第7話 天才の条件

 洗脳による狂気をより強い狂気で打ち消され、抜け殻のようになった集団。その群れを縫うように最前列に出る二つの影があった。


 共通点の多い二人だった。ともに男性であり、体型は痩せ型、白衣を着ており、眼鏡をかけている。おそらくは二十代後半から三十代ほどで、左手をだらりと下げた格好でふらふらと歩き、右手だけを持ち上げている。その手に握られているのは注射器で、その針は――


 彼ら自身の首筋に突き立っている。


「ク……クカカカ……科学に……サカキバラ先生に栄光あレ……」

「ヒヒッ……我々の……勝利の確率は99999%ォォ……!」


 クワッ、と両者の目が見開いた。足取りがいよいよ怪しくなる。全身が痙攣を始め、そして、空気を送り込まれた風船のように上半身が唐突に膨張した。

 肥大化した肉体は衣服を突き破り、元の三倍はあろうかという体躯となる。さらにむき出しとなった彼らの肌がどす黒く変色を始めたところで、アンドリューは異変を感じ、叫んだ。


「……ギターソロ!」


 唐突な自傷行為に走った唯に戸惑っていた安優はなんとか一秒ほどで我に返る事ができた。ギターソロとくれば自分の出番である。そしてこれは、ある種の暗号でもある。ギターのみの、ソロ。それだけで場を繋ぐ。

 ピアノによる援護はできない。アンドリューはそう言っているのだ。


 演奏が途切れれば大幅不利。それがジモトソニックの掟だ。安優は息を整え、怪物どもを見ないように目を閉じてピックを握り、ギターをかき鳴らした。

 跳ねる。踊る。駆け上がる。駆け下りる。恐怖で逃げ惑うよりも、さらに俊敏。そのように駆け回る、音。


 『アフター・スーサイド』において、作曲とギターを担当する女子高生、山田安優。彼女の技術力は高い。

 ジモトソニックにおいて評価されるのは暴力、パフォーマンス。

 そして――音楽性である!


 一方のアンドリュー。彼はついにピアノを手放した。

 異形と化した二人の科学者はのしり、と唯のほうへ歩みを向けた。やはり狙いはそこか。唯は額から血をしたたらせ、迫る敵を睨みあげる。一歩たりとも後退はしない。そうだ。自ら退くのは多田唯のすべき事ではない。そのためにアンドリューがいる。


 一瞬の時間すら必要ではなかった。二体の化物の前にはアンドリュー・甲斐が立ち塞がっていた。常にピアノと一体となり戦うグランドピアノ使い、アンドリューはまだ切り札を隠し持っていたのだ。

 即ち、ピアノを捨てる事で、彼は圧倒的なスピードを手に入れる!


「ガアァッ」


 片方の異形が短く唸り、拳を引いた。それはおそらくは、殴りつける予備動作だったのだろう。だがそこまでだった。その時点で既にアンドリューは敵の胴に組み付いていた。そのまま体の軸をずらす。

 異形者の視界では、あっという間に天地が逆転していた。続いて、頭部に衝撃。怪物と化しても、元は人である。頭部を打ち付けられて無事という事はない。


「グ……グガアァァアッ!」


 その様子を見て、危機感を感じたのだろう。もう一方の異形が声を発すると、その体から紫色の淡い光が立ち上り始めた。アンドリューらの知るところではないが、実態を知る者であればこの光を「妖気」と呼ぶだろう。


 妖気を持っていると、持たない場合よりも強い――。

 これは彼らが昨年発表し、証明済みの学説である!


 投げ技を打ったばかりの、その隙をついて襲い掛かる。アンドリューの両手は塞がっている。学者ならではの頭脳プレー。だがそれに、ピアニストは難なく対応した。叩きつけたばかりの一体目の身体を蹴り飛ばし、襲いくる二体目の視界を塞ぐ。アンドリュー・甲斐は知性派の男である!


 そのままアンドリューは折り重なる二体の異形にタックルをかけ押しつぶした。妖気を放つ二体目が力まかせに押し返そうとする。しかし大男は太い腕に力をこめ、それを許さない。人の身でありながら!


「お前さん……それ、使うのは何度目だ?」


 アンドリューは低い声で笑った。

 妖気を持っていると、持たない場合よりも強い。それは間違いなく証明済みの事実である。而して、その「持たない場合」の力とは、いか程であったろうか?

 痩せ型の研究員の体格が、三倍になったとしよう。元が五十キロであれば今は百五十キロである。


 アンドリュー・甲斐は二メートル二百キロの偉丈夫である。


「なっちゃいない動きだ。悪いが……俺は毎日、この身体で生きてるんでな」


 妖気によって、男がさらに倍の腕力を手に入れていたとしよう。だが慣れない身体を、研究員らはイメージ通りに動かすことができない。単調に押し合う事しかできない相手ならば、アンドリューのテクニックで組み伏せる事は難しくない。


「バ、バカな動けン……わ、我々の99999%ガぁ! せ、先生、先生ィ……!」


 やっかいな化物は封じた。

 ただしそれは、同時に、アンドリューという最大戦力が足止めされている事を意味する。


「……あとは任せたぜ、リーダー」


 群衆の奥から、白衣をひるがえす美女のシルエットが近づいてくる。



 * * *



「おお……これは、なんと凄惨な争いでありましょうか」

「特に男と男で組み合ってるのがこの上なく凄惨ではありますね」


 ここまで、サカキバラの身体の部位ひとつひとつ、そして彼女の一挙手一投足(指の一本一本の曲げ伸ばしに至るまで)について激論を交わしていた放送席は、当のサカキバラが戦場に追いついたことで己の役目を思い出したように戦局を報じた。


 イースト・ステージからは遠く、『ハイパーエリートQED』の巨大スピーカーから流れるトランスミュージックが響いている。しかし今ここに、洗脳された下僕は一人たりとも残ってはいない。

 対する『アフター・スーサイド』の音楽は、ギター一本のソロが曲を繋ぎとめている。


「さあ、もはや両者の音楽は風前の灯か! 向かい合うのは両バンドのリーダー! ここからまだ何かを見せてくれるというのか! どうなのか」

「小さい子のほうは既に全部見せびらかしてるようなモノですけどねえ」


 バンドの核たる両者は、ついに互いの視線を交わせる距離にて相対した。

 多田唯は敵を睨みつけ、呼吸を荒くする。時間が経てば経つほど、衝動的に打ち付けた額は痛みを増してくる。

 サカキバラは不満げな息を吐き、苛立ちを滲ませた笑みを向けた。科学の結論に抗う、愚かな人の子へと。


「おい……クソガキ」

「…………。」

「お前、血液型は何だ」


 この質問には二つの意味があった。返答次第では自分が優位に立てる……そういった論戦の展開を踏まえた意図。そしてもう一つは、彼女の科学的結論を脅かす者に対する、単純な興味。

 そして、唯の答えは。


「……AB型だけど」

「! ……ハハッ、そうか」


 サカキバラは笑った。ことごとく通じない。暴徒も、妖気も、血液型も。今日の双子座は、一位だったはずなのに。その理由の一つが見えた気がした。彼女はムチの柄を握りしめて、悔しげに言った。


「お前も、天才だったかあ」


 それが引き金になった。

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