1話 はじまりの休日②
外はすっかり朝陽に包まれていた。
どの建物も白い壁を持ち、柱や屋根、玄関、窓枠……そこには、
ここは、ヘイルハイムの北に位置する
すでに近所の住民たちは、朝の仕事に勤しんでいる。
降りそそぐ陽光は、そのまっ白な建物の壁にたびたび乱反射し、淡い黄色で膨張する。
ここらの地域は開放的な海に加え、一年をとおして陽の光にも恵まれ、適度にあたたかく、乾いた気候が特徴だ。
ところが、まだ春の訪れも知らない陽光なのに、今日日その陽射しはやや鋭く、かすかに夏のにおいを感じられた。
(あぁ……でも、気持ちいいな)
少女は伸びをした。
膨らんだ光はきまって、視界をぼやっとさせ、物々の輪郭を
それは、この土地の気候風土とともに、自然と沈んだ気分をリセットし、嫌なことはぜんぶ忘れさせてくれる。
だから、ここに住むものは、悩みなどほとんど知らない。
もちろん、少女にもたいした悩みはない。
誰しもが突き抜けた笑顔で、ところかまわず陽気な
はじめて訪れたものには、ちょっとしつこいかもしれない。
「あら、お嬢ちゃん。おはよう!」
「おはよう! べっぴんさん! おしゃれな今日は、さてはお休みの日かの?」
「おう! 今日もいい天気だな!」
大家の
それと、散歩が日課な学生の、
少女を見つけては、矢継ぎ早に、声をかける近所の住民たち。
彼女は、何度も照れ笑いしながら、彼らにあいさつを返す。
ヘイルハイムはそんな場所である。
歩きだした少女の前には、相変わらず、まっ白な壁ばかりが立ち並んでいた。
慣れた景色とはいえ、あまり凝視すると目がまわりそうになる。
魔除けの意味がこめられたその壁は、この街で、邪を清めるとして崇められる太陽、すなわち「アポロ」の信仰と関係する。
生命の営みの場が、神聖な陽光の白い反射に包まれることで、幸福を呼び、満たすことができると考えられているのだ。
だが、宗教上、そのまっ白に囲まれる街では、慣れた住民といえども、自分の居場所や目的地が、よくわからなくなることがある。
万一、ケガや事故、「霧」に遭遇でもして、自分の身に何か起こりでもしたら……。
それが、ここの住人の唯一の懸念ともいえ、特に少女が恐れていることだった。
だからこの街では、少女の住む黄色区のように、柱や屋根、玄関、窓枠などの意匠が、それぞれの区画の色で統一される。
ヘイルハイムではほかに、駅中心部の
住民たちは、その区画の色による区別と、携帯義務のある、色付きの「住民証」を首に下げて示しあい、互いに助けあって生活をする。
不思議な話に思えるが、自分の身元をさらけ出しても問題ないほど、ヘイルハイムは平和な街ということなのだ。
「あら? 今日は仕事じゃないのね!」
先行く少女の、顔を上げた先には、八百屋を営む、いつもの
彼女は、今日も器用に葉の手を伸ばし、路地端にある棚の整理をしている。
少女は毎日、この店の前をとおるたび、やさしく声をかけてくれるお姉さんに、心がほっとするのだった。
「はい。東の『
「あら、そうなのー? いいなぁ……お洒落なカフェとか、雑貨屋とか……」
「そうだ! お姉さんに、あとでお土産買ってきますよ!」
「ほんと?! じゃあ、そしたら、お返しに今度、野菜をサービスしなきゃ!」
「やったぁー!! よぉ~し! 期待しててくださいね!」
「もちろん! じゃあ、気をつけていってらっしゃい!」
少女は、ありがとう、と手をふり、お姉さんに背を向けると、その何気ないやりとりに休日の実感を覚えた。
彼女はうれしさのあまり、何だか身体がこそばゆくなる。
(至福の休日……)
しだいに、少女の顔が火照りだした。
彼女は、使いこまれた「地図」をギュッと握りしめ、首もとに風を送ると、近道するための狭い路地へと入った。
もう、何度目だろうか。
少女はどこへ行くにも、このイラスト入りの「地図」をいつも鞄に忍ばせ、暇を見つけては眺めている。
そして何度も、青く斜線の入った東の区画に釘づけとなり、そのたびに彼女は、恋しそうにため息をつくのだった。
それは、今まで忘れていたことを思い出したかのように、生き生きとしたときめきをその目の奥に覚えさせてくれる。
少女の憧れる青色区は、閑静な住宅街が広がり、個性豊かな服や装飾品の店が数多くあった。
また、海の近くには「オーシャン通り」という、カフェテラスの集まる通りまである。
その街並みは、彼女にはまだ似つかわしくない、落ち着いた大人の印象を持つ。
かねてから少女は、そんな場所に行ってみたい願望があった。
その願いを今日こそ叶えるには、ひとまず、
そこにある
ただ、それでは、早く着きすぎてしまう問題があった。
とはいえ、中央広場のまわりには「バザール」がある。
そこに行けば、おもしろいものがたくさんあるし、飽きることもない。
混雑といっても、時間はたっぷりとある。
(どうせなら、優雅に、外で朝食を食べてからでもいいんじゃない?)
どうやら、これが少女の〈名案〉らしい。
「――いただきます」
胸の前で軽く手をあわせ、少女は小さくつぶやいた。
箸とフォーク。
どちらを使うか手を迷わせ、フォークを取り上げる。
彼女は、はじめにサラダを頬張った。
淡い黄緑色の歯切れのよい繊維が、歯に柔らかくあたり、押し潰されていく。
グレープフルーツのドレッシングは、その甘酸っぱい解き放たれた香気を油と甘塩にうまく混ざりあわせ、彼女の唾液をきゅうと引き締める。
思わず笑みがこぼれると、粒マスタードの刺激が広がる。
舌先から鼻先へ、鼻先から頭へ。
爽快な香りは、細胞一つ一つの真皮を剥き変えていくように、おでこらへんに集まって気持ちよく抜けていく……。
(ふはぁ……)
さっそく少女は、広場に向かいながら朝食のとれるカフェを見つけていた。
とはいえ、まさかいつも仕事で通う道沿いに、こんなカフェがあったとは気づきもしなかった。
そんな彼女の心うちは、おいしさに感動する胃袋とは違って、かなりの落胆をしていた。
少女はよく普段から、どんな店が身のまわりにあるのか、気にして歩いている。
そこには洋服屋に雑貨屋、家具屋……あそこにはカフェやパン屋に美容室……。
もうここらには、穴場の一つもないだろうと高をくくっていた。
それに、食べることが何より好きな彼女にとって、ここでの朝食のあまりにおいしいことが、なおさら損した気分にさせたのだった。
しかし、シンプルでもきちんとした朝食とは、これでもかというほど生きている実感を与えてくれるものである。
甘酸っぱいフルーツ、甘くてほろ苦い瑞々しいサラダ、きりりとした喉越しの冷たい水。
これらはとりわけ、身体を新しい何かに目覚めさせてくれる、「朝食の王子さま」だ。
それは、生きていてよかったとさえ思えるほどの潤いと活力を与えてくれる。
少女は、この瞬間が格別に好きだった。
身体が目覚め、軽くなり、空を飛んでどこかに行けるような気分になるのだ。
この目覚めのあとの卵やハム、魚の燻製など、肉・魚の類は抜群においしく一段と力がみなぎる。
パンや米、麺などの穀物は、今までの料理を包みこむようにお腹いっぱいに至福で満たしていく。
もちろん、女のデザートは別腹だ。
食後の苺タルトを食べ終え、少女は紅茶をゆっくりと飲み干す。
最後の一口に、甘酸っぱい香りは
「ごちそうさま」
店を出ると、入口の目の前には、レンガ造りの花壇がある。
水をまいた後の花壇の壁には、裏返したブリキのバケツが立てかけられ、隣にはジョーロが置かれていた。
花は、光の
少女は、
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