第5話 翼を持たないロミオと簪を挿したジュリエット -Unfeathered Romeo and feathered Roxanne-

     ―――

     さあ、受け取れ、この偽りを、真実に変えるのは君だ。

     俺は当てもなく、恋だ嘆きだと書き散らかしたが、

     彷徨う鳥の留まるのを、君は見ることが出来る人だ。

     さあ、取りたまえ、―――実がないだけ雄弁だと

     君にもわかる時がくる。―――さあ、取りたまえ!




 こんなことになるとは到底予想していなかった。

 教室の中はそわそわしている。如蘭祭第一日目。午前十時になる、二十分前。初回公演を控えて、24Rの面々は落ち着かない様子だった。

「どう?」

 眞桜子は廊下から戻ってきたクラスメイトを捕まえて訊いた。彼女は中庭でチラシを配る係だ。持っていった分が無くなったので、追加を取りに来たと言う。今年も如蘭祭は盛況のようだ。

 邪魔な光が入らないように、教室の窓という窓には目張りがしてある。教室の中にいると、外の様子がほとんど判らない。声から判断するに、まったく並んでいないということはなさそうだった。

「ひどいことになってる」

「どのくらい並んでる?」

「さっき、ついに一階まで辿り着いた」

「……うそでしょ?」

 彼女は無言で眞桜子の頬をつねった。涙が出そうなくらい、痛かった。

 24Rの教室は校舎の三階の中程に位置していて、階段まで教室を二つ挟んでいる。一階まで並んでいると言われても、どのくらいの人数なのか見当もつかなかった。

 第一回目の公演は十時開始。如蘭祭の開始時刻が九時だから、かなり遅めの開演となる。これも眞桜子の出した案だった。例年、開場直後は客がまだあまり多くはいないため、一回目の公演は空席が多くなる。それを見越して開演を遅らせたのだ。開場からやや遅れてやってきた客は、劇の途中で入るよりはまだ始まっていないところに来るのではないかと読んだのだ。

 しかしその策は裏目に出たようだった。全クラスでもっとも遅く始まる第一回公演を待ち望む行列は、教室の前から廊下を経て階段にまで達していた。如蘭祭は高校の文化祭としてはかなりの来場者数を誇っている。当然、行列が出来ることは想定しているし、誘導する係も準備していた。どんな風に並ばせるか、実行委員会から指示も出ている。

 しかし行列の長さは予想を遙かに上回っていた。行列が階段に行くところまで想定していた。委員会からの指示も、階段まで辿り着いたら下の階に向けて並ばせろ、というだけだ。一階まで行ってしまったら、その先どちらに向けたら良いのか、判断がつかない。

「チラシ中止!」

「は?」

 ロッカーからチラシを取り出している女子の腕を眞桜子は引っ張った。それから矢継ぎ早に指示を出す。

「中庭のチラシ部隊のうち半分を行列整理に回して! 私もこっち片付けたら行くからそれまで混乱が無いように。長すぎるなら前から順に三列に変えて。ただ、通行の邪魔にならないように。他のクラスの入り口は塞がないように注意して!」

「う、うん。解った!」

「遼太!」

 監督の姿を探す。彼はすぐ後ろにいた。

「おう!」

「予定より早いけど、客席にお客さん入れる。受け入れ準備して!」

「それはもう出来てるけど。後はキャストが引っ込めば」

 教室の入り口を見遣る。受付の机にはパンフレットと団扇が積まれている。係ももうスタンバイが済んでいる。遼太の指示に従って、キャストと音響、照明が配置につく。

「開始時刻早める?」

「今日の分は無理」眞桜子は首を横に振った。「繰り上げたって、公演回数はもう増やせない。チラシやポスターに書かれた情報から変えると余計に混乱しちゃう。だけど明日の分ならなんとか調整して一回増やせるかも。検討してみる」

「頼む!」

「入場が済んだら一回目に入りきれなかったお客さんの列にパンフ配らせて。後は……」

 眞桜子は少し考えた。

「一応、実行委員会に行列の行き先を確認してくる。つまらないことで減点されたら堪らないし」

「頼む」

 遼太が頷く。それを確認してから小走りに教室を飛び出した。廊下に出て、長く続く行列を見る。その紺色の群れに、眞桜子は感謝した。

 並んでいた客は、制服姿の女子中学生がかなりの割合を占めていた。親子連れの姿も多い。文化祭が始まったばかりのこの時間に、こんなにも長い行列を作って待っている。明らかに、この劇を目当てに如蘭祭にやってきた客だった。

 しかし感激している暇はなかった。実行委員会が詰めている部屋に駆け込む。事情を説明し、行列の向きについて指示を仰ぐ。とって返して行列整理に手を貸し、落ち着いたところで翌日のタイムテーブルを検討し直す。時間を詰めればもう一回上演できるが、無計画に増やすわけにはいかない。キャストたちの昼食の時間も取らなくてはならないのだ。

 そうこうしているうちにとっくに劇は始まっていて、もう十一時が近づいていた。教室の中の音は廊下まではあまり漏れてこない。

 眞桜子は教室の前で待った。列を整理する係のクラスメイトも、固唾を呑んで扉を見ている。

 やがて、教室の中から大歓声と割れんばかりの拍手が聞こえてきた。いつまでも、いつまでも鳴り止まない。隣のクラスの生徒たちが、何事か、と訝しげな顔を向けてくる。

 扉が開く。出てくる少女たちの顔は一様に輝いていた。大きな笑顔を浮かべている子もいたが、ぐずぐずと泣いている子もたくさんいた。思わずつられそうになるが、なんとか踏みとどまる。次の観客を中に入れなくてはいけないのだ。

 そこからは怒濤のような二日間だった。完璧に自分のミスだった。予想はことごとく覆され、そのフォローに走り回る羽目になった。嬉しい誤算と言えば聞こえは良い。けれど票に繋がらなくては意味がないのだ。

 客の整理とチラシ配りに追われた。行列整理用のロープが足りなくなり調達しようとしたが、近くに売っていない。仕方なく駅ビルの電器屋で長いLANケーブルを購入して代用した。切り売りのスピーカーケーブルよりは安かったのだ。その合間に二日目のタイムテーブルを見直し確定させた。入れ替えの僅かな時間で遼太に確認を取り、上演時刻が記載されたポスターや看板、チラシに修正をかけて回る。スマホからブログにも最新情報を掲載する。見終わった客のアンケートから特に良かったものを記事に載せた。長い長い行列も顔が映らないように動画に撮ってアップする。

 途中でキャストのための昼食や飲み物を買い出しにも行った。二日目の昼頃には用意していたパンフレットを配り終わってしまい、原本を抱えて近くの印刷屋まで走っていった。祝日でも営業してくれていたのは幸いだった。これがコンビニのコピー機だったら間に合わなかったかも知れない。

 疲れはまったく感じなかった。そんな余裕が無かっただけかもしれない。目の前に次々と現れる問題に対処していくだけで精一杯だったのだ。

 そして、二日目にして最終日。その最終公演の列、先頭に立っていたのは待ち望んだ小柄な先輩の姿だった。

「眞桜子ちゃん!」

「佐倉先輩! 来てくれたんですね!」

「うん、びっくりしたよ、こんなに行列が長いと思ってなくて。おかげで最終公演になっちゃった」

「はい……」

 眞桜子は感無量で答える。佐倉は労うように大輪の笑顔を浮かべた。

「楽しみにしてるよ!」

 彼女はそう言って弾むような足取りで教室の中に入っていく。客席の最前列、ど真ん中の一番良い席に陣取っている。

 最後まで並んでくれたお客さんを、半ば無理矢理教室に押し込んでいく。もう最終公演なのだ。これを逃すともう二度と見られない。生徒の椅子で作った客席はぎゅうぎゅう詰めで、一つの椅子に二人で腰掛けているような状態だ。立ち見席の混雑は朝の東横線の比ではない。なんとか身長順に並んでもらい、少しでも舞台が見えるように配置していく。それでも客は舞台にはみ出すほどだった。エアコンは全力で回しているが、室内はかなり蒸し暑い。しかし、団扇で扇ぐだけの余裕すらなかった。

 最後の一人を何とか押し込んで、眞桜子は重い息を吐いた。

 二日間の間ずっと学校中どころか学外まで奔走していて、劇を一度も見られなかった。リハーサルのときも外で準備していたので見逃した。あんなに頑張って自分たちで作り上げたものが、どんな風に出来上がったのか見届けたかった。しかし客席に入り込もうにも、もう余地はない。肩を落として廊下に立ち尽くす。

 しかし、一方で勲章でもあった。こんなにもたくさんのお客さんに来て貰えたことは本当に嬉しかった。自分の宣伝が多少でも寄与したと信じたい。

 ビデオで録画した回があるので、ライブではないが見られないわけではない。せめて記念にデータを貰おう、と思った。それから踵を返す。最終公演が終わったら、とりあえずクラスで乾杯でもしよう。外のコンビニまでジュースと紙コップを買いに向かうことにする。

「眞桜子」

「うん?」

 開演間際の教室から離れ、歩き出そうとしている眞桜子に声をかけたのは、音響の亀井だった。眞桜子は首を傾げた。

「何やってるの? もう始まるから、配置につかないと……」

「音響、代わって」

「……え?」

 亀井はにっこりと微笑んだ。すごく、優しい表情をしていた。

「もう何回も同じ仕事繰り返したから、飽きちゃった。面倒だから代わりに眞桜子がやってよ」

「亀ちゃん……」

「出来ないわけ無いよね? ずっと、練習に付き合ってたもん。いっつも、眞桜子、練習に出てたから」

「……うん!」

 眞桜子は頷いた。それ以上はもう言葉にならない。亀井に背を押されて教室に入る。音響席は舞台の真横だ。深く息を吐いてから台本と機材を確認する。それから舞台裏に目を向けた。

 遼太とキャストが円陣を組んでいる。

「ついに最終公演だ」

 遼太の抑えた声がする。

「最後まで頼むぞ!」

「おう!」

 力強い声が唱和する。

 ロミオ役である、遼太の双子の妹、朝倉凪も力強く頷いた。




     *




 渋谷のマクドナルドだった。六月。合唱祭の翌日だった。

 遼太から如欄大賞を取りたいと相談された次の日。佐倉比奈子が席を立った後、眞桜子は凪に電話をかけた。その夜、眞桜子は凪と自由が丘の緑道で待ち合わせ、ベンチに座って話をした。

「そっか」

 眞桜子の説明に、凪はそう頷いた。

「うん。中学生の頃からかな、遼太はずっと比奈子さんに片思いしてた。でも比奈子さんの方が年上なこともあって、なかなか告白出来なかったみたい。そうこうしているうちに比奈子さんは卒業しちゃって。兄さんと比奈子さんが付き合いだしたのは、その後。予想通り、如蘭祭がきっかけ」

 深夜の緑道には人影がなかった。居酒屋などは、どちらかというと駅の北側に多く位置しているのだ。街灯の明かりが二人の少女を照らす。

「じゃあ、良い劇を作って、先輩を奪おうとしてるってことになるよね……」

 眞桜子は呆然とそう言った。なんだか、とてもショックだった。理由は言葉に出来ないが、ひどく傷つけられた気がした。寄りによって、なぜ眞桜子にそんなことを頼むのか。理解出来なかった。

「ううん」

 しかし凪は首を横に振った。ショートの髪が勢いよく左右に振れる。

「そうじゃない。そんなわけ、無いんだよ」

「慰めてくれてるつもりなら、たぶん凪の勘違いだよ?」

「違うったら」

 凪は眞桜子の言葉を遮り、顔を覗き込んで小さく笑った。

「本当に、そんな理由じゃないよ」

「でも、だって。他に考えられないじゃない!」

「ううん」

 凪は執拗に否定する。その笑顔はとても優しい。

「遼太が今、本当に好きなのは眞桜子。比奈子さんじゃなくて眞桜子。これだけは間違いない。間違える、わけがない」

「なんで凪にそんなこと判るのよ!」

「判るよ」

 凪は真っ直ぐに眞桜子の方を見て言った。黒目がちの瞳は透き通っていた。

「判る。双子なんだよ。産まれたときからどころか、産まれる前から一緒にいたんだよ」

「でも……」

「例えばさ、眞桜子はシュークリームが好きでしょ? お茶したときは大抵頼むし、いっつも一番最後まで取っておく。何より、凄く幸せそうな顔で食べるよね」

「う、うん……」

「ずっと一緒に育ったんだもん。すぐに判るよ。遼太が好物を食べるとき、どんな顔してるか。面白い本読んでるとき、どんな口の緩み方してるか。……好きなものについて語るとき、どんな表情なのか」

 凪はそう言って苦笑した。

「もうね、家では眞桜子の話ばっかり。もう、お腹いっぱい聞かされた。緩みきった顔でね、眞桜子がどんなに良い娘なのか、一緒にいるとどんなに楽しいのか、聞かされた。何度も何度も。飽き飽きするくらい」

 眞桜子は両手で口を押さえた。何か、とても恥ずかしいものが漏れ出してしまいそうだった。

「そうそう。さっきのシュークリームの話もね、遼太から聞いたの。そんなこと、相手をじっくり観察していないと気がつかないのにね」

 凪は両手を上に、ううん、と伸びをした。

「あーあ。言っちゃった。ばらしちゃった。本人よりも先に。でもしょうがないよね。遼太が情けないんだもん」

「凪……」

「だからね。絶対に、遼太が一番好きなのは眞桜子。これに関しては自信持って良いよ。外れてたら卒業するまで毎日お昼ご飯奢っても良い。デザートにシュークリームもつけてあげる」

 凪はにこにこと笑う。邪気のない、澄み切った笑顔だった。

「でも」

 それでも眞桜子には信じ切れなかった。

「仮に凪の言ってることが正しいとしても。なんで如欄大賞が欲しいなんて言い出したの? おかしいじゃない。そんなの私と何も関係無い」

「ああ、うん」

 凪は少し眉を寄せた。

「そこが遼太のアホなところなの」

「アホ?」

「多分だけど。私の想像だけど」

 凪は目を閉じた。ショートの髪が風に揺れる。

「何て言ったら良いのかな。今の状態で眞桜子を好きになって付き合うことに、罪悪感があるんだと思う」

「罪悪感?」

「こう、何て言うか。浮気してるみたいな。いや、してないんだけど。でも、こう、ほら、精神的に?」

 眞桜子は首を傾げた。凪の言っている意味がまったく解らない。

「浮気って……、だって佐倉先輩と付き合ってたことは無いんでしょ?」

「無いよ。無い無い。勝手な遼太の妄想なんだけど」

「妄想?」眞桜子は若干退いた。「それは、一方的につきあってるつもりになってた、みたいな?」

「違う違う!」

 凪が慌てた様子で手を振った。少し、佐倉の仕草に似ていた。

「そうじゃなくて……。遼太としては比奈子さんが好きだったわけでしょ。で、兄さんに取られた。そんで眞桜子を好きになった」

「凪の言葉を信じるならね」

「いい加減認めてよ、そこは」

 凪は眞桜子の方を見て苦笑した。

「でね、この構図が問題なんだよ、遼太的に。この順番は、まるで比奈子さんを兄さんに取られたから眞桜子に乗り換えたみたいに思える」

「……たしかにそう表現されると、ちょっと面白くないけど。でも、そんなのよくあることでしょ? 誰にだって、振られることはあるわけだし」

「うん。でもさ、遼太の場合ちょっと違うのは、兄さんと付き合いだしてからもずっと、比奈子さんのことを好きだったんだよ。眞桜子と会って好きになるまでは。ううん、その後も」

「え?」

「普通はさ。他の男の彼女になったら、距離が開くものじゃん。それでだんだん会わなくなって、少しずつ想いが薄れてフェードアウトしていく。それから次の人を好きになる。だけど、うちの場合、空気読めない兄さんが比奈子さんを家に連れてきたり、話題にしたりするからさ。その機会を逸しちゃったんだよ」

 凪はそう言って、溜息を吐いた。

「だから、同時に二人を好きになっちゃった、って本人は感じてる。自分には節操がないんじゃないかって思ってる。いやまあ、そういう人だって世の中にはたくさんいると思うよ? だけど遼太は自分が許せなかった。だから決めたんだ。比奈子さんにしっかり振られることで、諦めることで、眞桜子一人に集中しようって。比奈子さんのことを過去にしようって、決めたんだ」

「……で?」比奈子は低い声で訊いた。「どうしてそこから如欄大賞になるのよ? やっぱり関係無いじゃない」

「だからあ」

 凪は面倒くさそうに言った。

「もう、解ってないなあ」

「解らないよ。凪の言ってること、ちっとも解らない」

 眞桜子は凪のことを真っ直ぐに見つめた。凪にはぐらかそうとしている様子は無い。けれど、どうしてそうなるのか、まるで理解出来なかった。

 凪が一際真剣な声音で言った。

「今のままだと遼太が比奈子さんに振られることは、永遠にないんだよ。どうやっても。天地がひっくり返っても」

「え? だって、普通に告白すれば……」

「出来ると思う?」

 凪が眉を寄せて訊く。辛そうな顔だった。凪のこんな表情を見たのは、初めての経験だった。

「実の兄の最愛の彼女に、好きですって言える? ずっと前から好きでしたって、告白出来ると思う?」

 眞桜子は息を呑んだ。それから、なんとか喉の奥から言葉を絞り出す。

「……そっか」

「振られるってことは、兄さんと遼太が対等の立場に立って、そこから選択して貰わないといけない。でも、そんなこと出来るはず無いじゃない。比奈子さんがどっちを選んだとしたって、大変な事になる。だから遼太は告白出来ない。告白がないんだから、比奈子さんに振られることもない」

 凪は夜空を見上げた。

「だから、遼太は思いついたんだと思う。はっきりと告白しなくても兄さんと対等の立場に立つ方法を。比奈子さんが兄さんを好きになったのと同じ状況を作ればいい。素晴らしい劇を作って振り向かせられたら自分の勝ち。上手くいかなくて想いが届かなかったら兄さんの勝ち。と、言っても兄さんと比奈子さんは超ラブラブだし、遼太なんてまったく意識されていないからやる前から結果は見えてるんだけど。あくまで本人の中でのけじめなんだろうね」

「……すんごい遠回り」

「うん。比奈子さんも兄さんもそんなこと気がつくはずないよね。完全に自己満。我が片割れながら、ただの痛いアホ」

 凪はそう言って地面の小石を蹴った。緑道の石畳を転がっていく。植え込みに入って、行き場の無くなった小石は動きを止めた。

「正直、普通に奪い取ろうとしてるって考えた方が、無理がないんじゃないかと感じるんだけど」

 眞桜子は目を細めてそう言った。すると、凪は口を大きく開けて大笑いした。静かな緑道に凪の声だけが響き渡る。

「な、何?」

「眞桜子って、遼太のことになると、途端におバカになるよね」

「な、なんで!?」

 凪の口元はまだ笑っていた。しかし、目は優しく細められている。

「だってさ、おかしいじゃん。本当にそう思ってるなら、挑戦するのは去年だよ。比奈子さんが兄さんに惚れた、一年生のときにやってる」

「あ……」

「でも、今年だった。二年生になってからだったんだよ。眞桜子を好きだから。好きになったから。だから今になってこんなアホなこと言い出したんだよ。本当に大事にしたいと思う人が出来たから」

「……うん」

 眞桜子はじっくりと頷いた。

 正直なところ、納得出来ない。遼太の思考回路が、何に拘っているのかが理解出来ない。もしかしたら遼太なりの、一途な心意気なのかも知れない。

「だからさ」凪が一際真剣な声で言った。「遼太に協力してやってくれないかな。その、大変だと思うけど。如蘭祭の準備」

「……」

「別に無理して良い劇作れなんて言わない。大賞なんて、もちろん獲れなくて良い。遼太が満足できるくらいのものが出来れば良いと思う。少なくとも酷い出来にならなければ、ちゃんと心の整理をつけられると思うから。それまで、三ヶ月だけ待ってあげてくれないかな。あの、どうしようも無い馬鹿のこと」

 凪はそう言って眞桜子の方を拝んだ。

「本当に、救いようのない馬鹿なんだけど。格好良くもないし、すごく鈍い奴なんだけど。でも悪い奴じゃないから。変なことしたら、私がとっちめるから。だから……」

「……はあ」

 眞桜子は遮るように溜息を吐いた。

「……もう、しょうがないなあ」

「眞桜子!」

 凪が抱きついてくる。眞桜子はされるがままに揺さぶられた。バレー部のエースは力が強い。遠慮もなかった。ぐらんぐらんと揺すられて、涙が零れそうだった。

「ところでさ」

「うん?」

「眞桜子は遼太なんかのどこを好きになったの?」

「……私、遼太が好きだなんて一言も言ってないけど? 向こうの気持ちはさておき」

「この期に及んで……!」

 凪が首を絞めてくる。眞桜子はきゃあきゃあ言いながら逃げ惑った。

 それから、凪は何度も何度も頭を下げた。それから遼太を頼むと言い残して足取り軽く帰って行った。

 その週末に遼太を呼び出した。顔を見ると少し腹が立ったので、ケーキを奢らせた。それから、彼の意志を確認した。どうやら、本気で如欄大賞を取りに行くつもりのようだった。

 双子の兄妹とはいえ、凪にも解っていないことがある。遼太は時折、酷く自信なさげに振る舞うことがある。彼の能力的には、とてもそんな必要はないのにも関わらず、だ。

 恐らく兄妹が原因なのだろう。兄の啓太はとても学業優秀で、羽々音高校でもトップクラスだ。遼太だって羽々音に入れたくらいだから十分に賢い。授業中によく寝ているがそれでも成績は悪くないから、きっと能力的にはかなりのものだろう。しかし、品行方正で努力家の兄と比べられてしまうとどうしたって分が悪い。

 かといって運動はあまり得意ではない。しかも凪という、女子とはとても思えないほどの運動能力を持つ妹が同学年にいては立つ瀬がないだろう。他に特に芸術に秀でていたりするなどということも無い。これまで何をやっても、自分の実力を感じたことなどないのだろう。

 だから、遼太に勝たせてやりたかった。啓太先輩に片思いの幼なじみは譲っても、その能力は示させてあげたかった。如蘭祭で素晴らしい劇を作り、佐倉を感動させて、その上で身を退かせてやりたかった。それが、たった一つの冴えた振られ方、だと思ったのだ。

 それから数日の間、眞桜子は徹夜で脚本を探した。ネットで候補を検索し、本屋や図書館を梯子した。実際のところ、集客などどうでも良かった。佐倉の評価がすべてなのだ。彼女の心に響く劇を作る必要があった。最終的に残った候補は二つ。一つはシラノ・ド・ベラジュラック。もう一つはロミオとジュリエット。

 シラノを選ぶ場合戦略は単純だ。佐倉は二年前、主役を演じた先輩に惚れたという。ならばそこに真っ向から立ち向かえばいい。侠気溢れる魅力的な主役を、遼太主演で作り上げる。後は本人次第だ。

 もう一つの候補はロミオとジュリエット。演目は少女趣味な佐倉が好きそうな甘々でロマンチックな恋愛劇。宝塚歌劇が好きな彼女に合わせロミオ役は凪。観客の嗜好に最大限合わせ、劇全体の完成度で勝負する。演劇が本当に好きな佐倉なら、それで心を動かせるかもしれない。

 二つの候補を引っさげて、遼太と白石の意見を聞いた。正直、普通に考えたらシラノで行くべきだったと思う。何しろ、遼太が啓太先輩との対決を望んでいるのだ。こちらの方が、構図として解りやすい。目的を第一に考えた場合、どちらを選ぶべきかは明白だった。

 でも、シラノ・ド・ベラジュラックは嫌だった。

 クリスチャンが死んだ後、シラノは自分の所行をロクサーヌに打ち明けない。クリスチャンの偽りの知性を愛していた彼女に教えれば、自分の想いが叶うと判っていたにも関わらずに、だ。暴漢に襲われ、死の間際にロクサーヌに気づかれようとも彼は沈黙を貫き通す。それが彼の心意気なのだろう。その侠気溢れる姿はとても格好良く、魅力的な主人公だ。

 そんなシラノを、遼太が演じるのが嫌だった。一途にヒロインのことを思い、決してその姿勢を曲げない主役を演じて欲しくなかった。

 クリスチャンが死んだ後、ロクサーヌは十四年に渡って、修道院に引きこもり悲しみに暮れることになる。そしてシラノの死の淵に立ち会い、真実を知り、愛する人を二度も失うこととなる。

 これは悲劇だ。しかし、それを引き起こしたのは、シラノの心意気。自分勝手な自己満足の、誰も幸せになれない、愚直な男の心意気なのだ。

 格好良いのかも知れない。散ってしまったクリスチャンへの心遣いが感じられる。自分が幸せになれさえすれば良いわけではない、というストイックさに満ちている。しかし、その割を食ったのは、ロクサーヌなのだ。

 だから、演目がロミオとジュリエットに決まったときにはほっとした。あっさりと恋する相手を変え、困難に遭えばすぐに諦めようとし、女に尻を叩かれてやっと動き出す。そんな情けない男の話になって、本当にほっとしたのだ。

 脚本が決まってしまえば、後は準備をするだけだった。元々、細々とした作業は嫌いではない。ただ必要なものをきちんと処理していっただけだ。

 何かしてあげる度に、遼太は嬉しそうにしていた。その、無邪気な笑顔が好きだった。何度でも見たいと思った。いくらでも感謝されたいと願った。だから、たくさんの仕事もちっとも苦にはならなかった。もっと役に立ちたいと思った。

 ただ、不安だったのは客がちゃんと集まるか、だった。佐倉の好みに最大限に合わせたため、一般的な需要はまるで無視してしまった。自分たちのわがままで、クラス劇の客席を空席だらけにするわけにはいかない。だから、少しでも客を増やそうと形振り構わず宣伝に努めた。

 準備を続けている間に、気がついたことがある。

 シラノ・ド・ベルジュラックは悲劇だ。ロクサーヌは十年以上も悲しみに暮れた挙げ句に、二度も愛する人を失うことになる。

 しかし、それは彼女自身が引き起こした事ではなかったか。もし、彼女が最初からシラノの想いに気がついていたのなら。恋文や愛の囁きが誰の作なのか少しでも疑ったなら。毎週欠かさず修道院まで訪ねてくるシラノの想いに、僅かでも気を払っていたのなら。結末は違っていたのではないか。

 作中で、彼女は何もしていない。美しく聡明な彼女は、同じように美しく知性のある男性を求める。しかし自らと釣り合うだけの男を求めるだけで、相手の想いなど気にも留めない。

 シラノはどんな想いだったのだろう。クリスチャンの代筆や代弁をしていることを気がつかれないように心がけていた。でも、その綱渡りの恐怖の中にほんの少しだけ、気がついて欲しいと思っていたと考えるのは、穿ちすぎだろうか。手紙を書くとき、愛を語らうとき、そして修道院に向かうとき。毎回、恐れの中に一筋の希望があったのではないか。いつものように別れた後に、気がつかれなかったことへの安堵と気がついて貰えなかった悲しみを、同時に抱いていたのではないか。

 もしロクサーヌがもっと早く気がついたのなら、結末は大きく違っていたに違いない。あるいは、シラノが我慢できなくなるほどに魅力的だったなら。あの悲劇の英雄譚をハッピーエンドの恋愛劇に変えられる可能性があったのは、彼女だけだったのだ。

 しかし、彼女はそれを出来なかった。

 自分はロクサーヌにはならない。彼女は、ただ嘴を開いて餌を待っているだけの美しい雛鳥だ。自分は違う。たとえ醜く泥に塗れても、遼太を自分の手で勝たせてみせる。

 それが眞桜子の心意気だった。




     *




 ゆっくりと照明が落ちる。けれど幕は引かれない。教室に作った即席の舞台には、客席と隔てる緞帳などありはしない。その分、ダイレクトに客席の反応が伝わってくる。

 万雷の拍手。鳴り響く歓声。そして、切れ切れに聞こえてくる嗚咽。そのすべてを遼太は舞台裏で受け取った。

 客席の喧噪が収まるのを待って、蛍光灯がつけられる。周りのキャストと頷きあってから、遼太は舞台に姿を現した。

 ものすごい熱気を感じた。九月の東京はまだ暑い。エアコンはフル稼働しているが、客席には百人以上の客が詰め込まれている。そのすべてがカーテン・コールを叫んでいるのだ。

 比奈子の姿が目に入る。彼女も小さな手で、力強く拍手をしてくれていた。頬に涙の痕がある。

 キャストが一列に並ぶ。遼太は両手を下に向けて、客席に合図を送った。観客が口を噤む。それを待ってから、監督は口を開いた。

「観客のみなさん、はじめまして。監督の朝倉遼太です。今日は24Rの演劇、ロミオとジュリエットを最後まで見ていただき、本当にありがとうございました」

 遼太はちらりと舞台の横、音響席に目を遣った。眞桜子がこちらを見ている。じっと、真っ直ぐに。

「この劇は、一つの無謀な挑戦のために作られました」

 遼太は頭の中の原稿を破り捨てた。

「二年生でありながら、如欄大賞、全クラスでの総合優勝を勝ち取ろう。三年生を、学年の差を飛び超えようという、無謀な挑戦です。言い出したのは僕でした。最初は、誰もがそんなことは無理だと言いました。実際、長い歴史を持つこの都立羽々音高校で、そんな快挙が成し遂げられたことはありません。大賞どころか、三年のクラスを一つでも上回ったことさえ、あるかどうか判りません」

 観客が、黙って遼太の話を聞き入っている。そんな、劇の内容とまったく関係無い、ただの内輪の事情に耳を傾けてくれていた。

 視界の隅に眞桜子の顔が入る。原稿とまったく違うことを話し出したことに驚いているのだろう。ひとく焦った顔をしている。

「でも、そんな馬鹿な僕の言葉に、乗っかってくれた馬鹿な奴らがいました。最初に一人、それから段々と増えていって、最後にはクラス全員になったんです。もしこの劇を、少しでも良かったと感じてもらえたなら、それはこの愛すべき馬鹿だちのおかげです」

 遼太はキャストたちを見回した。白石や坂本が感極まった顔で泣いている。客席からまた拍手が起こった。

「そんな24Rの中で、劇を完成させるまで、一番活躍した奴を紹介したいと思います。彼女がいなかったら、この劇は絶対完成しなかった。彼女無しではここまでのクオリティにはならなかった。24Rの、誰もが認める文句なしのMVP」

 遼太は客席を見た。比奈子が、まっすぐ遼太の方を見ていた。

「藤崎眞桜子です」

 がたん、と音がした。眞桜子が思わず、という感じで立ち上がっている。その目を見開いた彼女を、遼太は手招きした。眞桜子は最初手を振って断ろうとしたが、客席からの大拍手に押され渋々出てきた。遼太の方を真っ赤な目で睨んでいる。

「この劇が完成したのは、本当に彼女のおかげです。たくさんの候補を読んで、脚本を選んだのは彼女です。キャストの予定を聞いて、練習スケジュールの管理もしてくれました。この信じられないくらい豪華な衣装を調達したのも、たくさんの音源からBGMを選ぶのも、照明器具の調達舞台の設計も、です。パンフやチラシを作ったり、列を整理したり。最初から最後まで、本当になにもかも、彼女がやってくれました」

 誇張ではなく、ありとあらゆる準備をしてくれた。遼太が欲しいな、と思った事はすべて、眞桜子が先回りして用意していた。遼太はその中から選ぶだけで良かった。

「本気で、24Rの劇を完成させようと頑張ってくれました。少しでも良い劇になるように、細かくてもいろんな事に全力で取り組んでくれていました。もしかしたらこの中に、ブログを読んで見に来てくれた人もいるかもしれません。あれを毎日欠かさず、過労でぶっ倒れても書き続けてくれたのも、彼女でした。少しでも多くのお客さんに見て貰いたいと、そう言って」

 何人か反応した客がいた。きっとブログの愛読者だったのだろう。

 眞桜子の作戦は完璧に当たっていた。二日間、全ての公演で客席に中学生の姿が絶えることはなかった。開演を待つ間、ブログのことを話題にしているのを何度も聞いた。

「俺やキャストが、何の心配もせずに練習に集中してこられたのは、眞桜子がいたからです。少しでも良い劇にしよう、って、面倒なことを一手に引き受けて。睡眠不足で倒れるくらい頑張って。自分が一番忙しいのに、クラスメイトを細やかに気遣ってくれて」

 最終的にクラスの気持ちを一つにしたのは、彼女の献身だった。一言も文句を言わずにあそこまで頑張っている姿を見せられて、心動かない者などいるはずがなかった。

「もしこの劇が、少しでもみなさんの心に響いたのなら、それは眞桜子のおかげです。彼女の努力と、献身と、心意気がこのロミオとジュリエットを作り上げたのです」

 隣から、洟を啜る音がした。遼太は右手を挙げて、クラス一の大馬鹿者を示した。

「そんな24R最大の功労者、藤崎眞桜子に大きな拍手を!」

 遼太の言葉にしたがって、観客席から大きな拍手がわき起こる。観客だけではない。キャストも、照明も、教室に入りきれず廊下にいたクラスメイトも、全員が手を真っ赤にして拍手をする。皆が口々に眞桜子の名を叫ぶ。

 その大歓声の中。

 眞桜子は顔をぐしゃぐしゃにして、唇を振るわせながら大きく頭を下げた。




     *




「いやー、良かったよ-」

 佐倉比奈子が満面の笑みで言う。その目の端は少し赤い。

「もう、すんごい感動したよ! もう、ぼろぼろ泣きまくったね」

 校舎の屋上だった。時刻はもう夕方。夕焼けが目に眩しい。お祭の時間はもう終わり、先ほど来客に退場を呼びかけるアナウンスが流れた。校舎の中からはざわめきが聞こえてくる。

「あ、ありがとうございます」

 緊張した面持ちで遼太が礼を言った。

 屋上の端で、遼太と比奈子が話している。二人から少し離れ、校舎への扉の近くに眞桜子は立っていた。

 クラスではもう片付けが始まっているはずだ。そんな中を抜け出して来ていた。屋上には他に人の姿はない。

 比奈子がにこにこと笑っているのが目に入る。眉が下がり笑窪が深まり、とても嬉しそうだ。本当に、あの劇が心に響いたのが伝わってくる。

 もしかして、と眞桜子は不安に思った。

「そういえばさ、34Rの劇は見た?」

 しかし、比奈子が次に口にしたのはそんな言葉だった。

「啓太君がものすごーく格好良かったんだよ! 主役のシラノでね。もう、きゅん、ってなったね!」

 きらきらした瞳で比奈子は続ける。

「途中で殺陣があったりね。最後の死んじゃうシーンとか、もう凄かったね。だばだば泣いちゃった。本当に格好いいよね。侠気って言うか、心意気? あの、自分を省みずに筋を通すところ。もう、理想の男! って感じだよね。ご飯三杯は食べられるよ」

「そう、ですか」

 遼太が、まさに絞り出すようにそう口にする。肩は落ち、顔は俯いていた。

「うん!」

 また、校内放送が流れる。いよいよ退場時刻のようだ。

「あ、もう出なくっちゃ!」

「はい」

「じゃ、またね!」

 比奈子がそう言って去ろうとする。

 二人の距離が、開いていく。

 夕焼けに照らされて、影が長く伸びている。

 彼女が踵を返そうとするその瞬間、眞桜子は思わず叫んでいた。

「佐倉先輩!」

「ん? なあに?」

 眞桜子は正面から比奈子の顔を見つめた。彼女は笑っていた。けれど、まるで能面のようだった。横顔に夕日が当たっている。片方の頬だけが、暗くて見えない。

「34Rのシラノと、24Rのロミジュリ」

 このまま帰してはならないと感じた。今、聞かなくてはいけないと、そう思った。理由はわからない。ただ、確信だけがあった。

「……どっちの方が良かったですか?」

「そうだね。どっちも良かったけど」

 間。

 校舎から喧噪が聞こえてくる。

 薄闇が迫っている。

 影が伸びる。

 彼女は泣きそうに、笑った。

「遼太君のロミオとジュリエット、かな」

 比奈子が歩き出す。

 遼太は立ち尽くしたままだ。

 比奈子は眞桜子のすぐ脇を通り過ぎる。

 その瞬間、とん、と背中を押された。

 勇気づけられるように、眞桜子は遼太に近づいた。

 比奈子は振り返らずに去っていく。

 ぱたん、と扉が閉まる音がした。

 彼は屋上の端に立ち尽くしたままだ。

 その意外と広い背中に手を回す。

 彼の身体から力が抜ける。

 重みを感じる。

 そして、眞桜子はしっかりと抱きしめた。




     *




 教室の中は薄暗い。蛍光灯は消されていて、廊下から差し込む光だけだ。窓の外からは下手くそなギターの音が聞こえてくる。そこに裏返り気味のボーカルが重なる。

「終わったな」

「うん」

 遼太は教室の壁により掛かって床に座っていた。隣には眞桜子が同じように座っている。

 クラスの片付けはもう完了していた。と言っても、舞台装置や大道具を解体して、小道具をロッカーに押し込んだだけだ。机や椅子はまだ整頓されておらず、廊下側に乱雑に寄せられている。

 二人以外のクラスメイトは全員、校庭で開かれている後夜祭に行っている。毎年恒例の軽音学部によるバンド演奏が始まっている。彼らの最大の見せ場は文化祭本番ではなく、こちららしい。それが終わると実行委員会から投票結果が発表され、本当の意味で如蘭祭が終わる。

 校舎の中にはもう二人以外いない。もしかしたら、運営委員会が開票作業をやっているかもしれないが、その程度だ。

 肩に眞桜子の頭の重みと体温を感じる。左手はしっかりと彼女の右手を握っていた。彼女の手は少し冷たかった。想像していたよりも、小さい。

「眞桜子」

「ん?」

 気怠げに眞桜子が返事をする。

「ありがとな」

「いえいえ」

 眞桜子がふにゃふにゃと微笑む。

「私は、自分がしたいことをしただけ」

「それでも」

「うん」

 眞桜子がまた頭を肩に預けてくる。

 窓の外。ディストーションを利かせすぎたギターの音がフェードアウトしていく。

 遼太は左手を上げて、腕時計を見た。眞桜子も同じように覗き込み、顔が近づく。時刻はもうすぐ九時だった。

「皆さん! お待たせしました!」

 外からマイクを通した声が聞こえてくる。

「いよいよ如蘭祭、結果発表です!」

 大歓声と指笛が沸き起こる。

 二人は黙って待った。

 如蘭祭実行委員長が三位から順位を発表する。その度に大歓声が谺する。三位にも、二位にも、24Rの名は呼ばれなかった。

「何だかな」

「うん?」

「もう、如蘭大賞とか、どうでも良くなった」

「そんな、今さら……」

 眞桜子が唇を尖らせる。けれど、すぐに笑顔になった。

「……もう、しょうがないなあ」

 外の歓声は止まない。最大のクライマックスを迎えようとしていた。

「そして、如欄大賞は!」

 遼太は眞桜子を抱き寄せた。

 百三十年以上の歴史を誇る都立羽々音高校で。

 唇を重ねる。

 史上最大のどよめきが、校庭を埋め尽くした。

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