第242話 名実151 (358~360 北見へ戻り 事情聴取へ)

 翌日の10月21日月曜日。晴れていた昨日と違い曇天だったが、気温はほとんど同様に感じられていた。2人は朝から地下鉄を利用して、札幌市内の翔洋大学のキャンパスに居た。竹下の母校でもあるが、訪問していたのは、アイヌ文化について研究している田口という教授の研究室だった。武隈をまず通して、在学中の武隈の妹に頼んで田口と事前にアポを取ってもらっており、アイヌ語についての話の確認などを取る為の訪問であった。


「間違いなく、メムは泉やら水の湧く所という意味で、メンという発音と同じになりますよ。武隈君の言う通りです。彼女はしっかり勉強してくれていますから、正確な知識を持っていますので信用してあげて欲しかったですね」

50代半ばに見える、白髪頭にメガネの教授の発言は、自分の教え子の知識に太鼓判を押すと言うよりはむしろ、「この程度のことに、わざわざ専門家である自分を巻き込むな」とでも言いたげにすら聞こえた。


「我々も、彼女の知識を信用しなかったという訳ではないんですが、やはり捜査上は、それなりに権威のある専門家に聞いておかないとならないもので。やはり学生だと色々まずいですから……。それに刑事である兄を通してという伝聞ではやはり弱いんで」

西田はそう言ってしつこく言い訳をしたが、やはり人を犯人扱いするに当たり、結果的に知識が正しいか正しくないかはともかく、素人に毛の生えたレベルの情報に踊る訳にはいかないというのは真実だった。明確な裏付けは必要だ。それは「辞書で確認した」というだけでも足りない。ただ、この「メム」については、立件するにせよ、裁判上での証拠調べには何も関わらない次元の話で、あくまで西田と吉村にとっての「踏ん切り」という側面でしかなかったが……。


「そんな重要な情報になるんですか、これが?」

田口は、この話がどんな事件にどう関わってくるかまでは教えられていなかったこともあり、西田の発言に半信半疑どころか、相当疑問を感じている様子を隠さなかった。それに対し西田が、

「立件というより、事件の経緯にとってですが、その通りです」

と強く言ったことで、

「まあ、そちらがそう仰るなら、こっちとしてはどうでも良いんですけどね」

と、最後は勝手にしてくれと言わんばかりの発言で収めた。


「それと、ついでと言っては何ですが、折角なんでもう1つお話伺っておきたいことがあるんですが、お時間良いですか?」

西田が更に切り出すと、

「私の専門分野に関することなら、どうぞ気兼ねなく」

そう言った頃には、「なんでも良いからさっさと終わらせて、自分の仕事をさせてくれ」とでも言いたげな、ぶっきらぼうな態度を隠さなかった。


※※※※※※※


 田口の研究室での、必要事項の聴き取りを終えると、門まで見送ってくれた武隈の妹に改めて礼を伝えてから、西田と吉村はそのまま地下鉄で札幌駅まで出た。そしてオホーツク3号で北見への帰路に着いた。


 大将と佐田実との出会いが、どうその後の事件に絡んでいくことになったのか、西田と吉村の中ではかなり推理が進んでいたが、そのことは、大将こと相田泉を立件するまでの時間が、刻一刻と近付いて来ていたということをも意味していた。道中、歓談するという訳でもなく、かと言って黙り込んでいる訳でもなく、2人は捜査以外についての世間話を、間断を挟みながらしていた。気を紛らわせるにはそれしかなかったとも言えた。


 午後2時過ぎに、東大雪山系の峠越えを終えて遠軽駅のホームに滑り込んだオホーツク3号は、方向転換や運転士交代の為に数分程停車するので、西田と吉村はその時間を利用して、ホームに降りて新鮮な外の空気を吸っていた。北見方向に向かってホームの右手前方には、曇天の中相変わらず、遠軽のシンボルであり地名由来の瞰望岩が、大袈裟に言えばその威容を誇っていた。


 遠軽署勤務になってから、そして遠軽を離れ、更に北見方面本部付けになってからも、西田は何度もこの瞰望岩を眺めてきた。悠久の自然の中で、ただ立ち続ける瞰望岩そのものには、当然ながら明らかに目に見える何の変化もなかったが、それを見る西田の心境や立場は、その時々において四季の如く様々に移り変わっていた。


 今、ホームから瞰望岩を見ている西田の心中は、天候同様曇り、そして気温同様冷えていた。そして数日中には、大将に事情聴取するか、場合によっては逮捕する為に、また遠軽に戻って来て見るであろう瞰望岩を、その時はどんな心中で見ているのだろうか。想像出来る様で、想像したくない気持ちが、西田そしておそらく吉村の中でもせめぎ合っていた。


 だが2人は、敢えて視線も合わさずに、それぞれにホームで軽く屈伸運動をした後、一言「冷えるな」「ですね」という会話を、車内に戻るドアの前で交わしただけで、急いでデッキから温かい客室へと入った。直後にゆっくりと遠軽駅のホームを発ったオホーツク3号の、右側車窓から見える瞰望岩を横目にしながら、これまでと同じはずのディーゼルエンジンの響きが、座席の下から身体を強く揺さぶる様な錯覚を西田は感じ戸惑っていた。そして遠軽から北見に着くまでは、いつもよりやけに長く掛かった印象があった。その間に通過したはずの常紋トンネルの記憶は、物思いにふけっていたせいか、ほとんどなかったのも妙に不思議だった。


※※※※※※※


 10月23日水曜日の午後2時。車を「湧泉」の前に停めて、西田と吉村が、「準備中」と書かれた札がドアに掲げられた店内に入ると、中で大将こと相田泉が仕込みを行っていた。2人の姿を見て、

「おう! よっちゃんに西田さんじゃねえか。珍しいな」

と声を掛けてきた。ただ、昔の様な威勢の良さは感じられなかった。長年連れ添った妻の死も影響していたかもしれないが、妻の死後に店を閉めるという話も出ていたということは吉村から聞いており、そういう部分も影響していたかもしれない。


「新聞やニュースで見たよ。あの大島が伊坂大吉……、伊坂とは直接書いちゃいねえが、すぐ判る様な書き方してたからわかったけどよ、あいつと一緒に色々やってたんだな……。2人も大島の捜査に関わってるんだべ?」

大将は報道を見ているらしく、その話を自ら振ってきた。大将が一切悪さをしていなければ、「詳しいことは話せないが、まあそういうことだ」ぐらいの軽い返事も出来たのだろうが、今となってはそうはいかないのが虚しい限りだった。西田は生返事で済ませた。


「2人共元気がねえな。忙しくて疲れてるんだべ?」

大将は窺う様な目付きで探ってきた。

「そんなことはないよ。こっちこそ忙しい所悪いね」

西田がそう応じると、大将は握っていた包丁を軽く洗って布巾で水を拭き取り、

「辛気臭い顔してるな? あんまりいい話じゃなさそうだな」

と2人に向かって、さばいた魚の切り身を鍋に入れながら言った。西田と吉村の態度に、いつもとは違う何かを敏感に察知した様だ。

「ああ、いい話じゃないよ」

吉村も硬い表情で告げた。それを聞いた大将は、額に巻いていた鉢巻を取ってカウンターから出て来た。

「ここで聞く様な話じゃなさそうだ……。うちの方で話すべや」

そう言うと、2人を店から裏にある家の方へ案内した。ただならぬ雰囲気から、かなり重要な話があるのだと察したらしい。


 吉村は何度か入ったことがあるらしいが、西田は初めて大将の家へと入った。こじんまりとしてはいたが、男やもめの割には、室内はこざっぱりとしていて、通された居間には、夏に亡くなった妻の遺影が掲げられた仏壇が目に付いた。


 座卓に座った2人に茶を注ぐと、大将から話を切り出した。

「伊坂のことだべ?」

いきなり核心を突かれ、西田は勿論吉村も驚きを隠せなかった。

「よくわかったね」

思わず口を衝いた西田の言葉に、

「ああ……。もう7年前から、いつかこうなるんじゃねえかと覚悟はしてたんだわ……。ただ、思ったより掛かったな……。正直な話、逃げ切れたんじゃねえかとも思ったが、悪いことは出来ねえって、お天道さんも見てるってことだな」

と淡々と返した。ただ、どう切り出したら良いかわからなかったという本音が2人にあった以上、大将の先手を打った告白は、大きな助けとなっていた。


「銀行口座が凍結されて、怒鳴り込んできた男の防犯カメラの画像で最初に見た時、他人の空似で、まさか大将本人だとは、俺も吉村も信じられなかったよ。でも口座名義の『福田房次郎』が、大将の敬愛する北大路魯山人の一時期の本名だと気付いて、残念ながら本人だなと……」

西田が感情を押し殺しながら喋ると、

「防犯カメラか……。確かにあの時興奮して文句言いまくったからな……。わざわざ文句言いに行くこともなかったか……。それにしても、福田房次郎が北大路魯山人だとよく気付いたな」

大将はそう言って静かに頭を掻いた。


「大将と出会って割とすぐ、北大路魯山人について色々聞いてから、たまたま札幌で、北大路魯山人の小さな展覧会みたいなのがデパートで開催されててね……。逆に言えば、もし大将と出会わなかったら、おそらく入ってなかったんだが、そこで魯山人が福田家に養子に出されて、一時福田姓を名乗ってたって知ったんだ。それがカメラの映像を見てから、急に思い出されたんだよ。それまでは口座名を聞いても、全く何も感じなかったんだけど……。人間の記憶ってのは不思議なもんだな」

西田は自分でも不可解だったあの閃きについて語った。


「そうか……。前にも2人には言ったかもしれねえが、魯山人は俺の最初の修行先だった、網走の割烹というか小料理屋の板長が信奉してたんだわ。俺も単に手っ取り早く手に職を付けたかっただけで、本気で料理が好きだったり、板前目指してこの道に入った訳じゃねえが、修行してる内にその奥の深さを知って、本気で料理に打ち込む様になったんだわ。そして板長の影響もあって、魯山人に心酔する様にもなったんだわ。そういった心境の変化もあって将来自分の店を持つ為に、チマチマと少ない稼ぎから別に貯めることにしたんだが、それ用の口座の名義を、一廉ひとかどとまでは行かねえまでも、一人前の料理人に成れる様に、北大路魯山人にあやかって付けたんだ。当時は今みてえに本人確認とかもうるさくなかったから……。定期預金にしなかったのは、どうせ足りなくなってチョクチョク下ろすだろうからよ」

その大将の苦笑を交えた告白に、

「それだったら、何で名義を北大路魯山人にしなかったの?」

と、吉村が疑問を呈した。それに対し、

「よっちゃん。幾ら銀行口座とは言え、そんな大袈裟な名前使ったら恥ずかしいべや! だから一番地味な福田房次郎にしたんだわ。それに魯山人はガキの時分から、不遇な時代が長かったんだよ家庭的な問題で。そんなところが、俺の実の親父が逃げ出した後に、残されたお袋から生まれた俺と妙に重なる所があってよ……。ああ。前に親父が機雷の事故で死んだ話をしたと思うが、あれは俺にとっては継父みたいな人でね。色々あって籍を入れなかったもんだから、戸籍上は父親には一度もならなかったんだわ」

と、そこまで説明したところで吉村が、

「大将、その話なら、俺達は既に色々知ってるんだ。というのも、大将が魚介持ってきてもらってる佐呂間の従兄弟関係に該当たる漁師さんに、今年の春、竹下さんが取材してたんだ。そこで大将と竹下さんが知り合いだってことで、そこら辺のことを聞いてたんだよ。勿論、あっちも好きでペラペラ喋ったんじゃなくて、取材目的が機雷事故から60周年ってことで、そっちの話から広がったらしいんだけどね……。こっちも竹下さんからの又聞きだから、事情がはっきりしない部分があるけど」

と告白した。


「そうか、それで知ってたのか……。久ちゃんが竹下さんに話してたとは露知らずって奴だ。まあそれはそれで色々省けて、上手く喋れねえ俺としても助かるわ。……それでえっと、どこまで話したっけか? ……ああわかった。それでな、本来名乗るべき北大路って姓を、しばらく名乗れなかった魯山人と、私生児として生まれ、お袋の姓である相田をずっと名乗らなくちゃならなかった俺の人生と、似てるって言ったら失礼かもしれねえが、そういう部分で身につまされてな……。それで、その魯山人の本来の名前でない時代の象徴って言ったら何だが、福田房次郎の名を敢えて自分の口座名義にしたってのも、理由としてあるんだわ」

と大将は答え、西田も吉村もそれについては納得出来た。


「それについてはよくわかったけど、口座の住所にしてた同じ福田姓の、福田芳雄って実在人物とは、一体どういう関係で?」

西田が尋ねると、

「福田さんはな……。網走の修行時代に丁度店の常連だったお客さんで、日用雑貨の店主やってた人。口座作った後も、銀行から郵便物がちゃんと届く様に、福田さんに口座を作る前に頼み込んで住所貸してもらったって、案外簡単な話よ。ところが福田さんが3年近く前に亡くなったことに、年賀のやり取り含めご無沙汰だったもんだから、こっちが全く気付かないまま放置してて……。そもそも奥さんが亡くなってからは一人暮らししてたもんだから、銀行からの手紙か何かが届かずに、名義が架空だってバレたんだな」

大将は口惜しそうな口調になった。だが、すぐに、

「まあ、やっぱりお天道様が見てるってことなんだべ……」

と、さっきと同じことを繰り返した。そう納得するより他なかったのだろう。


 その上で、

「魯山人だって、肖りたいって言ってる俺が、伊坂から脅した金で自分の陶器買ってても、そりゃ喜ばねえだろうし、不心得者だと思ってるだろうよ、そうだべ?」(伏線・後述)

と力なく笑って、

「しかし、なんであれから数年経った今になって、架空口座の話が警察に行ったんだ?」

と、改めて疑問を口にした。


「伊坂大吉の息子、今の伊坂組社長の伊坂政光が、夏に詐欺で逮捕されたのはニュースや新聞で見たでしょ? その後、佐田の殺人にも伊坂の親父の大吉が関わってた関係で、そっちの取り調べも政光相手にしてたんだ。そしてその絡みで、つい2年前までずっと、佐田の殺人の件で恐喝されて金を振り込んでたって話が出てね。ただ、その後ちょっと色々やることがあったもんだから、ここまで先延ばしになってたけど、大島海路の件も含めてある程度片付いたんで、恐喝の件も捜査してたら……こうなったって話でさ……」

吉村は最後にやや言葉に詰まったが、事情を説明してみせた。


「伊坂の息子からバレたか……。いやいや、そんなことを責められる義理もねえな、俺には」

恨み節でも出てきそうな、苦虫を噛み潰したような表情を一瞬浮かべたものの、それはすぐに苦笑に変わっていた。

「しかし、政光には処罰感情はほとんどなく、こっちが動かなかったら告訴するつもりもなかったことだけはハッキリさせておくよ」

大将に誤解を与えるのを避ける為、そう教えた西田だったが、

「否、勿論俺も恨むつもりはねえよ、今も言った様に」

と返された。


「実際のところ1年もしない内に、毎月振り込ませていた額で見る限り、伊坂家の当時の経済力からすりゃかなり安くした上、色々な福祉団体とかに寄付してたんだよね。罪滅ぼしみたいな感じだった?」

吉村が尋ねると、

「犯罪やっといて同時に罪滅ぼしもねえが、色々面倒なんで後でまとめて説明するけどよ、元々伊坂は俺がもらうべきモンを横取りしたってのが俺の中に強くあって、それがある意味、悪事の正当化になってたんだわ……。その上、伊坂に振り込ませた分の中から、俺がガキだった頃に経済的に困窮してたのと同じ思いをしている人達にも分けることで、罪の意識を軽くしたいという意味があったのは、正直認めるしかねえな」

とゆっくり語った。無論、後から説明すると言った「横取り」とは、父である免出重吉から受け継いだ遺産である、本来の取り分の砂金のことだろう。この発言からも、佐田実と大将は接触して事情を聞いていたことが窺えた。


「今の件もだが、順に色々話を聞かせてもらえるかな?」

西田が言うと、

「ああ、こうなったら洗いざらい喋らせてもらうわ。なんでも聞いてくれ」

と、少々投げやりに答えが返ってきた。


※※※※※※※ 伏線後述 ※※※※※※※


迷走8 最後の方

https://kakuyomu.jp/works/4852201425154922648/episodes/4852201425154966905


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る