第5話 納得できない女たち(1)

 本戦進出を果たしながらも予選の結果に納得できなかった、二人の女がいた。

 一人はジャスミン・サカキバラ、二十二歳。

 そしてもう一人は多田唯、九歳である。


 唯はステージの屋根の上から会場を見渡した。予選の時と、見える景色は随分違う。客席にひしめく観衆から何百、何千という生の視線を浴びる。

 今さら誰にどう見られようが平気だと思っていたが、実際に直接肌で触れてみると、生の視線というのは一つ一つから生きた人間の息遣いを感じるようで、意外なほど確たる意味のあるものだった。


 そして、この高さ。予選の時にも味わったはずのものだったが、やはり生物の本能というものはしっかりしている。命の危険を伴う高度を前に、少女の脚はまたしても震え始めていた。

 その当たり前の恐怖が、自分を凡人だと証明しているかのようで気に入らず、唯は吐き捨てるように大きな舌打ちをした。まったくイライラする。


 が、それでやる事が変わったりはしない。


 彼女は予選の結果に満足していない。何一つ勝利したという実感はなかった。紛れもなく自分は劣っているという確信が、まだある。


 唯は年齢や経験の差を理由にしたりはしない。彼女の嫉妬は平等である。大人に負けるのは当たり前、ではない。

 今、この瞬間、自分があいつに負けている。それが唯には我慢ならない。種族の差ですら彼女は勘案しない。熊で腕力で負ける、その当たり前の事実にすら容赦なく嫉妬する。


 熊に腕力で勝てない? 許せない!

 大仏に迫力で勝てない? 許せない!

 年上の女性に魅力で勝てない? もちろんそれも許せない!


 許せない。許すわけにはいかない。

 まず自分自身が許せない。しかし同時に、自分を上回ってくる奴らの事も、同じくらい許せない。自分も他人も、一切合切許せない!


 唯の中では、二つの相反する感情が爆発寸前に膨れ上がっていた。

 劣等感に耐え切れず、消えてしまいたい。

 でも、できるならあいつらに、一泡吹かせてやりたい。


 だから飛び降りる。


 二つの感情はいつしか交わり、そこへ結実した。

 よくはわからないが、あいつらは飛び降りない。

 自分にはできる。自分が許せないからこそ、できる。


 あいつらにできない事が、できる!

 それで充分だった。


 恐怖は感じるが、それはもはや彼女にとって当たり前の恐怖にすぎない。

 覚悟は必要だ。しかし必要経費程度の覚悟で済む。

 いけるか? もちろん、いける。唯は再び腹を決めた。


 本来であれば、九歳の少女が絶対に叶わない相手に対抗するために。

 あわよくば、勝つために!

 震える脚をぶったたいて活を入れ、衣服を全部脱いで投げ捨てた。


 準備完了! そして何度目かもわからない死の断崖へ、唯は足を踏み入れた。



 * * *



「さあ、今、テイク……オフ! 早くも飛び立ったのは『アフター・スーサイド』のボーカル、多田唯だ! 彼女のこの姿を見てしまった以上、あなたも私も有罪ギルティ! 見る者すべてに罪を押し付ける絶対違法存在だァー! 弁護士を呼んでくれ!」

「これ不可抗力だと思うんですが、執行猶予とかつかないものでしょうかね」


「しかし、ピアノ担当のアンドリュー・甲斐は既にイントロの演奏を始めております。まさかライブのオープニング演出だとでも言うのか!? 彼らはこのまま曲に入るつもりなのか!」


 ボーカルが上から登場する、という演出は歴史上も多用されてきた。しかし、ワイヤーで吊らずにそれをする者はいない。

 当然、この展開は他二人のメンバーにとって不測の事態である。アンドリューは曲の体裁を取る事で、かろうじてライブを成立させるべくフォローしているに過ぎない。


 彼らはリーダーの奇行をパフォーマンスに収める必要がある。それは決して簡単ではないが……ライブの回数と同じくらい、経験してきた事でもある。


「唯っ、ちゃあああああああああああああん!!」


 安優は肩にかけたギターを背中に回し、客席をかきわけて走った。まっとうな女子高生が力ずくで通れるような人口密度ではない。

 制服姿の女子高生が霊的とも言えるパワーを持っている事は疑いようのない事実であるが、密集した人の壁をこじ開けるには物理的な力が必要である。

 彼女が全力疾走を許されている理由は、その背後から続く存在にこそあった。


「――ん? これは……ご覧ください。我々の錯覚でありましょうか。イントロを刻むこのピアノ、移動していませんか?」

「いえ、これは……動いてる。動いてますよ。え? 動いてますよね?」


 俯瞰で見ていた実況者や解説者が目を疑うのも無理はない。なぜなら彼らが見たのは……握力だけでピアノを持ち上げて走るアンドリュー・甲斐なのだ!

 ピアノは直線移動している。しかし音楽は、止まっていない。彼は両手でピアノの鍵盤部分を掴み、その状態で人差し指だけを上下させる事でリズムを刻んでいた。


 グランドピアノの足には通常、キャスターがついている。にも関わらず、彼はピアノを持ち運ぶ時には必ず浮かせるのである。曰く、「地面との摩擦は煩わしい」。


 そして走りながらも均一にリズムを刻み、あくまでこれは曲中の出来事である事を強調する。ライブである以上、行われるパフォーマンスは曲の一部である事が望ましい。彼はルールを完璧に把握している知性派なのだ。出来る男はここが違う。


 やがて客席のただ中、唯の落下地点と思われる箇所へ、安優は寸分の狂いもなく到達した。ほどなくしてピアノを掴んだアンドリューが追いつく。あまりの迫力とグランドピアノの質量に押され、観客たちは彼らを囲むように立ち退いてスペースを作った。


 まるで即席のストリートライブ・ステージであった。


 そこへ、ボーカルの多田唯は、あらかじめ定められていたかのように上空から降臨し。安優が小さな身体を抱きとめると同時、アンドリューはピアノを地面に置き、同じく空から降ってきたストライプ柄のショーツを指先でつかまえると流れるように自らの頭部に被せた。

 彼らを囲むギャラリーが沸いた。拍手と歓声、口笛! 手ごたえは上々。


 アンドリューは満足げに頷いた。本日の柄は水色と白のトラディショナル・シマパン。王道の味だ。静かにボルテージを上げた彼は、ポケットからドラムのスティックを取り出す。

 腕に抱かれていた唯が安優の顔面を蹴り飛ばし、地面に降り立つ。頬を抑えながら安優が唯にマイクを渡すと、傲慢なる小学生はそれを衝動のままに奪い取った。


 人目は惹いたが、結局、何のダメージもない中途半端な飛び降りだ。かえってフラストレーションがたまる。まさに今、唯は爆発しそうだった。この感情は、マイクにぶつけるしかない。


 安優がギターを構える。

 同時、アンドリューがスティックを両手に一本ずつ持ち、高く掲げた。

 そして打ち鳴らす。ここからが真のライブだ、と示すかのように。


「ワン! ツー! ワン、ツー、スリー、フォーァ!!」


 野太い声で叫び、即座にスティックを投げ捨てた。彼はドラマーではない。ピアニストなのだ!

 いよいよ楽曲が始まった。小さな体にめいっぱい大きく息を吸い込み、唯は曲名をマイク越しに吐き出した。


「『YUI-GONE 第一章』!!」



 * * *



「都合良く囲まれてくれたなァ……」


 大音量でスピーカーから流れるトランスミュージックが渦巻く、東側ステージ。

 そこで爪を噛みながら相手の様子を見、サカキバラはほくそ笑む。


「さあ、証明を始めようか」


 彼女は『ラッキーアイテム』を手に取った。

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