第91話 明暗70 (268~270)

 それからの捜査本部ちょうばの捜査状況は、決して芳しいものとは言えなかった。そして、警察庁(通称・察庁)の圧力もあったのかもしれないが、指紋の不一致から発生した松島の証言テープへの信憑性の低下は、捜査本部首脳陣の捜査方針決定において、その方向からの捜査着手を除外する方向へと進んでいた。


 単に大島の影響との絡みで捜査員全体に開示出来ないという流れから、中身の信憑性に疑義が出て来たという本質的な問題点の発生は、「いざとなれば警察上位組織と全面対決」と言う「覚悟」への阻害要因となっていたわけだ。


 一方、ついに大友と倉野は、テープの中にあった、実行犯2名の会話の部分を捜査員に開示することにした。捜査本部の総力を上げて、全国的な葵一家系の末端組織まで含んだ構成員のリストを、「アベ」姓を中心にチェックすることで洗い出しに掛かることにしたのである。


 道内の暴力団関係は全て洗い、大島との絡みを暗に視野に入れ、関西の葵一家直系の構成員も洗っていたが、さすがにこれ以上の調査を「知っている」者だけで何とかしようというのは無理があった。いつテープを発見したかについては、何とか誤魔化したが、少なくとも犯行グループの会話部分まで1ヶ月近く一部のみの情報共有だったのは、結果的に判断ミスと言えたかもしれない。


 西田、吉村はと言えば、北見の捜査本部の捜査に従事しながらも、竹下と黒須が調べてきた、桑野欣也の原戸籍にあった、母親の「桑野トキコ」について調査もしていた。


 桑野の父親は、地元「田老町」の出身と明記されていたが、母親は岩手県三陸町綾里地区の出身であった。否、正確に言えば、亡くなった当時は三陸町ではなく、綾里村だった(作者注・三陸町は2001年11月15日に、更に大船渡市に吸収合併されており、現・大船渡市三陸町綾里地区)。そこから、何か掴めるかもしれないと考えたのだ。


 桑野欣也が、大島海路ではないかという疑惑が出た時点では、そちらの解明を再優先に竹下が動き、その後すぐに高垣の記事問題、高垣への調査依頼、指紋の問題と立て続けにやらなくてはならない課題が続出したため、この話が後回しになっていた。


 前回の田老町での調査は、竹下と黒須が東京に行くついでという形で「現地調査」が可能だったが、今回は予算と時間の都合もあって、三陸町役場に直接捜査協力を要請する形にしていた。


※※※※※※※


 12月13日水曜、この日は、本橋の佐田実殺害についての初公判を迎えていた。弁護側は既に死刑が確定していることや、本橋が自供していることもあり、事実認定について争うことはなく、情状酌量も求めなかったことから、殺人事件としては、かなりのスピード判決が想定された。おそらく1ヶ月から2ヶ月で判決が出るのではないかと予想する向きが多かった。


 12月15日金曜、三陸町の住民・戸籍課によって、報告書が遠軽署に速達で届けられた。西田は、調査自体が北見の捜査本部の方針とは既に乖離していたこともあり、結果報告は直接遠軽署に届けるように頼んでいた。小野寺トキコの除籍謄本は入っていなかった。不可解に思った竹下が報告書を見るとその理由が判明した。


 昭和三陸津波により、当時の綾里村も壊滅的な被害を受け、この地区の大半の住民が死亡または行方不明となったということだった(作者注・当時、綾里村がどの程度の死者数を出したかは把握しておりませんが、昭和三陸津波でもっとも遡上高が高かったのはこの綾里村の28m近辺ということで、このような話にしました)。また、綾里村の役場も田老同様津波で流され、戸籍などの記録がすべて流出したらしい。そのため、桑野(旧姓)小野寺トキコの除籍簿が見つからなかったようだ。


 戸籍の再製の形跡もなかったことから、少なくとも小野寺トキコの父や母、或いは近い親族等は地域の中で津波により死んでいた可能性が高いのではないかと、遠軽署のメンツは判断した。


 この推測により、桑野に大島海路の実人物が成り済ましても、今まで全く問題にならなかったのは、戸籍のロンダリングや年数の経過だけではなく、また父方だけでもなく、母方の親族も死んでいたということも理由としてありそうだと言えた。


 そんなそれぞれの捜査員の苦闘の最中、道警本部による本橋の聴取も継続していた。本橋のあの調子故にやはり限界があったが、既に佐田殺害の根幹部分は自供しているので、12月中は避け、年明けに第一回公判が開かれる見込みらしいと西田は倉野から聞いた。


 本来であれば、これだけの事件だけに、もっと先でもおかしくなかったが、関わった人間が「裁判所」は全て死んでいると考えていることや、ほとんどの件について自供していること、本橋が既に死刑囚であるということも影響したか、かなり早目の公判展開となったようだ。


 いずれにせよ、本橋は必要最小限のことだけ言い残し、最終的には死刑になっていくのだろう。その覚悟は、善悪、立場の違いこそあれ、西田から見ても相応の重みを感じるところがあった。


※※※※※※※


 残念ながら、アベ姓だけの洗い出しでは、事件に関与出来そうな者を見いだせないまま時間は進み、12月17日を迎えていた。捜査本部に居た西田は、柴田から電話で呼び出された。例の端布の血痕と大島の湯呑みから検出されたDNA検査の結果が出たらしい。


「早目のクリスマスプレゼントとしては無粋だな」

柴田の元へ向かう最中、同行している吉村に愚痴ると、

「まあ、捜査本部の空気の悪さから逃れられると思えば」

と返してきた。


 確かに、捜査員の大半は、暴力団のリスト洗いから、再び見込みのない聴き込みへと捜査方針を変えていたので、外回りになっていた。一方の西田達は、そういう立場ではないので、どんよりした室内で相変わらず、アベに限定せずに暴力団構成員リストの再チェックという、先の見えない作業に追われていた。その状況から逃れられるなら何でも良いという心境だったのだろう。


 ノックして鑑識課の部屋へ入ると、すぐに柴田が手を挙げて迎えた。

「忙しいとこ悪かったな」

「別に忙しくもないですよ」

西田は真顔で言ったが、

「おいおい、他意はないぞ」

と口の悪い柴田にしては珍しく言い訳しだした。本人としては嫌味や皮肉の類として取られたら堪らないという意識が働いたようだ。逆に言えば、それだけ西田が怖い顔をしていたのかもしれない。捜査が上手く行っていないことは当然柴田もわかっていたはずだ。

「いや、そのままの意味ですから」

慌てて西田も釈明した。


「そうか……。まあいいや。それで結果なんだがな……。さすがにかなり古い血痕のようで、今の技術だと難しかったってよ、科捜研の話じゃ」

柴田の口ぶりからは、余り期待できる答えが出てくる気配はなさそうだった。

「ダメでしたか……」

「いや西田、一応結果は出た」

思いがけない言葉に、ちょっと安堵する。

「それで、血痕は大島のだったんですか、それとも別人?」

「それがだな、微妙なんだ……」

吉村が急かすも、柴田は含みをもたせた言い方をした。

「微妙というのは引っかかるなあ」

西田はすっきりしない答えに不満を口にした。

「結論から言えば、本人の可能性は十分あるそうだ。だが、本人かどうかの断定までは微妙ってこと」

「え? 何すかそりゃ?」

砕けた言い方だったが、吉村がそういう風な口の利き方をした気持ちも理解出来た。


「俺も科捜研のような専門家じゃない、ただの鑑識だから、その分野の専門家じゃないんでね。はっきり上手く説明することは無理があるんで、割り引いて聞いてくれ」

再び言い訳めいた発言を柴田はしたが、すぐに言葉を続ける。

「簡潔に言うと、両者とも通常のDNA検査では男性であることだけは確実らしい。ただ布の血痕の方が時間的経過のせいか、DNAの欠損部分が多くて、唾液部分と比較して本人とは言い切れずってところらしい。一方でミトコンドリアのDNAについては確実に一致したので、少なくとも、女系の血縁関係はあるという判定らしい」


 柴田はいつもの口の悪さからは想像できないような、相当硬い口調だったが、おそらく、話している内容がしっくり来ていないが故だったのだろう。

「ミトコンドリアってのは、自分の昔生物で習った記憶では、活動エネルギー生成やらに関わってる細胞だったかなあ。高校の時にやってたけど……」

吉村が珍しく「学術」に関わることを言ったので違和感があったが、西田も生物をやっていた記憶からすれば、そんなような記憶が断片的に蘇っていた。

「そうらしいな。人間の細胞とは別の遺伝子を持った、まあ別の生き物が人間の細胞の中に入ってるみたいなもんだ。それで、ミトコンドリアのDNAってのは、非常に丈夫で時間経過があっても検出しやすいらしい。そこを調べたら確実に一致したので、男性であること、通常のDNA検査でも共通部分が見られたことから、本人かもしれないって」

「確か、ミトコンドリアは母親からしか遺伝しないんでしたよね? それで女系の血縁関係は確実にあるって結論になった、そういうことですね?」

「そうそう! 男系からは遺伝しない。母親の子供は性別問わず同じミトコンドリアを持つ。息子と娘それぞれが結婚して更に子供を持っても、その子達、つまり従兄弟関係になるが、そいつらのミトコンドリアはそれぞれの母親のミトコンドリアを持つことになるから、元の母親にあたる女、つまり祖母のミトコンドリアは、娘の方の子供、要は孫と一致するが、息子の方の孫とは一致しないってことだな」

「えーっと、よくわからんな」

西田は2人の会話を聞いているだけだとイメージが湧かなかったので、そう言うと、柴田は近くにあった紙にペンで書いて説明してくれた。吉村は会話の様子から見て、悔しいが案外生物を西田よりはきちんとやっていたようだ。


「なるほど! おかげで大体わかりました。つまり、少なくとも血縁関係はあるだろうと言うことですね!」

西田ははっきりと理解出来たせいか、やっとすっきりとした気持ちになった。


「しかし、そうなるとですよ、あの布切れの血痕は大島本人か親族のモノだとして、何の意味が出てくるんでしょうね? 柴田さん」

と、吉村が根源的なことを問い出したので、

「そりゃ竹下が調べてくれと頼んだわけだから、俺に聞かれてもねえ……」

と口ごもった。

「依頼された時に聞いた限りじゃ、竹下もその点はよく目的意識がはっきりしていたわけじゃなかったろ?」

柴田もその点については、疑問があるようだった。

「ええまあ……」

西田もそう肯定せざるを得なかったが、

「取り敢えず、これ鑑定結果のレポートあるから、これを見せれば大丈夫だろ? 竹下なら」

と柴田に言われ、

「あいつなら多分それで理解するでしょう……。と言うより俺達が口で説明するよりそれの方が断然わかりやすいはずです」

と西田は苦笑した。


「あ、そうだ! どうせなら桑野の血判と大島のDNAも調べてもらえば良かったな。どうせ違うんだけど」

西田は思い出したように柴田に告げたが、

「それは俺が既に確認してある。今の技術じゃ数十年前の紙に染みこんだ血液のDNAを採取して調べるのは、ミトコンドリアDNAの鑑定含め不可能だとさ。紙だとDNAの酸化の度合いが激しすぎるらしいんだ。今回の布のミトコンドリアの件ですら、いくら丈夫と言えども経年数考えると奇跡的なレベルらしい」

と言い出した。その手回しの良さに西田は舌を巻いたが、

「どっちにしろ、指紋が別人なんだから調べる意味なんてないだろ! 俺も聞く意味があるかどうか迷ったけど、念のためって奴だよ」

とやっと柴田らしく笑った。


※※※※※※※


 夜になって遠軽署に戻り、竹下に対して簡単に自分の口で柴田とのやり取りを伝えた上で、科捜研によるDNA対照検査の結果を見せた。じっくりとレポートを見ながらも、ところどころで首を傾げ、口を真一文字に結ぶ様子が垣間見えた。


「血痕が大島本人のモノだとすれば、大怪我か何かして、それが戒めの元になったという話として理解出来るんですが、本人ではないが女系の親族だとすると、どういう筋書きを描けばいいか、色々想像出来てしまって、むしろわからなくなってしまいましたね」

竹下の言葉に、共に捜査していた黒須も、

「大島が桑野と別人という公算が強くなってしまったわけだから、戸籍から辿り様がないってのも、ますます状況を難しくしてます」

と困惑を隠さなかった。


「そもそも、仮に桑野と大島が同一人物だったとしても、戸籍の再製は、桑野の自分の直接の家族の分だけだ。母親の方の親族も津波で追跡出来ない。親しい親族は全部津波で死んでるとすれば、端布の血痕が、自分の直接の家族である母親もしくは戸籍にあった弟のモノ(作者注・女系を介した血縁関係を前提にしているため)だとしても、少なくとも津波による死亡の際に出来たとはちょっと考えにくい。基本水死だろうからな(作者注・311の津波でも、一般的によくわかったことですが、津波の場合には、水死より前に瓦礫等が水流でかなりの凶器になるので、この考えはあてになりません。実際、311では切断など、損傷のある遺体がかなり多かったという話も伝わってきています。ただ、時系列上も含め、そういう知識があったとは言えないでしょうから、その点は敢えて無視させていただきます。93年の北海道南西沖での津波は夜中の発生でしたので、事態がよくわからなかったこともあり、当時そういう意味での津波の恐ろしさは、一般的な認知度においては、ほぼ皆無だったと記憶しております)。現状ではちょっと結びつかないね」

西田はそう言うと、竹下から受け取ったレポートを軽く自分の机の上に放り投げた。その様子を見た沢井は、

「布から何か掴めるようなモノはなかったか……」

と残念そうに確認すると、

「元々期待薄でしたから、まあこんなもんでしょう」

西田はそうサバサバとした感じで返し、

「結局こっちも打開策にはならないか……。ホントにどうなるんだろうな! この事件は!」

と、ストレス発散するかのように軽く叫んだ。しかし、その思いは、他の刑事達にも痛いほど共感出来るものだったせいか、逆に無視というか静観されてしまった。


「まあまあ」とでも部下が宥めてくれることを期待していたが、それも空振りに終わり、何となく居心地が悪くなった西田に、沢井が追い打ちを掛けるような情報を入れた。

「西田……。言い出しにくいことで、黙ってたが、ついでだから今言っておく。さっき大友さんから連絡あってな……。どうも、遠軽からの捜査応援は年末までで打ち切りって話らしい」

衝撃的な話に、

「え? ちょっと待って下さい、この状況で!? 北見に居た時、直接こっちは聞いてないんですが?」

と食ってかからんばかりに沢井のデスクに詰め寄った。


 沢井は特にたじろぐこともなく、

「指紋が直接確認でも一致しなかったことが、やはり最終的な判断材料になったみたいだ。遠軽署うちの方は人員的にはなんとかなるとは言ってみたが、『これ以上迷惑掛ける訳にはいかない』って話されてな……。でもな、指紋の話をちょっと挟んでみたら、やっぱりそれが大きく影響したみたいだな。そっちが一致してりゃ、まだ西田と吉村の協力には大きな意味があったはずだから……」

と、淡々と事情を説明した。

「しかしそうなるとですよ。いよいよウチは事件には、直接的にもう関われない公算が高くなってしまいます。佐田の事件も本橋と伊坂、篠田、喜多川の犯行という話で、捜査終えて起訴まで進んじゃってるしなあ……」

吉村はお手上げという、両手を軽く上げる仕草を交えた後、背もたれに上半身を預けた。

「それは、圧力が絡んでるんですかね?」

そんな部下を横目に、西田は沢井に答えを求めた。

「それは大局的に見れば違うと思うぞ。今の捜査状況だと、本当に2人に協力してもらうだけ時間の無駄だと思ってるんじゃないか?」

そう言った沢井には、特に何か誤魔化したような素振りは見えなかった。本気でそう思っているのだろう。


「うーん、確かに暴力団のリスト再洗い出しとか、ただの雑用になってるのは認めざるを得ませんが……」

西田はそう言ったきり二の句が継げなかった。圧力以前に、勝手に西田達の捜査方針自体も路頭に迷っているのだから。

「別人説で、大島が桑野に入れ替わった話は、既に比留間管理官が上に掛けあってくれたんだよな? あの後更に西田も呼ばれて色々聞かれたんだろ? その後何か聞いてる?」

黙ったままの西田を見て、沢井は話を転換した。

「いえ。あれ以降は良い案も出せずに、あちらかも特に何も」

「そうか……。とにかく明日、北見でちゃんと上と話し合ってみろよ。最終的には俺の指示ではなく、あっちの指示に従わざるを得ないんだから……。捜査権限はあっち持ちなんだからな」

沢井は説得するような口ぶりで言うと、おもむろに席を立ち、コートを羽織って帰宅の準備を始めた。そして最後に、

「俺は、2人がしばらく北見に出張でばったままでも一向に構わんのだからな。その点だけは心に留めておいてくれよ!」

と、西田達を鼓舞することも忘れなかった。


※※※※※※※


 12月18日、大友捜査本部長(以下倉野まで、いずれも捜査本部での役職名記載)、倉野事件主任官、比留間管理官相手に、西田は吉村を引き連れて、「交渉」に当たっていた。沢井課長のアドバイス通り、2人の捜査本部応援期間の延長を申し出ていたのだ。


「もうちょっと何とかなりませんか? まだ銃撃事件発生から1ヶ月ちょっとです。佐田実殺害事件が、今回の銃撃事件に関連している確率は高いままでしょう?」

「それはそうだが、温根湯温泉での特別捜査で、描いていた筋書きに根本的な問題あったことは確定しただろ? 少なくとも松島が証言していた、『伊坂大吉と大島海路は共に砂金の他者の取り分を横取りし、それが理由となって一連託生の関係になった』ことと、『証文にあった桑野欣也という名前が当時の大島海路の名前だった(松島の証言内容を捜査側が意訳した形)』ことが結びつかなくなったわけだから。やはりその壁が高すぎた」

倉野にそう説得されるも、

「どんどん積み上がっていた状況証拠の流れが、大元で切れかけているのは否定出来ません。ただ、個々の状況証拠の大半が、桑野欣也としてかどうかはともかく、大島海路の事件への関与を示唆しているのは変わってないわけです。そしてそれだけじゃなく、不一致への対案も出しました。大島海路と伊坂が桑野を共謀して殺害していれば、この不一致は説明出来ることも」

と先日既に言い合ったことまでしつこく繰り返して言い返した。


「それはわかってるが、何故大島が桑野になりすましたかの理由は全くわからんままだろ? こっちもそっちも!」

倉野は明らかに苛立っていた。

「他にもテープを精査していて、西田の修正説に疑問な点が出て来た。成り済ましの理由ほどではないがな」

「倉野主任官、一体何ですか?」

「一緒にした悪さについて、砂金の横取り同様、どうして具体的に松島に会食当時、伊坂大吉が言わなかったかのか? あの松島の証言をそのまま取れば、大島海路と伊坂が共謀、或いは単独で桑野欣也を殺害したと言う話をしておかしくないように思えるが。そう考えると、大島達が桑野を殺害したという考えは、推理上はともかく、具体的には脈絡がないように思える」

それを聞いた西田は、たまったものじゃないと、喧嘩腰になった。

「それはテープの話をそのまま受け取ればそうですが、松島の話は、あくまで伊坂から聞いた話を松島が再現していただけですから! 細かい点においての言った言わないの問題が出るのは不思議ではないでしょう? 松島の年齢と時間経過を考えてください!」

西田は色をなして抗ったが、これまで問題視されなかったことを、前回のように指摘されたことはよくわかっていた。あの松島の話からだけでは、2人が何らかの形で桑野欣也を抹殺したことは見えてこない。だが、テープの話に出なかったからそうじゃないと結論付けられても困るのも確かだった。


「不思議はないし、それなりに格好が付くかもしれないが、一方で、話にないことで飛躍が過ぎるというのもまた正しいんじゃないか?」

大友も倉野に加勢した。

「しかし、殺害に関与したということは、そうそう口に出来るようなもんじゃないと思いますが?」

「それはそうだ。ただ、あの会食で、伊坂大吉は佐田実の殺害計画を松島に仄めかしているだろ? そっちは言っているのに過去のは言わないのか? 時効なわけだし」

倉野の言う通り、直接的ではないが、伊坂は松島に佐田の始末を暗に指し示すような発言をしていた。

「それは結果的に見ればそうだったというだけで、松島も当時、それをストレートに理解したわけではなく、佐田が行方不明になって確信したというだけの話ではないですか? とにかく、今更そんなレベルの話をされても困ります!」

取り敢えず、西田はありとあらゆる反論を口にしてみた。どうも西田達を捜査から外すための「イチャモン」をつけているのではないかと勘ぐったからだ。


「そこをどう取るかは、個人の問題でもある。が、どっちにせよだ! 仮に西田の説を採るとして、桑野を殺害して、それに大島の実人物が成り済ましたとすれば、どうして伊坂が、『証文にあった桑野欣也という名前が、当時の大島海路の名前だった』という表現をしたかがわからんのだ。時系列的にもどうも納得がいかない。これだと大島が桑野欣也だったという方がスッキリするだろ。勿論そこに大きな矛盾が生じる」

倉野は、大島達が桑野を殺害した話が、松島の証言からははっきり見えてこないという点にこだわった。西田も、黒須が温根湯で指摘した言い回しの問題について、未だに不可思議な点は感じてはいたが、かと言って、それが大きな問題を含んでいるようには見えず、いつまで経っても平行線になりかねない状況だ。

「それについては、松島が何か聞き間違えたか、証言までの期間を考慮すれば、記憶違いだった可能性は十分に、否、高いとすら言えるでしょう」

西田は、その考えを色をなして否定しようとした。

「しかし、我々……、というより西田の推理は、まずあのテープの内容を信用することから始まったわけだから、それは自殺行為だぞ」

と、倉野は一見論理的ではあったが、強引な結論で返した。


「これは言い過ぎかもしれませんが、御二人は、この事件から撤退させる口実を探しているだけではないんですかね?」

西田は、それを聞いて思わず辛辣なことを口にしていたが、覚悟の上だった。身動き一つせず、目の前の上役に口撃を仕掛けた。それに対し、大友と倉野は黙ったが、比留間が、

「それはない! 俺が温根湯での話を報告した時、大友部長も倉野課長も当初、その考えについてかなり理解を示してくれていたが、その後あのテープを何度も聞き返すと、どうも話が繋がらないように思えてきたということだ。とにかくそれは考え過ぎだ!」

と強い口調で否定した。割と冷徹なタイプの比留間にしては言葉に力みが感じられ、西田は少し怯んだ。それを察したか、

「捜査に若干の圧力があって、身動きが取れなくなっていることは知っての通り」

と大友は前置きし、

「ただ、西田達の独断でやった指紋の照合、そして大島を前にしての再確認……。それでも一致せず、その後の修正案もどうもしっくりこない。そうなると、プレッシャーに抵抗出来ないままだ。その状況下で、北見で飼い殺ししているままじゃ、遠軽もそれほど忙しい所轄じゃないとは言え、来てもらうだけ申し訳ないと言わざるをえない。既に他の捜査の方もニッチもサッチも行かないんじゃ、士気も落ちっぱなしだ」

と投げやりに告げた。


 こんな状況では、北見に居てもらっても仕方ないと言いたかったのかもしれないが、最後は何故か愚痴になって、西田に説明しようと言う意図を感じなかった。しかし全体的に上役達の話を聞く限り、もうもっともらしい理由など、既にどうでも良くなっていたと取れば、これ以上抵抗しても無駄なのかと西田は感じ始めていた。グダグダになった大友に代わり倉野が、

「西田、申し訳ないが、道警本部ほんしゃから応援解消の指示が来てるんだ。まあ表向きは圧力というより、運用上はおかしな話じゃないからな。所轄以外の応援が、1ヶ月以上になること自体異例だから……。更にその先には、どうも察庁が……。まあ噂だが」

と、西田の剣幕に誤魔化しを諦めたか真実を告げた。


「ああ、そうでしたか……。本部からの指令ですか」

最後通牒に西田は「やられた」と痛感した。

「悪いな……。さすがに察庁が出張ってきたとなると……」

西田の落胆を見たか、俯き気味な大友に、

「いや、仕方ないですね、そうなると」

と急に抵抗する意欲を失くし、淡々と返した。その一方で

道警本部あっちの遠山(刑事)部長は何と?」

と思わず尋ねていた。札幌訪問時の遠山刑事部長は、かなり捜査に協力且つ意欲的だったからだ。

「うむ……。遠山さんも一言『大変残念だ』と」

大友はそう絞り出すように言ったが、こういう結末になってしまったとは言え、実際遠山もそう思っているはずだと、札幌での言動から西田も確信していた。だが、その遠山ですら覆せなかったのだから、大友にここでとやかく言っても、どうしようもないこともまた自明だった。


「まあ状況が変化したら、また来てもらうこともあるかもしれない」

倉野が慰めるような発言をしたが、西田はそれには何も言わず、

「こっちには何時まで?」

とだけ尋ねた。

「一応20日目処に」

倉野は意図的にかゆっくりと告げたが、

「主任官わかりました。どうもお世話になりました」

と、この時の西田は、明らかに捨て台詞的な言い方になっていた。


「いや、こっちこそ力になれなくて悪かった」

倉野は、とても応援に来た程度の刑事に掛けるような言葉ではないことを口にしていた。それだけ倉野にも思う所があったのだろう。西田は一礼すると、思いを断ち切るようにさっと身を翻し、吉村と共にその場を立ち去った。


 廊下に出てしばらく黙ったまま歩いた2人だったが、吉村は、

「係長! 何で簡単に言いくるめられたんですか? ちょっと失望しましたよ!」

と、「ちょっと」という言葉とは裏腹に、かなり憤慨した言い方で突如非難してきた。慰められるとも思っていなかったが、ここまで部下から否定されるとも思わなかった。


「そうは言ってもな、道警本部どころか、警察庁の方からの指示の可能性まで言われると、言い返し様がなかったんだ!」

部下に当たり散らかすかのような、上司らしからぬ言い訳に、吉村はその時は何も言わなかったが、かなり気分が悪そうだった。西田もまた心中で吉村に詫びていた。


※※※※※※※


 この日は早めに帰署することを許され、暗くなる前には、2人は北見を後にした。吉村と西田は遠軽に戻る車中でもほとんど会話せず、冷戦状態のまま、北見から留辺蘂へ抜け、国道242号を生田原へと金華峠へ向かっていた。


 外は小雪が舞っている程度だったが、積雪もあり、吉村は慎重に運転しているようだった。西田は精神的に疲れていたせいか、うつらうつらしながら助手席に居た。その時突然、

「あっ危ない!」

という声と共に、吉村が急ブレーキを踏んだ。眠りかけていた西田はシートベルトに打ち付けられるような形になり、急激に目が覚めた。

「どうしたっ!」

と運転席の吉村を確認するも、吉村はそれに答えず、シートベルトを急いで外し、外に出ていた。


「大丈夫ですかっ?」

その声の向かった方向を見ると、老人の姿があった。夕闇の中フロントガラス越しに凝視すると、6月末に、おそらくこの近辺だろう、金華地区にある、常紋トンネル殉難者慰霊塔で会った老人の姿だった。

「冗談じゃねえ! あんたがちゃんと前見てないからだべや!」

「はあ? 飛び出してきたのはそっちだろ?」

老人に言い返された吉村は、それまでの経緯から苛立っていたか、珍しく語気を強めた。寝ぼけていたので状況を把握していたわけではないが、おそらく飛び出してきたのは、吉村の言う通り老人の方だろうと西田は考えていた。吉村は性格に似合わず、運転は上手く且つ冷静でもある。西田は場をとりなすためにドアを開け車外へと出た。


「怪我はないですか?」

西田に問われると、

「ああ、ねえよ」

とぶっきらぼうに答えた。

「まあ何事もなかったようなんで、許してもらえませんかね?」

その言葉を聞いた吉村は、

「いや係長! こっちに落ち度は一切ないですよ!」

と文句を付けてきたが、吉村の方へと振り返り、表情で「いいから、黙ってろ」と伝えた。

「とにかく、申し訳ないです。以後ちゃんと気を付けますから」

そう平身低頭で謝った西田に対し老人は、

「あんたら警官だべ? 自覚がないんじゃないのか? しっかりしろや!」

と捨て台詞を残すと、小高い丘の階段をスタスタと登っていった。白い標識のようなものが視界に入ったので、何かと目を再び凝らすと、金華の常紋トンネルの慰霊塔の入り口と書いてある。

「あ、何だよ……。近くどころか、前会った時と全く同じところじゃないか」

西田がそう呟くと、

「そういやそうでしたね。あの爺さんと前あったのも、この階段の上のところでした」

と、吉村はふくれっ面のまま言った。


「飛び出してきたのか?」

「ええ。突然、金華の駅の通りの方からこっちに。ホントびっくりしましたよ! 轢いたらこっちの責任ですからね。警官が人身事故ったら、まずニュースになりますから、こっちの警察人生にも影響するところでした。あのくそ爺め!」

如何にも忌々しいという気持ちのこもった吉村の言葉だったが、

「それにしても、あのタイミングでぶつからなかったのは、こっちのブレーキのタイミング以上に、爺さんの年齢に負けないすばしっこさのおかげでした。そんぐらい運動神経あるくせに、急に飛び出すんだから、全く年をとるってのは嫌なもんです! 判断能力は確実にボケてるとしか思えません!」

と続けた。


 しかし、怒りを爆発させてガス抜きしたせいか、その後は少し落ち着いてきたようなので、西田は、

「まあ何もなくて何よりだ」

と伝えた。丁度その時、突然北からの風雪が強くなり、2人は慌てて車中へと戻った。


「さすがに山側に来ると、急変するな」

フロントガラスから外の状況を見て西田は言うと、

「ですね」

と吉村は短く返したが、すぐにおかしなことを言い始めた。

「ところで、あの爺さん、俺達が警官だって言ってましたよね?」

「えっと……、言われてみればそんなことを言ってたっけな……」

「前会った時、自分達が警察やら刑事やらだって、わざわざ言いましたっけ?」

「あれ、かなり前だろ……。確か6月末ぐらいだったような。記憶にないな。言ったかもしれないし、言ってないかもしれない」

「自分は言ってなかったと思うんですよねえ……」

「どうだったかな……。まあそんな記憶は当てにならんだろ? 言ってたかもしれない。ひょっとすると、ナンバーで覆面だとバレたかも(作者注・基本的に覆面パトカーをナンバーで見分けるということは、この作の当時も含め、かなり例外的な事例のようですが、小説ということで、俗説を事実として記述させていただきます)」

西田は余り興味なさそうに言った。


「そんなこと、あんな爺さんが知ってますかねえ?」

吉村はかなり懐疑的な見方をしていたが、一々取り合う気もしなかったので、西田は再び目を閉じた。ただ、そんなことがあったせいか、その後遠軽まで、西田と吉村は多少会話する程度までに「関係修復」が出来たのも確かだった。

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