第9話:午前三時のあれやそれ

 時計の秒針が刻むリズムを、鼓動が追い越していく。

 飛び起きて、上半身を起こした僕は、軽いめまいを覚えて両手をベッドにつける。熱は下がったが、まだ本調子では無さそうだ。スマートフォンをもう一度見た。午前三時十九分。暗がりの中の影が、弱々しく動く。


「ごめんね」


 やはり、間違いなくアイの声だ。僕が混乱している間に、返答に物凄く困る先手が打ち込まれる。表情は見えない。これは、何に対して謝っているんだ。

 シンジにけしかけられて(あるいはけしかけて)家に来た事? この時間まで僕の部屋に残っていた事? それとも他に何か謝る理由でも? まさか、中学時代の昔話の事ではなかろうか。邪推を重ね、一人で煙に巻かれていく僕は、言葉を発する事が出来なかった。


「起きてるなら、ちょっと電気つけてもいい?」

「あ、うん」


 混乱の原因となっている相手から助け舟が出され、僕はまんまとそれに乗っかる。そういえば、電気のスイッチはどこだったか。ここは僕の部屋なのに、どうにも居心地が悪い。


「あはは、頭ボサボサ」

「うるさいな。朝になったらシャワー浴び直すよ」

「うんうん。だいぶ元気になったみたいで良かった」

「えーと……お礼も言わずに寝ちゃってごめん。ご飯とか、ありがとう」

「どういたしまして」


 あんなので良ければ、たまに作ってあげよっか? 目を細めるアイは、からかっているようにも、本心から微笑んでいるようにも見えた。別にそれは、と小さく返事をする。


「あのさ」

「ごめんってば」

「まだ何も聞いてない」

「どうしてこの時間に、まだ部屋にいるんだよ、でしょ?」

「まあ、そうだけどさ」

「……心配だったから、だよ」

「元気そうに、ありがたいうどんも完食してたろ?」

「でも、その後うなされてたから」


 え、と声が出てしまう。特に悪夢を見た記憶も無ければ、気持ちの悪い汗をかいている感覚も無かった。


「シンジくんは、大丈夫だから帰ろうって言ってたんだけど。ごめんね」

「いや、いいよ。ありがと」

「ふうん」

「なんだよ」

「やっぱり弱ってると少し丸くなるのかな? なんかいつもより優しい」

「よしわかった。今からでもお帰り願おうか」

「え、ひどい」

「冗談だって」

「それ、ミホノちゃんとかには冗談でも言っちゃダメだよ。終わるから」

「終わりますか」

「終わるね。体調を心配して駆けつけて、ご飯まで作ってくれた女の子を午前三時に追い出そうとした、なんて。私なら、冗談でも終わらせるね。うん」

「強引な悪友が、本人の話は一切聞かずにその子を引っ張ってきた、っていう前フリが抜けてる」

「あはは、あの人は本当にしょうがないよね」

「本当にね」


 二人でくすくすと笑う。そして少しの沈黙。ようやく、鼓動に秒針が追いついてくる。アイが、右手で自分の髪を触った。


「ミホノちゃんの事」

「うん?」

「本気で好きなの?」

「深夜テンションのコイバナってやつ?」

「ちょっと、真面目に」

「うーん。ひとめぼれだから、どうって言うとさ」

「あんまり好きじゃないんでしょ」

「え」

「ひとめぼれの話。カナト、中学の時から言ってたよね。見た目だけ好きなんて失礼だとか」

「よく覚えてるね」

「だっておかしくて」

「おかしくて?」

「なんかむきになってる感じっていうか。他の男の子みたいに、なんとかちゃんが可愛いとか、ぽーんと言っちゃえばいいのに、強がるなあって」

「別に強がってたわけじゃ」

「無いって、むきになって言うんだろうな、って私は思ってたけど。でも、みんなそう言ってたよ」

「うわ、それは結構ショックかも」


 みんなって誰、と聞く勇気は無い。同時に、この話はどこに着地すれば良いのか、という思いも着地出来ずに通り過ぎていく。中学時代の恥ずかしい話を続けるのもなんだったので、僕は話を戻す事にした。


「まあそれはともかく。色々と話して、仲良くなれたらいいなとは思ってるよ」

「ふうん。仲良くなれたら」

「そう。どこかの悪友みたいに、今すぐどうしても付き合いたい、みたいな感じでは、今は無い」

「でも付き合えたら、それが一番?」

「だから、それは仲良くなってみないと」

「煮え切らない」

「悪かったな」

「でもカナトらしい、かも」

「……悪かったな」

「わかった」


 アイは目を閉じて、腕組みをしてしまった。わかったと言われても、何がどこまで伝わったのか、こっちが分からなくなってくる。かと言って、なにがしかを考えているようでもあるので、横槍を入れるのは忍びない。僕は黙って、秒針と一緒に息を潜める。


「カナトってさ、意外とモテるよね。なんだかんだで」

「なにそれ、全然」

「中学の時にもさ」


 また中学の時の話だ。わかりやすく苦い顔をする僕に「今度は悪い話じゃないんだって」とアイが笑う。


「清水くんってどんな人? って何人かに聞かれた事あるんだよ」

「初耳だし、それだけじゃモテてるかどうかわからない。清水くんってどんな人? あの人、大丈夫なの? って続くかも」

「うわあネガティブ。でも、そういうのは何となくわかるんだってば」


 この間、お前の好みなんて見てりゃわかる、とふんぞり返っていた男の姿が頭をよぎる。二人の勘が良すぎるのか、僕が極端に鈍感なのか。後者で無い事を祈るばかりだ。


「カナトって鈍感だよね」

「聞いてたのか」

「え?」

「いや、何でもない」

「まあでも、カナトがこれだけ積極的なのも珍しいし、わかった」


 アイはもう一度、噛み締めるように、わかったと言った。僕にはさっぱりわからないけど、この「わかった」には、何が? と安易に聞き返してはいけない力が込められているようだった。


「私もちゃんと協力してあげる」

「これまでは、ちゃんとしてなかったんだっけ?」

「うん。遊び半分だった」

「遊び半分……」

「それと、半信半疑だった」

「あのなあ」

「でも、ちゃんと協力するよ。これからは」

「それはどうも」

「うん。じゃあおしまい。まだ起きちゃうには早いし、もう少し寝ておく?」


 そう言って電気を消そうとしたアイが「あ、そうだ」と少し不機嫌な顔になる。


「イマミヤさんはどうするの?」

「どうって?」

「流石に、そこまで鈍感じゃないよね?」

「ああ、それは、うん」

「どうするの? まあ、積極的に粉砕しろとは言わないけど」


 急に出てきた粉砕という言葉に吹き出しそうになるが、何とかこらえる。僕がここで粉砕する訳にはいかない。


「もし、カナトが誰かと付き合う事になったとして、その時もあのままだったら問題だよ」

「だよなあ」

「多分、カナトのそういう態度も問題なんだと思う」

「スミマセン」

「お説教みたいでごめん。でも、考えておいた方が良いと思うよ」

「うん」


 それじゃあ、と今度こそ電気を消そうと後ろを向いたアイに、僕は「あ、でも出来れば」とボールを投げ返していた。


「出来れば?」

「仲良くしてやってくれないかな」

「なにそれ」

「多分、今はアイの中での評価はあんまり高くないと思うんだけど」

「強引だし、しつこいし、空気読まないし?」

「それ、シンジが言ってた?」

「まあ、そこまでじゃないにしても、ちょっとどうかなと思う時はあるよ」

「アイが言うならよっぽどだ」

「それで、どうして?」

「悪い子じゃないから」

「うそ、意外とまんざらでも無かったんだ?」

「そういうんじゃなくてさ」

「じゃあ、どういうの」

「うーん……」


 そう言われると困ってしまう。ただ、イマミヤ自身も、今の無理矢理絡んでくるような形を望んでいる訳ではない、部分もある、ような気がする。考えてみるだけで尻すぼみになっていく事に、僕は苦笑いを浮かべるしかない。


「わかった」


 今日のアイは、物凄く色々な事をわかってくれて助かる。僕は様々な答えを想定して続きを待つ。「カナトに変な下心があるから、あの子もあんな風になるのね。よくわかった。さあ、歯を食いしばりなさい」というような、最悪に近い答えも含めて、だ。


「本気で協力するって言ったからには、イマミヤさんの事も考えてみるよ」


 しばらく黙り込んでから、こちらを向いたアイは、なかなか見事な仏頂面だった。


「そのかわり、変な感じにしたら怒るからね」


 どうなったら「変な感じ」に分類されるのか。もう少し聞きたかったが、アイはそこでバチンと電気のスイッチを切った。僕はしばらく上半身を起こしたままで粘っていたが、じきに諦めて横になる。時刻は四時を回ろうとしていた、ような気がする。

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