第3話:だから言ったろ?

 本日、二限目は休講だった。シンジとアイはそれぞれの講義に向かい、僕の元には一人の時間が転がり込んできた。これは今日、最大の幸運かもしれない。ひとしきりぶらぶらしてから、ちょっとしたスペースに設置された椅子に腰掛け、ぼんやりとする。気持ちを整理したり、一人で空いた時間を潰す時は、大抵ここに落ち着く。

 遠巻きに人の流れがよく見えるロケーション。それでいて、その流れの外側に位置する穴場スポットだ。申し訳程度に据え付けられた華奢なテーブルが二脚と、椅子がいくつか。少し距離を置いて、古ぼけたベンチが佇む。

 これをセッティングした人が、どんな形を目指していたのかはわからない。ぼおっとしたり、考え事をするのにもってこいの場所。それで十分だった。

 ノートパソコンで一心不乱に何かを打ち込む眼鏡の男子。のんびりと本を読んでいる女子。話し手と聞き手の役割分担が完全に分かれた女子二人。そして、コーヒーを片手に遠くを見つめる僕。実に通常運転、平均的な人口密度である。


「これって絶対、好きだと思う! そう思わない?」


 強い調子で叫んだ話し手の女子が、もう絶対だよ、と続ける。なんともタイムリーで、頭の痛くなる話題のようだ。

 歩き回ってみても、コーヒー片手に考えてみても、やはり結論は変わらなかった。使い古された言い方をするのであれば、どうやら僕はひとめぼれをしたらしい。

 その場では「確かにかわいいんじゃない」なんてそっけなく言ってみせた。でもそれは、理性の肩を必死で揺すって、どうにか絞り出した表向きの言葉だ。

 シンジは「だから言ったろ? そうなんだよ」とニヤニヤするばかりだった。僕の反応が普段と違う事に、まず間違いなく気付いていただろう。落城寸前、本丸は剥き出しである。

 こういう時、それでもシンジは考える時間をくれる。その辺りは大人というか、こなれているというか。ただし、猶予はそう長くはない。このゆっくりした時間が終われば、「で、どうなんだよ?」と聞いてくる。根拠の無い自信に満ち溢れた笑みを携えて。これは予感ではなく、確信に近い。


「何もしないで後悔するより、やって後悔した方が良いよね!」


 会話の片方しか耳に入ってこないから他人の電話は不快なのだ、と聞いた事がある。まさしくその通りだと、今なら声を大にして言える。聞き耳を立てる趣味は無いのに、キンキンとよく通る声がシンバルのように響き渡る。読書をしていた女子が、たまらず立ち上がるのが見えた。

 僕は気を紛らせようと、コーヒーを一口すする。大分ぬるくなってしまったが、今は程よい苦みさえあれば良い。

 つい先程、味わったばかりの、人生初の感覚を思い出す。目の合ったあの瞬間。彼女は少しだけ、ほんの少しだけ微笑んだ……ような気がした。それだけで僕は、全てを持っていかれてしまったのだ。こうして、頭に浮かべるだけでも全身が熱くなる。勝手にリズムを速めようとする鼓動を叱り付けて、冷静を装う。

 そもそも、僕はひとめぼれそのものを信じていなかった。それはつまり、見た目が物凄く好みである、という状態であって、何とも失礼な話だと思っていたのだ。ひとめぼれしました、とそのままの勢いで告白するなんて、もっての他だ。

 しかしその考えも、今では音を立てて崩れさってしまった。僕が普通に暮らしている大学生であったなら、この素晴らしい気持ちに感謝し、大喜びで駆けまわったかもしれない。あるいは、相手と自分との落差に自信を無くして、落ち込んでみたり。ふわふわとした感覚に任せて、一喜一憂を楽しんだ事だろう。

 しかし残念な事に、僕は複雑な心境で葛藤を繰り返していた。それは即ち、僕の事情に関する悩みだ。それさえ無ければ、今も熱弁を振るうシンバル女子と肩でも組んで「やって後悔した方が良い!」と前のめりに、自分の気持ちに立ち向かえたのかもしれない。


「……実際、どうしたもんかな」

「もう、いくしかないよね! それ以外、ありえなくない?」


 ゆるりと漂わせておきたくて吐き出した呟きに、大外から力強い合いの手が入る。ここは、ぼおっとしたり、考え事をするにはもってこいの穴場スポット。だったはずなのに。

 僕は残りのコーヒーを飲み干して、ゆっくりと立ち上がった。ノートパソコンを開く男子を横目で見ると、イヤホンをしていた。なるほど、文明の勝利である。


「で、どうなの?」

「何が」

「何がじゃないでしょ」


 トマトソースのパスタをフォークで絡めとり、アイが顔をしかめる。せっかくのランチなのに、眉間にしわを寄せるなよ。それは、僕の血と汗と、アルバイトの結晶でそこに出てきているんだぞ。


「シンジくんに聞いたんだけど」

「そうだ。あいつ、どこ行ったか知らない?」

「話を逸らさないでよね」


 どういう訳か僕は、軽いノリの悪友ではなく、お節介な幼馴染みに問い詰められている。大学から歩いて数分のこのカフェは、夕方には大混雑の人気店だ。しかし、ランチメニューが秀逸である事は、意外にもあまり知られていないようだった。

 品の良いジャズが、耳に心地良い。目の前に座るのが、不機嫌な幼馴染みでなければ、もっと楽しい時間になったに違いない。


「シンジくんの話、本当なの?」

「シンジのどの話?」

「うそ、信じらんない。ひとつじゃないの?」


 アイの声色が一段と低くなる。僕が提示したつもりの選択肢は、件のひとめぼれの話と、今朝が特別だったのではなく、日常的に死に様が見えている話の二つだけだ。いや、数合わせにと誘われていた来週末のを、参加の前提で言い含められていたら、三つになるか。


「一限目、講義そっちのけで、女の子をなめ回すように見てたって」

「あのなあ」

「なによ」

「まさか、それを信じたわけ?」


 アイは僕から視線は逸らさず、丁寧に巻いたパスタを口に運び、ゆっくりと咀嚼する。睨まなくても、パスタも僕も逃げはしないのに。まあ僕の方は、雲行きによっては逃げ出す可能性が無いとは言えない。ある意味、見張っておいて正解か。


「それはだって、すごい、具体的だったから」

「左斜め後ろ、三段上、端から四番目?」

「やっぱり本当なんじゃない!」

「落ち着けってば」


 これが落ち着いてられますか。ランチセットに付いてきたスープを一気飲みして、アイが頬を膨らませる。なんと勿体無い。

 いや、それよりも、このリアクションは何なのだ。僕は、女の子をちらりと視界に入れる事すら、ありえないと思われているのだろうか。なんだそれ、仙人様か。


「まず間違いなく、シンジの話には誤解がある」

「どんな?」

「それはまだわからないけど、間違いなく、間違いない」


 アイは、呆れたという風にあんぐりと口を開け、目を丸くしている。ころころと表情が変わって忙しい事だ。それでも、さっきより随分、表情が柔らかくなった。安心した僕も、パスタにフォークを伸ばす。

 アイのチョイスしたトマトソースも捨てがたいが、何と言っても、ここはカルボナーラが絶品だと思う。生パスタのもちもちした食感。クリーミーで濃厚ながら、後味のしつこくないソース。鼻腔をくすぐるブラックペッパーの香り。自家製ベーコンの香ばしさと適度な塩気。まさに極上の一品だ。


「その話だけど、僕も二人に相談があるんだ」

「……どんな?」

「とりあえず誤解が解けてから。だから、シンジがどこにいるか知りたいんだよ」


 電話にも出ないし、メッセージも未読のまま。目下、音信不通である。問い詰められる覚悟をしていた分、逆に怪しい。相談したいのは本音だけど、それ以上に、早めに尻尾を掴まえておきたい気持ちが強かった。


「うーんわかんない。掲示板の前で少し話しただけだし、急いでたみたいだよ?」

「そっか。まあ午後の講義にちゃんと出てくれれば、そこで話せるか」

「だね。ん~、ここのパスタ、やっぱり美味しい!」


 結局、シンジからの連絡は無いまま、僕達はお昼を食べ終えてしまった。午後から天気は下り坂、との天気予報を完全に無視して、空は晴れ渡っている。


「まだ時間あるね、お茶でもする?」

「二十分じゃ短くない?」

「かけつけ、一杯」


 いくら二十歳になったからってそんな、飲み屋じゃないんだから。というか、アイはまだギリギリで十九ではなかったか。僕は、朝と同じ曖昧な笑みを返して自動販売機に向かう。

 ここからどこかに入り直すには時間が足りない。適当に座って、ペットボトルのお茶でも飲むのが良いところだろう。手頃な緑茶を二本、手にとって戻る。


「ほいよ。ランチのついでって事で」

「ありがと、ごちそうさま」


 穏やかな昼下がり。まったりとした空気が流れる。夏の足音を感じる風は生ぬるく、冷たいお茶が喉に嬉しい。他愛の無い話をして大学に戻る頃には、今日はもうシンジは放っておくか、という気分になっていた。そんな時だった。


「よお、朝も昼も仲の良い事で。うらやましいね」

「なんだシンジか、お前どこに行って……!」


 聞き慣れた声に振り向いた僕は、絶句した。こんな簡単な事に頭が回らなかったなんて。僕は、相当にのぼせ上がっていたらしい。シンジは確かに見かけより信頼出来る男だ。ただし、大前提を忘れていた。色恋沙汰を除いて、という最も憂慮すべき部分をだ。


「こちら、長岡美穂乃ながおかみほのちゃん」

「初めまして」

「ハジメマシテ」

「はじめまして! わあ、シンジくんの彼女さん? すっごい可愛い! っていうか綺麗!」

 

 無邪気にはしゃぐアイに、それは多分違うよ、と説明をする余裕も無い。ニヤニヤとこちらを観察するシンジの隣には、柔らかく微笑む彼女がいた。午前中に、僕のほとんどをさらっていってしまった彼女だ。 

 だから言ったろ? これから仲良くなって、紹介してやるって。自慢げに鼻を膨らませるシンジと、その一歩前でアイとおしゃべりを始める彼女。僕は、どんな顔をすれば良いのかわからず、乾いた声で笑っていた。と思う。

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