第25話:もし、あの時にさ

 退院を翌日に控えた今日、僕は病院のロビーで、落ち着かない気持ちを誤魔化す為にお茶に口をつけていた。

 午後の弛緩した空気に似つかわしくない、微妙な表情をぶらさげて、のろのろと同じ動作を繰り返す。明日には退院なんです、と誰かに話しても、信じてもらえないかもしれない。


「お見舞い、私が一人で行っても大丈夫?」

「ごめん。聞き方、変だったかも」


 この前日の夜に、ミホノちゃんから入ってきたメッセージだ。病室で絶えずいじくっていたりはしないが、入院中でも、場所によってはスマートフォンを使う事は出来る。

 少しは身体を動かさないと、なんて理由を付けては抜け出して、メッセージやら何やらを確認するのが僕の日課になっていた。

 現代人だな、と一言、残念そうに漏らした父の顔が印象的ではあったものの、やはりそう簡単には手放せるものではない。

 とは言っても、日々のやり取りはそう多くはない。入院が数週間ともなれば落ち着いたものだ。

 たまに入ってくるシンジやアイ、数人の友人からのメッセージがいくつか。それ以外はほとんどが、迷惑メールや、レンタルショップのDMだとかで占められている。

 そんな中で、それまで音沙汰の無かったミホノちゃんから突然のメッセージだ。僕は、どう返したものかわからず、病室とロビーを行ったり来たり。我ながら情けない話なのだけど、返信までに半日を要してしまった。

 僕が目を覚ましたあの日は、彼女もみんなと一緒に駆けつけてくれた。しかし、その後はメッセージもお見舞いもここまで一度もなかった。それはそうだろう。あれだけ一方的におかしな事に巻き込んで、怖い思いをさせてしまったのだ。

 お互い大変だったね、またお茶でも行こうよ、等と普通に話せる訳が無いではないか。


「大丈夫だと思うけど、念のため動きやすい格好が良いかも」


 そして、悩んだ末に捻り出した、僕の返事がこれ。気負った風を見せず、当たり障りなく、了承の意志を伝える。はずだったのだけど。

 キャンプかバーベキューにでも誘うつもりなのかといった体の、笑えない冗談のような文言だ。

 これは断られるかな。送信キャンセルってどうするんだっけ。そうして親指をふらふらさせている間に、大勢は決していた。


「ありがとう。じゃあお昼くらいに行くね」


 念のためどうこう、と送りつけた諸々は、拍手を送りたくなる程の華麗なスルー。僕の半日は、おおよそ十分程度で過去の産物となり、入院生活の最後に大きなヤマを迎える事になったのだった。

 二人で顔を合わせる事については、もう大丈夫のはず、という気持ちはあった。

 揺り戻しを乗り越え、あの日のベランダで、僕の未来は姿を消した。僕はそれをしっかりと見届け、安心して眠りについたのだから。

 それでも、もしかして、という気持ちを頭から追いやるのは、簡単ではない。あれだけの事が起こった以上、どうして大丈夫だと言い切れるだろう。

 同じ事を、きっとミホノちゃんも考えていたからこそ、退院前々日まで迷った末に、メッセージをくれたに違いない。


「ひさしぶり」

「うん、ひさしぶり」

「なんか、会うたびにひさしぶりって挨拶してる気がするよね」

「あはは。そうかも」


 ミホノちゃんは本当に動きやすそうな格好でやってきた。パンツとパーカーのカジュアルスタイル。髪も邪魔にならないようにしっかりとまとめてある。

 大学では、どちらかと言うとワンピースやスカート姿が多かったので、新鮮な雰囲気だ。なんか目つきがやだ、と笑う彼女に、慌てて目を逸らす。


「えっと、大丈夫そう?」

「うん。大丈夫そう」


 病院のロビーで真っ先に交わされたこのやり取りは、僕の体調を心配するものではない。その向こう側。例の事情がする気配が無いかどうかを、確かめる為のものだ。

 短く答えた僕は、やっぱりそうか、と肩を落とす。彼女は、全てでは無いにしろ、自身と僕との相性のようなものに、気が付いている。


「それなら良かった」

「本当に」

「元気そうだね」

「そりゃあ、明日、退院するんだから」

「そっか、そうだよね」


 当たり障りの無い会話の中に、つい何かを探してしまう。僕がこういう事をすると大抵、ほとんど全部、相手にはバレている。


「私の顔に、何かついてる?」

「え! いやいや、なんにも」

「カナトくんってわかりやすいよね」

「残念ながら、よく言われる」

「何かあったら言ってね。迷惑にならないように、すぐ帰るから」

「それなんだけど」

「うん?」

「多分、もう大丈夫だと思う」


 僕は観念して、相手もある程度の事情はわかっているもの、というつもりで話を進める事にした。事情そのものの説明はしてしまったし、考えてみれば、今更だ。

 また、今日ここに来てくれたからには、何か話したい事があるはず、という気もしていた。


「多分、っていうのは?」

「終わったんだ」

「終わった?」

「多分あの日に、終わったと思う」

「カナトくん、普段はわかりやすいのに、こういう時は意味わかんない」

「あはは、ごめん」

「でもそっか。終わっちゃったんだ」


 終わっちゃった?

 あんな事は、何度も無い方が良いに決まっている。僕は、わかりやすい時の顔をして、彼女を覗き込む。案の定、ミホノちゃんは含みのある笑顔を見せた。本当にわかりやすいね、と顔に書いてある。


「終わっちゃったな、と思って」

「ちょっとわかんない」

「あの日まではね」

「うん」

「結構、カナトくんは私を意識してくれてたと思うんだ」

「え」

「まあ、良くも悪くも、かもしれないけど」

「僕の顔って、それこそ何か書いてあったりするの? 額に紙が貼ってあるとか」

「あはは、なにそれ」


 会う人会う人に、見ればわかる、と言われては、流石に心配にもなってくる。僕は、正直に言ってほしい、と額の紙に書かれているところを念じてみた。

 なんて顔してるの、とミホノちゃんが吹き出す。どうやら、今は、見えていないらしい。


「最初に紹介してもらった時の事、覚えてる?」

「ああ、シンジが無理言ってごめんね」

「羨ましかったんだ」

「羨ましい?」

「そう、三人が」

「三人」

「カナトくんと、シンジくんとアイちゃん」


 人に羨ましがられるような事はしていない、と思う。どちらかと言えば、ミホノちゃんの方が、少なくとも僕は羨ましい。

 いつも凛とした空気を纏って、しっかりと自分の足で立っている。僕には到底、真似の出来ない雰囲気だ。


「カナトくん達を知ったのは、四月に同じ講義になってからなんだけど」

「うん」

「いつも、大体あの席だったでしょ。なんとなく、会話が耳に入ってきたりしてね」

「……どうでもいい事ばっかりだったでしょ」

「羨ましかった。素敵な友情ってこんな感じです、みたいな」

「いやいや、そんな事は」

「チャラチャラしてそうなのに、凄く気遣いの出来るシンジくん」

「ちょっと評価が高すぎると思う」

「いつも振り回されてるのに、変に達観した感じのカナトくん」

「……全然だよ」

「アイちゃんは、もういい人オーラ出まくりで」

「ああ、それはそうかも」


 順番に僕達の事を話すミホノちゃんは、まさしく、ようやく、自然体で話してくれているような気がした。本当は何度も、そうしてくれようとしたに違いない。そのたびに、が邪魔をしてきただけで。


「だからシンジくんが、紹介したいやつがいるんだ、って声をかけてきた時に」

「うっとおしかったでしょ、ごめんね」

「あはは。本当に知らない人だったら、はあ? って言ってたかも。でも、嬉しかった」

「はあ? って言ってやってくれて良かったのに」

「嫌だよ、勿体無い。せっかくのお誘いだったんだから」

「そんなにいいもんじゃないかもよ」

「後から考えると、そうかも。カナトくんの事情がどうとかって最初に聞いた時は、失敗したかなって思ったし」


 ミホノちゃんは、最初のイメージよりも、言いたい事をざくざくと言う。嫌な感じがしないのは、表情のおかげかな、とぼんやり考える。

 彼女の表情は、誤解されそうな言葉を使う時ほど、柔らかく、豊かに変化して言葉尻の強さを薄めてくれるのだ。


「こいつ、思ったより口が悪いな、って思ってるでしょ」

「うえ、そんな事は」

「わかりやすい」

「ちょっとだけ思ってました」

「よろしい。でも、こういう感じ」

「こういう感じ?」

「まっすぐに、はいって差し出したら、ありがとって受け取ってくれそうな」

「難しい」

「簡単だよ」


 簡単だけど、なかなかそういう風にはなってくれないんだよね、やっぱり難しいのかも。そう言って口を尖らせる彼女につられて、僕の唇もへの字に曲がる。簡単だけど、難しい。二人して、腕組みをしてうーんと唸った。


「まあ、終わっちゃったのはちょっと惜しくもあるんだけど」

「いや、惜しくはないでしょ」

「悪い意味の方はそうだけど、良い意味の方」

「そんなに……いいもんじゃないよ」

「ふふ、そういう事にしとくね。とにかく、やっと普通になれるかなって」

「普通が一番、難しいと思う」

「なんだろ。ちゃんと友達になれそうっていうか」

「ちゃんと、かあ」

「言いたい事を遠慮せずに言いあえそうっていうか」

「おお、それは嬉しい」

「いじりがいが、ありそうっていうか」

「そこは考え直そうか」


 間違いなく、いじりがいがありそう、と言い直した彼女は、ロビーのソファから立ち上がった。丁寧な動作で、一歩、二歩、と前に出て、振り返る。


「あのね、もし、あの時にさ」

「どの時?」

「あー、そっか。やっぱりやめとこうかな」

「え、気になる」


 それがいいよね、と一人で納得してしまったミホノちゃんは、有無を言わせぬ満点の笑顔だった。僕は、わかった、と頷くしかない。そのまま、物凄く満足そうに、ミホノちゃんは帰っていった。


――もし、あの時にさ


 彼女が、何を言おうとしたのかは、これから先も聞けない気がした。でも、まあいいか、と思う。僕だってそうなのだから、おあいこだ。

 自分の中に確かに芽生えて、今は薄まりつつある甘酸っぱい気持ちを、本人に伝える事は無いだろう。ほとんど、見つかっていたようなものではあるようだけど。

 自動ドアの向こう。小さくなっていく背中に、ありがとう、と呟いてみる。

 聞こえているはずの無い彼女が、一瞬だけ視線をこちらに向け、小さく微笑んだ。ような気がした。

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