金色の輝きと空
真澄 涼
山間の姫巫女
すべては闇に始まる。
「声」を聞いた。
「声」を始めて聞いた。
闇の中を手探りするような一筋の光に「声」というものを知る。
生まれ出でたばかりの己のすべてをその源に近付けようと手のを伸ばす。
それは応えて己に重なる。
その「声」は己に
己の生は「三度目の命」だと知った。
己の「名」と、「声」の源のことを知った。
だが、知ってすぐにその
まだ赤子である身には無理からぬことである。
それから十六年の時が過ぎた。
本当はこの身は双子だったのだ。だからわかる。
姉が、来る。きっと会える。そう、会わなければならない。
丘の上で柔らかな風を受けて遠くを望んでいると、ふと「風」の声が己の名を呼んだ。
(……明日香)
明日香は人へ応えるのと同じようにかえした。
「何?」
(向かえが、来ますよ)
己づきの
だが、明日香にとっては、人の多い
濁りのない、透きとおった「風」を感じるために。
明日香はこの「山間の国」を統べる
この国のために風を「使う」。風は彼女に
明日香の
の
己の身が、己のものではないことを彼女は理解している。それは風と、己の統べるこの国と、民のためのものである。
だが、時折己のための「風」を求めてこの丘へ来る。
……山に囲まれたこの国で唯一、わずかひとところ、山の切れ目の「先」を見せる丘。遥か遠く瑠璃色の海を望む丘。
その海から遠く運ばれた風が明日香の頬を撫でる。それだけでそわそわと何かに急き立てられるような心地が静まるのだ。
明日香には、姉がある。その訪れを待っている。いち早く風に教えてもらえるようにとここのところ毎日、この丘にきていた。
双子を忌嫌い、生まれれば闇に天へと返す
生まれるとき母の
それは「民に生を捧ぐ一族」として、決して許されぬこと。今までにこのことを誰かに話したことはない。
許されぬことをその
二年前に亡くなった双子の母は、「姉と一つになりなさい」と最期に明日香にだけ聞こえるように言い残した。
母もまた「民へ生を捧ぐ一族」の
そのための手立ては二つ。
ひとつの命を
もうひとつは……どちらかが今生の命を失ったとき。そのとき、残った者に
風を感じながら、この国の行く末を憂う。どちらがどのようにすればよいのかと。こんな刻はこの丘でしかもてない。
遠くからわずかに己の名を呼ぶ声が聞こえて、それがだんだんと大きくなる。やはり楓だ。
この丘は
も、来ることを避ける。それをわざわざ連れ戻しに来る者は、楓のほかにあまりない。
楓が丘にたたずむ白毛の馬と、風に舞う
楓は丘にたたずむ白毛の馬と、風に舞う大袖おおそでの衣に
「……様。明日香様ぁーっ」
だが明日香は動かない。駆ける人影が目の前に来てから、やっと声をかける。
「何か、あったか? 楓」
「何かって。いい加減お戻りくださいまし。皆も探しております」
そう言いながら、本当のところは、探しているのは楓だけなのだろう。明日香がどこにいるのかなど、限られるのだから。
くす、と少し笑った明日香は愛馬の
「楓も、乗ったほうが早いだろう?」
と言ってはみたのだが。
息を切らしながら、とんでもない、と楓が断るのも、承知で言う明日香である。
山間の国の中枢、
内に、
この神殿が、首長たる明日香の
御簾越しにわずかに影を作る己の
「民が困っております」
「だろうな。……雨が降らぬ。当分、降らぬ」
明日香はあつらえられている
主紗も困った
主紗は
頃は
幼い頃は明日香の遊び相手を務めていたこともあって、明日香にとっていちばん気心の知れている頼れる
主紗も幼い頃から、ひとつ年下の
だから、その主紗が明日香を困らせるようなことを言うのは、かなり珍しいことだった。
ため息をかろうじて飲み込んだ主紗は続けた。彼も、どうしようもないことを分かっていながら、奏しているのだ。
「明日香様は『雨』をお呼びできぬのか、という声もございます」
明日香は顔をしかめた。主紗に言われるのは少し苦しい。
「……私には」
「存じております。しかし、母君の
民も、それを束ねる
そのためか
明日香の母、水姫は水のほか風も火も使い、雨雲を呼ぶことができた。しかし明日香が「今生」で自在にできるのは「風」で、水や火は、風の
……せめて「水」を使うことができたのなら、狭い範囲であれば、雨雲を起こすことができるが、それは明日香ひとりではできない。
「このままでは……隣国、海辺の国の川を奪って水を引く、などという声もあるのです」
「主紗。私にどうしろと言うのだ。
明日香の従妹にあたる那智は、今はその父の生国にあたる「
「……お二人の霊力を合わせますれば」
「無理だな。那智に命を落とせと命ずることになる」
合わせる
一族すべてが、
「いざとなりますれば」
それは、避けられないことなのだった。「民のために生を捧ぐ一族」の
明日香にもそれはわかっていた。……わかっていたつもりでいたのだ。
「
振り返り、痛そうな
この
それでも、明日香はきっぱりと言い切った。
「戦も、
主紗には、その明日香の声が、疲れているように感じられた。
だからそれ以上の言葉をかけられない。
それで側近の従者は御前を辞すよりなかった。
転生をやめようか、と明日香は思った。
残りの生、転生した先の世で使うはずの
できないことではない。だが、決してしてはならないことだ。
生まれるとき「決してしてはならないこと」をしているのに、こんなことで迷う。
井戸に湧く水は少しずつ減っている。地を流れる水の気配もか細い。
このままでは田も畑も、作物が枯れてしまう。
……もともと、山間の国は水に恵まれている。北の山から起こった水が川となり、国の西側を回り込むように流れる。三方を山に囲まれる国ではあるが、その大川がもたらす恵で民は生きている。
川から水を引き、田を作る。川に腰まで浸かって、
だが今年、なぜか井戸が細くなる前に大川が水を流さなくなってしまった。今、川の跡にはおおきな水溜りがところどころに残されているものの「流れ」にはならない。
それにしてもこんなに早く、大川が水を流さなくなった
明日香が「風」に尋ねてみても、「風」は答えない。何も知らないわけではないはずなのに、決して教えてくれない。……風は「風」であって、「水」ではないから。
わずかでも水の
民はみな、細い井戸から水をくみ上げ、しのいでいる。明日香が、雨雲を呼ぶまでのことだから、と。
この近隣の国では、もう水の流れる川があるのは、隣国の海辺の国だけになったという。一日をかければ
海辺の国は丘の向こう、海のある国のことだ。
丘を越える先には、崖があって降りることができず、崖を避けて造られた
水の
明日香は、残り二度、転生を繰り返す。
この転生をやめることは、
明日香の
それでも、この転生のための
……明日香が生れ落ちるときに、双子の姉にその
転生するよりも前の記憶はない。
それでもこの生は、
明日香は、明日香自身のものではない。
いつもの丘で、彼女は仰向けに転がっていた。少しずつ、丘は緑を失っている。背中が以前よりもくすぐったく感じるのは、枯れ草が多くなっているためだろう。
さわさわと、風が丘を通り抜けた。
明日香の隣では、白夜が大人しく草を
「白夜。お前は、私が私ではなかったら、どうする?」
愛馬は困ったように顔を寄せた。白夜はほかの者には懐かない。明日香だけの馬だった。
明日香の生は、明日香ではない者が、明日香ではない者のために用意したものだ。転生をやめたなら、そんな憂いごとを持つ者が減るのだ。
丘から両脇を山に切り取られたように、わずかに見える海。海は多くの水を湛え、いくらでも水を岸辺に寄せてくるのだという。なのに、その水は塩辛くて飲むことができないと聞いていた。
海は隣国のもので、首長である明日香がかんたんに近付けるものではなかったから、話に聞いたことがあるだけだ。
それでも、明日香は海を眺めるのが好きだった。そして、雨雲も海からやってくるという。
(まだ、雨雲は来ませんよ。あなたの待ち人も)
風の声が、いつもと同じことを明日香に教えてくれた。
また、その父、
この山間の国では、
その会合で、笙木や主紗がおそれていたことがとうとう起きてしまったのだ。
郷士のひとりが、もう水を購う余裕などないと言い出した。また海の幸で潤う隣国、海辺の国から購うばかりでは、いらぬ
海辺の国には、山間の国の明日香のような首長はいない。だが郷士たちはよくまとまり、その
以前から山の幸と海の幸を交し合うことはあったのだが、こうした
この近隣の国々は、山間の国の
海があるのに、川のある山奥まで国を広げるのはおかしい、海の幸で生きていけるのだから、山に生きる我らに川を譲るのは当然だ、と言い出す郷士がいるのである。
……譲れとは聞こえのいい、戦で奪い取るということだ。
「明日香様は戦を好まない」
主紗は
「ではなぜ、雨を呼んでくださらぬ。水姫様ならばはもっと早くに手を打たれましたぞ」
と返されて、何も言えなくなってしまった。
分かっていたが、どうすべきか、答がでないまま今を向かえている。
ひとりが匂わせることであっという間に膨れ上がっった「戦派」の郷士たちに押しきられてしまい、場を取りまとめる役目となる
てもよいものか、明日香様にお伺い立てる、ということで会合を終わらせるよりなかった。
会合のあと、笙木は神殿に向かう主紗を呼びとめて、明日香様に悟られるな、と言い含めた。
会合で決めたことを報せる役目の者は主紗ではなく、別の者がいつ。そちらにはすでに嘘のない伏せ方を示しているらしい。そういうところについては、己の父は細やかに気を配っていることを主紗は知っている。
笙木は
笙木と別れた主紗が、神殿のある内宮に向かうと、
楓も主紗に気付いたらしく、ちょうどよかった、とうような
「主紗どの。明日香様がお召しです」
「どのようなことです?」
主紗は首を傾げた。ただの用事なら、楓やほかの女官でも事足りる。会合のことなら、その役目の者が報せている頃合のはずなのだが。
楓は、さあ? と用事の中身を知らないという。
考えながら、主紗は神殿へ向かった。
いつもと同じように、御簾の外に控える。
「参りました。急なお召しとか」
「……主紗。隠し事など、するものではないな」
会合で決めたことがもう、耳に入っているのか。主紗は舌打ちしそうになった。それでも用心深く、返してみる。
「そうおっしゃいますのはどうしたことですか?」
「今の会合のことだ。笙木の気持ちはわかる。……戦でお前の母を亡くしているから。先に参った報せの者はごまかした。では、私の
そういえば、会合所は御簾も蔀も上げられていたから、風が吹き込んでいたのだ。会合だけではなく、笙木との話も、風に聞かれていたらしい。主紗は己の父に、心で悪態をついた。
もともと会合は郷士のものだから、首長である明日香は臨まない。日頃はそのようなことはしないから忘れがちになるが、
仕方なく主紗は口を開いた。
「……それながら。民の暮らしにも、限りというものがございましょう。そのときがきてからでは遅いかと」
だが明日香はまったく違うことで返した。
「先刻、那智と話していた」
え、と主紗は顔を上げる。那智の暮らす
「あぁ、風に声を乗せてきただけだ。那智自ら来ているわけではない。……奥津の国も、水不足になっている。雨雲を呼びましょう、などと言ってきた」
私にはできぬ、と明日香は言った。
「……奥津の国には、もとから川がないと聞いております。いくつかある泉と池が、枯れたのでしょうか」
主紗は生まれたこの方、いまだ山間の国を出たことがない。ずっと明日香の傍らにいた。
だから、たまに
「主紗、那智の方がしっかりしているな。私は……民に生を捧ぐために、何をしてよいのかわからない」
下がれ、と命じられた主紗は、ただ愚痴を言うために呼ばれたのではないことがわかった。
それでも、主紗は
命じられたからには、下がるしかない。
幼い頃、共に遊んだ「姫巫女さま」が、とても遠く感じられた。
主紗の母、
笙木は、
「殺しの報いだ」
と言っていたが、それは笙木が戦で人を殺したこととは少し違っていることに、主紗はいつの間にか気付いていた。だが、訊くことができないままになっている。
先ほど明日香に母のことを言われて、今さらながらそんなことを思う。
主紗は今、山道を歩いていた。
さらに正しく言うなら、明日香の愛馬を引っ張りながら歩いていた。
この山道はほとんど獣道のようなもので、たどれば海辺の国の
明日香のほかには懐かない暴れ馬の白夜を連れてここまで来たのには
白夜はきれいな白毛の馬だか、この旱魃で乾いた地を駆けるとすぐに埃にまみれて薄汚くなってしまう。だがそれでは乗る明日香までもが汚れてしまう。
毛並みを梳いて埃を落とすが、それでは間に合わない。なのに明日香は水不足のこともあり、白夜を水で洗うのを許さない。どうせ己は禊するから、汚れてもいい、などと言うのである。
しかし、しかしである。
主紗は思っていた。
明日香様は本当は白夜をきれいにしてあげたいはず、なのである、と。白夜のあの白毛を、本当に愛しんでおられるのだから。
主紗にとっては明日香がいちばん、彼女の喜ぶのをみることこそ至高である。楓に護り過ぎかまいすぎ! と言われる所以であった。
主紗は、山奥の小川ならばみつかるまいと、こっそり白夜を連れ出してきたのだ。厩番にも見つからないように、黙って出てきた。
しかし、肝心の白夜が言うことをきかない。
細い山道で、両側には木々が迫っている。こんな山道はいやだと暴れて、暴れるからそこらの枝やら蔓やらに体をぶつけてまた暴れる。
なんとか白夜と足元を這う木の根に苦戦しながらも、目指す小川にたどり着いた。
山間の国と海辺の国、どちらの国か、定められないままとなった場所。そのような場所には諍いをさけるため、普段は誰も立ちいらない。中でもここは、誰も近づかないうちに、ほとんど忘れられていて、そこに流れる小川は、海辺の国に続いているのだと。
国でいちばんおおきな川はすでに干上がって水を流さない。この大川は丘の先の崖を滝となって落ち、そのまま海辺の国の大川を成して海にそそぐのだという。山間の国の大川が水を流さないならば、海辺の国の大川も同じだろう。
それでも、かの国には水の流れる川がまだあるという。その水を、山間の国もこの近隣の国も購っている。ならばそれはきっと、猟人の教えてくれた小川のことだ、と主紗は思った。
もっともそのぶん、小川がどのあたりにあるか、本当に流れているか何も確めないまま山に入った。
だからこの小さな流れをみたときには、疲れを忘れた。
手首までつかるほどの深さしかない流れで、幅もひとまたぎできるほど。それでも今の主紗には充分だった。
涼やかな流れに手を浸してすくう。飲むと心地よさがのどを伝った。白夜も首をのばして水を飲み始める。はじめて大人しくなった今のうちにと、さっそく白夜をきれいにしはじめた。
白夜は本当に頭のいい馬で、水浴びができることに気付いて主紗の言うことをきく。
「ふーぅ。苦労しただけあったかな……」
久しぶりに白毛に戻った白夜の背は、濡れてもこの木洩れ日にすぐに乾くだろう。暴れるのを恐れて繋いだ縄をくいくいと引っ張るので放してやると、白夜は体をぶるると揺すった。
主紗も喜ぶ明日香を思い描きながら足を流れに浸し、足を水につけたまま仰向けになって背中を地につけた。のびをする。
この辺りの森はまだ旱魃も水不足も感じさせない。さらさらと流れる音、どこかでさえずる鳥、白夜は草を食み始めた。
いろんな音があるのに、主紗はそれを静かだと思った。静かで、優しい音だと。
が、その静けさをやぶったのは白夜だ。突然なにかの気配に反応したように、首をあげた。辺りを警戒するような態度に見える。
「どうしたんだ?」
白夜は賢い。何かある。
隣国の者に見つかったかと、主紗は急いで、だが、そっと水の流れから足を抜く。音を立てないためと、水中の砂をかきたてて人のいた痕を残さないために。
周りの気配をさぐってみるが、主紗にはわからない。兵士や衛士や、他国に入り込り様子を探る
首長の側近の従者として、ひととおりの身に付けたが、人より秀でているというほどではない。それで主紗は白夜が警戒する方向と反対の木陰に隠れて息を潜めた。
見つかったのが白夜だけなら、まだいい。逃げた馬が隣国に入り込んだので、などと
だが主紗が見つかれば、ことが難しくなる。窺見と断じられれば、それでなくとも両国の
今は、窺見はどこの国も放ってはならない
やがて、草を分け踏む音がした。獣のそれではない。主紗は体を小さくして様子を窺う。
あの白夜が、微動だにしないのが見えた。
だが、姿を現したのは、ひとりの少女だった。主紗といくらも違わない。
白い大袖の衣。
……明日香様っ!?
声を出しそうになったのを飲み込んだのはさすが、側近の従者だ、と己で思う。違う、明日香様ではない。
いくら忍んで
そして、明日香様のほかに懐かない白夜が警戒を解かないままだ。
主紗はそれをよく分かっていたのだ。だがそれでも、驚いていた。……似ている。似すぎるほどに。
白夜も、後退りする。
そう、顔だけではない。そのまとう空気が、物腰やしぐさがまでもが。……どこか似ている。
まっすぐに白夜に歩み寄った巫女は、手を伸ばしてその頬に触れる。
「お馬がひとりで……どうしたの? ずいぶんと怯えて。こちらにいらっしゃいな」
警戒を解かない白夜。たてがみをなでられるままに、だが動かない。
「どうしたの。……あぁ、そういうこと……。どこでしょう……」
巫女は辺りを見回した。主紗は血の気が引くような心地がした。まさか、気付かれたか。
そしで同時になぜ、という思いがわき起こる。明日香様であったなら、風にでもお聞きになるだろう。
だが、彼女は明日香様ではない。
主紗は木に登らなかったことを後悔した。巫女が迷いのない足取りでこちらに向かってくるから。
こちらから姿を現して、道に迷ったと
頭を忙しく回転させ、振り返ったときにはすでに目の前に巫女がいた。
「隠れても、分かる。お馬の方がお利口みたい」
「……道に迷って森に入り込んでしまった。ほかの者には言わないでほしい。
「知っているのに、聞くの?」
その言葉とともに、巫女の顔つきが変わる。それは不敵な笑み。愛らしさなどない。冴えた笑みを湛えたが目が主紗を鋭く射抜いた。
主紗は悟った。この巫女は明日香様とは違う。己の仕える霊力者には決してできない笑みを、この巫女はたやすく
主紗はわずかに後退った。そして急に辺りが暗くなるのに気付いた。見れば、木立の隙間にのぞく空が、低く雲を垂れこめている。まさか……!
驚く主紗を、巫女は笑みを湛えたまま見やる。雨が、降り始めた。
主紗の体を、その場に在る者を、地を、草木を。雨の滴が激しく叩いた。
二ヶ月以上も見ていない、雨。
それが、今、
だが、歓喜の
「不思議かしら?」
巫女のその言葉が、主紗の感情を、戦慄に変えた。この巫女が、呼んだのか、雨を。明日香様にも呼べぬ雨を! それほどの
主紗が唐突に分かったことがある。今、降りしきるこの雨は「ここ」にしか降っていないのだ。この森の、この場所にだけ、幻のように雨雲が重くのしかかっている。
主紗は己がこの巫女の霊力を畏れたのか、それとも打たれる雨よりも凍てる巫女の眼差しと笑みに恐れたのか、分からなかった。
ただ、今体を動かすには、自らを奮い立たせなくてはならないことが分かっていた。
振り絞るように主紗は動いた。巫女の横をすり抜け、白夜の元へ駆け寄る。
しかし慣れぬ山道。足元には木の根が這い、湿った草が駆ける足に絡み付く。道は打たれる雨にぬかるみはじめていた。
来た道をたどっているつもりでいた。だがその道はもとからあってないような獣道。いつ迷ってもおかしくはない。
「!」
気が付いたときには、崖沿いを駆けていた。山間の国にこのような場所を聞いたことも見たこともない。本当に迷って、海辺の国の奥深く入り込んだのか。
逃げるように駆ける主紗には崖下を覗き込むような余裕はない。だが……高い、崖。足元も、ぬかる。
「うあっ!」
主紗は踏み出した方足に体を引かれて崖から滑り落ちた。白夜の嘶きが、最後の記憶。
主紗の記憶の続きは、見慣れぬ景色で始まる。
重いまぶたを押し開けると、見慣れた……いや、見慣れぬ顔が彼を覗き込んでいるのが、茅葺を後ろにして見えた。
そのことは、彼にこのような事態に陥れた因と思い出させるに至らなかった。ただ、明日香様ではないということだけがすぐにわかった。
そっと息を吐いた声がいくぶん柔らかく落ちてくる。
「気が付いたようね?」
だが、主紗の体はまぶたよりも重いらしく、動かすことはできなかった。
「崖から落ちて、体を強く打っている。無理に動かないほうがいい」
主紗はなんとかその巫女の言葉をかみくだいた。
「ここは」
「海辺の国。勝手に運んだの」
そのとき彼女の後ろから違う女の声が聞こえてきた。
「巫女様、何か温かいものでもお持ちしましょうか」
「そうね、お願い」
日頃「よくできた
ここは。海辺の国で。
それは。隣国の国の名前で。
そして。助けられたらしくて。
体も、動かなくて。
……やっと、それだけが分かる。
「日頃の主紗」ならばかなり危うい事態であるという考えが浮かぶだろう。だが今は彼の体も思考も、動かない。やっかいなことに、ぼんやりと「まずい気がする」と、勘のようなものが働くのは、日頃「よくできた従者」であるせいで、そのあたりは彼は己の失態をいち早く把握する能力は失っていないようだった。
「体を、起こしましょう」
巫女が主紗の体を起こすのを手伝った。それでやっっと主紗は、己の体が、何処が傷むのかがわからないほど、青いあざと擦り傷ができていることを知った。
手渡された木器に満たされた
羹から、いや、辺りから潮の香りがする。
山間の国で時折、風が気の向いたように乗せてくるほのかなものではない。ずっと強く、確かな香りだ。だが、雨が降ったあとのじんわりした土や緑の香りがない。
雨に打たれたはずだった。
あれは夢だったのか。幻を見たというのだろうか。
それとも、海辺の国では雨のあとの香りは、潮の香りに負けてしまうものなのだろうか。……長い間、気を失っていたためかもしれない。
そう考えてから、はたと気付く。己は誰にも何も言わずに出て来たのだ。
「私は……どのくらい気を失っていた?」
問われた巫女は事も無げに答えた。
「まだ日は沈んでいない。焦らずとも、海辺の国のほかの者には知られていない。お馬は外に繋いでいる」
当然ながら白夜が大人しくしているはずもないのだが、そのことに今の主紗は思い至らない。
日は沈んでいないのならこれから夕刻になるはずで、それほど時が経っていないのだとぼんやり思った。
明日香様は白夜がいないことで遠乗りできずに困っておられるだろうか。
それとも、明日香様はもう「風」に聞いておられるだろうか。
この巫女のことも。雨のことも。
風は何かを知っているのか……。
主紗はすぐにでも、山間の国に戻らなくてはならなかった。難しい理屈はともかく、国境を越えてしまったのだから。
彼は傍らの巫女を見返した。
あのとき、凍てつくような笑みをどこに隠しているのか表情に乏しいまま、主紗を見る巫女。
彼女は主紗が山間の国の者だとはっきりと知っている。流れの
どちらが、彼女の本当の姿なのか。
明日香様に似た巫女。そして雨。
主紗はあの雨は今己の目の前にいる巫女が呼んだものだと確信していた。それも、あの森だけを降らせていたものだと。
木器を両手で包み、主紗は巫女に向き直った。
「助けていただいてすまない、ありがとう。……あなたはこの国の巫女か? 急ぎ戻りたいのだ。満足に礼のできぬが」
表情の乏しい巫女の瞳が揺れて、主紗を見返した。
「聞かないの?」
その巫女の問いに、主紗はどきり、とした。それは主紗の気持ちを言い当てたものであったから。
「……巫女ではあるけれど、この国の者ではないの。私は国を持たぬ旅の巫女。ここに来てからもうふた月ほどになる」
そんなことより、と彼女は言葉を区切った。
振り返れば、それほど大きくはない
「……巫女様」
「名前でお呼びなさい。
巫女は主紗の呼びかけを遮って名を明かした。そのことが、せっかく動き出し始めた主紗の思考を固まらせた。そのようなことができるはずもない。
軽々しく、巫女の……
見開いた目で彼女を見つめた。このような場合の、礼節はどのように振舞えばよいのだろう?
主紗や楓、笙木が「明日香の名」を口にできるのは特に許しがあってのことである。
名は、己を現すもの。
名は「意思」を示すのも同じ。名は「意思」の
山間の国の首長である「明日香」は、風から「名受け」した。
彼女の幼い頃の名は、
名受けは
主紗が明日香の名を呼ぶことができるのは、風がそれを認めているからだ。風がそれをよしとしないと、明日香は風を使うことができなくなるだろう。
それは巫女も同じことだ。
巫女は
本当の名をほかの者に知られては、声を聞くことができなくなるというから、巫女となれば生きるうちは名を明かさない。
だが、と主紗はわずかに思案した。この巫女の場合はどうなのだろうか。彼女は、主紗の目の前で
その困惑を見て取って、巫女は付け加えた。
「私は旅の巫女にすぎない。……
それよりも、と彼女はまっすぐに主紗を見た。
「聞かないの?」
抑揚のない声で、繰り返し主紗に問うた。
「なぜあなたが小川にいたのを知っていたのか。他国の者だと知りながら助けて匿ったこと。そして、雨のこと。……聞きたいのではないの?」
そうだ、と主紗は思った。聞きたいのだ。聞いて、知りたい。
あなたは、明日香様をご存知か、と。よく似ておられることも。
ただ、それを尋ねるのは躊躇われるのだ。聞いてはならないことなのではないかというわずかな予感。聞いてしまえば、知ってしまえば、それをきっかけにしてすべてが変わっていき、最後に崩れてしまうような。
なぜそのように思うのか、今の主紗には分からない。
だが、予感というものは、そういうものに違いない。
彼女は……水葉と名乗った巫女は、主紗が何も問えないうちに、話を変えた。
「少し体を治さないと、山路は行けない。そうね……あのお馬はとても賢そうだこと。ひとりぼっちでも、帰れるくらいに。いかが?」
水葉は主紗が誰にも行き先を告げずに来たことまでも知っているような口ぶりで言った。
問われた主紗は、やはりぼんやりする頭で考えたが、白夜をどうすればよいかくらいは、考えられる。
主紗はまだ動けないのだ。だが、白夜は明日香様の愛馬だ。
主紗の代わりは、楓やほかの従者が務めるだろう。白夜の代わりがいないのとは、違う。
わずかの逡巡と、淋しさがよぎるが、主紗は側近の従者としての言葉を選ぶよりないのである。
「……白夜を、あの小川へ連れていただけまいか。あとは、戻れる」
「承りましょう。あなたも数日もすれば、動けるでしょう。大きな怪我はない。身の回りのことは先ほどの者に頼んである。ここは
それだけを言って、水葉は立ち上がった。衣擦れの音も滑らかに。
主紗は何も聞くことができなかった。
かすかに御簾や帳の隙間から入る光は、すでに夕日のようだった。しばらくして、先ほど羹を運んだ女が、夕餉を
夕餉は美味しく感じられた。山間の国ではめったに手に入ることのない、海の幸を使っている。
主紗にとってはごちそうだが、見た目も味も質素で、だからきっと
夕餉は美味しかったものの、これからのことを考えるには、主紗の体も頭も、疲れすぎていた。
まるで課せられたように
だから、主紗の翌日はやはり隣国から始まる。
長年の
小館内にわずかに入る光はまだ朝日のそれにはならず、ただぼんやりと影を薄く作っている。
山間の国の主紗の
だがいつものように目覚めた彼は、体を起こそうとして痛みを感じ、それで「いつもの朝」ではないことを思い出したのだ。
「……そうか、隣国か」
己の主の元へと参ることのかなわぬことを思い、焦りと虚しさに襲われる。主の元にあらねば、己には何もすることがないのだ。
することがないといよりも、体の痛みのために何もできないということが、本当のところであったから、彼は崖から落ちたことを強く悔やんだ。
隣国にあるから傍らに参るのがかなわぬのではない。たとえこの隣国よりも遠くにあっても、体が動くのであれば必ず参じてみせるというのに。
何もできない彼は、とりあえず動く首をめぐらせて
耳を澄ませば鳥が鳴いている。それは山間の国でもたびたび耳にするさえずりだった。
海辺の国は海のほか、林や森に囲まれているという。おそらく海よりも、山にほど近い所にこの
淡い明かりは板壁や
主紗は日頃山間の国の
その垂布の向こうに
もう片方の布越しに
寝起きではあったが、昨夜よりもはるかに主紗の頭は働きがよかった。少なくとも、落ち着きをいくぶん取戻し、失念していたことを思い起こすことができている。
たとえば己の父、
明日香様の
白夜はすでに放されただろうか。一晩、あの気難しい白馬が大人しく過ごすとも思えない。
雨のこと。それはまだたった前日のこと。幻のように、あの巫女、水葉様は確かに雨を降らせた。
明日香様は、すでに風にお聞きになっておられるだろうか。傍らに仕えることのできぬことを、どうか許してほしい……。
体さえ動くのならば、戻る道は
だが、その山路をそのまま辿るわけにはいかない。
山路には、それぞれの国がその入り口に
関塞を超えるには、
次々と思い起こして、そこでふと思い当たる。
そういえば己は、山間の国を出たのはこれがはじめてのことなのだと。
疲れのせいか、なぜかそのことに今の今まで思い至らなかった。一度気付いてしまうと、急に胸音が高鳴るような心地がした。
旅の巫女と名乗った水葉が、日頃仕える明日香に似ているためなのかも知れなかったが、彼はそういう意識が薄れていた。
山間の国には、近隣の国々から明日香の謁見するための
だが、他国の者の
他国の「平生」とはどういうものなのだろう。
ひどく気に掛かって、胸が早鐘はやがねを打つ。
何を纏い、何を食べて、どんな
どのような
それは若者らしい関心ではあったが、幼い頃から御宮に仕え、今は首長の傍らに側近の従者である主紗の思考は急に萎んでいく。
……他国の者とこのような形で接すれば、この先のこと、
胸の高鳴る心地の良さには心残りがあったが、それは今「そうであってはならない」ことだった。
己の性分は、冷静に事を見定めて役目を務めることではなかったか。それを思い起こして、主紗は戸惑った。
よくできた従者ずさだと言われているし、己もそのつもりでいる。
首長である明日香の傍らに離れず、忘れず、仕えてきたのだから、その己に頼むところはある。
少しばかり、ひとつ年下の首長である明日香の我侭に応えすぎるから、甘い、行き過ぎてる、などと女官まかたちらに言われてしまっているのも、知っている。
それでも、日頃からそれなりに思慮を身に付けて役目には冷静でいたつもりだったのだ。
……そうではなかったことに、主紗は気付いた。
あまりに、幼い頃から傍らに在りすぎた。
だから、他のこと、明日香の関わらないことを考えることがこれまでなかった。
それは主紗にとっては新しい出来事で、新しい発見だった。
明日香から見た今と明日香から見た主紗が、それまで、彼にとってのすべてだった。
だから、主紗が己で見定めて、己だけの考えで、今、感じているすべてのものごとに、戸惑いと高揚を得ている。
いつかの、言葉を思い出した。
それは、明日香の母、
母のない主紗にとっても、水姫は母のような存在だった。
……風や水や火が、すべてを知っているわけではないの。彼らが見たことを私が感じ取って、思って、そうしてはじめて「知る」の。
見て感じて、考えるのは、いつも私。それはとても、難しいことなのだけど。
何を「知る」か、それを見定めるには、己の内から問いかけるしかない……。
主紗は、少し悔いた。
彼には、水姫様と約束していたことがある。
「風音姫」を護り助けるのだと。
風音様は、明日香様となって、今首長として山間の国に在る。
だが、その山間の国の
川に落ちた風音姫を助けて、蛇に驚く風音姫を護った。だが、今の明日香様を護り助けることと、それは違う。
何も知らぬ、それに気付かぬままでいた己に、それができていただろうか。
そのことに思い至って、主紗は落ち込んだ。
落ち込んで、深く考え込むこともできなくなった彼に、差し込む柔らかい光が再び眠気を誘った。
落ち込んだ主紗に、眠気に逆らう理由も今はなく、彼は意識を眠気に任せた。
山間の国にも朝が来ていた。
明日香は「風」の声で目を覚ました。
(明日香。ほら……)
(嘶きが。白夜の声が)
優しい声は、明日香が昨夜頼んだことを忘れずに告げた。白夜の声があった時には、いちばんに起こしてほしいと。
まだ
嘶きが。
白夜の嘶きが。
どこに……。
遠いの……?
(ほら、聞こえるでしょう?)
風の運んだ白夜の「声」は、確かに、明日香に届いた。
「白夜!」
飛び起きた明日香は、
風の教えたその場所はそれほど遠くない、あの丘。
白々と明らむ中を小走りに。
御宮の裏手の
丘を目指して駆ける。朝の涼しさが、肌に触れる。
風は嘘をつかない。
「白夜ぁっ」
明日香は丘にたたずんだ愛馬にしがみついた。白夜はいつものように馬首を明日香の頬に寄せてきた。
いったいどこへ行っていたのか。たった一日でも、懐かしく、戻ってきてくれたことが嬉しい。
「お帰り……。心配した」
着けられたままの鞍に、明日香は身軽く乗った。
白夜の体が、毛並み美しく梳かれて汚れた埃も落とされていることに気付く。
迷子になった先で世話されたか、それとも盗人が売るために整えたか。でも、どちらにしても白夜がおとなしく言うことを聞くとは思えない。
明日香は数日前の、己の
……明日香様まで汚れてしまいます。
白夜の手入れに、水洗いをやめさせて、鞍も埃をはらい落とすだけにとどめるように厩番に言いつけた。
それを聞いて、主紗はふくれ面をしていたのだ。せっかく明日香様を乗せるのであれば、白夜とて美しくありたいでしょうに、と。
どうせ
白夜の白毛が、明日香様にかすんでしまいます、どうしても、というのであれば私が水を購いますから、と……。
昨日、主紗は珍しく早くに
明日香はその光景を思い巡らせて笑ってしまった。
この白夜が、おとなしく主紗の言うことなど聞くはずがない。まさかそれで時がかかったのか。
そして夜遅くなり、己の
では、白夜はこの朝方に、逃げ出してきたのだろうか。だとしたら、今頃主紗は大慌てで御宮みあらかに向かっているだろう。白夜は帰り道を覚えない馬ではない。
その主紗をどうやってやりこめようか、と笑い含みに思いながら明日香は手綱をとった。
……そのとき、「風」がざわめいた。
枯れ始めた丘の草原をざわざわと吹き抜けて、そして木の葉も乱す。
その様子に、小鳥や虫たちまで声をひそめた。
山の端から日の光がのぞいたばかりの清々しさが、風に撥ね退けられたように。
「……何? みんな、草も木も小鳥も。どうして?」
(違う声が、聞こえたから。私とは違う、声。明日香、貴女にも感じられるはずです)
「違う、声……?」
白夜が少し怯えた様子をみせた。それに気付いて、明日香は大丈夫、とたてがみをなでた。その時。
これは……まさか。
「白夜、どこへ行っていたの、知りたい、教えて、白夜っ」
驚きと不安が、己の声に混じっているのが分かる。
白夜は主紗と一緒にいたのだと思う。
だけど、確かに、「違う声」が……気配があるのだ。
「ねぇ、白夜……」
こんなに気持ちを通わせていても、やはり白夜は言葉を知らない。気まずそうに美しい馬首を背けるだけなのだ。
だから明日香は「風」に聞くよりないのだと思い当たる。
「風よ、何かを知っているのなら、隠さずに教えて。白夜は、誰に会っていたの? この……雨の匂いは」
(明日香。貴女が及ばないところのことをつたえるのはとても難しいこと……。それは、感じなくては。いつも、言っているように)
ああ、そうだ。
風が伝えてくれることが分からないのは、風のせいではないのだ。
風は見たものを運んでくれるけれど、運んでくれたことのうちで、何を見て感じるかは、明日香の
風を聞き分けられないのは、己の乱れだ。注いだ霊力がいいかげんなせいなのだ。
明日香は落ち着こうと、息を吐いた。それは
そして、白夜からおりて、舞った。白い単衣のまま。
舞うことは、風を呼ぶのと同じこと。
そうして自ら風を起こし、風に内に「入る」。
……体中で風を「知る」ために。
風を使うことは、風とひとつになること。風を忘れずに、残らずに、すべてに、「入る」。
そう、……風が、明日香におりてくる。優しく包まれたように感じた。
そうして見えたのは、白夜と主紗。
ここは、国の境。そこから先が、見えない。何かに、拒まれたように。
分かるのは……これは、潮の香り?
明日香は舞い続けていた。
予感がしていた。
己は、このために
そうだ、ずっと待っていた。
この大切な「予感」は、必ず成る……。
違う声。違う声が、拒んでいる。
それは「水」だ。水が何かを護っていた。
水が護るものは……「巫女」? その水に拒まれて、主紗は戻れずにいるのだろうか。
巫女が、白夜にささやいている。水は失うと大切になるのだ、と。
明日香は、
息が乱れている。それ以上に気持ちが乱れている。これ以上「風」を使うことはできない。
明日香はそれでも、己の「予感」が成ったことを知ったのだ。
なのに、哀しみがこみ上げてきた。
明日香は、拒まれてしまったのだ。
風と水が拒みあって、ひとつになれない……。
何故? 否、理由などない。風が明日香を護るように、水には、水の護るものがあるだけのことだ。
巫女の名を、明日香は知っている。
水葉。明日香の、双子の姉。
……風が、やっと明日香の内から世界に戻った。そして丘に吹き渡り、草を木々を揺らし始める。
明日香が己の頬をなでる風が、いつもよりも哀しく感じられるのは、彼女の頬を伝う滴のためなのだ。
さて、
今、山間の国の郷士たちは「戦派」とその反対派である「笙木派」に分かれている。
戦派の者たちは
彼らは決して戦を好んでいるわけではない。国の大事を憂いているのは、誰もが同じだった。
会合の場には、探り合いと駆け引きと、危うい言動が飛び交っていた。それでもなんとか、両者の歩み寄りがなされようかというところまで詰められていたのだが。
笙木の思わぬ落ち度をつかれて、またも話し合いがこじれてしまったのだ。
「……笙木どの。それではいかがなさる?」
「先刻も申したとおり。海辺の国に水の
「応じられぬときには? かの隣国が、
「……明日香様も自らこの
「えぇい、皆、笙木どのの『話し合い』とやらを当てにしすぎている。いくら笙木どのが海辺の郷士らと旧知とはいえ、その結果が今のこの不利な『
「うむ。笙木どのはあまりに物事を易く言っておられるようだ。……ときに笙木どの、此度のことはどういうことか?」
飛び交う言葉に少しばかり静観していた笙木だったが、その戦派のひとりの言葉に、まずい、と思った。
思ったが、そのことを言われては、笙木は何も言えない。何しろまったくわからないことばかりなのだ。
「なにやら嗣子たるは首長どのの従者の役目を忘れたか、行方が知れぬとか。どういうつもりか知らぬがそのような者が首長どのを語るとは。まずは御身と
笙木とて、主紗の姿が何ゆえ見えぬかさっぱりわからないのだ。あの主紗が、明日香様を忘れて出歩くことはまずない。明日香様が何かあれに命じたかとも思ったが、それもわからない。
その取次は主紗の役目である。いくら笙木であっても、主紗がいなければ、明日香の御前に参るのが憚られる。
女官の楓にそれとなく様子を訊ねてはみたが、さすがに楓は口が堅い。
「……此度のことは言い逃れるつもりはない。己の不届きであった。主紗かずさにも戻ったときにはよくよく言い聞かせよう。だが、このことと、明日香様のお考えは
別のことだ。明日香様はすでに戦は見合わせると決めておられる。
「それでは遅い。この様子では、雨季に本当に雨が来るとは……」
だがその戦派の郷士は途中で言葉を止めた。
この
その御簾の向こうに、気配が入ってくるのに気付いいたのだ。
長引く
「構わぬ。続けよ」
明日香は、日頃持ち慣れぬ
山間の国では
今、明日香がこの場に現れたことは、めったにないことなのである。
笙木ですら、明日香が現れたその意図を掴みかねた。
続けよと命じられたところで、首長をなきものとして
場をまとめるのはやはり
「本日は何ゆえ。明日香様におかれては、このような所へのご臨席はたびたびあることではございますまい」
「
その言葉に、戦派の者たちが次々と申し出た。
「この近隣の国々の中では、水の流れる川のあるのはすでに海辺の国のみだとか。このままかの国が
「海辺の国はもともと、山間の地を狙っております。備えは要るものかと。このままでは民を逃す余裕もなく、
「雨を待つばかり、手をこまねいていては、この地を我らに残した
聞きながら、明日香はこの場に来るまで戦派がこれほど多いとは感じていなかったのに、と笙木を軽くにらんだ。
今その役目を負っているのはもともとは笙木の
「……笙木。いかがか。そなたの考えを聞く」
「は。海辺の国にはまだそのような余裕はありますまいかと。かの国は、そも人の少ない。
「しかし笙木どの。国領は今、雨が降らねばどうしようもないのだ」
笙木が言い切らぬうちに戦派の郷士から声が飛んだのを、明日香が制した。
「続けよ、笙木」
「……わずかに残った井戸の争いを避けるように、見張りを置かねばなりませぬ。ほかに、
笙木が出した策を聞いて、明日香はまだ少しだけ刻が残されているものと捉えた。
それはわずかばかりのことかも知れぬ。それでも、笙木は戦を避けるために次々と手を打っていくのだろう。
だから、明日香は息を吸った。
己がこの場に現れた、その
たったひとつ、言葉を紡ぐだけですべてが動き出していくだろう。
大切な「予感」は成る。
だから、そのために成さねば成らぬことを、果たすのだ。
ざわめきが収まるのを待って、明日香は告げた。
「……皆よ。おそらく『水』は近づいている。今しばらく、堪えよ。民にもよくしてほしい」
山間の国の霊力者たる首長の、その言葉に、
「雨が近づいているのですか!」
「いったいいつ頃に?」
慣れぬ翳を持つ手で、明日香は手を打ち鳴らした。それを合図に場は静まる。
御簾ごしとは言っても、その内からは様子が見えるものなのだ。皆が己の言葉を待っているのを見て取って、明日香は顔を上げて翳を置いた。
明日香は『雨』、とは言わなかった。それは正しくない。
偽りではない。
隣国には、水葉がいるのだ。間違いなく、己の片割れとなった双子の姉が海辺の国に居る。
白夜に触れて、風を使って、そして分かったのだ。
……白夜は、雨に打たれた。水葉の操る雨に。
「姉と一つになりなさい」
その母の言葉。それは、どちらかが、その片割れを失うということだ。
だが、もし水葉が使う
水葉が水を使い雨として、己が風を使い降らせる。
もしも雨雲を呼んで、広く広く、この近隣に降らせることができたなら。
何も壊さずに、すべてがうまくいく。
戦で、笙木のように大切な人を失うこともない。
そうだ、笙木を助けるいちばんの方法が、水が近くに来ていると皆に伝えることなのだ。
……明日香はそんなことを考えながらも、本当は己が怯えていることに気付いていた。
水葉は、近づいているのに、この国に戻らない。
戻らぬ理由。戻れぬ理由。……これほど近くにいるというのに。
その「
そして、明日香自身だ。
水葉はどのように受け止めているだろう。
憎しみか悲しみか。それとも?
ほかの何が、明日香の「風」を拒んだのだろう?
水葉が、この山間の国をどのように見ているのか、明日香にはわからなかった。
姉を追いやることでしか救えなかった。その己が、
戦になれば、何も分かり合えないまま取り返せぬ哀しみが残るだろう。明日香はそのことに怯えているのだ。……それだけは、できない。
偽りではなくても、嘘になるかも知れない言葉だった。それでも、笙木が戦派を抑える拠り所にはなるだろう。
「今一度言う。戦はならぬ。ほかに何かあるか」
笙木が進み出て申し出た。この場で聞き、ほかの郷士に聞かせるのが、いちばんよいことだと
「主紗のことは、いかほどに」
明日香は己の気持ちが震えて揺れたのが分かった。それでもそれを抑え付けて、平生と同じに努めた。
「……何か変わりあるか? 主紗には日頃からたまにはゆるりと体を休めるように言い渡してあった。ようよう休む気持ちになったようだな、違うか、笙木?」
「……は。そのようで」
「後の
明日香は己の決意を果たしきった。
衣擦れの音も微かに、退出する。
再びみたび、
ら考え続けていることを、また囚われるように思い返していた。
主紗は……「水」に拒まれたから、戻れずにいる。
明日香に分かるのは、やっとそれだけ。
水葉の
拒んでいるのは、生まれたこの山間の国だけではない。そして憎まれているのは、明日香自身だけではない。
そう考えることは、明日香を少しだけ安心させた。
己のこの国を憎まれていると考えるよりも、己だけが憎まれているわけではないと考える、そのことが
だから明日香は主紗を咎める気にはなれない。
本当はすべてが「建前」なのかもしれなかった。
戦派を抑えるためといのも、主紗のことも、国も民も。
みんなすべて忘れてしまえば。
水葉に、会いに行ける。
だけど、すべてを忘れて、失ってしまったなら、この生はどこへ行くのだろう? 己のための生など持たない明日香の生は。
幼い頃、手に乗せた土砂が指からすり抜けて風に舞い落ちるのを見て、「
どうして持っていってしまうの、と。
まだ
風がいつも傍にいてくれるとは限らなかったから、何度も同じことを繰り返し聞いたのだ。
(あなたのものではないからですよ)
風は、たまに気が向いたように。気まぐれのように。そうやって「風音」に教えたのだ。
すべては、すべてのものだから、と。
……握った土砂が指からするすると零れ落ちるように。
いくら霊力などあっても、先のことなど掴めはしない。
何も失わずにすむように。
定まった命運は、掴めない土砂と同じだから。
すべてが零れ落ちるのは、まだ先のこと。
手に入らないものなど、要らないのだ。
せめて、両手に包むことのできるだけでいい。
すべてを狂わせてしまったのだとしても。
己の及ぶところのことならば。
何も、失いたくはない……。
『姉と、一つになりなさい』
どちらの運命も、……それは、二人が出会った時。
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