金色の輝きと空

真澄 涼

山間の姫巫女

 すべては闇に始まる。


「声」を聞いた。

「声」を始めて聞いた。


 闇の中を手探りするような一筋の光に「声」というものを知る。

 生まれ出でたばかりの己のすべてをその源に近付けようと手のを伸ばす。

 それは応えて己に重なる。

 その「声」は己に霊力ちからを与え、そうして。


 己の生は「三度目の命」だと知った。

 己の「名」と、「声」の源のことを知った。


 だが、知ってすぐにその霊力ちからを使い、そのことによって起こるこれからのすべてをまだ知らない。

 まだ赤子である身には無理からぬことである。



 それから十六年の時が過ぎた。

 明日香あすかは予感がしていた。……今年のうちに、ということを。

 本当はこの身は双子だったのだ。だからわかる。

 姉が、来る。きっと会える。そう、会わなければならない。

 丘の上で柔らかな風を受けて遠くを望んでいると、ふと「風」の声が己の名を呼んだ。

(……明日香)

 明日香は人へ応えるのと同じようにかえした。

「何?」

(向かえが、来ますよ)

 己づきの女官まかたちが探しに来るのだと、気付く。きっとかえでだ。またこんなところにまで馬で遠乗りですか、などと叱られることになるだろうとぼんやりと思う。

 だが、明日香にとっては、人の多い御宮みあらかや人里を離れることは必要なことなのだ。

 濁りのない、透きとおった「風」を感じるために。

 明日香はこの「山間の国」を統べる首長おびとで、霊力者みこだ。

 この国のために風を「使う」。風は彼女に霊力ちからと「名」を与えた。

 明日香の一族うから「民に生を捧ぐ一族」として、近隣の国に知られている。民のためにそ

霊力ちからを使い、生きる。どのようなときでも。

 己の身が、己のものではないことを彼女は理解している。それは風と、己の統べるこの国と、民のためのものである。

 だが、時折己のための「風」を求めてこの丘へ来る。

 ……山に囲まれたこの国で唯一、わずかひとところ、山の切れ目の「先」を見せる丘。遥か遠く瑠璃色の海を望む丘。

 その海から遠く運ばれた風が明日香の頬を撫でる。それだけでそわそわと何かに急き立てられるような心地が静まるのだ。

 明日香には、姉がある。その訪れを待っている。いち早く風に教えてもらえるようにとここのところ毎日、この丘にきていた。

 双子を忌嫌い、生まれれば闇に天へと返す慣習ならいは、どこにでもあるものだ。だが、明日香は「霊力ちから」を宿す「名」を持つ者として生きながらえた。……姉は殺されるはずだったのだ。

 生まれるとき母の胎内はらでそれを知った明日香は己の命を姉に預けた。「六度」の転生を繰り返す霊力者みこである明日香は、残りの命から一度分の命を捨てて、姉に与えたのだ。

 それは「民に生を捧ぐ一族」として、決して許されぬこと。今までにこのことを誰かに話したことはない。

 許されぬことをその霊力ちからをもって為した代償かわりに、霊力ちからのひとつを失った。だから、今生で明日香が使うことのできる霊力ちからは「風」だけだ。

 二年前に亡くなった双子の母は、「姉と一つになりなさい」と最期に明日香にだけ聞こえるように言い残した。

 母もまた「民へ生を捧ぐ一族」の霊力者みことして、気付いていたのだ。

 そのための手立ては二つ。

 ひとつの命を共有ともにすること。

 もうひとつは……どちらかが今生の命を失ったとき。そのとき、残った者に霊力ちからが宿る。

 風を感じながら、この国の行く末を憂う。どちらがどのようにすればよいのかと。こんな刻はこの丘でしかもてない。

 遠くからわずかに己の名を呼ぶ声が聞こえて、それがだんだんと大きくなる。やはり楓だ。

 この丘は御宮みあらかの奥深く、神殿かむどのの裏にあるから、民も郷士ごうし

も、来ることを避ける。それをわざわざ連れ戻しに来る者は、楓のほかにあまりない。

 楓が丘にたたずむ白毛の馬と、風に舞う大袖おおそでの衣にまっすぐ向かってくる。

楓は丘にたたずむ白毛の馬と、風に舞う大袖おおそでの衣に

「……様。明日香様ぁーっ」

 だが明日香は動かない。駆ける人影が目の前に来てから、やっと声をかける。

「何か、あったか? 楓」

「何かって。いい加減お戻りくださいまし。皆も探しております」

 そう言いながら、本当のところは、探しているのは楓だけなのだろう。明日香がどこにいるのかなど、限られるのだから。

 くす、と少し笑った明日香は愛馬の白夜びゃくや促し、跨る。手を伸ばしながら、

「楓も、乗ったほうが早いだろう?」

と言ってはみたのだが。

 息を切らしながら、とんでもない、と楓が断るのも、承知で言う明日香である。



 山間の国の中枢、御宮みあらかの内にはさらに内門うちつもんがあり、垣が巡るその

内に、内宮うちつみやの画くなす神殿かむどのがある。

 この神殿が、首長たる明日香の昼の御座ひのおましである。

 御簾越しにわずかに影を作る己の主人あるじに向かって、主紗かずさは奏した。

「民が困っております」

「だろうな。……雨が降らぬ。当分、降らぬ」

 明日香はあつらえられている祭壇まつりのばに向かったまま、振り向かずに言った。ふた月を超えて雨が降らぬなら、それは困るだろう。

 主紗も困った表情かおをしている。振り向かずともそのくらい承知のことだった。

 主紗は筆頭郷士いちのごうし嗣子むすこで、明日香のいちばんの側近もとこで、従者ずさだ。

 頃は御宮みあらかに仕える女官まかたちらを取り仕切る役目を負っている。

 幼い頃は明日香の遊び相手を務めていたこともあって、明日香にとっていちばん気心の知れている頼れる側近もとこだ。

 主紗も幼い頃から、ひとつ年下の姫巫女ひめみこを妹のように思ってきた。彼にとっての「いちばん」は何につけても「明日香様」だったから、同じ近侍もとこ女官まかたちにも護り過ぎだとからかわれるほどである。

 だから、その主紗が明日香を困らせるようなことを言うのは、かなり珍しいことだった。

 ため息をかろうじて飲み込んだ主紗は続けた。彼も、どうしようもないことを分かっていながら、奏しているのだ。

「明日香様は『雨』をお呼びできぬのか、という声もございます」

 明日香は顔をしかめた。主紗に言われるのは少し苦しい。

「……私には」

「存じております。しかし、母君の水姫みずき様を覚えている者も多く」

 民も、それを束ねる郷士ごうしも、霊力者みこが「何を為しうるか」を知っているわけではない。側近ならともかく、……否、側近く仕えていても、霊力者みこでない者にとって、本当の意味で「知る」ことはできないことだ。

 そのためか霊力者みこはなんでもできるのだと思い込む者がある。もちろんこの国を統べるにはその方がよいことも多い。

 霊力者みこが何を霊力ちからの源としているのか、それはこの山間の国のいちばんの秘事ひめごとである。たとえ郷士でも、限られた者しか知る者はない。

 明日香の母、水姫は水のほか風も火も使い、雨雲を呼ぶことができた。しかし明日香が「今生」で自在にできるのは「風」で、水や火は、風の霊力ちからを使って感じ取ることができるだけなのだ。

 ……せめて「水」を使うことができたのなら、狭い範囲であれば、雨雲を起こすことができるが、それは明日香ひとりではできない。

「このままでは……隣国、海辺の国の川を奪って水を引く、などという声もあるのです」

「主紗。私にどうしろと言うのだ。那智なちにも、雨雲は呼べぬぞ」

 明日香の従妹にあたる那智は、今はその父の生国にあたる「奥津おきつの国」で暮らしている。水を使う霊力ちからを持つが、その霊力ちからは強くないから、雨雲を呼んだり、雲を起こしたりすることまではできなかった。

「……お二人の霊力を合わせますれば」

「無理だな。那智に命を落とせと命ずることになる」

 合わせる霊力ちからに差があれば、弱い者は耐えられないのだという。これまでに明日香の一族うからには民のために霊力ちからを合わせて命を落としたものがあると伝えられていた。

 一族すべてが、霊力ちからを持って生まれるわけではない。今、霊力者みことして生まれたのは、明日香のほか、那智だけだ。

「いざとなりますれば」

 それは、避けられないことなのだった。「民のために生を捧ぐ一族」の霊力者みことして生まれた限りは。

 明日香にもそれはわかっていた。……わかっていたつもりでいたのだ。霊力者みこであり、この国の首長であるということは、そういうことなのだ。

いくさで民を失うことは避けられましょう」

 振り返り、痛そうな表情かおの主紗を確かめる。

 この側近もとこが、このようなことを好き好んで言うはずがない。おそらく、ほかの郷士にこの役目を押し付けられたのだろう。

 それでも、明日香はきっぱりと言い切った。

「戦も、天空そらのことも、……私の決めることではない」

 主紗には、その明日香の声が、疲れているように感じられた。

 だからそれ以上の言葉をかけられない。

 それで側近の従者は御前を辞すよりなかった。



 転生をやめようか、と明日香は思った。

 残りの生、転生した先の世で使うはずの霊力ちからを、今生で、今生きる民のために使い、雨雲を呼ぶ。

 できないことではない。だが、決してしてはならないことだ。

 生まれるとき「決してしてはならないこと」をしているのに、こんなことで迷う。

 井戸に湧く水は少しずつ減っている。地を流れる水の気配もか細い。

 このままでは田も畑も、作物が枯れてしまう。

  ……もともと、山間の国は水に恵まれている。北の山から起こった水が川となり、国の西側を回り込むように流れる。三方を山に囲まれる国ではあるが、その大川がもたらす恵で民は生きている。

 川から水を引き、田を作る。川に腰まで浸かって、魚捕いおどりできる。水脈ながれに沿って井戸も掘れるし、土地そのものも肥えている。

 だが今年、なぜか井戸が細くなる前に大川が水を流さなくなってしまった。今、川の跡にはおおきな水溜りがところどころに残されているものの「流れ」にはならない。

 旱魃ひでりである。倒れる者も出てきた。

 それにしてもこんなに早く、大川が水を流さなくなった理由わけがわからない。

 明日香が「風」に尋ねてみても、「風」は答えない。何も知らないわけではないはずなのに、決して教えてくれない。……風は「風」であって、「水」ではないから。

 わずかでも水の霊力ちからがあれば。せめて雨雲を呼ぶことができなくとも、水の声を聞けたなら。

 理由わけなく、為すすべももたず、天空そらの恵を待つだけ。これでは、明日香おのれはこの国の首長と言えない。霊力者みこであるとも。

 民はみな、細い井戸から水をくみ上げ、しのいでいる。明日香が、雨雲を呼ぶまでのことだから、と。

 この近隣の国では、もう水の流れる川があるのは、隣国の海辺の国だけになったという。一日をかければおとなうことのできるかの国からは、大川が枯れてから幾度か水を購っている。

 海辺の国は丘の向こう、海のある国のことだ。

 丘を越える先には、崖があって降りることができず、崖を避けて造られた山路みちを使う。それでも帰るその路は、坂道を上り続ける。まして荷は水、往くときと違って、二日近くかかっているという。

 水のあたいはどんどん釣り上げられている。そして旱魃はやまない。……いつ、海辺の国が水を売らなくなるか、わかったものではなかった。

 明日香は、残り二度、転生を繰り返す。

 この転生をやめることは、一族うから子孫すえから、二人の霊力者みこが消えることを意味した。

 明日香の一族うから霊力ちからを持ち続けるのは、転生のためだ。生を終えた霊力者みこはその霊力ちからで時を越えて、同じように一族の子孫に生まれ変わる。だが時を越えるためには多くの霊力ちからが必要で、何度も転生できるわけではない。

 それでも、この転生のための霊力ちからならば、今は使えない「水」の霊力ちからを使うことができるはずだった。

 ……明日香が生れ落ちるときに、双子の姉にその霊力ちからを与えたように。

 転生するよりも前の記憶はない。

 それでもこの生は、祖先さきの時を生きた霊力者みこが、民のために明日香に与えたものであることは確かだ。

 明日香は、明日香自身のものではない。

 いつもの丘で、彼女は仰向けに転がっていた。少しずつ、丘は緑を失っている。背中が以前よりもくすぐったく感じるのは、枯れ草が多くなっているためだろう。

 さわさわと、風が丘を通り抜けた。

 明日香の隣では、白夜が大人しく草をんでいる。

 「白夜。お前は、私が私ではなかったら、どうする?」

 愛馬は困ったように顔を寄せた。白夜はほかの者には懐かない。明日香だけの馬だった。

 明日香の生は、明日香ではない者が、明日香ではない者のために用意したものだ。転生をやめたなら、そんな憂いごとを持つ者が減るのだ。

 丘から両脇を山に切り取られたように、わずかに見える海。海は多くの水を湛え、いくらでも水を岸辺に寄せてくるのだという。なのに、その水は塩辛くて飲むことができないと聞いていた。

 海は隣国のもので、首長である明日香がかんたんに近付けるものではなかったから、話に聞いたことがあるだけだ。

 それでも、明日香は海を眺めるのが好きだった。そして、雨雲も海からやってくるという。

(まだ、雨雲は来ませんよ。あなたの待ち人も)

 風の声が、いつもと同じことを明日香に教えてくれた。



 主紗かずさは弱ってしまった。

 また、その父、笙木しょうきもである。

 この山間の国では、祭事まつりごとが首長である明日香なら、政事まつりごとは郷士たちの会合はかりごとで決められる。

 その会合で、笙木や主紗がおそれていたことがとうとう起きてしまったのだ。

 郷士のひとりが、もう水を購う余裕などないと言い出した。また海の幸で潤う隣国、海辺の国から購うばかりでは、いらぬ勢力ちからをつけさせてしまうだろうとも。

 海辺の国には、山間の国の明日香のような首長はいない。だが郷士たちはよくまとまり、その勢力ちからは海から遠く山の中腹なかばにまで及んでいる。

 以前から山の幸と海の幸を交し合うことはあったのだが、こうした交易あきなりも海辺の国はもともとあまり熱心ではない。

 この近隣の国々は、山間の国の霊力者みこを敬い立てることで長く平穏を保ってきた。山間の国は同盟ちぎり盟主国あるじなのである。そうしたことで山間の国に礼をとる国が多い中、海辺の国だけはあくまで同じ立場にあることを望み、共に同盟ちぎりを支えてきたのだが、このところの旱魃と水不足で、両国の関係つながりが今までになく悪くなってきていた。

 海があるのに、川のある山奥まで国を広げるのはおかしい、海の幸で生きていけるのだから、山に生きる我らに川を譲るのは当然だ、と言い出す郷士がいるのである。

 ……譲れとは聞こえのいい、戦で奪い取るということだ。

「明日香様は戦を好まない」

 主紗は側近もとこの従者として末席から反論してみたのだが、

「ではなぜ、雨を呼んでくださらぬ。水姫様ならばはもっと早くに手を打たれましたぞ」

と返されて、何も言えなくなってしまった。

 霊力者みこがどんな霊力ちからを使うか、何ができるか、そして転生のことも、一部のもののみが知る秘事ひめごとであるから、いつかはそういうことを言い出す者たちが出てくるだろうことは分かっていた。

 分かっていたが、どうすべきか、答がでないまま今を向かえている。

 ひとりが匂わせることであっという間に膨れ上がっった「戦派」の郷士たちに押しきられてしまい、場を取りまとめる役目となる筆頭郷士いちのごうしたる笙木は、とにかく今、戦を仕掛け

てもよいものか、明日香様にお伺い立てる、ということで会合を終わらせるよりなかった。

 会合のあと、笙木は神殿に向かう主紗を呼びとめて、明日香様に悟られるな、と言い含めた。

 会合で決めたことを報せる役目の者は主紗ではなく、別の者がいつ。そちらにはすでに嘘のない伏せ方を示しているらしい。そういうところについては、己の父は細やかに気を配っていることを主紗は知っている。

 報告しらせの役割を担う者よりも、それよりも笙木は側近として傍らに仕える主紗の方を気にしていた。

 笙木は私財たからを費やして水代にし、当面を乗り切るつもりでいるのだ。

 笙木と別れた主紗が、神殿のある内宮に向かうと、小内門こうちもんのあたりから女官まかたちの楓が出てくるのが見えた。

 楓も主紗に気付いたらしく、ちょうどよかった、とうような表情かおを作った。

「主紗どの。明日香様がお召しです」

「どのようなことです?」

 主紗は首を傾げた。ただの用事なら、楓やほかの女官でも事足りる。会合のことなら、その役目の者が報せている頃合のはずなのだが。

 楓は、さあ? と用事の中身を知らないという。

 考えながら、主紗は神殿へ向かった。

 いつもと同じように、御簾の外に控える。掖月わきづきに身をもたれる明日香の影が見えた。

「参りました。急なお召しとか」

「……主紗。隠し事など、するものではないな」

 会合で決めたことがもう、耳に入っているのか。主紗は舌打ちしそうになった。それでも用心深く、返してみる。

「そうおっしゃいますのはどうしたことですか?」

「今の会合のことだ。笙木の気持ちはわかる。……戦でお前の母を亡くしているから。先に参った報せの者はごまかした。では、私の側近もとこ従者ずさは嘘をつくつもりだったかと思ってな」

 そういえば、会合所は御簾も蔀も上げられていたから、風が吹き込んでいたのだ。会合だけではなく、笙木との話も、風に聞かれていたらしい。主紗は己の父に、心で悪態をついた。

 もともと会合は郷士のものだから、首長である明日香は臨まない。日頃はそのようなことはしないから忘れがちになるが、霊力者みこならばたとえ締め切っても、風を中にすべり込ませることができるのだろう。

 仕方なく主紗は口を開いた。

「……それながら。民の暮らしにも、限りというものがございましょう。そのときがきてからでは遅いかと」

 だが明日香はまったく違うことで返した。

「先刻、那智と話していた」

 え、と主紗は顔を上げる。那智の暮らす奥津おきつの国は、海辺の国と反対側にある隣国で、馬を急がせても一昼夜はかかる。訪問おとないには先触れがあるものだが、会合所はかりどころにそれを伝えにきた者はなかった。それでも、主紗の役目柄、それを知らぬとは大失態である。

「あぁ、風に声を乗せてきただけだ。那智自ら来ているわけではない。……奥津の国も、水不足になっている。雨雲を呼びましょう、などと言ってきた」

 私にはできぬ、と明日香は言った。

「……奥津の国には、もとから川がないと聞いております。いくつかある泉と池が、枯れたのでしょうか」

 主紗は生まれたこの方、いまだ山間の国を出たことがない。ずっと明日香の傍らにいた。

 だから、たまに使者つかいの役目を負ってかの国に向かったことのある朋輩ともの話を聞くだけだ。そしてそれは明日香も同じで、言葉に出したことろで明日香には何の意味もない。

「主紗、那智の方がしっかりしているな。私は……民に生を捧ぐために、何をしてよいのかわからない」

 下がれ、と命じられた主紗は、ただ愚痴を言うために呼ばれたのではないことがわかった。

 それでも、主紗は霊力者みこでも首長でもないから、明日香の言葉の深いところにある意味までは、わからない。それがとても歯痒い。

 命じられたからには、下がるしかない。

 幼い頃、共に遊んだ「姫巫女さま」が、とても遠く感じられた。



 主紗の母、紗鳴さなるは、彼がひとつのときに亡くなった。幼くて、その記憶はない。

 笙木は、

「殺しの報いだ」

と言っていたが、それは笙木が戦で人を殺したこととは少し違っていることに、主紗はいつの間にか気付いていた。だが、訊くことができないままになっている。

 先ほど明日香に母のことを言われて、今さらながらそんなことを思う。

 主紗は今、山道を歩いていた。

 さらに正しく言うなら、明日香の愛馬を引っ張りながら歩いていた。

 この山道はほとんど獣道のようなもので、たどれば海辺の国の国境くにざかいに行きつく、という道である。

 明日香のほかには懐かない暴れ馬の白夜を連れてここまで来たのには理由わけがあった。

 白夜はきれいな白毛の馬だか、この旱魃で乾いた地を駆けるとすぐに埃にまみれて薄汚くなってしまう。だがそれでは乗る明日香までもが汚れてしまう。

 毛並みを梳いて埃を落とすが、それでは間に合わない。なのに明日香は水不足のこともあり、白夜を水で洗うのを許さない。どうせ己は禊するから、汚れてもいい、などと言うのである。

 しかし、しかしである。

 主紗は思っていた。

 明日香様は本当は白夜をきれいにしてあげたいはず、なのである、と。白夜のあの白毛を、本当に愛しんでおられるのだから。

 主紗にとっては明日香がいちばん、彼女の喜ぶのをみることこそ至高である。楓に護り過ぎかまいすぎ! と言われる所以であった。

 主紗は、山奥の小川ならばみつかるまいと、こっそり白夜を連れ出してきたのだ。厩番にも見つからないように、黙って出てきた。

 しかし、肝心の白夜が言うことをきかない。

 細い山道で、両側には木々が迫っている。こんな山道はいやだと暴れて、暴れるからそこらの枝やら蔓やらに体をぶつけてまた暴れる。

 なんとか白夜と足元を這う木の根に苦戦しながらも、目指す小川にたどり着いた。

 邸宅やしきに出入りする流れの猟人さつおに聞いたことがあったのを、覚えていたのだ。

 山間の国と海辺の国、どちらの国か、定められないままとなった場所。そのような場所には諍いをさけるため、普段は誰も立ちいらない。中でもここは、誰も近づかないうちに、ほとんど忘れられていて、そこに流れる小川は、海辺の国に続いているのだと。

 国でいちばんおおきな川はすでに干上がって水を流さない。この大川は丘の先の崖を滝となって落ち、そのまま海辺の国の大川を成して海にそそぐのだという。山間の国の大川が水を流さないならば、海辺の国の大川も同じだろう。

 それでも、かの国には水の流れる川がまだあるという。その水を、山間の国もこの近隣の国も購っている。ならばそれはきっと、猟人の教えてくれた小川のことだ、と主紗は思った。

 もっともそのぶん、小川がどのあたりにあるか、本当に流れているか何も確めないまま山に入った。

 だからこの小さな流れをみたときには、疲れを忘れた。

 手首までつかるほどの深さしかない流れで、幅もひとまたぎできるほど。それでも今の主紗には充分だった。

 涼やかな流れに手を浸してすくう。飲むと心地よさがのどを伝った。白夜も首をのばして水を飲み始める。はじめて大人しくなった今のうちにと、さっそく白夜をきれいにしはじめた。

 白夜は本当に頭のいい馬で、水浴びができることに気付いて主紗の言うことをきく。

「ふーぅ。苦労しただけあったかな……」

 久しぶりに白毛に戻った白夜の背は、濡れてもこの木洩れ日にすぐに乾くだろう。暴れるのを恐れて繋いだ縄をくいくいと引っ張るので放してやると、白夜は体をぶるると揺すった。

 主紗も喜ぶ明日香を思い描きながら足を流れに浸し、足を水につけたまま仰向けになって背中を地につけた。のびをする。

 この辺りの森はまだ旱魃も水不足も感じさせない。さらさらと流れる音、どこかでさえずる鳥、白夜は草を食み始めた。

 いろんな音があるのに、主紗はそれを静かだと思った。静かで、優しい音だと。

 が、その静けさをやぶったのは白夜だ。突然なにかの気配に反応したように、首をあげた。辺りを警戒するような態度に見える。

「どうしたんだ?」

 白夜は賢い。何かある。

 隣国の者に見つかったかと、主紗は急いで、だが、そっと水の流れから足を抜く。音を立てないためと、水中の砂をかきたてて人のいた痕を残さないために。

 周りの気配をさぐってみるが、主紗にはわからない。兵士や衛士や、他国に入り込り様子を探る窺見うかみらと違って、そのようなことにはあいにくと物慣れないのだ。

 首長の側近の従者として、ひととおりの身に付けたが、人より秀でているというほどではない。それで主紗は白夜が警戒する方向と反対の木陰に隠れて息を潜めた。

 見つかったのが白夜だけなら、まだいい。逃げた馬が隣国に入り込んだので、などと正使つかいを立てて連れ戻すことができる。

 だが主紗が見つかれば、ことが難しくなる。窺見と断じられれば、それでなくとも両国の関係つながりが微妙な今、一気に関係つながりが悪化して戦のもとになりかねない。

 今は、窺見はどこの国も放ってはならない約定きまりがあるのだ。……白夜を繋いでおかず、助かった。

 やがて、草を分け踏む音がした。獣のそれではない。主紗は体を小さくして様子を窺う。

 あの白夜が、微動だにしないのが見えた。熟練てだれの兵士だろうか。

 だが、姿を現したのは、ひとりの少女だった。主紗といくらも違わない。

 白い大袖の衣。薄紅うす裳裾もすそを手でたくしあげているのは、道なき草むらを来たからか。首からさげているのは翡翠の勾玉、どうやら巫女のようだった。

 姿形すがたのあと、主紗はその巫女の顔を見て己の目を疑った。

 ……明日香様っ!?

 声を出しそうになったのを飲み込んだのはさすが、側近の従者だ、と己で思う。違う、明日香様ではない。

 いくら忍んで御宮みあらかを抜け出すことを好む明日香様でも、白夜なしで遠く出歩くことはないし、装飾かざりを身に付けるのは祭事まつりごとのときだけ、日頃はいくら進呈されても、嫌がるのだ。

 そして、明日香様のほかに懐かない白夜が警戒を解かないままだ。

 主紗はそれをよく分かっていたのだ。だがそれでも、驚いていた。……似ている。似すぎるほどに。

 白夜も、後退りする。

 そう、顔だけではない。そのまとう空気が、物腰やしぐさがまでもが。……どこか似ている。

 まっすぐに白夜に歩み寄った巫女は、手を伸ばしてその頬に触れる。

「お馬がひとりで……どうしたの? ずいぶんと怯えて。こちらにいらっしゃいな」

 警戒を解かない白夜。たてがみをなでられるままに、だが動かない。

「どうしたの。……あぁ、そういうこと……。どこでしょう……」

 巫女は辺りを見回した。主紗は血の気が引くような心地がした。まさか、気付かれたか。

 そしで同時になぜ、という思いがわき起こる。明日香様であったなら、風にでもお聞きになるだろう。

 だが、彼女は明日香様ではない。霊力者みこだとも思えない。姿形から巫女のようだが、巫女は、霊力者みこのようには、易々と声を聞くことができるわけではないのだ。

 主紗は木に登らなかったことを後悔した。巫女が迷いのない足取りでこちらに向かってくるから。

 こちらから姿を現して、道に迷ったと事訳ことわけて口止めしようか、主紗にはそのくらいしか思い浮かばなかった。それとも、このまま逃げるか……。

 頭を忙しく回転させ、振り返ったときにはすでに目の前に巫女がいた。

「隠れても、分かる。お馬の方がお利口みたい」

「……道に迷って森に入り込んでしまった。ほかの者には言わないでほしい。国境くにざかいはどちらだろうか?」

「知っているのに、聞くの?」

 その言葉とともに、巫女の顔つきが変わる。それは不敵な笑み。愛らしさなどない。冴えた笑みを湛えたが目が主紗を鋭く射抜いた。

 主紗は悟った。この巫女は明日香様とは違う。己の仕える霊力者には決してできない笑みを、この巫女はたやすく表情かおに浮かべることができるのだから。

 主紗はわずかに後退った。そして急に辺りが暗くなるのに気付いた。見れば、木立の隙間にのぞく空が、低く雲を垂れこめている。まさか……!

 驚く主紗を、巫女は笑みを湛えたまま見やる。雨が、降り始めた。

 主紗の体を、その場に在る者を、地を、草木を。雨の滴が激しく叩いた。

 二ヶ月以上も見ていない、雨。

 それが、今、天空そらから降りそそぐ……!

 だが、歓喜の感情きもちがわき起こることはなく、ただ呆然と雨に打たれた。

「不思議かしら?」

 巫女のその言葉が、主紗の感情を、戦慄に変えた。この巫女が、呼んだのか、雨を。明日香様にも呼べぬ雨を! それほどの霊力ちからを……!

 主紗が唐突に分かったことがある。今、降りしきるこの雨は「ここ」にしか降っていないのだ。この森の、この場所にだけ、幻のように雨雲が重くのしかかっている。

 主紗は己がこの巫女の霊力を畏れたのか、それとも打たれる雨よりも凍てる巫女の眼差しと笑みに恐れたのか、分からなかった。

 ただ、今体を動かすには、自らを奮い立たせなくてはならないことが分かっていた。

 振り絞るように主紗は動いた。巫女の横をすり抜け、白夜の元へ駆け寄る。くつわをとって山間の国の内へと。今は白夜も言うことを聞く。

 しかし慣れぬ山道。足元には木の根が這い、湿った草が駆ける足に絡み付く。道は打たれる雨にぬかるみはじめていた。

 来た道をたどっているつもりでいた。だがその道はもとからあってないような獣道。いつ迷ってもおかしくはない。

「!」

 気が付いたときには、崖沿いを駆けていた。山間の国にこのような場所を聞いたことも見たこともない。本当に迷って、海辺の国の奥深く入り込んだのか。

 逃げるように駆ける主紗には崖下を覗き込むような余裕はない。だが……高い、崖。足元も、ぬかる。

「うあっ!」

 主紗は踏み出した方足に体を引かれて崖から滑り落ちた。白夜の嘶きが、最後の記憶。



 主紗の記憶の続きは、見慣れぬ景色で始まる。

 茅葺かやぶきの屋根が見えた。彼は板間に寝ていた。真菰まこも五重いつつえに重ねたむしろ牀榻ねだい代わりにして、衾麻ふすまをかぶっていたのである。

 重いまぶたを押し開けると、見慣れた……いや、見慣れぬ顔が彼を覗き込んでいるのが、茅葺を後ろにして見えた。

 そのことは、彼にこのような事態に陥れた因と思い出させるに至らなかった。ただ、明日香様ではないということだけがすぐにわかった。

 そっと息を吐いた声がいくぶん柔らかく落ちてくる。

「気が付いたようね?」

 だが、主紗の体はまぶたよりも重いらしく、動かすことはできなかった。

「崖から落ちて、体を強く打っている。無理に動かないほうがいい」

 主紗はなんとかその巫女の言葉をかみくだいた。

「ここは」

「海辺の国。勝手に運んだの」

 そのとき彼女の後ろから違う女の声が聞こえてきた。

「巫女様、何か温かいものでもお持ちしましょうか」

「そうね、お願い」

 日頃「よくできた側近もとこ従者ずさ」であるはずの主紗だが、今はまったく頭の働きが鈍くなっていた。

 ここは。海辺の国で。

 それは。隣国の国の名前で。

 そして。助けられたらしくて。

 体も、動かなくて。

 ……やっと、それだけが分かる。

 「日頃の主紗」ならばかなり危うい事態であるという考えが浮かぶだろう。だが今は彼の体も思考も、動かない。やっかいなことに、ぼんやりと「まずい気がする」と、勘のようなものが働くのは、日頃「よくできた従者」であるせいで、そのあたりは彼は己の失態をいち早く把握する能力は失っていないようだった。

 従婢まかたちだろうか。ひとりの女が、湯気の立った木器もいを運んできた。

「体を、起こしましょう」

 巫女が主紗の体を起こすのを手伝った。それでやっっと主紗は、己の体が、何処が傷むのかがわからないほど、青いあざと擦り傷ができていることを知った。

 手渡された木器に満たされたあつものをすすると、少しだけ頭が動き出したようだ。温かさがのどをつたって、体と気持ちを落ち着かせていく。

 羹から、いや、辺りから潮の香りがする。

 山間の国で時折、風が気の向いたように乗せてくるほのかなものではない。ずっと強く、確かな香りだ。だが、雨が降ったあとのじんわりした土や緑の香りがない。

 雨に打たれたはずだった。苧麻からむしの袍ほうも、その下に身に付けた粗衣あらぎぬの衣も、すっかり濡れてしまうくらいに。

 あれは夢だったのか。幻を見たというのだろうか。

 それとも、海辺の国では雨のあとの香りは、潮の香りに負けてしまうものなのだろうか。……長い間、気を失っていたためかもしれない。

 そう考えてから、はたと気付く。己は誰にも何も言わずに出て来たのだ。

「私は……どのくらい気を失っていた?」

 問われた巫女は事も無げに答えた。

「まだ日は沈んでいない。焦らずとも、海辺の国のほかの者には知られていない。お馬は外に繋いでいる」

 当然ながら白夜が大人しくしているはずもないのだが、そのことに今の主紗は思い至らない。

 日は沈んでいないのならこれから夕刻になるはずで、それほど時が経っていないのだとぼんやり思った。

 明日香様は白夜がいないことで遠乗りできずに困っておられるだろうか。女官まかたちの楓どのは、うまく皆を滞りなく動かしているだろうか。厩番は落ち込んでいるかも知れない。白夜の行方が分からないのだから。明日香様に問いただされても、何も答えられまい。

 それとも、明日香様はもう「風」に聞いておられるだろうか。

 この巫女のことも。雨のことも。

 風は何かを知っているのか……。

 主紗はすぐにでも、山間の国に戻らなくてはならなかった。難しい理屈はともかく、国境を越えてしまったのだから。

 彼は傍らの巫女を見返した。

 あのとき、凍てつくような笑みをどこに隠しているのか表情に乏しいまま、主紗を見る巫女。

 彼女は主紗が山間の国の者だとはっきりと知っている。流れの猟人さつおが通る獣道のような道を来た。迷人まよいびとかも知れないとは考えず、まるでなにもかも事情を知っているかのようにみえた。その上で、主紗を匿っているようだ。

 どちらが、彼女の本当の姿なのか。

 明日香様に似た巫女。そして雨。

 主紗はあの雨は今己の目の前にいる巫女が呼んだものだと確信していた。それも、あの森だけを降らせていたものだと。

 木器を両手で包み、主紗は巫女に向き直った。

「助けていただいてすまない、ありがとう。……あなたはこの国の巫女か? 急ぎ戻りたいのだ。満足に礼のできぬが」

 表情の乏しい巫女の瞳が揺れて、主紗を見返した。

「聞かないの?」

 その巫女の問いに、主紗はどきり、とした。それは主紗の気持ちを言い当てたものであったから。

「……巫女ではあるけれど、この国の者ではないの。私は国を持たぬ旅の巫女。ここに来てからもうふた月ほどになる」

そんなことより、と彼女は言葉を区切った。

 振り返れば、それほど大きくはない小館内たちうちには、まだ先ほど羹の器を運んだ女が控えていた。女を下がらせて、気配のなくなってから巫女は主紗を見やった。

「……巫女様」

「名前でお呼びなさい。水葉みなはという」

 巫女は主紗の呼びかけを遮って名を明かした。そのことが、せっかく動き出し始めた主紗の思考を固まらせた。そのようなことができるはずもない。

 軽々しく、巫女の……霊力者みこの名を呼ぶことなど、できない。

 見開いた目で彼女を見つめた。このような場合の、礼節はどのように振舞えばよいのだろう?

 主紗や楓、笙木が「明日香の名」を口にできるのは特に許しがあってのことである。

 名は、己を現すもの。

 名は「意思」を示すのも同じ。名は「意思」の霊力ちからなのだ。

 霊力者みこは「意思」を知りその霊力ちからを使う。だから霊力者みこの名は、その霊力ちからを顕すために必要なのである。

 山間の国の首長である「明日香」は、風から「名受け」した。

 彼女の幼い頃の名は、風香音分得姫かざかねわけうるひめ。「通り名」は、そこから「風音かざね」と呼ばれた。

 名受けは霊力者みこ霊力の源ちからのもとを結ぶ。名受けがなくてはたとえ「民に生を捧ぐ一族」の者であっても、それを自在にできない。明日香も、幼い頃は風を使うのに難儀していたのを、主紗は覚えている。

 霊力者みこの名を穢してはならない。

 主紗が明日香の名を呼ぶことができるのは、風がそれを認めているからだ。風がそれをよしとしないと、明日香は風を使うことができなくなるだろう。

 それは巫女も同じことだ。

 巫女は霊力ちからを使わずとも、声を聞く。己の存在を忘我し、すべてとひとつになり、声を引き寄せる。

 本当の名をほかの者に知られては、声を聞くことができなくなるというから、巫女となれば生きるうちは名を明かさない。

 だが、と主紗はわずかに思案した。この巫女の場合はどうなのだろうか。彼女は、主紗の目の前で霊力ちからを使って見せた。霊力者みこならば、必ず「受け名」がある。今彼女の名乗ったそれが、彼女の「受け名」なのだろうか。

 その困惑を見て取って、巫女は付け加えた。

「私は旅の巫女にすぎない。……霊力者みこ様とは違う。『通り名』のほかに名を持たないし、こだわらなくてもいい」

 それよりも、と彼女はまっすぐに主紗を見た。

「聞かないの?」

 抑揚のない声で、繰り返し主紗に問うた。

「なぜあなたが小川にいたのを知っていたのか。他国の者だと知りながら助けて匿ったこと。そして、雨のこと。……聞きたいのではないの?」

 そうだ、と主紗は思った。聞きたいのだ。聞いて、知りたい。

 あなたは、明日香様をご存知か、と。よく似ておられることも。

 ただ、それを尋ねるのは躊躇われるのだ。聞いてはならないことなのではないかというわずかな予感。聞いてしまえば、知ってしまえば、それをきっかけにしてすべてが変わっていき、最後に崩れてしまうような。

 なぜそのように思うのか、今の主紗には分からない。

 だが、予感というものは、そういうものに違いない。

 彼女は……水葉と名乗った巫女は、主紗が何も問えないうちに、話を変えた。

「少し体を治さないと、山路は行けない。そうね……あのお馬はとても賢そうだこと。ひとりぼっちでも、帰れるくらいに。いかが?」

 水葉は主紗が誰にも行き先を告げずに来たことまでも知っているような口ぶりで言った。

 問われた主紗は、やはりぼんやりする頭で考えたが、白夜をどうすればよいかくらいは、考えられる。

 主紗はまだ動けないのだ。だが、白夜は明日香様の愛馬だ。

 主紗の代わりは、楓やほかの従者が務めるだろう。白夜の代わりがいないのとは、違う。

 わずかの逡巡と、淋しさがよぎるが、主紗は側近の従者としての言葉を選ぶよりないのである。

「……白夜を、あの小川へ連れていただけまいか。あとは、戻れる」

「承りましょう。あなたも数日もすれば、動けるでしょう。大きな怪我はない。身の回りのことは先ほどの者に頼んである。ここは集落むらと離れた林の入り口にあって、行宮かりみやとして借り受けた小館たちだから、ほかの者は近づかない。気にせず、体を治しなさい」

 それだけを言って、水葉は立ち上がった。衣擦れの音も滑らかに。衝立ついたての向こうに見えるとばりをかきあげて出て行った。

 主紗は何も聞くことができなかった。

 かすかに御簾や帳の隙間から入る光は、すでに夕日のようだった。しばらくして、先ほど羹を運んだ女が、夕餉を折敷おしきに並べて運んできた。羹は本当は夕餉のうちの一品だったらしい。

 夕餉は美味しく感じられた。山間の国ではめったに手に入ることのない、海の幸を使っている。

 主紗にとってはごちそうだが、見た目も味も質素で、だからきっと集落むらの者たちが口にするようなもので、特別なものではないのだろう。

 夕餉は美味しかったものの、これからのことを考えるには、主紗の体も頭も、疲れすぎていた。

 まるで課せられたように臓腑はらに夕餉を送り込むと、小館内たちうちが少しずつ暗くなっていくのにつれて、眠気が出てきた。女が燭台しょくだいに火を付けようとしたが、それを断って、そうそうに夜具にもぐりこみ、眠りに落ちてしまった。



 だから、主紗の翌日はやはり隣国から始まる。

 長年の習慣ならいは目覚める国が違っても変わらないから、いつものように、彼は目覚めた。

 小館内にわずかに入る光はまだ朝日のそれにはならず、ただぼんやりと影を薄く作っている。

 山間の国の主紗の邸宅やしきは、御宮みあらかから集落むらを挟んだ向こう側で、少しばかり遠い。

 側近もとことして仕える彼は、役目柄どうしても内宮うちつみやへの参るのが早い。そして彼自身、何よりも、早くから明日香様の傍らにあるのが喜びであり、務めであり、明日香様のためであると、固く信じている。

 だがいつものように目覚めた彼は、体を起こそうとして痛みを感じ、それで「いつもの朝」ではないことを思い出したのだ。

「……そうか、隣国か」

 己の主の元へと参ることのかなわぬことを思い、焦りと虚しさに襲われる。主の元にあらねば、己には何もすることがないのだ。

 することがないといよりも、体の痛みのために何もできないということが、本当のところであったから、彼は崖から落ちたことを強く悔やんだ。

 隣国にあるから傍らに参るのがかなわぬのではない。たとえこの隣国よりも遠くにあっても、体が動くのであれば必ず参じてみせるというのに。

 何もできない彼は、とりあえず動く首をめぐらせて小館内たちうちの様子を探った。近くに人の気配は感じない。そっとため息にも似た息をはいた。

 耳を澄ませば鳥が鳴いている。それは山間の国でもたびたび耳にするさえずりだった。

 海辺の国は海のほか、林や森に囲まれているという。おそらく海よりも、山にほど近い所にこの小館たちはあるのだと推し量った。

 淡い明かりは板壁や妻戸つまどの隙間から光となってもたらされている。その光を頼りに小館内のしつらいに目を向けた。

 主紗は日頃山間の国の首長おびとである明日香に仕えているし、郷士身分でもあったから、それなりに良い品物には見慣れている。その主紗の目からみて、ここにあるものはどれもさほどのものはない。

 衝立ついたてには華美な図案はなく、とばりも粗絹のもの、燭台にも塗りはなく、敷かれた莚むしろはどれも真菰まこもで、上等とはいえない。屋内の二方は板壁で残りは壁代かべしろ垂布たれきぬがかかるが、これは御簾がないためだろう。

 その垂布の向こうにしとみが布越しに見える。どうやら廂間ひさしの間になっているのだろう。

 もう片方の布越しに次間つぎのまが見えるが、目立ったものは何もない。間取りはこの二つだけ、どうやら行宮かりみやというのだから、大きな宮や邸宅やしきのようなものかと思ったのだが、そうではないらしい。

 寝起きではあったが、昨夜よりもはるかに主紗の頭は働きがよかった。少なくとも、落ち着きをいくぶん取戻し、失念していたことを思い起こすことができている。

 たとえば己の父、笙木しょうきのこと。

 明日香様の側近もとこ従者ずさたる主紗が、一日傍らにないという失態を責められるのではないか。今、その時機を逃すような悠長な情勢なりゆきではないのだ。

 白夜はすでに放されただろうか。一晩、あの気難しい白馬が大人しく過ごすとも思えない。

 雨のこと。それはまだたった前日のこと。幻のように、あの巫女、水葉様は確かに雨を降らせた。

 明日香様は、すでに風にお聞きになっておられるだろうか。傍らに仕えることのできぬことを、どうか許してほしい……。

 体さえ動くのならば、戻る道は山路みちがいい。国同士を結ぶ山路は、交易路あきなりのみちでもあり、連絡路つなぎのみちでもある。山間の国と海辺の国を結ぶ山路は、行くのに一日ほどしかかからない。

 だが、その山路をそのまま辿るわけにはいかない。

 山路には、それぞれの国がその入り口に関塞せきを置いている。兵士や衛士らがその国の通行いききを司り、防人さきもりを務めているのだ。

 関塞を超えるには、旅旌たびふだがなくてはならないのだが、あいにく主紗は、旅旌がない。もともと国外くにそとに出る役目ではないから、作ったことがなく、そもそも持っていないのだ。

 次々と思い起こして、そこでふと思い当たる。

 そういえば己は、山間の国を出たのはこれがはじめてのことなのだと。

 疲れのせいか、なぜかそのことに今の今まで思い至らなかった。一度気付いてしまうと、急に胸音が高鳴るような心地がした。

 旅の巫女と名乗った水葉が、日頃仕える明日香に似ているためなのかも知れなかったが、彼はそういう意識が薄れていた。

 山間の国には、近隣の国々から明日香の謁見するための客人まろうどおとなう。そういった他国の使者つかい饗応もてなしも主紗の役目だから、他国の者と接したことがないわけではない。それに他国から交易あきなりのために、山間の国に来る者もある。

 だが、他国の者の平生くらしを見たことなどまったくなかった。そう、旅の巫女だという水葉様はともかく、あの従婢まかたちらしい女は、間違いなく他国の者だ。

 他国の「平生」とはどういうものなのだろう。

 ひどく気に掛かって、胸が早鐘はやがねを打つ。

 何を纏い、何を食べて、どんないお住居すまいしているだろう。

 どのような祭事まつりごとを行って、どのように政事まつりごとを定めるのだろう。

 それは若者らしい関心ではあったが、幼い頃から御宮に仕え、今は首長の傍らに側近の従者である主紗の思考は急に萎んでいく。

 ……他国の者とこのような形で接すれば、この先のこと、情勢なりゆきの次第を思えば、どう転ぶか分かったものではないのだ。

 胸の高鳴る心地の良さには心残りがあったが、それは今「そうであってはならない」ことだった。

 己の性分は、冷静に事を見定めて役目を務めることではなかったか。それを思い起こして、主紗は戸惑った。

 よくできた従者ずさだと言われているし、己もそのつもりでいる。

 首長である明日香の傍らに離れず、忘れず、仕えてきたのだから、その己に頼むところはある。

 少しばかり、ひとつ年下の首長である明日香の我侭に応えすぎるから、甘い、行き過ぎてる、などと女官まかたちらに言われてしまっているのも、知っている。

 それでも、日頃からそれなりに思慮を身に付けて役目には冷静でいたつもりだったのだ。

 ……そうではなかったことに、主紗は気付いた。

 あまりに、幼い頃から傍らに在りすぎた。

 だから、他のこと、明日香の関わらないことを考えることがこれまでなかった。

 それは主紗にとっては新しい出来事で、新しい発見だった。

 明日香から見た今と明日香から見た主紗が、それまで、彼にとってのすべてだった。

 だから、主紗が己で見定めて、己だけの考えで、今、感じているすべてのものごとに、戸惑いと高揚を得ている。

 いつかの、言葉を思い出した。

 それは、明日香の母、水姫みずきの言葉。

 母のない主紗にとっても、水姫は母のような存在だった。

 ……風や水や火が、すべてを知っているわけではないの。彼らが見たことを私が感じ取って、思って、そうしてはじめて「知る」の。

 見て感じて、考えるのは、いつも私。それはとても、難しいことなのだけど。

 何を「知る」か、それを見定めるには、己の内から問いかけるしかない……。

 主紗は、少し悔いた。

 彼には、水姫様と約束していたことがある。

「風音姫」を護り助けるのだと。

 風音様は、明日香様となって、今首長として山間の国に在る。

 だが、その山間の国の霊力者みことして生きる己の主を、本当の意味で助けてこられたかだろうか。

 川に落ちた風音姫を助けて、蛇に驚く風音姫を護った。だが、今の明日香様を護り助けることと、それは違う。

 何も知らぬ、それに気付かぬままでいた己に、それができていただろうか。

 そのことに思い至って、主紗は落ち込んだ。

 落ち込んで、深く考え込むこともできなくなった彼に、差し込む柔らかい光が再び眠気を誘った。

 落ち込んだ主紗に、眠気に逆らう理由も今はなく、彼は意識を眠気に任せた。



 山間の国にも朝が来ていた。

 明日香は「風」の声で目を覚ました。

(明日香。ほら……)

(嘶きが。白夜の声が)

 優しい声は、明日香が昨夜頼んだことを忘れずに告げた。白夜の声があった時には、いちばんに起こしてほしいと。

 まだ現実うつつの朝と眠りの間に彷徨う頭で風の声を聞いた明日香は、その言葉を飲みこめなかった。

 嘶きが。

 白夜の嘶きが。

 どこに……。

 遠いの……?

(ほら、聞こえるでしょう?)

 風の運んだ白夜の「声」は、確かに、明日香に届いた。

「白夜!」

 飛び起きた明日香は、単衣ひとえのまま神殿かみどののを抜け出した。

 風の教えたその場所はそれほど遠くない、あの丘。

 白々と明らむ中を小走りに。女官まかたちらに見つからぬよう。

 御宮の裏手の小門もんには、衛士がいる。だから明日香はそれを避けて、そっと崩れて直しかけの垣を超えた。

 丘を目指して駆ける。朝の涼しさが、肌に触れる。

 風は嘘をつかない。

「白夜ぁっ」

 明日香は丘にたたずんだ愛馬にしがみついた。白夜はいつものように馬首を明日香の頬に寄せてきた。

 いったいどこへ行っていたのか。たった一日でも、懐かしく、戻ってきてくれたことが嬉しい。

 「お帰り……。心配した」

 着けられたままの鞍に、明日香は身軽く乗った。

 白夜の体が、毛並み美しく梳かれて汚れた埃も落とされていることに気付く。

 迷子になった先で世話されたか、それとも盗人が売るために整えたか。でも、どちらにしても白夜がおとなしく言うことを聞くとは思えない。

 明日香は数日前の、己の側近もとこ従者ずさの言葉を思い出した。

 ……明日香様まで汚れてしまいます。

 白夜の手入れに、水洗いをやめさせて、鞍も埃をはらい落とすだけにとどめるように厩番に言いつけた。

 それを聞いて、主紗はふくれ面をしていたのだ。せっかく明日香様を乗せるのであれば、白夜とて美しくありたいでしょうに、と。

 どうせみそぎで水を使い、体も汚れを落とす。だからいいのだ、と言ったのだが、主紗は不平を言った。

 白夜の白毛が、明日香様にかすんでしまいます、どうしても、というのであれば私が水を購いますから、と……。

 昨日、主紗は珍しく早くに御宮みあらかを辞したのだと聞いて、どうかしたのかと思ったものだが、きっと気付かれぬうちに白夜を清めよう、とでも考えたのだろう。

 明日香はその光景を思い巡らせて笑ってしまった。

 この白夜が、おとなしく主紗の言うことなど聞くはずがない。まさかそれで時がかかったのか。

 そして夜遅くなり、己の邸宅やしきに留め置いたのかもしれない。

 では、白夜はこの朝方に、逃げ出してきたのだろうか。だとしたら、今頃主紗は大慌てで御宮みあらかに向かっているだろう。白夜は帰り道を覚えない馬ではない。

 その主紗をどうやってやりこめようか、と笑い含みに思いながら明日香は手綱をとった。

 ……そのとき、「風」がざわめいた。

 枯れ始めた丘の草原をざわざわと吹き抜けて、そして木の葉も乱す。

 その様子に、小鳥や虫たちまで声をひそめた。

 山の端から日の光がのぞいたばかりの清々しさが、風に撥ね退けられたように。

「……何? みんな、草も木も小鳥も。どうして?」

(違う声が、聞こえたから。私とは違う、声。明日香、貴女にも感じられるはずです)

「違う、声……?」

 白夜が少し怯えた様子をみせた。それに気付いて、明日香は大丈夫、とたてがみをなでた。その時。

 これは……まさか。

「白夜、どこへ行っていたの、知りたい、教えて、白夜っ」

 驚きと不安が、己の声に混じっているのが分かる。

 白夜は主紗と一緒にいたのだと思う。

 だけど、確かに、「違う声」が……気配があるのだ。

「ねぇ、白夜……」

 こんなに気持ちを通わせていても、やはり白夜は言葉を知らない。気まずそうに美しい馬首を背けるだけなのだ。

 だから明日香は「風」に聞くよりないのだと思い当たる。

「風よ、何かを知っているのなら、隠さずに教えて。白夜は、誰に会っていたの? この……雨の匂いは」

(明日香。貴女が及ばないところのことをつたえるのはとても難しいこと……。それは、感じなくては。いつも、言っているように)

 ああ、そうだ。

 風が伝えてくれることが分からないのは、風のせいではないのだ。

 風は見たものを運んでくれるけれど、運んでくれたことのうちで、何を見て感じるかは、明日香の霊力ちからで聞き分けなくては。

 風を聞き分けられないのは、己の乱れだ。注いだ霊力がいいかげんなせいなのだ。

 明日香は落ち着こうと、息を吐いた。それは霊力ちからを使う者として、いちばん大切なことだ。

 そして、白夜からおりて、舞った。白い単衣のまま。

 舞うことは、風を呼ぶのと同じこと。

 そうして自ら風を起こし、風に内に「入る」。

 ……体中で風を「知る」ために。

 風を使うことは、風とひとつになること。風を忘れずに、残らずに、すべてに、「入る」。

 そう、……風が、明日香におりてくる。優しく包まれたように感じた。

 そうして見えたのは、白夜と主紗。

 ここは、国の境。そこから先が、見えない。何かに、拒まれたように。

 分かるのは……これは、潮の香り?

 明日香は舞い続けていた。

 予感がしていた。

 己は、このために霊力者みこであったのだ。

 そうだ、ずっと待っていた。

 この大切な「予感」は、必ず成る……。

 違う声。違う声が、拒んでいる。

 それは「水」だ。水が何かを護っていた。

 水が護るものは……「巫女」? その水に拒まれて、主紗は戻れずにいるのだろうか。

 巫女が、白夜にささやいている。水は失うと大切になるのだ、と。

 明日香は、霊力ちからが抜けていくのが分かった。舞うのをやめて、倒れるように仰向けに転がった。

 息が乱れている。それ以上に気持ちが乱れている。これ以上「風」を使うことはできない。

 明日香はそれでも、己の「予感」が成ったことを知ったのだ。

 なのに、哀しみがこみ上げてきた。

 明日香は、拒まれてしまったのだ。

 風と水が拒みあって、ひとつになれない……。

 何故? 否、理由などない。風が明日香を護るように、水には、水の護るものがあるだけのことだ。

 巫女の名を、明日香は知っている。

 水葉。明日香の、双子の姉。

 ……風が、やっと明日香の内から世界に戻った。そして丘に吹き渡り、草を木々を揺らし始める。

 明日香が己の頬をなでる風が、いつもよりも哀しく感じられるのは、彼女の頬を伝う滴のためなのだ。



 さて、笙木しょうきは今日も会合はかりごとで困り果てていた。

 今、山間の国の郷士たちは「戦派」とその反対派である「笙木派」に分かれている。

 戦派の者たちは筆頭郷士いちのごうしである笙木が頷かなくば、首長おびとの姫巫女に事訳できないこと分かっていた。

 彼らは決して戦を好んでいるわけではない。国の大事を憂いているのは、誰もが同じだった。

 会合の場には、探り合いと駆け引きと、危うい言動が飛び交っていた。それでもなんとか、両者の歩み寄りがなされようかというところまで詰められていたのだが。

 笙木の思わぬ落ち度をつかれて、またも話し合いがこじれてしまったのだ。

「……笙木どの。それではいかがなさる?」

「先刻も申したとおり。海辺の国に水のあたいを下げられぬものか訊ね、話し合いの場を作る」

「応じられぬときには? かの隣国が、山間われら勢力ちからを削ぐこの機を逃すと思えぬ」

「……明日香様も自らこのひでりのために、慎んでおられるのだ。我らばかり、不平を言えまい」

「えぇい、皆、笙木どのの『話し合い』とやらを当てにしすぎている。いくら笙木どのが海辺の郷士らと旧知とはいえ、その結果が今のこの不利な『約定きまり』ではないか。海辺の国とて我らばかりに水を売るのではあるまい。話し合いだけでことが収まるはずもない。多少の脅しは要るものだ」

「うむ。笙木どのはあまりに物事を易く言っておられるようだ。……ときに笙木どの、此度のことはどういうことか?」

 飛び交う言葉に少しばかり静観していた笙木だったが、その戦派のひとりの言葉に、まずい、と思った。

 思ったが、そのことを言われては、笙木は何も言えない。何しろまったくわからないことばかりなのだ。

「なにやら嗣子たるは首長どのの従者の役目を忘れたか、行方が知れぬとか。どういうつもりか知らぬがそのような者が首長どのを語るとは。まずは御身と嗣子むすこを慎むようになされよ」

 笙木とて、主紗の姿が何ゆえ見えぬかさっぱりわからないのだ。あの主紗が、明日香様を忘れて出歩くことはまずない。明日香様が何かあれに命じたかとも思ったが、それもわからない。

 内宮うちつみや神殿かむどのも、とかく人を拒む場所なのだ。霊力者みこたる首長の昼の御座ひのおましであるから、限られた者だけがその参上を許される。

 その取次は主紗の役目である。いくら笙木であっても、主紗がいなければ、明日香の御前に参るのが憚られる。

 女官の楓にそれとなく様子を訊ねてはみたが、さすがに楓は口が堅い。

「……此度のことは言い逃れるつもりはない。己の不届きであった。主紗かずさにも戻ったときにはよくよく言い聞かせよう。だが、このことと、明日香様のお考えは

別のことだ。明日香様はすでに戦は見合わせると決めておられる。例年いつもならば、雨季も近い。それまでを、凌ぐことのできる国のはずなのだ。ここは……しばし様子をみてはくれまいか」

「それでは遅い。この様子では、雨季に本当に雨が来るとは……」

 だがその戦派の郷士は途中で言葉を止めた。

 この御館みたち会合所はかりどころと呼ばれる。その棟奥むなおくは御簾で区切られて、五重の莚むしろが整えられている。

 その御簾の向こうに、気配が入ってくるのに気付いいたのだ。

 長引く会合はかりごとに座を崩していた郷士たちは座を正して御簾の向こうの気配に礼をとる。

「構わぬ。続けよ」

 明日香は、日頃持ち慣れぬさしはで口元を覆いながら、命じた。

 山間の国では政事まつりごとは郷士のもので、いくら首長でも、霊力者みこはその会合に直に口を挟むことはない。

 今、明日香がこの場に現れたことは、めったにないことなのである。

 笙木ですら、明日香が現れたその意図を掴みかねた。

 続けよと命じられたところで、首長をなきものとして会合はかりごとを進められるはずがない。

 場をまとめるのはやはり筆頭郷士いちのごうしの務めとなった。

「本日は何ゆえ。明日香様におかれては、このような所へのご臨席はたびたびあることではございますまい」

報告しらせばかりでは様子が分からぬ。近頃は特に。皆の考えを直に聞くゆえ、楽に続けよ」

 その言葉に、戦派の者たちが次々と申し出た。

「この近隣の国々の中では、水の流れる川のあるのはすでに海辺の国のみだとか。このままかの国が勢力ちからをつけては、向こうから攻めて来るやも知れぬ」

「海辺の国はもともと、山間の地を狙っております。備えは要るものかと。このままでは民を逃す余裕もなく、兵糧かても確かな分を集められませぬ」

「雨を待つばかり、手をこまねいていては、この地を我らに残した国祖おやに、なんと申し開けばよいのです」

 聞きながら、明日香はこの場に来るまで戦派がこれほど多いとは感じていなかったのに、と笙木を軽くにらんだ。

 会合はかりごとの様子は軽々しくたびたび風に聞いていいようなものではないから、大方は報告しらせに来る役目の者から聞くだけだった。

 今その役目を負っているのはもともとは笙木の家人けにんで、ここのところ、歯切れが悪かったのだ。

「……笙木。いかがか。そなたの考えを聞く」

「は。海辺の国にはまだそのような余裕はありますまいかと。かの国は、そも人の少ない。くにの広さに見合っただけの民がいないのです。山の中腹なかばまで領を持つのは、海に迫られて、平らぐ地が少ないだけのこと。この山間の国の地を求めているわけではありませぬ。かの国の動きに踊らされるよりも、今は山間の国領くにうちを保たねばなりませぬ」

「しかし笙木どの。国領は今、雨が降らねばどうしようもないのだ」

 笙木が言い切らぬうちに戦派の郷士から声が飛んだのを、明日香が制した。

「続けよ、笙木」

「……わずかに残った井戸の争いを避けるように、見張りを置かねばなりませぬ。ほかに、食糧かてを集めるように、進めております」

 笙木が出した策を聞いて、明日香はまだ少しだけ刻が残されているものと捉えた。

 それはわずかばかりのことかも知れぬ。それでも、笙木は戦を避けるために次々と手を打っていくのだろう。

 だから、明日香は息を吸った。

 己がこの場に現れた、その理由わけ

 たったひとつ、言葉を紡ぐだけですべてが動き出していくだろう。

 大切な「予感」は成る。

 だから、そのために成さねば成らぬことを、果たすのだ。

 ざわめきが収まるのを待って、明日香は告げた。

「……皆よ。おそらく『水』は近づいている。今しばらく、堪えよ。民にもよくしてほしい」 

 山間の国の霊力者たる首長の、その言葉に、会合はかりごとの場は再びざわめいた。

「雨が近づいているのですか!」

「いったいいつ頃に?」

 慣れぬ翳を持つ手で、明日香は手を打ち鳴らした。それを合図に場は静まる。

 御簾ごしとは言っても、その内からは様子が見えるものなのだ。皆が己の言葉を待っているのを見て取って、明日香は顔を上げて翳を置いた。

 明日香は『雨』、とは言わなかった。それは正しくない。

 偽りではない。

 隣国には、水葉がいるのだ。間違いなく、己の片割れとなった双子の姉が海辺の国に居る。

 白夜に触れて、風を使って、そして分かったのだ。

 ……白夜は、雨に打たれた。水葉の操る雨に。

「姉と一つになりなさい」

 その母の言葉。それは、どちらかが、その片割れを失うということだ。

 だが、もし水葉が使う霊力ちからが「水」ならば、霊力ちからを合わせて雨を広く降らせるはずだ。

 水葉が水を使い雨として、己が風を使い降らせる。

 もしも雨雲を呼んで、広く広く、この近隣に降らせることができたなら。

 何も壊さずに、すべてがうまくいく。

 戦で、笙木のように大切な人を失うこともない。

 そうだ、笙木を助けるいちばんの方法が、水が近くに来ていると皆に伝えることなのだ。

 ……明日香はそんなことを考えながらも、本当は己が怯えていることに気付いていた。

 水葉は、近づいているのに、この国に戻らない。

 戻らぬ理由。戻れぬ理由。……これほど近くにいるというのに。

 その「理由わけ」を与えたのは、この山間の国。

 そして、明日香自身だ。

 水葉はどのように受け止めているだろう。

 憎しみか悲しみか。それとも?

 ほかの何が、明日香の「風」を拒んだのだろう?

 水葉が、この山間の国をどのように見ているのか、明日香にはわからなかった。

 姉を追いやることでしか救えなかった。その己が、首長おびととして在るこの国を。

 戦になれば、何も分かり合えないまま取り返せぬ哀しみが残るだろう。明日香はそのことに怯えているのだ。……それだけは、できない。

 偽りではなくても、嘘になるかも知れない言葉だった。それでも、笙木が戦派を抑える拠り所にはなるだろう。

「今一度言う。戦はならぬ。ほかに何かあるか」

 笙木が進み出て申し出た。この場で聞き、ほかの郷士に聞かせるのが、いちばんよいことだと筆頭郷士いちのごうしは判じたのだ。

「主紗のことは、いかほどに」

 明日香は己の気持ちが震えて揺れたのが分かった。それでもそれを抑え付けて、平生と同じに努めた。

「……何か変わりあるか? 主紗には日頃からたまにはゆるりと体を休めるように言い渡してあった。ようよう休む気持ちになったようだな、違うか、笙木?」

「……は。そのようで」

「後の報告しらせは笙木に、申し付ける」

 明日香は己の決意を果たしきった。

 衣擦れの音も微かに、退出する。

 再びみたび、会合はかりごと御館みたちはざわめき出した。



 神殿かむどののへの戻るための内門うちつもんに向かいながら、朝方か

ら考え続けていることを、また囚われるように思い返していた。

 主紗は……「水」に拒まれたから、戻れずにいる。

 明日香に分かるのは、やっとそれだけ。

 水葉の霊力ちからは、風を拒むことができるほどの「想い」がある。だから、これほどまでに、何も分からないのだ。

 拒んでいるのは、生まれたこの山間の国だけではない。そして憎まれているのは、明日香自身だけではない。

 そう考えることは、明日香を少しだけ安心させた。

 己のこの国を憎まれていると考えるよりも、己だけが憎まれているわけではないと考える、そのことが首長おびととして申し分けなくて、だけどそう思わなくてはつら過ぎて。

 だから明日香は主紗を咎める気にはなれない。

 本当はすべてが「建前」なのかもしれなかった。

 戦派を抑えるためといのも、主紗のことも、国も民も。

 みんなすべて忘れてしまえば。

 水葉に、会いに行ける。

 霊力ちからなど、失ってしまえば……。

 だけど、すべてを忘れて、失ってしまったなら、この生はどこへ行くのだろう? 己のための生など持たない明日香の生は。

 幼い頃、手に乗せた土砂が指からすり抜けて風に舞い落ちるのを見て、「風音かざね」は風に聞いた。

 どうして持っていってしまうの、と。

 まだ霊力ちからをうまくつかうことができずにいた頃、風音という名のあった頃。

 風がいつも傍にいてくれるとは限らなかったから、何度も同じことを繰り返し聞いたのだ。

(あなたのものではないからですよ)

 風は、たまに気が向いたように。気まぐれのように。そうやって「風音」に教えたのだ。

 すべては、すべてのものだから、と。

 ……握った土砂が指からするすると零れ落ちるように。

 いくら霊力などあっても、先のことなど掴めはしない。

 何も失わずにすむように。

 定まった命運は、掴めない土砂と同じだから。

 すべてが零れ落ちるのは、まだ先のこと。

 手に入らないものなど、要らないのだ。

 せめて、両手に包むことのできるだけでいい。


 すべてを狂わせてしまったのだとしても。

 己の及ぶところのことならば。


 何も、失いたくはない……。


『姉と、一つになりなさい』




 どちらの運命も、……それは、二人が出会った時。


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