第2話:いいよな、お前は
「本当に大丈夫だって。とりあえず、学校でこの話はやめよう」
「だって、あんな言い方されたら気になる」
結局、僕は話題の方向転換に失敗したまま、大学に辿り着いてしまった。講義室はまだ人もまばらで、声のトーンを落としても誰かの耳に入りそうだ。自分の死に様がどうこうなんて話、大っぴらにしたいものではない。
「朝から痴話喧嘩かよ、うらやましいね」
「シンジ、丁度良かった。パス」
「パスってひどくない?」
「おけおけ、両手で受け取っちゃうよ。アイちゃんカモン」
「二人ともやめてよ、真面目な話なんだから。カナトがね、またあれが見えたって」
なんだ、面白い話じゃねえのか。そう言って、へらりと笑うこいつは、
一八一センチの長身。二重のタレ目にすっと通った鼻筋。ボクシングだったか何だったか、打撃系の格闘技で鍛えたというスタイル。ぱっと見だけなら、格好良い部類に入るらしい。
ただ、僕に言わせれば、そんなに良いものではない。適当にセットした(こう言うと、本人は凄く不機嫌になるのだけど)明るめの茶髪。いつも、人を小馬鹿にしたような笑みを湛えた薄い唇。
その如何にも軽そうな口先から、好きなモノは女の子、なんて高らかに宣言してみせるのだ。女の子はモノではないしその言い方はおかしい、と苦言を呈すれば、じゃあ好きなコトは女の子、と言い直すような輩である。
本人曰く「俺は大きな失恋を乗り越えて、ひとまわり大きくなったんだよ」なのだそうだ。しかし高校入学の時点で既に、このキャラクターは確立されていた気がする。中学が一緒だったという友人に聞いても答えは同じ。こいつは一体、いつ大きくなったのだ。
「朝っぱらからハードモードかよ」
「ハードモードとか、軽く言うなよ。このガテン系ゲーマーめ」
「似たようなもんじゃね? 要は、やばいと思ったら近寄らなきゃ良いんだろ?」
「あのなあ」
こう見えて、と言うべきか、意外にも、と言うべきなのか。シンジは僕の事情を知る数少ない友人の一人だ。女性関係と口の悪さを除けば、信頼出来る男ではある。
「でもさ、あれだよな」
「あれって?」
「いいよな、お前は。予知能力のチート付き。死亡フラグ全回避。人生ぬるゲーだろ」
「シンジくんに言われると、凄く簡単に思えてくるね」
アイの台詞は決して褒め言葉ではない。その証拠に、お手本のような溜め息混じりだ。あわせて僕も溜め息をひとつ。今朝はなんとも、溜め息に溢れている。
「こっちの台詞だよ。悩みとかなさそうでさ。いいよな、お前は」
「そんな事ねえよ。俺だって眠れぬ夜とか、あるんだって」
相変わらずの飛んでいきそうな笑みに、ネムレヌヨルという単語が全く噛み合わない。
そんな時は、オールで遊んじゃうのが一番だよな、とか言い出してくれたらしっくりくるのに。
「あっそ。まあ、なんかあったら話は聞くよ。恋愛絡みじゃなければ」
この展開になったら、僕は必ずこう返す事にしている。シンジは元々、積極的に相談してくるタイプではない。でも一度だけ、けろりとしているように見えて実は……という事が高校時代にあった。それからは、少しだけ気を付けるようにしている。
「なんだよ。恋の悩みを共有してこそ、盛り上がるんじゃねえの」
「あ、それはわかるかも。二人とも、私もいつでも相談乗るから」
「はいはい、今のとこ間に合ってますよっと」
「うそだ、いっこぐらいはネタあんだろ? 教えろよ」
そう、どれだけ本能と直感で生きているように見えたとしてもだ。こいつなりに悩んでいる事が、きっと、少しはあるはずなのだ。
まあ何はともあれ、話の矛先は見事にずれてうやむやになってくれた。シンジ様々である。
「あ、そろそろ行くね?」
「はいよ」
「アイちゃんまたね!」
数人で入ってきた女子グループに手を振って、アイはそちらに歩いていく。これで一件落着だろう。
「お昼、いつもの掲示板前に集合!」
そう思ったのも束の間。講義が始まるとすぐさま、メッセージアプリに非情な文言が叩き込まれる。なんともしっかりしていて、頼もしい限りだ。
「本当におごりとか……はあ」
「おいおい、ノロケかよ」
「どこが」
「アイちゃんとご飯なんてうらやましい。お前ら、やっぱ俺に隠れて付き合ってんだろ。人の純情を踏みにじりやがって」
僕は、これが怪訝な顔です、という表情を努めて心掛けてシンジを睨む。お前のどこに純情が残っているんだよ、である。そもそも、仮に誰かと付き合う事があったとしても、それを報告する義務が無い。
「全部そっちに持っていこうとするなよ」
「わかったわかった。で、どうなんだよ?」
で、どうなんだよ?
そして、これがシンジの常套句だ。あえて曖昧に質問する事で本題をぼかし、想定外の答えまでさらっていこうとする。
「だから、付き合ってないってば」
「ちげえよ。今朝、見たんだろ? それとも本当に恋の相談とかしてくれんの?」
「ああ、そっちはまあいつも通り。アイがいたから、そこそこ慎重に遠回りもしたし」
悩みをなかなか打ち明けないシンジとは反対に、僕はまあまあの頻度で、この悪友に自分の秘密を漏らしている。ただし、僕自身の名誉の為に言っておくと、助けてほしいと懇願している訳でも、弱音を吐いている訳でもない。
「巻き込まれたら、また俺も危ねえ目にあうかもしれねえんだろ? 冗談じゃないっての。ちゃんと話せ」
高校時代、ある出来事をきっかけに、一緒に九死に一生を得る羽目になった直後のシンジの言葉だ。悪態のように見えて、馬鹿にするでもなく、信じないのでもない。今思えば、僕が自然体で話せるように気を遣ってくれたのだという気さえする。こういう部分は、シンジの凄いところだと思う。
だから、敬意と信頼の証として、聞かれたら正直に答えるようにしているのだ。もちろん、この件に関してのみ、ではあるのだけど。
「あの時みたいな事は、ないんだよな?」
「ない」
「ならいい。やばかったら言えよな」
「わかってるって」
あの時とは、シンジ風に表現するならハードモードの更に上。ヘルモードといったところか。
聞かれた事には正直に答えるようにしている。なんて言った矢先に申し訳ないが、僕はこの件の中でも、その部分に関してだけは、シンジに嘘をつき続けている。あの時みたいな事は、あの時ほどでは無いものの、無くはない。
「本当にわかってんだろうな」
「うわ、本当だってば」
そしてどうやら、僕は嘘があまり上手ではないらしい。正直、誤魔化しきれてはいないのかもしれない。
「ま、大丈夫ならいいけどな。そんな事より、知ってるか?」
「……知らない」
僕の生き死にはそんな事か、と言い返したいのをぐっとこらえる。何ともないと言ったばかりで、明らかな引っ掛け問題を踏み間違える訳にはいかない。
「すげーかわいい子がいるんだってよ」
「そりゃ、世の中にはいるだろうね」
「世の中にはって。お前は仙人様かよ。普通なら、どこどこ? 紹介して! 名前は? 今日とかヒマ? って聞くだろうが」
そんな欲望の塊のようなリアクションは、ごく一部の、極端な例だと思う。僕は視線を教授に固定したまま、口を小さく動かす。
「どこどこ。紹介して」
「本気度ゼロじゃねえか。これだから世捨て人は」
仙人様に世捨て人、実にひどい言われようである。でも実際、僕は恋愛を諦めている節がある。シンジやアイのように、適度な距離感で付き合える友人を持てたのは本当に幸運だ。しかし、恋人となればきっと話は変わってきてしまう。
デートの度に生き死にを賭けた大冒険では、かの有名な吊り橋効果も、裸足で逃げ出す事だろう。
「今度こそ、カナトの好みどストライクだと思うんだよな」
「好みなんて話した事なかったはずだけど」
見りゃわかるんだよ、そんなのは。シンジは窮屈そうに足を組んでふんぞり返る。根拠のない自信も、人生のスパイスとしては必要なのかもしれない。
「で、その子がどうしたって?」
「だから紹介してやるってば」
「いるんだってよ、とか言ってなかった?」
「だからこれから仲良くなるんだろ」
めまいがしてきた。だから、シンジとこういう話をするのは嫌なのだ。僕達は言わば、ねじれの位置にいる。決して交わる事はない。
「先は長そうだな。まあ頑張って」
「いや、そこだよ」
「どこ」
「左斜め後ろ、三段上、端から四番目」
そうきたか。危うくひっくり返りそうになるのを、なんとかこらえる。後ろにも目が付いているのか。それとも講義の前にチェックしていたのか。
案外、正解は前者かもしれない。「はあ? なんでお前は後ろに目の一つも付いてねえんだよ、これだから世捨て人は」とか言って。
「今なら大丈夫だ、一瞬だけ振り向いてみろよ」
「嫌だよ。終わってからでいいだろ」
「ダメだ」
「どうして」
「終わったらお前は、次の講義はちゃんと受けたいとか、飯を食ってからでいいだろ、とか言い出すからだよ」
ご名答、流石は腐れ縁である。口の端をぎこちなく持ち上げて目を泳がせる僕に、とどめとばかりにシンジがたたみかけてくる。
「これが駄目なら、もう無理にどうこう言わないし、合コンにも誘わない」
「……本当だろうな」
「少なくとも、今月中は」
「おい」
それでも、悪くない話だと思った。放っておけば、シンジは毎週のように何かしらの話を持ってくる。ありがたい人にとってはありがたいのだろうけど、残念ながら利害の不一致だ。
今は六月の第二週。ひょいと振り向いてみせるだけで、残り半月の平穏が約束されるのだとしたら。
「端から四番目だな」
「三段上だぞ」
この時。ああ、この時に振り向いていなければ。僕の人生の波はこれ以上、乱高下する事はなかったかもしれないのに。
そして僕は、吸い寄せられるように彼女と目を合わせた。合わせて、しまった。
「で、どうなんだよ?」
ちゃんと見えたか? からかうようなシンジの声をやけに遠くに聞きながら、僕は呆けていた。
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