第90話 明暗69 (266~267)


「ただな、西田! 結局それが納得させられる仮説だとしても、それだけじゃ上は動かせないな。状況は、指紋が合わなかった前の状況と、せいぜい良くて同じになるだけだ」

比留間は、黒須の疑問をすっ飛ばして、西田に冷水を浴びせるような現実論を語り始めた。

「それはわかってます」

短く言い切ったが、不一致による最悪の事態からは脱することが出来たというだけのことに、これだけパワーを掛けざるを得なかったわけで、やりきれなさも感じてはいた。


「一応ですが、今重要なのは、『訳がわからない』と言う状況からは脱せたってことでいいんじゃないですかね?」

黒須は場をとりなすようにまとめに入った。

「それでいいと思う。今日、この混乱した状況ではそれで足りる」

沢井はその発言を補強し、

「とにかく管理官! 結果だけでなく、今の討議についても、上にきちんと伝えておいてくださいよ、お願いします」

と比留間に頼み込んだ。

「まあ、その点はちゃんとやるから心配しないでくれ」

比留間も浴衣の襟を正すと、真剣な表情で返した。


「じゃあ、頃合いもいいところですから、飲んで鬱憤晴らしでもしましょうや!」

吉村としては、結局そこに辿り着きたいようだったが、比留間も沢井も笑いながらそれを受け入れた。捜査に掛かったストレスと結果の不満足さを、旅館に居る今ぐらいは、暫定的にでも解消しておきたいという心理が強く働いていたのだろう。どんちゃん騒ぎという気分ではなかったが、つかの間の休息にはなったはずだ。竹下に今の討議について伝えることも忘れ、刑事達は、ひたすら冷蔵庫のビールとカップ酒を消費する「作業」にいそしんだ。このこともあって、竹下に会議内容が報告されることは、当日中はなかった。


※※※※※※※


 翌12月10日、竹下は朝食を摂りに部屋から出て来ていた『御一行』を、昨日の宴会場で再び警備、いや監視していた。指紋の採取は、既に昨日の時点で結果がわかっていたので、もはや単なる時間をやり過ごすだけだった。宴会と違い、仲居の出入りもほとんどなく、大島筆頭にひたすら食べているだけだったが、昨夜はあの後も部屋で飲んだようで、二日酔いなのか皆余り箸が進んではいなかった。


 割と時間を掛けて食べ終えた後、大島達はお茶とタバコで一服し、部屋へと戻って行った。仲居がそれを片付けようとしてた最中、竹下は自分でも驚くほど無意識に、急に思い付いたような行動を起こした。大島の膳を片付けようとしていた仲居に、

「ちょっといいですか?」

と声を掛け、膳に載っていた陶器の湯呑みを手に取った。仲居は何かそれに理由があるのかという顔をしたが、竹下が警察だとわかっていたので、一々聞くことも憚られたか、

「もう行っていいですよ」

と促されると、そのまま他の膳に重ねて、片付けの作業を再開した。竹下はそれを昨日同様胸元に隠すと、こちらも食事中の西田に連絡し、手洗いで待たせていた大場にメモ書きと共に渡した。


「これ、柴田さんと松沢主任にって竹下主任が。」

部屋に戻った大場が、湯呑みを食事中の2人に手渡すと、

「結果はもう出てるのに、何やってんだあいつは」

と、柴田は訝しげな態度になった。しかし、添えられたメモ書きを見ると、違う意味でわけが分からなくなった。


【湯呑みの大島が口をつけた部分から、唾液等でDNAが検出出来ると思いますが、後から「試料」を渡すので、それと比較してください。詳しい話は後で。柴田さんは北見へ戻られるでしょうから、別途連絡させていただきます】


「DNA検査? 大げさな話になってきた。また何だろうな……」

柴田は爪楊枝で歯の隙間を掃除しながら、松沢に既に眺めたメモ書きを手渡した。西田もそれを覗き込みながら、竹下の意図を把握しかねていたが、何の意味もなくこういうことをやる人間ではないことも、身近にいて身に染みていたので、後から話を聞くまでは判断しないでおこうと思っていた。


※※※※※※※


 大島「御一行」は、午前10時過ぎにホテル松竹梅を出発。大島はこのまま女満別から東京へ戻り、支援者は中川秘書と共にバスで北見まで行き、そこで豪華な昼食を済ませてから散会という話のようだった。警備の連中は、大島を女満別まで送ってこちらも業務終了と言う話だが、業務終了を以ってそのまま解散というわけには当然行かず、北見方面本部まで戻って、業務終了の引き継ぎ・報告という流れだ。おそらく午後2時過ぎまでは、竹下は拘束されるはずだ。


 西田達もその直後にチェックアウトを済ませ、比留間と湯呑みを持った柴田は、北見へと帰路に付いた。そのまま倉野達へと報告もする予定だ。西田達も遠軽署へと戻り、竹下の帰還を待つことにした。署に戻ってからも、本来なら何か捜査に関係する話でもしておくべきだったかもしれないが、吉村と西田は昨夜痛飲したこともあり、さすがにアルコールは抜けていたが(吉村は本来運転するはずだったが、念のため運転を代わってもらっていた)ソファで寝そべっていた。沢井は部下の心情を思いやったか特に注意することもなく、ただ時間だけが過ぎていった。


 竹下が戻ったのは、既に外が暗闇になり始めた午後4時前だった。早速、湯呑みの話になった。

「指紋の件は、最悪の形だったにせよ片付いたんだから、湯呑みの目的は何だ? DNAがどうたらとか」

「課長、大したことじゃないんで……。大げさになってすみません。例の端布はぎれの血痕と比較したいだけです」

「端布? ああ、東京で話聞いた爺さんから送られてきたって奴か?」

沢井は思い出したように頷いたが、それでも竹下の真意は計りかねていた。

「そうです。小柴さんが言うには、大島が道を誤った場合の『戒め』だとか何とかって話なんで、ちょっと調べてみたくなって……」

「それを調べたところで、何か意味があるのか?」

沢井の疑問はもっともだった。


「一致して大島本人の血痕であれば、何か怪我したとか、殺されかけたとか、そういうことに繋がるかと思っただけです」

バツの悪そうに答えた竹下に、

「そうだとすると、大島とこれまでの事件の関係に何か生じるのか?」

と沢井が問い質す。

「考え過ぎかもしれませんが、義母の多田桜が、知人とは言え第三者の小柴さんに敢えて託してまで遺したあの布には、何か大きな意味があるように思えて……。それと、証文の桑野と大島海路が、これまでの事件の状況証拠や松島証言における伊坂の話にもかかわらず、別人だという奇妙な結末に何か関係してくるような気が……」


 竹下にしては、はっきりと理屈を明示出来ない、しどろもどろな状況だったが、いわゆる「刑事の勘」の類なのかもしれない。余り直感で動くタイプではないが、勘が鈍いタイプでもないだけに、西田も言下に否定出来なかった。

「あ、ちょっと待て、あれ竹下に言わないと!」

沢井が突然叫ぶように大声を上げたので、眠そうな顔をしていた吉村が、ハッとしたが、その意味を西田も理解した。

「課長うっかりしてました……。竹下! 昨晩結果が出た後、俺達なりに色々今回の不一致の理由について考えたから、お前の意見も聞かせて欲しい!」

西田はそう言うと、昨晩の竹下抜きの検討会について説明し始めた。


※※※※※※※


「結局のところ、やっぱり大島によるなりすまし説が有力になっちゃうんですよねえ……」

話を聞き終えた竹下はそう感想を言うと、西田達が署に戻ってから、西田の指示で、大場が事前に昨日の話をまとめて書き込んでおいたホワイトボードの前へと進んだ。


「そうなると、係長の言う通り、伊坂が大島に対して握っていた弱みは、一緒に砂金を横取りしただけでなく、大島が桑野を殺害してなりすましていたことも、やっぱりあるんですかねえ……。勿論、当時伊坂が大島と共謀したりして、桑野の戸籍などについて知っていた上での犯行という話になりますけど」

「竹下も似たような考えとなると、やっぱりこの線で行けるのかな」

西田は、自分の考えに改めて自信が持てる流れになったことを喜んだが、

「係長、さすがにそれは買いかぶりが過ぎますよ。正直、色々わからないことが多すぎて、何も確信は持てないです。それに、何故桑野になりすました後に、更に桑野の色を消そうとしたのか……。その流れになっていく理屈が、釈然としないままなのが問題と言えば問題ですね」

そこまで言うと、今度は昨晩の黒須が呈示した疑問に言及し始めた。


「後は黒須の疑問ですか……。『俺と一緒に砂金を横取りした時の奴の古い名前』っていう伊坂の発言とされるモノですね。勿論、それは伊坂本人ではなく、あくまで松島の口を通したものですが……。今、指紋が一致しなかったことを前提に考え直してみても、これは松島の証言内容が、伊坂が当時本来していた発言とは違うのか、それとも正確な記憶で、更にその回りくどい表現自体にも、ちゃんとした意味があるのか……。黒須の指摘は、筋が通っているという意味で、確かに頷けるところはありますが、自分には、何とも言えませんね、正直」

竹下は謙遜ではなく、単なる客観的な事実を述べただけだろう。何かはっきりとこれについて言及出来るような事実関係は、未だわかっていなかったのも確かだ。黒須も、竹下に何か意見することはなかった。


「ところで、DNA検査の話に戻るが、仮に別人説の通りだったとすると、あの布の切れ端も何か関わってくるんだろうか? それとも何の関係もないんだろうか? あれだけの血で染まった布に、義母の『戒め』発言」

西田は話を不意に血染めの端布に戻した。

「ひょっとすると、殺しも臭う別人説とも関わってくるのかもしれないですね、桑野と大島海路の……。まあ、ちょっとそれは都合が良すぎますか」

竹下はそう言って少し微笑むと、捜査資料のダンボールから端布を持ち出し、小さくハサミで血痕がしっかり付着している部位の端をカットし、西田に北見の柴田へ渡すように頼んだ。


「少なくとも、昭和35年以前のモノであることは確実なんだよな? 多田桜が死ぬ前だから。経過時間考えると、今の技術力では鑑定は厳しいかもしれんな、門外漢だから断定は不可だが」

受け取った際に発した西田の言葉に、竹下の表情は一瞬曇った。わかってはいるのだろうが、他人に指摘されると余計に気になることもある。


※※※※※※※


 12月11日、西田は大友から呼び出された。何かと思って呼び出された刑事部長室へ赴くと、倉野と比留間も待っていた。


「9日の指紋の照合の後、色々検討したという話は、比留間から聞いたんだが、こっちもその点について、考えていてね。そういうわけで、西田にも聴いておきたいことが幾つかあるから、来てもらった」

「どうですか、あの考えは?」

西田としては、何とか大島を直接射程に捉える捜査のラインをまだ残してもらいたい一心だった。

「まあ悪くはないとは思う。ただ、西田達が賭けていた、指紋の一致があってもギリギリなのに、それがないとなると、やはり直接大島を対象にしていく捜査から、大島逮捕を狙うのは厳しいわけだ」

「はあ……」

大友の話に、西田は返事とも溜息とも付かない言葉を発した。


「それはさておきだ。その桑野に大島海路が成り済ましたという説、いや、もっと言うなら、殺して成り済ましたって話だったな?」

「ええ」

横の比留間の方を見やると、比留間はそれを受けて頷いた。

「その話に、幾つか疑問があるんだが、それについて発案者でもある西田に、どういう考えがあるか質問させてくれ」

「わかりました」

西田は思わぬ展開に、緊張感がみなぎってきたが、表に出すまいと敢えて表情を緩めた。


「まず最初だが、桑野を殺すまではともかく、どうして桑野自身に成り済ましたかの動機が見えない。仮に生きているように見せかけたかったとしてもだ、戦後の混乱期のことだ。そこまでしなくても、言葉は悪いが、流れ者みたいな人間1人や2人居なくなったところで、殺人がバレるとは思わないんじゃないだろうか? それに、成り済ませば、本物じゃないと万が一バレれば、余計詮索されかねないんだぞ? 結局のところ、大島自身がどうして桑野へと変貌しておく必要があったのかどうか? ちゃんとした動機が必要な気がするぞ」


 西田はしまったと思った。相手は時間を掛けて検討しただけあって、あの場の勢いでやってしまった考えは、やはり単純な欠点があったようだ。大友の指摘は痛いところを突いてきていた。

「それは……」

大友の視線が、立ちすくむ西田に突き刺さってきた。しばらく答えられないでいると、倉野が助け舟を出すと共に追い打ちを掛けた。

「部長とも協議したんだが、俺は、それについて深く考える必要はまだないとは思ってる。しかし、それでやり過ごしたしたとしても、次の問題が出てくる」

「と言いますと?」

「大島海路が桑野に成り済ました後、その大島海路の実人物は、どういう扱いになったんだろうか?」

再び大友が倉野に代わって疑問を呈した。この時、西田は多少頭が回るようになっていたので、即座に、

「桑野と比較して、世の中から消えて良い存在だった、そういうのはどうですか?」

と返した。

「ふむ……。つまり世の中から消え失せても誰も心配しないし、問題にならない?」

「はい」

「その点については、さっきも言ったが、桑野自身も、余り社会的に存在感のある立場じゃなさそうだったから、それより更に存在感のない人物が大島の実人物だったとなれば、筋は通るかもしれない」

大友は西田の苦し紛れの回答ではあったが、根拠を聞いた上で一定の評価を示した。


「わかった。2点目については、そういう抽象的な考えでも、まあ悪くはなさそうだな。となると、やはり1点目だな……。わかった。取り敢えず今日はそれでいい。もしこれから何か思いつくことがあったら知らせてくれ」

大友はそう言って、ひとまず矛を収めた。

「わかりました」

「それから……。例の北村のテープの件だが、指紋が一致しなかった以上、証言内容にも部分的とは言え疑問が出てしまった。最終的にどうするかはわからないが、捜査員にもきちんと開示出来そうなのは、共犯の2人の会話部分だけになると思う」

倉野が、大友の発言の後を受けてもう1つの検討結果を告げた。


「やっぱりそうなりますか……」

西田としては上の決定に落胆すると同時に、仕方ないと納得せざるを得ない感情が入り交じっていた。大島の佐田実殺害関与を疑わせる証拠としては、大島の圧力を気にする以前に、指紋の不一致と松島の証言による伊坂の話に齟齬が生じたせいで、テープの中身そのものの信憑性に疑義が生じてしまっていたからだ。

「じゃあそういうことでよろしく。もう戻ってもらって構わん。仕事中スマンな」

大友はそう冷たく言うと、椅子を回転させ、窓の方へ向き直した。ある種の拒絶の意図が含まれた態度のような気がして、西田としても、相手を説き伏せることが出来ないまま、忸怩たる思いを抱いて部長室を出た。


※※※※※※※


 戻った捜査本部の室内で、吉村から

「どうでした? 何か問題でも?」

と聞かれ、事情を説明すると、

「そうかあ……。そこは考えが抜けてましたね。イケると思ったんですが、上はあんまり納得してくれなかったってことですか。何か対策を考えないと」

と言ったまま、考えこんでしまった。


 結局その後も、西田、吉村のみならず、竹下筆頭に遠軽署のメンバーも向坂も、何故大島が桑野に成り済ます必要があったのか、具体的且つ説得力のある考えをひねり出すことは出来ないまま、時間が経過するだけだった。

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