第21話:見なかった事にするっていうのは
「あそこの、一番上の階」
「はあ……何とか、なりそうかな」
「うん。でも本当に大丈夫?」
ミホノちゃんが安堵と不安の入り混じった表情を浮かべる。ここに辿り着くまで、遠回りだけで何とかなった訳ではなかった。
この週末は、皆さんそんなに睡眠不足だったのですか? そう、皮肉を言いたくなる程、何台もの車が蛇行運転をしてきた。僕達がそれをやり過ごすと、どの車も、何事も無かったかのようにピシっと車体を安定させて走り出す。
建物の上からもいくつか、様々な種類のモノが落ちてきた。オーソドックスなところでは植木鉢。ひどいものでは子供用の三輪車、とか。可能性としてはありえるけど、まあそうそうは無いよね、というものばかりだ。
交通事故の未遂が数件、落下物多数。電線も一本切れている。こんな事が日常的に起きていたら、とても生活していけない。揺り戻しにしても、これは異常だ。
「出来れば、今日はもう部屋から出ないで」
「うん」
「それから一応、エレベーターは使わない方が良いと思う。念のため」
「わかった」
「経験上、こういう時は乗らない方がいいんだ。地震とかと同じでさ」
マンションの出入り口が見えてきたところで、僕はそっと手を離した。これでもう二度と、この手を掴む事は無いような気がして、喪失感に襲われる。
「カナトくん、ごめんね」
「……なんで」
「多分、わかんないけど、半分くらい私のせいだよね」
「そんな事、あるわけない」
知ってたの? と危うく口から飛び出しそうだった。ここまでやって来る途中よりも、ばくばくと心臓が跳ね上がっている。「そっか、でもありがとう」と本当に寂しそうに笑ったミホノちゃんは、なんだかひとまわり小さく見えた。
あからさまに彼女を避けたりであるとか、身に覚えがない訳ではない。それにしたって、気付くものだろうか。僕は、世界で一番、鈍感な人間です。そんな気になってくるが、落ち込んでいる暇は無い。
ミホノちゃんと距離を取れば頻度は減るだろうけど、今日が終わった訳ではないのだから。
「……カナト」
「は?」
「何度も電話したのに、出ないから」
マンションの出入り口、建物の中に入ったところで、絶対にいるはずの無い人物の声に驚く。僕は反射的にスマートフォンを取り出していた。
着信数件。メッセージも十数件。それぞれシンジとアイからだ。大丈夫か、との文言から始まり、ミホノちゃんの家の近所だよね、とにかく向かう、というアイのメッセージが最後になっていた。
アイはよほど慌てていたのか、ラフな服装で、髪も後ろで結んでいるだけだった。
「何やってんだよ、どうしてこんなとこに」
「どうしてって。あんないかにも緊急、っていうメッセージで、返事もないし」
「それはそうかもしれないけど、近くに来たら駄目だってあれほど」
「ごめん、でもミホノちゃんの家は一度遊びに来た事もあったし、じっとしてられなくて」
階段を降りてきたアイは、ミホノちゃんの家に寄り、留守を確認して戻ってきたところらしかった。
こう言われてしまっては、怒りの文句を連ねる訳にはいかない。つまり元々は、混乱して打ち込んだ僕のメッセージが原因だというのだ。
それを見たアイは、緊急性を感じて駆けつけてきてくれた。「僕にもし何かあったら」との先日の言葉も、拍車をかけたのかもしれない。どうしてこうも、裏目に出てしまうのだ。
「ごめんミホノちゃん、アイの事」
「うん。何もないけど、泊まっていって」
「大丈夫だよ。二人とも無事に帰ってきてくれたんだし、私も帰る」
「あのなあ」
無事に、と言うには、あまりにも紙一重だ。しかもまだ、終わっていない。その僕と一緒に帰るだなんて。
植木鉢やら何やらを避けて、ふらつく車から飛びのいて、電線の下をくぐる。あれをまた、今度はパートナーを変えてやれというのは、それこそ、命がいくつあっても足りやしない。
「ここまで来るのも、ちょっと大変だったんだ」
「言い方は悪いけど、今、カナトくんと一緒にいるのは絶対良くないと思う」
「頼むよ。今日はもう、とにかく帰る事だけ考えたいんだ」
疲れてはいたが、それをなるべく出さないように必死の説得を試みる。笑顔がぎこちない。僕は普段、どんな顔で笑っていたんだっけ。
「……わかった。でも、帰ったら絶対に連絡してね」
「約束する」
「途中で危ないと思っても、連絡して」
「うん」
最後の返事は嘘だった。それでも、しぶしぶといった体ではあったものの、アイは納得したようだった。
長話をして新しい可能性が生まれてもいけないから、と階段のところで二人と別れ、マンションを出る。
ここからは、普段より数が多いとは言え、迂回していけば何とかなるだろう。
アイがここに来ていたのは予想外も良いところだ。でも、ミホノちゃんも不安そうにしていたし、ある意味良かったのかもしれない。
何はともあれ、彼女を家に送り届ける事が出来た。これで、最大の危機は乗り切ったはずだ。
「見たところは、何もない……よな」
おっかなびっくり、前後左右と上も確認して、僕は歩き出す。帰り道とは真逆に来てしまったし、電車やバスは使いたくない。
スマートフォンで地図を確かめ、大体のアタリをつける。歩いたとしても、今日の内には帰れそうだ。よし、行こう。
僕はジョギング用の小さめのバッグから水を取り出して、一口ふくむ。何日かぶりに飲んだような清涼感に、生き返る気持ちがした。
大丈夫だ。今日は、もう大丈夫。
後ろから悲鳴のようなものが聞こえたのはその時だった。すぐさま振り返る。まだ、マンションから何十メートルも離れていない。
「なんだよ、やめてくれ」
ついさっき、二人と別れたマンションのどこかから聞こえたような気がする。落ち着き始めていた鼓動が、再びざわざわと騒ぎだす。
関係無い。関係は無いはずだ。そう思いながら、手は着信履歴を探っていた。アイに電話をかける。出ない。ミホノちゃんにもかける。出ない。
「嘘だろ」
僕は、視力は良い方だ。諸々の事情の為に鍛えられてきた、という訳でもないのだろうけど、とにかく、ある程度まで遠くは見える。
一番上の階、と言っていた四階のベランダに、それはあった。柵にもたれ掛かってうなだれている誰か。表情こそ見えないが、あれは。
あれは、僕ではないのか。
「あんなの、めちゃくちゃだ」
あそこのベランダで、僕は命を落とす可能性がある。
何故か。僕はこれから、あそこに行く可能性があるからだ。
だから何故?
そんなの、決まっている。
聞きなれた声……だったような気がした、悲鳴の主を確かめる為だ。
「見なかった事にするっていうのは」
そこまで口に出して、首を振る。僕は本物のバカか。あそこには、巻き込んでたまるかと、歯をくいしばって連れ帰ってきたミホノちゃんと、心配して飛び出してきてくれたアイがいるんだぞ。
様子を見に行って、何事も無く笑い話になるなら良い。でも、このまま帰る選択肢なんて、ありえない。
それをしてしまったら、例え僕が自分の事情に打ち勝ったとしても、その先ずっと、僕は死に続けるのだ。
「行くよ。行けばいいんだろ……!」
早鐘の心臓と、足を前に出すペースが全く合わず、気持ちが悪くなってくる。マンションの出入り口に駆け寄ると、もう一度スマートフォンをチェックした。折り返しの着信は無い。
出入り口のところには、さっきはいなかった僕が倒れていた。胸から血を流して、それをどうにかしようと手で押さえている。
身構えて警戒する僕の前で、そっちの僕は、ゆっくりと消えていなくなった。
「意味わかんないって」
僕は、一度出てきた死に様が消えるのを自分の目で見た事は無い。見かけたら距離を取るのが基本だからだ。
いや、イマミヤと一緒に死にかけた時に、避けた直後に消えた事はあったか。しかし、あれは例外だろう。
僕を誘うように現れたベランダの可能性と、出入り口で消えたもう一つの可能性。これは。
ここで死ぬ可能性は無くなり、ベランダの可能性が高くなったのだとしたら。
僕のまわりを急旋回する思考は、最悪の方向に加速する。進むな、と命令してくる脳に逆らい、階段を踏みしめる。
進むな。帰れ。戻れ。一つ足を出す度に、ハンマーで後頭部を殴られているような感覚に陥る。吐き気がしてよろけるが、それでも無理矢理に身体を動かした。
踊り場に上がると、そこでも僕が倒れていて、同じように消えていった。身体にはいくつも切り傷があり、どう見ても普通ではない。
普通ではない、なんて言い方は今更か。僕の普通は、もう何年も前から行方不明だ。
「自分からソッチに近付くなんて、どうかしてるよな?」
ぼろぼろと口から落ちる問いに答えは無い。さあこっちだ、と言わんばかりに、最上階、角部屋のドアの脇にも僕がいて、近づくと、すう、と消える。
ドアの前に立つ。中から、声は聞こえない。
これで、ドアを開け放ったら二人がご飯でも食べていて、目を丸くする、とかだったらどうかな。きっと、何してるの、とびっくりされるだろうけど、それこそ件の事情のせいにしてしまおう。
こんな時に、絶対にありえない平和な想像をしている自分に、自虐的な笑みが漏れる。
ドアノブに手をかけ、少しだけ力を込める。鍵は、やはりと言うべきか、かかっていないようだ。
ふう、と息を吐いて、はあ、と吸いこむ。
よし。行け。行ってしまえ。勢いよくドアを開けて、部屋の中に飛び込んだ。
これが最後だ。何となくそんな確信があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます