第191話 名実100 (239~241 本橋や日向子の身の上)

「それにしても、何で今頃になって、北海道の新聞記者相手にそないなことを……」

首を捻りながら、強い疑問を抱いたようだった。

「実は、私は今でこそ新聞記者なんですが、95年当時、本橋さんを取り調べた経験がある、元北海道警察の刑事だったんです」

竹下が告白すると、

「昔は刑事やったんか? で、幸夫を取り調べたんか……」

と言って、そのまましばらく絶句した。


 竹下は敢えてそれに構わず、

「本橋さんは、重要なことを黙ったまま、死刑に処せられました。ただ、どうもそれに関することを、いつまでも黙っておくつもりはなかったようで、改めて死刑から5年後の今、我々に訴えたいことがあるようなんです。そのヒントが『ロッコウとヒナコ』で、それを黒田さんに聞けと書いてあったため、今日お邪魔したんです」

と述べて、経緯を丁寧に説明した。


「だったら、死刑になる前に、ちゃんと己の口から伝えとったら良かったやないか……」

と口にしたが、その言い方は先程までより、棘のないモノになっていた。どうも、ヒナコと言う、既に亡くなったという女性について本橋が触れていたことが、黒田の態度を曲がりなりにも変えさせた様だった。


「とにかく、こちらの質問に答えていただいて、深く感謝します」

竹下は、必要事項を聴き取ることが出来たので十分満足していた。

「ほんで、竹下はんは、これからどないすんのや?」

久保山が尋ねてきたこともあり、

「このまま大阪まで送ってもらって、そこから神戸へ向かいます」

と告げた。

「ってことは、このままその墓地に行くんかいな?」

「そういうことになりますね……」

「場所はわかっとるんか?」

「調べれば判ると……。あの、重ね重ね申し訳ないんですが、もし良ければ場所か行き方、そしてヒナコさんの墓の、墓苑内での大まかな位置を教えていただけると助かるんですが」

久保山に一度言い掛けた後、改めてそう黒田に問い掛けると、

「交通機関で行くなら、JRで神戸線の住吉駅、阪急なら岡本駅からタクシーに行き先伝えて乗ればええ。そんなに距離は乗らんはずや。10分程度やないかな……。墓の名義は、幸夫が捕まったすぐ後に、幸夫の頼みで、弁護引き受けてた弁護士の助け借りて、名義変更で俺の名前……、『黒田 公夫きみお」にしといたから、望洋墓苑の管理事務所で調べてもらえば、場所はわかるはずや。公夫の字は『おおやけ』に『おっと』。墓石には、『しばたに ひなこ』と刻まれとる。字は、芝生の『しば』に谷間の『たに』で芝谷、お天道様てんとさんの『ひ』に、向かうという字に子どもの『こ』で日向子や」

と、ボソボソとだがしっかりと教えてくれた。


「ありがとうございます。それでは」

メモを取って改めて一礼した竹下は、そのままスッと通りの方へ歩を進めた。その後を久保山も追いつつ、

「ここまで来たら、ウチの車で神戸まで送ったるわ! 精度はイマイチやが、カーナビもあるし」

と言ってくれたが、

「さすがにそこまで甘えるわけには……」

と断りを入れようとした。


 すると、

「今更何言っとんのや! 兄貴の遺言や! 最後まで見届けさせてもらうんは、ワシの権利でもあるし義務でもあるんや!」

と、背中を強く叩かれた。発言そのままの意図も、無論全く無かったということもないだろうが、おそらく、関西地区に不案内であろう竹下に気を遣ってくれたのだろう


「じゃあ、遠慮なくそうさせてもらいましょうか」

「そうそう、言う通りにしたらエエんや!」

竹下は久保山の厚意を受け入れることにし、2人は車を停めてある通りに向かって並んで歩き出した。


 その直後、後ろから黒田の声がした。

「ちょっと待てや! 墓苑言うても、かなりの広さや。墓だけで数百から千はあるはずや。場所を管理事務所に聞いたかて、どう考えてもすぐにはわからんやんけ! まともにやっとったら日が暮れるわ!」

なるほど、確かに黒田の言う通りだ。墓苑の場所がわかっただけで、すぐに見つけられるかは別の問題だった。さすがに日が暮れるまで掛かるかどうかは、相当疑問ではあったが。


「しゃあないやっちゃな。 俺も一緒に行くわ! 一体何をしに行くのかもようわからんが……」

続けて黒田の口から出た思わぬ言葉に、2人は顔を見合わせたが、黒田は近寄ってくると、

「日向子の墓はな、幸夫が捕まる前は、2人のうちどっちがか、毎年春と秋の彼岸、そして命日に墓参りしとったんや。幸夫が捕まってからは、俺が1人でやっとった。しかし、今年の秋はまだ行っとらんのや。せやから、車で行くんなら、墓参りついでに案内してやっから、俺も連れてけ! 文句無いやろ?」

と、ただ聞く分には乱暴な言葉遣いだが、小声で非常にありがたい申し出をしてくれた。その発言を聞いた久保山は、ちょっとはにかんだように、

「ウチのベンツの乗り心地は、機嫌の悪い黒田はんでも、必ず満足してもらえると思いますわ」

と太鼓判を押した。


「ベンツなんぞどうでもええ! ほな、ちょっと用意するから10分ほど待っててや。それに、カミさんにも何も言わんと仕事抜け出したら、後からしばかれるさかい」

おそらく場を和ませる為のちょっとした冗談を交え、小走りに2人を追い抜きながら、黒田は店の方へと戻って行った。


※※※※※※※


 運転手の新庄に久保山、竹下、黒田を乗せた大型ベンツは、河内長野から堺へと向かい、途中で花屋に寄って供花を買い求め、更にコンビニで線香やロウソクを購入した。更におそらく供物くもつにするのだろうが、お供えにはふさわしくない、たこ焼きを堺の商店街にあるたこ焼き屋で購入し、堺IC(インターチェンジ)から阪神高速へと乗った。


 仮に、黒田が一緒に来なかった場合でも、墓を探る必要があるとなれば、事前に儀礼を尽くすのが人の道という思いは、正直竹下も抱いていたので、どっちにせよ供え物などは、自分で用意しなくてはならなかっただろう。


 ただ、よく考えれば、墓の所有者でもある黒田に、その点について確認を取っていなかったわけで、もしそのまま付いて来なかったら、大変無礼なことになったかもしれない。とは言え、現時点でもそれを言い出すタイミングをまだ探っている段階であった。


 この日は日曜日ということもあり、道中多少混んでいるのか、運転手の新庄は、やや苛ついてるようだったが、助手席の久保山は、外見やこれまでの言動からすると意外な程、鷹揚に構えて、たまに鼻歌交じりに気分が良さそうだった。黒田との関係に多少改善の見込みがあったことも、気分に影響していたかもしれないと、竹下は推測していた。


 その間、黒田はポツポツとであったが、本橋の昔の様子や、芝谷日向子という女性について、竹下と久保山に語り始めていた。


※※※※※※※


 小学校3年の時に、初めて一緒のクラスになった、本橋、黒田、日向子の3人や他の仲間は、その後クラスが分かれた後も仲が良く、同じ中学に行き、卒業してからもよくつるんでいたということだった。


 小学校時代の本橋は、ケンカになると多少乱暴なところもあったが、自分から手を出すことはなく、基本的に「おもろく優しい」、そして、如何にも勉強というような勉強は全くしないものの、テストの点数は常に良く、かなり利発な少年だったらしい。


 放課後は、帰宅前に毎日30分だけ、読書を図書館でするのが日課だったと言う。その時間だけで、かなりの量を読み込み、中身もしっかり把握していたそうだ。図書館で本を読む習慣は、家で本を読める環境になかったからだと、少年時代の黒田にも薄々わかっていたおり、本橋の読書によく付き合っていたらしい。


 しかしながら、本橋の家庭が経済的に問題があった上、家庭不和で、少なからず、少年時代の黒田の目から見ても、「陰」を隠せなかったこともあった様だ。


 仲良くなり始めた頃、黒田の家に遊びに来ると、夕方になっても家に帰りたがらず、そのまま長居をして、黒田の親からも当初、煙たがられるところがあったという。その点については、状況を把握しつつあった黒田が、事情を親に説明してからは理解も得られ、夕飯を黒田の家族と一緒に食べることもよくあったそうだ。


そして、まともなおやつも食べられない本橋の為に、黒田の親が売れ残った菓子パンを、一緒に外に遊びに行く際には息子の黒田に、本橋自身が家に遊びに来て帰る際には、直接本人に持たせてくれたという。


 それを本橋に最初に勧めた際、当時は、食パンでもそれなりに高価な食品であり、菓子パンや調理パンなどは、更に手の届きにくいモノであったため、本橋少年が相当遠慮がちだったという。


 心中を察した黒田少年は、初期において、「ただの売れ残ったパンやから、食わんとそのままタダのゴミになってまうんや! 気にせず食わんかい!」と、敢えてキツイ言葉で勧めた。それを受けて、初めて本橋少年は喜んでパンを受け取ったという。

 

 それ以降、黒田がおやつのパンを本橋に渡す際には、必ず「『タダの』売れ残ったパンや」と言い、本橋少年は、「残り物には福があるんや!」と、ありがたく黒田の差し出すパンを受け取る習わしになっていたらしい。


 そんなこともあって、小学生当時、黒田少年は本橋少年に、冗談で「タダノ」と呼ばれることがあり、その場合、逆に相手を「フク」と呼ぶ間柄だった。そしてそれは、あくまで2人の間でしか通じないものだったという。それについては、大人になってからの「懐かしい思い出話」として、相席だった久保山もよく聞いていたようだ。


 本橋から久保山に託された、あらゆる手紙に、「タダノ」と終始書かれていたのは、それが元だったということになる。3人の間でしか伝わらない通称である。また、「残り物には福がある」という言葉は、黒田と居る時以外でも、本橋は普段からよく使っていたと久保山は述懐した。


 小さい頃から厳しい生活をしていて、おそらく、精神的にも未熟な子どもだったら泣きたいことも多かったはずだが、黒田は、本橋が一度も目の前で泣いたのを見たことがなかったし、泣き言も滅多に言わなかったという。それが、本橋のせめてもの意地だったのだろうと目を瞑りながら語った。


 その後、もともと「ヤンチャ」な面もあった本橋は、中学2年辺りから不良グループに入り、ケンカの強さと隠されていた統率力、そして明晰な頭脳を発揮し、メキメキと頭角現し始めたらしい。その時点で、黒田達は何とか引き戻そうとしたのだが、上手く行かなかったようだ。


 それでも尚、小学生時代からの古い友人とは、「昔の本橋幸夫」のままで付き合っていたので、黒田は、その後の本橋の過度な素行不良に不満は持ちながらも、黙認する形になっていた。遂にはヤクザになってからも、「ヤクザの素振りは俺の前では出すな」と言いつつ、ズルズルと付き合いを続けたらしい。


 一方、本橋は本橋で、黒田を含めた古くからの仲間と会う時には、ヤクザ臭は出来るだけ消すように努力していたのは、黒田達にもよくわかっていたという。この点は、既に久保山の証言でも聞いていたが、そのお互いの譲り合いが、長年の友情をギリギリのラインで踏み留めて、破壊しなかったことに貢献していたのは間違いなかろう。


 そんな強い結び付きのある仲間だったからこそ、その本橋少年が、後に見ず知らずの人を殺害しまくることが想像出来ず、更にそれが事実だと知った時に大きなショックを受け、自供から今に至るまで、黒田の頑なな態度につながっていたようだ。


 同時に、本橋がわざわざ「管鮑組」と、自分が近い将来持つであろう暴力団の組名に、到底合いもしない名称を付けようとしたこだわりの理由わけも、これらのエピソードから、竹下はよくわかった様な気がした。


 一方の日向子についてだが、本名は既に伝えられたように「芝谷しばたに 日向子ひなこ」で、河内長野にある児童養護施設から、同じ小中学校へと通っていたらしい。


 日向子は、生後まもなく、河内長野に隣接する大阪府唯一の「村」であり、楠木正成の生誕の地、且つ居城のあった千早赤阪ちはやあかさか村の建水分たけみくまり神社の境内に捨てられていたという(作者注・建水分神社とは、この一帯を治めていた楠木正成が再建した神社)。


 発見者の名字と神社の神主の命名で、このような名前になって戸籍が作られ(作者注・捨て子は、行政により新たに独立した戸籍が作成されます。尚、既に死亡していた場合でも、一度戸籍を作成した後で死亡という形が取られます)、その後、河内長野の児童養護施設に預けられたそうだ。墓石に「何々家之墓」ではなく、個人名が刻まれているということを聞いて、やや違和感を覚えていた竹下だったが、それを聞いて理由がよくわかった。


 特に美人というわけでもなかったが、身の上を感じさせない愛嬌と気立ての良さのある明るい娘で、男子からは割と人気があったと黒田は語った。中学卒業後は、自立せざるを得ないため、縫製工場に就職し、高校へと行った本橋や黒田達と、土曜日の夜中から日曜に掛けてよく遊び回っていたらしい。本来は高校へも行きたかったが、マイペースでゆったりしたタイプだった様で、縫製工場と定時制高校通いの両立は難しいと判断していたらしい。


 因みに、貧乏な上にワルだった本橋が、中堅上位の公立高校へ行けたのは、全く勉強しない割に成績が良かった点もさることながら、当時の担任が、本橋のその頭脳をもったいないと思い、他の教師や校長に頭を下げると共に、奨学金の受給に手を回してくれたからと言う話だった。


 学力はともかく、素行不良による内申やら経済的問題は、恩師のおかげで何とかクリアー出来ていたという訳だ。その恩師に対しての、「申し訳ない」という強い謝罪の気持ちは、本橋が結局中退してヤクザになってからも強く持っていたという。


 黒田も不良ではなかったが、高校からはバイクを買って乗り回し、「人の道から外れない程度に多少ヤンチャ」なところもあったと、笑いながら自白していた。本橋に至っては、捕まらなかったものの、無免許で、既に関係が出来つつあったヤクザから車まで借りて乗り回していたというのだから、当時から、流石に後の「片鱗」を見せつけていた様だ。


 そして、皆で当時よく遊びに行ったのが、神戸の六甲山であり、夜、頂上から見る神戸の夜景の美しさは、未だに当時の良い思い出だという。日向子もその神戸の夜景を大変気に入っていたらしい。


 その後、本橋は高校を中退してヤクザの道を駆け上った。仲間はかなり反対したが、本橋としても引くに引けない状態だった。因みに、日向子は、本橋のヤクザ入りについては、直接的に反対はしていなかったが、黒田や他の仲間には、「いつか自分で抜ける日が来るわよ」と、本橋を信じている風だったという。


 黒田は高校を無事卒業後、実家のパン屋を継ぐため、神戸の老舗のパン屋で修行に出た。日向子は、相変わらず縫製工場勤務という中、3人が21歳になった昭和45(1970)年の夏、突然の悲劇が襲った。


 深夜、残業で工場から帰宅途中の日向子を、飲酒運転の男の車が跳ね飛ばし、そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。その一報を聞いた黒田が、修行先の神戸から、なんとか暇を貰って急遽河内長野へと戻ると、引き取り手がないため、病院に安置されていた日向子の遺体の傍で、本橋が先に駆け付け、呆然と寄り添っていた。


 おそらく涙を堪えながら、

「お前は、一体何のために生まれてきたんや……」

と、白い布が掛けられた遺体に向かって、感情を押し殺すように切々と話し掛けていた。それを見た黒田は、自身もショックを受けていたが、本橋の落ち込み振りに、しばらく話し掛けることすら出来ず、30分程病院の待合室で時間を潰していたという。


 それまでは、無免許運転に加え飲酒運転も上等の本橋だったが、それ以降、正式に免許を取るため教習所へと通い、正当に免許を取った上、飲酒運転をしているのは見たことがないと、黒田は淡々と語った。昔からの仲間達と、当時開催されていた大阪万博(作者注・1970年の3月から9月まで大阪府・吹田市の現・万博記念公園で開催。正式名称は日本万国博覧会)に遊びに行ったのが、日向子との最後の思い出だったという。


 それについては、久保山も、

「ワシは兄貴の直属の子分という訳やなかったから、常に傍に居たわけでもないんやけど、確かに兄貴は、車の運転については、自分の車運転させてる子分にも、『無茶な運転は絶対したらアカン!』と、よう言いよったみたいですわ」

と口にした。それを聞いた黒田は、

「そういう、変な所に律儀なのがアイツらしいわ」

とポツリと呟いた。

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