第159話 名実68 (156~157 伊坂政光の告白4)

 西田と吉村は、そのまましばらく黙った政光を、同様に見守った。そしてやっと政光は話を再開し始めた。

「先に大島……桑野の従兄弟の小野寺の、これまでの話を聞いていた親父は、桑野の非業の死を知った。何しろ、親父にとって尊敬していた人物だから、自分も悲惨な体験をしたとは言え、大変残念に思ったそうだ。しかしその直後に、『しかしあんたが自分を欽ちゃんの替え玉にした時、正直びっくりした』と言われたらしい。それまでは、知らされていなかったが、よくよく聞けば、小野寺は爆死した桑野に、戸籍上もそのまま成り済ましていたという。しかもその目的は、怪我のせいで徴兵を免れていた桑野の身の上を、そのまま受け継ぐためで、事実、あの戦時中を召集されることもなく乗り切ったって話だった。そして、桑野に成り済ますという、ある意味同じ方法を、親父が佐田の家に訪問する時に思い付いたので、驚いたと言われたらしいんだな。ここで親父は、溢れ出る怒りを抑えるのに必死になったそうだ。あ、桑野が指の怪我のせいで、徴兵されなかったという話は知ってるのか?」

改めて確認してきた政光に、

「ああ知ってる。ずっと捜査していながら、気付いたのは最近だが」

と西田は頷いた。



「それなら、このまま話しても大丈夫だな……。それで、確かに桑野が指の欠損のせいで兵隊として召集されないことは、親父もよく知るところだったが、その従兄弟が桑野の障害を利用した挙句、親父自身が体験したような、地獄のような日々から逃れられたと知って、その不公平感に憤りを覚えたんだそうだ。それだけじゃない。桑野がその指の欠損で、苦労した過去を聞いていたから、その不幸を利用したことも許せなかったらしいんだな……。ここで親父は、その時何かが切れてしまったらしい」

ここまで聞いて、西田は、大吉と北条の2人が、免出を殺した高村を、報復で殴り殺した話を思い返していた。確かに、その殺人は到底正当防衛とまでは言えない一方で、屈折気味ではあったが、ある種の「仲間に対する熱い思い」のようなものを、大吉が本来持ったタイプではあった節がそこに窺えたからだ。政光の話のように、決して、召集から大島が逃れたことに対する、相手への不公平感から来る怒りだけの感情ではなかったと、西田は推測した。


「そして自暴自棄になった親父さんは、砂金を大島と2人だけで分け合うことにしたと? しかし、大島に対する怒りからは、その結論はかなり腑に落ちないぞ」

吉村は、大きな疑問を政光にぶつけていた。確かにその部分については、大島こと小野寺への怒りからは、なかなか結び付きづらい展開だ。


「実はな……、親父はその話を聞いてヤケになった後、砂金を掘り出してから、大島を殺して、自分で砂金を全部独り占めしようと思っていたらしい。弟は居るがどうせ北条本人は戦死してるし、免出の子供も見つかるとは思えなかったという免罪符込みでな」

「おいおい! 物騒な話だな」

西田はこの時はさすがに、大吉の妙な義理堅いところと相反するような残酷な性格の部分を、改めて認識せざるを得なかった。


「しかし、2つの理由でそれを諦めたんだと。1つは大島が世話になった桑野の親族だったってことだ。もう1つは……、沖縄で自分の仲間が大量に死んでいったことを思えば、更なる無駄な死を生み出して何か意味があるのかと、その時ばかりは考えざるを得なかったと言ってた。その親父が後に人を殺すことになるのは、相当の皮肉なのもわかってるが……。そして……だったら、他の連中の取り分を奪い取る罪を、目の前に居る気に食わない奴にも負わせることで、自分の負い目を軽くしてしまおうと思い立ったそうだ。その部分は、ヤケになった時の勢いそのままでやっちまったわけだな……。その時には、相手の大島がどう思っていたかはともかく、北条の分を大島が、免出の子供の分を自分が横取りした意識が親父にはあったそうだ。特に免出の子供は、状況から考えて、北条の弟より見つかる可能性が低いから、それぐらいなら自分が貰ってもバチは当たらないという、都合の良い意味を勝手に見出して、自分の取り分をそれに当てはめたって話だな……。その後の、自分の社会的地位を維持するために人を殺めたこと含め、そんな屁理屈で正当化されるとも、息子の俺ですら思わないが」

そこまで言うと、政光は忌々しそうな表情になった。本来は正義感が強いというのなら、血を分けた肉親であっても、やはり許せない部分だろう。


「そうなると、その砂金と札束の話に戻るが、親父さんは、最終的に自分の取り分だけは換金したんだな」

そう西田に尋ねられ、

「そうだ。親父は砂金を得ると、大島と別れて北見に住み始めた。自分の分の砂金は処分していったが、本来仲間に与えられた分を、ヤケになったとは言え、横取りしたことは、早晩後悔したようだ……。もう1人分の砂金、つまり勝手に免出の子供の分としていたモノには、最後まで手を付けずにいた。そして、その後事業が軌道に乗って余裕が出てから、大島が使い込んだであろうもう1人分、つまり北条の分と勝手に考えていた砂金の対価を、自分の責任として札で用意した。そういうことだ。それが親父の仕出かした、仲間への裏切りに対する責任の取り方だったというわけだ……」


 なるほど、伊坂大吉は少なくとも、ヤケになった後の仲間(の相続人)に対する裏切りについては、早い段階で悔いていたということなのだろう。それは砂金と、以前の発行形式である、聖徳太子の新札1万円の札束の保管により、現実に裏付けられたと言って良いはずだ。大吉は、大変自分勝手で、自分にとって不都合な相手に対する残酷性はあったが、元からある仲間意識の強さは、政光にそれを託したことから見ても、人生の最後まであったことだけは窺えた。


「おかげで、大吉が遺した砂金とかねについての疑問はそれで解けたよ……。ただ、問題はそこから先の話だな。続けて教えて欲しい」

西田に促され、政光はまた口を開き始めた。


「お袋とは昭和22(1947)年に結婚し、俺が昭和24年に生まれ、その翌年の昭和25年に伊坂組を作った。自分の名前は政光だが、それはあの親父が、『光ある政治が行われる』ことを願って付けたんだとよ。沖縄で酷い目にあって、個人じゃどうにもならない、政治の重要性を痛いほど思い知ったから名付けたと、40越えてから聞くことになるとはな……。そしてその親父が、結局は私的に政治を動かして土建の仕事を取るようになるとは、まさに皮肉としか言いようが無い。あんたらもそう思うだろ?」


 そう問われた2人は、何ともリアクションのしようがなかったが、事実として大いなる皮肉としか言いようがなかった。余りにも核心を突かれると、答えづらいということはよくある。それにしても、大吉のやることなすこと、元々の考えと矛盾することが多過ぎると西田は思っていた。正義感はあるのだが、その時その時の感情次第で、正しい考えが一貫しないし、悪事も働く。言うまでもなく、一般的な人間であっても、若干のそういう側面は否定出来ないが、大吉の振れ幅は、余りにも大き過ぎたのである。


「そして、その名を付けられた俺もまた、親父同様に政治を曲げた……。名前に込められた思いに反して、実態は全く反する結果になっちまった……。残念ながら、人間そんなモンだってことかもしれん。言い訳させてもらえるならばだが……」

政光は自嘲気味に語った。


 ただ、父親である伊坂大吉の旧名・「太助」とも改名後の「大吉」とも全く無縁の「政光」という名に、伊坂大吉が、自分の戦争体験からそんな思いを込めていたとは、西田と吉村にとっても、正直驚きではあった。


「ところで、親父さんは、戦前は『太助』という名前だったのを、改名して『大吉』に変えてるけど、それに何か意味はあったんだろうか?」

話のついでに西田が聞くと、

「良い所に気が付いたな。それも親父にその時打ち明けられたんだ……。会社を起こしたのを機に、改名して運勢を変えようとしたってのもあったが、それだけじゃなく、子供の分の砂金を取り去ってしまった、死んだ免出への詫びの思いから『吉』の字を取り、自分の太助から『太い』と言う字を取った上で、更にそこから『太』の下にあるテンを取ってだいにしたそうだ。点数を取る、つまり業績を上げることと、『天』下を取るの両方の意味を込めて、そう改名したと言っていた。後、『吉』の字を使ったのは、この先の人生に幸運があるようにという祈りもあったんだと。北条正人の分の砂金は、さっきも言ったように、大島に横取りさせたという意識が親父にあったのと、さすがに自分が『正しい』人間じゃないのはわかっていたので、正人から取って名前に使うことは、最初から頭になかったそうだ」

と答えた。


 まさか、改名後の大吉の吉という字に、免出重吉への贖罪の思いが絡んでいるとは思わなかったので、西田は複雑な思いだった。改めて、伊坂大吉という人間は、自分に都合の悪い人間に対しては時に大変非情ではあるが、その裏に自分勝手ではあるものの、妙に義理堅く仲間思いの素性も改めて見え、再び単純な善悪の視点で語れなくなっていたからだ。


「さて、伊坂組を起こした後は、どんな状態だったか聞いてるか? おそらく昭和30年代後半、多分、大島海路の衆院選・初出馬の際だと思うが、その時に再び、大島こと小野寺道利と再会することになったと、こちらでは推測しているんだが?」

名前の件で思う所があり、黙っていた西田に代わり、吉村がその先について問い質した。

「そうだな……。伊坂組は、親父が砂金の資金で起こした会社だったが、しばらくは国鉄の保線なんかの下請けで食っていく状態が続いていた。それ以降は、さっき俺が言ったような流れで今に至ったってことだよ」


 この話で改めて、1977年の生田原で行われた、国鉄職員主催のタコ部屋労働の犠牲者慰霊式に、かつて保線業務を請け負っていた伊坂組代表として、大吉が出席していたことを西田と吉村は思い出していた。そして大島が、衆議院議員に初出馬初当選したのが、昭和38(1963)年の衆議院議員選挙である。政光が生まれたのが1949年だから、当時14歳前後だったはずだ。大島がペーペーの1年生議員だったとしても、海東の後釜だったこともあり、一定の海東の威光もあったのは間違いない。それならば、海東自体は清廉な政治を行っていたとしても、その影響を利用して、多少の「無理」は効いたかもしれない。そうなれば、利権を伊坂組に回すことは、最初からある程度は可能だったと見て良いだろう。


 自分の人生を含めて、言いたくないようなことを振り返っている政光同様、質(ただ)す側の西田達も、それ以降しばらく口を閉じたままだったが、政光の思いを汲んでいつまでも黙っているわけにも行かない。時間を無駄にすることは出来ないのだ。未だ大島と伊坂が再び出会った話については、政光は口にしていなかったので、それを聞く必要がある。


「その伊坂組が軌道に乗って、それこそ大島の政治力と絡んで発展していくのは、親父さんが大島と再会したこと……、もっと言うなら、その再会の仕方から始まったと見ている」

「その話か……」

そう言うと、政光は固く結んでいた口元をやや開き、軽く息を漏らした。


「確かに親父と大島は、大島が初めての選挙運動で北見に戻って来た時に、再会したと聞いてる。生田原の砂金の在り処から北見まで一緒に行き、そこで別れたまま、何処に行ったかも知らない男が、選挙で演説しているのを見かけて、そりゃあびっくりしたそうだ。そして親父は、当選後に大島を脅迫した。『お前は、本当は桑野欣也に成り済ました小野寺道利だ』と……。結局のところ、大島は親父の言うがままに、伊坂組に仕事を回すようになった。大島が議員として力を持つようになればなるほど、伊坂組の仕事も増えていき、会社も成長するようになったのは既に言った通りだ。そういう循環だ。ウチにとっては好循環、世の中にとっては悪循環という奴だな」

この発言の最後、政光は薄ら笑いを浮かべていたが、それは当然、「どうしようもない」という意味での自虐だったろう。

「やはりそうか。大島も最初に選挙に出た際、北海道から出馬することに抵抗感があったと、大島をよく知る人物(小柴老人)から聞いていたが、その危惧が当たったわけだな」

吉村がそう言うと、

「ただ、当初親父は、自分の会社の仕事を増やそうという思いより、改めて大島に対しての怒りの方が強かったと、俺に言ってたのが印象に残ってる。従兄弟の死を利用してまで戦争から逃れた男が、今や国会議員になろうとしているのが許せなかったらしい。それで足を引っ張ってやろうという気持ちが強かったと……。既に会社は順調とまでは言えなかったが、徐々に仕事も増えてきて、切迫した状況ではなかったとね……。私利私欲や嫉妬も絡んだとは思うが、間違いなく怒りのようなそういう感情が、大島を見かけた直後に湧き上がったのは確かだと思う。直接息子に自分の恥を明かした時、そこまで嘘を付く必要もなかったはずだから。そりゃ、『言い訳じゃないのか?』と疑われるのは仕方ないが、そういう部分はあっておかしくはない」

と明かした。


 この発言を聞いた時、むしろ西田は、大島がこの脅迫をどう受け取っていたのかが気になっていた。おそらく大島は、伊坂大吉が純粋に自分の会社の成長のために、自分を脅迫したと考えているだろうと推測していた。まさか自分が召集から……戦争から逃れたことが、脅迫に大きく影響していると想像はしていないだろう。それは、砂金を横取りしようと持ちかけられた時の、大吉の心情含めてだったが。

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