おまけ ジュリエットの眠れぬ夜 -Juliette in Insomnia-

「どうぞ。入って」

 一ノ瀬詠はそう言いながら右手で扉を開いた。玄関の端に寄り、後ろを向いて焦茶色のローファーを並べて脱ぐ。紺色のハイソックスに包まれた足が軽やかに廊下を踏んだ。

「お邪魔しまーす」

 少し間延びした声を上げながら、白石ほたるも玄関に立ち入った。初めて訪れるクラスメイトの家に、つい視線を巡らせてしまう。玄関には、脱いだばかりの詠のローファーの他に、男物の革靴が二足と茶色のサンダルが並んでいた。靴箱の上の一輪挿しには赤い花が一輪揺れている。

 詠の後をついて、玄関からまっすぐ進む廊下をほたるは進んだ。突き当たりの、正方形のガラスが行儀良く填まった扉を開けると、広々としたダイニングルームだった。キッチンの脇を抜けて部屋の中央のテーブルセットに向かう。詠が手で指し示すのに従って、白石は鞄を床に置いた。

 脱いだコートを簡単に畳みながら、ほたるはさりげなく室内を観察した。白と茶色を基調とした内装は上品な雰囲気で、椅子も座り心地が良い。部屋の奥の方に置かれているソファとローテーブルや、大型のテレビやオーディオセットなど、まるでCMに出てくる部屋のようだった。整いすぎていて、現実感がない。

「何か飲む?」

「あ、うん」

 詠がキッチンに入る。壁に掛かった薄いブルーのエプロンを制服の上から身につけながら、彼女は首を二十度ほど傾げた。

「コーヒーで良い?」

「……うん」

 ほたるは曖昧に頷いた。小さく息を吐く。どうにも落ち着かなく、お尻をもぞもぞと動かしてしまう。

「……何してるの?」

 聞き慣れない、ゴリゴリという音が聞こえて来たので、白石は立ち上がった。カウンタ越しにキッチンを覗き込む。

 詠の手元に、見たことがない機械があった。ハンドルを右手で回すたびに、ゴリゴリと音がする。

「豆を挽いているんだけど」

「豆? コーヒー豆?」

「小豆でコーヒーを淹れるような技術は、今のところ持ち合わせていない」

 詠は表情を変えずにそう言った。

 カウンタ越しに、少し焦げたような香りが漂ってくる。嗅ぎ慣れないが、心地よい。詠はポットの上に円錐形の器具をセットすると、そこに挽いたコーヒー豆を入れた。沸いたお湯を少し注ぎ、時間をおく。それから慎重に抽出を始めた。香りが一気に、部屋中に充満した。

「ミルクはいる?」

 白石が頷くと、詠は冷蔵庫から紙パックの牛乳を取りだし、カップに直接注いだ。そして二つのカップを持ってダイニングに戻ってくる。

「お持たせ」

「ううん。ありがと」

 二人して、両手でカップを包み込む。ほたるは息を吹きかけてから、カップに口をつけた。黒と白が混じり合った液体は、それでも苦かった。

 詠は一度キッチンに引っ込むと、白い皿にチョコレートを載せて戻ってきた。

「それで?」

「うん?」

「どういう風の吹き回し?」

 詠は十五度ほど顔を傾けた。ほたるはこれ見よがしにため息をついた。

「だってさ、居場所ないじゃん」

「そうね」

 詠は唇の端をつり上げて笑った。彼女には珍しい表情だった。いや、表情があること自体が珍しかった。普段、教室ではまず見ることがない。

「いやはや」

 ほたるは首を竦めた。

「やっぱりあれだね。女の友情は男によって壊れるね」

「大げさ」

「そうかなあ」

 つい最近、親友の眞桜子がクラスメイトと付き合いだした。端から見る限り、二人はずっと両思いで、いつになったらくっつくのかと、半ば微笑ましい気分で見守っていた。残りの半分は、少し揶揄する気持ちだった。それが、文化祭の後夜祭の最中に、ついに思いが通じたらしい。

「遼太君を取り合ったわけでもなし」

「そうだけどさぁ」

 ほたるは唇を尖らせた。くっく、と、詠は咽だけで笑っている。

「大体、白石さんにも最近まで彼氏いなかった?」

「別れたの、もう半年くらい前」

「それは失礼」

 投げ遣りにほたるが言うと、詠は芝居がかった仕草で頭を下げた。

「どうして別れたの?」

「音楽性の違い」

「深遠ね」

 詠は涼しい顔でコーヒーを飲んでいる。

 ほたるは偏屈なクラスメイトをじっくりと観察した。まず、顔が凄く小さくて目鼻立ちもはっきりしている。色素の薄い大きい目が印象的だ。長く黒い髪も、垂らしているだけだが、艶やかで綺麗だ。体型はほっそりしていて、羨ましくなるほどだ。

「一ノ瀬さんの浮いた話って聞かないんだけど」

「そうね」詠は涼しい顔で続けた。「白石さんみたいに可愛くないから」

「告白したって男子は四人知ってるけど」

「あら」

 ほたるの言葉に、詠は眼を瞬かせた。

「二人足りないわ」

「あ、そ」

 ほたるは部屋の中に改めて目を向けた。タワーマンションの上層階なのに、リビングの大きい窓は室内の灯りを反射していて、外はよく見えない。

 スマホが震える。眞桜子からのメッセージだった。今日は遼太と一緒では無いのだろうか。どうでも良い内容だったので返信する気を無くし、ほたるはそのまま画面を消した。そのまま皿に載ったチョコレートに手を伸ばす。

 がちゃりと音がした。

 振り向いて、ほたるはぽかんと口を開けた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 詠と、男性の声が耳を通り抜けていく。

「お客さん?」

「ええ。クラスメイトの、白石さん」

 名前を呼ばれてほたるは我に返った。はっと立ち上がる。腿をテーブルの天板にぶつけた。お皿の上にチョコレートが転がる。

「し、白石ほたるです! お邪魔してます!」

 すると、男性はにっこりと笑って、柔らかい声で言った。

「うん。いらっしゃい。ゆっくりしていってね」

 それから男性はリビングを出て行った。ほたるは黒いスーツの背中が消えていった、ドアを見つめて、目が離せない。

「……座ったら?」

「誰?」

「兄さん」

「お兄さん」

 鸚鵡返しに言ってから、ほたるはすとんと腰掛けた。ぶつけた腿をスカートの上からさすりながら、大きく息を吐く。

 男性の姿を思い返す。短く黒い髪に、少し垂れ気味の目。顔が小さくすらっとした体型なのは、詠と変わらない。ストライプが入った黒いスーツを着ていたが、ネクタイはしていなかった。にこやかな笑みがとても優しげだった。

「お名前は?」

「燈馬。火偏に登る馬」

「ふうん」ほたるはドアを見つめたまま呟いた。「燈馬さん」

 胸に手を当てると、強く脈打っていた。一体、身体のどこでこんな血液を必要としているのだろうか。

 ほたるは詠の方に向き直った。

「ああ、びっくりした」

「私の台詞」

「詠ちゃんが、彼氏作らない理由が解った気がする」

「呼び方」

「私のことは、お姉ちゃんって呼んでも良いよ」

 ほたるがそう言うと、詠はぱちぱちと眼を瞬かせた。

「ふうん」

「燈馬さんっておいくつ?」

「私より年上」

「干支は?」

「天秤座のO型じゃなかったかしら」

 ほたると詠は見つめ合った。どちらともなく笑顔になる。

「詠ちゃんは反対?」

「そうねえ」

 詠は椅子から音もなく立ち上がった。そのままテーブルを回り込んでほたるに近づいてくる。

「立って」

「う、うん」

 ほたるは椅子からゆっくり立ち上がった。自然と、気をつけの姿勢になる。

「回って」

「え?」

「その場で、くるりと」

「わん」

 ほたるは鳴きながら、その場で三回、くるくると回った。スカートの裾が遠心力に引かれて、ふわりと上がる。

「まあ、良いんじゃないかしら。白石さんは美人だし、健康的だし……」

「健康的?」

「ええ。燈馬は健康的な女性が好きなの」

「あ、そうなの」ほたるは首を捻った。「健康的? なんで知ってるの?」

「判るもの」

 事も無げに、詠は言った。

「とにかく、詠ちゃんとしては合格ってこと?」

「もともと、私に反対する権利なんてないけど」

「権利はなくても、立場と能力はあるでしょ?」

「そうね」

 にやにやと笑いながら詠は言った。

「でも、現時点でそんなつもりはないわ」

「ううん。現時点かぁ」

 ほたるは渋面を作った。しかし、詠は少し真面目な顔になって言った。

「今のままなら大丈夫」

「そう」

 ほたるはちらりとリビングのドアを見た。燈馬が出てくる気配はない。

「それは距離について?」

「ううん。白石さん自身について」

 ほたるは胸をなで下ろした。

 詠がもとの通りに腰掛ける。ほたるも椅子に座る。いつもより丁寧に、スカートの裾をお尻の下に敷いた。

「大事なことを訊いて良い?」

「どうぞ」

「燈馬さんにおつきあいされているお相手は?」

 無意識のうちに身体を乗り出した。詠は、少し眉を寄せて答えた。

「もう何年もいない」

「本当!?」

 つい声が高くなってしまう。周波数と振幅、両方の意味である。慌てて声を潜めて続ける。

「でも、あんなに格好良いのに……」

「そうかしら」

「何か、彼女が出来ない理由があったりしない?」

「理由?」

「……DVとか?」

 ちょっと考えてからほたるは訊いた。

「それって、つきあってから判明することじゃない?」

「そっか。そうだね」

 ほたるは腕を組んだ。

「足が凄く臭いとか」

「嗅いできたら? 二つ目の扉」

 詠は顎で扉を指しながら言った。

「社会人、だよね? サラリーマン?」

 ほたるはスーツ姿を思い返しながら訊いた。

「そうね。ニートやフリータでは無いわ」

 少し眉を寄せて、詠は答えた。

「あとは……、うーん。なんだろう……」

「少し、理想は高いかも知れない」

 詠も腕を組んで言った。

「そっか」

 ほたるは小さく頷いた。燈馬の姿を牛のように反芻する。血液を必要とした箇所が、顔の毛細血管であるということが判明した。

「でも、そのくらいの権利はあるんじゃないかなあ」

 詠は何も答えなかった。チョコレートに摘んでいる。ほたるもつられて手を伸ばした。直方体の塊は幸せなビター・スウィートだった。

「ううん、どうしよう」

 ほたるは上目遣いに詠の方を見た。

「何が?」

「大人のデートってどこに行くのかな? マックとかファミレスじゃ駄目だよね? 燈馬さんってカラオケとかゲーセンとか漫画喫茶とか行かないよね?」

「さあ。兄さんの私生活まではちょっと」

 詠は肩を竦めた。ほたるは身を乗り出した。

「ホテルの高層階のバーで、夜景を見ながら乾杯とかかな?」

「少し発想が古くないかしら?」

「そうかなぁ」

 ほたるはしゅんとした。燈馬にはそういう、少し気障な方が似合いそうな気がした。

「むしろ、今まで白石さんはそういうところでデートしてたの? ファミレスとかカラオケとか」

「うん」ほたるは二度頷いた。「だって、行こうって誘われるから……。後はウィンドウ・ショッピングとかだけど」

 ほたるは自分の体験を思い返した。バイトもしていないし、なるべくお金がかからないところに落ち着いてしまう。

「うーん、どうしよう……」

 ほたるは頭を抱えた。机にほとんど突っ伏す。

「何?」

「あのね!」

 ほたるはばっと顔を上げた。詠が小さくたじろぐ。

「その、詠ちゃんなら誤解しないでくれると思うんだけど!」

「う、うん……」

「私、今まで告白とかしたことが無いの!」

 ほたるの言葉に、詠は首を傾げた。

「だってね。彼氏ってのは、言い寄ってくる中から選べば良いでしょ。そういうものだと思ってたの。それで、オーケーだよって雰囲気出せば、告白して来るからさあ……」

「……なるほど」

 詠は一拍遅れて頷いた。

「だから、どうやって告白したら良いのか解らない」

「そう」詠は小さく笑った。「私もしたことないから、助けにはなれないけど」

「だよねえ……」ほたるは一度鼻を触った。「眞桜子たちはどっちから告白したのかなぁ……」

「あれは参考にならないと思うけど」

「……なんで?」

 ほたるは首を傾げた。詠は一度溜息をついてから言った。

「だって、つきあう前から、見るからに仲良かったじゃない。告白自体は通過儀礼みたいなものだったんじゃないかしら」

「そっか。そうだね」

 ほたるは大きく頷いた。たしかに付き合いだしたからといって、二人の距離が縮まったようには見えなかった。むしろ、文化祭前の方が、微妙な緊張感があった分、何かが起こりそうな気配があった。今はもう既に熟年夫婦のそれに近いような印象だ。

「そうだよね。告白の前に、まずは距離を縮めなくっちゃ……」

 ほたるは右手を小さく握った。

「どうやって?」

「そりゃ、一緒に出かけたりして……」言いながら、ほたるは俯いた。「どうやって一緒に出かけたら良いの?」

「私に訊かれても……」

 詠が小さく苦笑する。

「あのね」ほたるは詠の目を見た。「詠ちゃんなら誤解しないと信じてるんだけど」

「はいはい」

「私、男子をデートに誘ったこともないの……」

「へえ」

「どうやって誘ったら良いかなぁ」

 しょぼんとしながらほたるが言うと、詠は無表情のまま聞いた。

「今までの彼氏と出かけるときはどうしてたの?」

「だって、向こうから毎週のように誘ってくるもん。行きたかったらイエスと言い、そんな気分じゃなかったらノーと答える」

「誘いが無いときは?」

「友達誘って出かけたり。家で本読んだりDVD見たり。そんなにいっつも彼氏と一緒じゃなくても良いかなって思うし」

「あ、そう……」

 詠は意外そうに頷いた。

「友達、例えば藤崎さんとかと遊ぶときには、誘っていたんでしょう? その感じで良いんじゃない?」

「だって、眞桜子誘う時なんて、『日曜十時、渋谷』とかだよ!」

「いきなり?」

「うん」

「それで来てくれるの?」

「うん。眞桜子なら」

「素敵な親友ね」

 詠は顔の右半分だけで少し笑った。微妙な表情だった。半・半笑いくらいだろうか。

「どうしたら良いんだろう……」

「まず、課題点を整理したら?」

 詠が少し姿勢を正した。つられて、ほたるも背筋を伸ばす。

「課題点かあ。そうだね」

 ほたるは右手を前に出した。

「まず、目の前のハードルに集中しよう。とりあえず、初デートを成功させたい」

「ええ」

 詠がやけに楽しそうに頷いた。

「メンバーは私と燈馬さん。土曜か日曜。あ、お兄さんって土日休み?」

「ええ。完全週休二日制。祝日も休みで社会保険完備。夏休みは五日間」

「後は、どこに行くのか、と、どうやって誘うか」

「そうね」

 二本の指が立ったほたるの右手を見ながら、詠は頷いた。

「うーん、大人のデートってどこに行くんだろう……?」

「さあ。兄さんのデートコースまでは聞いたことがないわね」

「お兄さんの趣味は? 観劇とか好きじゃ無い?」

 ほたるが訊くと、詠は眉をひそめた。

「残念ながら。劇とか映画とかはそんなに興味ないと思う」

「そっかあ」

 ほたるは重い息を吐いた。

「何だろう。遊園地とか動物園とか?」

 詠が首を傾げる。あまりピンと来ていないようだ。たしかに、あんまり遊園地ではしゃぐような感じにも見えない。

「休日は何してるの?」

「そうねえ……。家事をして。ときどきどこかに出かけていくけど」

「どこか?」

「……行き先は知らない」

 無表情で、詠は言った。視線が一瞬、室内を彷徨った。

「そこを知りたいんだけどなぁ」

 ほたるはとりあえずぼやいた。

「何か好きな物とかないの?」

「コーヒーは好きみたい」

「……そっか」ほたるは首を傾げた。「コーヒー屋さん巡りとかすれば良いのかな?」

「それ、白石さんは楽しいの?」

 ほたるは一瞬言葉に詰まった。

「……い、一緒にいられるだけで嬉しいよ?」

「それは燈馬が気にしそうね」詠はぼんやりと言った。「別の場所にしなさい」

 断定するような詠の言葉に、ほたるは考え込んだ。

 自分が何をしたいのか。演劇や映画は大好きだが、隣に誰かがいる必要は特にない。美味しい物は好きだが、相手が社会人だとなると奢ってもらうのが目的のようで気が引ける。

「といってもさ、共通項が無いんだよね。それこそ詠ちゃんくらいしか」

 ほたるはじっと詠を見つめた。

「三人で出かけるってのはどうかな?」

「デートじゃなくなるわね」

「この際、それは次回以降に!」

 しかし詠は首を横に振った。

「難しいと思う。そもそも、それって私たちが遊びに行くのに、兄さんについてきて貰うって形になるってことでしょ?」

「うん。そのつもりだけど」

「高校生二人で保護者が必要な場所ってどこ?」

「え? そうだなぁ……。なんだろう。遠出してお泊まりとか?」

「どこに行くつもりよ」

 ほたるは首を傾げて言った。

「……温泉?」

「私と、あなたが? 温泉に行きたいから? 兄さんについてこいと?」

「そうなるかなあ」

「登山とか? 山荘とか楽しそうじゃない?」

「山は嫌」詠は渋面を作った。「もう二度と行かないと心に決めてるの」

「ふうん」

 思わぬ苛烈な反応に、ほたるは首を傾げた。

「どちらにせよ、勝手に行ってこいと言われるのが落ちよ」

「あ、意外と放任主義だね」

「白石さんのおうちは駄目なの?」

「ううん。ちゃんと行き先が判ってれば大丈夫」

「同じよ」

「そっか」

 こんこん、とドアがノックされる。開いた扉から顔を覗かせたのは、燈馬だった。

「失礼。ちょっと良いかな」

「は、はい!」

 ほたるは上擦った声で返事をした。

「あ、ごめん。詠の方」

 燈馬が手招きするのに従って、詠が歩いて行く。二人で廊下に出てしまう。扉がぱたんと閉められた。

 リビングの扉にノックをするなんて律儀な人だな、とほたるは感心した。白石家では私室の扉でも、しばしばノックは省略される。

「白石さん」

 二人がすぐに部屋に戻ってくる。燈馬はなんだか微妙な表情をしていた。

「今日、泊まっていくでしょ?」

「……え?」

「ほら、もう遅いから」

 その言葉に、ほたるは壁に掛かった時計を見上げた。時刻は十時を回っていた。

「良いの?」

 小声で訊くと、詠は右目だけを器用に閉じた。

「もちろん」

「……じゃあ、お世話になります」

「ご家族の方は大丈夫?」

「はい。クラスメイトですし、連絡さえすれば」

「そう」燈馬はそう言ってにっこりと笑った。「詠の友達が泊まっていくなんて珍しいから。仲良くしてあげて」

 幼児のように言われた詠が、一瞬渋面を作った。

「いえ、私の方こそ詠さんにはお世話になっていて……」

 ほたるはしどろもどろになりながら頭を下げて言った。

「そう?」燈馬はくすりと笑った。「まあ、何も無い家だけど、寛いでいってね」

 燈馬はそう言って、またリビングを出て行った。

「ふう」

 ほたるは大きく息を吐いた。

「大丈夫?」

「うん」

 にっこりと笑ってほたるは言った。

「びっくりした」

「そうね」詠は小さく笑った。「兄さんもびっくりしてた。私の友達が泊まるなんて、初めてじゃないかしら」

「そうなの?」

「ええ」詠は頷いた。「凄い事よ」

 ほたるは鞄からスマホを取り出した。家に電話をかける。すぐに母親が出たので、外泊することを告げる。友達の家、と言ったら二つ返事で了承された。今日、クラスで集まっていることは知っているし、眞桜子のところだと思ったのだろう。

 通話を切る。すると、鼓動がまた強まってきた。一つたりとも嘘をついてはいないのに、いけないことをしている気分になってくる。

 ほたるは、右手をぎゅっと握りしめた。




     *




「はい」

「えーと……」

 詠が差し出してくる薄い布きれを受け取りながら、ほたるは首を傾げた。

「これは?」

「パジャマ」

 ほたるは両手で白い布を広げた。光沢のある生地は薄く滑らかで、透けていないのが不思議なほどだ。ふんわりと広がった膝丈の裾には花柄のレースがあしらわれていて、とても可愛らしい印象を受ける。胸元には大きめのブルーのリボンがついていた。

「パジャマ?」

「ええ」

「私の中のパジャマの概念が覆ったんだけど」

 眞桜子の家に急に泊まることになったときにも、同じように寝間着は借りる。しかし、眞桜子が貸してくれるのはスウェットとか大きめのTシャツとかなので、自宅ですごしているときとあまり着心地は変わらない。

「より正確にはベビードールと言うのかも」

「名前くらいは聞いたことがあったけどね」

 白い布をじっと睨み付けながらほたるは訊いた。

「詠ちゃんは、いっつもこんなの着て寝てるの?」

「概ね」

「……ふうん」

 詠が部屋を出て行く。

 ほたるは、しばらくベビードールを眺めていたが、意を決して身体に巻いていたタオルを外す。下着を身につけ、その上から白い布を被る。ほたると詠は身長がほとんど変わらないし、サイズは問題ないようだった。膝がぎりぎり隠れないくらいだ。鏡を見て、一度くるりと回転し、リボンの角度をちょっと直す。

 脱衣所の扉を慎重に開け、廊下をこそこそ歩き、さっき一瞬入っただけの詠の部屋に滑り込む。部屋の主は、畳んだバスタオルを持ち上げたところだった。

「ドライヤ、そこだから」

「ありがと」

「じゃあ、私もお風呂行ってくる」

「うん」

 とりあえず、髪を乾かすことにした。バスタオルでよく水気を取ってから、床に置いてあったドライヤのスイッチを入れる。いつもと違うシャンプーなので、まるで自分のものではないようだ。

 悪いと思いながらも、髪を乾かしながら部屋の中を観察する。

 リビングと同じく、物が少ない。家具はあっても物が外に出ていないので、生活感がない。ほたるは今日になって突然来ることになったので、掃除をする暇も無かったはずだ。几帳面な眞桜子だって、ここまで綺麗にはしていない。

 ほたるは詠のことをほとんど知らなかった。教室で話をすることはほとんど無い。文化祭のときにちょっと絡んだものの、個人的な部分については謎のままだ。クラスに、特に仲の良い友達がいるようにも思えないし、部活に入っている様子もない。かといって、孤立しているようにも見えなかった。ミステリアスな佇まいの所為か、一部の男子からコアな人気があるとは聞いている。

「うーん」

 詠のキャラが掴めず、ほたるは声を出して唸った。無口な女子や自称不思議ちゃんはいくらでもいるが、それとも少し違う気がする。かといって正統派お嬢様からはほど遠い言動だ。

 右手でドライヤの熱風を髪に当てながら、ほたるは着ているパジャマの胸元を左手で抓んだ。生地がすごく柔らかく滑らかだ。それこそ、文化祭で着たウェディングドレスよりも、上等かもしれない。

 文化祭で演じたジュリエットは我ながら会心の出来だった。台本が決まる前は、本当は『シラノ・ド・ベルジュラック』のヒロイン、才媛ロクサーヌを演りたかったが、今ではジュリエットも悪くないと思っている。あの、幼いが故のパワフルな推進力は少し羨ましい。あれだけ自分の心に正直に、何かに必死になれるなんて、本当に凄い。少しは不安になったりしなかったのだろうか。

 ぼうっととりとめのない事を考えながら髪を乾かし終わる。ドライヤのスイッチを切り、どこに戻せば良いのか持て余す。意味も無く、カールしている電源コードを指に巻き付けたりする。

「お待たせ」

 気を取り直して日課のストレッチをしていると、すぐに詠が戻ってきた。入浴は長くない方らしい。彼女はペールピンクのネグリジェを着ていた。もふもふした生地で、とても暖かそうだった。

「……そういうのもあるんじゃない」

 長い裾から出た、詠の足首を見ながらほたるは唇を尖らせた。

「もちろん」

「……もう」

 ほたるはその顔のまま、ドライヤを差し出した。詠は素直に受け取って、床にぺたんと座り、髪を乾かし始めた。それを横目に、ほたるもストレッチを再開する。

「ねえ」

「うん?」

「詠ちゃんの趣味って何?」

「趣味?」

 詠は髪を乾かす手を一瞬止めて、首を傾げた。

「そうねえ、飲み物かしら」

「飲み物?」

 股関節を伸ばしながら、ほたるは鸚鵡返しに訊き返した。

「コーヒーとか紅茶とか」

「へえ。そういえば、豆挽いていたもんね」

「ええ」詠は小さく首を振った。「白石さんは、あまりコーヒーとか飲まないでしょう?」

「うん。残念ながら紅茶もあんまり」

「そう」

「でも、ちょっと楽しそう」

 ほたるがそう言うと、詠は横目でほたるの方を見た。

「白石さんは演劇部でしょう?」

「うん」

「どうして、演劇に興味を持ったの?」

「うーん。そうだなあ」

 ほたるは左足の腿を伸ばしながら考えた。

「元々好きだったんだよね。映画とかドラマとか。それで真似するようになって、その流れでなんとなく」

「ふうん」

「なんかね。役者やりたいって人だと、自分じゃ無い誰かになれるからっていうのが多いんだ。お姫様とかね。でも私の場合、ちょっと違ってね、良い女になりたいの」

「良い女?」

「うん。お姫様とかそういう、肩書きじゃ無くって、精神性って言うかさ。格好いいとか、芯が強いというか、そんな感じ」

 ほたるは身体を起こして続けた。

「だからさ、良いヒロインを演じるのが好きなの。王子様が迎えに来るのを待っているだけの女の子じゃ無くて、自分からぐいぐい動いていくような」

「へえ」詠が目を瞬かせた。「ちょっと意外」

「だから、良いヒロインを演じたいの。その場面場面の気持ちとか考え方をトレースすればさ、ちょっと成長出来るかもしれないでしょ」

「なるほど」

 詠は少し口元を緩めた。

 少し語りすぎたかな、とほたるは詠の方を伺った。しかし、彼女は笑みを浮かべたまま言った。

「貴女、面白いわね」

「そうかな」

「ええ。とても」

 上体を捻り腰を伸ばしながらほたるは首を傾げた。

「詠ちゃんは無いの? こういう自分になりたいって」

「そうね」詠は目を閉じた。「おばあちゃんになりたいわ。思いっきり長生きしたい」

「……なんで?」

「世界最高齢に挑戦するのよ」

「そう」ほたるは腰を反対に捻った。「詠ちゃんなら出来るよ、きっと。人の生き血とか啜ってそうだもん」

 ストレッチを一通りし終わって、ほたるは立ち上がった。大きく伸びをする。シーリングライトがお洒落だった。

「ねえ」

 詠がドライヤのスイッチを切る。プラグを引き抜き、電源コードをくるくると本体に巻き付け始めた。

「白石さんは前に彼氏がいたでしょう?」

「うん」

「どうして付き合おうと思ったの?」

 詠が首を傾げて訊いてくる。ほたるは鏡に映したように、同じ角度で首を傾げた。

「そうだねえ」ほたるは一度目を閉じた。「断る理由が無かったからかな」

 詠の首の傾きが増した。ほたるは思い返しながら細くした。

「まあまあ格好良かったし、話がつまらないわけでもなかったし。本気で私のこと好きっぽかったし」

「どんな人だったの?」

「中学校のときの同級生だよ。付き合いだしたのは高校入ってからだけど」

「へえ」

「元々仲は良かったんだけどね。受験終わってからみんなで遊びに行ったりして。それからちょくちょくメッセージとか来るようになって」

「デートに誘われて?」

「うん」

 ほたるは素直に頷いた。

「それで、告白されたわけね」

「そうだね。何回か一緒に出かけてからだけど」

「好きだったの?」

 詠から、ほたるは視線を外した。

「……そのつもりだったんだけど」

「つもり?」

「よく解らなくなった。さっき」

「……ふうん」

 目を瞬かせて詠は頷いた。

「白石さんって可愛いわね」

「ありがとう?」

「なぜ語尾を上げるの?」

「真意を測りかねて」

「失礼ね。言葉通りの意味」

「そ」

 よく解らなかったが、ほたるは一応頷いた。

「詠ちゃんはないの? 誰かを好きになったこと」

「特には」

「クラスで良いなって思う男子とかいないの?」

「いない」

「うーん」

 ほたるは腕を組んだ。取りつく島もなかった。

「迎えに来てくれる王子様なんて、実在しないよ?」

「知ってる。それに貴女に言われたくない」

「じゃあ、どんな人がタイプ?」

「タイプ?」

「何て言うか……。スポーツマン系が良いとか、あるでしょ?」

「そうねえ……」詠は少し考えた。「うるさい人はあんまり好きじゃないかも」

「ほうほう」ほたるは二度頷いた。「クール系かな」

「でも、無口な人はつまらない」

「難しいなあ……」

「白石さんは?」

「タイプ? そうだなあ。やっぱ一緒にいて楽しい人が良いよね」

「一目惚れしてなかった? さっき」

「した」

 ほたるはぺろりと舌を出した。詠が目を細めて息を吐いた。

「詠ちゃんって面白いね」

「そうかしら」

「恋バナが全然恋バナにならない」

「恋なんてしたことないもの」

「一度も?」

「一度も」

「ロミジュリみたいのに、憧れたりしない?」

「悲劇じゃない。死にたくないわ」

「そうじゃなくて……」ほたるは頬を膨らませた。「もう! 解って言ってるでしょ」

「もちろん」

「こう、ロマンチックな感じをさ、体験したくなるよね?」

「ならない」詠は小さく首を振った。「平凡なまま過ごしていたい」

 そう言って、詠は大きく息を吐いた。

「燈馬のどこがそんなに良かったの?」

「うーん」ほたるは首を傾げた。「声かな」

「……へえ」

「話し方も含めてね。すごく優しそうだし」

「そうでも無いわよ」

「いや」ほたるは確信を持って首を横に振った。「優しくなかったら、詠ちゃんはこんな性格じゃなかったと思う」

「何だか馬鹿にされている気がするのだけれど」

「そんなこと無いよ」ほたるは笑顔で手を横に振った。「まったく。これっぽっちも。天地神明に誓って」

「神様なんていないわ」

「私はいると思うなあ」

 ほたるは唇の端をつり上げた。

「今日、素敵な出逢いがあったし」

「明日もそう思えると良いわね」




     *




 ほたるはなるべく大人しく、寝返りを打った。

 慣れないベットと枕はどうにも落ち着かない。感触もそうだが、何より匂いが違う。しかも、隣に馴れないクラスメイトまで寝ている。まったく、寝付けそうに無かった。

 ほたるは元々寝付きが良い方では無い。頭の中であれこれ考え事をしてしまって、寝られなくなってしまうタイプだ。

 乳白色の天井を見つめながら、そっと溜息を吐く。何も見えなくなってしまうのが嫌で、目を閉じられない。充電中の二つのスマホの小さなLEDが、室内を淡く照らしている。隣からは規則正しい寝息が聞こえてくる。

 横目で詠の寝顔を伺う。陶器の人形のようだった。呼吸しているのか心配になるほどに、微動だにしない。

 一度、目を瞑る。数時間前に見た、燈馬の顔を思い出す。優しそうで、詠ほどの静謐さはなかった。まだ、人間に近いように思える。

 演劇で言えば誰だろう。シラノのような自信家のような感じはしないし、ロミオのようななよなよした感じでも無い。

 そういえば、シェークスピア作品の主人公は、大抵あまり格好良くない。どちらかというと脇役の方が二枚目である。一方、女性陣はオフィーリアやコーディリアのような極端に貞淑な娘もいれば、マクベス夫人のような悪女もいる。個人的にはテンペストのミランダがお気に入りだ。

 ほたるはするすると掛け布団の下から抜け出した。それから足音を忍ばせてドアに向かう。薄くドアを開いて廊下に出る。リビングの扉の窓から、光が差し込んでいる。何だか悪いことをしているような気分になった。

 リビングに続くドアを開ける。室内を覗き込んだが、灯りの灯ったリビングには誰もいなかった。

 キッチンに入る。水を飲みたかったが、グラスが出ていない。食器棚を開ければ入っているとは思うのだが、家主の許可無く漁るのは気が引けた。

 背後で、突然ガラッと音がした。

 ほたるは振り向いた。

 リビングの奧。カーテンが持ち上がっている。それがのそのそと蠢いていた。

「ひゃっ!」

 思わず変な声が出た。

「ああ、ごめん……」

 グレーのカーテンの下から顔を出したのは燈馬だった。

「え? ああ……」

 ほたるはシンクの台に手をついて、大きく息を吐いた。

「びっくりしました」

「驚かせちゃって、ごめんね」

 燈馬はそう言いながら背を向けて、窓を閉め、カーテンを元の通りに戻した。ベランダに出ていたのだ、とほたるは理解した。

 彼は室内着に着替えていた。片手に煙草の箱とライタ、そして灰皿を持っていた。ほたるは少しどきりとした。

「どうしたの?」

「あ、その……」

 ほたるは意味も無く右手を振った。バレーボールの練習をしているわけではない。

「中々寝付けなくて……。それで、咽が渇いて……」

 しどろもどろになりながらほたるはそう言った。

「そう」

 燈馬は小さく首を傾げた。詠がその仕草をするのを、今日だけで何回も見ていた。角度がそっくりで、少し面白い。

「詠は?」

「あ、もう寝ちゃってて」

 詠の、不自然なまでに規則正しい寝息を思い出しながらほたるは答えた。

「そっか」

 燈馬が手に持っていた物をテーブルに置いた。

「何か入れるよ。座って待ってて」

 彼がキッチンに入ってくる前に、ほたるは小さく息を吸った。

「ありがとうございます」

 入れ替わるようにキッチンから出る。すれ違った瞬間、煙草の匂いが鼻を掠めた。白石家には喫煙者はいない。

 先ほど、詠と話していたときの椅子に腰かける。

「ホットミルクで良い?」

「あ、はい!」

 ほたるはなるべく明るく返事をした。正直に言って、ホットミルクを飲むなんて、いつ以来か判らない。

 燈馬が冷蔵庫から牛乳を取りだして、鍋に注いだのを見て、ほたるは呆れた。てっきり電子レンジで温めるのかと思っていた。コーヒーを豆から挽いて淹れるような家なのだから、ミルクパンくらいあってもおかしくは無いのかもしれない。きっとインスタントコーヒーやティーバッグなど、この家には常備されていないのだろう。

「白石さん、と呼んでも良い?」

「はい。好きに呼んで下さい。名前の方でも、呼び捨てでも」

 少しどきどきしながらほたるはそう答えた。燈馬は少し微笑んだが、何も言わなかった。

 甘ったるい匂いが漂ってくる。それを意識しながら、ほたるは燈馬がテーブルに置いた煙草を見た。オレンジのパッケージは少し潰れていた。金属製の小さいライターと、ガラスの灰皿がその脇に置かれている。思わず伸びそうになる手を、慌てて引っ込める。

「どうぞ」

 燈馬がカップを二つ持ってくる。詠にもこうして飲み物を出して貰ったな、とほたるは思い出した。

「砂糖はいる?」

「いえ。大丈夫です」

 ほたるは小さく首を横に振った。燈馬が正面に腰掛ける。ほたるは視線をテーブルの天板に落とした。急に、今の格好が恥ずかしくなる。

 乳白色の小さいカップを両手で包み込む。ほんのりと温かかった。

「白石さんは、詠のクラスメイトなんだよね?」

「はい」ほたるは小さく頷いた。「仲良くさせていただいています」

「うん。ありがとう」

 燈馬はちょっと苦笑した。

「でも、そんな畏まらなくても構わないから」

「あ、はい……」

 ほたるは曖昧に頷いた。それからカップに口をつける。何の変哲もない、ホットミルクだった。白い膜が唇に貼り付かないように注意しながら液体を啜る。

 何か訊こうと思っても、何も切り出せない。共通項は詠のことしかないが、肝心の詠のことをよく知らない。

「たしか、文化祭で主役をやってたよね? ジュリエット」

「はい!」ほたるは明るく返事をした。「もしかして、見てくれたんですか?」

「ああ、いや。後で写真だけ」

「そうですか……」

「でも、すごく綺麗だった。ブライダル衣装を借りたんだって?」

「はい」ほたるは必死に言った。「詠ちゃんも一緒に選んでくれて。センスが良いので助かりました」

 二日間に渡って着続けた衣装は、結局、かなり汚れてしまった。お祭りの興奮が冷めた後は、弁償しなくてはいけないかと青くなったものだ。しかし、実はすでに何回かレンタルされたもので、もともと使うのはあと一回だけ、という予定だったらしい。返しに行ったとき、ホテルのお姉さんが、笑いながら教えてくれた。

「まさか、詠ちゃんが普段からこんな服を着ているとは思ってなかったんですけど」

 自分が着ているベビードールの肩の辺りを摘んだ。

「うん。詠は、なんかそういうの好きみたい」

 燈馬はそれから少し首を傾げ、軽く言った。

「でも、白石さんにも似合うね」

「あ、ありがとうございます……」

 ごにょごにょとほたるは言った。テーブルの天板から視線が上がらない。自分から服装の話を振ったのは失敗だったかもしれない。

 ほたるは視線を上げないまま、ミルクを一口啜った。少し冷め始めていた。甘ったるさが少し舌につく。それを唾と一緒に飲み込んだ。一度、息を吐く。

「あの、燈馬さん」

「うん?」

 ほたるは燈馬をじっと見つめた。呼び方を、特に気にした様子は無かった。

「休みの日とかは何をしてるんですか?」

「休み? そうだなぁ」

 燈馬はちょっと首を傾げた。

「別に大したことはしてないよ。掃除したり」

「出かけたりしないんですか?」

「そうだね」燈馬は首を傾げた。「買い物に行くくらいだけど」

 ほたるは目を閉じた。詠と言い、燈馬と言い、まるで生活感というものが感じられない。幽霊か、物の怪の類のようだった。

「白石さんはどうしてるの?」

「え?」

「休みの日」

 ほたるは燈馬の顔を見た。優しい目をしていた。

「普通です」

「普通?」

「友達と買い物行ったり、駄弁ったり」

「そうなんだ」

 燈馬は小さく笑った。

「詠はあんまり友達とそういうことをしないから。どういうのが普通か判らなくて」

「そうですね」

 ほたるは微笑んだ。

「詠ちゃんは不思議です。普通、友達がいないって、悪いことみたいなのに。詠ちゃんはなんだか、それが自然で。何か、確固としたものを持っているみたい」

「君もじゃない?」

「……え?」

「演劇、好きなんでしょ?」

 思いがけない言葉に、ほたるは小さく息を呑んだ。

「二年生なのに、文化祭で優勝したって聞いた。君が主役で、写真も見せて貰った。詠は普段、学校の事なんてまったく話さないのに」

「……へえ」

 ほたるはそれだけを何とか言葉にした。

 あの衣装を選んだときに、詠はかなり積極的に協力してくれた。彼女はあまり文化祭に興味がないのではないかと思っていたので、少し意外だったのを覚えている。それから、眞桜子にドレスを着せたときも、選ぶのを手伝ってくれた。そのときのことが無かったら、今日こうして一ノ瀬家にお邪魔していなかったと思う。

「あの」

 胸に両手を当てて、ほたるは一度大きく息を吐いた。

「うん?」

「突然こんなことを言うと、変なヤツだと思うと思うんですけど」

 燈馬がまた首を傾げる。ほたるはその瞳を真っ直ぐに見た。

「私、貴方に惚れました」

「……え?」

 燈馬が目を瞬かせる。きょとんとした顔が、少しチャーミングだった。

「また、遊びに来て良いですか?」

「もちろん」

 しかし、燈馬はすぐに穏やかな笑みを取り戻した。少し残念なようで、でもそうでなくては、という気もしないでもない。

「いつでも、歓迎するよ」

「ありがとうございます」

 ほたるは両手を胸に当てたまま、芝居がかった仕草で深く礼をした。

「こちらこそ」

 乱れの無い声で燈馬が返してくる。その憎らしさが堪らない。自分がこんな趣味をしていたとは知らなかった。

「今までに何回くらい、女性から告白されました?」

「今までに君が告白した回数くらいかな」

「じゃあ、これ以上増えませんね」

 ほたるはつい、と視線を逸らしながらそう言った。呼吸をするのが難しい。心臓が強く脈打っていた。

 意識してゆっくりと、椅子から立ち上がる。すり足でテーブルを回り込み、燈馬のすぐ近くに立った。燈馬がほたるの方を向く。視線が正面からぶつかった。

 距離が近い。ほたるはパーソナルスペースが狭い方では無い。男性と四十センチ以内に近づくなんて事は、親や兄弟であってもまずありえない。

 右手を伸ばす。

 しかし。

 指先が彼の頬に届く前に、

 彼の手に遮られた。

 その感触は、

 冷たかった。

 その手を、

 包み込むように、

 掴む。

 彼の、

 色素の薄い瞳を見つめたまま、

 視線を逸らすことなく、

 ゆっくりと顔を近づけていく。

 距離が縮まる。

 目は逸らさない。

 息を止めたまま。

 急に、

 手を引かれる。

 思いがけない強さで。

 バランスを崩す。

 思わず目を瞑る。

 次の瞬間、

 柔らかく受け止められた。

 ほたるは息を吐いた。それから目を開く。いつの間にか立ち上がった燈馬に、抱き止められていた。距離はすでに無くなっていた。思ったより厚い胸板からは、煙草の匂いがした。

「白石さん」

 燈馬が囁く。耳元に寄せられた唇を認識して、ほたるはぞくりとした。

 燈馬がほたるの肩を掴む。その手に従って、体を離した。

 燈馬の顔と十センチの距離で向かい合う。もう一度、見つめ合う。彼の瞳の中に、自分が映っているのが判った。

 彼の唇が開かれる。

「おやすみ」

 燈馬はそう言って、ほたるの額に、軽く口づけた。



     *



「どうだった?」

 ほたるがベットの端に潜り込むと、詠が話しかけてきた。目を向けると、彼女は目を瞑ったままだった。

「どうもこうも」

 ほたるは掛け布団を肩まで引き上げながら答えた。

「軽くあしらわれた」

「……あなた、何を言ったの?」

「え? ううん……」

 ほたるは口ごもった。急に頬が熱くなる。

「秘密」

「そう」

 詠は気にした風も無く言った。

「ねえ」

「うん?」

「また遊びに来て良い?」

「もちろん」

「ありがと」

 ほたるは小声で礼を言った。目を瞑ったままの詠が、小さく微笑んだように見えた。

「もういっこ、お願いがあるんだけど」

「何?」

「結婚届の証人になってくれる?」

 詠がついに目を開いた。ほたるはほくそ笑んだ。

 いつもより低い声で、詠は答えた。

「……届出人の欄が本人の直筆なら、書いても良いわよ」






     了

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ロクサーヌの簪 -The only neat thing to be jilted- 葱羊歯維甫 @negiposo

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