第22話:なんだ。そうか。

 人影は、三つあった。

 仁王立ちしている一つとその奥にうずくまる二つ。一瞬だけ、立っているのはシンジかと思った。シンジなら、良かった。

 でも違う。背が足りないし、黒いキャップからはみ出た髪は黒。残念ながら、あの明るい茶色ではない。

 土足で飛び込んだ僕に、仁王立ちの影がびくりとして、身構えた。電気はつけっぱなしだ。男は、影というより、全身が黒ずくめだった。よくもまあそこまで統一したな、というくらい、頭の先から靴まで真っ黒。

 その中にあって、右手に握られたモノだけが鈍い光を放っている。刃物だ、とすぐにわかる。ソレで切りつけられた僕自身を、ここに上がってくるまで何度も見てきていたからだ。

 部屋の奥には、アイとミホノちゃんがうずくまっている。男から視線を外す訳にはいかなかったので、視界の両端から必死に情報を拾う。多分、今のところ、怪我はしていないようだ。

 このタイミングで強盗か、あるいはもっとひどい目的の何かが侵入してくるだなんて、偶然が過ぎる。いや、きっとこれも、偶然ではないのだろう。どうしてこんな、という気持ちと、僕のせいだ、という罪悪感がふつふつと沸き上がる。


「な、なんだお前」


 うわずった声で男が叫び、手にした刃物……包丁をかざす。男は明らかに動揺していた。包丁を構えてはいるが、腰が引けている。

 僕は男の質問には答えず、突っ込む。心臓は言う事を聞かずに暴れているし、足はふわふわとして、上手く動いてくれない。それでも、僕に出来る事はこれしかないし、タイミングだって今しかない。どの道、止まってしまったら、もう一度は動き出せそうに無いのだし。


「何やってんだよ!」


 せめて何か威勢の良い台詞でも、と思ったのにこれだ。声の震えを止めるのが精一杯で、迫力の欠片も無い。そのまま姿勢を低くして、男の腹を両手で抱える形でタックルを食らわせた。

 こう言うと勇猛果敢に聞こえるかもしれなないが、実際はだいぶ違う。姿勢を低くするつもりはなく、本当は包丁を押さえ込んで、奪うつもりだった。要は、途中でつんのめってしまったのである。何やってんだよ、と自分にも言いたい。

 我ながら残念な突撃ではあったが、ワンルームを突っ切る程度の勢いはついていて、それなりに効果はあった。僕は、体勢を崩した男もろとも、ベランダに投げ出される。幸い、窓は網戸になっていたので、ガラスで怪我をする事はなかった。

 なかったのだけど、ベランダはまずい。下から見上げて、ああはなるまいと決意を固めてきたのに。どうして自分から、近付くような真似を。焦りと恐怖がそろりと距離を縮めてくる。

 なにしろ、ベランダには、僕にしか見えないがいる。柵に背を預けてうなだれ、わき腹から血を流し、ぐったりとして動かない僕だ。

 とは言え、もう事態は動き出してしまった。決して広くはないベランダで、何とか包丁を掴もうと腕を動かす。僕の方が馬乗りになっている形。有利ではあるのだろうけど、振り回される包丁に、小さな切り傷が増えていく。一歩間違えればどうなるかわからない。

 視界の端で「これが少し先のお前の姿だぞ」と主張してくるに、頭の芯が熱くなる。


「カナト……!」

「くるな!」


 アイが僕の名前を叫び、僕は怒声で応える。隣にはミホノちゃんの姿もちらりと見えた。早く逃げてくれ。視線で訴えるが、二人は立ち尽くすばかりで動かない。


「このやろう」

「うわっ……!」


 僕は何様のつもりだ。余所見をしている余裕なんて、ある訳が無いのに。

 男は隙をついて暴れ、僕をひっくり返した。あっさりと上下が入れ替わり、包丁が振り下ろされる。僕は無我夢中で腕を伸ばし、それをようやく両手で受け止めた。

 ベランダの柵に背中を押し付けられ、押し込まれる包丁を必死で支える。体勢が悪すぎて、力が入らない。すぐ隣に重なる形で、僕の未来が頭をたれている。どんどんそこに近付いていくようで、全身が泡立つ。


「どうしよう、どうしたら」

「警察……警察呼ばなきゃ!」


 部屋の中から、二人の必死な声が聞こえてくる。逃げてほしいとは思うものの、二人の声は僕にとって援護射撃にもなった。警察、という単語に反応した男が二人を睨み付けたのだ。包丁から意識がそれ、僕の方にかかる力が一瞬、弱まった。


「っざけんな……!」


 片膝を立てて踏ん張り、柵から背中を離す。半歩だけ、自分が終わる可能性から抜け出せただろうか。襲ってくる疲労と緊張を気力で覆い隠し、そのまま、男を窓ガラスの縁に叩きつけた。

 一緒に自分の腕もぶつけてしまい、痺れるような痛みに顔をしかめた。映画のアクションシーンのようにいくはずは無いのだけど、こんなに上手く動けないものかと、悔しくなる。

 そのまま、跳ね返されて尻餅をついた。全身が痛いし、目の奥がチカチカと明滅している。呼吸は荒く、限界が近い事を否応無く意識させられる。ここまで来るのにも、相当に神経をすり減らしてきたのだ。長くは持ちそうにない。

 早く、何とかしなければ。そうは思うものの、どうなれば、何とかなった事になるのだ、と別の声も聞こえてくる。


「ぐ……」


 男は、打ち所が悪かったのか、バランスを崩したのか、ぐるりと反転してよろけた。それを見た僕は、ふらつきながら今度こそ立ち上がり、歯をくいしばる。まずはこの柵の際から、すぐそばに死の香りが漂うベランダから、抜け出すのだ。

 僕が覚悟の一歩を踏み出すのと、男がもう半回転して、こちらに倒れこんでくるのとは、ほぼ同時だった。

 男は糸の切れた操り人形のように、全身のコントロールを失っている。それでもこれだけは手放すまいと、無機質な鈍色が右手に握られていた。


「カナトくん!」

「いやあっ!」


 ず、と地味な音がして、一気に全身の力が持っていかれる気がした。頭に直接、不快感が流れ込んでくるような。二人の悲鳴を遠くに聞いて、ああ、と思う。僕は刺されたのか。

 男と目が合った。取り返しのつかない事をしてしまった、そんな顔で呆然と見つめている。今更そんな顔をするのか。それなら最初からやるなよ、と言ってやりたいが、言葉が出ない。かわりに、吐き出すつもりのない空気が口から漏れて、とん、とベランダの柵に背中がつく。

 またここに戻ってきてしまった。諦めにも似た気持ちが頭の中を蝕んでいく。いまや真下で待ち構えている、終わってしまった僕を見下ろす。これは、本当にまずい。

 心のどこかで鳴り続ける警鐘は、ひどく弱々しく、遠くから降ってくる。

 僕が視線を落として固まっている隙に、男は踵を返して逃げ出していた。部屋の中が騒がしい。あれだけ大きな音を出していたのだから、人が集まってきているのかもしれない。

 男は野次馬の中を掻い潜って逃げようとするが、あっという間に取り押さえられる。そして、駆けつけた警察に、強盗未遂だか、ナントカの現行犯で連行されるのだ。アイにもミホノちゃんにも怪我は無い。

 そうだったら良いな。希望と理想を頭の中で回転させたところで、いよいよ足に力が入らなくなる。がくんと腰が落ちそうになるのを必死にこらえた。

 今ここで、腰を下ろしてしまったら。重なる。重なってしまう。ソレに、なってしまう。


「――カナト!」


 僕を呼んだのは、誰だったか。妙な浮遊感があった。

 視界がぐらりと揺れ、目の前が狭くなっていく。このまま目が覚めなかったら、ちょっと残念だな。ふ、と先程より小さな吐息がこぼれた。

 おかしいな。もっと凄く、怖いかと思ったのに。

 いや、違う。もうそんな風に考える力も、残っていないだけだ。


 なんだ。そうか。


 そして、僕の意識はいなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る