第11話 ビフォア・スーサイド(3)

「えっと、田中、安優です」

「……多田唯」

「アンドリュー・甲斐だ」


 大男は名乗りながら、煙草を焚き火に近づけ着火した。

 三人は「樹海」の岸辺に座り込み、火を囲んでいる。安優は急いで服を着こみ、唯にも再び服を着せたが、唯の下着は未だアンドリューの頭部に装着されている。


 月明かりの下、彼は先ほどまでピアノの演奏を披露していた。なぜこんな所に立派なグランドピアノがあるのかは、想像してみてもさっぱりわからない。

 アンドリューは煙を吐いた。


「うんざりするような事を聞いていいか」

「……え? ど、どうぞ」


 他に返す言葉もなく、安優は答えた。


「なぜこんな所にいる?」


 穏やかな声だったが、内容はかなり直球だった。安優は言葉を詰まらせた。

 代わりに、唯が答えた。


「人生が、ままならないんだ」

「ほう」

「何にもうまくいかないんだよ。勉強も運動も、絵とか料理も、ゲームも」


 少女は水筒のお茶を恨めしそうに一口飲み、


「あたしは、あたしに納得がいかない。だから……あたしなんか、いらない」


 断定的に言い切った。


「そんな……」


 そんな、決めるにはまだ早すぎるよ。という言葉を安優は飲み込んだ。今の安優を大人たちが見れば、きっと同じことを言うだろうから。


 アンドリューは煙草を地面に押し当てて消した。彼は青々と光る瞳を真っ直ぐに向け、相手の目を見て話す。頭に唯のパンツを被ってこそいるものの、彼の瞳は理知的な光を宿していた。


「そいつはまた、随分と性急だな」

「セイキュウ?」

「すまん、そうだな……せっかちだ。あと十年待とうとは思わなかったか?」


 子供にわかるよう言葉を探す程度に彼は親切だったが、やはり直球だった。


「待てないよ」


 唯が否定すると同時、


「……十年、」


 気がつくと、安優は口を挟んでいた。無意識に言葉が出た。


「十年でなんとかなる保障なんて、どこにもないよ。思ったより変われないんだ」

「うん」


 まだ、その十年を生きていないはずの唯はなぜか同意するように深々と頷き、


「たぶんあたしは、そこらへんのアリンコみたいな人間にしかなれない。お姉ちゃんも言ってたよ、十歳すぎたらあっという間だって! あたしは、あんなつまんない中学生おとなにはなりたくない! だったら……」

「はは」


 アンドリューは遮るように笑った。


「それで樹海ここ、か」

「うん」


「……ちなみに、友達は?」

「いない」


「親は。家族は」

「嫌い」

「成程」

「なんで、そんな事聞くの」


 納得した様子のアンドリューを、唯はじろりと睨む。野犬くらい簡単に捻り潰してしまいそうな巨躯を前に、全く物怖じしていない。


「ああ……すまない。うんざりする話だったろう。こんな所に来るような人間やつに興味があっただけさ」

「あんたも来てんじゃん」


 少女は真顔で言い返した。

 アンドリューは目を見開き、一秒ほど動きを止めて何度か瞬きをした。そして、


「ハハハ……そうだ。そうだな。まったくその通りじゃないか。ッハッハッハッハ」


 頭を掻き、手を数度叩き、下を向いて愉快そうに笑った。彼もまた、自ずから樹海を訪れるような目的を持つ者であった。頭には唯のパンツを被っていた。

 ひとしきり笑ったアンドリューは最後に一息つき、改めて唯を見た。


「……勿体無いな」

「何が」


 唯は不機嫌に返した。実際のところ、彼女は先ほどからのアンドリューの物言いが不服だった。


「言いたい事はまだまだある、って顔だ。さっき叫んでるのも聞いたよ。まだそんなに口が動くのに、全部言わないで消えてしまうつもりなのか」

「どうしろっていうのさ」


「別に。言うだけさ。なるべく人の多いところで言うだけ言いえばいい。悔いのないように。カラッポになるまで」

「何それ、変人じゃん」

「なら、我慢して黙ったままいなくなるのがマトモかい?」


 二人の会話はいまひとつ交わらず続いていた。だがそこで、


「……歌」


 安優が再び口を挟んだ。


「歌にするとか、ど、どうですか」


 ふとした思い付きだったが、唯の正直な言葉、視線を外せない謎の魅力、よく通る声……それらがうまく繋がった気がした。


「「歌」」


 二人は声をそろえて安優を見た。驚くほど簡単に、両者ともが合点のいった顔をしていた。


「悪くないんじゃないか」


 まずアンドリューが賛同した。頭にはパンツを被っている。

 そして唯が、これまでずっと否定的な言葉しか口にしなかったこの少女は、


「嫌いじゃ……ない」


 濁った瞳にようやく一筋の光を見せ、どことなく浮ついた声を出した。



  * * *


 

 そうと決まるとアンドリューの行動は早かった。

 樹海を訪れた一人であるのが嘘のように彼は動いた。


「帰る……って言いました今!? こ、ここ樹海ですよね。今まで誰一人帰った事のない……」

「可能性を思いついた。おれはそれを実行できる。ただし、協力が必要だ」


 アンドリューは手持ちの巨大なリュックから手斧と鋼線を取り出した。安優はビクビクと震えながら、半信半疑で彼の行動を見ている。


 唯は焚き火の横でうずくまり、安優の上着を毛布がわりに眠っていた。

 腰を落ち着けて語り合ううちに特別な一日の疲れが小さな体にのしかかり、少女はそれでもしばらくは歯を食いしばって耐えていたが、アンドリューが力ずくで身体を横たえてやると十秒も経たないうちに意識を失った。

 何が彼女にそんな無理を強いているのかはわからない。


「食料が尽きる前にやり切る必要がある。あの子の歌が街中の鼓膜をブチ破るのを、見てみたくないか?」


 日は既に落ちている。月を背にアンドリューは未来を語った。

 青い瞳が安優を射抜く。

 この質問に関して言えば……安優の答えは決まっていた。海に叫ぶ少女の姿を思い出すと、消えかけていた心に火が灯った。


「……見て、みたいです」

「なら、頼む」


 脱出のための作業が始まった。


 大男は斧であたりの樹木を切り倒した。安優の役目はそれらの丸太を、鋼線で繋ぎ止めることだった。もちろん初めての体験だったが、アンドリューの助言もあり、なんとか器用にやれたと思う。


 数時間が経過する頃には、即席のイカダが出来ていた。常人では考えられない手際の良さだった。


「いったい何者なんですか……貴方」


 安優は我慢できず、ついに尋ねた。だがアンドリューはそっけなく、


「ただの無職さ。今はな」

「今は?」

「……何でも屋、みたいな事をしていた。広島で用心棒をしたり、博多でラーメンを作ったり。北海道でハンターをやってた事もある」


 アンドリューは力任せにイカダを押し出し、樹海に浮かべた。

 イカダは相当な大きさだ。何しろ人間三人に加え、グランドピアノが一つ乗る。それでも沈まないように作った。彼は常にピアノを持ち歩くというのだ。

 いったいどういう事なのか安優がアンドリューに問いただすと、


「ギター一本背負って旅をするような男に憧れた。だが俺にはこいつしかなかった」

「は、はあ」

「それだけの話だ」


 そこで会話は打ち切られた。どうやら本当に、この樹海まで背負ってきたらしい。

 何にしても脱出の準備は整った。


 樹海から帰り着いた者がいない理由はいくつか考えられる。

 まずそもそも、ここを訪れる者が帰ろうなどと考える事が滅多にない。

 さらに帰ろうとした者は普通、来た道を引き返す。そこで道に迷うのだ。少なくとも海路を選ぼうなどという者は、これまでに皆無だった。


 実は、山梨湾はそれほど広くはない。少なくとも見渡せる範囲だ。アンドリューのサバイバル勘は、そこに活路を見出した。


「魔境が海まで魔境かどうか、試してやろうじゃないか」


 イカダへはまずアンドリューが乗り込んだ。安優は唯を起こし、恐る恐る続く。


「ほ、ホントに大丈夫なんですか?」


 安優が至極まっとうな疑問を口にし、


「さて。沈まない保障はないさ」


 アンドリューはあくまで渋く微笑み、


「どっちでもいいよ」


 唯は捨て鉢にただ前を見た。


「ハハ、その通りだな。おれ達はこんな場所で出会っちまうような狂人だ。ダメで元々……いなくなっても予定通りだ」

「そう、ですね」


 狂人。その響きに、安優は納得がいった気がした。


「……でも、だったら」

「?」

「狂人に常識や前例なんて、通じませんよね?」


 安優は初めてアンドリューの青い瞳を自分から見つめた。


「その通りだ」


 彼は満足げに首肯した。


「行こう」


 そして、木の板を櫂がわりに漕ぎ出した。


 夜の樹海は昼とはまた違った顔を持つ。海面は夜空の濃紺を背景に、ざわざわと揺れる木々の影を映し出し、さらにそこに月が加わる。思わずため息をつく美しさだ。


 だが今日に限って、絶景は無残にも踏みにじられた。


 三人の狂人を乗せたイカダは海面に映る夜景を割って進み、その中央に誇らしげに座していた満月を、玉子の黄身を潰すがごとくに、容赦なくくしゃくしゃにした。

 海の夜風が彼らの頬を撫でる。刺すような冷たさだが、それすら爽やかに感じた。

 珍しく高揚した安優は微笑み、そういえばと横を向いて尋ねた。


「あ、アンドリューさん」

「何か?」


「なぜか言えてなかったんですけど」

「ほう、何だろうな。言うといい。悔いの残らないように」

「そのパンツは……何なんですか」


 彼は唯のパンツを頭に被っている。

 結局、唯は未だスカートの中に何も穿いていない。


「これか」


 アンドリューは自嘲気味に自らの頭部を指差した。青い瞳は変わらず、理知的な光を宿し続けている。


「これはな、性癖だ」


 彼は臆面もなく言い切った。

 安優は櫂がわりの木の板を取り落とした。


「え?」

「性癖だ。おれの」


 安優は絶句した。


 冷たい夜風が今一度吹き抜け、彼らの間を隔てた。

 このとき安優が櫂を取り落としたため、大男は結局一人で県外までイカダを漕ぎ切るはめになった。

 安優は心配そうに唯のほうを見た。こんな歳の子に聞かせる話ではなかった。


「…………ん」


 唯は夜風に身を震わせ、もぞりと動いた。会話を聞いていなかったのか、まだ寝ぼけているのか。アンドリューへのリアクションはなかった。彼女にはまた別の関心事があった。


「唯ちゃん?」


 安優の呼びかけにも答えず、唯は内股気味に座り込んだ。そして、あの絶叫が嘘のように思えるほど魂の入っていない小さな声で、ぽつりと呟く。




「…………おしっこ」

「えっ?」




 確かに、決して不自然な話ではなかった。彼女らはこの樹海を訪れてから日が落ちて夜に至るまで、一度も、していない。


 無論こんな所にトイレなどある筈がない。サバイバル慣れしていない女子小学生や高校生は、そうそう人前で草むらに用を足しに行こうとはしない。なんとなくここまで我慢してきた。そのツケが夜に回ってきただけ。何も不自然ではない。しかし。


 何も不自然ではないが、目の前には大自然しかない!


「うー……ん」


 唯はのそのそとイカダの端まで移動した。すぐ先には樹海が誇る、天然記念物なみに澄んだ水面みなも。何をしようとしているか、考えるまでもない。

 安優は少し慌てた。先刻、あれほど感動させられた景色。安優が飲み込まれかけた風景。しかし、同時に、思い出す。唯はこの海にどういう感想を持っていたか。


「ハハ、こりゃあ面白い」


 アンドリューが能天気に笑った。頭には唯のパンツを被っている。

 そう、なんと都合の良い事か! この男のせいで、唯のスカートの下は!


 安優はため息をついた。そうだ、自分たちは狂人だった。常識の通じない存在になったのだ。ならば、この山梨の神秘に、彼女らを追い詰めた世界というやつに、最大限の冒涜をしてやっても良いんじゃないだろうか?


「……唯ちゃん。やっちゃえ」

「そうだ。やっちまえ」

「…………ん」


 イカダは水面上の満月を横切るところだった。

 夜の樹海、一番の美点を前に、唯は己を解き放った。ロックンロール!




 この時まさに、彼らのロックが幕を開けたのだ。 

 『アフター・スーサイド』の、この世への反逆ロックが。

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