方が幸せでいられるだろうことを知っていた。だから浅里は言祝ことほぎを覚えていられないし、そのほうがいい。

「浅里は覚えていますよ、きっと。巫女さまが言祝ことほいだんですから」

 遠波は水葉の気持ちを透かし見たような物言いをした。それで水葉はそうかもしれない、と思えた。遠波はそれでもいいのだと教えたのだ。

 炭火に炙られた、よい匂いがふうわりと潮風に乗る。戻りの遅い沖合の舟を待たずに、浜にいるものだけでの朝餉になりそうだ。

 隣からつぶやくような音が聞こえて、水葉は遠波を振り返った。目が合った遠波はだが、なんでもないというように首を振った。

「……揮尚は、行ったんですね」

 見えていましたよ、と明るく笑う。何と返してよいものか、水葉は迷った。

「そんな顔しなくていいんです。揮尚が行った、それだけなんですよ?」

 あぁ、海辺の民を見くびっていた。彼らは海辺の民だ。受入れ見送る、海辺の民だ。

 多くの者がここに来て去って行った。ある者は留まったし、ある者は行くのだ。それはただ、それだけのことなのだ。……ここはそういう所だ、この集落むらは、

この国は。

 想いは海に残る。抱え込み沈み込ませ、時に渦巻き、海はすべてを湛えてここに在る。

 水葉は海が苦手だ。

 海の想いは……ここに残ったすべての想いは、水葉の手のひらには余る。

 身の内に流れ込むものが激しく切なく、せめぎ合っってどうしようもなく、重くなる。

 寄せる波がまるで己を責めたてるかに感じて、苦しいのだ。

 だけど、今は。

 岩場の彼方。朝焼けの海が輝いている。そんな風に、思えた。

 遠波が立ち上がる。朝餉の仕度を進める女たちに、大きな声で呼びかける。

 揮尚は、行きやがった。

 女たちと、浜に戻っていた男たちも、遠波を見返した。

 遠波は振り返って、にかりと水葉に笑ってみせた。それで、皆を引き受けてくれたのだと気付いた。そっと裾についた砂を払い、集落むらの裏へ向かう。小川へ行

くのだ。

 ふと思う。……遠波が言いかけて、だが言わなかったこと。それはカサヤ、という音に似ていた。

 揮尚が……主紗が去ったことで、遠波は笠耶が気になったのだろう。笠耶の生まれた場所のものという、その「名」を遠波は知っているのだ。

 客人まろうどは行った。だが、笠耶の揮尚は……去ったのだ。

 この国の海が見せてくれたことを、水葉は思い出した。たくさんの想いのうちの、それは僅かなことでしかない。だが。

 ……確かに遠波は、来凪に似ているのだ。



 みちには関塞せきがある。関塞は路の国境くにざかい、少なくともこの近隣、同盟きずなを結んだ国同士をつなぐ路には必ず設けられている。「公路みち」から関塞を抜ければ国内くにうち、関塞から公路へ出れば国外くにそと、関塞はその国のはたてとも言えた。

 旅人が関塞を抜けるには通行証てがたとなる旅旌たびふだがいる。その出自も身元もあらわす札は、山賊やまだちを取り締まるときに用いられるから、誰でも国外に向かうときには携えるのが慣行ならいだった。

 地を耕さずに生きる工人たくみ技芸人わざひと俳優わざおぎ行商人あきなりひとはもちろん馳使はせつかいのような国使つかいとその伴人ともびと、そして杣人そまひと猟人さつお労役えだちのために国外へ向かう奴人おやつこまで、旅旌たびふだを持たぬ者は関塞を超えない。

 関塞はただの門ではない。路を塞ぐように柵や築地を造り、その内には門衛ら衛士えじなどの兵が国境を固めている。

 彼らのための小館たちいおが立ち並び、そして物見櫓ものみやぐらがある。

 駅家えきと呼ばれる御舎みやしろ国使つかいのためのもので、替馬かえうまが世話されていた。馬は多く馳使のための駅馬はゆまを兼ねる。馳使が受け継ぎ繋ぎ渡していく駅鈴すずを次の駅馬に付け替えるのも関塞の衛士の役目の一つだった。

 通行いききを検めその荷も確かめる。関塞内せきうち行商あきなりのための市を開く。轍や側溝みぞを整える。貴人あてひとの留りや先触れも務めのうちだし、もちろん近くの見張りもしている。

 そういった役目の合間には鍛練を行い、関塞内では畑を耕している。夜には篝火かがりを焚いて不寝番ねずのみはり

 国の果では戦が続いているようなものだ。己の国をその矜持と武具もののぐで護る「防人」が愛しい者を想い、夜明けを待つのだ。

 采斗さいともそんな山間の関塞、国境を護る一人である。

 山間と海辺も結ぶ山路みちの関塞である。

 朝日が木々から木漏れて柔らかな光を足元に落とす。かけとりが先ほどから皆を起こすように声を張り上げていた。臥宅ふしいおとして使っている小館の辺りはざわめき出している。すでに夜の間焚かれていた篝火は膳夫かしわでの手で炊屋かしきやに移されて、朝餉の仕度に使われているのだろう。

「采斗。またそこにいるのか」

 名を呼ぶ声は、彼の真下から聞こえてくる。その声の主が見楢みははそだとすぐにわかった。

「いつかうたた寝て、落ちても知らんぞ」

 もたれていた背を起こして、采斗は見下ろした。見楢は采斗よりも二つ三つ年上で、そのためか采斗の面倒を見たがるのだ。

不寝番ねずのものが何故、うたた寝る。そう思うならば早く代われ」

 見楢の姿はまだ昨夜見たまま、皮甲よろいどころか靫負ゆげいてもなく弓持たない。さすがに太刀を手に下げてはいたが、まだ佩いていなかった。それに、采斗は太刀が見楢の得手ではないのを知っている。

 まあいい、と見楢は苦く笑った。

「『落ちない』に賭けたからな。五日の間はうたた寝ることがないようにしてくれ」

 なんだそれは、と問いかけると賭物は瑪瑙めのうのついた歩揺かんざし、先の市で行商あきなりが玉が曇ったものを置いていったのだという。

 くだらん、と采斗は吐き捨てた。女の装飾かざりなど得ても役に立たない。せいぜいが御宮みあらか女官まかたちを喜ばせるくらいのものだろう。

 時折、行商人あきなりひとが置いていく珍品うずものを皆が手に入れたが

るのは馴染みの女たちの気を引くためだ。長い時は三月にもなる関塞での役目つとめ、その間に心移りした女を寄り戻すには野に咲く花よりも新しい染衣しめころもよりも、装飾かざりがいちばんなのだ。

 だが、そこで采斗は気付いた。行きかけた見楢を身を乗り出すようにして呼びとめる。

「待て。五日だと? 俺はしばらく不寝番ねずのみはりはないぞ」

 見楢は僅かに振り仰いで、皆が一日ずつ譲ったから、有難くそこせ過ごせ、と手をひらひら振って行ってしまった。采斗は頭を抱える。勝手なことを。

 たしかに「ここ」を采斗は気に入っていた。

 関塞内の物見櫓よりも高い栃木とちのき。……その太い枝に板を簀子のように組んで括りつけた床。

 櫓は「矢倉」、本来は敵襲に備え射手いてが楯を巡らせた内から遠方を窺い、寄せる敵方を射狙ねらう。

 だが采斗は大栃とちに床板を組んで狙撃台たかやぐらを作った。楯を置かずとも、敵方の征箭そやは枝が防ぐ。縄梯はしごを上げてしまえば、誰もここにはすぐには登れない。櫓よりも身二つは高いために遠くを見ることもできた。ところがこの狙台ゆかには手摺のようなものは何もないのだった。

 この狙台そだいの拠り所はその大栃とちだけ、広さは正丁おとなが寝

そべるのにはゆとりがあるが、ここで不寝番ひとばんを過ごそうとする者など采斗のほかにない。何かあれば、例えばうたた寝でもしたならば。

 危難を察して忌避しようとすることは生きとし生ける者として正しい感覚といえるだろう。だが「人」として「兵」としては、身の内に至らぬものを抱えていることになるのだ。

 日頃の考えを再び巡らせ、采斗は切れ長いその目をさらに細めて眉根を寄せた。賭事にされたことよりも賭物が女の装飾かざりだということよりも、不寝番ねずのみはりの割当を己の預かり知らぬとことで変えられてしまったことよりも、……もちろんそのことも気に入らないのだが、事前ことのまえの割当で決まった不寝番ねずのみはりの役回りを「賭」ごときに動かされて変えられたこと自体が、彼を不快にさせていた。

不寝番ねずのみはり」という役目を嫌うわけではない。課せられた役目を果たせぬことなど、この山間の国の女首長殿に仕える者としてあるはずもない。ましてその役目を厭うなどと。

 采斗は身を起こし、狙台に立った。傍らの櫨弓はじゆみを左手に持ち。

 床がぎしり、と軋んだ音をあげた。

 幾重にも太い幹と枝に縄がかけられてこの狙台を支えていた。その縄には上差して征箭そや盛ったゆぎがかけてある。だが采斗は征箭持たぬまま弓を構えた。そして右手で弓弦ゆづるを引く。箭をつがえるのと同じように。

 強弓こわゆみに張られた弦が弾かれる。大気が震えた。

 大栃とちを寝床としていた小鳥が数羽、朝の空へと慌てて飛び出す。梢が揺れる。木の葉が落ちる。

 余韻を残さず聞いてしまってから、彼は構えを解き、目を開けた。

 ふわりと、風が頬を撫でたように思った。それで、姫巫女様が弓弦の音を聞いたのだと思った。

 風に乗った音をどのようにお聞きになるのか知らない。本当に聞いておられるのかどうかも。

 だが朝早くに鳴らす弓弦は大事な役目だ。

 大きく一度の音は平生のまま、何も変わらぬことを報せる。二度続けたなら、貴人あてひとのお越しや行商人あきなりひとなど、人の来訪おとないを報せる。三度のそれは火急のこと、ただならぬ変事を民に悟られぬように狼煙を使わずに女首長めおびと殿に伝えるための音。采斗は未だそれを鳴らせたことはない。

 今朝の音は一度。

 その音は国境くにさかいの関塞を護る衛士や兵士にも届く。何事もなく一日が始まることを確める、安堵の響き。

 これで不寝番ねずのみはりの役目は終り、斜め下に見える物見櫓やぐらには交替かわりの衛士たちが集まりだしている。ひる過ぎの鍛練までは寝ていられる。采斗は傍らの枝にかけていた縄梯はしごを下ろした。

 西の空には、有明の下弦の月が薄く残っている。



 今、彼女の意識は山間の国の女首長めおびとと重なっていた。否、繋がっているのか。それは彼女自身にもあいまいになっていたから誰かに訊ねられても答えられない。

 ただ彼女の身の内に「明日香」という「名」の意思を宿しているのは確かで、だがそれが己の意思とどのように違うのか、本来はまったく異なるはずなのに、その違いを己の意識の上では分けられぬのだ。

 このような霊力ちからの使い方はそうはないこと、必要としても「ひと」の声や意思を己に成すことはしない。

 そのほかの何か、であるならばはっきりと己との境目を意識できるのだが「ひと」のそれは彼女を惑わせる。まして今、彼女の身の内にあるのは霊力者みこみこの意思だ。

 明日香の意思には風の意思が入り込む。明日香が霊力ちからを使わずとも風が話しかけ、霊力ちからを注ぐ。

 それは水の霊力者みこである彼女としても同じことではあったが、彼女に入り込む水と風は、彼女と明日香の意思のようには身に馴染むことがない。

 ……水が、それとも風が、あるいは互いが、拒んでいるのだろう。

 それでも今、風の声は聞こえるし、水の声も分かる。その気になればおそらく風の霊力ちからでこの御簾を巻き上げたり衝立を倒したり円座をずらしたり燭台に灯されている火を消したり、そのくらいのことはできるだろう。……それ以上のことも。

 もし、水と風とを使う霊力者みこであったなら、こういった様に感じているのだろうか。

 さきの女首長様は風と水と、火も使う霊力者みこであられた。この様に、こんな風に感じておられたのだろうか。

それとも己が水の霊力者みこだからこの様に感じられるのだろうか。

 過分に儀礼的な朝の御勤つとめを女首長に代って行いながら、那智はそんなことを考えていた。

 内宮うちつみや神殿かむどの、その御簾の内に設けられた祭壇まつりのばに向かって座し、素焼きの瓦笥かわらけの水盤に向き合う。この水で平生の朝を見るのが御勤なのだ。

 那智には水をそのまま使って水を通して「国見」することができるのだが、今彼女は「明日香」としてここに在る。それで風が「いつものように」波紋を起こすのを見届けなくてはならない。

 風の霊力ちからが不意に引き出されるのを感じた。水が湧き起こるようにその央から波紋を広げていく。那智の耳には確かに風が音を伝えた。波紋が水盤の縁に達して、だがそれを超えて波が己の内に届いたように思った。突然、見えたものがある。

 有明の月と、大きな栃木とちのき。その枝に敷いた床台ゆか。兵士が立ち上がり、弓弦を大きく弾く。……一度。

 そして物見櫓。兵士が空仰ぎ、弓弦を弾く。また矢倉門でこちらも見据えて弾く。

 三人の兵士が弾いた弓弦が、水盤に一度ずつ波紋を作ったのだ。

 山間の国の最果て、三つある関塞せきはそれぞれの平生と安寧を報せてきた。

 御簾の向こうに控えた男にそれを伝えて、朝の御勤を終える。男は役目を恭しく仰せつかい、退出して御宮の正門脇の詰め所と門殿に白瓷しらしの杯を届ける。平生を示す一杯である。

 詰め所と門殿の兵士が鳴らした一度の弓弦の音が遠から聞こえてきた頃、女官まかたちが衝立の影に控えた。おそらく芹月だろう。

「芹月。楓にはもう休むようにと。暇だったというのに早起きをさせてしまったから」

 ようやく慣れてきたのだろう御宮みあらかの作法で軽く衝立を押しやるしぐさをとってから膝をずらして見せた顔はやはり芹月だった。那智は芹月をよくは知らない。

 久し振りに訪れた生国の御宮みあらかには、見慣れぬ者も増えていた。

「先ほどすでに房室へやへ戻られました。しばらくは何事も起こさぬように申し上げますわ」

「それは楓を起こさぬように、ということか?」

 二人、ひとしきりの笑いの後で、芹月は朝餉を整えるために退がっていった。本当ならこの隙に、客人まろうど御館みたちへ一度戻って奥津の国からの伴人ともびとを召そうかと考えていたのだが。

 伴った者は二人、山間の国にも明るく頼りになる。那智は身の回りのことは御宮みあらかの者、客人まろうど付きの女官まかたちにまかせて、伴人にはそれとなく山間の国の様子を探るように命じていた。

 二人は郷士たちとも顔を合わせたことがあり、郷士の伴人らとも通じているからうまくやるだろう。ともかくも今までのところを聞いておこうと思っていた。

「……主紗殿が、いない……」

 ふとつぶやいた声が己のものだと気付いて、那智は慌てて見渡したが誰も控えてはいなかったようでほっとする。

 居るはずの、御仁ひとがいない。

 那智がこの生国に戻れば必ず顔を出してくれる、女首長の側近もとこ従者ずさ

 こうしてこの場にあれば、その姿は御簾の向こう、衝立の影にあるだろうその人がいない。

 初めは明日香の傍らにいるのだと思った。だが、今、その明日香に代った那智の傍にない。

 ならば本当の明日香の傍にいつものように控えているのだろうか。

 そう考えることは那智にとってはあまりおもしろいことではなかった。仮にも今ここにあるのは、主紗のあるじたるこの国の女首長の意を受けた変わり身が故。

 まして己は水の名を受けた霊力者みこ、さらにはこの御宮みあらかを取り仕切る身とあらば客人まろうどを先んじて尽くすように取り計らい、真っ先に礼を取るのは当然のこと。それもないとは何という手落ちだろう。

 だがそれを明日香に申し立てるのも口惜しい。彼にとってのいちばんは彼のあるじ、その当人に向かって何をいっても筋違いになるばかりだ。

 正直にいえば、那智が伴人の二人に聞きたいのは山間の国のことなど口実だった。なぜ主紗の姿がないのか、どこにいるのかを聞きたくて堪らないのだ。

 明日香に直にどこにいるかを尋ねるのは、居所がわかったとしても、呼んでくれたとしても、ちっとも嬉しい気持ちにはなれないだろう。

 明日香が彼を正しく知っていて、召し出せば彼はすぐに参る、それを目の当たりにするだけなのだから。

 那智は明日香に悟られたくはなかった。

 久し振りの訪問おとないは、王書ふみを携えた国使つかいとしての役目つとめで、奥津の国の巫女として、また山間の国の霊力者みことしてのものでもある。

 だがそれとは別に、主紗に会うことを心待ちにしていて出立までの数日も、いつにない強行いそぎの旅も苦にならず、却って嬉しくて、本当なら重い責のある訪問おとないだというのに、その喜びを押し隠してやってきたのだ。

 那智はそれを明日香に知られるのが嫌だった。

 那智の身の内には明日香の意思がある。だから明日香ならどう思うか、何を言うか、今の彼女にはわかってしまう。

 ……那智は主紗が気に入りだからな。主紗、せっかくなのだから、手でも握ってやるといい。

 そして風で御簾を巻き上げて、耳まで赤くなった那智の顔を主紗に見せようとするのだ。主紗は気を遣って、否、客人の、奥津王の名代かわりとして来訪おとなった貴人あてひとへの礼節として傍らにある衝立を引き寄せ、貴人の御顔を直に見ぬようにするに違いない。

 己の内に成した明日香の意思に、那智は主紗もいないのに顔を赤らめた。何故このくらいのことで、照れることがある、それがまた口惜しい。

 ……だが主紗はきっと苦く笑う。その笑みだけは那智に向けられるもの。それを思って少しだけ、それもいい、と思い直した。

 そこに折敷おしきに膳を整えた芹月が戻ってきて慌てた声をあげた。

「姫巫女様、いかがなさいました、御顔が赤うございますっ。御熱がございますのっ」

 芹月は折敷を置いて身をひるがえした。しまった。水は姿形みめや意思、しぐさ、声も映せるが、那智が己の仄かな想いに惑い赤らめた顔色までは映せない。

 芹月は楓を呼ぶつもりだ。彼女が頼るのはいつもうから総領媛このかみのひめなのだ。だが楓は再び寝付いた頃合いだろう、こう度々呼び立てるのでは暇とはいえまい。

 那智の身の内にある明日香の意思が叫んだ。

「芹月、それには及ばない!」

 頼りない女官は呼びとめられて裾をさばけずにつんのめるようにして膝をつき、見返した。

「ですが、御身のご様子、ただなりませんっ。姫巫女様の御身を傍から見るうちに心配りいたしますことも女官まかたちの役目にございますっ」

 心根のよい郎女いらつめである。これを御宮みあらかに推したのはどの者であったか。だが、事を大きくさせられぬ。

「楓への言い渡しは許さぬ。采配は芹月に任せる。客人まろうどある今、浮足だって事の大きくするは得るものがない」

 他に頼るを禁じられた女官まかたちはしおしおとしおたれる様子を見せたが、「女首長」の是非を許さぬを見て理由わけのあるを感じて居ずまいを正した。

「では、同じく女官まかたち藍和あいなに伝えるをお許しください。ただ今、薬湯くすりゆをお持ち致します。朝餉も御身に障りのあらぬを改めて整えましょう」

 いくぶん心許無げな表情かおではあったが、己の成すべきことを定めたか。芹月は一度巻き上げた御簾を再び下ろし、姫巫女に上掛けを羽織らせて掖月わきづきを引き寄せ楽にさせてから、折敷を持って退いた。

 那智は息を吐いた。薬湯を飲むことになってしまったが、大事になるよりはいい。己はその意思を成した変わり身で、ただそれだけのことだ。

 これで芹月も楓に頼り切るようなことはなくなるだろう。明日香の意思もそのことをずいぶんと気に掛けていた。

 主紗殿に伝わるだろうか。

 藍和は彼のさと伴部とものべひめなのだと「明日香」の意思

で知る。……伝わるだろうか。

 そして身体からだの様子がよくないのは女首長ではなく、那智なのだと知ってくれるだろうか。

 己の身勝手な感情きもちに少し恥じて、那智は掖月を抱え込んだ。



 山間の国の大川は流れ緩やかな川だった。葦茂り、水鳥が集まり、魚群れなす。堤と堰を設けて水路が田圃を潤すようになったのはさほど古いことではない。

 それまでは大川で浮稲を育てて、湿地を開墾しひらいて、籾を直播じかまきしていた。

 だが浮稲は収量が少なく、山間の国には湿地が少ない。水路を造ってからは収量の多い水稲を田に水引いて育てるようになり、直播くことも減って、近頃では苗代を仕立てる。

 大川に沿った道は国の礎だった。国外くにそとから道を辿ると山深い大川の上流を通って領内くにうちに至る。

 国の往来いききも、日頃の農作も魚捕りも、この道が始まりだった。多くの民が郷士が歩いた。馬も牛も。

 この道に市が立つようになったのは当たり前の成行きだったろう。渡来わたり行商人あきなりひとは人通り多い場所に市を立てるものだ。

 市の賑わいは今も変わらないが、その場所は変わった。国を繋ぐ「路」が造られ、それは集落むらの中ほどにまで続いている。山間の国の路の末端すえは市立つ集落むらの広場だ。

 いきおい、道を行く者は減った。

 田圃や狩猟の行き来も路を通る。それでも魚を捕るには大川へ向かうこの道を行くが、今その大川は水を流さぬ。

 朝早い道を行く者は他になかった。

 己と我が君。この国の女首長である霊力者みこ様。それから乗騎である二頭。

 明日香をこの道に誘ったのは笙木だった。今、この朝に野駆けて遠駆けるのにこの道ほどふさわしい場所を思いつかなかった。

 笙木はこの道を通るたびに歯を食いしばった。だが今朝は穏やかに馬の歩みを進めていた。

「……遠駆けなど、久し振りだ」

 明日香の言葉に笙木は顔を上げた。毎朝丘に野駆けて時にはそのまま国見と称して領内を回るのを嗣子かずさから聞いていたから、おかしく思った。

「笙木と遠駆けたのは、ずいぶん前のことだろう」

 あの頃のままの悪戯な笑みを含んだ表情かおを向けた明日香に、ついつい小言くさくなる。

「前を御向きください、危ないでしょう」

「……やはり主紗と同じことを言う」

 笙木は面喰った。

 白夜なら私を落とさぬ、と明日香は足を速めた。笙木も馬を小走りに追いかける。あの頃のように。

 時が流れた。

 あの頃はまだ、白夜は仔馬だったのだ。

 明日香の遠駆けに、いつの頃からか主紗が付き従うようになり、それも今や伴はなく白夜だけとなった。

 ……それだけの時が流れた。

 ならば己に長くのしかかっていたこの重い枷が外れていくのもうなずける。

 明日香が笙木に笑いかける。関塞は今朝も平生のまま、風に弓弦が一度鳴るのを聞いたのだと。今朝も平生なのだと。

 平生とはその実、常に変わりゆくものなのだ。変わらぬものこそ、危ぶまれる。それを笙木は知っていた。

 変わらぬ想いが残されても、それは過ぎ去った物事。今思い悩むも、僅かの瞬間またたき過去むかしのこととなる。未だ来ぬ先の憂いなど、言葉の上のことでしかない。時は流れるのだ。

 変わりゆく平生を皆、駆け抜けていくのだ。

 国を憂うならば、そこから始めなければならぬのだ。崩れゆくものと生みだされるものがあるのだと。

 笙木がこの国に求めたのは、安寧だった。崩れることのない安寧を渇望し腐心することを平生としたが、失うを恐れた。過ぎ去るはずのすべてを、己の枷としてしまった。

 過ぎ去ることに逆らっていては、思い残すを枷としたままでは、変わりゆくことはできぬ。それでは平生と呼べない……。


 架けられた軛を、

 架けられた枷を、

 架けられたままでは行けぬ道がある。


 道は変わりゆくがために。

 道を紡ぎ出すがために。 

 道を歩き出すがために。


 憂いを残したままでは行けぬ道がある。

 求めたために失うものがある。


 失わぬよう、

 傷つけぬよう、

 守り通すよう、求めたとしても。


 すべて道が変わり行くのならば。


 ……何も失わずに守れる道など、ありはしない。



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