第10話 ビフォア・スーサイド(2)

 「樹海」を囲むこの森は、入る事はできるが出られない。


 理由は諸説ある。均一な木々が並ぶだけの景色が方向感覚を狂わせるだとか、謎の瘴気が磁石も電波も狂わせるからであるとか。

 ヘリや小型機ですら帰らなかったと言われている。


 とにかく「行けば帰れない」事だけは事実から明らかであり、結果として「帰りたくない」者達が足を運ぶ名所となった。

 そのように常に不吉さのつきまとう土地ではあるのだが、ひとつ、悪くない噂もあった。残念ながら実際に足を運んだ者にしかわからない事ではあるが。


 森の中を突っ切り、開けた場所に出た安優と唯は思わず立ち止まった。息を呑む。まず最初に、二人は全く同じ感想を抱いた。


 ――美しい。


 あたりに見えるのは静謐せいひつな森林のみ。

 それをはっきりと映す、磨かれた鏡のような海面。

 水面に映る木々はさざ波に合わせてゆらゆらと揺れ、緑と青が混じり合う。


 とても幻想的かつ芸術的な光景だった。

 人がほとんど訪れる事がないゆえに、この景色は汚される事がない。


 三百六十度を囲む森の唯一の切れ目からは遠く山梨湾の外海を臨むことができ、彼方にはわずかな水平線が見える。そこから徐々に伝わってくる穏やかな波はゆっくりと海岸線に達し、寄せては返すを繰り返す。ここにあるのは波の音だけだ。


 その風景は有無を言わさず人を呑みこむ。

 暴力的なまでの美しさだった。


 ここを訪れた人々がどのような心持ちで水底へ沈んでいったのか、安優は理解できた気がした。迷いとか未練とか、自我とか、そんなものがいかにちっぽけか思い知らされたようで、自分という輪郭の内側までもが、この水面と同じ青と緑に染まっていくようで、このまま何も考えず自然の一部になってしまえる気がした。


 安優はそうして、この空間に身をゆだねそうになっていた。

 唯は違った。


 真横から地面を蹴る音と衣擦れの音がした。女児は海に向かって駆け出していた。

 一枚、また一枚と服を脱ぎ捨て、再び生まれたままの姿になった。

 彼女はキレていた。


 後日聞いたところによると、気持ちが昂ぶると服を脱ぎ捨てるのは昔からの癖なのだという。全力で衝動に従いたい時、体にまとわりつく衣服の摩擦ですら耐え難い拘束に思えてとにかくイライラする、らしい。


 腕を、脚を、全身を、あらゆる関節を自由にするためには、正直に動くためには、裸でなければならない。


「あああああああああああああもおおおおおおおおおう! あたしは! あたしはああああアアアアアア!!」


 唯は叫んだ。やはりよく通る声だ。細い裸体は穢れなく白く、ひたすらに目を引く。この女子小学生は、既に安優の視線を樹海から奪っていた。

 多田唯という人物は、その自我は、樹海に呑まれず、打ち克ってしまっていた。


「なんで! どれも! 一個も! うまくいかなくて! 特別になれなくて! 最悪だ! あたしは最悪の気分だ! なのに!」


 イライラしていると何もかもが気に入らなくなる。特に楽しいもの、微笑ましいもの、美しいもの……ポジティブなものが。これも後から聞いた話だ。どうしても許せなかったのだという。


「綺麗な景色とか、ふざけんな! 勝手に綺麗になってんじゃねえーーーーッ! もう、もう……!」


 樹海が、許せなかったのだという。


「海の……バカヤローーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」


 大砲のような声が山梨湾にこだました。

 それは自分勝手で、どうしようもなく傍若無人で、


「ああーーーーーーーーーーーーーッ、もーーーーーーーーーーーーーー!」


 ひたすらに、正直な叫びだった。


「天! 才! に! 生まれたかったなああああああーーーーーーーーッ!!」


 その言葉は、安優には世界が変わるような衝撃だった。


 そうだ。安優もそれを言いたかった。ずっと言いたかった。

 まだ若いくせにとか、努力が足りないだけだとか、つまらない反論を買うんじゃないかと本音を閉ざしていた。

 そうやって何も言えないまま、こんな所にまで来てしまった。


 でも、偽りなく思っていた。

 この少女と同じ事を、思っていたのだ。


 彼女は自らの衣服に手をかけた。なぜか躊躇う気にはならなかった。

 学校指定のセーターを、ブラウスを、チェック柄のスカートを、ハイソックスを、そして上下の下着を、目の前の小学生を真似るように、なるべく派手に投げ捨てた。


 そして、唯の叫ぶ海へ駆ける。肌を刺す外気の冷たさと、足の裏に直接触れる土と砂利の感覚が新鮮だった。

 すぐに唯の真後ろまで追いついた。どうせなら、人生で一番大きな声を出してやろう。元・歌手志望の意地だ。先導して叫ぶ少女に呼吸を合わせて、大きく息を吸い込んだ。


「「海のーーーーーーーーーーーー! バカヤローーーーーーーーーーー!!」」


 唯が少し驚いたように振り返った。

 安優は笑いかけた。今日初めての笑顔だった。


「「天才にーーーーーーっ! 生まれたかったなあああアーーーーーーーッ!!」」


 二人分の叫びはさざ波の音を吹き飛ばした。きっと水平線にまで届いただろう。時折聞こえる鳥たちの鳴き声や獣の足音も、完全に塗りつぶしていた。

 この風景を、支配してみせた。胸のすくような快感に全身が満たされていくのを安優は感じていた。


 だから気づかなかったのも無理はないだろう。

 背後の森から飛び出した野犬がすぐ傍にまで迫っていた。


「……えっ」


 世間で見る大型犬よりさらに一回りは大きな犬だった。考えるまでもなく危険。

 至近距離で唸る野犬を、安優は反射的にかわした。


「ヒッ……、ひいいいいいいいいい!?」


 機敏な動きで真横に跳びずさり、着地を決め、再度野犬のほうを振り返ってから唯を残してきたことに気がついた。

 唯は逃げようともせず、野犬に冷めた視線を向けるだけだった。


 助けるべきだろうか。一瞬の間に目の前の幼女と獣を見比べる。

 人としては助けるべきだろう。しかし安優も唯も、人の噐を捨てるためにここに来たのではなかったか。彼女はそれを望むだろうか。


 などと、安優が躊躇ったのはコンマ一秒以下だった。安優は最終的に「一旦助ける」と結論し足を踏み出したが、既に遅かった。野犬は幼い少女に容赦なく飛びかかった。


 そして打撃音とともに吹き飛んだ。


 獣は短い悲鳴を残したが、その断末魔を聞いた者はいなかった。叩きつけるような攻撃的な不協和音が同時に鳴り響いたからだ。

 それらの発生源については考えるまでもなかった。


 威圧的な長身。太く筋肉質な腕。

 上半身のタンクトップは胸筋ではちきれんばかりだ。

 鈍く光るスキンヘッドに彫りの深い強面、そして何より金色の眉と青々とした瞳が外国の血をうかがわせる。

 アクション映画から飛び出してきたかのような出で立ち。


 右手に巨大な黒光りする物体……グランドピアノを携えたその男は、悠然と近づきながらその場に落ちていた唯のパンツを手に取り、頭に被りつつ言った。


「……怪我は?」


 低く、官能的なバリトンボイスだった。


「な……い、です」


 安優はなんとか答え、それから慌てて胸と局部を隠した。

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