意思
闇の中に光が見えた。
手を伸ばしても届かぬ程の遠くだが、確かにその光は、求めていたものだったのだ。
先のない道程を、僅かな願いだけを支えに。
求めた光は、暖かな橙色。
心がその色に染まっていくのを感じた。
ここに生きる者たちがいる……。
もしかしたらそれは妻である
しかし今宵はことさら……記憶が心の古傷を呼び覚ました。そっと紗鳴の形見に手を触れる。
翡翠の勾玉と珊瑚の破片を
心を通わせ始めた頃、笙木が紗鳴のために作らせてから最期までずっと。
今それは、笙木の平緒の帯にある。
この山間の国でもすでに日は沈み、この国の
正直に言えば、笙木は話し相手が欲しかったのかも知れない。だから、しばらく戻れぬ、と断言された、
断言したのはこの国の
その明日香が、朝の
「酒の相手を頼みたいときにおらぬとは……そういうところは紗鳴に似たな」
もっとも、酒に弱いところもな、と笙木はつぶやいた。仕方なく彼は酒の肴と相手を月に頼んだ。居室の前、
この月の照らす中、
「もう、十六年が過ぎたのだな」
月に話しかける。
月よ、何ゆえ明日香様は……自身の御生まれのときのことを突然お聞きになった。
素知らぬ様子の月に、悪態をつく。お前を知るひとりなのだぞ、と。
「
この国の首長の
笙木は明日香の母、
笙木はその姿に、私は明日香様の問いにどのようにお答え申し上げればよかったの
ですか、と問いかけたが、水姫のその姿は何もいわずに掻き消えた。
その答えを探そうというように、笙木はあの夜のことを……思い返した。辛くなるからと、忘れようとしていた記憶である。
それはあまり……よい記憶ではない。
十六年前のこと。
その頃の笙木は、すべての物事は幸せのために動いているように感じていた。そう、水姫さまの
「生きているから、幸せを感じるのです」
水姫のその言葉、心から戦を厭うていた彼女の言葉を、そうだそのとおりだと、真実に受け止めていた。
その頃の笙木は水姫の
長く続いた戦の痕……黒く焼け焦げた草地や田畑、壊れた土塁や石垣、荒れ果てた民の
「民に生を捧ぐ一族」の
風も火も水も、彼女に同じことを言った。きっと水姫の御子は、誰よりも強い
やがて水姫ははとこにあたる男と結ばれた。
紗鳴もまた、水姫に仕えた
水姫と男とはさんでよく丘や草原まで馬を駆り、草を摘み、また口論もあった。そんな笙木と紗鳴を水姫は楽しそうに見ていた。
少しの諍いにも微笑んでみているから、その行方を見透かされているように感じて、笙木からすぐに謝ってしまう。
その様子を見て、男は頭のあがらないことだ、と言って笑っていた。
笙木は紗鳴の父に迎え入れられ、郷士となった。紗鳴の生んだ男子に、義父は主紗という「名」をつけた。
水姫も男も笙木も紗鳴も民も郷士も、皆が平安を感じていたころのこと。
皆の笑顔に憂いも不安もないよう感じられた。
だが男はあっけなく逝った。
病に倒れてひと月と半ば、それでも水姫に看取られて穏やかな顔で逝ったのだ。
笙木はこのときほど悲しい
喪が明けた後、
だが笙木には水姫が無理をしているようにしか見えなかった。あの柔らかい微笑みが消え、作り物のように頬を笑顔の形に歪ませていた。
その水姫が再び笑顔を取り戻したのは、すでに子を宿していたことが分かったからだ。
やはりそうなのだ、辛いことがあったとしても、また幸せが巡って生きてゆける。これでまた水姫様も幸せを感じられるようになるだろう、そう笙木は思った。
……あの時までは、そう思っていた。
それは御生まれの夜。
他の女官や従者、郷士も
鐘が一度鳴れば男御子様、二度で姫御子様、三度なら
あのお優しい
そう、笙木もその時までは、その一人だった。
笙木は従者として細々と内向きの役目に没頭していた。宴の仕度をする喜びは民に任せ、己は滞りなく事が進むように裏で動くのが務めだと思い、に文机ふづくえ向か
っていた。
周辺の国々に宛てる
燭台の火が消えたのにも気付かず、月明かりを頼りにしてからどのくらいの時が過ぎたのか。
そんなふうだから、家人が所用で庭に入り込んでもその影が
「誰だ」
笙木の誰何の声が自然と厳しくなったのは、かつて戦の陣中にあった片鱗だろう。敵国が宴の際に踏み込むことも、
しかし庭木の陰から現れたのは、ここにいるはずもない紗鳴だった。息を切らしている。
「たいへん……よ……」
「どうしたのだ、紗鳴? お役目は……まだ鐘は聞こえていない。ここに来る暇はあるまい。水姫様はいかがした」
紗鳴はその水姫の命だと告げた。急ぎ参らせよ、悟らるることまかりならぬ、と。
笙木はそのまま訳も分からず夜道を急いだ。煌々とした欠けることのない月がやけに……心に残った。
笙木は近付けるはずのない産屋の傍らに控えた。ここまで先導した紗鳴の姿はすでにない。
「笙木、参りました。急ぎの命とか」
その時……声が。
産声だろう、声が。泣き声が聞こえた。
ご無事だ、ご無事に御生まれになったのだ、と瞬間、
笙木の前に幾重に架けた薄布の向こう、御簾の影から産婆が現れた。その腕に包まれた赤子……。あぁ、この赤子が御子か、と感動が笙木の
水姫の声が産屋の奥から聞こえたのだ。
「お願い……笙木。その子を、……天に返すのです」
笙木は何か信じられない言葉を聞いたようで、頭にその頼みが届かない。
「何を……おっしゃいます、水姫様?」
「天に返さねばならぬ子……」
その時だ。
笙木はおそらく、この時のことを生涯忘れぬだろう。
そのもうひとつの産声を。……明日香の、産声を。
「ま……さか……、御子様は……」
「他言無用です。笙木……その子を、水に託して」
水姫の声も涙声だったのだ。
笙木は産婆から赤子を抱き上げた。
「何故、水に……?」
「
双子は天に返されねばならぬ。
頭で分かっても、笙木はこれ程まで水姫の頼みが辛いと思ったことはない。
そうだ……やけに月明かりが煌々として。……冷たい、光。
笙木は、この時通った道を今でも殆ど使わない。あの時の水葉の声が……聞こえてくるようで、思い起こされて、辛い。
あの道を行きながら、紗鳴の鳴らす三度の鐘を音を聞いた。
川べりに誰も使わぬ古い舟のあるのを思い出して、その舟に水葉を乗せ、舫い縄を切った。舟底に小さくはない穴があるのを知りながら。……風邪を引かぬようにとたくさんの布でくるみ、木札に名を記して。
……無駄なことだと、思いながら。
それでも、その姉姫の名を聞いて、何も素知らぬようにはこの役目を負えなかった。
水姫の母としての……首長としてではなく、母の祈りを感じたのだ。
清か水に流れる木の葉の音。それは沈まない、ということではないか。沈んでは、その音は聞き取れまい。
母の祈りを次に生まれるときも忘れぬようにと……。
しかしそのようなことはありえぬと、笙木も承知だったのだ。
妹姫が、姉姫を転生のための膨大な
ありえぬことを……運命に逆らってでも、明日香はやってのけた。
笙木はいまだにそれを知る由もない。
双子の御子様が御生まれになった直後。唐突に
主紗がまだひとつでしかないうちに。母のぬくもりを知らぬうちに。
笙木は紗鳴を失ったのは殺しの報いを受けたのだと思うことにした。そうすることでしか、悲しみから、嘆きから、抜け出すことができなかったのだ。……否、それが、
しかし。
笙木のその思いは誤りなのだ。
笙木は人殺しなどではない……。
水姫は気付いていた。明日香の、風音の仕業に。
だが、今それを知るのは、双子の姉妹ばかりである。
明日香は笙木に伝えられぬままでいる。
……主紗が水葉に出会ったことも。
当の主紗である。
笙木の文句のとおりに、酒に弱い。
母の紗鳴に似たのだろう。
昨夜のことはうろ覚えの上、二日酔いで朝を迎えた。
昨夜の海辺の
も、主役が抜けようと、宴の盛り上がりに関わりのああるはずもない。
ここのところ、この周辺の国々では旱ひでりが続き、そのために国同士の
主紗の国里、山間の国は
山間の国の近隣では、水の流れる川の残るのは海辺の国のみとなった。山間の国では節水だけでは雨季まで凌げぬと海辺の国から要るだけの水を買っている。
それはだが、表向きのこと。
海辺の国は近隣で随一の
そのひとつに、水不足の解消まで
戦が当たり前の頃から他国の様子を知るもっともたる手立てのため、どの国も必ず他国に
しかしそのような
笙木の殆ど独断で交わされた約定に、山間の国では、笙木派と戦を起こす素振りと多少の攻防で脅してから、有利な条件を公に取り付けようという戦派とに郷士らが二分されつつある。
戦派は国力の落ちる前に仕掛けねばと迫るが、明日香は一歩間違えれば本当に大きな戦になると考えて、笙木の策を取り入れている。
この
山間の国は今、内外ともに、憂慮すべきことをかかえていた。
ところがその渦中の笙木の
主紗は凡庸ではない。不当な侵入だと判る。だが、様子を少しでも知りたい、戻った時に戦を避ける手立てになる何かを知りたいと思った。
何より、己が何も知らぬままに今ここに在ることを思い知ったのだ。
知らぬことは自分で知ることがわかりやすい。
そう、水葉は主紗に言った。
すべてを知った時に、きっと何もできなくなる、と。
それでも主紗は知ろうと思った。何も知らぬよりは。何も知らぬから、何かを知ろうと思った。
海辺の国の民として暮らす
海辺の郷士や民に
……
それで主紗は揮尚となって、昨夜の宴で酒に飲まれ、寝入ってしまったのである。
目を覚ましたのはもう真昼の近い頃合だろうか。苫の片隅の床で、主紗は丸くなって寝ていた。戸板ががたがた音を立てて光を差し込ませたのに気付き、主紗はうっすらと目を開けた。
入ってきたのは酒の席で一緒にいた男。聞いた名を思い出そうとして、頭痛が走る。
「…っ痛つー……」
「よ。いい加減起きようぜ。もう日は真上も近い頃合だ。……あぁ、足の怪我で立てねぇのか。起こしてやるぜ」
男は大股に
たまらない。頭がぐるぐるする。
「頼む……きつい、頭……」
やっとそれだけを絞り出すように声に出す。
「んぁあー? おい、まさか二日酔いかよ? あのくらいで? 一番に潰れたもんなぁ。仕方ねぇ、二日酔いに利くもん持ってくっから、待ってろ」
男は主紗を放り、踵を返した。その動きで筵に砂がかかり、主紗はここは砂の上に立てた小舎で、直に敷いた筵が臥処の代わりなのだと知った。
動かせぬ頭で主紗は周りを見回した。海辺の民が暮らす、
茅と板でしつらえた壁のところどころから僅かに光が漏れて、外の眩しさを思わせる。……よく晴れているのだろう。が、その光は今の主紗には頭痛のタネになりそうだった。
潮の匂いが余計につらい。波の音と僅かな喧騒が耳に届いてくる。
主紗はできるだけ頭を動かさないようにして仰向けになった。額に手を当てて、眩しさを和らげようとする。
動けない自分と、外の音。
ここでは、この海辺の国では、己が動かなくても何もかもが進んでいくのだと、いまさらながらに思う。
山間の国での己を思えば、
幼い頃から、まだ明日香が
そのせいかも知れない、己の行き届かぬところで物事が動いていくことを当たり前に受け取れない。
……ここは何処だ。
……ここは、海辺の国……。
国が違うからではない。己が「違う物事」を知ろうとしなかった。知る必要がなかった。
そう思うと、主紗は何か小さな痛みを感じた。切ないような、哀しい苦しさ。知らぬことを知るとは、痛みを感じるのかも知れぬと思った。
酒は、向かぬ。
夕べは……あれほど飲むとは、己ではない。
違う己が、心に生まれたのだ。
きっと、この国に来たときに。
戸板が開く。聞こえた声は、笠耶と、先ほどの男。……名前が思い出せぬのは、二日酔いのせいにする。
「揮尚、あんた、酒に弱いんだねぇ。ほら飲みな、頭に利くらしいからさ」
主紗はそっと体を起こしてみた。崖から落ちたときの痛みは少しずつ抜けてきているように感じた。残ったのはあちこちの擦り傷と捻った左の足首の痛み。もっとも、代わりに頭痛が増えたのだが。
差し出された木椀には、なにやら見たことのないようなきつい
「疑ってるな? 本当に利くんだ、俺も飲んだが、かなりのものだぜ」
そう言って、男は一気に腹にいれろと大きな身振りとしぐさで飲むしぐさをする。なんだか余計に怪しいとようにも思えたのだが、主紗にはあまり細かなことを気にする余裕がなかった
木椀を受け取り、良薬とはこういうものだろうと男の勧めるように一気に腹におさめようと……した。が。
「!!!」
二日酔いにぼんやりした頭と感覚が急に目覚めて、毒でも飲んだように戻そうとした瞬間、男に押さえつけられて、笠耶に無理に口に注ぎ込まれる。
「一気に飲まねーからまずいんだ、コイツはッ!」
「全部飲まなくちゃ、利かないよっ」
あまりの味と唐突に押えつけられたのとで、わけのわからないままかなり暴れた主紗だったが、抗うことかなわず、完飲。
後味の悪さと腹がたぷたぷして気持ちの悪いのとで、なんだかぐたりと横になるよりない主紗である。
「暴れるから衣についちまった。世話のやけるね、まったくさ」
「
「まさか、迎え酒なんか飲めるもんか、あんたと違うよ」
主紗は横になりながら、自分をだしに争われても困る、なんとか声が出したかったが、頭どころか、腹に響きそうで、とりあえず聞いているよりない。
「とにかくしばらく預けるよ、あたしは巫女様のところに行くんだ」
「あぁ、頼まれた。揮尚、当分ここに寝泊りしていいぜ。俺は独り身だからな、充分だろ」
「……あんたんとこに、ずっとかぃ?」
「何だ? お前のところよりいいだろ、
主紗としては
民の暮らす
かといって
笠耶の気遣いはありがたいが、こればかりは無理を言えない。
「……こちらに厄介になるが、よいか」
主紗は頭を押さえながら声を出した。そう何日も、この国にいるつもりもない。
「な、決まりだ。行けよ、巫女様のところ。お待ちだろうよ」
笠耶は主紗を置いていくのに不安そうな顔をしたが、あまり心配しすぎてもおかしいと気付いたか、目で主紗にいいの? と合図を送っているようだった。
主紗はそれで、うなずく代わりに目線で笠耶に行くように促した。……いつも
笠耶としては意識せずにそんなしぐさをする主紗に不安を感じている。そして僅かな好もしさも。
きっとそんな目配せなど、ここでは
だがそれは
「
笠耶は胸に痛みを感じながら、そのことに戸惑いながら、取って付け加えたように言い置いて出ていった。
その様子を見て、男は思い当たったようである。
「心配されてんなぁ……? よぉ?」
「? あぁ、笠耶は世話好きだな……」
鈍い、かも知れない。
だが今の主紗の問題はそこにないのだから仕方ない。
先ほどの薬とは思えないような汁物のおかげか、いくらかましになったように感じて、ともかく居住まいを正した。
正したところで、顔を洗う水が運ばれるわけでも、朝餉が運ばれるわけでもないが、それでもそれは身に付いた癖、としかいいようもない。
だが男は気のいい人物らしく、手を差し出した。
「歩けないんだよな、ほら」
「すまない。……ついでのようですまないが、酔いのせいで名を忘れた」
男は呆れた顔をする。
「……笠耶を覚えてるくせにな。俺は
遠波は笑いながら言った。その遠波に、主紗は親しみと、確かな存在を感じた。そして寛さと、強さと。
それは主紗に持ち合わせないものだった。主紗よりも十は年を重ねているだろう遠波は、よく日に焼けて逞しい。
郷士として生きてきた主紗は、民をあまり知らない。両者がどこか違うものであるという感覚があるのを否めない。
だが、主紗は遠波に親しみを感じたのだ。
兄弟のない主紗は、遠波に、兄のような存在を感じた。遠波は頼れない、頼ってはならない、そうしてすごしてきた主紗の頑なな気持ちにするりと入り込んだのだ。それは主紗の気付かぬうちに。
明日香は丘に来ていた。
遥か遠く海を見渡す丘。
山間の国で海を望む、ほどんど唯一の場所。
主紗の登殿がないせいで、
……やはり、ここがいちばん「風」を聞ける。
「ここを降りられるなら……海辺に行けるのだな」
明日香は誰ともなく……いや、愛馬の白夜にだけ、つぶやいた。
「行けぬほうが良いこともあるかな。この眺めの良さは、海辺の誰も知るまい」
濁りのない透明の風も、明日香だけのもの。
風は自身の知らぬ間に、人の「意思」を運ぶ。風だけの声を聞くには、できぬわけではないが人里離れた方がいい。
……だが、その透明な風も、水葉の心までは届けてくれない。
水葉の使う水が、拒んでいる。
風は、その水葉の意思に勝てぬ。風を使う明日香の「意思」が、水葉の拒む「意思」に負けているのだ。
水葉が強く明日香を拒む「意思」が、明日香が拒まれたくない「意思」より強い。
明日香は当然だと思っている。拒まれても仕方ないと思う。
水葉の「運命」を変え、すべての「意思」に背いた。
……その己の「意思」は、狂っているのだろう。
そう考えることこそが、明日香の「意思」を弱めている。人里離れねば「風」を使うことができぬほどに。
だが、明日香はそれに気付くことはなく、ただ水葉に会えば何かが起こるような気がしているだけだった。
かすかな予感。
この
二人は、双子だったのだ。
互いを分かつように生まれた存在。
もしかしたら……それは、今この時のために初めから
そんな、埒も明かない錯覚を起こしては、明日香は己の都合のよい考えを嗤う。
……だが、すべての「意思」というものは、明日香が気付くことなく、気付かれるはずもなく、すべてを動かしてゆくのだ。
水葉は
国境の近くを流れる、小川がある。
主紗に出会った場所。
今、水を確かに流す川は、この
この小川は曲がりくねりながら両国の国境の近くを流れて、さらに大きく海辺の集落むらから逸れるようにして
本来なら
の、暮らすための水には足りない。
大川が水を流さなくなり、海の波が遡るようになった。小川の水が流れているとは誰も思わなかった。
……一度干上がった小川の水が、再び流れ出すとは。
旅の巫女、水葉がこの海辺の国に来てから、小川の水の流れが戻った。
巫女も
海辺の土地は、掘っても井戸にならない。出るのは、塩水だからだ。明日からの飲み水をどうするのかというところに「巫女」と名乗る
水葉はこの国に来てから毎日、一、二度はこの国境に来る。誰も近付かない、林の奥の国境に。
彼女は来なくてはならない。
この「
水葉はそっと流れに手を浸した。
水が見たことも知ったことも、こうして手が水から聞きとる。水の声を聞くことができるのは、この両手だけだ。何故か、足やほかの体のどこも、いくら浸して聞いてみようと呼びかけても、水の声を聞き取れないのだ。
それは「
その己の両手で、水葉が知ったことは、いつもと同じ声だった。
水には、雨を降らす「意思」がない。
何度、何故、と問いかけても……水は一度も答えてくれない。
それでも水葉の願いに応えて、この
歯がゆくて、いつも思う。
「水は失うと大切になる……」
揺れる水面に映る己を見ながら、思わず声となった。
未だ見ぬ
転生するための
憎む気持ちは、ある、と思う。
明日香は、すべてを狂わせたかも知れない。双子を天に返す
そして、そうしておきながら、彼らはそれに気付くことはない……。
明日香は苦しんでいるのだろう。笙木も、心に傷を負ったままなのだろう。
だから、会うまい。
闇を抱えた
それを及ばぬところから見知っていられればいい。
その国の行く末を。
わざわざ会って、憎しみをぶつける必要もない。
憎しみを、
いずれ時が経ち、起こったことが飲み込まれてかみ砕かれて、和らいでゆくのならば、その始まりは感情をぶつけた時なのだろう。
ならば、闇を抱えた者たちに、そのもつれた糸をほぐすきっかけの端を与えることはない。
手の届かぬ暗闇に落ちたままの糸でいられるならば、どんなでもいい、この生を生き抜くのだ。
いつも、見ていた。
己の生まれた国を、見ていた。
己を水に流した男が、妻を失うのを。
己に生を与えた
己を生み落とし、
そして、女が……母が転生の旅路へと向かうのを。
妹姫が
やがて国を統べる難しさを知り、民に捧ぐ生を嘆き、
己に、会うことをずっと待っていることも。
いつも、見ていたのだ。
……虫の良い、都合を。
「水」は、そう、確かに、……失うと大切になるものなのだ。
だが。
本当は、己が生まれながらの
己が「本当の
「私は……無力だ」
水が大切なことは、誰よりも知っている。
穴のある舟に揺られた赤子を掬い上げ、新たな生となってくれたのは、水なのだ。そして何も知らぬ旅の夫婦に己を預けた。
知っている。だけど、何もできない。
……すべてを知ってしまったときに、きっと何もできなくなる。
水葉はそう、主紗に言った。
すべてを狂わすことは、許されることだったろうか。
「意思」は、変えられぬはずなのに。
水が水葉の両手に伝えたのは、山間の国の
きな鉢が据えられている。
鉢に張られた清か水が見た景色は平生のままで、だから水葉が、明日香がまだ「本当にすべてを狂わせてしまったこと」に気付いていないのだと、落胆する。
水葉はまた、水にいつもと同じことを聞いた。
「水よ、なぜ風は明日香に何も教えない」
(……風の「意思」でしょう)
「
(風の「意思」をどう感じて知るかは、
聞き分けられぬならば、それは
それは水葉も重々承知のことだった。だからこそ、苦しく、哀しい。
「……私に
この問いかけにだけ、水ははっきりと答えた。
(いいえ、水葉。あたなは確かに
「ならば、何故……?」
水は水葉の問いの続きを察して、答えるのをやめてしまった。
水葉は哀しくなって小川に浸していた両手で、己の体を抱えた。ひんやりと冷たくなった手が温もりを忘れたようだった。だが、それを抱え込んだ己の身の内は、もっと冷めた心地がする。
ふと草むらの動く音に振り返ると、うさぎがこちらの様子を窺っている。その小さな瞳。
生あるすべてが今頼る水は、この小川にしかない。
……なのに、ここにはすべての答えはない。
主紗はいたって暢気に過ごしている。ここでは、揮尚である。
早瀬に用意してもらった朝餉は、今朝の遠波の獲物だという。栗のいがのような生き物で、中身を五穀やひしお、みそなどと合わせて煮込んだらしい。
「これはなんだ? 見たことがない」
早瀬が煮炊きの小甕から装った木椀と匙を受け取りながら主紗は聞いた。柑子色のかたまりのことだ。
「これがさっき見せた
隣に座り込んだ遠波が籠に盛られた枇杷やら
「夕べの宴にあまり並んでなかったからな。わざわざ潜った。すもぐりは早瀬の方が得意だというのにな」
「髪が塩っぽくなるからさ。川が狭い間はあんまり潜りたくないんだよ」
「……水浴びがだめなら、砂を浴びておけ」
「ちょっと! あたしの髪、なんだと思ってんの?」
二日前まで潜ってたんだぞ、と遠波はこっそり主紗に告げ口をした。早瀬は豊かな髪をしている。
だが、早瀬の気持ちに主紗は関心がなかった。
目の前に広がる、海。
海辺の国は水に余裕があると思っていた。だが、実のところは「水の流れる川」は小さな川でしかない。主紗にはその流れはいつ干上がってしまってもおかしくないように思えた。
だがよく考えれば、海はこんなにも多く、水を湛えている。塩辛くて飲めないと話に聞くが、今主紗がすすっている汁も塩で味をつけているわけで、だいたい秋の収穫のあとには、野菜を塩漬けにしておくものなのだ。
「聞くが、海の水はそんなに塩味なのか?」
遠波と早瀬はまず顔を見合わせた。その次に、大いに笑った。
「揮尚、おまえさんは
「し、塩味……っ。なんだが珍しい言い方だね、海辺の連中は絶対言わないよ」
その二人の笑いぶりに、主紗は耳まで赤くなった。
そんなに愉快なことを言ったつもりはなかったのだ。
山間の国では塩は高価だ。月に一度の市に塩を求めて、山ほどの野菜や米を馬や牛で運んでも、塩の麻袋を懐に入れて帰るほどである。それでも、特に夏には味付けを濃くしないと病を得るというから、皆高い取引でも応じている。
主紗もつい先ごろの市では、いつもより高値がついていて、悔しい思いをしたばかりだった。
主紗はあまり武芸に秀でていないが、それでも同輩なかまや笙木と
大きなことで言うことでもないのだが、弓は不得手だ。
弓は
ところがその日、主紗は大物に巡り合った。猪である。獣道で向かい合ってしばし、突進してきた大猪に二矢、身躱しざまに短剣で仕留めた。
だがその初めての大物は、市でたった一袋の塩に代わった。
それを思いながら主紗は海辺で汁物は海の水を使っているわけではないのかと思い当たった。
笑いが収まってから、遠波も早瀬も教えてくれた。
「海は塩味じゃない。塩辛いが、ちゃんと海の味をしてる」
「塩は海の恵み。海が塩をくれるのは確かなの。でも、海の味は、……陽射しの味、かなぁ」
早瀬は砂を掬った。手のひらからさらさらこぼれる砂は、山間であまり見ない白砂である。
陽射しの味それがどんなものか、主紗には推し量ることができなかった。だが、この
「揮尚は、
それくらいなら、答えてもいいだろう。柔らかく優しいものを胸に抱えながら、主紗は言った。
「あぁ。だから、海を知らない……」
「そうとう、遠くの
「そうだな、海は、空までも……海だ」
「どれだけ沖に出ても、海は空に続くの。だけど、ずっと海の道を行くと、夕日の先があるんだって」
「夕日の先? 空にも、道があるのか。笠耶が、海はどこまでも行ける道だと言っていたな」
早瀬は困ったように言った。よくは知らないのだと。ただ、山の道は、道のある所しか行けないから、と。
それは、決められた道、ということかも知れないと、主紗は思った。……では、人の行く道は。
幼い頃、山で迷って戻れず、泣いていたのを連れ戻しに来た笙木の言葉を思い出した。
……道を行かぬからだ。道は行くべき先がある。迷わぬように、心に決めて行くのだ。道の末に求めるものがなくとも、振り返ればよい。己の来た道があるだろう。
幼いながらに、その言葉を心に刻んだ。もう迷うまいと、己に言い聞かせた。意味の分からないなりに。多忙な父を煩わせまいと。
だが、この言葉は……人の道は、決められている道だというのか。
我知らず主紗は砂に置いていた己の手を握る。
次の
ざあッぱぁー。
主紗は雨も降らぬのに、突然濡れそぼった。
顔を上げると、雫のしたたる甕を抱えた遠波が笑っている。
「どうだ、海の味は? しょっぱいだろ? やっぱり飲むのがわかりやすいんだろうが」
主紗はこのふいの攻撃に口と目に海の水を含んでしまった。目がしみる。後味も、よくない。おまけに、治りかけの擦り傷がひりひりしてきた。
呆然とする主紗に代わって、早瀬が怒鳴り返した。
「私まで濡れたよっ。どーすんのっ」
遠波は笑うだけだ。
「この陽気だ、すぐに乾くさ。しかしおまえも食い意地はってるな。とっさに煮炊きの蓋だけ閉めて」
早瀬はむくれた顔をして、せっかく上手く炊けたんだもの、とつぶやいた。
なおも続きそうな掛け合いに、主紗はなんとか割って入る。たしかにこの陽気、乾かない心配はないが、海辺の
いて山間の国に戻るのが遅れてしまうというのは困りものだ。
「あの、何か布巾ぬのでもないかな」
「心配すんな、砂浴びしようぜ。俺も水を被ったしな」
聞き慣れない「砂浴び」という言葉に、主紗は首を傾げる。砂浴びも初めてだろう、と遠波は手を出した。
浴びに向かないのだという。それで主紗は遠波に連れられて舟溜りへ向かった。
途中、主紗は遠波の手を離れて一人で左足を踏み込んでみた。痛めた左足に少しずつ己の目方を乗せていく。
痛みが鈍く残るが、なんとか立てる。長く歩くには目方の移動にまだ左足が耐えられそうにない。それでも、ずいぶんと良くなっているのがわかった。
「だいぶん良くなったんだな。笠耶に杖でも作れと言われていたが、仕事がひとつ減った」
ずいぶんと笠耶には気に掛けてもらっている。後で、よくなってきたことを伝えようと思った。
「笠耶にはかなり面倒をかけているな。何か礼をしたいが何が喜ばれるだろう」
「へぇ? 笠耶に礼、ねぇ?」
おもしろそうな遠波の物言いと眼差しがすこしだけ気になる。
舟溜りのそば、白い砂の上で、二人は足を止めて腰をおろした。膝をたくしあげる。主紗はとりあえず、真似をしてみる。
「濡れたところに砂をはたいてつけるのさ。腕もな。頭はやめておけ。早瀬の言うとおり砂浴びに向かない」
そして、遠波は寝転んで背中を砂につけた。
「……? そのあとは?」
「寝とけ。しばらくしたら、砂が乾いて勝手に落ちる」
そういわれて、遠波に倣って、寝転んでみた。
二人の真上を流れる雲は、山間の国へと行くようだった。雲を運ぶ風は、明日香様も元へ届くだろうかと考え、目覚めてから初めて明日香のことを思ったと気付く。己の身が山間の国にあるなら、それは有り得ないことだった。
「揮尚? なんだかおまえは黙っていると、どこかに心が離れているな」
何も話さなくなった主紗に、遠波が話しかける。
「……遠波は、そういうことはないのか? 己のこと以外に、思いが飛ぶことは。……そして、己の手ではどうにもならぬことに気付く」
話題はいつしか、男同士の語らいになっていく。
「どうにもならねぇことな。そうだな、ほかの奴の心……は、どうにもなんねぇなあ。どうにも気付かない女とかな」
「そうだな、だが女は分からぬ方がよいこともあると思うぞ。早瀬などは怒っていても楽しそうだっただろう」
あれはじゃれたいのと、照れ隠しだ、と遠波は笑った。堅物の主紗と違って、遠波はわかっているらしい。
「早瀬は海の夕日の話をしてくれたが、遠波が来ると態度が急に変わったな」
「そういうもんだ。俺にはいい顔できなくても、昨日今日の付き合いのおまえには、いい女でいたいんだろ」
だが、悲しいことに、主紗は早瀬の女心を探ることに深い関心がなかった。
「なぁ、沖から見た、海の先は……入り日の先は、どうだ?」
問われた遠波はその情景を目の裏に描くためか、目をつむって答えた。
……どこまで行っても先がある。入り日を追っても、届かない。だが、その夕日の先にはきちんと先がある。
「夕日の先に……何か、あるのか?」
その問いかけに、遠波は体を起こした。そして乾きかけの砂を手で軽くはらった。ぽろぽろと落ちる。
「ほらな、ちゃんと乾いてるだろ。暇ならこのままごろ寝して乾かすが……おまえが仕事を作ったからな」
仕事? 笠耶が頼んだという杖のことだろうか。聞き返しながら、主紗も起き出して砂をはらった。
「おぉよ、夕方は
立ち上がる遠波。
「夕日の先は、暗闇さ。その先で海が荒れ狂ったりしたら、命がいくつあっても足りないぜ」
遠波は海を見つめて言葉を続けた。
「夕日の先……に続く道は、その暗闇の先、ということだ。漁に出るくらいで見えるものじゃない」
「ではどうしてだ?」
「入り日に続く金色の道を、近くで見るのもいいだろ。……あの輝きが夕日の先を信じさせる。今のところ、俺はそれでいいのさ」
山間の国では、郷士たちが急ぎの
つい先ほどのこと、山間の国のさらに奥にある小国から
その王書の内容のために明日香は
奥津の国は、海辺の国が
今、両国の
奥津の国は小国故、山間の国に何かがあったとき、……例えば海辺の国に攻め込まれたとき、いちばんにその
海辺の国に手をこまねいている山間の国に申し立てるその意図は、進言、いや懇願に近いだろう。
奥津の国は大きな
どの国も、奥津の国の
そのため今も山間の国の
万一のときのために、海辺の国と繋がりを持っておきたい、そして山間の国にも礼をとり、これまでどおりの絆を保っておきたい、奥津の国の考えはそんなところだろう。
そして山間の国に礼をとる限りは、国力の充実を手助けする「
奥津の国の
奥津の国の品々を「山間の国を通じて」海辺の国と
もちろん海辺の国に着く頃には間の取引で値が上がってしまうが、そもそも海辺の国から買う水が高いのである。また、それなりに値を落として国から出すつもりだという。
山間の国の利点は多い。
今、海辺の国には
奥津の国の提案を飲めば、
奥津の国の狙いもはっきりしている。両国との
山間の国の利点はともかく、他国が関わる大事である。
「……皆様の考え、伺いたい。いかがか」
一人が口を開いたのを合図に話し合いになるのが常だ。
「笙木殿にはずいぶん都合の良い話ではないか」
「ここで嫌味を言うことに意味はなかろう。奥津の国の
奥津の国の
「小国故、
「そういえば
「いくつもあるようですが、このままではいくらも持たぬようです」
「……それで今さら海辺の国に従おうというのか。なんと勝手なお考えか、かの王は」
ここまで黙っていた明日香が、その言葉に声を張り上げた。
「一国の王に、何を申す!
明日香が激昂するのを初めて目の当たりにした郷士たちは、その勢いある言葉に息を呑んだ。
日ごろはこの程度の言葉の応酬はあり得ることだし、明日香も多くはないが、たまの臨席で分かっているはずである。
笙木もこのくらいの言葉が出なくては、
そのために、明日香の急な激昂に取り成す時機を失ってしまったのだ。
場が沈んだ。固唾を飲み、誰も動けなくなることしばし。どうにかできるのは、当の本人である明日香である。
「……続けよ。いずれにしても他国を揺るがす
明日香は乗り出していたその身を
「……この奥津の国の提言、我が国にも利点が多いが、敢えて問う。何か欠点など隠れてはいまいか。なくば、でき得る限り受けるが得策かと考えている」
笙木の言葉に、ほかの郷士たちも、会合を元の様子に戻そうと発言する。
「断る理由もとりあえずはあるまい」
「いくら急ぎの
「うむ。欠点といえばかの国が……」
戦派の郷士たちも、悪くは言わない。山間の国に旨みのある話であるのは確かなのだ。
後は、退屈な常にある
明日香にとって、後に
僅かに御簾を揺らす風に、耳を傾けた。
さすがに今は心を凝らす気にはならないから、風の伝えてくる「景色」はほとんど見えなかった。それでもかろうじて、声を捉えることができた。
それは風の声ではなくて、風が連れてきた声。久し振りに聞く那智の声だった。
奥津の国では、父方の家で子を育てる
那智も「民に生を捧ぐ一族」の
民のために、その
己のためにその
民のために生きる、その生が、どこか紛い物のように感じてしまう明日香にとって、那智は唯一その
だから、明日香がらしくもなく皆の前で激昂したのはこの那智のためである。
実は数日前に、那智は一度風に声を乗せてきた。
それで明日香は、初めからそれを受け入れるつもりで
そう……明日香には、決めたことがあるのだ。
会うのだ。双子の姉と。
通り名は水葉。
明日香は生まれるとき、どうしてか意識があった。
それが、本当に自らの「意思」だったのかどうか、もう定かでない。
それでもその意識は、
己の転生する
それを教えたのは、風。応えたのが、水。
そう、風が己の「意思」を作った……。
風に聞くことができずにいることがある。
だけどそれでも。会うのだ。今度は己の「意思」で会うのだ。
民の「意思」と風を繋ぐ「
己が、私であるという「意思」で、会いたいと思う人がいる。……ただ、それだけのこと。
那智はとても大事なことを明日香に教えてくれた。
那智は
の声を聞いてかすかに動かすことはできても、雨雲を呼ぶことはできない。水を通じて水葉を知ることができるほどの
だが、奥津の国は「巫女の国」で、那智はどうやら巫女としては優れていたようだ。
巫女は
民や、知らぬ者には「神」の声を聞くなどと思われているが、風や水のほか、いろいろな声を聞く。だが、
那智にはそれに耐えるほどの体力も
那智ならではの思いつきで、ずいぶん器用で繊細なことをする。明日香はこの手立てを聞いたとき、己にはできぬと思った。
それはつまり、明日香にとっての「風」をただの己の手助け……「道具」にしてしまうということなのだ。
風の声はとても強い。風は確かに尋ねれば、他の声も教えてくれる。だが、それは明日香が聞き取っているだけで、風が助けてくれているわけではない。
那智は明日香の使う風よりも、水の声を確かにとは聞こえていないから、その恐ろしさを感じていないのかも知れない。奥津の国で巫女として生きることを迫られた那智にとって、声を聞くことがいちばん必要なことで、その手立てはどのようなことでもよかったかも知れない。
僅かながら
ところが近頃、那智は
……水が、何か「他のものの意思」で動いているみたいで。まるでもっと大きな意思に流されているように感じるのです。水がほかの「意思」で動く気配とでもいうのか。感じても、知ることができなくて。まるで他に
……それに、水に何故雨雲が来ないのかいくら訊ねても、少しも教えてくれない。水が、何かを拒んでいるみたいに。
那智は、水に拒まれてしまえば、風の声を聞く手立てを失ってしまう。今のところ奥津の国の他の巫女が、忘我して風の声を捉えることができているが、それでも那智
よりもはっきりとした声を聞くことはできぬらしい。
明日香は風に聞いてみたが、
(水のことは
やはりそう言うだけでわからなかった。
だが、明日香には心当たりがある。でもそれは那智には言えぬことだった。
水葉だ。水葉の「意思」が、水に伝わっているから。きっと水葉が、風を拒んでいる……。
明日香は笙木の言葉を思い出していた。
……運命など忘れても、大切なものがある。
笙木がそう言ったとき、その通りだと思った。己の「意思」にとっての「大切なもの」。そのために運命など忘れてしまっても。
だが、それはこの山間の国の首長として言えない。
奥津の国から一昼夜、馬を駆るのはかなりの強行だという。とるもとりあえず那智を出迎えれば、顔も
「民に生を捧ぐ」ことは、己を殺すことだ。那智は己よりもしっかりしていると明日香は思った。
明日香は、
……雨雲を呼びましょう、明日香様。
明日香には、それが本当に正しいことなのか分からないのだ。大切な人を、大切な国を、大切なすべてを守ることは、そんなにも己を失うことなのかと。
だが、それももう、どうでもよいことに思えた。
明日香は決めてしまった。
どこかに始まりがあるとすれば、それは、水葉に会うときのこと。
……否、すでに始まっているのかも知れない、主紗が水葉に会ったときに。
それが運命というものであるなら、
明日香が今、自ら行こうとする
退屈な会合が続いている。
急に風が通り抜けて、明日香の御前まえの御簾を巻き上げた。
明日香はとっさに顔を背けた。
そう思ったら、一気に
ただしもちろんのこと、細かな
郷士たちは、その旨を
そして
ざわざわと
笙木もまた、
そして明日香が激昂した理由を那智様のことかと、思い当たる。
つまり笙木が言い出さずとも、奥津の国の「進言」を郷士たちに受け入れさせるように、演じて見せたことが半分。そして那智様がこの
明日香様と那智様の間に、なにか「都合」があったということだろう。
笙木は明日香が何かに思い悩んでいることが分かっていた。何か己に隠し立てをしていることも。
だがその内容は見当のつかない。
今のことも、主紗のことも、何か関わりがあるのではないかとは思う。だが、明日香が聞くなというように避けているのも確かで、だから追求できないのだ。
このようなとき、主紗がいれば
「……何をやっているのだ、
思わず笙木は愚痴を声に出した。
笙木は苦笑いして、なんでもない、と手を降った。そうして、軽く息を吐く。
これから、この国はどこへ行くのか……。
暗闇に迷うような心地で笙木は思った。明日香様も、郷士も、民も、今を憂いている。だが、その答えは憂う
……生きているから、幸せを感じるのです。
ふいに、水姫の言葉が笙木に突き刺さった。生きているだけでは、幸せになれなかったのです、と笙木は言いたかったかもしれない。
幸せは生きている者が皆、そうありたいと願っているはずだった。己にでき得る限りを生きていける者は、なんと幸せなことか。
そうだ、憂うだけでは。
憂うだけでは、手にしていたものを、いつかすべてこの手からこぼれるように失っていくのだ。それを笙木は身に染みて知っていた。
幸せがまた巡ってくるなら、そのときはこの国が、皆が、また憂うことを忘れるのだろう。
いつかの月を、笙木は思い出そうとする。あのとき通った道、水葉を抱えながら見上げた月。
それは、つらいときに思う月だ。あのときほどつらいことはない、ということを確かめるために。紗鳴が死んだとき、その報いだと思ったように。
だが今、あのやけに冷たく煌々とした月が、ぼやけて思い出せない。何か、淡い月だったように感じて。
きっと先ほど、風が御簾を巻き上げたときに、明日香様が泣いているように見えたからだろう。
……それとも、今はさほどつらいわけでもないからだろうか。
笙木はふと立ち止まる。従っていた伴人たちが合わせて片膝つくようにその場に控えた。
「馬を駆る。来い」
振り返った笙木は言い放つと行ってしまった。
笙木は久しぶりに通るつもりでいた。あの時の道を。あの道が、これからの始まりのような気がする。
すべての運命を決めた道だと知らずとも、笙木はどかでそれを感じたのか、「これから先」をその道に求めた。
……暗闇を迷う道でも、一筋の輝きが道となる。
笙木が幼い頃、誰かがそう言ったのだ。
誰かが……、海の先で。夕日の先、暗闇の先で。
笙木が生まれた、ここではないどこか遠くの先で。
そしてすべてそこへ続く道が輝いていることはまだ誰も……、笙木自身も知らなくとも。
輝きの先を誰もが求めている。
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