第23話:主役は遅れて登場するんだって

 月がぽっかりと浮かんでいる。

 僕は横になって、ぼんやりとそれを眺めていた。涼しい風が、九月も終わりに近付いている事を思い出させる。今の僕には、少し涼しすぎるかもしれない。

 どうなったのか、と確認する必要は無さそうだ。月越しに覗きこむようにして、アイの顔があった。

 僕が意識を失っていたのは、そう長い時間では無かったらしい。忘れていた、あるいは麻痺していた痛みがじわじわと足音を立て始めている。どうせなら、全てが無事に終わって、病院のベッドで目覚めたかった。それなのに、残念ながら、まださっきの続きだ。

 現実逃避する訳では無いけど、せっかく目を覚ましたのだから、と僕は浮かんだ言葉をそのまま口に出してみた。


「……月がきれい」

「ばか、何言ってんの。救急車、呼んだから」

「うん」

「ごめんね。本当にごめん」

「怪我とか」

「平気」

「良かった」

「良くない」

「良くないかあ」


 身体は、重たくてとても動かせそうにない。視線だけをゆっくりとひとまわりさせてみた。

 正面には僕を覗き込むアイ。服には、血がついてしまっている。なるほど、あの浮遊感は、アイが僕を引き上げてくれたのか。本当にごめん、は僕の台詞だ。

 その向こう、ベランダと部屋との境目にはミホノちゃんが立っている。顔をぐしゃぐしゃにして泣いているようだった。結局、最後まで巻き込んでしまった。彼女にも、申し訳ない気持ちで一杯だ。

 部屋の中には知らない顔がいくつもあって、中心にいる誰かを押さえつけているようだ。僕が想像した通り、とまではいかなくとも、あそこには、あの男が突っ伏しているに違いない。

 ほっとしたところで、どくどくと脈を打つようにして、わき腹が疼く。本当に、こんなタイミングで起こしてくれなくても。どうにも視界が暗いし、力も入らない。

 部屋の中とは反対側。見ないようにしていたそちらにも、視線を向ける。ベランダの柵に寄りかかっていたもう一人の僕。

 ソレは、そのままの姿勢でうなだれていた。そして、僕が気が付くのを待っていたかのように、すう、と消えていく。僕は、最後までそれを見守った。目をそらしては、いけない気がしたのだ。

 ぽつり。暖かいものが頬にあたり、視線を正面に戻す。こらえきれなかったのだろう、アイが泣いていた。暖かいのは、月の光と涙だけ。なんて、考えてみたりして。


「ちょっと寒い」

「大丈夫。もう少しだけ頑張って」

「……だといいけど」

「そうじゃなかったら、怒るから」

「なんか、怒られてばっか」

「知らない」


 まいったな、と小さな言葉を舌先に乗せて、目を閉じた。必死な声で僕を呼ぶ声がする。きっと大丈夫だから、少し寝かせてくれ。ふわりと頬を撫でていく風に返事をしたつもりで、僕はもう一度、今度は自分から意識を手放した。


「……最初から」

「あ、カナト!」

「最初から、さ」

「え?」

「ここで起こしてくれれば良かったのに」

「もう、何言ってんの!」


 そうだ、先生を呼んでこなくちゃ。そう言ってパタパタと駆けていくアイを見送って、天井を眺める。期待通り、次に目を覚ました時、僕は病院のベッドに転がされていた。

 あんなところで中途半端に意識をこじあげたりせず、最初からここに連れてきてほしかった。本心ではあるものの、何とも間の抜けた寝起きである。


「大学生がお手柄、強盗逮捕! だってよ、すげえだろ?」

「すごいな。それじゃまた、退院したら適当に連絡するから」

「おいおい、速攻で追い返そうとしてんじゃねえよ」


 それが命の恩人様にかけるお言葉かよ、とシンジが豪快に笑う。その日本語は色々と間違っている、と物申したくはあるものの、大きな声を出すと傷にので、じっとりと睨んでおいた。

 数日間の昏睡の後、僕は目を覚ました。とは言っても、その間の記憶は無いので、個人的にはただ目が覚めただけではあるのだけど。

 医者の先生が、報せを受けて上京してきていた両親と共にやってきて、アイがあの時に続いて泣き始め、シンジにミホノちゃんにイマミヤまでがどやどやと駆けつけ、収拾がつかなくなった、その日から数日後。

 僕は、お見舞いの仕切り直しだと言って騒がしくやってきたシンジに、ニュース記事を見せられていた。

 色々な検査やら、事情の聴取やらで休まる暇が無いというのに、お見舞いの名を借りた冷やかしまでやってくるなんて。入院というのは、もっと静かで、緩やかに時間が流れていくものだと思っていた。


「感謝はしてるよ、一応。個人的にはまあまあ、結構、ほとんど、手遅れではあったけど」

「一応、のとこを見つけるのが大変そうだな」

「命の恩人様にかけるお言葉が見つからないだけだよ」

「ったく、入院しても変わらねえのかよ」

「そう簡単にはね」

「大体、勢いで飛び込んだりすっから、勝手に刺されたりすんだろ」


 勝手に刺される、という言い方は存在してはいけないと思う。お見舞いの仕切り直しであるならば、気持ちが安らかになる会話を心がけるべきではないのか。大丈夫か、であるとか、いつごろ退院できそうなんだ、であるとか。せめて、大学やみんなの様子であるとか。


「俺がジャストなタイミングで駆けつけたからこそ、他に怪我人もなかったんだろ。お前もこうして、無事に入院してられるわけだ」

「無事に入院って。一通り終わったところにやってきて、出会い頭にぶん殴っただけのくせに」


 アイがミホノちゃんのマンションに来ていたように、シンジも、僕の不穏なメッセージを見て動いていたらしい。そして、僕を見つけた、というアイからの連絡を受け、ミホノちゃんの家までやってきた。


「主役は遅れて登場するんだって」

「はいはい」

「ナイスパンチだったろ? ってそんときはもうぶっ倒れてたか」


 僕を刺して男が逃げ出したのと、シンジが部屋に入ってきたのが、大体同じタイミングだ。ただし、あの男と向き合ったシンジの対応は、僕のそれとは一味違う。

 男が持つ血濡れの包丁を見るなり、右ストレートとローキックを叩き込んで取り押さえたと言うのだ。打撃系の格闘技で鍛えたとかいう、例のやつでだ。

 当のシンジは、なんかやべえと思ってぶん殴った、とけろりとしたものである。シンジの方がよっぽど「やべえ」と思ったのは、僕だけではないはずだ。散々な目に遭ったのに、男に同情したくなるような、殺気に満ちた良い笑顔だった。

 と、ここまでの結果がシンジの冒頭の台詞に繋がる。すなわち、大学生がお手柄、強盗逮捕。

 付け加えるとしたら、負傷者一名。つまり、僕。それ以外は全員、無傷で無事だった。僕の、必死の、文字通り命を賭けた奮闘は、すっかり形無しにされてしまった。


「まあでも、感謝してるのは本当に本当だよ」

「そうだろ?」

「真面目な話。あそこにシンジが来なくて、あいつがもし、思いなおして戻ってきてたら、僕は何も出来なかったんだし」

「まあ、な」


 がしがしと髪をいじって、シンジが居心地悪そうに立ち位置を入れ替える。こいつは昔からそうだ。どうだ、俺のおかげだろ? なんて自慢げに言う時ほど、見た目よりずっと真剣に、物事を考えていたりする。もちろん、本当にただ自慢げなだけの時もあるので、注意は必要なのだけど。


「ありがと」

「なんだよ、気持ちわりい」

「あはは。弱ってると、ちょっと丸くなったりするんだってさ」

「自分で言うな。で、いつ退院すんだよ?」

「再来週くらいには多分。ちゃんとは決まってないけど、何もなければ」

「なんだ、意外と簡単だな。手術とかしねえの?」

「あのなあ」


 これでも大変だったのだ。病院に運び込まれた当日に緊急の手術は受けているし、その後だって、決して簡単ではなかった。詳しくは思い出したくもないけど、僕が生きているのは、本当に奇跡的な事らしい。

 上手い具合に肋骨に刃が当たり、内臓の損傷が無かった事。運よく、動脈が傷付けられなかった為に出血がそれ程では無かった事。

 倒れかかってきた相手の持つ包丁が刺さった形で、傷自体が浅かった事。様々な偶然が重なって、僕は一命を取り留めた。

 三週間程度で退院出来そう、という話も、僕の回復力にも、診断を下した医者自身が驚いていたくらいだ。


「まあでもそうか、そんなもんなのか」

「あのなあ」

「じゃあまた来るわ」

「あれ、もう?」

「寂しいか」

「早く帰れよ」

「おう」


 あっさりと帰っていったシンジを見送って、自然と笑みがこぼれた。自慢話と冷やかしから入っておいて、具合と退院予定を聞き、安心したらすぐに帰る。なんとも、あいつらしいじゃないか。

 退院して落ち着いたら、みんなと話をしよう。確認しなくてはいけない事もあるし、伝えなくてはいけない事だって。

 とりあえず明日には、大事をとった、というこの個室からも移動する。再来週には、何もなければ退院して、平穏でけだるい日常が戻ってくるはずだ。本当の意味での、日常が。

 静かになった部屋で目を閉じてみる。睡魔はすぐに、僕を連れていった。

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