川のほとりの帰り道にて
「よう、一也」
「あ、先輩」
「今帰りか?」
「ええ。先輩は、お散歩ですか?」
「俺も今帰るとこさ。……しかしなんだ。日が落ちるのが早くなったなあ。もう夕暮れなんてよ」
「そうですね。この時期、油断してるとあっという間に暗くなっちゃいますね」
「ああ。まったく、夏が懐かしいぜ。……あ、違う違う。別に、今の洒落とかじゃないから!」
「はい、はい」
「えっと。夏が恋しくなる季節だな」
「ですねえ。風も、もう肌寒くって」
「うん。川の水も、すっかり冷たくなったしな」
「……そうでしょうね」
「……」
「……?」
「なあ、一也」
「はい」
「この川だけどさ。おまえ、こんな話、知ってるか?」
「……なんですか?」
「ずっと昔にな、この川に、鯨が迷い込んできたことがあるんだよ」
「えっ。本当ですか?」
「ああ。鯨は海からずっと川を上ってきたんだけどさ。そうすると、川幅がだんだん狭くなっていくだろ? それで、川の途中で引っかかっちまったんだ。その場所ってのが、ちょうどこの町の辺りなんだよ」
「へえ。ちなみに、その鯨はそのあとどうなったんですか?」
「そりゃ、当時この辺に住んでた村人たちが、みんなで捕って食っちまったさ。でも、何せこの川に引っかかるほどのでっかい鯨だからな。大量に手に入れた肉がとても食いきれなくて、余ったぶんは干し肉にして、蔵に入れて取っといたんだと。その肉は、ちょうど一年後のその日に、酒と共に村人たちに振る舞われたそうだ。それが
「知りませんね。……先輩。それ、ほんとの話なんですか? 確かにこの川、小さな川じゃあないですけど……それにしたって、鯨が泳いでこれるかなあ? すっごいでっかいんじゃないですか、鯨って? まあ、俺は実際の鯨を見たことないから、よくわかんないですけども」
「うん。まあ、ほら、一口に鯨っつっても、種類とか歳とか、いろいろだから。体の大きさも、鯨によっていろいろだろ。ここまで泳いでくる鯨だって、中にはいるさ」
「はあ。……いや、ちょっと、待ってください。この川幅に引っかかる大きさの鯨が、この川の深さで浮けますかね? やっぱり、どうも信じられないんですが」
「昔は、この川、もっともっと深かったのさ」
「……本当に?」
「ほんとだって、本当」
「……」
「なあ、一也」
「はい」
「この川な、よく、猫が飛び込んで泳いでるんだぜ」
「えっ? まさか」
「いや、ほんとほんと。昔っから、この辺の猫は川で泳ぐんだよ。何十年も前、まだ洗濯機がなかった頃、この辺りに住んでるやつらはこの川の水で洗濯してたんだけどよ、普段猫が泳いでる川なもんだから、川の水ん中に猫の毛がいっぱい漂っててな。洗濯物が猫の毛だらけになるってんで、いつも困ってたんだ」
「……そんな話、聞いたことないですけど」
「俺は、見たことあるぜ、この川で泳いでる猫。水ん中にもぐって、しばらくしてから、魚くわえて岸に上がってきてたぜ」
「はあ。……どうも信じられないんですが。それ、ほんとの話なんですか?」
「ほんとだって、本当」
「……」
「なあ、一也」
「はい」
「この川のな、ちょうど、今俺たちがいるこの辺りに、自転車が捨ててあるんだ。川ん中にさ」
「はあ。まあ、自転車ってよく捨てられてますよね。そういうのは、俺も何度も見たことありますけど」
「この川でか?」
「さあ、どうだったかな……向こうの用水路だったかもしれません」
「たぶんそうだろうな。この川ん中にあるやつは、底に沈んじまってるから、川の上から見てもよくわかんねえと思うぜ」
「そう、ですか。……で、自転車が、どうかしましたか?」
「ああ。その、川底に沈んでる自転車ってのがな、逆さまになって沈んでるんだ。だからさ、自転車のカゴも、こう、逆さまに、伏せた状態になってるわけよ」
「はあ」
「で、そのカゴにな、水鳥が、魚を追い込んで捕まえるんだ」
「ええ? そんなことしますかね、鳥が」
「侮っちゃいけねえ、鳥もけっこう賢いんだよ。その自転車のカゴん中には、いつでも魚がぎっしり入ってるんだと。それでな。そのカゴのこと、この川でよく魚捕ってる人間は、ちゃんと知っててな。ときどき、そいつらが、川にもぐってそのカゴの中の魚を横取りするんだ」
「……本当なんですか、それ」
「ほんとだって、本当。嘘だと思うなら、川ん中見てみろよ」
「え」
「ほら。ちょっと、こっち来いって」
「えっ。せ、先輩。危ないですよ。足滑らせたら」
「そこらの木の枝つかんで来りゃ平気だよ。ま、足元気をつけて来な」
「う……」
「ほら、もうちょいだ」
「は、はい。……よっ、と」
「おっ、大丈夫か」
「……ふう。な、なんとか」
「よおし。んじゃ、こっから下覗いてみな。その自転車が、ちょうど見えるぜ」
「え。あ、でも……川の底に沈んでるから、見えないんじゃ?」
「普段はわかんねえだろうけどな。今日は、川の水かさがいつもよりうんと少ないから、カゴは見えないかもしれねえが、自転車のタイヤなら、薄っすら見える。な。わかるか?」
「うーん……どこですか?」
「もっと、下だ、真下らへんだよ」
「うーん?」
「ほら、ぐっと、体乗り出してみな」
「……」
「落ちねえように、俺が手え持っててやるから」
「……」
「ん?」
「……」
「なんだ。どした、一也。こっち向かずに、川ん中見てみろって」
「……先輩」
「なんだよ」
「いえ、なんか……。先輩、いつもと感じ、違いません?」
「そうか? 気のせいだろ」
「そうでしょうか……。今日の先輩、なんか、変ですよ? 口を開けば嘘ばっかりで」
「……」
「あなた、本当に、先輩なんですか?」
「……ははっ」
「……!」
「あはははっ。おまえこそ、変なこと言うやつだなあ。俺が俺でなきゃ、一体誰だってんだよ」
「それは――」
「それは?」
「……」
「……」
「さっきから、あんた、この川のことで嘘ばっかりついて……」
「……」
「さてはおまえ――」
「うん?」
「おまえ、カワウソだろ!」
一也がそう言い放った、次の瞬間。
目の前の男の姿は、柔らかな布がふたふたと畳まれるかのように縮んで、消え失せた。
どぼん、と、何かが水に落ちる音。
一也は、用心深く岸から下を覗き込む。
沈みかけた夕日に照らされる川面を、ぬらぬらと水に濡れた毛皮の獣が一匹、泳いでいくのが見えた。
-終-
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