手摺の小さ子(てすりのちいさご)
一也が今住んでいる家は、もともとは祖父母のものだった。
この古い家には、以前一也が暮らしていたマンションでは見かけなかった、物珍しい造りが色々とあった。
二階の廊下の手摺も、その一つだ。
暗くて狭い、段差の急な階段を上った先にある、四、五メートルほどの廊下。床が日に焼けて、すっかり白茶けたそこは、いくら掃除をしてもなんとなく埃っぽく見えた。
奥長いその空間には、ブリキの傘をかぶった裸電球が一つ、吊るされていた。傘から垂れている紐を引けば、頼りない手応えと共に傘が傾いて、カチリ、とオレンジ色の明かりが灯り、白っぽい廊下の床板と、真上にある屋根そのままの角度に傾いた天井が、薄暗く照らし出されるのである。
けれど、その廊下を通るとき、一也がそこの電気を点けることは、あまりない。
というのも、その廊下は、庭側が全面ガラス格子になっていて、外からの明かりがとてもよく射し込む場所だからだ。昼間の日当たりが良いのはもちろんのこと、夜であっても、月明かりが射しているときであれば、そこを渡るのに電気はいらないくらいの明るさがあった。
ガラス格子は五枚並んで、廊下の際一面に嵌め込まれている。しかし、格子を嵌め込む溝は一本だけなので、そのガラス格子は、障子や襖のように開くことはできない。だから、ガラス格子を開けて、そこからうっかり庭に落ちる、なんていうことはないのだが、それでもガラスにぶつかったりすると危ないからなのか、ガラス格子の前には、手摺が据え付けられていた。
木でできた手摺は、ごつごつした丸太棒で、どっしりとした太さがある。手摺の下は柵になっており、これもまた、手摺の部分よりも細い丸太棒でできていた。
この、ガラス格子と手摺のある廊下を、一也はけっこう気に入っていた。
最初のうちは、見晴らしがいい代わりに、外からも廊下が丸見えなのが気になって、早足で廊下を渡っていたものだが、今では、日当たりのよい時間帯に廊下で日向ぼっこをしたり、晴れた夜に、ガラス格子の向こうに見える月を楽しんだりしている。
この日の夜も、月が出ていた。
冴え冴えと射し込む月明かりが、廊下の床に、手摺と柵と格子の影を、くっきりと落としていた。
廊下を渡るとき、その見事な影を目に留めて、一也は、ぜひとも今夜の月を一目見たくなったのだった。
一也はガラス格子に近づいて、手摺の上に手を置こうとした。
そこで、一也はふと気づいた。
手摺の上に、何かがいる。
何か、小さな、動くものが。
それは、ちょうど格子の木枠が作る影の中にいて、はっきりとした姿はわからなかった。けれど、どうやら、人の形をしているようだった。小指ほどの大きさしかない、人の形のもの。それが、手摺の上で、踊っているのだ。
一也はひどく気味悪くなった。
なんだこれは。なんなんだ。
よくわからない、が、なんであれ、こんなものが家の中にいるというのは、たまらなくおぞましく、不快極まりないことに感じられた。
一刻も早く、これをこの家から追い出さないと。
叩き潰して、家の外に放り出して――。
と、そのとき。まるで、一也の考えていることを見抜いたかのように、手摺の上の小さな「人」は、踊るのをやめて、ぴたりと体の動きを止めた。そして、ちょっと一也を見上げるしぐさをしたかと思うと、一也に背を向け、手摺の上を走り出した。
逃がすものか。ここでこいつを逃がしたら、この体の小ささだ、きっとどこか小さな隙間にでも隠れ込んで、もう見つけることができなくなってしまうだろう。冗談じゃあない。この家のどこかに、こんなものがいつまでも潜んでいるなんて、考えただけでもぞっとする。
切羽詰まった気持ちで、一也は大きく手を振り上げた。
+
一瞬、一也は自分がどこにいるのかわからなくなった。
なんだか、周りはやけに広いけれど、地面は細く狭い、そんな空間に立っていた。
ふと気配を感じて上を向く。
すると、そこには、身の丈が山ほどもあろうかと思われる、巨大な「人」の姿があった。
自分を見下ろすその顔を、一也は、どこかで見たことがあるような気がした。でも、それが誰なのか、思い出せない。
巨大な「人」が、恐ろしい形相で、じっと一也を睨み下ろしている。
どうしてこんなことになっているのか。
自分は、確か。そうだ。ついさっきまで、家の二階の廊下にいて。それで――。
いや。今は、のんきに記憶を手繰っている場合ではないんじゃなかろうか。自分を見下ろす、この巨大な人がなんであろうと、ここはとりあえず、逃げなければ。
一也は、巨大な人に背を向けて、細長い一本道を走り出した。
べしっ、と、大きなものが、一也のかかとをかすめて振り下ろされた。思わず振り返って見ると、それは、一也を追う巨大な人の、手の指だった。手が道を叩いた衝撃で、一本道の地面はわずかに揺れた。一也は転びそうになるも、かろうじて持ちこたえ、足を止めることなく道の奥へと走る。
左右に地面がなく、両端にいくにつれて丸みを帯びている、一本道。踏みしめるその感触は、木の丸太ように思われる。丸みがあるとはいえ、充分な幅を持ったその道は、真ん中を走れば平らな地面とさほど変わらず、足を踏み外す心配はそれほどなさそうだった。けれども、ところどころ、でこぼこしていたり、ひび割れていたりする場所があって、一也はたびたび足を取られそうになりながら、必死で逃げた。
大きな手が、何度も振り下ろされては、一本道を叩いて揺らした。だが、その手はいつも、すんでのところで一也に当たることはないのだった。
そうして、やがて一也は、一本道のいちばん奥へとたどり着いた。
+
くそっ、と、一也は顔を歪めた。
さっきから、手摺の上をちょこまか逃げていく、小さな「人」を、ひと思いに叩き潰そうとしているのだが、うまくいかない。得体の知れないモノに触るのが気持ち悪くて、どうしても手がためらってしまう。
それにしても、さっき一瞬振り返った、小さな「人」の顔――。月明かりに照らし出されたその顔に、一也は、どうも見覚えがあるような気がしてならなかった。でも、それが誰なのかはわからない。
そうこうしているうちに、小さな人は、手摺の端までたどり着いた。
手摺の端は、色褪せたカーテンの陰になっている。小さな人は、その陰に隠れて、一也からは姿が見えなくなってしまった。
手摺の端の先は、行き止まりだ。小さな人は、そこからどこへも行けない、はず。
一也は身構えながら、息を潜めて、そっと、カーテンと壁との間の暗闇を覗き込んだ。
+
丸太のような一本道が途切れている、その先には、見覚えのある景色があった。
そこは、家の廊下だった。さっきまでいた、ガラス格子と手摺のある、二階の廊下だ。
なんだ。この丸太の道は、ここにつながっていたのか。
それがわかって、一也は胸を撫で下ろした。
じゃあ、早いとこ、この道を抜け出して、帰るとしよう。
一也は、一本道の終わりまでの残り数歩を歩みきり、そうして、丸太の道と、廊下の床板との境目を、難なく踏み越えた。
そのとき、廊下の奥から「おい」と声がした。
一也は思わず足を止めた。片足を廊下に踏み入れた、まさにその瞬間のことだったから、もう片方の足は、まだ丸太の道の上に残していた。
廊下と道との境目を跨いだまま、一也は、薄暗い廊下の奥を見つめた。
そこにいたのは、先輩、だった。
「こっちは 違うぞ。こっちに来たら、帰れなくなるぞ」
先輩は、いつものように笑みを浮かべながら、そう告げた。
先輩は一也に向かって手を伸ばし、一也の首根っこを捕まえて、そのままひょい、と持ち上げた。
なんで、先輩がここにいるのか。なんで、廊下の奥に立っていた先輩の手が、自分の所まで届くのか。
そんなこんなを、この場で深く考えることは、できなかった。
足が地面から離れると同時に、一也は、くるりと先輩に背を向ける格好になった。かと思うと、次の瞬間には、一也の体は高々と宙に浮いていた。まるで、自分の体よりも大きな手に、軽々とつまみ上げられたかのように。
そして、後ろを振り返って確かめる間もなく、襟首をつまむ手は、ぽいっと一也を放り投げた。わっ、と一也は声を上げた。その体は、弧を描いて、丸太の道のほうへと飛んでいった。
+
カーテンの陰から、突然、「それ」が飛び出した。身構えていたぶん、一也はよけいにびっくりして、わっ、と叫んでのけぞった。
飛んできた「それ」は、ちょうど一也の口の中に入って、喉の奥まで転がり落ちた。そうなっては、とっさに吐き出すこともできず、一也はごくり、と「それ」を呑み込んだ。
その途端、一也は、はっと我に返った心地になった。
目をぱちくりさせ、なんとはなしに、喉に手をやる。
喉をさすり、ひと呼吸したあと、喉の中の様子を確かめるように、唾を飲んでみた。けれどそこには、今しがた何かが通り過ぎた感覚の名残さえ、感じられはしなかった。
一也は、ゆっくりと周りを見回した。
いつも通りの、二階の廊下だった。
手摺の上には何者の姿もなく、カーテンの陰を覗き込んでも、手摺の端の先は行き止まり。
ただ、冴え冴えと月明かりが射し込んでいたはずの廊下は、今はやけに暗かった。手摺と柵と格子の影も、べたりと周りの闇の中に溶け込んで、影の形をなしていない。
一也は、ガラス格子から見える夜空を覗いた。
そこに、一也が思い描いていたような月はなかった。
夜空に浮かんでいたのは、その光でくっきりとした影など作ろうはずのない、折れそうに細い、二日月だった。
-終-
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