意思

 闇の中に光が見えた。


 手を伸ばしても届かぬ程の遠くだが、確かにその光は、求めていたものだったのだ。

 先のない道程を、僅かな願いだけを支えに。

 求めた光は、暖かな橙色。

 心がその色に染まっていくのを感じた。


 ここに生きる者たちがいる……。



 笙木しょうきには、忘れられぬ記憶がある。

 もしかしたらそれは妻である紗鳴さなる戦場いくさばばで失った時の悲しみよりもはっきりと思い出せる。

 しかし今宵はことさら……記憶が心の古傷を呼び覚ました。そっと紗鳴の形見に手を触れる。

 翡翠の勾玉と珊瑚の破片をしろがねの拠糸に通した手纏たまきは、いつも紗鳴の左手首にあったものだ。

 心を通わせ始めた頃、笙木が紗鳴のために作らせてから最期までずっと。

 今それは、笙木の平緒の帯にある。

 この山間の国でもすでに日は沈み、この国の筆頭郷士いちのごうしである笙木は邸宅やしき居室へやにひとり、酒をあおっていた。

 家司けいし伴人ともびとら、家人けにんをすべて下がらせ、燭台しょくだいもつけず、酒だけではと気を利かせたつもりの侍女まかたちが肴を持ってきたのを無言で追い返したきり、そこには誰も近付けない。

 正直に言えば、笙木は話し相手が欲しかったのかも知れない。だから、しばらく戻れぬ、と断言された、嗣子むすこ主紗かずさが頭に浮かんだ。

 断言したのはこの国の首長おびと明日香あすか

 その明日香が、朝の会合はかりごとの前に笙木を呼びたてて伝えた言葉に感傷的になっていたのだ。

「酒の相手を頼みたいときにおらぬとは……そういうところは紗鳴に似たな」

 もっとも、酒に弱いところもな、と笙木はつぶやいた。仕方なく彼は酒の肴と相手を月に頼んだ。居室の前、廂間ひさしのま掖月わきづき瓶子へいし、盃を持ち出し、夜空を見上げた先の月は……あのときの月だと、気が付いた。

 この月の照らす中、御宮みあらかへと、神殿かむどのへと急いだのだ。

「もう、十六年が過ぎたのだな」

 月に話しかける。

 月よ、何ゆえ明日香様は……自身の御生まれのときのことを突然お聞きになった。

 素知らぬ様子の月に、悪態をつく。お前を知るひとりなのだぞ、と。

真実まこと」を知る者はあまりに少ない。当然、明日香自身も知らぬはずのこと。

 この国の首長の出生おうまれに立ち会った者たちが口を噤んだのには、理由わけがある。……何よりも望まれたはずの霊力者みこ様が御生まれになったというのに。

 笙木は明日香の母、水姫みずきに思いを馳せる。亡くなって六年が経つが、彼の思い出したその姿は、なくなる前の床に伏した姿ではなく、明日香が生まれた晩のものだった。

 笙木はその姿に、私は明日香様の問いにどのようにお答え申し上げればよかったの

ですか、と問いかけたが、水姫のその姿は何もいわずに掻き消えた。

 その答えを探そうというように、笙木はあの夜のことを……思い返した。辛くなるからと、忘れようとしていた記憶である。

 それはあまり……よい記憶ではない。



 十六年前のこと。

 その頃の笙木は、すべての物事は幸せのために動いているように感じていた。そう、水姫さまの霊力ちからが及ぶ限りは、何も悲しむことはないと。辛いことがあったとしても、戦も起きず、愛しい者たちが生きていることが何よりもそう思わせていた。

「生きているから、幸せを感じるのです」

 水姫のその言葉、心から戦を厭うていた彼女の言葉を、そうだそのとおりだと、真実に受け止めていた。

 その頃の笙木は水姫の従者ずさだった。側近もとこの者たちの中でもとりわけ信頼を得ていることは自負するところでもあったし、周りの者たちから見てもそうであったろう。

 長く続いた戦の痕……黒く焼け焦げた草地や田畑、壊れた土塁や石垣、荒れ果てた民のいお、そういったものは次第に姿を減らして、をむらを包んだ悲しみも嘆きも諦めも憤りも、それはそれとして飲み込まれて噛み砕かれて、再び幸せを紡ぐために生きてゆこうと誰もがそう動き始めていた。

 周辺まわりの国々は霊力者みこたる水姫を盟主あるじとして同盟きずなを組んだが、それは実際には山間の国に従うという危うい「形」で平安が保たれていた。だが水姫はその実情を見誤ることはなく、またその性格からか、決して支配しようとはせず、同盟を保つ鎖としても役割を果たしていた。

「民に生を捧ぐ一族」の霊力者みことして、水姫は風を聞き、火を見つめ、水を知った。受け名は水である。

 風も火も水も、彼女に同じことを言った。きっと水姫の御子は、誰よりも強い霊力ちからをもって生まれてくる。

 やがて水姫ははとこにあたる男と結ばれた。一族うからの血を絶やさぬよう、それは二人には後からついてくるもので、互いが互いを求めて愛しみ育んだ気持ちが、笙木にはよくわかった。傍らで二人を見てきたこともあったが、彼にもまた大切な人ができていたから。

 紗鳴もまた、水姫に仕えた女官まかたち筆頭郷士いちのごうしの娘だった。

 水姫と男とはさんでよく丘や草原まで馬を駆り、草を摘み、また口論もあった。そんな笙木と紗鳴を水姫は楽しそうに見ていた。

 少しの諍いにも微笑んでみているから、その行方を見透かされているように感じて、笙木からすぐに謝ってしまう。

 その様子を見て、男は頭のあがらないことだ、と言って笑っていた。

 笙木は紗鳴の父に迎え入れられ、郷士となった。紗鳴の生んだ男子に、義父は主紗という「名」をつけた。

 水姫も男も笙木も紗鳴も民も郷士も、皆が平安を感じていたころのこと。

 皆の笑顔に憂いも不安もないよう感じられた。

 だが男はあっけなく逝った。

 病に倒れてひと月と半ば、それでも水姫に看取られて穏やかな顔で逝ったのだ。

 笙木はこのときほど悲しい表情かおをした水姫を見たことがない。最愛の人との死別があっても、彼女がこの国の霊力者みこ同盟きずな盟主あるじであることに変わりない。

 喪が明けた後、御勤おつとめも謁見も同じようにこなしているように傍目に見えたかもしれない。

 だが笙木には水姫が無理をしているようにしか見えなかった。あの柔らかい微笑みが消え、作り物のように頬を笑顔の形に歪ませていた。

 その水姫が再び笑顔を取り戻したのは、すでに子を宿していたことが分かったからだ。

 やはりそうなのだ、辛いことがあったとしても、また幸せが巡って生きてゆける。これでまた水姫様も幸せを感じられるようになるだろう、そう笙木は思った。

 ……あの時までは、そう思っていた。

 それは御生まれの夜。

 神殿かむどのの奥、女官まかたち従者ずささえも出入りを憚り、限られた者だけが入ることを許されている内殿うちつどのに、産屋が設えられていた。その瞬間ときを、間近に仕えられるのは産婆や特に近しい女官が数人、笙木ら男の従者はもちろん近付くこともできない。

 他の女官や従者、郷士もむらの民も皆、産祝うぶいわい産立うぶたて、そして宴の仕度などに忙しく追われながら、期待しながら、……鐘が鳴るのを待っていた。

 鐘が一度鳴れば男御子様、二度で姫御子様、三度なら霊力者みこ様の出生おうまれである。

 あのお優しい女首長めおびとの姫様が産みの苦しみに耐えておられる、この忙しさは姫様の幸せを願う忙しさなのだ、そう皆心待ちに待っていた時のこと。

 そう、笙木もその時までは、その一人だった。

 笙木は従者として細々と内向きの役目に没頭していた。宴の仕度をする喜びは民に任せ、己は滞りなく事が進むように裏で動くのが務めだと思い、に文机ふづくえ向か

っていた。

 周辺の国々に宛てる出生おうまれ国書しらせの文書の草案を練り、産立の返礼の使者つかいを手配り、自ら足を運んでくださるだろう近隣の首長やその従者、使者を迎える者への令書も要る、と忙しく筆を動かしていた。

 燭台の火が消えたのにも気付かず、月明かりを頼りにしてからどのくらいの時が過ぎたのか。

 邸宅やしきの自室の前には、僅かに庭が造られている。山野の草木、花を季節ごとに植え替えるのが普通だが、笙木が手入れを不精しているため、すっかり雑草も伸びに伸びて荒れてしまっていた。

 そんなふうだから、家人が所用で庭に入り込んでもその影が居室へやから見えにくい。ましてや家人の多くが出払い、宴の仕度などに手を貸している。残ったのは

近侍もとこの者たちだが、今はぐずりだした主紗をあやして出て行ったばかりだ。紗鳴は鐘を突くという役目を負って神殿かむどのに詰めていた。

「誰だ」

 笙木の誰何の声が自然と厳しくなったのは、かつて戦の陣中にあった片鱗だろう。敵国が宴の際に踏み込むことも、窺見うかみを放して惑わすこともよくあることだった。

 しかし庭木の陰から現れたのは、ここにいるはずもない紗鳴だった。息を切らしている。

「たいへん……よ……」

「どうしたのだ、紗鳴? お役目は……まだ鐘は聞こえていない。ここに来る暇はあるまい。水姫様はいかがした」

 紗鳴はその水姫の命だと告げた。急ぎ参らせよ、悟らるることまかりならぬ、と。

 笙木はそのまま訳も分からず夜道を急いだ。煌々とした欠けることのない月がやけに……心に残った。

 笙木は近付けるはずのない産屋の傍らに控えた。ここまで先導した紗鳴の姿はすでにない。

「笙木、参りました。急ぎの命とか」

 その時……声が。

 産声だろう、声が。泣き声が聞こえた。

 ご無事だ、ご無事に御生まれになったのだ、と瞬間、表情かおを喜びに綻ばせかけた。

 笙木の前に幾重に架けた薄布の向こう、御簾の影から産婆が現れた。その腕に包まれた赤子……。あぁ、この赤子が御子か、と感動が笙木の双眸ひとみに伝わりかけた時。

 水姫の声が産屋の奥から聞こえたのだ。

「お願い……笙木。その子を、……天に返すのです」

 笙木は何か信じられない言葉を聞いたようで、頭にその頼みが届かない。

「何を……おっしゃいます、水姫様?」

「天に返さねばならぬ子……」

 その時だ。

 笙木はおそらく、この時のことを生涯忘れぬだろう。

 そのもうひとつの産声を。……明日香の、産声を。

 風香音分得姫かざかねわけうるひめの声を初めて聞いた記憶……。

「ま……さか……、御子様は……」

「他言無用です。笙木……その子を、水に託して」

 水姫の声も涙声だったのだ。

 笙木は産婆から赤子を抱き上げた。

「何故、水に……?」

姉姫えひめのその子の名は……せめて私から名を。妹姫おとひめは風からの意思を……告げられました。霊力者みこであると。名受けの年は十四だと。故、通り名に風音かざねとつけました。だから、姉姫には私から。名は水清葉流音不忘姫みずさやかはながるねわすれずひめ。通り名は水葉みなはと」

 双子は天に返されねばならぬ。霊力者みこ様との双子ならば、なおさらに。……すべてを分かつ者同士がいては……。

 頭で分かっても、笙木はこれ程まで水姫の頼みが辛いと思ったことはない。

 神殿かむどのを隠れるように後にしながら水葉姫を抱え、喧騒を避けて川への夜道を歩いた。悟らるることまかりならぬ。手燭てしょく松明まつも持たぬまま。

 そうだ……やけに月明かりが煌々として。……冷たい、光。

 笙木は、この時通った道を今でも殆ど使わない。あの時の水葉の声が……聞こえてくるようで、思い起こされて、辛い。

 あの道を行きながら、紗鳴の鳴らす三度の鐘を音を聞いた。

 川べりに誰も使わぬ古い舟のあるのを思い出して、その舟に水葉を乗せ、舫い縄を切った。舟底に小さくはない穴があるのを知りながら。……風邪を引かぬようにとたくさんの布でくるみ、木札に名を記して。

 ……無駄なことだと、思いながら。

 それでも、その姉姫の名を聞いて、何も素知らぬようにはこの役目を負えなかった。

 水清葉流音不忘姫みずさやかはながるねわすれずひめ

 水姫の母としての……首長としてではなく、母の祈りを感じたのだ。

 清か水に流れる木の葉の音。それは沈まない、ということではないか。沈んでは、その音は聞き取れまい。

 母の祈りを次に生まれるときも忘れぬようにと……。

 しかしそのようなことはありえぬと、笙木も承知だったのだ。

 妹姫が、姉姫を転生のための膨大な霊力ちからを費やしてでも救うことなど、ありえぬこと。

 ありえぬことを……運命に逆らってでも、明日香はやってのけた。

 笙木はいまだにそれを知る由もない。

 双子の御子様が御生まれになった直後。唐突に同盟関係きずなのつながりが崩れて戦となった。戦の最中、紗鳴は笙木を救うために飛び込み、そして命を落とした。

 主紗がまだひとつでしかないうちに。母のぬくもりを知らぬうちに。

 笙木は紗鳴を失ったのは殺しの報いを受けたのだと思うことにした。そうすることでしか、悲しみから、嘆きから、抜け出すことができなかったのだ。……否、それが、真実まことか、と。

 しかし。

 笙木のその思いは誤りなのだ。

 笙木は人殺しなどではない……。

 水姫は気付いていた。明日香の、風音の仕業に。

 だが、今それを知るのは、双子の姉妹ばかりである。

 明日香は笙木に伝えられぬままでいる。

 ……主紗が水葉に出会ったことも。



 当の主紗である。

 笙木の文句のとおりに、酒に弱い。

 母の紗鳴に似たのだろう。

 昨夜のことはうろ覚えの上、二日酔いで朝を迎えた。

 昨夜の海辺の集落むらは久しぶりに旅の者を迎えて歓迎の宴は大いに盛り上がったのだが、その主役のはずの主紗は早々に酒に飲まれて寝入ってしまった。もっと

も、主役が抜けようと、宴の盛り上がりに関わりのああるはずもない。

 ここのところ、この周辺の国々では旱ひでりが続き、そのために国同士の勢力ちからが変わりつつある。

 主紗の国里、山間の国は首長おびとである明日香が戦を好まぬ故、戦火を免れているが、水を争い、武力を持ち出した国もある。

 山間の国の近隣では、水の流れる川の残るのは海辺の国のみとなった。山間の国では節水だけでは雨季まで凌げぬと海辺の国から要るだけの水を買っている。

 それはだが、表向きのこと。

 海辺の国は近隣で随一の勢力ちからを広げ、国々の同盟きずな盟主あるじたる山間の国の足元をみて、いくつかの条件を出してきたのである。

 そのひとつに、水不足の解消まで一切窺見うかみを放つことまかりならぬ、というものがある。

 戦が当たり前の頃から他国の様子を知るもっともたる手立てのため、どの国も必ず他国に窺見うかみを置くのが常である。窺見うかみがいなければ、他国が今、どのような政事まつりごとに重きをおいているか、作物の収量めぐみや民の様子を知る手がかりが減る。外交まじわり勢力ちからの保持に不利になっていくのである。

 しかしそのような約定きまりは表立ってのものではなく、山間の国の筆頭郷士いちのごうしである笙木と、海辺の国の郷士のひとり、浦飾うらしきとの間でひそかに交わされたもの。

 笙木の殆ど独断で交わされた約定に、山間の国では、笙木派と戦を起こす素振りと多少の攻防で脅してから、有利な条件を公に取り付けようという戦派とに郷士らが二分されつつある。

 戦派は国力の落ちる前に仕掛けねばと迫るが、明日香は一歩間違えれば本当に大きな戦になると考えて、笙木の策を取り入れている。

 この約定きまりに反した場合、山間の国の思惑がどうあれ、海辺の国の側から戦を仕掛けられてもおかしくない。戦を仕向けるために、その条件を約定きまりに盛り込んだとみるべきだろう。

 山間の国は今、内外ともに、憂慮すべきことをかかえていた。

 ところがその渦中の笙木の嗣子むすこ、主紗は国境くにざかいを越えて海辺の国に踏み込み、崖から滑り落ちて怪我を負ったところを水葉と名乗る海辺の国の流れ巫女に助けられた。

 主紗は凡庸ではない。不当な侵入だと判る。だが、様子を少しでも知りたい、戻った時に戦を避ける手立てになる何かを知りたいと思った。

 何より、己が何も知らぬままに今ここに在ることを思い知ったのだ。

 知らぬことは自分で知ることがわかりやすい。

 そう、水葉は主紗に言った。

 すべてを知った時に、きっと何もできなくなる、と。

 それでも主紗は知ろうと思った。何も知らぬよりは。何も知らぬから、何かを知ろうと思った。

 海辺の国の民として暮らす笠耶かさやという女に手を借りて、集落むらに案内され、民が宴を開いてくれた。その気質が海辺の民の誇りなのだという。

 海辺の郷士や民に窺見うかみだと疑われる恐れもある。名にはその者の国里も身の上も顕れるものだ。だから笠耶は主紗に仮の名をつけた。

 ……揮尚きしょうと名乗りなよ。あたしの国里さとの近くにある名さ。

 それで主紗は揮尚となって、昨夜の宴で酒に飲まれ、寝入ってしまったのである。

 目を覚ましたのはもう真昼の近い頃合だろうか。苫の片隅の床で、主紗は丸くなって寝ていた。戸板ががたがた音を立てて光を差し込ませたのに気付き、主紗はうっすらと目を開けた。

 入ってきたのは酒の席で一緒にいた男。聞いた名を思い出そうとして、頭痛が走る。

「…っ痛つー……」

「よ。いい加減起きようぜ。もう日は真上も近い頃合だ。……あぁ、足の怪我で立てねぇのか。起こしてやるぜ」

 男は大股に小舎こやを横切って真菰まこもむしろ臥処ふしどにした主紗を引っ張った。が、怪我のせいではなく、主紗には

たまらない。頭がぐるぐるする。

「頼む……きつい、頭……」

 やっとそれだけを絞り出すように声に出す。

「んぁあー? おい、まさか二日酔いかよ? あのくらいで? 一番に潰れたもんなぁ。仕方ねぇ、二日酔いに利くもん持ってくっから、待ってろ」

 男は主紗を放り、踵を返した。その動きで筵に砂がかかり、主紗はここは砂の上に立てた小舎で、直に敷いた筵が臥処の代わりなのだと知った。

 動かせぬ頭で主紗は周りを見回した。海辺の民が暮らす、いおのひとつなのだろうかと思う。

 茅と板でしつらえた壁のところどころから僅かに光が漏れて、外の眩しさを思わせる。……よく晴れているのだろう。が、その光は今の主紗には頭痛のタネになりそうだった。

 潮の匂いが余計につらい。波の音と僅かな喧騒が耳に届いてくる。

 主紗はできるだけ頭を動かさないようにして仰向けになった。額に手を当てて、眩しさを和らげようとする。

 動けない自分と、外の音。

 ここでは、この海辺の国では、己が動かなくても何もかもが進んでいくのだと、いまさらながらに思う。

 山間の国での己を思えば、首長おびとである明日香の側近もとこ従者ずさで、常に明日香の周り、内向きのことを把握し、他の従者や女官まかたちらを動かす。信頼を得て、任されているという確かな自負。

 幼い頃から、まだ明日香が風音かざねと呼ばれていた頃から付き従い、遊び相手や小間使いから当然のように従者となった。狭い宮内みやうちで、明日香のことばかり考えてきた。

 そのせいかも知れない、己の行き届かぬところで物事が動いていくことを当たり前に受け取れない。

 ……ここは何処だ。

 ……ここは、海辺の国……。

 国が違うからではない。己が「違う物事」を知ろうとしなかった。知る必要がなかった。

 そう思うと、主紗は何か小さな痛みを感じた。切ないような、哀しい苦しさ。知らぬことを知るとは、痛みを感じるのかも知れぬと思った。

 酒は、向かぬ。

 夕べは……あれほど飲むとは、己ではない。

 違う己が、心に生まれたのだ。

 きっと、この国に来たときに。

 戸板が開く。聞こえた声は、笠耶と、先ほどの男。……名前が思い出せぬのは、二日酔いのせいにする。

「揮尚、あんた、酒に弱いんだねぇ。ほら飲みな、頭に利くらしいからさ」

 主紗はそっと体を起こしてみた。崖から落ちたときの痛みは少しずつ抜けてきているように感じた。残ったのはあちこちの擦り傷と捻った左の足首の痛み。もっとも、代わりに頭痛が増えたのだが。

 差し出された木椀には、なにやら見たことのないようなきつい涅色くりいろにも似た汁物が入っている。匂いもよいとは言えない。思わず二人の顔を窺う。

「疑ってるな? 本当に利くんだ、俺も飲んだが、かなりのものだぜ」

 そう言って、男は一気に腹にいれろと大きな身振りとしぐさで飲むしぐさをする。なんだか余計に怪しいとようにも思えたのだが、主紗にはあまり細かなことを気にする余裕がなかった

 木椀を受け取り、良薬とはこういうものだろうと男の勧めるように一気に腹におさめようと……した。が。

「!!!」

 二日酔いにぼんやりした頭と感覚が急に目覚めて、毒でも飲んだように戻そうとした瞬間、男に押さえつけられて、笠耶に無理に口に注ぎ込まれる。

「一気に飲まねーからまずいんだ、コイツはッ!」

「全部飲まなくちゃ、利かないよっ」

 あまりの味と唐突に押えつけられたのとで、わけのわからないままかなり暴れた主紗だったが、抗うことかなわず、完飲。

 後味の悪さと腹がたぷたぷして気持ちの悪いのとで、なんだかぐたりと横になるよりない主紗である。

「暴れるから衣についちまった。世話のやけるね、まったくさ」

海真みまさに煎じ薬を頼んだのは笠耶だろう。俺は気付けに酒でいいって言ったろが」

「まさか、迎え酒なんか飲めるもんか、あんたと違うよ」

 主紗は横になりながら、自分をだしに争われても困る、なんとか声が出したかったが、頭どころか、腹に響きそうで、とりあえず聞いているよりない。

「とにかくしばらく預けるよ、あたしは巫女様のところに行くんだ」

「あぁ、頼まれた。揮尚、当分ここに寝泊りしていいぜ。俺は独り身だからな、充分だろ」

「……あんたんとこに、ずっとかぃ?」

「何だ? お前のところよりいいだろ、御館みたちの横に男を置いておくわけに行かねーよ。巫女様がいらっしゃるんだ」

 主紗としては事情なりゆきを知る笠耶がいるほうが助かるのだが、そうも言っていられない。

 民の暮らすいおというものは郷士の邸宅やしきと違っていくつも次間つぎのまがあるわけではない。山間の国では地面を掘り下げて突き固めた竪穴に柱を囲うように配して、屋根を茅や菅で葺いた一戸の苫屋とま血縁つながりのある者同士が寄戸よせこするのが普通だ。海辺こちらの事情ことはわからないが、女のいお血縁つながりなく寄戸よせこするのはやはりよいこととは思えない。

 かといって行宮かりみやとはいえ、水葉の神殿かむどのとも言えるあの御館みたちに転がり込むわけにはいかない。何しろ相手は霊力者みこ様である。

 笠耶の気遣いはありがたいが、こればかりは無理を言えない。

「……こちらに厄介になるが、よいか」

 主紗は頭を押さえながら声を出した。そう何日も、この国にいるつもりもない。

「な、決まりだ。行けよ、巫女様のところ。お待ちだろうよ」

 笠耶は主紗を置いていくのに不安そうな顔をしたが、あまり心配しすぎてもおかしいと気付いたか、目で主紗にいいの? と合図を送っているようだった。

 主紗はそれで、うなずく代わりに目線で笠耶に行くように促した。……いつも御宮みあらか同輩なかまと交わすように。

 笠耶としては意識せずにそんなしぐさをする主紗に不安を感じている。そして僅かな好もしさも。

 きっとそんな目配せなど、ここでは笠耶じぶんの他の者になんて通じない。そのことにまったく気付かない主紗に、面と向かって文句を言いたかった。

 だがそれは集落むらの他の女たちよりも自分が主紗に近いところにいるからだと思うにつけて、笠耶は自分に呆れるのだ。それが、どうしたというのだ、自分は何に喜んでいるというのだろう。

早瀬はやせに朝餉、……もうひるになったけど頼んであるから」

 笠耶は胸に痛みを感じながら、そのことに戸惑いながら、取って付け加えたように言い置いて出ていった。

 その様子を見て、男は思い当たったようである。

「心配されてんなぁ……? よぉ?」

「? あぁ、笠耶は世話好きだな……」

 鈍い、かも知れない。

 だが今の主紗の問題はそこにないのだから仕方ない。

 先ほどの薬とは思えないような汁物のおかげか、いくらかましになったように感じて、ともかく居住まいを正した。

 正したところで、顔を洗う水が運ばれるわけでも、朝餉が運ばれるわけでもないが、それでもそれは身に付いた癖、としかいいようもない。

 だが男は気のいい人物らしく、手を差し出した。

「歩けないんだよな、ほら」

「すまない。……ついでのようですまないが、酔いのせいで名を忘れた」

 男は呆れた顔をする。

「……笠耶を覚えてるくせにな。俺は遠波とおなみ。忘れんな、次は教えねーぞ」

 遠波は笑いながら言った。その遠波に、主紗は親しみと、確かな存在を感じた。そして寛さと、強さと。

 それは主紗に持ち合わせないものだった。主紗よりも十は年を重ねているだろう遠波は、よく日に焼けて逞しい。方領かくえりの前袷せから覗く体躯からだはがっしりとして、力強く頼もしい。長めの髪は高いところでざっくりと結わえただけだ。

 郷士として生きてきた主紗は、民をあまり知らない。両者がどこか違うものであるという感覚があるのを否めない。

 だが、主紗は遠波に親しみを感じたのだ。

 兄弟のない主紗は、遠波に、兄のような存在を感じた。遠波は頼れない、頼ってはならない、そうしてすごしてきた主紗の頑なな気持ちにするりと入り込んだのだ。それは主紗の気付かぬうちに。

 


 明日香は丘に来ていた。

 遥か遠く海を見渡す丘。

 山間の国で海を望む、ほどんど唯一の場所。

 主紗の登殿がないせいで、女官まかたちをまとめる「女従者めのずさ」、かえでは忙しいのだろう。そのおかげか、いつもより抜け出すのが易いものだった。

 ……やはり、ここがいちばん「風」を聞ける。

 神殿かむどのの裏手にあるこの丘は、民が憚って入らぬ先にある。丘を越えたさらに先は急斜面、ほとんど崖で、行くことができない。

「ここを降りられるなら……海辺に行けるのだな」

 明日香は誰ともなく……いや、愛馬の白夜にだけ、つぶやいた。

「行けぬほうが良いこともあるかな。この眺めの良さは、海辺の誰も知るまい」

 濁りのない透明の風も、明日香だけのもの。

 風は自身の知らぬ間に、人の「意思」を運ぶ。風だけの声を聞くには、できぬわけではないが人里離れた方がいい。

 ……だが、その透明な風も、水葉の心までは届けてくれない。

 水葉の使う水が、拒んでいる。

 風は、その水葉の意思に勝てぬ。風を使う明日香の「意思」が、水葉の拒む「意思」に負けているのだ。

 水葉が強く明日香を拒む「意思」が、明日香が拒まれたくない「意思」より強い。

 明日香は当然だと思っている。拒まれても仕方ないと思う。

 水葉の「運命」を変え、すべての「意思」に背いた。

 ……その己の「意思」は、狂っているのだろう。

 そう考えることこそが、明日香の「意思」を弱めている。人里離れねば「風」を使うことができぬほどに。

 だが、明日香はそれに気付くことはなく、ただ水葉に会えば何かが起こるような気がしているだけだった。

 かすかな予感。

 このひでりと水不足を乗り切ることができるのではないかと。淡い期待。

 霊力者みこ同士がその霊力ちからを合わせるには、互いの霊力ちからに「差」があるほど難しい。

 二人は、双子だったのだ。

 互いを分かつように生まれた存在。

 もしかしたら……それは、今この時のために初めから霊力ちからを分かって生まれたのではないのか。

 そんな、埒も明かない錯覚を起こしては、明日香は己の都合のよい考えを嗤う。

 ……だが、すべての「意思」というものは、明日香が気付くことなく、気付かれるはずもなく、すべてを動かしてゆくのだ。



 水葉は国境くにざかいに近付いていた。

 国境の近くを流れる、小川がある。

 主紗に出会った場所。

 今、水を確かに流す川は、この周辺まわりにはもうこの小川の他にない。だからこの林はまだたくさんの木々がいっぱいに枝を広げている。

 この小川は曲がりくねりながら両国の国境の近くを流れて、さらに大きく海辺の集落むらから逸れるようにして浦飾うらしきら郷士たちの邸宅やしきに近付き、そして海に注ぐ。

 集落むらから離れたこの川は、郷士たちの川だった。水不足にでもならない限り、ここに水を求める民はない。

 本来なら集落むらのほど近くに舟溜りを作った大川がある。洗い物も川遊びもできる大きなゆったりとした流れのこの川は、今は掘れば喉を潤す水が湧き出るもの

の、暮らすための水には足りない。

 大川が水を流さなくなり、海の波が遡るようになった。小川の水が流れているとは誰も思わなかった。

 ……一度干上がった小川の水が、再び流れ出すとは。

 旅の巫女、水葉がこの海辺の国に来てから、小川の水の流れが戻った。

 巫女も霊力者みこもないこの国で、水葉が「巫女様」と呼ばれ郷士とも近い立場にいるのはこのためだ。

 海辺の土地は、掘っても井戸にならない。出るのは、塩水だからだ。明日からの飲み水をどうするのかというところに「巫女」と名乗る郎女いらつめが現れ、そして水が再び流れた。巫女を知らぬ海辺の民が水葉に心酔している。

 水葉はこの国に来てから毎日、一、二度はこの国境に来る。誰も近付かない、林の奥の国境に。

 彼女は来なくてはならない。

 この「霊力ちから」をあてにしてくれる者が、いるから。

 水葉はそっと流れに手を浸した。

 水が見たことも知ったことも、こうして手が水から聞きとる。水の声を聞くことができるのは、この両手だけだ。何故か、足やほかの体のどこも、いくら浸して聞いてみようと呼びかけても、水の声を聞き取れないのだ。

 それは「霊力者みこ」として欠けているからだ、と水葉は考えていた。己は、やはり霊力者みことは言えぬのだろう……。

 その己の両手で、水葉が知ったことは、いつもと同じ声だった。

 水には、雨を降らす「意思」がない。

 何度、何故、と問いかけても……水は一度も答えてくれない。

 それでも水葉の願いに応えて、このおかに残った少ない水が集まってきてくれる。

 歯がゆくて、いつも思う。

「水は失うと大切になる……」

 揺れる水面に映る己を見ながら、思わず声となった。

 未だ見ぬ妹姫おとひめはこのような顔なのだと教えたのも水だった。だから水葉は、己から求めて霊力ちからを使って明日香を、風音かざねを……見ようとしたことはなかった。水を覗き込めば、いつでも会えるのだから、会う必要がないのだ。

 転生するための霊力ちからを投げ打って、己にその生を譲り渡した妹姫、明日香。

 憎む気持ちは、ある、と思う。

 明日香は、すべてを狂わせたかも知れない。双子を天に返す慣習ならいのある山間の国も。

 そして、そうしておきながら、彼らはそれに気付くことはない……。

 明日香は苦しんでいるのだろう。笙木も、心に傷を負ったままなのだろう。

 だから、会うまい。

 闇を抱えた首長おびとと、郷士。その統べる国。

 それを及ばぬところから見知っていられればいい。

 その国の行く末を。

 わざわざ会って、憎しみをぶつける必要もない。

 憎しみを、感情きもちをぶつけることは、もつれた糸をほぐすことと同じなのだ。

 いずれ時が経ち、起こったことが飲み込まれてかみ砕かれて、和らいでゆくのならば、その始まりは感情をぶつけた時なのだろう。

 ならば、闇を抱えた者たちに、そのもつれた糸をほぐすきっかけの端を与えることはない。

 手の届かぬ暗闇に落ちたままの糸でいられるならば、どんなでもいい、この生を生き抜くのだ。

 いつも、見ていた。

 己の生まれた国を、見ていた。

 己を水に流した男が、妻を失うのを。

 己に生を与えた妹姫おとひめがそれを忘れ、男の嗣子むすこと野を駆けるのを。

 己を生み落とし、慣習ならいどおり捨てた女が病に倒れるのを。

 そして、女が……母が転生の旅路へと向かうのを。

 霊力者みことして名受けした妹姫が首長となるのを。

 妹姫が霊力ちからを自在に使うようになり、生まれたその時に何をしたかを思い出したのを。

 やがて国を統べる難しさを知り、民に捧ぐ生を嘆き、天候そらを嘆き、霊力ちからを嘆くのを。

 己に、会うことをずっと待っていることも。

 いつも、見ていたのだ。

 ……虫の良い、都合を。

「水」は、そう、確かに、……失うと大切になるものなのだ。

 だが。

 本当は、己が生まれながらの霊力者みこであったのなら、誰も苦しまずにすんだのだろう。

 己が「本当の霊力者みこ」であったのなら、水が雨を降らす「意思」がない理由を聞き出すことができるのかも知れなかった。

「私は……無力だ」

 水が大切なことは、誰よりも知っている。

 穴のある舟に揺られた赤子を掬い上げ、新たな生となってくれたのは、水なのだ。そして何も知らぬ旅の夫婦に己を預けた。

 知っている。だけど、何もできない。

 ……すべてを知ってしまったときに、きっと何もできなくなる。

 水葉はそう、主紗に言った。

 すべてを狂わすことは、許されることだったろうか。

「意思」は、変えられぬはずなのに。

 水が水葉の両手に伝えたのは、山間の国の内宮うちつみや。その神殿かむどの。明日香が昼の御座ひのおましとして過ごすこの祭壇まつりのばに大

きな鉢が据えられている。

 鉢に張られた清か水が見た景色は平生のままで、だから水葉が、明日香がまだ「本当にすべてを狂わせてしまったこと」に気付いていないのだと、落胆する。

 水葉はまた、水にいつもと同じことを聞いた。

「水よ、なぜ風は明日香に何も教えない」

(……風の「意思」でしょう)

霊力者みこは『意思』を伝える存在のはずでしょう?」

(風の「意思」をどう感じて知るかは、霊力者みこ霊力ちからにおけるところのこと。風の「意思」をどう聞き分けるか、それは霊力者みこ霊力ちからしだい)

 聞き分けられぬならば、それは霊力者みこ霊力ちからがないからだ。霊力者みことして、足りぬところがあるからだ。

 それは水葉も重々承知のことだった。だからこそ、苦しく、哀しい。

「……私にあなたの『意思』が分からないのは、私が本当の霊力者みこではないから……?」

 この問いかけにだけ、水ははっきりと答えた。

(いいえ、水葉。あたなは確かに霊力ちからを受け取ったのです。……何より、私が知っています)

「ならば、何故……?」

 水は水葉の問いの続きを察して、答えるのをやめてしまった。

 水葉は哀しくなって小川に浸していた両手で、己の体を抱えた。ひんやりと冷たくなった手が温もりを忘れたようだった。だが、それを抱え込んだ己の身の内は、もっと冷めた心地がする。

 ふと草むらの動く音に振り返ると、うさぎがこちらの様子を窺っている。その小さな瞳。

 生あるすべてが今頼る水は、この小川にしかない。

 ……なのに、ここにはすべての答えはない。



 各人それぞれの思惑は交錯する。

 主紗はいたって暢気に過ごしている。ここでは、揮尚である。

 早瀬に用意してもらった朝餉は、今朝の遠波の獲物だという。栗のいがのような生き物で、中身を五穀やひしお、みそなどと合わせて煮込んだらしい。

「これはなんだ? 見たことがない」

 早瀬が煮炊きの小甕から装った木椀と匙を受け取りながら主紗は聞いた。柑子色のかたまりのことだ。

「これがさっき見せた海丹うに。生でもおいしいよ。珍しく遠波がすもぐりで獲ってきたんだ」

 隣に座り込んだ遠波が籠に盛られた枇杷やら茱萸ぐみやらを口に放り込みながら言い返した。

「夕べの宴にあまり並んでなかったからな。わざわざ潜った。すもぐりは早瀬の方が得意だというのにな」

「髪が塩っぽくなるからさ。川が狭い間はあんまり潜りたくないんだよ」

「……水浴びがだめなら、砂を浴びておけ」

「ちょっと! あたしの髪、なんだと思ってんの?」

 二日前まで潜ってたんだぞ、と遠波はこっそり主紗に告げ口をした。早瀬は豊かな髪をしている。客人まろうどの主紗に、なんとか自慢の髪を見てもらいたくて、いつもよりも念入りに結い上げていた。

 だが、早瀬の気持ちに主紗は関心がなかった。

 目の前に広がる、海。

 海辺の国は水に余裕があると思っていた。だが、実のところは「水の流れる川」は小さな川でしかない。主紗にはその流れはいつ干上がってしまってもおかしくないように思えた。

 だがよく考えれば、海はこんなにも多く、水を湛えている。塩辛くて飲めないと話に聞くが、今主紗がすすっている汁も塩で味をつけているわけで、だいたい秋の収穫のあとには、野菜を塩漬けにしておくものなのだ。

「聞くが、海の水はそんなに塩味なのか?」

 遠波と早瀬はまず顔を見合わせた。その次に、大いに笑った。

「揮尚、おまえさんは内陸おかにばかりいたんだな? その椀は塩味だけじゃねぇし、海は汁物じゃねーよっ」

「し、塩味……っ。なんだが珍しい言い方だね、海辺の連中は絶対言わないよ」

 その二人の笑いぶりに、主紗は耳まで赤くなった。

 そんなに愉快なことを言ったつもりはなかったのだ。

 山間の国では塩は高価だ。月に一度の市に塩を求めて、山ほどの野菜や米を馬や牛で運んでも、塩の麻袋を懐に入れて帰るほどである。それでも、特に夏には味付けを濃くしないと病を得るというから、皆高い取引でも応じている。

 主紗もつい先ごろの市では、いつもより高値がついていて、悔しい思いをしたばかりだった。

 主紗はあまり武芸に秀でていないが、それでも同輩なかまや笙木と狩猟かりをすることがある。弓を負い兎や小鳥を獲物のつもりで朝早くから森を歩いていた。

 大きなことで言うことでもないのだが、弓は不得手だ。

 御宮みあらか従者ずさは護衛も兼ねるから、明日香の傍らにあるために短剣つるぎだけは鍛錬を重ねて、人並みの腕のつもりでいる。鍛練に励む主紗に、笙木は青銅かねの短剣を譲り渡した。とてもよく手入れがされているもので、笙木はよくよく大切にするように主紗に言いつけたから、いつも腰に帯びている。

 弓は国境くにざかい関塞せきに詰める兵士つわものらが得手とするもの、それよりも主紗には向かないのか、狩猟かりで大物を仕留めたことなどなかった。

 ところがその日、主紗は大物に巡り合った。猪である。獣道で向かい合ってしばし、突進してきた大猪に二矢、身躱しざまに短剣で仕留めた。

 だがその初めての大物は、市でたった一袋の塩に代わった。文箱ふばこ石硯すずりを新しくしようと考えていたが、笙木や家人かじんに頼まれた塩にしかならなかったのだ。

 それを思いながら主紗は海辺で汁物は海の水を使っているわけではないのかと思い当たった。

 笑いが収まってから、遠波も早瀬も教えてくれた。

「海は塩味じゃない。塩辛いが、ちゃんと海の味をしてる」

「塩は海の恵み。海が塩をくれるのは確かなの。でも、海の味は、……陽射しの味、かなぁ」

 早瀬は砂を掬った。手のひらからさらさらこぼれる砂は、山間であまり見ない白砂である。真菰まこもを編んだ日よけの庇がそろそろ真上に近付いた陽射しのせいで、役割が半分になっていた。真菰の隙間から入る陽に、砂がきらきらと淡く光る。

 陽射しの味それがどんなものか、主紗には推し量ることができなかった。だが、このひでりに厭う陽射しが、柔らかい響きを持って感じられるようになった。これほど陽射しが優しく感じるのはいつ以来だろう。もう、思い出せない。

「揮尚は、内陸おかからきたんだね?」

 それくらいなら、答えてもいいだろう。柔らかく優しいものを胸に抱えながら、主紗は言った。

「あぁ。だから、海を知らない……」

「そうとう、遠くの内陸おかだね。海は広いのに。少し小高く登れば、遠くからでも海は見えるでしょうに」

「そうだな、海は、空までも……海だ」

「どれだけ沖に出ても、海は空に続くの。だけど、ずっと海の道を行くと、夕日の先があるんだって」

「夕日の先? 空にも、道があるのか。笠耶が、海はどこまでも行ける道だと言っていたな」

 早瀬は困ったように言った。よくは知らないのだと。ただ、山の道は、道のある所しか行けないから、と。

 それは、決められた道、ということかも知れないと、主紗は思った。……では、人の行く道は。

 幼い頃、山で迷って戻れず、泣いていたのを連れ戻しに来た笙木の言葉を思い出した。

 ……道を行かぬからだ。道は行くべき先がある。迷わぬように、心に決めて行くのだ。道の末に求めるものがなくとも、振り返ればよい。己の来た道があるだろう。

 幼いながらに、その言葉を心に刻んだ。もう迷うまいと、己に言い聞かせた。意味の分からないなりに。多忙な父を煩わせまいと。

 だが、この言葉は……人の道は、決められている道だというのか。

 我知らず主紗は砂に置いていた己の手を握る。

 次の瞬間とき

 ざあッぱぁー。

 主紗は雨も降らぬのに、突然濡れそぼった。

 顔を上げると、雫のしたたる甕を抱えた遠波が笑っている。

「どうだ、海の味は? しょっぱいだろ? やっぱり飲むのがわかりやすいんだろうが」

 主紗はこのふいの攻撃に口と目に海の水を含んでしまった。目がしみる。後味も、よくない。おまけに、治りかけの擦り傷がひりひりしてきた。

 呆然とする主紗に代わって、早瀬が怒鳴り返した。

「私まで濡れたよっ。どーすんのっ」

 遠波は笑うだけだ。

「この陽気だ、すぐに乾くさ。しかしおまえも食い意地はってるな。とっさに煮炊きの蓋だけ閉めて」

 早瀬はむくれた顔をして、せっかく上手く炊けたんだもの、とつぶやいた。

 なおも続きそうな掛け合いに、主紗はなんとか割って入る。たしかにこの陽気、乾かない心配はないが、海辺の集落むらは潮風が強いのだ。これ以上、風邪でも引

いて山間の国に戻るのが遅れてしまうというのは困りものだ。

「あの、何か布巾ぬのでもないかな」

「心配すんな、砂浴びしようぜ。俺も水を被ったしな」

 聞き慣れない「砂浴び」という言葉に、主紗は首を傾げる。砂浴びも初めてだろう、と遠波は手を出した。

 


 集落むらの中ほどの砂は、炭火あかり木炭すみが残っていて、砂

浴びに向かないのだという。それで主紗は遠波に連れられて舟溜りへ向かった。

 途中、主紗は遠波の手を離れて一人で左足を踏み込んでみた。痛めた左足に少しずつ己の目方を乗せていく。

 痛みが鈍く残るが、なんとか立てる。長く歩くには目方の移動にまだ左足が耐えられそうにない。それでも、ずいぶんと良くなっているのがわかった。

「だいぶん良くなったんだな。笠耶に杖でも作れと言われていたが、仕事がひとつ減った」

 ずいぶんと笠耶には気に掛けてもらっている。後で、よくなってきたことを伝えようと思った。

「笠耶にはかなり面倒をかけているな。何か礼をしたいが何が喜ばれるだろう」

「へぇ? 笠耶に礼、ねぇ?」

 おもしろそうな遠波の物言いと眼差しがすこしだけ気になる。

 舟溜りのそば、白い砂の上で、二人は足を止めて腰をおろした。膝をたくしあげる。主紗はとりあえず、真似をしてみる。

「濡れたところに砂をはたいてつけるのさ。腕もな。頭はやめておけ。早瀬の言うとおり砂浴びに向かない」

 そして、遠波は寝転んで背中を砂につけた。

「……? そのあとは?」

「寝とけ。しばらくしたら、砂が乾いて勝手に落ちる」

 そういわれて、遠波に倣って、寝転んでみた。

 二人の真上を流れる雲は、山間の国へと行くようだった。雲を運ぶ風は、明日香様も元へ届くだろうかと考え、目覚めてから初めて明日香のことを思ったと気付く。己の身が山間の国にあるなら、それは有り得ないことだった。

「揮尚? なんだかおまえは黙っていると、どこかに心が離れているな」

 何も話さなくなった主紗に、遠波が話しかける。

「……遠波は、そういうことはないのか? 己のこと以外に、思いが飛ぶことは。……そして、己の手ではどうにもならぬことに気付く」

 話題はいつしか、男同士の語らいになっていく。

「どうにもならねぇことな。そうだな、ほかの奴の心……は、どうにもなんねぇなあ。どうにも気付かない女とかな」

「そうだな、だが女は分からぬ方がよいこともあると思うぞ。早瀬などは怒っていても楽しそうだっただろう」

 あれはじゃれたいのと、照れ隠しだ、と遠波は笑った。堅物の主紗と違って、遠波はわかっているらしい。

「早瀬は海の夕日の話をしてくれたが、遠波が来ると態度が急に変わったな」

「そういうもんだ。俺にはいい顔できなくても、昨日今日の付き合いのおまえには、いい女でいたいんだろ」

 だが、悲しいことに、主紗は早瀬の女心を探ることに深い関心がなかった。

「なぁ、沖から見た、海の先は……入り日の先は、どうだ?」

 問われた遠波はその情景を目の裏に描くためか、目をつむって答えた。

 ……どこまで行っても先がある。入り日を追っても、届かない。だが、その夕日の先にはきちんと先がある。

「夕日の先に……何か、あるのか?」

 その問いかけに、遠波は体を起こした。そして乾きかけの砂を手で軽くはらった。ぽろぽろと落ちる。

「ほらな、ちゃんと乾いてるだろ。暇ならこのままごろ寝して乾かすが……おまえが仕事を作ったからな」

 仕事? 笠耶が頼んだという杖のことだろうか。聞き返しながら、主紗も起き出して砂をはらった。

「おぉよ、夕方はすなどりに出るつもりがなかったんだが。今から備える。……来いよ」

すなどりに? 主紗は遠波を見返した。「夕日の先が、見えるか?」

 立ち上がる遠波。

「夕日の先は、暗闇さ。その先で海が荒れ狂ったりしたら、命がいくつあっても足りないぜ」

 遠波は海を見つめて言葉を続けた。

「夕日の先……に続く道は、その暗闇の先、ということだ。漁に出るくらいで見えるものじゃない」

「ではどうしてだ?」

「入り日に続く金色の道を、近くで見るのもいいだろ。……あの輝きが夕日の先を信じさせる。今のところ、俺はそれでいいのさ」

 集落むらに向かって歩き出そうとする遠波が手を出したのを主紗は制して、左足を少しだけ引きながら後を追った。



 山間の国では、郷士たちが急ぎの会合はかりごとを開いていた。議題ことはここのところ続いていた水不足と戦のことではなく、交易あきなりである。

 つい先ほどのこと、山間の国のさらに奥にある小国から使者つかいがやってきた。この国、奥津おきつの国は、山間の国とは一応の隣国である。だが、山間の国と海辺の国ほどには近くはなく、一日二日で行き来できる距離みちのりではない。

 奥津王おきつのおうからの正使つかいとして明日香の従妹にあたる那智なち王書ふみを持たせた。那智は少ない伴者ともと一昼夜、馬を走らせたのである。

 その王書の内容のために明日香は首長おびととして会合に臨席していた。会合は郷士たちのもの、よほどのことではないと口出しはできない。本来ならば会合の後に報告しらせの者を通じて議論ことの様子を知るのが慣例ならいである。だが、此度のことは場合が場合だ。

 奥津の国は、海辺の国が勢力ちからをつけるのを恐れて、今のうちに交易関係あきなりのつながりをもう少し持つべきだと山間の国に申し立ててきたのである。

 今、両国の関係かかわりが悪くなっているのはすでに周辺まわりの国々に知れ渡ってしまっているようだった。

 奥津の国は小国故、山間の国に何かがあったとき、……例えば海辺の国に攻め込まれたとき、いちばんにその戦火いくさびを被るのだ。

 海辺の国に手をこまねいている山間の国に申し立てるその意図は、進言、いや懇願に近いだろう。

 奥津の国は大きな内海うちつうみを抱えて山がちで、平地があまりない。耕作に向く土地は少ないが、山から多くの鉱石いしが採れる。そのため、小国ながら鉱石いしを取引する交易あきなりで栄えている国で、山間の国もその恩恵を受けている。

 うあじりや槍、刀子とうすになる黒曜石くろるり、剣にする青銅かね、舟の水漏れを防ぐ土瀝青つちやに

 どの国も、奥津の国の鉱山やまを狙っていた。そのため山間の国の前霊力者さきのみこである水姫みずき治世ころに山間の国に降った。

 そのため今も山間の国のひさしを借りて交易あきなりをしている。だからこそ、山間の国が海辺の国と争い、勢力ちからを落とすことを厭う。

 万一のときのために、海辺の国と繋がりを持っておきたい、そして山間の国にも礼をとり、これまでどおりの絆を保っておきたい、奥津の国の考えはそんなところだろう。

 そして山間の国に礼をとる限りは、国力の充実を手助けする「形式かたち」を見せておきたい腹がある。

 奥津の国の王書ふみは、ある交易方法あきなりのてだての提案だ。

 奥津の国の品々を「山間の国を通じて」海辺の国と交易あきなりするというのである。

 もちろん海辺の国に着く頃には間の取引で値が上がってしまうが、そもそも海辺の国から買う水が高いのである。また、それなりに値を落として国から出すつもりだという。

 山間の国の利点は多い。

 今、海辺の国には窺見うかみを放てない約定きまりがある上に、交易あきなりそのものが減ってきている。隣国の様子を窺う手立てが少ないのだ。

 奥津の国の提案を飲めば、交易あきなりを通じて海辺の国に入り込むことができる。交易あきなりが進めば、民の目も外に向くだろう。また、普段は出し惜しみされるだろう奥津の国の品も手に入り、利益も見込める。……この利益で水を買うことができる。

 奥津の国の狙いもはっきりしている。両国との外交まじわりを保ちながら、己は水を得て、さらに恩を売るつもりなのだ。

 山間の国の利点はともかく、他国が関わる大事である。筆頭郷士いちのごうしである笙木はまず、王書ふみの内容と己の見解を会合はかりごとで伝えた。

「……皆様の考え、伺いたい。いかがか」

 一人が口を開いたのを合図に話し合いになるのが常だ。

「笙木殿にはずいぶん都合の良い話ではないか」

「ここで嫌味を言うことに意味はなかろう。奥津の国の内情うちはわかっておるのか」

 奥津の国の外交まじわりを司る者が、下座から言う。

「小国故、生活用水くらしのみずの量は知れておりますが、水がなくば、鉱石いしを採ったあとの細工ができぬとか。……なにしろ内海うちつうみのほとりの国ですから、井戸を掘っても塩辛くて飲めず、大きな川もありませぬ」

「そういえば貯水池ためいけを造るのに、こちらから人夫よほろを出したことがあったのではないか?」

「いくつもあるようですが、このままではいくらも持たぬようです」

「……それで今さら海辺の国に従おうというのか。なんと勝手なお考えか、かの王は」

 ここまで黙っていた明日香が、その言葉に声を張り上げた。

「一国の王に、何を申す! 同盟ちぎり成す王の一人として礼を尽くし、御提言くだされた王に! かの国はこの山間の国の隷属国しもべではないっ」

 明日香が激昂するのを初めて目の当たりにした郷士たちは、その勢いある言葉に息を呑んだ。

 日ごろはこの程度の言葉の応酬はあり得ることだし、明日香も多くはないが、たまの臨席で分かっているはずである。

 笙木もこのくらいの言葉が出なくては、会合はかりごとが沈黙の場になると考えているから、気に留めなかった。

 そのために、明日香の急な激昂に取り成す時機を失ってしまったのだ。

 場が沈んだ。固唾を飲み、誰も動けなくなることしばし。どうにかできるのは、当の本人である明日香である。

「……続けよ。いずれにしても他国を揺るがす結論こたえとなろう。心せよ。悪い話でもあるまい。短慮なきよう望む」

 明日香は乗り出していたその身を掖月わきづきにもたれかけ、静かに言った。それを受け、笙木が言葉を探す。

「……この奥津の国の提言、我が国にも利点が多いが、敢えて問う。何か欠点など隠れてはいまいか。なくば、でき得る限り受けるが得策かと考えている」

 笙木の言葉に、ほかの郷士たちも、会合を元の様子に戻そうと発言する。

「断る理由もとりあえずはあるまい」

「いくら急ぎの使者つかい、それが那智様で、お待ちと言えど、焦って答えを急いではならぬ。思案のしどころであろうよ。もう少し利点と欠点を煮詰めねばならぬ」

「うむ。欠点といえばかの国が……」

 戦派の郷士たちも、悪くは言わない。山間の国に旨みのある話であるのは確かなのだ。

 後は、退屈な常にある会合はかりごと光景けしきであることを確めて、明日香はいつものように聞き流す。

 明日香にとって、後に報告しらせに来るものが良くできた者だから、その者に訊ねた方が会合はかりごとをずっと聞いているよりも分かりやすいのだ。耳に音が入っても、心はすでに離れていた。

 僅かに御簾を揺らす風に、耳を傾けた。

 さすがに今は心を凝らす気にはならないから、風の伝えてくる「景色」はほとんど見えなかった。それでもかろうじて、声を捉えることができた。

 それは風の声ではなくて、風が連れてきた声。久し振りに聞く那智の声だった。



 那智なちは明日香の義理の従妹にあたる。その父は奥津の国の有力な行商人あきなりひとで、政事まつりごとにも発言力ちからを持つ。

 奥津の国では、父方の家で子を育てる慣習ならいがあるのでそれに従い、那智は幼いうちに生まれた山間の国を離れて奥津の国で暮らしていた。「里帰り」するのは数年ぶりである。

 那智も「民に生を捧ぐ一族」の霊力者みこで、霊力ちからを持つ。今、霊力者みこは明日香のほかにこの那智だけだ。

 民のために、その霊力ちからは転生を繰り返していく。

 己のためにその霊力ちからがあるわけではない。この生さえも、転生によって得たもの。何一つ、霊力者ちからは己に有するものがないのだ。

 民のために生きる、その生が、どこか紛い物のように感じてしまう明日香にとって、那智は唯一その感情きもちを分かりあえる者なのだと思っていた。

 だから、明日香がらしくもなく皆の前で激昂したのはこの那智のためである。

 実は数日前に、那智は一度風に声を乗せてきた。交易あきなりの案を、先に首長である明日香に伝えたかったのだろう。

 それで明日香は、初めからそれを受け入れるつもりで会合はかりごとに臨席した。郷士たちにこの案を受け入れさせるために。……笙木の意見は聞いていない。明日香だけの決めたことだった。

 そう……明日香には、決めたことがあるのだ。

 会うのだ。双子の姉と。

 通り名は水葉。水清葉流音不忘姫みずさやかはながるねわすれずひめ

 明日香は生まれるとき、どうしてか意識があった。

 それが、本当に自らの「意思」だったのかどうか、もう定かでない。霊力者みこは転生を繰り返す。前の生を生き抜いた霊力者みこの「意思」でないと、どうして言える。

 それでもその意識は、霊力ちからは、双子の存在を教えた。山間の国の慣習ならいとともに。

 己の転生する霊力ちからのすべてを失っても、助けようと思った。双子は嫌われると分かったから。

 それを教えたのは、風。応えたのが、水。

 そう、風が己の「意思」を作った……。

 風に聞くことができずにいることがある。

 姉姫えひめに、水葉に会うことは己の愚かさに気付くことになるのかと。あなたをなじることになるのかと。

 だけどそれでも。会うのだ。今度は己の「意思」で会うのだ。

 民の「意思」と風を繋ぐ「霊力者みこ」としてではなく。

 風香音分得姫かざかねわけうるひめとして。

 己が、私であるという「意思」で、会いたいと思う人がいる。……ただ、それだけのこと。

 那智はとても大事なことを明日香に教えてくれた。

 那智は霊力者みことしては僅かに水を使うだけだ。水

の声を聞いてかすかに動かすことはできても、雨雲を呼ぶことはできない。水を通じて水葉を知ることができるほどの霊力ちからはないだろう。

 だが、奥津の国は「巫女の国」で、那智はどうやら巫女としては優れていたようだ。

 巫女は霊力ちからを持たぬ。

 民や、知らぬ者には「神」の声を聞くなどと思われているが、風や水のほか、いろいろな声を聞く。だが、霊力ちからを使うわけではないから、心を凝らすのにはかなりの体力が要る。

 祭壇まつりのばを前に自らの「意思」をすべて放棄して忘我する。そして「声」のみを己の内に取り込むのだという。

 那智にはそれに耐えるほどの体力も精神こころもない。だから那智は己だけの手立てを見つけ出した。「声」を聞くために、水を介在に使うという。他のもの、すべての「声」を水の「意思」を通じて知るのである。

 那智ならではの思いつきで、ずいぶん器用で繊細なことをする。明日香はこの手立てを聞いたとき、己にはできぬと思った。

 それはつまり、明日香にとっての「風」をただの己の手助け……「道具」にしてしまうということなのだ。

 風の声はとても強い。風は確かに尋ねれば、他の声も教えてくれる。だが、それは明日香が聞き取っているだけで、風が助けてくれているわけではない。

 那智は明日香の使う風よりも、水の声を確かにとは聞こえていないから、その恐ろしさを感じていないのかも知れない。奥津の国で巫女として生きることを迫られた那智にとって、声を聞くことがいちばん必要なことで、その手立てはどのようなことでもよかったかも知れない。

 僅かながら霊力ちからがある那智には、それがいちばんの方法に違いない。

 ところが近頃、那智は異変ことなりを感じるようになった。

 ひでりが続いた頃より、とくに水不足がさけばれるようになってから、風の声が聞けないのだという。水を通じてこれまで聞くことができたはずの声。

 ……水が、何か「他のものの意思」で動いているみたいで。まるでもっと大きな意思に流されているように感じるのです。水がほかの「意思」で動く気配とでもいうのか。感じても、知ることができなくて。まるで他に霊力者みこでもいるかのような。

 ……それに、水に何故雨雲が来ないのかいくら訊ねても、少しも教えてくれない。水が、何かを拒んでいるみたいに。

 那智は、水に拒まれてしまえば、風の声を聞く手立てを失ってしまう。今のところ奥津の国の他の巫女が、忘我して風の声を捉えることができているが、それでも那智

よりもはっきりとした声を聞くことはできぬらしい。

 明日香は風に聞いてみたが、

(水のことはわたしの与り知らぬところのこと)

 やはりそう言うだけでわからなかった。

 だが、明日香には心当たりがある。でもそれは那智には言えぬことだった。

 水葉だ。水葉の「意思」が、水に伝わっているから。きっと水葉が、風を拒んでいる……。

 明日香は笙木の言葉を思い出していた。

 ……運命など忘れても、大切なものがある。

 笙木がそう言ったとき、その通りだと思った。己の「意思」にとっての「大切なもの」。そのために運命など忘れてしまっても。

 だが、それはこの山間の国の首長として言えない。

 会合はかりごとに臨席する明日香の元に、風が運んできた声は、那智が伴者ともを労うもの。

 奥津の国から一昼夜、馬を駆るのはかなりの強行だという。とるもとりあえず那智を出迎えれば、顔も帛布ころもも砂にまみれていた。

「民に生を捧ぐ」ことは、己を殺すことだ。那智は己よりもしっかりしていると明日香は思った。一族うから霊力者みことしてばかりではなく、奥津の国の巫女であり、豪族でもある。

 明日香は、首長おびとだというのに。

 ……雨雲を呼びましょう、明日香様。霊力ちからを合わせて。他に手立てがないのなら、構いませぬ。

 霊力ちからに差があると、弱い者は耐えられぬ。それを承知で那智は言う。後のことは、明日香様にお願いできるのですからと、真剣に訴える。「民に生を捧ぐ」ことに疑いを持たず、無駄でないと心から信じて。

 明日香には、それが本当に正しいことなのか分からないのだ。大切な人を、大切な国を、大切なすべてを守ることは、そんなにも己を失うことなのかと。

 だが、それももう、どうでもよいことに思えた。

 明日香は決めてしまった。

 どこかに始まりがあるとすれば、それは、水葉に会うときのこと。

 ……否、すでに始まっているのかも知れない、主紗が水葉に会ったときに。

 それが運命というものであるなら、運命すべてに逆らってでも。己にでき得る限りのことに霊力ちからを捧げれば、また運命みちができはしないか……。

 明日香が今、自ら行こうとする運命みち。それは輝いているだろうか。誰も悲しまぬよう傷つかぬように恐れながら、行こうとするその先。

 退屈な会合が続いている。

 急に風が通り抜けて、明日香の御前まえの御簾を巻き上げた。会合所はかりどころは格子が上げられていたのだ。風は思いのほか強く、明日香の顔が晒されるほどに。

 明日香はとっさに顔を背けた。大袖そでで覆う。持ち慣れないさしはは間に合わないと思ったから。……己が今、泣いているかもしれないと思ったから。

 そう思ったら、一気に感情きもち双眸ひとみから溢れて、頬を伝うのを感じた。



 会合はかりごとの行く末は、奥津の国の「進言」とやらを受け入れることで決まった。

 ただしもちろんのこと、細かな約定きまりを交わして、両国の立場、とりわけ山間の国の盟主あるじとしての立場をはっきりと織り込むことを定めた。

 郷士たちは、その旨を文書ふみの作成を司る史書所ふみのところに言い含め、過去むかしたとえがないか調べるように申し付けた。

 そして会合はかりごとで決まったことを織り込んだ草案を作るように指図してから、とりあえず急ぎのこの会合はかりごとを締めくくった。

 ざわざわと会合所はかりどころを郷士たちが行き来しては退出していく。それぞれの役目に戻るか、雑舎ぞうしゃあたりで先ほどの女首長めおびと殿の様子を語るのだろう。

 笙木もまた、会合はかりごと底簿きろくを務める者たちに写しの作成を求め、書に目を通しながらそれぞれ指図を出して落ち着くと、明日香に思いを巡らせた。

 そして明日香が激昂した理由を那智様のことかと、思い当たる。

 つまり笙木が言い出さずとも、奥津の国の「進言」を郷士たちに受け入れさせるように、演じて見せたことが半分。そして那智様がこの会合はかりごとを見ていないとは言い切れないために、那智様に言い聞かせるために半分。笙木はそう読んだ。

 明日香様と那智様の間に、なにか「都合」があったということだろう。

 笙木は明日香が何かに思い悩んでいることが分かっていた。何か己に隠し立てをしていることも。

 だがその内容は見当のつかない。

 今のことも、主紗のことも、何か関わりがあるのではないかとは思う。だが、明日香が聞くなというように避けているのも確かで、だから追求できないのだ。

 対外的そとのまじわり領内くにうちも、やらねばならぬことがいくつもある。正直、落ち込まれなどされている暇もない。

 このようなとき、主紗がいれば神殿かむどの内殿うちつどのの様子が分かるし、それとなく窺い知ることができるというのに。

「……何をやっているのだ、主紗あいつはっ」

 思わず笙木は愚痴を声に出した。

 会合所はかりどころを出た渡殿わたどのの端にある階段きざはしの元で、あるじを待って控えていた伴人ともびとは、現れるなり声を荒げた笙木に、誰のことか、己か、と二人顔を見合わせた。

 笙木は苦笑いして、なんでもない、と手を降った。そうして、軽く息を吐く。

 これから、この国はどこへ行くのか……。

 暗闇に迷うような心地で笙木は思った。明日香様も、郷士も、民も、今を憂いている。だが、その答えは憂う感情きもちだけでは出てこないのだ。

 ……生きているから、幸せを感じるのです。

 ふいに、水姫の言葉が笙木に突き刺さった。生きているだけでは、幸せになれなかったのです、と笙木は言いたかったかもしれない。

 幸せは生きている者が皆、そうありたいと願っているはずだった。己にでき得る限りを生きていける者は、なんと幸せなことか。

 そうだ、憂うだけでは。

 憂うだけでは、手にしていたものを、いつかすべてこの手からこぼれるように失っていくのだ。それを笙木は身に染みて知っていた。

 幸せがまた巡ってくるなら、そのときはこの国が、皆が、また憂うことを忘れるのだろう。

 いつかの月を、笙木は思い出そうとする。あのとき通った道、水葉を抱えながら見上げた月。

 それは、つらいときに思う月だ。あのときほどつらいことはない、ということを確かめるために。紗鳴が死んだとき、その報いだと思ったように。

 だが今、あのやけに冷たく煌々とした月が、ぼやけて思い出せない。何か、淡い月だったように感じて。

 きっと先ほど、風が御簾を巻き上げたときに、明日香様が泣いているように見えたからだろう。

 ……それとも、今はさほどつらいわけでもないからだろうか。

 笙木はふと立ち止まる。従っていた伴人たちが合わせて片膝つくようにその場に控えた。

「馬を駆る。来い」

 振り返った笙木は言い放つと行ってしまった。内殿うちつどのに参るとばかり考えていた二人は慌てて、どこへと思いながらもあるじを追う。

 笙木は久しぶりに通るつもりでいた。あの時の道を。あの道が、これからの始まりのような気がする。

 すべての運命を決めた道だと知らずとも、笙木はどかでそれを感じたのか、「これから先」をその道に求めた。

 ……暗闇を迷う道でも、一筋の輝きが道となる。

 笙木が幼い頃、誰かがそう言ったのだ。

 誰かが……、海の先で。夕日の先、暗闇の先で。

 笙木が生まれた、ここではないどこか遠くの先で。


 そしてすべてそこへ続く道が輝いていることはまだ誰も……、笙木自身も知らなくとも。

 輝きの先を誰もが求めている。

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