かまくら地蔵

 真夏だというのに、一也はうっかりひどい風邪をひいてしまった。

 夏にひく風邪というのは、体が熱いんだか寒いんだか、もうわけがわからなくなって、とても苦しい。しかも、この家にはクーラーがない。扇風機なら、かなり古いやつがあるにはあるのだが、なんだか余計に風邪が悪化しそうで使えない。というか、数日前、扇風機をつけっぱなしで寝ていたのが、そもそもこの風邪をひいた原因のような気がする。

 緑や土の地面が多いこの田舎町の夏は、前住んでいた所ほど鬱陶しい暑さではない。とはいえ、真夏だ。暑いものは暑い。ことに風のない夜の蒸し暑さは、今の一也の弱っている体には、充分に厳しかった。布団をかぶっても、どけても、どっちにしてもつらくて、頭がぐらんぐらんして、一也は何度となく、食べた物や飲んだ物を吐いていた。


 長引く風邪を抱えて、一也はその日の夜も、蒸し暑い寝床に倒れ込んだ。

 寝床の脇の窓は開けて、網戸にしている。けれど、そこから夜風が入ってくる気配はない。

 頭が痛い。暑くて、寒くて、気持ち悪い。

 死にそうな自分の呼吸を聞きながら、一也の意識はだんだんと遠のいていった。




 気がつくと、一也は、真っ白な景色の中に立っていた。

 そばには、先輩がいた。

 先輩が、少し心配そうな笑みを浮かべて、何か言っている。一也はぼんやりとした頭で、なんとかそれを聞こうとする。先輩は、何回か、同じ台詞を繰り返したかもしれない。


 ――連れてきたから。……ちょっと涼しいとこにいたほうがいいぜ。……このままじゃ、体がまいっちまうだろ。……この人な。……付いていくんだぞ。……これ……。


 先輩は、一也の手を取り、これ、ともう一度言って、その手に何かを握らせた。

 先輩の手の感触が離れる。と同時に、先輩の姿は、白く霞み始めた。

 自分の目が霞んでいるのか。周りにある白い景色に掻き消されているのか。どちらなのか、確かめようもなく、 いつの間にか、先輩の姿は目の前から消え失せていた。


 先輩のいなくなった視界は。

 しろ、しろ、白い。

 どこまでも、果てしなく白の一色。

 無意識に、一也は白以外の色を探し求めて、周りを見回す。けれど、そんなものはどこにもない。どちらを見ても、ここは、ただひたすらに真っ白な世界だった。


 キシ、と、音がした。

 一也は、それが聞こえたほうを振り向いた。

 目を凝らすと、白い景色の中に、わずかな陰影が見えた。その形は、人の姿のようだった。


 ――付いていくんだぞ。


 さっき、先輩に言われた言葉が、思い出された。

 一也はその人影を追って、歩き出した。


 キシ。キシ。キシ。キシ。


 ほかに何一つ音のない風景の中に、白い地面を踏みしめる、足音だけが響く。自分の足音と、そして、前を行く人の足音と。

 一也の前を行くその人の後ろ姿は、全身が、ここの景色と同じ、白一色だった。陰影でかろうじて周りの景色から浮き出しているその姿は、ともすれば、周りの白に溶け込んで、見失ってしまいそうだ。


 キシ。キシ。キシ。キシ。


 歩いている途中で、一也は、ふと、自分の手に握られている物のことを思い出した。

 さっき、先輩に渡された、これ。握りしめたまま、それがなんなのか、まだ一度も確かめていなかった。

 先輩は、一体、自分に何を手渡したのだろう。

 耳を澄ませて、前を歩く足音を失わないようにしながら、一也は自分の手の中を見た。

 そこにあったのは、一本の藁だった。

「……?」

 どうしてこんな物を。不思議に思いながら、一也はその藁をつまみ上げた。


 すると、不意にどこからか、いくつもの小さな黒いものが、ふわりふわりと飛んできて、それらは吸い寄せられるように、すべて一也の持っている藁の上に止まった。

 白でない色が現れたことに、一也は少し驚きつつ、その黒いものたちを見つめた。

 ぼやぼやとしたその黒いものたちは、やがて藁の真ん中に寄り集まって、動かなくなった。それを見て、一也は、おもむろに藁を曲げ、黒いものを閉じ込めるように輪を作った。なんだか、その黒いものを、再び飛び立たせてはいけないような気がしたのだ。

 一也は、輪の外にはみ出している藁の端を絡ませて、きゅっ、と輪を縮めた。黒いものは、しっかりと藁で結ばれた。藁の両端が長く余ってしまったので、一也はそれを蝶結びにした。


 その途端、ぶぶぶ、と、結んだ藁が小刻みに震え出した。

 一也が思わず手を離すと、黒いものを結んだ藁は、まるで蝿のように、蝶結びの羽をはばたかせて飛んでいった。


 藁の蝿は、一也の前を歩く人の背中に止まった。

 そして、その白い背中に、自らの身を潜らせ始めた。


 あ、と一也は声を上げるが、当の白い人は、背中の藁の蝿に気づいていないのか、何事もないかのように歩みを進め続ける。

 藁の蝿は、羽を震わせながら、白い背中の中にどんどん潜っていく。

 そして、羽の半ばほどの深さまで潜ると、背中に開けたその穴を、今度は横へと広げ出した。

 藁の蝿は、どうやら、背中に潜り込もうとしているのではない。白い人の背中を、食い荒らしているのだ。

 それに気づくも、一也はどうしていいかわからなかった。


 一也がおろおろしている間にも、藁の蝿は、サクサク、サクサク、と白い背中を蝕んでいく。背中の穴は、ますます深く、ますます大きく、広がっていく。

 白い背中は、どれほど蝕まれようと、白以外の色を現さなかった。

 ぽっかりと空いた穴の内側は、どこまで身を削られても、いつまでも、ただただ真っ白なだけだった。

 ぶぶぶ、ぶぶぶ。

 羽を震わせながら、次はどちらへ掘り進もうかというように、穴の内側を這い回る藁の蝿。

 と、そのとき。

 震える羽が触れたせいか、藁の蝿のそばで、穴の内側が、少し崩れ落ちた。藁の蝿は、たちまち崩れた白の下に埋まった。白の下で、藁の蝿は、しばらくもがいていたようだったが、その動きもだんだんと鈍くなり、やがてまったく動かなくなった。


 一也は、とりあえずほっとした。

 けれど、白い人の背中には、すでにもう、こんな大穴が開いてしまっている。自分が結った藁のせいで。

 一也は、白い人の背中に駆け寄った。

「あ、あの。ごめんなさい。俺の虫が」

 すると。

 白い人は、歩みを止めて、初めて一也のほうを振り向いた。

 その顔は、真っ白だった。

 混じりけない白一色の顔の中に、彫り入れたような、目と、鼻と、口らしき部分があった。けれど、その顔立ちは、少し溶け崩れたかのように、はっきりした輪郭を失っていた。薄ぼんやりとした表情は、笑っているのか、怒っているのか、それさえもよくわからない。

 一也は、ひゅっと悲鳴を喉の奥に吸い込んで、思わず一歩退いた。


 白い人は、首だけぐるりとねじってこちらに向けたまま、その頭を、妙なふうに動かした。それは、うなずくでもなく、かぶりを振るでもない動きだった。真っ白な首が、跳ねるように反って、またもとに戻る。そんな動作を、白い人は何度か繰り返した。

 白い人の、顔の中に彫られた溝のようだった口が、いつの間にか開いているの見て、一也は察した。

 この人は、えずいている。……何かを、吐き出そうとしているのだ。

 やがて、白い人の喉元が、ぼこりと盛り上がった。そして、その喉がもう一度、大きく反り返ったあと、ぼふっという音と共に、白い人の口から、氷の玉が吐き出された。


 白い人は、首だけでなく、今度は体ごと一也のほうを向いた。ところどころ白く濁った氷の玉を、真っ白な舌の上に乗せて。

 よく見ると、その氷の玉の中には、先ほどの藁の蝿が閉じ込められていた。

 白い人は、氷の玉を舌の先へと転がして、舌から落とした。

 ぽとりと落ちた氷の玉は、その重みで、白い地面に半分ほどめり込んだ。

 一也は氷漬けになった藁の蝿を見下ろす。

 そうして、また顔を上げたとき。

 白い人の姿は、一也の前から消えていた。

 代わりに、一也の目の前には、白い壁があった。


 さっきまでと同じ、白一色の、けれども、さっきまでとは違う狭い空間の中に、一也はいた。その空間を、一也はぐるりと見回した。空間には角がなく、白い壁は丸みを帯びて、どの方向の壁とも、天井とも、ひと続きになっている。その、壁も天井も区別のない白色に、一か所だけ、ぽっかりと大きな穴が開いていた。そこから外の景色が見えるのだけれど、景色といっても、それも壁の色と同じで、白以外には色のないものだから、壁を眺めているのとあまり変わらない。


 かまくら。

 ここは、かまくらの中なのか。


 寒くもなくて、暑くもなくて、包み込まれているような狭さが、なんだか心地いい。

 思わず体の力が抜けて、一也はそこに腰を下ろした。足元には、氷漬けの藁の蝿がある。

 一也は目を閉じた。座った途端、急に眠気が訪れたのだ。ここ数日は、寝床に入っても味わうことのできないでいた、とろりとした穏やかな眠気。そういえば、いつの間にか、頭痛も、吐き気も、息苦しさもなくなっている。

 一也はふと薄目を開けて、また、すぐ閉じた。瞼の裏に、一也を包む白い色が残った。

 ほどなくして、一也は、何日かぶりの安らかな眠りに落ちた。




 目覚めたとき、一也は自分の寝床の中にいた。体の中には、もう、つらさもだるさも残っておらず、とてもすがすがしい気分だった。

 昨晩のあれは。白い世界と、そこにいた白い人は、夢だったのだろうか。


 ぼんやり思い出しながら、一也は台所に下りた。

 食事を取ろうと思ったが、何日も買い物に行っていなかったせいで、冷蔵庫の中にはろくなものがない。ご飯も炊いていないし、仕方ないから、冷凍していた食パンでも焼いて食べようかと、一也は旧式の冷蔵庫の、冷蔵室の上にある、冷凍室の扉を開けた。

 そこあったものを見て、一也は目を見開いた。


 氷の玉。中に閉じ込められた、蝶結びに結われた藁が、白く濁った部分の合間から透けて見えた。

 ころり。と、氷の玉は、触れるものもないのにひとりでに転がって、上段の冷凍室から、床へと落ちた。氷の玉は、中に入っていた蝶結びの藁ともども、粉々に砕け散った。あとには、氷の溶けた水滴と、濡れた藁屑だけが残った。


 ふと気配を感じて、一也は、扉を開けっぱなしにしている冷凍室に、目を向けた。

 冷凍室の中を、もう一度覗き込むと、そこに入れた覚えのない、見慣れないものがある。

 それは、人の姿をした、雪の塊だった。少し溶けかけたようになっていたが、その体つきと、顔形の雰囲気からして、どうやらお地蔵さんらしいとわかった。真っ白な、雪の地蔵だ。

 その地蔵が、暑いから早く閉めてくれ、と言っているように思えたので、一也は慌てて冷凍室の扉を閉めた。




 それからというもの、その夏、どうしようもなく暑くて暑くてたまらない夜は、あの白い人が夢に現れて、一也をかまくらまで連れていってくれた。一也はそこで、暑さを忘れてぐっすりと眠ることができた。

 でも、白い人は、二度目に夢に出てきたときは、もう真っ白な人ではなくなっていた。

 白い体のあちこちが、水色、薄黄色、茶色、赤、薄紅色と、いろんな色で彩られていた。

 チョコミント。ヨーグルトレモン。コーヒーミルク。ストロベリー・チーズケーキ……。

 最近、冷凍室のアイスクリームがちょくちょくなくなる謎が解けて、白い人のあとを歩きながら、一也は誰にともなくうなずいた。

 またアイスを買い込んでおかないと。今度は何色のがいいだろう。抹茶あたりがいいかもしれないな、と、まだ緑色の見当たらない後ろ姿を眺め、一也は思った。




 -終-

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