第16話:抜け殻の午後
あれから数日が経った。相変わらず暑い日は続いていて、照りつける太陽は容赦を知らない。蝉時雨は盛り上がっているし、思い出したように降る雷雨も、街行く人々を見事に困らせている。
芸能人が離婚問題で泥沼になっているとか、高速道路で玉突き事故があったとか、強盗未遂犯が捕まらず……とか。ネットニュースのラインナップも相変わらずだ。僕は、ふう、と一息ついてスマートフォンをポケットに押し込む。
世界は、そう簡単に変わったりなんて、してくれないらしい。僕がちょっとした失恋気分を味わったとしても、そんな事は無かったコトに等しい。立ち止まって溜息をついているのは、僕一人だ。
「世界から取り残されたカワイソウナボク、みたいな顔してんなよ」
「ああ。丁度そんな感じの事、考えてた」
「あのな~あ」
「それ、僕の真似のつもり? 似てないし、やめてくれ」
褐色の液体がなみなみと入ったグラスには、水滴がべっとりとこびりついている。いつものようにアイスコーヒーを注文したは良いが、なめる程度でほとんど口をつけていなかった。
反対に、シンジのグラスはもう空っぽで、氷がキラキラと午後の光を浴びて輝いている。まるで、こちらが正しいカフェの使い方だぞ、と言わんばかりだ。
「実際、どうなってんだろな」
「さあ。でもこれで終わりじゃないと思うよ」
「どうしてそう思う?」
「そりゃあ、さ」
僕達の話題は、先日きっぱりと友人関係に終わりを告げられたミホノちゃんの件ではない。その後の、印象としては薄まってしまったが、僕の事情についてだ。
僕はあの日の宣言通り、ちょうど良いタイミングがあれば、一人で対決するつもりでいた。これを言ったら、正面で気だるそうに足を組んでいる男は、立ち上がって怒るだろうけど。
それなのにだ。やってやろうと思ったあの日から、僕は一度も、自分の死に様に遭遇する事なく漫然と過ごしている。
そういえば、正面から飛び込んでみる、はどうなったんだよ。しびれを切らしたシンジにせっつかれて、今日はその説明をしにやって来たというわけ。
「そりゃあ、なんだよ?」
「そんなに上手い話があるわけない」
「変なもんが見えなくなったんなら良いじゃねえか、どこまでもネガティブだな。そんな事だから」
「モテないとか、何もしない内にフラれるとか言うんだろ」
「わかってんじゃねえか。それなら話は簡単だ」
「週末にお食事会なら、やめとく」
「まだ何も言ってねえっつうの。暇してんだろ、いいから来いよ」
いいから来いって、やっぱり合コンじゃないか。そうは思ったが、せっかく逸れてくれた話が巻き戻ってもいけない、黙っておこう。誤魔化したような形で、そりゃあ、と言い淀んだのは、こういう事は以前にもあったからだ。
一度は高校時代。転校生の事でシンジと大喧嘩して、一緒に臨死体験をした後だ。実際には、その数ヶ月後に転校生が引越してからしばらくの間、である。
もう一度は去年。僕が今の小さなカフェバーにアルバイトを変える前。土日限定で入っていた飲食店をやめた後だ。そこには、件の転校生程ではないものの、どうにも確率が上がるな、と感じる先輩がいた。
僕が入っていた土日は、平日よりも少しだけ給料が良かった。だから、その先輩も大抵似たようなシフトに入っていて、顔を合わせる事も多かった。
仲は悪くなかったし、むしろ話しやすくて面白い人だったから、多少、色々なモノが見えても、だましだましやっていた。だけどある時、グラスから水が溢れるように、事態は急変してしまった。
アルバイト先に到着した直後から、休憩時間、果ては勤務中にまで。一日に何度も死にかけた僕は、やむなくそこを辞めたのだ。
「まあ、これで終わってくれりゃ、それはそれで良いんじゃね?」
難しい顔をして思い出していたからか、いつの間にか話が戻ってきている。合コンの話はどうなった。適当に返事をしていたから、もしかしたらまた、参加の方向で段取りを付けられているかもしれない。
その件は後で改めて不参加のメッセージでも叩き込んでおくとして。仕方なく、僕は先のものと同じ答えを返した。
「だから多分、そうはならないんだって」
「そうかよ」
「なんだよ」
「カナトってさ、嘘つくの下手だよな」
「え」
「まあつまり、周期みたいのがあるわけだ」
「なんで」
「こないだの渋谷のヤツだかその後だかで、だいぶ貯金が出来たってとこか?」
「知ってたのか」
「知らねえって。嘘だけじゃなく、誤魔化すのもへたくそだな。お前、本当に将来どうすんだよ」
こういう時のシンジは、さらさらと簡単に人の核心を突いてくる。相変わらず鋭いというか、僕が鈍いというか。とりあえず、今は僕の将来は関係無い、と思う。
「この際だから、それこそメイちゃんとデートするとか、したらどうだよ。で、週末は週末で来いよ」
「どうせまた面子が足りないって言うんだろ? っていうかどうしてそこで、イマミヤが出てくるんだよ」
「やっぱり運命……ってな」
「シンジがやると、ただひたすらキモいね」
「そろそろちゃんとしとかなきゃ、やべえって思ってんだろ?」
「どうしてそんな事まで」
「だから、知らねえっての」
お前の態度と、メイちゃんのあの感じ見てたら、大体わかるだろうが。シンジは足を組み直して、溶けた氷をガラガラとつつく。
「で、どうなんだよ?」
「今度は何の話」
「色々だよ。じゃあメイちゃんの話からな」
「他のはまた来週にしてくれ」
「ちゃんとするって、どういう事だと思ってんだよ?」
「だから、そういうつもりは無いっていうのを、ちゃんと」
「あ~あ、駄目すぎ。不器用だねえ」
「器用ってのはどういう事なんだよ」
今のままで、何となく好意を持て余しているのが器用だと言うのなら、不器用で結構だ。あからさまに不機嫌になった僕に対して、シンジはニヤニヤと口の端を持ち上げている。
そういえば、こいつのこういう顔も久しぶりに見たような気がするな。実に、小憎らしい。
「だから、いっぺんデートでもしてみろって」
「どうしてそういう話になるわけ」
「お前さ、それこそ失礼だと思わねえのか?」
「何が」
「メイちゃんは嫌いか?」
「そういう訳じゃないけど」
「ぐいぐい来られて、どうしたら良いかわかんねえだけだろ?」
「そんな事は」
「あるね、だから失礼だっつうの」
ここで押し黙ったら、まるで言い当てられたみたいじゃないか。必死に口を開こうとした僕を遮って、シンジが続ける。人が口を開こうとしたその寸前に、言葉を差し込んでくるのはこいつの得意技の一つだ。
「実際、いい子だと思わねえか? よく笑うしおもしれえし。しかも、かわいいし」
「だいぶ評価が上がってるな」
「まあ、お前には勿体無いくらいには、いい子って事だ」
「そうか」
「お前は本来、そんなに選べる立場じゃねえんだぞ。なんでこんなヤツに、かわいい女の子がちょいちょい寄ってくるんだか」
「今、訴えたらきっと僕が勝つと思う」
尖った気持ちを代弁するように、遠くで雷が鳴った。いつの間にか、空が暗くなってきている。テラス席を選んだのは失敗だったかもしれない。
「良い機会だし、ちゃんと考えてみろよ」
「あのさ、前から言おうと思ってたんだけど」
「おう」
「僕が誰かとくっつくと、何かもらえたりするわけ? 特典が付くとかさ」
「はあ? なんだよそれ」
シンジは一瞬だけびっくりした顔になったが、すぐに「でもそれいいな、じゃあ何かくれよ」と言い出した。しまった、聞き方を間違えたか。この先、僕がシンジの誘いに乗る度に、さあ何か献上しろ、と言われそうだ。
「なんて言うんだろうな、色々と経験値が足りねえ気がすんだよ」
「またゲームの話?」
「ゲームが全部、経験値ありきだと思ってるとことかもそうだな。視野が狭いんだって」
「悪かったな」
「ぜんっぜん悪いと思ってねえのに、口だけ謝るのもそうだな」
「あのなあ。なんか怒ってる?」
「お、よく気が付いたな。えらいえらい」
えらい、等と茶化してきているが、いつものゆるい口元ではない。どうやらまたしても本気らしい。なんなんだ、一体。
「お前の事情はさ、全部とは言わねえけどわかってるつもりだよ。大変だってのも含めて」
「ありがと」
「だけど、だよ」
「だけど?」
「お前はもう少し、自覚しろって」
「……何を?」
「案外、気付かねえ内に、誰かを傷つけたりしてんじゃねえのか、って事をだ」
「イマミヤの事、言ってる?」
「それだけじゃねえかもしれねえぞ、って話」
それだけじゃない、と言われて、一応は考えを巡らせてみるが、さっぱりわからない。確かに僕は、気のきく方では無い。それは認めるけど。
暗くなった空に閃光が走る。続いて、響く重低音。どうやら、雷雨がすぐそこまで近付いてきているらしい。
「ほらな」
「え?」
「さっぱりわかんねえって顔だ」
「いや、だから」
「難しそうなのは顔だけで、また雷でもくんのかな、とか考えてたろ」
その通りだった。ぐうの音も出ない。今日はどうやら、物凄く歩が悪いらしい。
「お前が大変なのはわかる」
「さっきも聞いたよ」
「でもな、みんなだって大変なんだよ」
「それは……わかってるよ」
「そうだといいけどな」
シンジは、すっかり水だけになったグラスをあおった。言いたい放題に言われたのに、何故だか、何も言い返せない。
僕は負けじと、グラスをがっしり掴んで傾ける。期待した程の苦みは、やってきてくれなかった。空のグラスをテーブルに置いたところで、雷が鳴り、小気味良い音を立てて雨が降り始める。
いつも通りの、急な雷雨。世界は、そう簡単に変わったりなんて、してくれないらしい。
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