おそらくは……、今は誰も知らぬところの闇。

 己自身も、何故その存在があるのかを忘れた頃。

 自らの意思を遂げなくてはならぬ哀しみも、 何故この意思を遂げるのかさえも忘れた頃。


 心が……動き出す。それは、幸せを生み出すのか、という疑問のもとに。そんなはずはあるまいに、との疑問のもとに。

 それでも……この自らの「意思」は遂げられる。

 誰の断わりもなく。誰の事訳ことわけもなく。


 この……世界に生きる者には知らぬところの闇の中。

 その「意思」を決めた己自身が、すべてを忘れた闇の中。そのいちばん奥底に、あがらう者があろうか。同じ「名」のもとに生まれたならば。

 たとえ……護るべき者に恨まれた存在であったとしても。


 ならば、今少しだけ、この霊力ちからを。

 誰かのために使う者に……。


 その是非は、己の預かり知らぬところのこと。


 この、今は誰も知らぬ土地の過去むかし

 思い返すも、今は心も動かぬままに。

 あれから幾千の、幾万の昼夜と年月を超えたというのに。あの疑問の答は、出てもいないというのに。是非は、分からぬまま。


 その「意思」の名を、「運命」。

「運命」を決めた心を闇の中に、光届かぬ闇の底に沈ませた過去がある。


 すべては、「運命」という闇に始まった。



「お起きでございますか? 朝餉をお持ちしました」

 女の声が、主紗かずさの耳に届いた。

 彼が二度寝から目覚めたのは、日のだいぶ昇った頃。

 意識がしだいに戻り、開けた瞳には茅葺かやぶきが映る。……彼が日頃目覚めて見るものではなかった。 

 ここは主紗の生国、山間の国の隣国。

 海辺の国である。

 彼は本来ならば越えることを許されぬ、国境くにざかいを越えた。そのまま崖から滑り落ちたときの怪我のために、生国に戻れずにいる。

 そうして、一夜明けて、女の声で起こされた。

 彼は本来ならばさほど寝起きの悪いわけではない。

 いつものように早起きをしたのだが、考え事をしているうちに再び眠りに落ちた。

 怪我のために動けずにいるが、ここは隣国。彼が早起きをしても、彼のそのあるじの元へすぐに参じることはかなわぬことだった。

 彼は山間やまあいの国の首長おびとである、明日香あすか側近もとこ従者ずさである。だから、たとえ隣国にあっても怪我がなくば、誰より先に傍に参じてみせようものを、と怪我をしたことを悔いていた。

 お役目大事が半ば、それに我が子を溺愛する母にも似た気持ちがそれに加わる。

 いつもの彼ならばまずはしない二度寝をむさぼったために、調子が狂っているようだった。その二度目の寝起きでぼんやりと思ったことは、まず今己がすべきことについて、この朝を教えてくれた女に返事をすることだと思い至って、かなり間の遅れた言葉を返した。

「……起きている。すまないが、朝餉をこちらに運んでくれるか。まだ動けそうにないのだ」

 女は返事もないまま垂布たれぎぬを巻き上げ、衝立ついたての向こうの次間つぎのまから朝餉を乗せた折敷おしきを持って来た。

 そのまま無言で主紗の牀榻ねだい代わりとなっている五重いつつえ真菰まこもむしろの元に折敷を置いた。

 まだあちこち体が痛んでうまく動けない主紗を助け起こすのも、やはり無言のままなのだった。

 ……海辺の国の従婢まかたちというものは、皆このようなのだろうか。他国に出たことのない彼にはわからなかった。

 女は、昨日主紗を助けた巫女、水葉みなはから、世話を言い付かっていた。

 彼は郷士だから、邸宅やしきに戻ればもちろん彼に仕える侍女まかたちがいる。誰かに世話をさせるのは当然だし、それに慣れてもいたが、ずっと無言でいられるのは少しばかり気まずいのだ。己の返事が遅れたためだろうか。

「……私はどのくらい、寝ていた?」

「今は夕刻ではございませんよ」

 確かに、今、女の手で巻き上げられた垂布や帳、それに開けられた格子から光が差し込んで、ひるよりも前の陽の光が差し込んでいるから、夕刻ではない。

 とりあえず話しかけてみたものの、何か会話を拒まれているように思う。

 主紗は生まれてから一度も生国である山間の国を出たことがない。それでこれまで他国の者と話すことは、山間の御宮みあらか訪問おとなう他国の使者つかいの者たちに限られた。

 己が他国をあまり知らないことを彼は気付いていたから、他国の女はあまり話をしないものなのだろうかとかなり真面目に思った。

 だが、彼は己が生国の国内くにうちの女のことを、よく知っているわけではないこと忘れていた。

 首長である明日香の身辺ちかくに仕える女官まかたちを取りまとめることを、彼は役目としている。周りに女がいないわけでもないが、話すことと言えば役目に関わることばかり、まともに彼女たちと話に興じることなどない。若さもあって、彼は女を分かっているとは言えなかった。

 彼の父、山間の国の筆頭郷士いちのごうしである笙木しょうきはたびたび

他国に赴くことがある。だが決して彼を連れて行くことはなかった。

 朋輩なかまの中には使者としてや交易あきなりなどで他国との間を行き来する者もあるが、笙木は領内くにうちのことも知らぬ間は出さぬなどと言っている。主紗もはじめは笙木のいない間の国内を任されているのだと考えていたが、年齢としを重ねるにつれて、近頃では己を領内に留めるのには何かとりわけて訳があるのではないかと少し疑いはじめていた。

 主紗は胸の内でもう少し早くに国外くにそとに出してほしかったと不平を言った。思いのほか、他国の者、それも女と話をするのが難しかったから。

 本来ならば許されないはずの国の境を越えた。

 その限りは、できるだけ「国境くにざかいの向こう」の様子を知りたい。

 両国の関係かかわりが、今は悪くなっている。もともとこの海辺の国は交易あきなりに熱心ではない。行き来が少ないから、山間の国はいちばんの隣国の様子を知る手立てが少なかった。

 己がこの海辺の国を知ることは、きっと戻ったときに戦を避けることにつながる、その手立てを探ることができる。

 彼の中に、初めて踏み入れた他国にもたげてくる気持ちがある。それは知らぬ物事へ惹かれる、若者らしい気持ちだった。

 だが、その気持ちを彼は「理屈」で抑えこんでいた。

こ んなにも、気に掛かるのは、惹かれるのは、明日香様の厭う戦を避ける手立てにつながるからだと。

 主紗は気を取り直してもう一度女に話しかけた。

「あの、名を教えてくれないか。私は主紗だ」

 名を告げることは「真実まこと」を示すことだ。

 訊ねることはときには礼を欠くことともなるが、それでもその「人」を知るためには「名」を思い「名」を示す。そのために、人も獣も草も木も「名」を持っている。

 それで主紗は己の「真実」を示すために名乗った。今の己の「真実」は、己の「気持ち」を示すことだった。

 ひととおり格子を開けて小館内たちうちに風を入れてから、女は主紗の傍らについて、水差しから瓦笥かわらけかわらけに水を注いだ。

 無言を通していても、その言い付かった役目を放り投げるつもりはないらしかった。

「……主紗どの。名を告げることは、この国では他人ひとを己のこととも思う証となる。ご存じ?」

 はじめて、女から言葉を紡がれて、主紗の表情かおが明るくなった。そしてやはり他国には他国の習慣ならいがあるのだ、と思った。

「そうか、知らぬが、それには従えよう」

 女が膳を勧めた。青あざの鈍く痛む腕で主紗は椀を手に持った。汁物に浮かんだ団子が珍しい味がしたが、それが何なのかわからなかった。

 女は主紗の話に乗らないまま、傍らに控えていた。

 というよりは、なにやら主紗を窺っているようなのだ。……食べにくい。

 ふいに女がため息とともに、声を漏らした。

「ッたく。なんで巫女様はこんな間の抜けた男を拾っって、旅の人だなんてかばうのだか」

 その言葉に主紗は顔を上げた。彼の表情かおがあまりにも思い至っていない様子だったから、女はつい、言葉を重ねた。

「ふぅ。だからねぇ、名なんぞ告げてしまえば、生国が知れてしまうものなんだよ。山間からの旅の御仁ひと?」

「あ。そうなのか」

 その返答に女は呆れた。

 国によって名づけ方が違うものなのか、言われてみれば当たり前だな、とかなり関心した主紗である。感心しすぎて、生国が知れてしまったことへの焦りが湧かない。

 彼を崖に追いやり、怪我をさせて、……そして助けたのは水葉みなはという巫女姿の少女だ。彼女は女に主紗のことを「旅の人」と事訳ことわけていたのだ。

 彼女は己から主紗に名を告げた。巫女は名を告げることを厭う。己の能力ちからを失うことにもなりかねないから。

 水葉は彼の前で「水の霊力ちから」を使ってみせた。

 姿形なりは巫女であっても、彼女の「真実」は「霊力者みこ」であることを主紗に示したのだ。

 ……彼女の「真実」を知ることができたが、主紗はその真意を推し量ることまではできなかった。

 今、揺れ動く両国の関係を思えば、その気遣いはありがたい。山間の者だと知れれば、戦の前の窺見うかみだとされても仕方がない。それは外交まじわりにも響く。

「おまけに巫女様も名を証してしまわれるし。この国には巫女なんてもともとないからよく知らないけど、巫女様の『名』ってのは大切なものなんだろう?」

 今度は主紗が呆れる番だった。水葉が己の名を告げたのは、この女を下がらせた後のことだった。どこで聞き耳を立てていたのだろうか。ここが山間の国で、水葉がもし明日香だったなら、女官まかたちの盗み聞きなど、主紗が決してさせないだろう。

 だが、主紗も、水葉の「名」のことは気になっていたのだ。事も無げに、彼女は名乗った。

『名前でお呼びなさい。水葉という』

「ああいった御方の名は軽々しく呼べるものではない。どの御方も『生れ名』と『通り名』をお持ちだが。霊力者みこ様の場合は『受け名』をお持ちだ」

 ……だが、彼女の「名」はどういった御名なのかは分からない。主紗はひとりごちるようにつぶやいて言った。

 彼女自身はそれを「通り名」だと言った。霊力者みこの「通り名」は「生れ名」から言葉を取る。そして「生れ名」は、霊力者みこであるならば使う「霊力ちから」を示す。明日香の「生れ名」である「風香音分得姫かざかねわけうるひめ」がそうであるように。

 では、「水葉」様の名は……。「生れ名」が別にあるということになる。

 つぶやく主紗を見て、女はそんな細かいことはいい、と笑った。

「さすが『巫女姫様』の国の御仁だ、詳しいね。それに言葉が生真面目なわりには抜けてるしさ。あんた、窺見うかみには向かないよ」

 ぬ、抜けている?

 己の生国での評判と間逆のことを言われて、主紗はかなり傷付いたが、それでも窺見と疑われるよりはいいと気を取り直した。

 山間の国は、ひでりで水不足が続く間は、約定きまりで海辺の国にいっさい窺見を放ってはならないとされている。

 ここで窺見とみなされれば、本当に戦になりかねない。

 今、体の動かない彼が使えるのは頭の中身だけだったから、彼は忙しく頭を動かしていた。こんなに頭を使ってひねってしぼるのは明日香のこと以外でははじめてのことなのだが、彼自身はそれに気付いていない。

 海辺の国のことで覚えていること知っていることをとにかく頭から引っ張り出す。

 民の数は山間の国よりもかなり少ない。今は定まった首長はなく、郷士たちの合議はかりごとで国を動かしている。

 海の側に広く国領くにを持つのに、山深く、中腹なかばにまで国領を広げているために、山間の国の郷士たちの一派が反発する因となった。

 そういえば、この国の郷士のひとりが父の笙木とかなり懇ろであることを思い出した。笙木が若い頃からの付き合いであるという。これは、郷士に国の境を越えたと知られればますますやっかいだ。

 ……否、己は母に顔が似ているから、顔で判ることはないはずだ。

 いろいろ考えた末に、主紗は女に向かって他の者に黙っていてほしい、と

頭を下げた。体のところどころが痛むおかげで不恰好である。

 その姿を見て、女はいいんだ、と笑い飛ばした。己も他国者よそものなのだから、と。

「山間も海辺もないものなのさ、流れ者にはね。……山間に、知ったのがいるよ。昔に、世話になったのがさ」

 懐かしむように、女は言った。

 陽の光が、木漏れ日として差し込むだけの小館内たちうちでもよくわかる、陽に焼けた笑顔を大きめの瞳。三十を超えたほどだろうか。女の言う、昔にはきっと美しい郎女いらつめだったのだろう。

 女が世話になったのが誰なのか、主紗には分からない。それでもずいぶんと親しげな態度に変わってくれたことに、ほっとして、その誰ともわからない誰かに心で礼をいう。

「あたしは笠耶かさや。じきに巫女様もいらっしゃるよ。朝の御勤おつとめがすむ頃さ」

 笠耶と名乗った女は、ゆっくり寝てな、と言い置いて空になった膳の折敷を下げて出ていった。



 笠耶を牀榻ねだいで見送った主紗は改めて陽の光で己の体の具合を確めた。

 腕やら足やらに青あざと擦り傷、切り傷が無数にある。そして打ち付けた痛みで節々が痛む。そのわりには骨が折れた様子はなく、運のいい落ち方をしたらしかった。さほど気にするほどでもない。ひとつを除いては。

 左の足首は、捻ってしまった。痛む上に見た目にもかなり腫れている。

 山路みちを行けるだろうか、主紗は不安になった。数日は動けないかもしれない。

 主紗は「風」の気配がないか、感じ取ろうとした。

 彼は明日香の「名」を知る。風がそれを許しているから、明日香はときどき己の声を風に乗せて届けることがある。そして明日香が風に乗った主紗の声を聞きとるのはいつものことだ。

 しかし、それは今適わないことだと主紗は知らない。

 水葉の使う「水」が、明日香の「風」の霊力ちからを拒んでいるのだ。

 明日香がいつでもその霊力ちからを使っているわけではないから、風が声を届けないことに少し落胆しながらも、主紗はそれを疑問には思わなかった。

 代わりに、「水」を「名」に持つ巫女……「霊力者みこ」様のことを思い起こす。

 胸の内で思うにしても、主紗は水葉の「名」を呼ぶことはやはり難しいことである。風の許しを得て、明日香の「名」を呼ぶこととは違う。

 それでも、水葉がその「名」を証してそう呼ぶように求めるのであれば、その名で呼ぶよりない。

 彼はほとんど確信していた。水葉様は霊力者みこ様であらせられる。

 彼女の「名」は「通り名」だと言う。通り名は「生れ名」から言葉をとるものであるなら、彼女は「水」を使う霊力者みこなのだ。

 昨日の雨のことにしても、彼女が現れてから都合よく降るなど、何か得がたい霊力ちからがないとありえないことだ。それは彼女の呼んだ雨に違いない。

 わずかな確信を抱いても、主紗には分からないことが多すぎた。彼女が雨を降らせてみせた理由わけ。そしてあの不敵な、冴え冴えとした笑み。冷たさも哀しさも

虚しさも、ない交ぜたような笑みの理由……。

 分からなくても、彼女が「水を使う霊力者みこ」であることは間違いがない。それも、風のないまま「水」だけで雨を降らすことのできる。……森という小さな場

所だけに絞って降らせてみせた。それは雨を降らすのに「風」を使っていないということなのだ。

 風を使わずとも、水を雨とする……。

 風は水を雨にするのを易しくするという。明日香の母、水姫みずきは、火を使って空を温め、水を使って雨を起こし、風を使って広く雨を降らせた。

 主紗は「風」のないまま雨を降らせることがどれほど難しいことか知っている。明日香の従妹、那智なちはわずかに「水」を使うが、それを雨とすることができな

い聞いている。

 彼は水葉の霊力ちからを思い、身震いした。

 それは少なくとも那智の霊力ちからを凌ぎ、もしかしたら明日香の霊力ちからを越えているのかも知れない。

 それほどの霊力ちからを持った霊力者みこが今、隣国にとどまっている。決して関係かかわりの良いとは言えない、海辺の国に。

 彼女はここに来て、ふた月になるという。それはちょうど、雨が少なくなって、旱ひでりを予感させた頃のことではないか。

 山間の国はがこの周辺まわりの国々の盟主あるじたるは、明日香の霊力ちからを他国の者たちが敬うからだ。敬い慕い、そして畏れる。そのことで山間の国は勢力ちからと平安を保ってきた。

 今、明日香の上回る霊力ちからを持った霊力者みこが現れたなら。……国々の勢力ちから均衡つりあいが崩れるのではないか。

 彼女は「国を持たぬ旅の巫女」だと言った。海辺の国はその霊力ちからに気付いているのか、主紗には見当もつかない。

 主紗は水葉のあの笑みを見てしまった。底知れぬ闇を己の内に沈める彼女。

 その闇に触れれば、何かが崩れていくような、はっきりと掴むことのできぬ、その不安が、彼に次の疑問をもたらした。

 あれだけ「水」を自在に使いながら、なぜ水葉様は「受け名」を持たぬ。

 その霊力ちからの「意思」たる「受け名」は、使う霊力ちからの源から与えられる。名を受けていなければ、風は明日香の自在にならないのだ。

 名を受けたなら「通り名」を呼ぶことも名乗ることも許されない。

 あくまで「通り名」は「生れ名」から言葉をとっただけのもの。そして「生れ名」は「名受け」したときから、失う。

『私は旅の巫女にすぎない。……霊力者みこ様とは違う』

 あの言葉は、どういう意味だったのだろう。……水葉様は偽りをおっしゃられたのか。

 水の霊力者みこの瞳に潜む闇にすべての謎がしまいこまれていて、それが開け放たれたときに、何かが変わっていく、崩れていく。

 主紗はなぜ、己がそう感じているのか、分からない。

 それは不安であって、予感だった。

 昨夕には痛みで易くできるものではなかった寝返りを打つのが楽になっていることにも気付かず、彼は牀榻の上でごろごろと訳もなく転がった。

 何か、しなくてはならない。何が、できる。

 焦りが、彼に訳のない行いをさせた。

 笠耶が蔀格子を開けてくれたために、御簾代わりの垂布たれぎぬから風が吹き込んでくる。その風は主紗の心待ちのようには、明日香の声を届けなかった。

 だが、風は……人の訪問おとないを告げるという。

 言い伝えの通りに主紗は気配を感じて振り返った。

 そっと小館内たちうちに現れたのは、やはり水葉だった。



 ここは山間やまあいの国。

 笙木しょうきは、首長おびとである明日香に朝早くから会合はかりごとの前に呼ばれた。ために今、その御前にある。

 内宮うちつみやの画成す神殿かむどので、御簾越しに平伏したまま笙木は動かない。

 彼のあるじたる明日香が頭を上げるように言っても応じず、ただ呻くように申し訳ございませぬ、と言うばかりである。

 昨日のこと、明日香付きの従者ずさであるにも関わらず、その行き先も告げずに御宮みあらかを辞してのち、一夜が経っても戻らぬ嗣子むすこ所業おこないに、父はただ頭を下げ続けるよりないのである。

 父子ともどもいかなるお咎めも、という言葉を明日香は遮った。

「くどい。よいと言ったぞ、笙木」

 だが笙木は頭を上げる気になれない。

 明日香は頑なな己の筆頭郷士いちのごうしに軽く息を吐いて、その態度を仕方なく受け流して話し始めた。このような早朝から笙木を呼んだのには訳がある。

「笙木よ。私のこの霊力ちからは『民』のためのものであるな?」

「……明日香様?」

 何を、と笙木は思わず気がそがれて頭を上げた。

「しかし今、民が求めるものは私には呼べぬ。それでも、隣国に求めるものそれがあったとしても、戦は……民の求めるものではないな?」

 ひとつひとつ確めるような明日香に、笙木はそのとおりにございます、とうなずいた。

 その笙木に聞こえないように、息を吐くように、明日香はそっと言葉にする。

「戦を避けることができるならば、私も咎められまいな……」

 何かの気配を感じた笙木は、ただ、御簾越しの主の言葉を待った。

 そして明日香は、昨日の会合はかりごとでの己の言葉の偽りを正す。

「雨は……降る気配もない。だが笙木、お前なら、戦を望む者をおさえるには、足りるだろう?」

 笙木は息を飲んだ。久方ぶりに、悪寒にも似たものが、背筋から這い昇ってくる。これは……そう、己のはじめの主人、水姫みずきに対していたときに生じたもの。

「このような私に、主紗を咎められるはずもない。民にこの霊力ちからを捧ぐことのできぬときに、私にできるのはこの位のことだ」

 民のために何かを。そのために霊力者みこ霊力ちからを持ってこの生を得た。

 だが、何よりも明日香は分かっていた。

本当は、民のため、などというのは口実だ。……戦を望まぬのは、己の気持ちに過ぎない。

 この山間の国に霊力者みことしての生を受けて、風の名を受けて、民のために生きる。

 己が己として依って立たない生を、今生もそして転生の末までも生きる。

 霊力ちからは、明日香のものにならない。

 風が、民のために貸してくれる、それだけ。

 この国の首長として生きるのは、この身には存外重いものなのだ。

 母に捨てられたわけでなく。

 母の顔を知らぬわけでなく。

 この山間の国の御宮みあらかの奥で、生きてきた。

なのに、こんなにも、重い……。

 転生によって、祖先おやからこの霊力ちからを託されたのは、明日香の身というもいであることは間違いなく、そして明日香の身はそれを確かに受けた。

 だがその霊力ちからは、明日香のためのものではないから、明日香に何をもたらすものでもない。……もたらされてはならないのだ、霊力者みこは「民のために生を捧ぐ」のだから。

 それでも。

 今、繋がりかけた双子の姉、水葉への糸を、戦でなど、裁ちたくはない。

 己は、許されるだろうか。咎められるだろうか。

 ……誰に? 何かに。風と民に、そして、水葉に。

 押し黙る明日香に何を感じ取ったか、笙木は己から口を開いた。

「明日香様。戦を申す者とて、この国を想ってのこと。ただ、方法てだてが異なるだけにございます。易く退けてはなりませぬ。……同じように、雨がなくとも、異なる方法てだてがあるものかと存じます」

 明日香には、笙木の言う「異なる方法」がひとつだけ胸の内にある。だけどそれを今、言う気はない。きっと、それはとてつもなく難しい。

 だから、別のことを言った。

「主紗はしばらく戻らぬ。……風からの応えだ。案ずることはない。ただ、戻ったなら、まず参らせよ。お前からきつく言わぬでもよいぞ。それまでは参上の見合わせ、ただの休みだ」

「お心遣い、過分なほどに。しかし……」

 何ゆえか、と問うた笙木に、明日香は詳しく語らなかった。今はまだ、この頼れる筆頭郷士いちのごうしであっても、

 伝えられない。伝える言葉を持たない。

 そしてまた、今は伝える「その時」ではない。

 代わりに明日香は話を変えた。

「笙木は、私が生れたときのことを覚えているか?」

 その明日香の問いに、笙木は瞬き程の間、言葉を詰まらせた。是も否も、彼に答えられるものではない。

 彼にとって、問うた明日香が知るはずのないことなのだ。……「真実まこと」を知るものは、あまりに少ない。

 だから笙木は言葉を選んだ。

「……覚えていることも、少しは、ございます」

「少し、か? まだ物忘れするような年でもなかろう」

 笙木はまだ三十をいくつか超えただけ、筆頭郷士いちのごうしであっても、会合はかりごとに名を連ねる者の中では年を下から数えた方が早いのだ。

 笙木は右頬の太刀傷が疼くのを感じた。この傷はずっと以前むかしについたもの、痕が残ってはいるものの、痛むはずもない。

 だがこの傷は明日香が生れたちょうどその頃の戦でついたもので、その記憶は彼にとってあまりいいものではなかった。その話は、否応なく彼にその頃のことを思い起こさせ、気のせいであるはずの痛みを感じさせる。

 そして知らず、笙木はいつも己の平緒ひらおの帯に通している翡翠の勾玉と珊瑚の手纏たまきにその手で触れる。……それは笙木の妻、紗鳴さなるの形見なのだ。

 その様子を見て、明日香は人払いの合図に手にした扇を鳴らした。控えていた女官まかたちがするすると下がって行く衣擦れの音がする。本来ならばこうしたときに女官をまとめる主紗がいないためか、どことなくざわざわしている。

「……やはり、主紗がいないのが分かるな」

 神殿には今は明日香と笙木が在るのみ、そのつぶやくような彼女の言葉に、笙木は居住まいを正す。

「笙木、私が生れた頃のことは、みな話したがらぬ。古参の女官も、昔語りの古老も。知らぬ者も多いな」

霊力者みこ様のお生まれのことは……やはり畏れ多くも軽々しく口にするものではありませぬ故。詳しく伝え聞くものはありますまい」

 確かに霊力者みこみこの、首長おびと出生うまれのことを、そうそう口に出せるものではない。産事うぶごとは生と死が混じり入り乱れる大事おおおごと、それが霊力者みこみこであれば尚更のことである。

 霊力者みこの産事では、前世さきのよに逃れた死が降りてこないとも限らないから、みな関わったものは口を噤む。

 だが明日香の場合は少し違った。知るものが殆どないのは、他ならぬ関わったものが少ないことと、他ならぬ笙木が口止めしたからである。そして知る者も、今はすでに常世とこよに迎えられた者ばかりだ。

 だが例え笙木が口止めしなくても、立ち会った者たちはおそらく自ら口を噤んだに違いなかった。

 霊力ちからを具えて生れた御子姫みこひめが、忌むべき双子だったのだ。一族うからのすべてが霊力ちからを持つわけではない。久方の霊力者みこ出生うまれ、望まれたはずの霊力者みこが、……双子で生れた。

 ……双子は、天に返さねばならぬ。

 本来ならばいづれ首長おびととなる姉姫えひめを生かすところだった。だが霊力ちからを具えていたのは妹姫おとひめだ。霊力者みこは、民のために生れる。失ってはならない……。

 二人とも、霊力者みこであればよかったのだ。だがそれも今はもう、過ぎ去りし願い。

 双子の母もまた、この国の首長、母の愛し子を想うその気持ちはだが、民のために生きるその運命さだめを変えなかった。

 人は生を繰り返す。霊力者みこでなくとも。次に生を得るときには誰からも望まれるように。そう想いながら、母である水姫は、姉姫を天に返した。返そうと、した。

「何ゆえに今、そのようなことをお聞きになります」

 笙木の問いに、明日香はただ聞きたいだけだと答えた。

「時々……、己の生が運命であることを忘れそうになるのだ……」

 ただ普通に生れたかっただけかも知れない。風に愛されて、名受けした。だが、そうでなくとも生きていける強さがほしい。

 民は強く生きている。己はこんなにも、何もしてはあげられないのに。

 民のすべての弱さを、霊力者みこが代わったとでもいうのか……。

 それでもこの身は「三度目」の生を受けた。忘れそうになるのは、明日香の生が己のものにならないということ。

 笙木は、明日香に危うさを感じた。

「明日香様。その昔に逢った者が申しておりました。『運命を忘れても、大切なものがある』のだと。身の低い者の言うことだとお聞き捨てなさいますな。どんな者の生も、大切なものでございます」

 どんな者も。その中に、明日香も……。

 だがそれをその通りに受け止める気持ちの余裕が、今の明日香にはない。

 代わりに、いつものように首長としての言葉を。

「笙木、本日の会合はかりごとで、井戸を私の下に取り計れ。少しでも、戦のはずみにならぬよう」

 おそらく、笙木の下におくよりも、反発はない。

「……下がれ」

「は」

 笙木は首を深々と下げてから御前を退いた。

 ひとりになってから、明日香は迷った。せっかくの機会をひとつ見送ったことにならないか。笙木に伝えるべきは今だったのだろうか。

 ……忌み嫌われた姉姫が戻ってきたこと。それも隣国に。さらに、姉姫が主紗と出会ったこと。

 きっと、明日香が白夜を可愛がり過ぎるから、二人の縁を作ったのは、己なのだということも。

 そして、笙木は、人殺しなどではない、ということ。



 海辺の国にふた月ほども前に現れた巫女は、五重の真菰まこもの莚を臥処ふしどにして、衾麻ふすまを膝掛けて体を起こした男の傍に、円座わろうだを敷いて振る舞い鮮やかに、腰を下ろした。

 男は若く、身なりもいい姿で、肩にかかるほどの髪をひとつに束ねている。瞬きほどの間だけ驚きの色を見せた男の双眸ひとみを見逃さず、巫女はその口元を緩めた。

 笠耶は二人の様子をなぜか張り詰めた心持ちで見ていた。

 巫女様は気安い方だし、男はどこか抜けたところのある他国者よそもの。少し妙な取り合わせではあるが、他におかしなこともない。張り詰めたものが二人の間から湧き起こっていて、小館内たちうちを取り巻いているのではないかと思った。

 主紗は今目の前の巫女と、いつも己が傍らに仕える霊力者みこを思った。

 同じ二重の双眸ひとみは鳶色、黒目がちに濡れたように見え、紅もつけぬふっくらとした唇もやはり同じ珊瑚色、黒々とした豊かな髪は艶やかに肩口を流れ背を覆うほどの長さがある。

 水葉が現れたとき、それが明日香でないことがわかったからこそ、主紗は目を見張った。今改めて対峙して、わずかな違いを見つけて安堵する。

 明日香はその髪を平時、ゆったりと末に近いところで括っている。水葉はそれを背に流れるままにたらしていた。

 華美な衣を嫌う明日香は、大袖の白い衣に、大口の緋袴ひばかまで野を歩く。御宮みあらかにあっては、綾絹裳あやぎぬのも胸高むなだがに着込んで、夏のことだからに織った領巾ひれを肩掛ける。

 目の前の水葉は粗絹あらぎぬの大袖の衣の上に木綿ゆふ貫首布くびぬきをかぶって太帯を巻きつけ、大口の緋袴の裾を紐で括りつけていた。

 そして胸元には大きな翡翠の勾玉が揺れる。

 似ているのは……華やかさ。

 明日香は華美なものを嫌うが、御宮みあらかで育つうちに自ずから身についた華やかさを纏う。

 だが、これほどに異なる毎日を送る彼女がなぜ鄙にも珍しき華やぎがあるのか。 否、ここにあるからこそ際立つのだ。顔立ちだけではない、似たものを纏う二人のその訳は、それでも今主紗の興味ではなかった。

 しばしの沈黙に先に口を開いたのは水葉である。

「薬を集落むらの者からいただきました。使うと良い」

 楮紙かみに塗られた薬はその色から芥子泥からしでいのようだ。腫れてしまった左足首に湿布するのに、主紗は有難く頂戴した。笠耶が進み出て、布で楮紙ごと巻きつける。

「……白夜は、馬は手配して下さったか」

「お馬はすでに国内くにうちにいる」

 水葉のその言い方で、主紗はやはり、と思った。

 訊ねるならば、今のうちだ。手当てしてくれる笠耶が気になったが、人払いしてもどこかで聞き耳を立てられるなら、同じだ。……ここは御宮みあらかではない。己の役目の及ばない場所なのだから。

 腹を括った主紗は、手当てを受けながらも水葉に向き直った。

「わかるのですね、霊力ちからで」

「……お馬が、水を飲んでいたから」

 水葉は格別なく、答えた。

「水を名受けされているのか。では貴女は『水を使う霊力者みこ』様であられるのか」

「……昨日は何も訊ねられなかった方が、一晩で変わられたこと」

 わずかに皮肉を含んだような笑みを湛えて、水葉は言い含めるように語った。

 もしもすべてを知ってしまったなら、きっと何もできなくなる。誰もが生れたときのことを覚えていられないように、許されることと許されないことがあるのだ、と……。

「どういうことです?」

「誰も永遠とわに生きられない。誰にも代えられないものがあるということ」

 水葉は主紗を見据えた。奥の見えぬ、そして明日香と同じ鳶色の瞳。

「……ひとりで起きられるようになったようだけれど」

「少し痛みます。歩くには少しやっかいだ」

 主紗は薬を湿布はった左足首がじんわり温まるように感じながら答えた。

 それを聞いた水葉は笠耶に葛布くずぬのと革紐を持たせた。

 堅く伸び縮みの少ない繊維いとで織られた布を、主紗の足に巻き直させる。

「しばらく戻らなくても平気らしいから」

 笠耶が慣れた様子で革紐を掛けるのを見ながら水葉は言った。……それも水の答えなのだろうと、主紗は思い巡らす。

「貴方の生国はずいぶん水が少ないようだけれど。……あるところには、あるものだから」

 立ってごらんなさいという水葉の言葉に慌てたのは当の主紗ではなく、笠耶だ。

「巫女様、無理をさせては治りが遅くなりましょう!」

 笠耶の言葉を制して、主紗に言う。

 この海辺の国を知りたいのでしょう、と。

「知らぬことは己で見聞きするのが分かりやすいもの。辛いようなら、私につかまりなさい。この国では旅人を海千山千の幸で迎える慣習ならいがあるの」

 それを聞いて笠耶はますます慌てる。

「皆に会わせるおつもりですかっ、山間の者と分かれば大変なことに」

 主紗はつかまれと差出した水葉の手をやんわりと退け、笠耶に肩を貸してくれと言った。

霊力者みこ様に寄りかかるのは礼に適いませぬ。笠耶殿、お願いします、名乗らねばよいのでしょうから」

 名が生国を明かしてしまうのは、学んだばかりだ。

 呆れた笠耶が立ち上がろうとする主紗にしぶしぶ支えた。

「あんた、揮尚きしょうと名乗りなよ。……あたしの国里にある名さ」

 どうしてこう、山間の男ってのはばかなんだろうねぇ、と笠耶はつぶやいたが、主紗に彼女がばかと呼んだ男が誰だか分かりはしない。



 海真みまさは森に向かっていた。

 この海辺の国にわずかに耕された畑の手入れのあと、森に入って山の幸を得るのが彼女の毎日で、それはきっと生れて母に背負われているころから四十年以上変

わらない。今日はどこに何を採りに行こうかと考えながら、この道を行くのである。

 森の入り口で人影を見た。ここで会うのはたいてい、ここふた月ほど国にいる巫女様かその世話役を郷士の旦那方に仰せつかっている笠耶くらいのものである。だが海真の予想は外れてしまった。

 笠耶にもたれるように肩を借りて、足を引きずった男は、海真の知る海辺の男の誰でもなかった。

 男は肩にかかる程の髪をひとつに束ねた細身の若者で、身なりは良く見えた。

 盤領まるくびほう垂領たりくびに着て、筒袴つつばかまには足結あゆいを付けて脛巾はばきの代わりか膝から下に布を巻いている。歩きやすくするための脛巾の他に、左足首に幾重にも重ねて布が巻かれていたそれは怪我をしたためらしかった。

 男は腰にとう蓋付籠ふたつきかごと竹の水筒、を短剣つるぎを帯びていたが、旅の者にしては身軽過ぎるように思われた。

「笠耶、なんだい? その御仁おひと

「おばさん、怪我した旅の方を拾ってきたのさ。皆に知らせに行くよ」

 笠耶の言葉に海真は深く考えずうなずいて、男に笑いかけた。

 ここは海辺の国。人は入り、流れ出ていく。そしてそのまま住まう者もある。それだけのことだ。

 近頃は旅の者が少なかった。今夜は久々の宴だ。楽しみにしておくれ、と声をか

けた。

 海真は今日は季節の早い石榴ざくろ茱萸ぐみを採ることに決めた。母に聞いた、海真だけが知る木がこの海辺の国の森や林にはいくつもある。それから千振せんぶり大葉子おおばこ苦参くららを探そう。薬になる草花はいつも宴のあとに足りなくなる。

 海真は笈籠おいかごを背負い直して、笠耶と旅の男をあとにした。



 主紗は己のいた小館たちが森の入り口にあるのを、一日ぶりの外で知った。小路に覆いかぶり重なるような木木の間から日の光が木洩れて、見上げるには眩しい。

 笠耶の肩を借りて歩くうちに急に木々が途切れて、視界の幅が広がって開けた先。

 主紗にとって初めて間近に見る海が、何よりも遠く続いていた。

 山間の国、山々の隙間からわずか一点から望む海は群青に藍に染まって見えた。

 だがここは違う。海の水はこんなにも輝いて、翡翠を散りばめたようだ。そして遙か先の空へと続いているのだ。

「夕刻の入り日にはもっと輝くよ。金色になる。稲穂よりも輝くよ。海はどこにでも行ける道なんだ。もうすぐそこが集落むらさ、そこまで行けば波が見えるよ」

 笠耶はそう主紗に教えながらゆっくり歩いた。

 水葉は海辺の郷士たちに旅の者の来訪おとないを伝えに行った。怪我をした主紗を連れるには、郷士たちの邸宅やしきは少し離れているため、本来であれば旅の者から出向くところを事訳ことわけるのだ。宴には郷士たちも集まるから、そのときにでも挨拶しておけばいいだろうという。

 郷士たちと顔と合わせるのは避けられそうにないが、主紗は他国との外交まじわりにあまり深く関わったことはない。知った顔があったとしても、当の郷士の方が主紗を見知っていることはまず考えにくい。その場でなんとか取り繕うことができるはずだと、主紗は考えた。

 笈籠した女が小路を向かってくる。これから森に入るのだろう。笠耶よりもひと回りは年を重ねた女だ。

 笠耶と二言、三言声を交わしてすれ違って行く。

「あのおばさん、木の実を拾ったりつんだりするのがうまいのさ。宴にいいのを見つけてきてくれるよ」

「宴とはなんだ? さきほど水葉様も仰せだったが」

 海辺の国は来る者を拒まない。笠耶も初めて来訪おとなったときにも宴が開かれた。……とても大変なことがあった後だったにも関わらず。

 だがそれももう、ずいぶん以前むかしのことになった。……いろんなところからいろんな者が来て、そして去っていくのだ。

 笠耶はそんなことを教えながら思いついたように加えた。

「あんた、その話し方、気をつけなよ。郷士だってのがわかるよ、それ」

 主紗は身の上など笠耶に話していなかった。それでもわずかなことで笠耶にはわかるものなのだ。例えば、主紗が山間の国で郷士身分であることが。

 己が何も知らないということを改めて思う。そしてそれはどれだけ危ないことか。

「……笠耶殿、できるだけずっと傍にいてほしい。それが厭うことでなければ。私一人ではどうもだめらしいから」

「だ、だから、あんた一人で動けないんだろっ」

 主紗が答えた言葉はかなり脈絡すじから離れていたのだが。笠耶はその言葉を顔を背けながら応たのは、赤くなりそうだったのを主紗に見せたくなかったからだ。

 もちろん主紗は何も考えずに言ったのだと、笠耶は判っていて、だから、殿はいらないよ、とつんとして言い返すよりなかった。

 二人の足元はしだいに砂浜へと変わっていく。足が沈むように埋まるが、主紗の痛む左足では、堅く踏み固められた土の小路よりもずっと歩きやすい。

 集落むらは砂浜にある。苫屋とまがいくつも集まって並ぶ中に、何もなく広がった場所がある。

 山間の国のむらもこうした作りがされているから、主紗はそこが民の作業場しごとば会合はかりごと祭祀まつりの行われる広場なのだと分かった。苫の作りは山間のものの方が丈夫そうに感じられたが、集落むらむらの様子は大きく違うわけではないらしい。

 笠耶に言われて、主紗は砂地に腰を下ろした。周りを見渡すと、女たちが仕事の手を休めて集まってくる。

 海に浮かんでいるのが、海の舟か。川の堰内で使う舟と違って見えるが、どこが違うのか判るほど近くに舟はなかった。

「笠耶、旅の御仁ひとかい?」

「そうさ、怪我をしているものだから、ここまで連れるのに、難儀したよ」

「今夜は宴だね、久しぶりじゃないか。近頃は旅の御仁が少なくってつまらなかったけれど、これで憂さも晴れるよ」

「おや、憂さは旦那で晴らすんじゃないのかい?」

「あはは、若い方がいいや」

「ずいぶん若いね、いくつだい?」

 口々に勢い良く飛び交う言葉に主紗は少し圧されてしまったが、その言葉の中に己に向けられたものを見つけた。

 少し考えて隠すことではないと思い、慎重に十七だ、とそれだけを言うと、一斉に女たちは若いねぇと感心とも羨望ともつかぬ声を上げた。

 きっと郷士のいないときは山間の民もこうであるのかも知れなかった。それでも、どこかこの海辺の民たちに、華やぎのような鮮やかさを感じた。

「若いのは歓迎さ。これだけ騒げば沖の舟も気付いているだろう。皆忙しくなるよ、仕度にかかりな」

 中のひとりが手を打ちながら言った。女たちをまとめている者だろう。その女は合図のように海に向かって手を振った。他の女たちはそれぞれ仕事にとりかか

り始めた。残ったその女が、主紗に声を掛けた。

「悪いね、みんな人好きな連中でさ、他国よその御仁は驚くみたいだ」

「かまいません。宴を開いてくれるとかで、ありがと

う」

 主紗はできるだけくだけた言い方に心砕いた。これほどくだけた言葉は、同輩ともにも使わない。少しおかしくはなかったかと心配したが、女は気にもとめなかっ

たようだ。

「旅の御仁が来たってのに何もしないんじゃぁ、海辺の民の名が泣くのさ。郷士様には顔を見せたかい?」

 これには笠耶が答えた。

「それがさ、音潮ねしおさん、巫女様が伝えに行ったんだ。あそこは遠くて怪我人を連れるには大儀なもんでさ。どうせ宴においでになるだろう?」

 巫女様が行って下さったなら平気だね、旅の御仁のお相手は頼んだよ、と音潮は他の女たちの仕事を手伝いに行った。

 主紗はなんだか話についていけなかった。



 波はなぜ、返ってくるのだろう。

 砂地に座り込んで、主紗はずっと沖と波を見つめていた。少しずつ傾く陽の光を浴びながら、その不思議さに一人見入っていた。

 先ほどまで、子供たちが主紗を囲むようにまとわりついてきては、砂をかけあったりして遊んでくれていた。兄弟のない主紗はこんな風に遊ぶのはずいぶんと久しぶりで、嬉しくて、一緒になって砂の上でごろごろと転がっていたのだが、宴の仕度が忙しくなってきたのか、どの子も母に呼ばれて行ってしまった。

 笠耶はずいぶん前に、煮炊きに呼ばれている。

 それで主紗は一人ぼんやりと、飽きることなく海を見ていた。

 沖から戻った男が、主紗に声をかけた。

「旅の御仁、海ははじめてかい?」

「あぁ。きれいだ。……これが海か」

 それは素直な想いだった。主紗の座ったこからは、浜辺から伸びた岩場の他に、海と陽の光が見えるだけだ。

 波が揺れて、砂を引き寄せ、押し返す。

 それが陽の光に輝く……。

 同じ繰り返しなのに、一度も同じ波はない。返る波は、いつも違う波だ。

飽きる様子もなく海を見る主紗に、男は軽く笑った。

「今はきれいだが、雨と風がいっぺんに来たときの海はこんなに優しくない。荒れ狂って、ひっくり返る」

 こんなにきれいな海を。山間の国では誰もが望む雨と、明日香様の使う、優しい風が?

「雨と風が、海を変える。そんなときに沖にいたら、間違いなく命はない。何人も死んだ」

 主紗は言葉を返せなかった。男は構わず続ける。

「死ぬ奴がたくさんいるからな。入ってきた旅の御仁をたくさんもてなすんだ。代わりにな」

「ここは……死んだ者の代わりが在るのか」

 そういうわけじゃない、とまた男が笑った。

「ま、しばらく居ればいい。意味がわかるさ」

 ここは……別の世界だ。何か、知らぬ世界にいるのだ。

『知らぬことは己で見聞きするのが分かりやすいもの』

 水葉はそう、主紗に言った。

 彼は今、己が何を知らねばならぬのか、何を見聞きして知ろうとするのか、判らぬ。

 少しずつ入り日となる陽。波の音。女たちの歓声。男たちの掛け声。

 たくさんのことが起こっている。だが、己のしていことはなんだろう。

 主紗は砂を握った。指の間から砂がすり抜け、少しずつ小指の先から零れ落ちては砂が潮風に遊ぶ。……掴めないのは、この砂だけではなく、すべての物事。

 知らぬことも。知るべきことも。すべてはこれからのこと。

 だが、その「これから」がいちばん判らぬ。

 ……先のことなど誰も何も掴めはしない。



 おいしそうな匂いが潮風にのる。海に見とれた主紗に、男が手を差し出した。

「宴が始まるぞ。旨い魚を捕ってきたんだ、食べてくれな」

 ひでりのための水不足で、主だった祭祀まつりの他は控えている己の

生国が、嘘のように遠い。

「ここは……、いいところだ」

 主紗は男のしっかりとした肩を借りながらつぶやいた。男は主紗よりも少し年上だろう。日に焼けた笑顔をさらにしわくちゃにした。

「嬉しいぜ。だがな、そいつは俺よりも郷士の旦那方に申し上げてくれ。喜ぶぜ」

 主紗が沖を眺めている間に、砂の広場に、宴席が出来上がっていた。篝火かがりの用意がされて、簡単な高座が設けられている。絹で縁取られた筵が敷かれ、掖月わきづきが置かれていた。

 酒甕と盃が並べられ、高杯たかつき折敷おしき、籠には果物や木の実が盛られ、大皿には、山間の国ではめったに見られぬ魚貝が山となり、鍋は湯気がたっぷりと上がっている。

 音潮がてきぱきと人を動かしているのが分かる。人手が足りないと笠耶は音潮に駆り出されて行ったが、頭が上がらないようだった。

「彼女がかしらなのか?」

 男は主紗が音潮のことを言ったのだとわかり、

「いや、ただ皆をまとめるのがうまいだけだ。女たちは舟に乗らない者も多いから、頭はいらない」

 その言葉を舟に乗る男には要る、ということなのかと、主紗は捉える。

 男は少し考えて、付け足した。

「まぁ、おかに上がれば頭などいないも同じだ。海は危ない。だから頭には必ず従う。海の上ではそうだが、ここは陸だ」

「さぁさ、こちらに座っとくれ。もう郷士の旦那方、いらっしゃる頃だ」

 音潮が小瓷かめを運びがてら言いおいて行ったので、とりあえず主紗は目に付いたところに腰を下ろした。男は違う者に呼ばれて行ったが、代わりに笠耶が来て、放っておいた詫びなどを言う。

「あとは郷士さま方が来たら始まる。巫女様もご一緒においでらしいよ」

 ざわざわと周りの者たちも座に着きはじめている。

 笠耶が様子をみて、主紗を促した。郷士の方々が、宴の席についたようだ。挨拶は当然ながら、こちらから伺うものだ。それで主紗はまた笠耶に方を借りた。

 高座の掖月や円座に、郷士がついていく。その顔を主紗は一人ひとり確めていく。はっきりと彼が見知っているのは前年さきのとしに山間の国を訪問おとなっった一人である。

 かなり大掛かりな来訪おとないで、明日香付きの者たちも皆、宴などのもてなしに携わった。

 主紗は裏方として宴を取りまとめていたから直に挨拶などはしていないが、笙木とは旧知であると聞いている。……いや、旧知だと聞いたから挨拶に向かおうとしたら、笙木に「挨拶はしなくていい」と止められたのだ。

 その訳は、忙しさのために尋ねなかった。今から思えば顔を出して挨拶するべきだったはずなのだ。きっと笙木と、主紗の知らぬ過去むかしに何かあったのだろう。

 名は……浦飾うらしき様、だったはずだ。主紗は己が母親似であることに密かに安堵した。

 ほかの郷士の方々も見覚えがあるのは、明日香の元へ来訪おとなったことがあるからだろうが、外交まじわりは郷士の中でも上席かみつせきにある者や、そして門殿もんでん礼会殿らいかいでんにその役目を持つ者たちが司る。主紗はただの明日香の従者ずさにすぎず、公には内宮うちつみやに詰めているだけなのだ。

 海を見据える高座に、それぞれ郷士が腰を下ろしていく。水葉もまた、その高座の席にある。

 笠耶に支えられながら高座に歩み寄り、膝を折って主紗は言上を述べる。

「他国より流れ着きました。このような宴を開いていただいたこと有難く、御礼申し上げます」

 言葉はこの場合、選ばなくていい。たいてい決まっているもので、主紗はそれを山間の国の迎賓会うたげで何度となく聞いている。どの国の、どの立場の者も、同じような言上を述べるものなのだ。

 だが、生国を聞かれやしないか、胸の内ではびくびくしている主紗である。そっと横に控える笠耶を瞳の端で確める。きっと、助けてくれる。

 郷士の中から、高座の真ん中の座に着いた浦飾がそれを受けて応えた。

客人まろうどよ、ここは海辺の国、堅くなることはない。今宵は楽しまれよ。久々の宴に皆も喜んでいる。そして礼は我々郷士よりも民の皆に言ってやってくれ。……我が名乗りに応えて、掛替えなき旅の友人に名乗りを期待する。我が名は浦飾」

 名を聞いて、やはり浦飾様だったかと思い出す。そして忙しく返答のための言葉を紡ぐのに、頭を回転させる。

「……短き間の海辺の友人の方々に非礼なきことを。この揮尚きしょう、しばらくこの国に留まることをお許しいただきたく思います」

「揮尚か。揮尚にこの海辺の国のもてなしを。さぁ、皆も盃を!」

 浦飾の言葉に合わせて篝火かがりに火入れされて、沈みゆく陽が瞬きほどの間、ためらったように見えた。そして瓦笥かわらけの盃がぶつかりあう音が続く。主紗も、浦飾やほかの郷士たちと盃を交し合う。

 高座の端に座を得た水葉は、盃を手にしたが、ふりをしただけで横においたようだ。酒が飲めぬのだろう。

「揮尚よ、皆の元で盃を受けて来てはどうか。このような気難しい郷士らと飲むにはちと若すぎよう」

 浦飾の隣の郷士が行った。高座にはすべて同じように席があつらえられてあるから、立場に差はないようだ。政事まつりごとはすべて合議はかりごとで行い、定まった首長おびとがないというのはどうやら本当らしかった。

 そして、巫女である水葉も同じ高座。

『知らぬことは己で見聞きするのが分かりやすい』

『もしもすべてを知ってしまったなら、きっと何もできなくなる』

 ……それは違う。水葉様は、己に何かを分からせようとしている。それを見せてくださる。いちばん、分かりやすい方法で。

 ここでは今、巫女と郷士が同じ立場にあるということだ。山間の国では考えられない。なるほど、分かりやすい。

 水葉が山間の国を「知っている」ことに、主紗は確信を得た。

 時折、「水」にお聞きになるのではなく、ずっとお聞きになっていて、そして多くをご存知だ。……主紗よりもずっと遙かに。

「いえ、そのようなことは。先ほど集落むらの一人にここはよいところだと話しましたら、郷士の方々に申し上げるように頼まれました。そして今のおっしゃりよう

も。……よきところによき方々が集まっておられると感じております」

 それは主紗の偽りのない気持ちだった。郷士たちは本当に嬉しそうに笑い合う。

「どれほど飾られた称える言葉よりも、今のような言葉が聞きたくて我々はこうした宴に出るようなものなのだ」

「何にも勝る、我々への褒め言葉よ」

 主紗は誇らしく語る彼らを見て、この国の郷士たちは何に代えても己の国を矜持として持ち得るのだと、胸が熱くなった。

「あぁ、いい加減、皆が待っているな。揮尚がよくとも、皆が共に飲みたいのだろう。こちらが睨まれてしまう」

「ゆっくりとこの国に在るといい。足が治るまでとは言わずに。どうせなら、住まってはどうか」

「それでは、足が治るまでに考えると致します。では、皆と楽しむと致します」

 主紗が一礼して立ち上がろうとするのを、笠耶が支えた。

 日は完全に海に入ったようだ。それでもまだ、ぼんやりとその明るみと空が焼けた色が海の上を走るように残っている。

 笠耶は何事もなく済んだことに胸をなで下ろした。その様子を見て、主紗が少しだけおどけて言ってみる。

「笠耶、無難に済んだろう? 見直してくれたか。まぁ、生国を訊ねられずに助かったが」

 笠耶に抜けていると言われたのが悔しかったのだ。

 だから、郷士たちとのやり取りよりも、笠耶の前で失態なく済ませられたことの方が、主紗には大きかった。

「ほんとだよ、答えようもないからね。でも名乗りはひやひやしたんだ、本当の名、言ってしまいそうでさ」

 そこまでは抜けてない、と主紗は言い返した。そして、己が少し浮かれていると自覚した。

 前を向くと、音潮が手を振って呼んでいる。先ほど肩を借りた男も、その席で何人かと座を囲んで酒を飲んでいる。そこに混ぜてもらおうと、笠耶を促した。

「ほらほらー、ここ座りなっ。あんた、揮尚だったね、あたしは音潮だ。さー飲んでおくれ」

 名乗りが済むと、皆も名を教えてくれるようだ。これが、笠耶が教えてくれた「名を告げることは他人を己とも思うこと」という意味なのだろう。そういえば笠耶も、主紗が名を告げたときからずっと、世話を焼いてくれている。

 主紗が座に加わって盃を手にした途端、隣の女が酒をなみなみと注いだ。

「あたしは早瀬はやせ。郷士様、なにか言っていた?」

 主紗はあまり得意ではない酒を少し口に含んだ。宴の華やかさと活気に飲まれたような心地になる。

 まだ飲み切っていない盃に、先ほど肩を貸してくれた男がさらに注いだ。

「たいしたことは。ここに住むといいと、勧められたくらいだ」

「いい考えだ。遠慮はいらないぞ、この笠耶だって元は流れ者だからな。さっきもここはいいところだと、言ってくれたろう?」

「ほんとかい、嬉しいねぇ」

 次々に流れる話に、主紗は口をなかなか挟めない。

 ただ、早瀬と名乗った女がそっと、あの郷士の旦那は宴のたびにここに住めって勧めるのだと、教えてくれた。

 聞きたいことがたくさんあるのに。

 主紗は酒が得意ではない。

 繰り返すが、決して飲めないわけではないが、得意

なわけではないのだ。

 もちろん、それは自覚していて。

 山間の国での宴のときなどは、早めに、さほど飲まぬうちに辞してしまう。

 だが、ここは隣国、海辺の国。

 そして皆、誰か彼か、盃に絶え間なく注いでくれる。

 皆の陽気につられるように、いつもよりも、ついつい飲みすぎてしまうのは、己のせいではないように思われるのだ。

 そして、注いでくれるものを飲まぬのも、……それもまた、失礼だ。

 だんだん、心地が浮かぶように。

 だんだん、あやふやになって。

 たぶん主紗は、酒に飲まれて……寝入ってしまった。



 夢の中で問い掛けていた。

 何ができるだろう。

 何ができないのだろう。


 何も知らぬ者は、困ることはない。

 困るのは、知ってしまったから。

 

 知らずにいれば、よかった?


 だけど、きっと、ここまで、これまで。

 それなりに、生きてきたから……。


 強さなどなくとも、生きてきたのだから。

 

 許しはいらない。

 言い訳もしない。


 今、ここにある。

 忘れてならぬのは、今、ここに……。

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