第158話 名実67 (154~155 伊坂政光の告白3)

 一服も終わり、話の続きが始まった。

「親父はその後、しばらく羽幌はぼろ(羽幌町のこと。留萌市の北部にある)の方にあった炭鉱で鉱夫として働いたが、大きな会社とは言え、それまでの生田原の時とは違い、酷い目にあったらしい。戦後は、石炭(産業)は、日本の高度経済成長と共にあったから、黒いダイヤで高給取りだったが、戦前は、単なる使い捨ての鉱夫扱いだったってことだ。さすがに、徴発された朝鮮人やら中国人捕虜よりは扱いは良かったらしいが、戦時動員体制の下、馬車馬のように働かされたって話をしてたな」


※※※※※※※


 戦後、いわゆる「黒いダイヤ」として、日本のエネルギー産業の中核を担った石炭産業では、労働争議の乱発もあって、鉱夫の待遇はかなり良くなっていた。しかし、戦前は人権意識が低かったこともあり、特に戦時中は大量の石炭を人手不足(兵士として戦場へと向かった働き盛りの世代が多かったため)の中掘り出す必要があったため、鉱夫は到底日本人だけでは足りず、九州や北海道の産炭地では、それを補うための朝鮮人や中国人が大量に動員された。特に北海道では朝鮮人の比率が高くなっていたとされる。一部では、連合国の欧米人捕虜も使用された。現在でも問題となる「強制連行問題」の類は、当時の朝鮮人の場合、就業前の労働条件との差、徴発の際に強引な手法が取られたケースがあったこと、及び就業後の労働環境問題がほぼ原因となっている。


 また、特に中国人の場合、かなり捕虜が動員されたこともあり、これにおいても問題となっている。日本人労働者も決して良好な待遇ではなく、かなり無理な労働を課されたケースが多い。当然のことながら、個人、職場の個別により状況も異なり、個人個人の体験を全て一般化することは避けるべきではある。但し、全体的な傾向としては、戦後の一時期と比較して、まともな環境であったとは到底言いがたいのは事実だろう。


参照リンク

羽幌炭鉱

http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/area/haboro/21419.php

華人労務者

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E5%8A%B4%E5%8B%99%E8%80%85


京大研究者による戦前の筑豊炭田における労働状況研究

http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/44436/1/12_10.pdf


※※※※※※※


 西田はこの話を受けて、

「こちらが調べた限りでは、その後だと思うが、親父さんは召集されて、沖縄戦に動員されてるようだな」

と確認した。

「事件に関係ないのに、よくもそこまで……。さっきも言ったが、あんたらはようやるわ……」

政光は驚きつつ、半ば呆れたような口ぶりだった。

「そこまでって……。そこまで調べて初めて、事件の全貌がやっと見えてきたぐらいなんだから!」

西田は、それに対し、あたかも抗議するかのような言い方をした。様々な妨害や歳月という壁を考えれば、西田としても一言言いたくなったのは、仕方のないことだったろう。

「まあそれはいい……。その話の通りで、親父はその後召集されて、1度満州まで行った後帰国し、最後は沖縄で再び戦闘に参加する羽目になったそうだ。子供の頃に、亡くなったお袋から、親父が戦争で大変な目にあっていたらしいという話は、何となく伝え聞いてはいたが、直接本人から話されたのはその時が初めてだった。同じ部隊に居た仲間のほとんどが、まともな武器も持たずに米軍相手に突撃して、無残に死んで行ったってね……。親父は、九死に一生を得て生き残り、終戦後の9月間近に米軍に投降したそうだが、戦後何十年も経ってからですら、悪夢として思い出す程だと語ってたよ」

西田も吉村も、大吉が居た第89連隊の結末については、調べていただけに、その言葉に嘘がないこともわかっていた。


【作者注参考リンク http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100643_00000(大変貴重な第89連隊の生存者の証言映像が多数ありますので、是非御覧ください。尚、沖縄戦の生存兵士も、基本的に終戦の翌年である1946年の10月辺りまで、沖縄の米軍捕虜収容施設に収容されていたのが史実ですが、今作品ではそれよりは、やや早い段階で復員したという前提で書かせていただきます。ご了承ください)】


「それで、戦後沖縄から復員してきて、親父は残された唯一の希望とも言えた、自分の取り分の砂金を手にすることだけを考えていた。そして、戦時中も肌身離さず持っていた証文を手に、生田原の北之王鉱山に、証人の佐田徹に会いに行った。そうしたら、既にそこには居なかった。鉱山自体が閉山していたそうだ。それで仕方なく、いざとなったら訪ねるように言われていた、実家の小樽へと向かった。しかし、そこで親父は、佐田徹が戦死していたことを聞かされた上に、佐田の父親から『証文に載っている、他の仲間の誰かと一緒じゃないと、砂金の在処は教えられない。そう徹から伝えられている』と告げられた。当然だが、親父は相当絶望したようだな……。何しろ、他の仲間が今何をしているか全くわからない状態だったわけだから……。言わば死刑宣告に近いものだった。桑野欣也については、岩手出身だったから実家もはっきりとはわからない。北条正人については、実家は具体的にはわからないが、元々芦別の出ということで、芦別の役場にそれから行ってみたら、北条も戦死していると告げられたそうだ。弟が滝川に居たという話は、北条から聞いたことがあったが、それ以上の事はわからない。そうなると、あとは名前も知らない免出の子供しか残っておらず、いよいよ追い詰められた。何のためにあの地獄を生き抜いたのかと……。金もなく、行くあても無かったので、仕方なく、桑野がまだやってきてないことは聞いていたため、奴がやって来て、再会出来ることをわずかに信じて、小樽の駅前に出来ていた闇市で、下働きのような形で働くことにした。そこで、ひたすら桑野がやって来るのを待っていたそうだ」


 西田と吉村は、後に、桑野に偽装していただろう小野寺道利と伊坂が、一緒に佐田の実家に現れたことは知っていたが、このように、何の打ち合わせも連絡もないままに、伊坂が桑野を待っていたことに、正直驚いていた。何千人もの人間が、1日に行き交ったであろう当時の小樽駅前で、アテもなく桑野を待ち続けていた、当時の大吉の心境は、実際かなり絶望的だっただろうと2人は推察はしたが、同時にそこまでする砂金に対する執念は、おそらく沖縄戦を命からがら生き延びた故だったのではないかと思わざるを得なかった。


「よくそんな状況で、大島に会えたな」

西田が、思わずそう口にすると、

「桑野が大島だってこともお見通しか」

と政光は呟いた。そしてそのまま、

「じゃあ、その桑野が、本当は偽者だったということも知ってるのか?」

と確認してきた。

「ああ勿論だ。本物の桑野の従兄弟である、小野寺道利という人物が、桑野の爆死に乗じて桑野に成り済ましていたってのも把握済みだ」

敢えて、そう淡々と答えた西田だった。

「そいつは説明する手間が省けて、正直こっちとしても助かるな。何しろかなり複雑な話だから……」

政光はそれを聞いて力なく笑ったが、そのことを無視するかのように、

「話を戻すが、親父さんと大島は、一度も面識がなかったと見ているが、本当によく出会えたもんだな。小樽の駅前なんていう、当時から人の往来の激しかっただろう場所で。何かヒントがあったのか?」

と、吉村が大きな声で疑問点を質した。


「それはな……。実に単なる偶然だったらしい。ある意味運命だったとしか言いようが無い。親父もそう言ってたが……」

政光は今度は真顔でそう語った。

「そこの経緯についてもっと教えてくれ」

更に西田に詳細を求められて、政光は詳しく話し始めた。


「さっきも言ったが、行くあてもなく、金も尽きかけて、小樽駅前に出来ていた闇市で、無理を言って働かせてもらって、およそ数ヶ月ぐらいした頃だったそうだが……。ある日の夜、近くの雑炊を提供している屋台で、聞いたことのある強い東北訛らしい言葉を、屋台の店主と喋っている、若い男の後ろ姿を確認したらしい。そしてその男の後ろ姿が、割と大柄だった桑野に何となく似ていた上に、東北訛の話しぶりから、桑野じゃないかとピンと来て、思わず喜んで、桑野の愛称だった「欽ちゃん」と声を掛けたそうだ。すると、その男がびっくりしたように振り返ったが、顔は桑野のそれではなかった。しかし、明らかに名前に反応したのだから、本人がたまたま『欽ちゃん』と呼ばれていた経験でもなければ、そんな反応をするとも思えないよな? そこで、親父がそいつに色々と問い詰めていると、どうも桑野の実の従兄弟だと言う。その上そいつは、桑野は既に死んでいると親父に告げた。当然そうなると、佐田の親から砂金の在処を聞き出せないと絶望したのだが、その男、つまり今の大島こと小野寺は、桑野から証文と砂金の話を受け継いでいて、生田原に佐田が居なかったから、小樽に砂金の在処を聞きに来たというわけだ。そこで親父は、その小野寺と共に佐田の両親に砂金の在処を聞きに行くことにした。そしてその際、小野寺を桑野本人に仕立てることにした。本来であれば、死んだ桑野の、正当な親族であり相続人として、正直に佐田の両親に話しても良かったんだろうが、親父としては、一緒に行くのが桑野本人じゃないと、ひょっとすると何やら仕組んだと誤解されて、面倒なことになるかもしれないと考えたみたいだ。幸い佐田徹が戦死していたので、直接桑野を見た人間は既に居ないから、そこは嘘を突き通せると考えたようだな。最悪、嘘とバレて、親父がその首謀者として排除されたとしても、小野寺自身は正当な相続人なのだから、奴が聞いた在り処を、後から自分にも教えてくれれば良いとも考えていたらしい。因みにこの時点では、まだ小野寺が既に桑野として戸籍自体が入れ替わっていたことは聞いていなかったようだ」


 それを聞いた西田は、

「なるほど。ただ、最初から、大島1人に聞かせて、後から聞けば良かったんじゃないのか?」

と言うと、

「俺に聞かれても困るぞ、そんな話は」

と、政光は不満を述べつつ、

「一緒に聞いておかないと、情報を独占されて、自分の分も取られる可能性を考えたんじゃないか? あくまで想像だぞ」

と、それなりに説得力のある答えを示してみせた。


 それはともかく、確かに、佐田徹の砂金の分配の経緯を説明した手紙には、桑野について、岩手訛以外の点では、背が割と高いことの他の容姿については、余り明確な特徴は記されておらず、その点を考慮すれば、桑野として佐田の両親の前に現れても問題はなかっただろう。ただ、そうだとしても、徹が両親に宛てた手紙の内容まで把握しているわけではなかったので、かなりのギャンブルだったこともまた事実だったろう。更に、現在は少なくとも公式の場では、流暢に標準語を喋っている大島が、当時は桑野同様、岩手訛で普通に喋っていたことも知った。


「そして、砂金の在処を聞き出すことに成功して、そのまま生田原へ行って、2人で全部の砂金を掘り出して、ぶんどっちまったわけだな?」

吉村が棘のある言い方をしたが、ここで政光はやや声を荒げ、

「それは合ってるようでちょっと違うぞ!」

と異を唱えた。


 先日の西田単独の取り調べの際に、大吉をやや擁護するような発言をポロッと漏らしていたが、そのことと関係があるだろうと西田は睨んだ。

「何がどう違うんだ?」

そうとは知らずに喧嘩腰の吉村に対し、

「確かに、親父と大島で全部掘り出しちまったことは、本人が認めてるんだから間違いはない。ただ、最初から全部奪うつもりじゃなかったと親父は弁解してた。否、単なる言い訳じゃない! もしそうなら、砂金は全部使ってしまっただろうし、もう1人分の砂金に値するかねも遺さなかったはずだ。親父はネコババしたいと、最初から最後まで考えていたわけじゃないんだ!」

と熱弁した。


 どこまでが本当かはともかく、確かに砂金の1人分は丸々残っていたし、消費した分の対価であろう、古い聖徳太子の1万円札の束400万円分も、政光の家に遺されていた。これは、昔用意したものでなければあり得ないわけで、最近の行為では絶対にない。西田も気になって、

「そこを詳しく説明して欲しい」

と口にした。

「これについては、親父のある意味名誉の為にも言わせてくれ! 親父の当初の計画では、砂金を掘り出した後、北条正人の分は、生前に正人が弟が居ると話していたからその人に、そして免出の子にもちゃんと残すつもりだったらしい。ところが、2人で汽車で生田原に向かっている最中に、色々とこれまでの人生について振り返って、話し合っていた時のことだそうだ」

そこまで言うと、政光は唇を噛んだ。

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