幕間

第9話 ビフォア・スーサイド(1)

 「富士の樹海」は、山梨湾にぐるりと囲まれた小さな内海である。周辺の森林を含めた地域全体をそう呼ぶ事もある。

 周囲の木々が水面に映り、森のように見える事から「樹海」の名がついたと言われているが、あくまで民間伝承であり真偽は不明だった。

 なぜ確証がなかったのか? 答えは単純である。


 その景色を実際に見た者が、誰一人として帰らなかったのだ。


 よってこの『海』は長らく存在自体が疑われており、衛星写真が公開されるまで山梨は内陸の県だと思われていた程である。

 ちなみに存在が証明された今もなお足を踏み入れて帰った者はいないとされており、この秘境は現代に至るまでその神秘性を保ち続けている。



 * * *



「あーーーーーーーーッ! あああーーーーーーーーッ! あああアアーーーーーーーーッ!」


 奥深い森の中、全裸の女の子が叫んでいる……というのはなかなか衝撃的な光景で、安優あゆは足を止めずにはいられなかった。


 こんな所で人に会うとは思っていなかったし、それが小学生くらいの小さな女の子だとは想像もつかなかった。ましてその子が服を着ていないとなると、もうわけが分からない。


「あーーーーーーーッ! あああーーーーーーーッ!! あああああああああああああああアアアアアア!!!」


 女の子はただ立ち尽くし、天を睨み絶叫し続ける。よく通る声だった。身体は小さいのに妙な存在感があり、信じがたい光景だが決して夢や幻覚ではないのだろう、という謎の説得力があった。

 直後、全身に違和感を覚える。金縛りにあったように、視線を外すことができなくなっていた。


 気がつくと安優は、徐々に女の子に近づいていた。引き寄せられるように木々の間を縫い、歩み進む。


 女の子は安優に気付くそぶりすら見せなかった。近づいてみるとやはりその子の身体は小さく、手足や胴は細く、肌や髪は綺麗でつややか、顔つきも幼い。

 その表情は苦悶でも悲哀でもなく、目に涙は一滴たりとも浮かべていなかった。泣き叫んでいるわけではないのだ。


 その表情、声、息遣いから読み取れたのは、「怒気」「衝動」……そんな言葉で表せそうなものだった。そこまでわかる程に、安優は既に接近していた。女の子が唐突にこちらを向いた。目が合った。


「ひっ」


 安優の息が止まる。無意識に彼女は一歩飛び退いていた。


「あ、あの」


 何を口にしたらいいか、と考えた。頭の中には山のような疑問がひしめき合っていた。この女の子は服を着ていない。叫んでいる。まだ幼いのに、一人であり、何より、こんな所にいる。


 どれもが捨て置けない疑問であり、脳内のハテナマークは互いにぶつかり合い、結合し、凝縮され、安優が最終的にたった一滴しぼり出せたのは、これだけの言葉だった。


「なんで……?」


 曖昧な投げかけだった。しかし女の子の答えは明確だった。彼女は安優から目を逸らさず、苛立ちと焦燥で目を血走らせながら、先ほど空に向かってそうしていたのと同じ声で、真正面から、


「人生が!」


 自身の気持ちをそのまま、ぶつけてきた。


「……人生が! ままならないからだ!」


 答えそのものの言葉だった。

 あまりにも唐突で、前後の脈絡も何もない言葉。

 それなのに、その一言を聞いただけで……安優は理解できてしまった。


 この子は迷子でも何でもない。

 全てを理解した上で、目的を持って、この場に居る。

 ここは、人生がままならない人間が来る場所だ。


 安優もまたそうであるように。


 山梨県南部に広がる魔境。一度足を踏み入れたら出られないと言われるこの地は、一般には『樹海』と、そう呼ばれている。


「…………ッ。ハァ、はぁ」


 言い切って、女の子は息を吐いた。呼吸が荒い。脚も震えている。あんな格好で叫び続ければ当然そうなるであろう事は理解できたが、その瞬間、安優は非現実だと思っていたものが現実に降りてきたような違和感を覚えた。


 何にしても、とりあえず服を着せてあげるべきだろう。近場には子供服が脱ぎ散らかされているのが確認できた。



 * * *



「……多田ただゆい


 名前を聞かれて、女の子は仏頂面のままそれだけ言った。フリルのあしらわれたパーカーとデニムのミニスカート。年相応の衣服を身につけて小さな身体で地面に座り込むと、先ほどの姿が嘘のようにただの女子小学生になった。

 年齢を聞くと、なんと九歳。驚くことにランドセルまで側に落ちていた。


「唯ちゃん……ね。えっと、私は田中、安優、です」


 自身も名乗りながら、安優は恐る恐る、唯に魔法瓶のお茶を分け与えた。小さな女の子相手であっても初対面では腰が引けてしまうのが安優という人間である。まして相手の子は年齢に比して、少々威圧感がある。


 唯は自らの身体を癒し救うであろう湯気の立つお茶を、恨めしそうに一瞥してからしかめ面でちびちびと口にした。会話は止まり、呼吸音だけが互いの間を行き来する。


 安優も唯も、それ以上自己紹介をしようとはしなかった。便宜上名乗りはしたものの、『こんな所』にいる人間が、これから消えゆく己のパーソナリティについて語ることは無意味である。


 ただ……安優は、この女の子に聞いてみたい事があった。

 少しためらった後、彼女は口を開いた。


「ねえ。あの、どうして……ここに、立ち止まってたの?」

「は?」

「い、いや……ホラ、こんなトコに来てるわけだし、まだにも着いてないのに」

「…………。」


 この質問は、唯の機嫌をやや損ねたようだった。じろりと安優の顔を睨みあげる。びくりと安優は肩を震わせた。


「ごっごめんなさい! 答えたくなければ無理に、その」


 何かまずかっただろうか。安優の目に涙が浮かぶ。

 しかし唯はしばらく冷たい目で彼女を眺め、


「迷った」


 そう口にした。


「え」

「迷ったんだよ」


 苛立ちに耐えるように、少女の語尾は震えている。

 

「うまくいかないんだ……ずっと。今日ですら! 何もかも!」


 そして思い出したように、少しずつ語気が荒くなる。


「あたしだって海まで行きたかったよ。でも……なんなんだよ、もう!」

「え、あの」


 叫んで、足元の土を蹴った。小さな土煙があがる。

 突然苛立ちを露わにした唯を前に、安優は思わず身をすくませた。同時に、九個も下の子を相手にここまで恐縮している自分に自己嫌悪の念が沸いてきた。口を結んでスカートの端を握る。

 やはり、こんな自分に夢を語る資格などなかったのだ。


 改めて唯の顔を見る。その瞳は年相応の無邪気な光が感じられず、濁りきっている。ちょうど、全てを諦めてここに来た安優と同じ色をしていた。

 ……この歳で、そこまで追い詰められたという事なのだろう。


 ただ、安優と違うのは……唯には、少なくともあんな奇行を狂気任せに実行できる程には、強さがある。

 そんな唯に、安優は同情と共感と、少しの嫉妬を抱いた。

 どこか他人の気がしなかった。


「……あの」


 安優は地図を手に立ち上がった。


「よかったらで、いいんだけど。その、私も行くつもりで……海。それでね、だから」

「連れてってくれるの!?」


 しどろもどろな言葉しか出なかったが、提案は伝わったようだった。唯の食いつきは早かった。


「……い、いいの?」


 聞き返しながら、なぜ自分が許可を求める側に回っているのか、既に安優はわからなくなっていた。ただ、そんなある意味で奇妙な安優のリアクションにも唯は、


「うん。行きたい」


 平然と自らの意思を伝えた。


 安優は笑いもせず、唯の方を見もしなかった。

 ただ、合意の証として手を差し出した。唯はすぐに、その手を取った。

 唯の手のひらはあまりにも小さかった。


 人に頼られるのはいつぶりだろうか。よりによってこんな場所で暖かい気持ちになるなんて、あまりにも奇妙だけれど。

 それは、決して悪い気分ではなかった。


 安優は歩き出し、唯は手を引かれて後に続いた。

 そのまま二人はしばらく歩いた。会話はなかった。

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