第8話:雨の日の夜に
まどろみから這い出した僕を、すぐさま悪寒と虚脱感が抱え込む。頭の奥に居座った、不協和音を奏でる為の何かが、身体を少し動かすだけで意識をさらっていこうとする。
寒い。熱い。頭が痛い。後ろ向きな単語の羅列を垂れ流して、それでもなんとか立ち上がる。
キッチンがやけに遠い。さして広くもないワンルームなのに、どうなっているんだ。理不尽な文句を付けて、足を前に出していく。やっとの思いでよろよろと辿り着くと、一杯の水を流し込み、長い息を吐き出す。
「もうこんな時間か……」
ほぼ直角に曲がる時計の針は、十五時半を指していた。これでも朝よりは、だいぶマシか。水をもう一杯、無理矢理飲み干してキッチンを離れる。トイレを済ませ、汗をかいた服を取り替え、体温計を取り出す。体感的に、まだ平熱には程遠いだろうけど、朝より良くなったという実感が欲しかった。
ついでとばかりにカーテンと窓を開け、淀んだ空気を追い出す。外はまだ雨が降り続いていて、とても爽やかとは言えない。それでも、随分と心持ちが違う気がした。
「三十八度ちょうど、ね」
三十九度にのるかどうか、というところから考えれば下がってはいるが、まだ寝ているしかなさそうだ。窓を閉めると、部屋の中はしんと静まり返り、何とも言えない気持ちになる。
今日中に、熱だけでも下げてしまいたい。すっかり鈍くなった思考でなんとか目標を定め、再びベッドに潜り込んだ。ふと、充電器に差したままのスマートフォンが視界に入る。通知ランプが点滅しているから、何かしらの着信やメッセージが入っているのだろう。手を伸ばせば、確認出来ない事もない。しかし、待ち構えていた睡魔が、僕の両足を掴んで引き倒す方が早かった。
「おーい、生きてるか?」
「……んん?」
「なんだ、寝ぼけてんのかよ」
「……なに?」
「こりゃ重症だな」
カナトのやつ、繋がったけどだいぶやばそう、シンパイな感じだな。無意識に電話を取ったらしい僕の耳に、シンジの声が飛び込んでくる。後ろにいる誰かを煽っているらしく、心配という言葉がこれ程似合わないものか、というくらい楽しそうだ。なんとも腹が立ってくる。
「人が熱出して寝込んでたのに、なんだよ」
「知らねえよそんなの。今、初めて聞いたんだからよ」
実に正論ではあるのだけど、腑に落ちない。どうやら熱は下がったか、微熱程度の感覚だが、電話口で言い合いをする気力はまだ無さそうだった。
「とりあえずまだ調子悪いから。電話とか出れなくてごめん。多分、明日は行く」
「おい、切るなよ。やっと繋がったっつうのに」
「……なんだよ」
ぶっきらぼうに答える僕に、お~お、怖いね、と軽口を返し、シンジは後ろにいる誰かとひそひそ話を始める。ちらりと壁のアナログ時計を見ると、十九時だった。一日があっという間に終わろうとしている感覚に、妙な焦りを覚える。
「なあ」
「なに」
「ちゃんと食ってる?」
「切るぞ」
「だから待てって。どうせ水飲んで寝てりゃ治るとか、アウトローな事してんだろ」
「別に」
その通りだけど、そんな事はない、事にしておきたい。誰がアウトローだ。こういう時のシンジは鋭い。そして、一言以上、必ず多い。
「よし、図星だな。ちょっと待ってろよ」
「は?」
「遠慮すんな、確か三〇三号だったよな」
「まさか来る気? いいって」
「そこを動くなよ」
「いや、ちょっと……」
聞きようによっては物騒な台詞を残して、一方的に切られてしまった。人には切るなとか待てとか言っておいて、勝手が過ぎる。何よりも気になるのは、最低でも一人はいたであろう後ろの誰かだ。
順当に考えれば、家に連れてやってくるならアイだと思う。しかしこれが、万が一ミホノちゃんだった場合、色々とまずい事になる。ぐったりしているところを見られたくない、とかいうライトな悩みも無い事は無い。それより何より、命に関わる可能性がゼロでは無いのだ。流石に、シンジもわかってくれていると思うけど。
また、一緒にいるのがイマミヤだった場合、別の意味でまずい。心配なので泊まります、とか真顔で言い出しかねない。そういう香ばしいネタが飛んでくれば、全力で乗ってしまうのがシンジだ。本来の目的を忘れて、大喜びで帰ってしまう事だろう。それに、家を知られるのは、致命的な何かが崩れ去る気がしてならない。
その三人以外の、僕の知らない誰かさんだった場合も論外だ。「今日は来るなよ、迷惑だ」とはっきりきっぱり、お断りのメッセージを叩き込んでみるものの、それが開かれる様子は無い。きっとわざとだ。
「ああ、もう……」
脱ぎ捨てたままだったTシャツその他を洗濯機に放り込み、部屋を換気し、洗い物をする。頭がぼおっとするとか、まだ寝ていたい等と言っている場合では無くなってしまった。ざっとシャワーを浴びて、十九時半。半日以上、眠りに眠ってようやく蓄えたエネルギーをあらかた使い果たした頃、着信があった。
「……共犯はアイだったか」
「何それひどい」
「こう見えても安心してるんだよ」
「よくわかんないけど、開けてくれる?」
同時に、インターフォンの音が響く。ちょっとシンジくん、そっち押さなくても、と耳の向こうから聞こえるので、下手人はシンジだろう。雨の中、来てくれたものは仕方ない。熱も下がった事だし、変な風邪がうつる確率も低いと信じたい。僕は渋々、ドアノブに手をかけた。
「相変わらず似合わねえとこに住んでるよな。一丁前に三階角部屋とか、いらなくね? 素敵女子に譲って一階に行けよ」
「本当に何しに来たんだ、帰れ」
「あはは。これ、一応照れ隠しのつもりなんだよ。あいつ本当に繋がらない、どうしよう! ってすごかったんだから」
「ええ、そりゃないよアイちゃん」
そのままの体で、クールに説教の一つもかましてやるのがイケメンなのに、と苦笑いのシンジ。してやったり、という表情のアイ。二人とも、本当に、全く。
「何も出せないけど、とりあえず上がってよ」
「お邪魔しまーす。わ、意外と綺麗……っていうか物少ない!」
「そうなんだよ、面白いもんの一つくらい置いとけっつうのに」
僕の部屋は、良く言えば小綺麗、悪く言えば生活感があまり無いらしい。冷蔵庫や電子レンジ、洗濯機に掃除機と言った基本的なものはあるが、娯楽の類はほぼ置いていない。ベッド、テーブル、座椅子とクッション。大学の教科書諸々をしまっておく為の小振りの本棚。そしてノートパソコン。テレビやゲーム機器、漫画や小説は一切無い。
「カナトって普段、家にいる時は何してるの?」
「ノーパソで怪しいサイトでも見てんだろ」
「怪しくないって。本も映画もこれである程度は観れるし、音楽も聴けるから困らない」
「ふうん。本を読むのは紙の方が私は好きだけど。あ、キッチン借りるね。お腹は平気だよね?」
「うん、大丈夫」
こんなとこだけ最先端気取りかよ。今、俺は困ってんだよ。次までにテレビか漫画を買え、とシンジが矢継ぎ早にごねる。鍋やら包丁やら食器やらの場所をアイに伝えながら、僕はそれをひたすら受け流した。
照れ隠しにしては、横暴さが前に出過ぎていないだろうか。お見舞いの体で来たと言い張るのなら、手際良く何かを刻んで火にかけているアイを見習ってほしい。
「はいこれ。食べたら、また横になってるように」
「お! うまそう!」
「だーめ、カナトが先」
出てきたのは、葱と鶏肉をメインにしたシンプルなうどんだった。ほんのり生姜の風味が効いていて、優しい味がする。
「美味しい」
「そ、良かった」
「まあまあ元気そうだな。普段から篭ってっから、すぐ風邪とかひくんだって」
うどんを食べ終わり、歯も磨いた僕は、説教混じりのありがたい話を肴に、船をこぎ始める。なんだかんだでまともな物を口にしていなかったし、安心と疲れもあった。ちゃんとベッドに入って寝ろよ、というシンジの呼び掛けに応えられたかどうかのところで、僕は意識を手放した。
「……外、まだ暗いな」
仰向けに転がったまま手を伸ばし、スマートフォンで時刻を確かめる。午前三時十八分。暗がりの中、そのままの流れでメッセージアプリを確認する。うんざりするような大量の未読メッセージは、シンジとイマミヤ共通のお食事会関連だ。これは、ひとまずパス。
次に、シンジとアイ、更にはミホノちゃんからそれぞれ入っている数件ずつのメッセージ。サボりかよ? 今日はお休み? といったものから、心配する内容へと繋がっている。朝になったら改めて、お礼の返事をするとしよう。そこでふと、シンジの最新メッセージが目に留まる。
「病み上がりに変な気おこすんじゃねえぞ」
この文句の後ろに、如何にもやってやれと言わんばかりの、ずる賢そうな顔の絵文字が入っていた。
「はは、何これ」
「……ん。あれ、カナト起きてたの?」
聞こえるはずの無い声に、僕は飛び起きて声のした方向へ目をやる。
「ごめん、タオルケットだけ借りちゃった」
とっくに帰ったものだと思っていた、幼馴染みのシルエットがそこにあった。申し訳無さそうに口を開いたアイに、僕は、別にいいけど、と返すのが精一杯だった。
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