第235話 名実144 (342~344 経験と歴史 そして新たな捜査へ)
そして戦後、いよいよ安村の祖父である海東匠との出会いの場面になった。大島の最初の志と、その後変貌を遂げていく過程をはっきりと知って、さすがに安村も複雑な心中を隠せなくなっていった。
「大島が後を継いでから、利権優先の政治を行う様になり、海東家の方々との関係がこじれて疎遠になったという話を聞きました。そして小さい頃、一度大島とお会いになったとか」
西田は、大島の取り調べでは最後の方の話を先に出して尋ねた。
「私は当然当時は知りませんでしたが、疎遠になったのはその通りの様です。祖父よりも、祖母や私の伯母、母の方が怒り心頭だったという話です……。祖父は暫くは様子を見たいということでしたが、割とすぐに亡くなりましたので、その後の大島の醜態を見ずに済んだという話でした。その点はある意味幸運だったのかもしれませんが、祖父が存命なら、その後の大島の暴走を何とか出来たかもしれないと思えば、やはり不幸ではあったかもしれませんね……。後、私が大島と直接面会していたということは、やはり私の記憶にはないですし、親から聞いたこともありません。ただ、実際に会っていたとしても不思議ではないでしょう」
安村は、一つ一つ思い返すように言葉を選んでいた。
「順番的にはもっと後の方の会話でしたが、大島の事務所のガサ入れが、方面本部長の英断で決まった話をしたんです。そして、方面本部長の名字が安村だと私から告げられ、海東さんの孫だと大島が気付いた時、彼はむしろ喜んでいましたよ。師匠によって見出され、師匠の孫に最後は成敗されたと……。あなたの正義感と信念に、師匠の在りし日の姿勢を感じたんだと思います」
西田にこう伝えられると、ある種の仇敵としての思いしかなかっただろう安村にとっても、これまでと違う思いが湧いたか、染み染みと、
「そうでしたか……」
と一言だけボソッと漏らし、そのまま言葉に詰まった。
その様子に、西田は話を進めるのを
「大島は政治家として、海東さんと同じ道を、自分の身内を後継にしなかったことだけでしか歩めなかった、逆に言えばそこだけは歩めたと語ってましたよ」
と話を継いだ。
「そうでしたか。しかし、言うまでもなく、それよりももっと大事なものを守ってもらいたかったですね……。祖父から受け継いで欲しかったモノ以前に、まずは普通の人としての倫理を」
安村はそう言ったまま、拳を握った。そして、無念さを振り切る様に、
「では、佐田殺害についての経緯からお願いします」
と、いよいよ大島が犯した殺人についての話へ移るように促した。
※※※※※※※
長々と2人から詳細な事件の説明、そして政治家としての遺言の話を聴いた後、安村は、
「どこかで引き返せなかったんですかねえ……」
と言って席を立ち、窓辺へと歩を進めた。単純に祖父の「仇討ち」を完遂したという、達成感は既に消え失せていた様だ。
「あなたに最後介錯されたのは、ある種の
西田にそう言われると、
「いやいや、それは私はあなた方にしてもらっただけで……」
そう口を濁したが、
「宿命なんて言葉で簡単に片付けたくないですよ、大島にまつわるあらゆる話は……。余りにも色々な、そして大きなモノが失われました」
と、珍しく力んだ。
「それは確かに」
西田もやや間を置いてから同意した。
「でも、最後まで話を聞いた限り、おそらく社会にとって本当に痛かったことは、彼の犯罪による被害や政治に対する信頼の失墜というより、彼の政治家として主張すべきだった責任が、これで失われたことだったんじゃないかとも思うんです。……否、無論、被害者や遺族のことを考えれば、それは十分重いんですが、あくまで社会全体にとってという意味でね……」
安村はそう説明し直し、自分の席へと戻った。そして、2人を正視した上で、
「今聞いた大島の政治的主張が、本当に正しいかは私にも今は断言出来ません。しかし、その主張の背景に、理解出来る部分はそれなりにあるのも事実です、一介の警察官僚である私から見てもですが……。そうだとすれば、取調室と言う中で、広く有権者ではなく、お二人相手にしか伝えることが出来なかったことが、後々大きな意味を持ってくるんじゃないか、そんな嫌な予感がしないでもない。殺人で政治への信頼を大きく失わせただけではなく、政治で防げたモノも失ったとすれば、むしろ、そちらの方が将来的には大きな痛手になるかもしれない。それが大変残念です」
安村は、その前にした説明を別の表現で繰り返し、空になったそれぞれのティーカップに紅茶を注いだ。
「大島の主張は、現実化する可能性があるんですか?」
吉村がカップに手を付けながら尋ねると、
「そうなって欲しくはないですが、私自身の学生生徒時代からの知人にも、大企業の経営に携わっている者や、官僚や政治家がそれなりに居るんでね……。中には彼の発言通りの人格を持った人物も居なくはないんで……。それに、世論の傾向分析についても色々示唆的です」
そう言った安村の表情はやや曇った。その上で、
「勿論、真っ当な者も居ますから、そうはならないと思いたいもんです。ただ、大島は彼の長い人生で得てきた経験や感覚から、そういう警鐘を鳴らしたんでしょう。それには一定の敬意は払っておいた方がいいかもしれませんね」
と、やや頼りなげに語った。
「その真っ当な1人は、間違いなく方面本部長だと思いますから、大丈夫だと思いますが」
西田はそんな安村を励ますかのように、太鼓判を押してみせた。
その後は、3人でこれまでの事件捜査について思い返しながら、お茶を飲んでいたが、不意に吉村が安村に質問を始めた。
「そう言えば、大島が『遺言』を語っていた時、歴史を振り返りつつ、色々発言していたのは課長補佐が説明した通りなんですが、最後にちょっと気になることを言われたんです」
「何を言われたんですか?」
突発的な話にも、安村は落ち着いて応じた。
「『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』と言う格言があるじゃないですか? あれを大島に言うと、『発言者だったか? の真意を考えると、正確じゃない』とか『(大島)自身で考えても真意自体がおかしい』とか『自分で考えろ』とか何とか、去り際に色々言われたんです。一体どういうことかわかりますかね? 方面本部長の頭脳なら理解出来るかなと」
「ほう……。興味深い話ですね」
安村は案外乗り気で、
「おそらくその格言は、鉄血宰相として知られた、ビスマルクの発言が元になっていたと思います」
と説明し始めた。
「ビスマルクって言ったら、プロイセン何とか……」
西田が口走った言葉に安村は、
「ドイツを統一した、ドイツ帝国の盟主であるプロイセン王国の首相でもあり、その後のドイツ帝国の首相でもあった人ですね。鉄血政策に、さっきも言った鉄血宰相って
そう解説を加えた。この時吉村は、横でサッカーの蹴る真似を「小さく」していたが、Jリーグのプロサッカー選手だったビスマルク(作者注・ベルディとアントラーズで活躍したブラジル人ストライカー)を意識して茶化していたのだろう。
「そうでした! 確か桂小五郎とかの日本の維新の志士達と会ってましたっけ」
西田は合点が言って声を上げた。
「そうです。木戸孝允こと桂小五郎、伊藤博文、大久保利通辺りが会ってたはずです」
※※※※※※※
鉄血宰相とも称されたビスマルクは、1815年にプロイセンで生誕した。外交官をしていたが、1862年にプロイセンの国王であるヴィルヘルム1世から首相に任命され、その後ドイツ統一の為、戦争を遂行していく。
1867年に、オーストリア帝国との戦争である
鉄血宰相と呼ばれるに至った理由は、プロイセン首相となったその年の国会での演説に遡ることが出来る。自由主義よりも軍事力を高めることを優先すべきとして、「プロイセンの問題は、演説や多数決によってではなく(つまり民主主義によってではなく)、鉄と血(つまり軍事)によってのみ解決される」と演説した。この演説は「鉄血演説」とも呼ばれている。
この軍事力優先の政治が功を奏し、ドイツ統一を果たすものの、自由主義者や社会主義者弾圧などの、政敵への強権姿勢も目立った。一方で、労働者保護政策を導入しようとしたことに加え(これが原因で後の失脚を招く)、世界初の国民皆保険制度の導入を果たすなど、単なる専制的な政治家と言い切れない側面も多々ある。
また、軍事力だけではなく、巧みな外交力も持ち合わせており、普仏戦争から第一次大戦までは、欧州内では戦争は起こらなかった(作者注・いわゆるビスマルク体制)。
一面だけでは語れない多面的な政治家であり、毀誉褒貶も激しい。また、後のナチスへの影響を問われることもあるが、基本的に親ユダヤであった為、同一視する向きは減っている。
日本との関係性も深く、1867年に表敬訪問した岩倉使節団に、法律の整備よりも軍事力の整備を重視すべきと説き、後の富国強兵政策に大きな影響を与えたとされる。岩倉使節団の一員として、1873年にビスマルクと会談した大久保利通や伊藤博文も、ビスマルクに強く影響を受けた。伊藤博文は日本のビスマルクとも称された。
そのアドバイスのお陰もあり、日本は明治維新から時間を置かずに、世界の『一等国』へと変貌を遂げるものの、その成功体験が、日独伊三国体制で、最終的にドイツと共に破滅を招いたのは、大きな皮肉とも言えよう。
※※※※※※※
「えっと、岩倉使節団ですね!」
西田がつたない記憶を手繰り、ようやく正解を導いて軽く叫んだが、安村は歯牙にも掛けず……、と言うよりは、話の流れ上そこに戻る意味がなかったのだろう。無視したままで、
「そして、その愚者云々の逸話は、ビスマルク自身の発言としては、『愚者だけが自分の経験から学べると信じている。私は最初から過ちを避けるため、他人の経験から学ぶことが良いことだと考える』みたいな意味だった様です」
と説明してみせた。
「と言うことは、経験の重要性そのものを、ビスマルクが否定したという訳ではないんですね?」
吉村が念を押すと、
「単なる『自分自身の経験』というよりは、主観的過ぎる経験を否定し、客観性を持った経験には大きな意味があると考えていたんでしょう。その客観的な経験の積み重ねという意図が、後から『歴史』と言う言葉に、勝手に置き換わったんだと思います」
と答えた。
「そうなると、経験そのものを否定してしまった、今のあの格言は、大島の指摘通り確かに間違ってるってことですかね?」
「そう言えると思います。吉村主任の言う通りで、ニュアンスが違ってしまってると思いますね、元の発言からは」
安村も吉村の意見を肯定した。ただ、その安村の見解だけでは、大島自身がビスマルクの「真意」自体に疑問を呈していたことへの回答には、必ずしもなっていないと西田は感じていたのも確かだった。
そして安村は時計を確認すると、
「話に夢中になっている間に、もうこんな時間になってしまったか」
と呟き、
「そろそろ出掛けなきゃならないんで、残念ながらここで打ち止めにさせていただきます」
と2人に告げた。
「いえいえ。こちらこそ、お時間を取っていただいて」
2人もそう応じたが、
「それにしても、こちらの期待に見事に応えていただき、本当にありがとうございました」
と深々と礼をした。そして、
「今日の話を色々と聞く限り、私が唯一救われた点は、後身に譲る時点での祖父の選択は、根本では間違ってはいなかったのかなと」
と語った上で、
「少なくとも、全てを明らかにするという姿勢だけは、公判でも彼に貫いて欲しいと思います」
と、自分を納得させようとしたのか、一言一言明瞭に発言した。
「その点は全く問題ないはずですよ、今の大島なら」
西田からお墨付きに、
「是非ともそうあって欲しいです」
と、最後には吹っ切る様な言い方をした安村だった。
「ところで、方面本部長に是非1つお願いがあるんですが?」
「お願いですか? ……まあ私の権限の範囲内なら、今回のお礼もしなくてはなりませんからねえ」
西田の突然の申し出に、一瞬戸惑ったところもあった様だが、安村は両手を軽く広げて、受け入れの姿勢を示した。
「じゃあ遠慮なく。この後は、既にこちらで逮捕している連中の取り調べを全体的に管理していくことは勿論、本橋の起こした最初の殺人について、大阪府警が取り調べた後で、佐田実殺害についての瀧川の取り調べに、大阪まで行くことになるかと思います。場合によっては、更に椎野を筆頭にして、事件に関与したとされる重要参考人に話を聴く必要もあるでしょう。ただ、大阪での情報を聞く限り、瀧川がこちらの事件についても口を割ることは、まずないと見て良いと思います。椎野も時効に掛かった部分について、正直に話すことはまずあり得ないと見ています。そもそも話したところで、こちらには訴追しようがないんですが……。銃撃事件への関与も、大島の供述が事実だとすれば、訴追は無理でしょう。瀧川の方については、外堀を埋めていく形で起訴は問題ないかと思いますが、どちらにせよ、それまでにはまだ時間があります。申し訳ありませんが、一度専従という形は解いてもらって、1つ始末しておかないとならないことがあるんで、是非ともそちらに携わらせていただけませんか?」
西田は、最後にはかなり遠慮がちな言い方になっていた。
「その、始末しておくべきこととは?」
安村は話を聞いた上で、管理職として当然の反応を示したが、
「一連の事件捜査の端緒は、92年8月に発生した、倉敷出身の米田という青年の殺害が発覚したことからでした。それ自体は、大島や伊坂、本橋が関わった殺人と、直接的な関係はありませんが、誰かが伊坂大吉を佐田実の殺害で脅迫、恐喝したことで、何の罪もなかった米田青年の死を、結果的に招いたと思っています。つまり、本橋と共に殺人に加担した篠田という男が、脅迫行為で佐田実の遺体を確認する必要が生じ、たまたまそれを目撃した米田が巻き込まれて殺害されたという筋です。そして、その事件を私と共に追っていた北村刑事が、共立病院銃撃殺人事件で殉職しています。私としてはやはり、伊坂大吉への恐喝犯を挙げなくては、今回の一連の事件の本当の意味での解決は、到底あり得ないと考えているんです。是非、そちらへの私と吉村の、暫定的な捜査移行を許可していただきたいんです。11月11日、それが北村の命日ですから、それまでにその事件を解決する目処を立てて、墓前に報告したいんです!」
と、一言一句相手に伝わる様に力説した。それに対し安村は、
「なるほど。……伊坂への恐喝絡みでしたか……。それで、解決出来る勝算は?」
と、厳しい表情で西田に尋ねた。
「100パーセントの約束は出来ませんが、恐喝された金の振込先が既にわかっていますから、それなりには」
西田の言葉に、安村は軽く天を仰ぎ、
「本来であれば、この大事な時期に、実質的な捜査責任者も兼ねているあなたが、直接扱っている事件と関係していない他の捜査にも乗り出すというのは、到底許されることではないです。全国的にも注目されている事件ですから。しかし、私はあなた方には恩と借りがある。組織としての論理か、個人としての筋か、組織人としては前者であるべきだと思いますが……」
そこまで言うと、しばらく逡巡した。しかし、
「大島が落ちたことで、ほぼ関係者の証言が出揃い、既にほとんどの摺り合わせに齟齬がなくなりつつある現状を鑑みれば、筋を通せるだけの状況にあるとも考えます。……わかりました! 三谷課長や小籔部長には、私から伝えておきます。ただ、取り敢えずは、瀧川の取り調べまでの区切りということで。やはりこちらに注力していただくことは必要ですから。その点だけは抑えておいて下さい」
と言うと、すぐに晴れやかな笑顔になった。
「ありがとうございます! ご配慮感謝いたします! そのリミットまでに解決するかはわかりませんが、出来る限り捜査をしておきたいと思います」
西田は敬礼で応じ、吉村もそれを見て慌てた様に敬礼したが、
「来年の人事でも、お二人のご希望に沿える様にしておきますから、むしろ、そちらに期待しておいてくださいね」
と、安村は朗らかに言った。
※※※※※※※
方面本部長室を出ると、吉村が前を歩く西田の前に躍り出る様に、
「びっくりしましたよ! いきなりこのタイミングで捜査から、完全とは言えなくても抜けたいなんて言い出すとは! 相手が安村方面本部長じゃなかったら、到底許されないどころか、叱責されておかしくないですよ、全く!」
と、さすがに上司相手に軽目だが、はっきりと咎めてきた。
「しかし、11月11日というタイムリミットを考えると、瀧川の取り調べの後だと相当厳しいからな……」
西田は軽くあしらったが、
「今回はただの殺人事件じゃないですからねえ……。しかも米田の方は、篠田という殺害犯が既にこの世に居ない訳で」
そう言って、吉村としては、やはり西田の決意は非常識に映った様だった。しかし、
「北村の遺した音声がなかったら、事件の解決もなかった。あいつが命を賭けてもたらしたモノへの感謝は、こちらも行動で示す必要があるんだ」
という西田の発言から、決意が堅いことを悟ったか、
「北村さんと組んでた課長補佐としては、譲れないもんがあるんですねえ……」
と発言した。そして、
「でも落ち着いてからでも、時効は今のところ問題ない訳だし……。命日ってのはわかりますけど」
と、未だ腑に落ちない部分は隠せない様子だった。
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