生きる

 世の中に大きな……流れがあるとするならば。

 それものがたりは確かに、そうだったのだ。

 いつもわかるのは、すべてが終わってからだ。

 今からずっと遠い、幾千の幾万の、昼夜を年月を越えた過去むかし出来事ものがたり

 ここから遥か遠くの海にあった今は誰も知らぬ大陸だいちに、「意思」という名の「運命」を、それでも懸命に生きた者たちがいた。

 こんなにも遠い出来事で、あれから多くの者たちを見てきたというのに、今でも覚えている。

 己の「意思」が、「ひと」という名の「意思」に、敵わぬのではないかと感じた。

 己の「意思」はいつからなのか。

 その存在はいつからなのか。

 己自身も忘れた頃。

 自らの「意思」を何故遂げるのかさえ忘れた頃。

 心が……動き出す。

 幸せを生み出すのはここに懸命に生きる者たち。

 そのすべては真実まことだったのか……。

 思い返すも、あの者たちの「意思」を作ったのは、己自身であったはずだ。

 同じ「名」のもとに共に生きていく者たちだったはずだった。

 何がそうさせたのか。

 どこがそうだった。

 別れ道は明確でない。


 それは確かに、「運命」だった。


 光の届かぬ暗闇に、「ひと」の営みが沈んだ過去むかし

 それは大いなる流れのもとに。

 すべては「ほし」という名の「運命」に始まった。



「風よ……雨雲は。雨季あめのころはまだだろうか」

(雨雲はまだ来ませんよ、明日香あすか

 この山間の国の首長おびとは、軽く息を吐いた。

(明日香? 今のは、応えが分かっていたのに、聞きましたね?)

 空を仰ぎ見る。白い雲がいくつか浮かんで、流れていく。だが、明日香の求める雲ではなかった。その晴天は、今も民を困らせている。

 水がない。

 井戸はいつまで保つのか……。

 秋の実りはどうなる。

 いや、秋どころではない。雨季のないまま夏を迎えられるだろうか。……これから収穫するはずの蕎麦は、少しずつ立ち枯れてきている。



 飢饉。

 明日香は頭の中に浮かんだその言葉に、身震いした。

 そんなものは、言葉でしか、知識でしか知らないのだ。現実うつつになど、どうして考えられるだろう。

 だが、考えなくてはならぬ。己はこの国の首長おびとであるのだから。たとえ生まれてまだ十六年しか経たなくとも。

 明日香は海を見つめた。

 ここから海を望めることを知る者は少ない。

 この丘は民に言わせれば、姫巫女ひめみこ様のおられる御宮みあらか

の向こうにおわす姫巫女様の丘、ということなので、誰もが憚って近付こうとしない。

 明日香は民からは「姫巫女様」と呼ばれていた。

 母の水姫みずきが亡くなって六年が経つが、まだ彼女を覚えている民が多いからだろう。

 もっとも、明日香が霊力者みこであることは民の理解するところでない。民からすれば「みこ」と呼ばれる貴い御方がその「生を捧げ」て我らを助けてくださる、

のである。

 この山間の国を統べるのは「霊力者みこ」であると必ず決まっている。「民に生を捧ぐ一族」にごく少数に生まれ、民のためにその霊力ちからを使う。

 その霊力ちからは普通の「巫女」とは違い、直接「もの」に働きかける。風を操り、水の見たことを知り、何も無く火を熾し、大地の実りを察する。

 その生を終えた霊力者みこは自らの霊力ちからで時空を越えてまた同じ一族うから子孫すえに生まれ変わる。転生である。

 転生は何度もできることではない。時空を越えるために多くのことを歪ませ、代償かわり霊力ちからを奪われる。だから霊力者みこたちはできるだけ霊力者みこのいない時空に新たな生を求めるのだという。それで同じ時空に存在す

霊力者みこはかなり少ない。

 転生をはじめ、霊力者みこ能力ちからは最大の秘事ひめごとだった。

 当人のほか、ごく少ない肉親、わずかな近侍もとこが知るのみである。それでもその存在は国内くにうちだけでなく広く周辺まわりの国々に知れ渡り、畏れ敬われ、慕われている。

 近頃の明日香は、それが重荷に感じているのだった。

 彼女の母は水のほか、風も火も使った。だが、明日香は風を使うのみである。

 雨を多くの民が待っていた。雨を降らすには、風だけでは足りない。水の霊力ちからがなくては。

「水葉……。最期の母様の言葉を知っている?」

 そっとまだ見ぬ双子の姉の名をつぶやく。この丘から見えるその景色の大半は隣国、海辺の国のものだ。

 双子を忌む慣習ならいは、どこからきたのだろう。

 力をその「血から」分けるとされて天に返す「慣習ならい」は。

 双子の姉姫えひめは生まれてすぐに命を絶たれようとしていた。明日香は己の霊力ちからを、生を、姉に受け渡した。いずれその生終わるとき、転生に使われるはずのそれを、民のために使わなかった。

 ……姉とひとつになりなさい。

 亡くなる直前、母はそう最期に言い残した。明日香はその言葉で、母が何もかも知っていたことを悟った。

 水葉を救った代わりに霊力ちからを失った。母をそのことを知っていたのだ。本当なら、明日香が風と水を使う霊力者みことして生まれるはずだったことを。

 だが、母の望む形でなくていい。ひとつになどならなくていい。

 ひとつになるということは、どちらかがその存在を無にするということだ。……ひとつの命を共有ともにするならば、そのときにはどちらかの意識は失われる。も

うひとつは、どちらかがその命を失ったなら。そのとき残った者にその霊力ちからが宿るだろう。

 何故、二人でいられない。何故二人で生きることが適わぬ。

 二人はすべてを分かつために生まれてきたのだ。

 水葉と霊力ちからを合わせれば、雨雲が呼べるはずなのに。

 霊力ちからに差があれば、弱い者は耐えられぬ。だが、水葉となら。

 本当は双子だったのだ。きっとできる。

 だから明日香は待っていた。水葉に会えるその時を。

 水葉はきっと己を恨んでいるだろう。憎んでいるだろう。だから、彼女はいつかこの国にやってくるだろう。

 己を捨てたこの国にやってくるだろう。……復讐のためだとしても。

 明日香は悔やんだりしていない。それでも、水葉のすべてを狂わせてしまったことは確かなのだ。

 母の温もりも、一族うからや民の思いも、ただこの至らぬ身にすべて受けて、己のものとした。御宮みあらかの奥、多くの者に囲まれて大切にされてきたのだ。

 水葉に何もしてやれなかった。ただ生きることだけを命じて、一族うからとして生きる意味をすべて奪った。

 それよりも、母の想いを感じながら忌み子として命を絶たれるのと、どちらがよいか。

 幾度考えても、そのたびに答えは違ったものとなり、明日香には未だに答えが出せない。

 それでも。

 明日香は水葉に生きていてほしかったのだ。

 そうでなければ、謝ることすらできない……。

 真午まひるを過ぎた陽射しはこれから少しずつ入日に向かって、海に沈んでいく。

 同じ陽射しを水葉も見ているだろうか。

 明日香は振り返って愛馬の白夜の姿を見とめた。

「戻ろうか、白夜」

 ここは誰もが憚って入らない、姫巫女ひめみこ様の丘。

 だが、女官まかたちの楓だけは、別だ。また黙って神殿かむどのを抜け出して来たから、見つかって小言を聞くのも面倒なことだ。

(明日香。少し遅かったようですね?)

 風の声が笑う。

 遠くから楓が呼びかける声を風が運んできた。



 主紗かずさは今、海の上にいる。

「……揺れる、波か、これは。海は荒れているんじゃぁないのか、遠波とおなみ!」

 舟端に両手でしがみついて、主紗は声を張り上げた。

 頼りなく揺れる舟は遠波のもの。命を預ける舟だ。丹精込めて丸太を繰り抜いた。

 たった一人で海の上で漁をするための工夫は、遠波が自らの経験を頼りに施したものだ。

 多少波が高くてもすなどりに出られるよう、もう一つの丸太をあら削って舟に並べるように繋げたのは、ひっくり返りにくくするためで、だからこの程度の波で舟が沈むはずもない。

「間抜けなことををいうなよ。これは凪だ。掴まるようなこともないんだぞ、揮尚きしょう

 遠波は笑って言うが、丁度人ひとりの幅しかなく、せいぜい四人ほどが乗れるだけの舟の上、生まれてはじめての海に、揺れる波。主紗が心安んじて乗っていられる理由わけなど一つもないのだ。

「本当だな? 海は……荒れてはいないんだなっ!?」

 主紗は疑り深く遠波に確かめた。遠波はいい加減、呆れている。こんなにいい空模様にいい波、何を恐れることがある。

「……あのなぁ。川には舟がないのかよ?」

「川の舟は……川は堰がある。その内は流れも緩やかだし波もないし、こんなに揺れないっ」

 ほとんど叫ぶように答えた主紗を、そうかと遠波は簡単に流して漁の用意に取りかかった。これもお手製、鹿の角の釣り針を器用に糸と繋ぐ。

 近頃は金属かねの釣り針が交易あきなりで手に入るが、遠波は頑迷に鹿の角にこだわっている。だがそれは主紗の知るところではなく、波に驚きながらも手元を覗きこんだ。

「どんな魚が獲れるんだ? これに魚がくっつくんだろう、聞いたことがある」

 主紗の生国ふるさと、山間の国の川でのすなどりといえば、堰に網を張るか、投網を使うか、仕掛けを川底に沈めるのが普通だった。そうでなければ直に銛で突いたり網で掬う。あまり「釣り」をしないから、主紗は釣針をはっきりと間近に見たことがない。

 幼い頃、風音かざね姫と川に飛び込んでは網で小魚をとっては遊んでいた。主紗はそれを思い出していた。跳ね上げた水の滴りが風に舞い、光にきらきらと輝いて、とても綺麗で。それを見るのが楽しみで、風音姫を何度も川に誘ったのだ。

 今なら、川には近付いてはなりません、と苦言するところだろう。あまりの変わりように、思えば己のことを苦く笑うしかないなと気付く。

 遠波は舟の上の主紗の様子に、実は少し驚いていた。

 遠波がから見た「揮尚」はもっと扱いにくい男のように思っていたのだ。

 年の割りには妙に考え込んで深く落ち着き払う態度をとる。そのくせ物は知らないし、どこか抜けている。

 だからこそ放っておけずに、笠耶かさやを追い払って様子を見ていたのだ。

 今、子供みたいにはしゃぐ声を上げる……実は叫んでいるだけだが、そんな揮尚を見て、驚いてそしてほっとしたのだ。

 聞けば年はまだ十七、確かに十五を過ぎれば正丁おとなと同じだ。とはいえまだ年若く幼さ残る年頃のはずなのに、どこか無理をしてそれを押し隠しているように思えた。

 だが、今の揮尚は見ていて面白い。魚ではなく、揮尚が食いついてくるな、などと思いながらも遠波はそんな表情かおは出さない。そのほうがからかいやすいのだ。

「どんなって、見えてるだろが。海の底まで」

 動けば舟の均衡つりあいが崩れてしまいそうに感じて、主紗が波面を覗けないのを知りながら言う。

 主紗は体を固めて、首すらも動かしたくないらしい。見えないというように首を振ることすらしなかった。

 遠波は釣針に早瀬はやせの用意したえさを刺しただけの仕掛けを海に沈めた。指先で糸を探るように手繰り、細かに砕いた餌を垂れる糸の周りに撒いた。

「揮尚、これで落ちてもいいぞ、俺が釣ってやる」

「……俺を釣るのはやめてくれっ」

 へぇ、と遠波は耳をとめた。

「揮尚、お前、『俺』とかっていうんだなぁ?」

「……あ、あぁ」

 主紗も今、遠波に言われるまで気付かなかったのだ。

 幼い頃、風音姫の遊び相手や御宮みあらかの小間使のようなことをしていた頃には、己のことを「俺」と言っていたような気がする。だが、どんどん己の「役目」

が増えていって、明日香の従者となった。明日香の傍にあるうちに、いつの間にか己を「私」と呼ぶようになった。

 主紗は明日香の傍に在るために、己を変えて生きてきたのだ。

 ふいに舟がぐらあり、と大きく揺れた。主紗は舟端に強くしがみついた。

「来たぜ、かかりやがった」

 遠波の二の腕の震えや筋の張りから、主紗にはかなりの大物に思えた。その大物を遠波は人差し指だけで支えている。遠波は一度大きく糸をぐいん、と引く。

 そうしておいて、少しずつ糸を手繰り寄せる。

 それを幾度も繰り返して、波面を覗けないのを忘れて糸の行方を目で追う主紗にも魚影かげが光って見えてきた。魚が左右に糸を振って暴れる。針から逃れようと

しているのだ。

 だが、遠波が糸を大きく引いた時に、針の「返し」がしっかりと魚の喉に食い込んでいた。魚の抗いは、効かないだろう。

 遠波は魚をすぐには引き上げず、波面で空気をたっぷりと吸わせて、魚との闘いを終わらせた。

「こいつは夕べもあったやつだ。うまかったろ?」

 引き上げた獲物の針をはずして、遠波は籠には入れずに主紗に持たせた。空気を吸いながらも猶も逃れようと尾を振る魚を受け取った主紗は、魚の大きさに意外だと思った。両手で充分に掴んでもてる程度なのだ。

 その間の抜けた顔を見て、また遠波が笑う。

「なんだ、海の魚はそんなに違うか? ま、味は違うな、こっちのがいい」

「海の魚は、人より大きいと聞いたんだ。小さなものもいるんだな?」

 主紗の素朴な疑問に、遠波は吹き出した。早瀬にも聞かせてやりてえ、と腹をかかえる。

「おもしれぇな、内陸おかじゃぁ、そんな話になってんだな。人よりでかい魚なんて、そうはいるもんじゃねぇっ」

 ひとしきり笑って、遠波は引き上げた糸をほぐしてまた糸を海にたらして餌を撒く。そうして少し考える表情かおをした。

「そうだな、外海そとうみに行けばいるな、そういうのが」

 そとうみ、と主紗は聞き返した。

 遠波は少しずつ入日に向かう日の方向を指した。その先にはこの海を湾状に形作る岩場の岬がある。

「あの岩場の向こうが外海そとうみだ。ここよりも波はでかいし広い。だから魚もでかい。鯨ってやつがな。この舟よりもずっとずっとでかいんだ。ただめったに来ないな、もちろんうまいぞ」

「この舟より……」

 呟く主紗に遠波はうなずいた。

「この舟をいくつも並べたよりもでかいやつもいる。鯨が来たときは集落むらは大騒ぎだ。こいつを仕留めれば十日は困らない。大勢で囲んで湾に追い込むんだ。逃

げられないようにして、銛で突く」

「くじら、か。海は広いんだな、遠波」

 そして魚がうまい、と遠波はまたぐいん、と糸を引いて、舟が揺れた。

 日が海面に近付くにつれて、波面に夕日から砂浜に向かって金色の道が伸びていく。その輝きが明日に続くように見えて、主紗はまぶしさに眩んでも入日を見つめた。

「入日の先は……。暗闇なのに、入日は海に金色の道を輝かせる。それはほんの一瞬ひとときだ。だからあの道は、暗闇の先は山路みちみたいには楽に行けない。海の道はどこでも行ける代わりにどこかへ行くためのモンじゃぁないんだ」

 どこか決められた場所へ行くための道ではない。だが、どこにでも行けることをあの輝きが信じさせる。

 遠波は……信じている。

 浜辺では篝火かがりに火を入れるために女たちが動いているが、遠波はまだ糸を垂らしている。日の沈むまで続けるつもりなのだ。

 先ほどよりも海に出ている舟の数は減っていた。

 主紗はだいぶ、舟の上に慣れてきた。波に揺られるのは、慣れればそれなりに心地が良いようにかんじられた。

 ゆったりとすべてが流れていくような揺れに、主紗は身を任せていた。それがよいのかどうか、難しく考える気にはならない。

 ただ、今この瞬間とき、主紗は……己も魚も人も、すべてが生きている、と思った。


 山間の国に、主紗のいない三度目の朝が巡って来た。

 明日香の住まう御宮みあらかから、民の暮らすむらを越えた向こう側に、主紗の父であり、この国の筆頭郷士いちのごうしである笙木しょうきの邸宅やしきがある。

 主人あるじの笙木、主紗のほか家司けいし伴人ともびと侍女まかたちら、家人けにんが二十人ほどが暮しているが、主紗の母、紗鳴さなるはまだ主紗がたった一つのときに亡くなっていた。

 この邸宅やしきのものは皆、朝が早い。ほかの郷士たちの邸宅よりも御宮みあらかが遠いためでもある。だが、この三日ばかりどうも皆寝過ごしがちだった。なにしろいちばんの早起きである主紗がいないのだ。

 主紗が起き出すとさすがに家人は皆それに合わせて慌てて起きる。そのおかげで笙木は朝の会合はかりごとに遅れたことがない。

 だから主紗のいないこの邸宅は、今朝も少し朝が遅い。

 昨日、会合はかりごとに遅れそうになった笙木は、臥処ふしとに入る前に侍女まかたちに早めに起こしてくれるように言いつけた。

 だが、その侍女が寝過ごしたようだった。

 侍女が慌てて主の臥処に向かうと、すでに笙木は目を覚ましていたようだ。申し訳なく思いながら御簾越しに声をかけると、主人あるじはどうやら機嫌が悪い。

「申し訳ございません」

「いや……寝覚めが悪いだけだ」

 侍女が着替えのほうの一揃えを整えて御簾内に入ると、なぜか臥処も衾麻ふすまも水浸しである。訝しく思い、主人あるじを見れば髪も顔も夜着ねまきも濡れている。

「寝ぼけられたのですか? 頭からかぶるなんて」

 侍女がそう思ったのに無理はないと笙木は思った。顔を洗うために昨夜から水を注いで置いた鉢がひっくり返って転がっていたのだ。

「いや……。代わりを頼む」

 笙木は一度否定したが、思い当たったことをこの侍女に話したところで、仕方のないことなのだ。

 侍女が鉢を持って出て行ってから、笙木はつぶやいた。

「……明日香様だな、大方……」

 笙木は寝ぼけたわけでも目を覚ますために自ら水をかぶったわけでもない。

 早朝、眠っている笙木の元に「鉢の方から」近付いてきたのだ。おそらく早起きをした明日香が、笙木の様子を風に聞いて、気を利かしたつもりか霊力ちからで鉢を動かしたのだろうと思う。

 この水不足に、なんてことをなさる、と笙木は文句を言いたかった。私財たから領内くにうちで使う水を贖っている笙木にとっては水はただではないのだ。

 だが、すぐに急ぎのことでもあったかと思いなおした。慌しく、着替え始める。

 侍女がそろそろと運んできた鉢の水で素早く顔を洗い、これも慌てて朝餉をすませて邸宅を飛び出した。

 残された侍女や家司らが顔を見合わせる。

「主紗様が戻られぬようになってから、殿の様子がおかしいのだけど」

「子離れしてませんから。いつ戻られるか分かりませんけれど、やっと主紗さまにも想い人でもできたのだと喜んでいただかなくては」

 的の外れた家人の話は笙木の耳には届かず、まだ目を擦る伴人ともびと二人を連れて馬を駆った。

 朝焼けが美しい。早朝の切るような風と空地が心地好い。紗鳴がいた頃はこうしてよく早朝に二人で馬を駆ったものだと、ふと思い出した。

 日の登る頃合にはすでにむらでは民が動き出している。その近くを早馬で駆ると、民を慌てさせる。ただでさえこの水不足に皆、不安を抱えているのだ。笙木はいつもの路を外れて遠回りしていた。

 遠回りをすれば、丘が近くなる。

 山間の国から唯一、遠く海を見渡せる丘。

 笙木は明日香の居場所が分かっていた。また神殿かむどのを一人で……いや、白夜を連れて抜け出されたのだろう。

 二人の伴人は、先に御宮みあらかへ向かわせた。伴人も御宮みあらかではそれなりの役目を負っているのだ。だがそれよりも、この丘はやはり気軽に足を向けるところではないのだ。笙木にとっては信頼おける伴人だが、明日香の元へは連れていけない。

 笙木は朝日を背に受けて、一人で丘に向かった。

 丘を登りきると急に目の前が広がる。山間の国ではあまり見ない、遥か遠く。そして海。ここに来るのは久しぶりだった。笙木は元来、目がいい。海を見て、懐かしさを覚えた。

 馬を降りて、徒で近付く。白夜が佇んでいたからだ。

 気難しい白夜が、挑むようにこちらを見ていた。知らぬ間柄でもないのに、己の主人あるじに近寄るものは皆威嚇する。笙木の馬は生来が大人しく気立てがいい。白夜を刺激せぬように、己の馬にここにいろと言いつけてそろそろと歩み寄ると、明日香が手足を伸ばして丘に背をつけて転がっていた。

「やはりこちらでしたか」

「来たか。遅いぞ」

「申し訳ございませぬ。が、我が邸宅からでは上出来かと」

 明日香は笑った。

「あはは、やはり親子だな、主紗も同じことを言った」

 妙な納得をされてしまい、笙木は困った。それにしても、主紗にも同じことをしているのか。

「たまに、な。いちばん、目が覚めよう? 目の前に見えぬ物を風で動かすのは難しいのだ。毎日はできぬ」

 主紗が早起きである理由が、なんとなく分かった笙木である。明日香よりも早起きをすれば、水をかぶらずに済むわけだ。

「主紗がおりませぬ故、私に?」

 明日香は体を起こして、それだけではない、と笑った。後ろに手をついて、空を見上げる。笙木は控えて膝を付いた。

「ここを教えたのは笙木だったな。……海を見せてくれたのだ」

「おかげで、ここは明日香様だけのものになってしまいました。それに、神殿を抜け出されるようにも」

 苦笑いして思い出す笙木。まだ明日香が幼い頃、五つか六つか、その頃の名は風音かざねと言った。作法やら学問やらを身に付けるのが嫌でぐずる風音の手を引いて笙木はここに来たのだ。そして海と、海辺の国を教えた。

「あのとき、覚えねばならぬことが山ほどあるのだと、この山間の国のおとだけでは足らぬと、笙木は言ったのだ。まだ風から名を受けぬ、私に」

 海を知ったから、覚えようと思った。海だけは覚えようと。だが、海を知るには山間の国も海辺の国も、もっと色々知らねばならなかった。

「風音様はとても飲み込みの早い御子でございました」

今の私あすかよりも賢かったろう?」

 明日香は笑ったが、笙木にはなんと返してよいものか、曖昧にうなずくよりない。

「だが未だ海に触ることも近付くこともできぬ」

「……軽々しく明日香様が訪問おとなうことの出来るところではございませぬ」

「分かっている。笙木。……主紗のことだ」

 ふいに言われて、笙木は身を固めた。まだ、主紗の居場所を知らぬのだ。明日香にしばらく戻らぬと言われたのなら、そう身の危うい事態ことには陥っていないのだろうが、もちろん親として気に掛けていた。家人けにんには長居の宿直とのいと伝えてみたが、それをそのまま信じている者はどうやらいない。珍しく夜遊びを覚えたとでも思っているだろう。それでも長くなれば家人も慌てだすはずだった。

「風が……私に微かに教えてくれたことだ。主紗の居場所は、海辺の国だろう」

「海辺の国っ!?」

 その予想もできなかった言葉に、笙木は声が震えた。今、もっとも居場所として居てほしくない場所だった。

「あの……間抜けめ、何をっ、考えて!」

 こんな笙木を見るのは久しぶりだったから、明日香もさすがに伝え方をしくじったかと省みる。それでも一度言葉に出してしまえば、もう戻れない。だから。

「……笙木。おまえからきつく言わぬでも、主紗もその立場くらいはわきまえていようが。おまえの嗣子むすこだ」

 若き首長おびと

その時折幼さを見せる危うさを支えてきたつもりでいた。だが、今笙木はその静かな言葉に、己はこの首長に確かに仕えているのだと思った。そうだ今、感情きもち

を昂ぶらせることに意味はない。国内くにうちも、外交まじわり情勢なりゆきも。主紗がそれを分からぬわけがないのだった。

 明日香は、覚悟を決めていた。

 どれだけ責められても。罵られても。

 今、誰にも話さなかったことのすべてを、この信頼おける笙木に話す。

 彼女にとっての笙木はただの臣下ではなかった。

 父を知らぬ明日香の、父代わりだ。母の温もりを知らぬ主紗が、水姫に母を重ねたのと似ていた。

 そしてただの父代わりでもない。母を支えた笙木は、いつまでも母の臣で、その母を彼女はいつまでも越え得ぬ存在としていた。

 これから話すすべてのための覚悟は、だから。

 いつも、これまでこの山間の国の大事を決める覚悟ほどでは足りぬ強い覚悟が要った。

 そうだ、決めてきたのだ。明日香は己に言い聞かせた。そうでなければ、逃げ出しそうだ。

 怖気づく己をごまかすために、明日香は頭から被った襲おすいを胸元で引き合わせた。

 この震えは、朝の空気が冷えるためではないかった。

 そっと、その冷たい空気をゆっくりと吸い込む。吐いた息がため息にならぬよう。

 海を見つめる。

 己をいつも助ける、風の声。それを疑ったことはない。

 濁りのない透明な風が耳を清かにそよいで。

 ……優しい声。風の声が大好きだ。

霊力者あなたは……民のために生き、他の誰かのために生き、それから己を生きるのです)

 風はいつも明日香の傍にいる。

 今度は明日香が、己が、己のための答を出していくのだ。

 明日香は笙木に座を崩すように言った。そして会合はかりごとには出られないだろうと。奥津おきつのことは、従妹の那智なちに任せたからと。

 この話は、……とても長くなるのだから。



 海辺の国の朝、やはり主紗は早起きなのだった。

 目覚めてはじめに感じるのは、ここが山間の国ではないことと、それから、気紛れな首長殿に起こされないこと。

 朝焼けの光が壁や戸板の隙間から差し込んでいた。

 見回すとすでに遠波とおなみはいない。すなどりに出たのだろうか。

 昨夕は漁から戻って、またしても夕餉に酒が振舞われた。だがその二日酔いと薬湯に懲りた主紗は、ほとんど飲まないうちに酔ったふりで遠波のこの苫屋とまに逃げた。あまり食べることもできなかったから、少し腹が空いている。

 がたがたと戸板が動いて遠波の声が飛び込んでくる。

「まだ寝てるかよ? 朝日が昇ってるぜ」

「いや、起きている。早いな、遠波」

 遠波にとっては昨夜の酒は少ないものなのだろう。

 主紗が夕餉の輪から抜け出すときにはすでにかなり出来上がっていて、笠耶と早瀬に絡んでいたように見えたのだが。

「早くに海に出ないと、漁場いさりばをとられちまうのさ」

 得心した主紗の腹がなる。それを聞いた遠波が笑う。

「腹は先に動いてるもんだな。漁に出るぞ。まぁお前が来ても手伝いにはならんが」

 あぁ、と主紗は飲み込んだ。朝餉をとってから御宮みあらかに向かう郷士の主紗にとっては、起きて朝餉の支度の前に、それを獲ることから始まるということが、知識として知っていても己がそれをするという意識が薄い。

 だが民にとってはそれは当たり前のことだと思い至る。

「そうだな。すまないが、浜に残るほうがいい」

 遠波は音潮や早瀬の手伝いをしてくれと言って漁に向かった。

 そろそろ耳に馴染んできた波の音と、女たちのにぎにぎしい声。

 そういえば主紗が早起きのつもりで御宮みあらかに向かえば、その途路、田畑を横切ればすでに民はもう動き出している。気軽に採ったばかりの茄子や瓜を持たせて、笙木様にもよろしく、とばかりに気軽に話しかけてくる。

 だがそうした国ばかりではないことも、聞いたことがあるのだ。他国への書簡ふみを届ける使者つかいを務める同輩ものが言うには、国によっては民は作業の手をとめて跪くという。

 あのとき受け取った茄子や瓜のほかに、民は御調みつぎを納めている。

 海辺の国がどういった形か知らないが、遠波は浦飾ごうし御調みつぎしているのは確かだ。そこに郷士と民の違いがある。それでも遠波はこの国を褒めた主紗に、その言葉を郷士に聞かせるように頼んだのだった。

 知っているはずのことを、実は知らないのだと、この海辺の国に来てから気付かされてばかりだと思った。それは、ただ知っているというだけのことで、その意味を深く考えたことがなかったからなのだった。

 開いたままの戸板から、己の舟に乗り込む遠波の背中が見えて、主紗はなんだか敵わない、と思った。

 夜更けまで酒を交し合い、朝早く漁に出る遠波の姿を見て、生き方を見て、そう思った。

 主紗は寝床から抜け出す前に、己の左足を見た。そして笠耶を思う。昨夕、寝る前に薬と布巾ぬのを取り替えてもらうことになっていたが、夕餉の輪からそうそう

に逃げ出したから、そのままになっていたのだ。

 早瀬に聞くと、笠耶はあまり集落むらにいないのだという。「巫女さま」の身の回りのことはほとんど笠耶が一人でみていて、それであの御館みたちから離れないためだということらしい。水葉も集落むらにいつもいるわけではないらしい。

 笠耶は、どこかほかの海辺の民とどこかが違う。そういえば、誰かが笠耶も流れ者だと言っていなかったか……。

 この海辺の国には、旅の者の来訪おとないをよく迎える慣習ならいがある。「揮尚」も、このまま住んでみてはと勧められたくらいだから、笠耶が流れ者でもおかしくないのだ。

 それでも、笠耶はどこか海辺の民らしさがないように思えた。どこか己に近い。もしかしたら、もともとは郷士身分だったのかも知れない。

 巫女に仕えるのは、どの国でも郷士の娘たちが役目を負うものだ。「揮尚」がこの国に来た夜の宴、郷士がすべて来ていたわけではなくても、十四、五人。その従者ずさらを含めて考えれば、水葉に付ける郎女いらつめがいないとは思えなかった。

 だが水葉のことを笠耶だけが見ている。 もしかしたら水葉が拒んだのかも知れないが。……考え出すと、切りがない。

 昨日は水葉に会うことがなかった。

 だが、今日こそは、聞く。

 主紗も心に決めていた。

 彼女が何故、水の霊力ちからを持つのか。

 ……実はそれほど、その事実にはあまり気にとめていない。それより、水葉が水の声を聞くことが出来るのか、ということのほうが大事だと考えていた。

 明日香は水に「直に聞くこと」が出来ない。

 だから、風に雨雲は来るのか、と聞く。……霊力者みこ霊力ちからはすべてをもたらしはしない。

 何故雨が降らぬのか。その答を貴女はご存知か。

 そう、訊ねなければならない。

 水葉は主紗の目の前で雨を降らせて見せた。このひでり、水不足の折、雨はいつでも必要とされているのだ。しかし、彼女はいつでも降らすことをしない。

 もちろん、霊力ちからを使うことは易いことではないと主紗は知っている。大いなる霊力ちからはそれだけで霊力者みこの手に余るのだ。明日香がまだ風音かざねと呼ばれた頃、霊力ちからを扱いきれずに倒れてしまうのを間近で見てきた。

 彼女は雨を降らせないのではないのだと思う。

 ……そしてまた、降らせるだけでは。

 一度の雨を降らせて、だがその後「本当の雨」が降らないのでは、また水不足になる。……彼女が雨を降らせない理由。もし、それは降らすことに意味がないからだとしたら?

 己の考えに、主紗は身の毛がよだった。

 もしかしたら、水は「雨を降らす意思がない」のかも知れない……。

 水葉に訊ねなければ。雨の降らぬ理由を。

 出会ったら、必ず。

 そう決めたはずなのに、主紗は心のどこかで、それを恐れていた。

 もしも最悪の答が返ってきたしたなら、己はどうすればいい。否。そんなことはありえない。

 ……知らぬことは自分で知るのが分かりやすい。

 水葉の言葉が、主紗の頭によぎった。

 主紗はこの海辺の国で己の外の世界を知った。郷士として生きて明日香のために生きていた。だがもっと大きな世界で民が生きるのを知ったのだ。

 水が不足すれば、郷士はその不足を嘆く。だが郷士は水を手に入れることができるのだった。……米や野菜と同じように。

 民は手に入らないものを求めたりしない。ただ、砂浴びをして、笑う。

 主紗の持ち合わせないものだった。

 己だって、それなりにやってきたのだ。生きてきた中で、誰しもそうであるように、彼にしかできぬともあったし、民にはできぬこともあったのだ。

 だが今、主紗はまったく新しい物差しを手に入れて、比べられぬものを計ってしまったのだ。彼のこれまでをだからといってなくすこともできない。

 新しい物差しで計るものは、すべてがこれからのことでしかない。

 だが、彼は今、民の……遠波の生き方と考え方に、己にないものを知って敵わないと思った。

 比べられぬものを、同じ尺度にのせた。

 民の生き方に力強さを感じている。朝日に目覚めて夕日に一日の終りを知って、食べるために採って、笑って怒る。

 その生きるという、単純なこと。その生き方を……鮮やかだと思った。

 己が生きることができない生き方を知った。

 これまで生きてきたはずのことが、急に色褪せて感じてきた。その懸命に生きてきたことは、いったい何に懸命だったのだろう。それを知る物差しはもうない。

 今、最悪の答を知ったなら。

 己はどうすればいい。

 生きる世界が、いちばん深いところから崩れていく。

 ……水葉はこうも言った。

 すべてを知ってしまったとき、きっと何もできなくなる。

 この言葉に、今重みを感じている。

 戸板を抜けると目の前に海が広がっている。

 少し眩しい朝焼けの中、舟がいくつも浮かんでいた。



 今朝も水葉は国境を流れる小川にいる。

 民が起き出して、水を汲みに来るよりも早くから、水を使う霊力者みこは必ずこの小川に来るのだ。

 民の誰も、郷士たちも、真夜中のこの小川の姿を知らない。水葉が堅く禁じている。だから、真夜中、小川がほとんど水を流さないことを知るものはない。

 知るのは、水葉と、水だけ。

 だから水葉はこの集落むらで、いちばんの早起きである。

 誰にも知られて葉ならない。……水の意思を、知られてはならない。

 もし知られたなら、この海辺の国だけではなく。すべてが混乱に巻き込まれていく。

 本当なら水不足はもっとゆっくりと進んでいたはずだった。少しずつ雨が降らなくなって、旱が続いて、大地が乾く。井戸も川も。

 誰も気付かぬうちに、水がなくなるはずだったのだ。

 水葉は気付いた。

 彼女にできることは、水の意思を変えることではなかった。

 ただ、「水の流れ」を変える。

 それが、精一杯のこと。

 少しずつ残る水を集めてこの小川に流す。各地でそのまま干上がるだけの水を集める。せめてもの小さなその流れにすることで、手に掬うことができるように。

 ……だが、そのぶんだけ「最後の一滴しずく」となるのが早くなる……。

 水葉は小川に両手を浸した。水がどこから集まったのか、その一瞬で心に流れ込んだ。さまざまなものを見て流れてくる水。いたたまれなくて、すぐに手を引いてしまった。

 ほかに、何ができたろう。

 すべてを知ってしまったから、きっと何もできない。

 知らないことを、知ってしまったから。

 知らぬままで、よかったのかもしれない。

 だが己が霊力者みこ霊力ちからを受け継いでいることを知ったときから、そのままではいられなくなった。

 己ははたして明日香おとひめを憎んでいるだろうか。

 初めはそうだったのだ。だから、そのために生きた。

 己の存在が明日香に哀しみをもたらすのなら、そのために。

 今は、違うのだろうか。決して近付かなかった己の生国に、今、ここまで傍に来ていた。

 水に濡れた手のひらをきつく握った。それでも己の無力感は消えない。

 そべてが無駄かもしれない。大地が枯れるのを早めたのは、この己の両の手のひら……。

 もし水葉が明日香を憎んでいるとするなら、それは彼女の運命を己の意思ではない霊力ちからで変えられたことではなく、そのために明日香が水を使えなくなって、雨を呼べなくなったことだろう。

 雨を呼べたなら、小川の流れよりも多くの者に水を分けられる。そして大地に降り注いだ水をまた、雨に変える。

 水の霊力ちからだけではできない。わずかな範囲だけなら、水葉だけの霊力ちからでもできようが、風が雲を広げなくては大きな雨にできないのだ。

 水と風を同時に使えぬ霊力者みこはかつていたのだろうか。いたのならば、どうやって雨を降らせていたのか。

「私には、霊力ちからがない……」

 本当ならこの大地が望むままに雨が降るものだ。

 すべての「意思」が雨を欲して雨が降る。そして生まれて生きていこうとする。大地が生きるためのこの巡り合わせは、何一つ欠けることなく巡っていくから、

すべてのものが生きていける。生きていれば、また意思が生まれて、そして大地はまた巡っていく……。

 この「大地の生きるための巡り」がうまく巡らなくなったとき、それを糾すのが霊力者みこだ。

 「民に生を捧ぐ」などというものは、ただの国の都合にすぎない。

 そして、風や水が霊力者みこに名受けさせるのもまた、彼らの都合だ。すべての巡り合わせが狂い始めたら、その渦中にある彼ら自身ではそれを糾すことができな

いから。

 だが……、水葉には糾すことができない。

 霊力者みこが水も風も使うから、大地を巡らせることができるのだから。

 早起きな小鳥たちが木々の梢からさえずるのを聞いて、水葉は少しだけ気を取り直した。

 小川に手を浸して、集落むらの様子を見る。主紗と早瀬が水を汲むために壺を手にしていた。主紗の足取りは、さほど怪我の具合のひどかった左足を気に掛けている

ようではなかった。

「水よ、この小川は、いつまで流れる?」

 幾度目かの同じ問い。変わらぬ答を水葉はまた確かめただけだった。そう、水の意思は変わらない。

わたしは己の意思に従うだけのこと。それは霊力者あなたも同じこと)

 同じではないと水葉は言いたかった。己の意思など、この生を受けたときから一度もなかった。水葉は明日香を思う。

「一つになど、なれない……」

 年月と運命が二人を分かつ。

 だが、彼女の「意思」は、本当は。

 己の意思そのものに、水葉は確信が持てずにいた。造られた生を生きている、そんな思いが深くわだかまっていて、己の意思が「妹姫あすかの都合」だと無理に思い込もうとしていた。

 ……それでも、きっと出会うときは 互いの霊力ちからを求める時。

 そのとき、二人は一つに戻るのだろう。それが、どんなかたちであっても。

 水葉の心にはいくつもの意思が絡まっていた。何が己の意思だったか……。

「双子でなければ、よかったのに」

 そのことだけは、何度も、強く思った。

 そうだとすれば変わらぬ水の意思を知ったとしても、これほど深く無力感は味わわなかっただろう。水と、風とが使えたなら。

 水不足にはならなかった。

 明日香は、すべてを狂わせていた。

 己が何も知らぬうちに。



揮尚きしょう、水をこぼさないでよ」

 早瀬はやせは器用に壺を頭上にのせて、それを左手で支えていた。空いた右手には桶を提げている。

「助かるなあ。いつもは何度も行くんだから」

 主紗には声を出す余裕はない。だが早瀬はそんなことに構うでもなく、ずいぶんと機嫌がいい。

 主紗は水汲みの手伝いを申し出た。遠波とおなみに言われたとおり、朝餉の用意をする女たちの元へいくと、ちょうど早瀬が空の桶をかかえていたのだ。 

 左足に軽い痛みが鈍く残るが、力仕事には手を貸すものだ。

「早瀬、置いていくな。二人で行こう」

 だが、主紗は少しばかり悔いていた。それならばと音潮ねしおに早瀬のもつ桶よりも二回りは大きい桶を手渡されたから。

 小川は集落むらから少しばかり離れている。下流ながれを間近に見るのは、主紗はこれが初めてだ。

 国境くにざかいの流れと違って砂の上を走り、膝下ほどの深さがある。早瀬によれば、日ごとに深さが違うのだという。

 簡単に組まれた板の足場には柄杓やら桶が置かれていて皆が足繁く使う様子が見てとれた。

 川底の砂を巻き上げないように小さな桶で掬って、持ってきた桶に移す。桶をいっぱいにしてから、主紗は小川の水で顔を洗った。

 顔を洗うと、一日が始まるような気持ちになる。手桶で掬った水を、流れから離れた砂地で頭からかぶった。ここなら飲み水になるかも知れない水を汚さないだろう。

 水の滴る前髪を主紗は片手でかきあげた。手櫛で髪を結い括り直す。

 そんな主紗の様子を、早瀬はまぶしそうにずっと見ていた。

「あぁ、待たせた。すまない」

 早瀬は笑顔で大きく首を振った。

 輝尚と二人でいられるのだから、何も文句はない。それに輝尚から、二人で、と誘ってくれたのだ。その言葉を聞いたほかの女たちのうらやましそうな顔を思い出すと少し気が引けたけれど、今日は思い壺も桶も気にならないのだ。

 当の主紗は、そんな早瀬の気持ちにも、女たちの様子にも気付いていない。

 思いのほか両手に提げた大桶が重たく左足に響く。だがそれを早瀬に悟られては気を使わせるだろう。このような力仕事はやりなれないこともあって、機嫌のよい早瀬の軽い足取りにおいていかれそうになるのを追って早足になるが、そうすると桶の水が揺れてしまうのだ。主紗だって小川の水場にそう何度も来るのは避けたいところだ。

 足元や桶の水を見ながら歩く下向きの目線の隅で、ふいに早瀬の足がとまった。

 何があったかと顔をあげると、水葉が二人を待つようにたたずんでいた。



「おはようございます、巫女さま。お勤めにございますか」

「おはよう。……足の具合はいかが」

 水の霊力者みこは早瀬の丁寧な挨拶を軽くかわして、主紗に問うた。

 主紗は二つの桶をそっと砂地に降ろした。

 彼女は、己を待っていたことに気付いたから。

 そして、主紗は決めていたのだ。次に会ったなら、聞かねばならぬことがある。

「早瀬。あとから追いかける。先に行ってくれるか」

「え……」

 二人の間に何か秘事でもあるのかと訝る様子をみせて、場を離れがたそうに、それでも早瀬は先に集落むらに向かった。その早瀬に声が届かなくなる頃合いを見計らって、主紗は答えた。

「大桶を二つ持てるほどには、癒えております」

「そう。そのようね。山は越えられる」

「はい」

 そういえば、そうなのである。確かに、もう山は越えられるだろう。少しでも早くこの海辺の国を離れなくてはならないのだ。山間の国に戻るために。明日香の元へ、誰よりも傍近くあらねばならぬのだから。

 なんだか、そういう意識が薄れていた。

 ……明日香様よりも、「水」を選んだということか。

 主紗の戸惑いの逡巡を見抜かれただろう。水葉は笑んだ。その笑みに、主紗は見覚えがあった。

 国境の森、小川の上流。初めて会ったときの冷たい笑み。だが今見せた水葉の笑みは、あのときただ冷たいだけに見えたのに、それより深く深く哀しく冴える。

 だが、主紗に鋭く向けられていた。

 主紗は聞かねばならぬのだ。なのに、この笑みに問いかけるのには、今まで生きた小さなすべての中からその覚悟を振り絞らなければならない。

 その笑みは、そんな主紗の覚悟の固まるのを待つことをしなかった。思いもかけぬことを告げる。

 ただ、静かに。

「小川は、あと半月で流れなくなる」

 その言葉を、主紗は。

 うまく飲み込めなかったから。

 何度も、頭の中でその意味を繰り返すように。

 半月で。

 小川が、

 流れなくなる……。

 意味と捉えるのに、僅かばかりの刻。

「……!」

 返す言葉がない。

 否定するには、この水の霊力者みこ霊力ちからを知った主紗には無意味に思えた。

 主紗の決意も覚悟も、現実うつつの答えには何の役にも立たないのだ。

「何故」

 そう、つぶやくしかない。

「水の意思であり、……すべての意思、だから」

 水葉はまぶたを伏せた。もう、己にできることはない。それを知ったならば、きっと何も……できなくなる。

 己を葬ろうとした男の嗣子むすこにそれを味わわせても、この苦しさも虚しさももどかしさも何も埋まらないのだと、水葉はぼんやりと思った。

 何故、今この事実を主紗に突き付ける必要がある。水の意思は変わらぬというのに。

 主紗は小刻みに己の体が震えているのを感じていた。どこかで、恐れていたこと。

 水の声を水葉が聞くことができるのならば、水の意思がわかるのならば、その答えは予め分かっていたことなのかも知れない。

 この近隣で唯一流れる小さな川。それは皆に需められている。それが何故、水の意思で流れなくなる。

 そのことが恐ろしいのではなかった。怒りにも似たものが主紗の中に湧き起こって渦巻いていて、その出所を失っているようだった。それでも主紗は冷静であろうとした。それが、彼の矜持であるが故に。

「どういう、ことです」

 水葉はただ首を振ることしかできぬのだ。その問いかけは無駄なのだととうの以前むかしに知ってしまった。

 だから、答える代わりに主紗に問いかけた。

「何故雨が降るのか、知っている?」

 大地が、すべてが、生きようと望むからだ。雨はすべての「意思」で降る。すべてが巡り、すべてが生まれ、意思を持って……だから、大地は生きて、すべてがまた巡っていく。

「大地の巡りは、些細なことで崩れる。それをあるべき姿に糺すのが霊力者みこの役目」

 主紗はひとつも聞き漏らさぬように水葉の言葉を追った。

 霊力者みこは、大地の巡りを糺す者。

 水の霊力者みこのその物言いはどこか疲れきったようだ。その理由を、主紗は分かってしまった。

「もう、糺せないのですね」

 水葉はそっとうなずいた。

 主紗の理解の速さに安堵し、息を吐く。少しだけ、気持ちが軽くなったように思う。

「私には、もう。この小川を保つことしかできない」

 それでは、この近隣で流れる唯一流れるという小川は、水の霊力者みこ霊力ちからのためかと、主紗は得心する。

「水は……もう。雨も降らぬと?」

 主紗は確めるように言った。

 その言葉の静かさに、水葉は息を飲んだ。……この男は、このような言い方のできる者だったのか。

「……手立てはあったけれど、もう遅すぎる。大地はきっと、もう生きたくはないのかも知れない」

 大地が生きようとしないのであれば、雨が降っても何も変わらないのだ。

「それは水だけの答えか?」

 水葉の答えに、主紗は尚も問う。

「水は……。でも、おそらく風も火も。彼等の、すべての意思は、大地の意思に従うから」

「大地が生きようとしないとは、どういうことか」

「大地は、……死ぬの」

 水葉にだって分かるはずがない。だって水は何も答えてくれないのだから。ただ絶望が急に降ってきて、それは暗闇に似ている。水葉は漠然とそう思うだけなのだ。

 だから……もう、もがく水の中で手を伸ばしても、どこにも届かない。声も聞こえない。手を差し伸べる何もかもが途絶える。

「貴女は何故、それを『私に』告げるのです」

 水葉は答えられなかった。

 憎む男の嗣子むすこが、心の底から困るのを見たかっただけなのだろうか。否、そんなことをしても、己は満たされぬ。

 ただ、絶望を知るものが、己のほかに、在るのなら。

 その者はどうするだろうか。

 すべてを知ったとき、何もできなくなることを、己はすでに気付いてしまった。

 目の前の男を見て、彼女は、その男が己と違うことを感じて考えたことを知る。

 僅かに震えるその体を己の「意思」で押さえつけ、ただ絶望に身を任せるをよしとしない、その表情かお

 問いかけの答えが、分かった……。

「……貴方に、知って欲しいと思ったから」

 すべてが終わり行くとしても。それならば、それだけでよかったのだと思えるのかも知れないと感じた。

「貴方は、己の意思に従う運命を持つのでしょう」

 水葉おのれとは違う。

 意思を、何より強い意思を持って生まれてこの大地に立っている。

「水葉様」

「私には強い意思などない。それでも、そのように生きるのが霊力者みこ……。貴方はこのまま、戻るがいい」

 彼にできることなど、いくらもないだろう。

 妹姫あすかに伝える。そして……。

 誰かに、何かを求めることは、今はもう遅すぎるかも知れない。それでも、水葉はやっと己の意思に気付いたのだ。

「皆には私から伝えましょう。お行きなさい」

「……貴女はいかがなさる」

「最期まで……御勤つとめを果たします。水の霊力者みことして。私がこの地を離れれば、すぐにでも小川が干上がる」

 それは水葉の「意思」で言える僅かなことだった。主紗に答えられることなど、水の意思ばかりの中で、僅かに、確かに伝えられる己だけの意思。

 主紗は水の霊力者みこの「意思」を知り、だから片膝をついた。水の霊力者みこ、水葉に礼をとる。……いつも、己の首長おびとにするように。

 


 主紗は決して冷静だったわけではない。ただ、そうすることしかできないだけだ。

 昂ぶった感情きもちのままに動くことは、しない。幼い頃から御宮みあらかに上がり、そのまま明日香の従者ずさになった。この何もできぬ身には。

 海辺の国で違う己を見つけた。何も知らぬ己を知った。

 今の己に、何ができる。それはたったひとつしかないのだ。

 主紗は小川の上流へと向かった。山路みちを行けば、途中、海辺の国の衛士の守る関塞せきがある。旅旌たびふだはないから関塞は通れない。見咎められてはならない……。後の惧れは少ないほどよい。

 小川を遡るなら、今から急いでも山間の国の国境くにざかいを超えるころには夕方、御宮みあらかが見える頃には日は沈んでいるかも知れない。鈍く痛む左足を気にしながら、どこまで急げるか……。

 森の入り口で、主紗は振り返った。ここからも海が見える。何も言わずに去る非礼を海辺の民と郷士に心から詫びた。

 踵を返したところで、小川のほとりに笠耶がたたずんでいるのに気付いた。

「……帰るの?」

 さほど驚くようでもなく。今のやり取りを知っているように。それはいつもの明るい笠耶でなかった。

「世話になった。充分な礼もできぬ」

「いいんだ、礼なんてさ」

 笠耶はそういって、楮紙かみに塗ったいつもの薬を見せた。だから主紗は側にあった石に腰掛けた。笠耶は慣れたように貼り替えて、葛布ぬのを丁寧に巻きなおした。

 立ち上がって主紗は左足に己の目方を乗せる。葛布はきつすぎずゆるすぎず、丁度よい。

 笠耶の様子がいつもと違うから、主紗は掛ける言葉が思い浮かばない。世話になっておきながら、気の利いたことを言えぬ己は本当にだらしがないと思った。

「『輝尚』、あんたさ、似てるんだよ、その名の男に」

 そうだ、確か笠耶の国里さとにある名だとか言っていなかっただろうか。

「あれから二十年ちかくは経っている。時が戻ったみたいでさ。どうして海辺ここに来たか知らないけど、やっぱり帰るんだね」

「すまない、……」

「わかってる。巫女様が何か、仰せだったろう? あんたは帰らなきゃ。……時は戻らないんだから、やり直せなくなる前に」

 きっと笠耶と「輝尚」という男には何かがあった。

 それは辛いことで、やり直せないことを知っていて、でも笠耶は今も悲しんでいるのだ。

 主紗はそう思ったから、笠耶に伝えられることがわかった。そっと笠耶の右手を取った。きゅ、と握ると温かさが互いに伝わる。

「笠耶、やり直せなくても、今からできることがあるんだ。そのために私は戻る。時は確かに戻らぬが、代わりに流れて進んでいくだろう」

 そっと握る手を緩める。その温かさは、それでも笠耶の心に残った。

 笠耶を擦れ違うように歩みだした。主紗には戻る場所がある。

 振り向けない笠耶に、主紗はやはり振り向かぬまま言った。

「また会える。だが、次に会うときは『輝尚』にはならぬ。私は主紗だ。……主紗に、また会ってくれ」

「……はい」

 掠れる声で笠耶が答えたのが、主紗には聞こえたか風がかき消したか……。

 そのまま主紗は海辺の国を去った。

 帰る場所がある。

 この大地が生きようとしなくても、生きようとする者たちが在る。

 己が生きる場所がある。

 大地が死にゆこうとしても。

 己の心に刻まれた意思がある。

 その強い意思で、この大地に力強く立つならば。踏みしめるならば。きっと。

 生きる心があるから……。

 どうすればいい。

 どのようにしたい。

 そうだ。

 

 ……ミンナ生キヨウトシテイル。




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