第20話:いつだって、それは突然やってくる
あ、と呟いてその場に立ち尽くす。まさかこんなタイミングで、鉢合わせるなんて。
僕に気付いたミホノちゃんは、同じようにびっくりした顔をして、それから困ったような笑みを作った。
「ひさしぶり」
「うん、ひさしぶり」
「えーと、ミホノちゃんもジョギング中?」
「うん。いつもこの辺り。もしかしてここ、カナトくんも走ってたの?」
「いや、今日はたまたま。気分を変えてみようと思って」
そう、たまたまだ。ちょっとした用事で出かけて、それならついでに、と気になっていた道を走ってみる事にした。本当にそれだけ。
家もそう遠くないと聞いてはいたけど、夏休みの夕方に出会う確率なんて、相当のものだろう。僕が、たまたま何かをしようとすると、良い方向には転がらないのかもしれない。
「そっか。えっと、良かったら」
「ごめん」
「えっ」
「ちょっと急ぐから、もう行くよ」
「……ううん、引きとめてごめんね」
良かったら、少し話さない?
きっと、そう言おうとしてくれたのだろう。それを遮って、僕は早口にまくしたてた。彼女の脇をすり抜け、出来る限り不自然にならないように距離を取る。
しかし、どうやら遅かった。背筋を撫でる悪寒と、びきりと割れるような頭痛。こんな事は初めてだけど、原因は既にわかっている。
揺り戻しだ。ミホノちゃんとの再接近と会話。トリガーは、引かれたのだ。僕の中から暗い塊が噴き出して、散らばっていく。そんな感覚。
高校時代の転校生より、去年のアルバイト先の先輩よりも、二人の相性は、最高に、最悪だったらしい。
とにかく彼女から離れて、無事に家まで辿りつかないと。そうだ、と思い立って、シンジとアイに簡単なメッセージを打ち込む。ミホノちゃんに偶然会った事、結果として揺り戻しがきている事、今いる大体の場所。そしてこれから、ひとまず帰ると繋げる。
誤字がひどいが、気にしている場合ではない。それから、それから、と慌てる頭で、僕はふと振り向いて、息を止めた。
「危ない」
「え?」
「どいて!」
立ち止まって、まだ僕の方を見ていたミホノちゃんの足元に、僕だったモノが転がっている。さっきまでぼんやりとしていた造形は、くっきりと人間の、僕の形をしていた。
頭の中心から、じわりじわりと、夕焼けとは質の違う赤が広がっていく。
咄嗟に上を見上げる。通りぞいのマンション。植木鉢を移動しようと、両手で持ち上げている女性が見えた。あれに違いない。
「カナトくん……?」
僕は走り出す。ミホノちゃんは目を丸くして、動かない。視界の端で、マンションの女性が、何かにつまずいてバランスを崩したのがわかる。
植木鉢は、女性の手を離れ――
「良かった、間に合った」
「あ……ありがとう」
僕が飛び込むのと、ガシャンと無機質な音をたてて植木鉢が砕けるのとは、ほぼ同時だった。上から、焦った様子の声が聞こえてくる。
ミホノちゃんを見た。次いで、自分の身体を確かめる。誰も、どこも怪我はしていない。乗り切ったか……?
「ああ、駄目だ」
「駄目ってどういう」
「まずい」
飛び込むついでに車道にはみ出していた僕達に向かって、蛇行した車が突っ込んでくる。運転席には船をこぐ男性。ふらつく車体。
振り向いて、視線を左右に散らす。何メートルか先、右向きにねじれた僕が揺らめいていた。左、と頭の奥が指令を出す。
「こっち」
「えっ」
返事を待たず、ミホノちゃんの身体を、ぐいと起こして飛びのいた。間一髪、車体が僕の身体を掠めていく。
僕を轢き損ねた車は、思い出したように体勢を立て直すと、何事も無かったかのように走り去っていく。鼓動が速い。落ち着け、落ち着け。
「ごめん」
「どうして謝るの」
「もう少し」
「もう少し?」
「行こう」
「どこに?」
「ごめん、とにかく行こう。駅……そうだ、駅の方とか」
駅、と口にしたものの、良い考えがあった訳では無かった。どこに行ったら良いのか僕も知りたい。でも、この道は駄目だ。植木鉢。車。続けてかわせたのも奇跡に近い。
「駅なら向こうに」
「ごめん」
「もう、なんなの」
「あっちにしよう」
ミホノちゃんが指し示した方角。夕日に照らされて、僕が仰向けに倒れている。原因を探している時間は無い。
どうする。ここで別れるか。いや、駄目だ。更にいくつか、浮かび上がってきている。もしさっきの植木鉢のような事になったら?
「僕の言う通りに、僕から離れてくれないかな」
「意味わかんないよ、なんなのこれ」
「そうだよね……あ」
「え?」
「ごめん」
「……ちょっと!」
どん、とミホノちゃんを突き飛ばして、僕も反対側に転がる。その隙間を、いつの間にか、偶然ちぎれた電線がだらりとなめていく。ああ、これはそれなりのニュースになるかな。
どうでも良い考えがよぎるが、そんな事より、間隔が短すぎる。これでは距離を取るどころではない。二人で、乗り切るしかないのか。
「ごめん」
「何が起こってるの? 本当になに、これ」
「ごめん」
「だから、どうして謝るの!」
「とにかく、ここは、駄目なんだ」
勝手に震える膝を無理矢理おさえつけて、毅然とした態度で告げる。上ずる声を、悟られていないだろうか。誰も巻き込むつもりは無いなんて格好つけておいて、こんな。必死に奥歯を噛み締める。
「わかった、落ち着いてよ。どうすればいいの」
意味わかんない、と今度こそ嫌悪に満ちた視線を向けられるかと思ったが、そうはならなかった。立て続けに起こった危機に不穏な何かを感じ取ってくれたのか、僕の必死さが伝わったのか。わからないけど、今はありがたい。
「信じてくれるの?」
「だって、こんなの、普通じゃないし」
「そうだよね」
そうだよねって。もう少し気の利いた事を言えないのか。ぐるぐると回る思考に紛れ込む雑音を、どうにか説き伏せて歩き出す。夕焼けから逃げるように。ミホノちゃんの手を引いて。
「どこまで行けばいいの?」
「わからない」
「そんな」
「ごめん」
「そればっかり」
「……ごめん」
自然と歩調が速くなる。どくどくと波打つ心臓がうるさい。植木鉢。車。そして電線……気が遠くなる。そんなのどこにでも、どこまで行ってもあるじゃないか。
きっとこのまま電車には乗れない。バスも駄目。かと言って、歩き続ける訳にもいかない。
どこか建物に入る、とか?
これまでの経験上、外に比べれば、ではあるけど建物の中は安全だ。何かあるにしても、それは例えば、僕がバランスを崩して教壇の角に頭をぶつけるであるとか、個人的な事情である事が多い。彼女を巻き添えにする確率は下がるのではないだろうか。
「どこかに入ろう」
「どこかって、この辺、マンションとか家しかないよ」
「一番近いお店とかは?」
「えーと……こっちだったら、コンビニと薬屋さん。もう少し、ちょっと歩けばスーパーとカフェ、それからもう一つ駅があるけど」
コンビニと薬屋さん、と頭の中で繰り返す。小さな店は駄目だ。きっとたまたま車が突っ込んできたりするに違いない。となると、スーパーか駅という事になるけど。他の人まで巻き込みはしないだろうか。
考えて、話している間にも、色々な可能性が道の端に現れる。遠回りしたり、横断歩道を渡ってみたりして、ソレを避ける。
三つ続けて乗り切ったおかげか、足元にいきなり現れる、という事は今のところ無くなっているようだ。そうは言っても、とても安心出来る状況ではない。
さっきから僕は、そこかしこで死に続けているのだから。
「公園とか」
「え?」
「大きな公園とか無いかな」
ふと思いつく。なるべく広くて見晴らしが良い場所。公園か、グラウンドでもあればそれでも良いかもしれない。
そろそろ、公園で遊ぶ子供もいなくなる時間のはずだ。とりあえず今を乗り切るという意味では、そういう場所まで二人で行って、ミホノちゃんに距離を取ってもらえば良い。
もし、何もない場所に隕石でも降ってこようものなら、諦めもつく。
「うーん……ちょっと無さそうかも」
「そっか。待って、もう少し考える」
どうする、どうする。再び思考の渦がやってくる。外側に意識を向けながら、内側の濁流に沈んでいくような。うねりの中で、熱を出して寝込んだいつかの夜中、心配して残ってくれたアイの顔が、唐突に浮かんだ。そうか。帰ってしまえば良い。
ミホノちゃんはこの辺りをいつも走っていると言っていた。それなら、家も近くなのではないだろうか。家の外まで送って、ひとまず彼女を安全地帯に逃がす。その後は、また考えれば良い。
「家って近い?」
「えっ」
「変な意味じゃなくて」
「あ、そんな風には思ってないよ。ごめん」
「近いなら、家の外まで送るよ。後は何とかなるから」
「遠くはないけど、何とかって」
「大丈夫」
頷いて言い切ると、そのまま今の状況について説明を始める。彼女にしてみれば、この間以上に意味のわからない事だらけだろうけど、ざっくりと伝わればそれで良い。
今日を限りに、気持ちの悪い危ないヤツだと思われても構わない。こんな巻き込み方で、この子に何かあって良い訳がないのだ。
「こないだの話、どっちかっていうと不幸体質って事?」
「そんな感じ」
「でも、どうして? 前の渋谷でもこんなのなかったよね?」
「それは、その、波みたいなのがあって」
「……そうなんだ」
「うん。今はちょうど、急に、本当に良くない時期がきちゃったみたいで」
「そっか」
納得してもらえたかはわからないけど、とにかく僕達は歩き続けた。夕焼けが主役を夜に譲り終えた頃、一棟のマンションが見えてきた。
ミホノちゃんの手に力が入る。どうやらあそこらしい。もう少し。僕も手に力を込める。そういえば、咄嗟に繋いでそのままになっていた。暖かい手の感触に意識が向いて、恥ずかしくなる。
どうせならもっと、平和でゆっくりしたシチュエーションで繋ぎたかったな。この期に及んでそんな事を考えていた僕は、すぐに、またしても思い知る。
これだけ「いつもと違うぞ」とヒントをもらっていたのに、未だに事の重大さに気付いていなかったという事に。
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