第47話 明暗26 (143~147 片岡探偵事務所での聴取)

 翌日10月18日午前9時半きっかりに、2つの書類封筒を持って、西田、竹下、吉村は、札幌は中央区の札幌駅前通のビルにある、「片岡探偵事務所」の扉を開けた。


 事務員がすぐに応接間に案内すると、時間もおかずに、事務所長・片岡益博と名乗る人物と、道警OBで顧問を名乗る森隆光、そして、実際に佐田の調査依頼を担当したという、葛輪くずわ道夫という40代らしき調査員が現れた。


 所長の片岡は2代目で、事務所は昭和30年代から続く、この業界としては「老舗」だと言い、きちんと倫理も守った上での調査活動に従事していると胸を張った。


 顧問の森隆光は、50代後半に見えたが、道警の札幌東署の捜査二課で刑事をしていたものの、激務で身体を壊し、警察の斡旋でこの事務所に10年前から世話になっているらしい。その前にも道警のOBが居たと片岡は3人に語った。


 だが、1番話を聴きたいのは、当然、直接調査依頼を受けていた葛輪である。葛輪は、昨日の警察からの電話で、本橋に殺されたのが、自分の担当していた佐田だったことに大変ショックを受けたと語った。佐田が行方不明になったらしいことは、8年前に用事があって会社に連絡したところ、そういう状況だと聞いて知っていたらしいが、まさかそれがあの本橋に殺害されていたとは露ほども思わなかったらしい。


 本橋の件はニュースで知っていたものの、被害者については、警察の発表の時ですら、警察の言う「佐田実」と自分が担当していた「佐田実」が結びつくことはなかったようだ。


※※※※※※※


「話を聴く分には、佐田さんは調査を依頼していることを、一切家族に知られないようにしてくれとキツく言われていたということで?」

「ええ。自宅には何があっても電話しないようにと申されて。会社に電話するときも、探偵事務所ではなく、片岡弁護士事務所と名乗ってくれと言われてました。勿論、通常でも依頼人の方以外には知られないようにするのが常識ですから、言われるまでもないんですが……」

西田の質問に、当時の調査依頼の必要事項が記入された紙を見ながら答え、読み終えると、該当箇所を指して見せた。西田はそれを確認した。

「佐田さんが行方不明になったと知って、何かマズイことに巻き込まれたなという意識はありましたか?」

吉村が聴くと、

「まあ色々依頼がありますが、正直特に危ない依頼という意識はありませんでしたのでね……。この伊坂組の社長さんの名前の話も、どうも自分の亡くなった知人のお兄さんではないかということで、本当に本名か調べてくれって話でしたね」

と答えた。依頼書を見る限り、伊坂大吉と太助が同一人物かどうかの調査は、昭和62年つまり1987年の7月の3日に依頼されたようだ。


「葛輪さんから見て、佐田実と言う人物はどういう印象でした?」

「印象ですかね……。この最初の依頼を受けた時は、それほど印象に残ることはなかったと思います。初老の品の良さそうな人だなというぐらいでした。ただ、この調査は、調査員派遣してすぐに判明したんで、そんなに費用も掛からなかったんですけど、所長の前では言いづらいんですが、大層なご祝儀を別途いただきまして……。それで、その後行方不明になったことも含めて記憶にあるんです。まあ他にも色々ありましたが……」

西田の質問に、頭を掻きながら苦笑した。おそらく「金づる」が見つかったことを佐田実は喜んだのだろう。ただ、「他にも色々」というフレーズがやけに気になった西田ではあったが、取り敢えず聞くべきことを優先した。


「それから、この北条正治という人物の居場所調査の依頼を受けたわけですね?」

竹下が持ってきた報告書の封筒から中身を取り出して今度は問う。

「そうなんですが、正確に言うと、最初の報告書を出して2週間ぐらいした後、いやいや、日付を見ると7月24日ですか……。それでこの古い手紙に出て来た、人間を何とか探しだせないかということを言われましてね……。報酬は弾むと言われました」

葛輪はそう言うと、紙を西田達に見せた。あの佐田徹が遺した手紙の一部抜粋したもののコピーのようだった。やはり物騒な話や余計な部分は削除されていた。そして桑野欣也、免出重吉の遺児、北条正人に赤線が引いてあった。

「北条正人さんって方は既に亡くなっていたとご存知で、この人の弟の北条正治って方が、秋田県の能代というところで勤めていたと言う話があって、それを調べてくれという話でした」

そう言うと、長兄・佐田譲に小樽の実家で見せてもらったのと同じ、熊澤水産の納品書のコピーを見せてきた。


「もっと言うなら、まあ他の赤線の人物も依頼されたんですが、さすがに戦前の情報だけですと無理があるんでね、私達にも……。そういうわけでその場で断りました。まあ、この免出とか言う人の遺児とやらなんてのは、名前すらわからないわけですから、現在進行形の話でも、他の情報がかなり揃ってないと、まずお引き受け出来ない事案です。桑野さんという人も、姓はともかく名前とセットで考えるとそんなに存在しそうもない感じはしましたから、もしかしたらと思って、断った後も、北海道全域だけなら電話帳でチェックはしたんです。ただやっぱり該当者は居なかったですね。全国の電話帳を調べるのも無理がありますんで(作者注・今ではネットと電話帳を網羅したものがありますから、もし載っていれば検索で一発回答と言う時代ですが)」

そう言うと、葛輪は苦笑し、西田達も相槌を打った。北条を「警察の力」で調べた時にすら、前提条件に限度があったのだから、民間となると仕方ない。勿論、警察OBというコネを使って、警察自体に調べさせるという手もあったが、さすがに自分が直接居たことのある所轄以外に調査を求めるのは、色々と無理があったろう。


「そういうわけで、北条さん以外の調査はお断りしたんです。この人については、滝川に居たことがあり、戦後に秋田県の能代の熊澤水産というところに勤務していたという予備情報を、佐田さんから頂きましたから、これはなんとかなると言うことでお引き受けしたものの、ご存知のように追跡失敗してしまいました。これはまたご祝儀もらえるかと、取らぬ狸のなんとやらだったんですが、そう甘くなかったです」

「なるほど」

西田は非常に明快に葛輪が説明してくれるので、嘘はないと感じていた。


「この手紙に出てくる人達を調査依頼する理由については何か書いてあります?」

吉村が再び聴く。

「はい、伊坂組の社長さん同様、この人達を知人が探していたと言うことでしたが。この手紙に出てくる伊坂太助さんと大吉さんの同一人物説の調査を受けたわけですし、おかしなところはないかなと」

葛輪は顧問と所長の顔をチラッとチェックしながら、刑事達の反応を待った。

「ええ。問題はないですね」

西田は意識的ににこやかな表情にすると、そう相対する3人に告げた。


「ということは、伊坂大吉氏の名前の調査、そして北条正治氏の居場所の調査と続けて、それを以ってこちらへの佐田さんの調査依頼は終結したと言うことでしたか」

竹下は少し落胆したような言い方をした。特に何か出てくることもなかったからかもしれない。


「いや、そういうわけでもないんですよ……。正直これは言って良いのか悪いのか、あれなんですが……」

先程までとは違い、葛和は妙に歯切れの悪い口調になった。

「さっき、佐田さんが行方不明になった話で、会社に電話して知ったって言いましたよね」

突然の葛輪の話の展開に、3名の刑事は身を乗り出した。

「はい。それでどうしたんですか?」

吉村が食い気味に続きを促した。

じつはですね……。その後の8月の末でしたか、ちょっと妙なというか、不気味な相談をされたんです。あくまで相談であって、依頼ではないんですけれど……。この紙にも具体的な内容は書かなかったぐらいですから……。結構印象に残っているのはそういうこともあったんですよねえ……」

紙を見ながら葛輪は話し始めた。

「突然事務所を訪ねて来て、『葛輪さん、親子鑑定ってのはどうやって依頼すればいいのかな』という話をされました」

「親子鑑定?」

吉村は鳩が豆鉄砲食らったような面になったが、竹下は何故か含み笑いを浮かべていた。西田は吉村と大して変わらない受け止め方だった。

「ええ。まあそれで血液検査(当時はDNA検査は到底主流ではなかった)などでの方法があるという話をしました。ただ、その後に聞いたことが結構衝撃的でして」

葛輪は咳払いを2度程すると、少し姿勢を正して話を再開した。


「遺体というか遺骨から何とか鑑定出来ないかということでね。そう言われましてもね。うちはそれこそ警察じゃありませんし」

「ああ!」

西田と吉村はここで合点が行った。竹下は既に思いついていたのだろうが、免出重吉とその遺児の話なのだろう。おそらくだが、佐田は免出の遺体を徹の手紙の中身から、何とか見つけ出そうとしたのではないか?


「そういうわけで、『いやさすがにそれはウチに聞かれても困りますよ』」

とお答えしたんですよ。そうしたらね、びっくりするような話を打ち明けられましてね」

そう言うと、葛輪は熱弁していたせいか、額に伝う汗をハンカチで拭きとって間をとった。


「そしたらですよ。免出重吉という人の、名前すらわからない子供が見つかったと言うんです。名前すらわからない、しかもどうも佐田さんから話を聞いていた分には、私生児ということですから、苗字すらわからないわけで、信じられますか?」

葛輪の話から、さっき「他にも色々あって記憶に残っている」と言っていたのは、これらが理由だろうと西田は納得した。


「と言ったものの、実際のところ佐田さん自身も『信じられないほど運が良かった』と言ってた記憶がありますから、ご本人も自覚してらっしゃったようでね。まあこっちとしては『それは良かったですね』としか言いようがなかったけれども。ただ、それ以上話は広がらずに、佐田さんから連絡が来ることはなかったですね。そして遺骨から鑑定が出来るかどうかについては、私もちょっと気になったので、私個人の知り合いに鑑識やってる人が居たんで、その人に聞き出しました。そうしたら、少なくとも荼毘に付されたモノからは不可能だという、ある種当たり前の結論を得ました。そしてそれを、以前お金もたくさん頂いたということで、サービスで佐田さんにお伝えしようとしたら、行方不明だったという話に繋がるわけです」


 葛輪は再び額の汗を拭ったが、佐田実が当時どういう行動をしていたかが非常によくわかった。そして何より、「佐田実が、免出重吉の姓名すらわからない男の遺児を見つけた」と、事実かどうかはともかく、少なくともそう思っていたことが判明した。これは聞き込みの事前には想定し得なかった事実だ。


 しかし、佐田は葛和に、免出の遺体が土葬という形で埋葬されていたことまでは伝えていなかったようだ。それで葛和は、常識的な推測を元に「荼毘に付された」という前提で知り合いに尋ねたのだろう。勿論、葛輪に渡された手紙の「抜粋」にもそのことは記載されていなかった。


 それにしても、おそらく佐田はその時点で免出の遺体を発見していなかったはずだから、あくまで予備的な意味で事前に聞いていたのだろう。


※※※※※※※


 事務所を出ると、ビル風に煽られながら、西田と吉村の間では、道警本部に歩いて戻る道すがらも先程の話でもちきりだった。ただ、竹下は何故かさっきより厳しい表情に変わっていた。

「面白い話が出て来たじゃないか?」

そう話しかける西田に、

「確かにずいぶん面白くなってきましたね。問題は、免出の遺児を本当に見つけていたのかってことです。他にも色々精査して、話の辻褄が合うようにしていくとなると、それはそれでなかなか大変なことかもしれません」

と答えた。表情の硬さは、進展故の新たな難局との遭遇を覚悟したからこそだったようだ。そんな竹下の姿を見ながら、

「頼ることが多くてスマンな」

と、上司として心の中で謝ったまま、中心部の広い歩道を歩く。

「係長、でもさっきの話を聞いてみると、佐田実という男について、少し認識を改める必要が出て来たような気がします」

ふとそのような言葉を竹下が漏らした。

「それは証文に出てくる、伊坂以外の他の3者を探そうとしてたと言うことと関係あるか?」

西田は自分も内心思っていたことを口にした。


「やっぱり係長も考えていましたか……。単に伊坂から金を強請るなら、あそこまで調べようとは思わないですよ。目的については色々あるかもしれませんが、免出の遺児と北条正治を探しだそうとしてたのは、彼らにも何か分け前を与えたいと考えていたと思うのが道理だと思います」

「そうだよな……。探す理由が無いからなそれ以外に。2人とも、当時は『現場』に立ち会っているわけでもなく、何か証言を得られるわけでもない」

西田も全面的に同意した。その上で、

「じゃあ桑野欣也についてはどうだ? 俺の答えは、それこそ証言を得るために探そうとしたというモノだ。伊坂が高村を殺したって証言。徹の自筆の手紙だから信憑性は高いが、当時を直接知ってる桑野の話なら、より高いはず」

と自信を持って付け加えた。

「そういうこともあったかもしれません。ただどうですかね? 桑野については他にも色々探す要素があって、1つに絞る必要はないんじゃないかと。何せ桑野自身が他の2人の取り分を伊坂と共にぶんどっちゃったわけです。免出の子供と正治から見りゃ敵ですよ。そうなると、探しだした上で、2人に謝らせたり賠償させたりするつもりもあったかも」

「そういう考え方もあるか」

西田も唸った。


「それに、これは悪い意味で佐田にとっての利点ですが、探し出した上で、伊坂同様何か強請ってやろうとしたかもしれない。過去、伊坂と共に砂金の埋蔵場所からネコババしたらしいと正治が証言してます。この場合、桑野がそれなりに名声を気にする地位に昇りつめている必要はありますが、桑野は相当頭が切れたようですからその可能性はあったのでは?」

「その考えは俺からすると疑問だなー」

西田はわざとらしく語尾を伸ばした。


「伊坂は過去に人を殺したという傷があったが、桑野にはそれがなかった。50年前にただ他の人間の砂金をかっぱらった程度では、時効が絡む以上は強請れるレベルとは思えない」

「やっぱり弱いですか……。ちょっと無理があるかなあ……」

残念そうにそう言うと、イチョウの落葉が敷き詰められたように歩道に散らばる中、踏みつけるというより蹴飛ばすように竹下は早足で歩いた。


 そんな2人の話を、聴く側に回っていた吉村が、やっと喋り始めた。

「そんなことより、謎はやっぱり最初の免出の子供の話ですよ。どうやって知ったんでしょうか……。知りようがないと思うんです」

と、吉村は理解しがたい様子だった。姓も苗字もわからないだろう男児をそれから数十年後に見つけるという、一見不可能な事実を、「信じられないほど運が良かった」という言葉で説明したという佐田に対し、やはりにわかには信じがたいという思いは、吉村も強く持っていたようだった。西田も目の前にそびえる本部ビルへと向かって、ただ一心に歩を進めながらも、その当たり前の話に異論を挟むつもりは毛頭なかった。


 道警本部の庁舎へ入ると、頼んでおいた証文の分析とスクリーンの再印刷可能な状態への復元をチェックするため、まっすぐに鑑識課の部屋を訪れた。昨日は居なかった、前回の札幌「遠征」で世話になった主任の八代が3人に応対した。


「久しぶりですね。昨日はたまたま非番なんで留守だったけど、話はちゃんと聞いてますよ。あれ、1人前回は居なかった人がいるな?」

「遠軽署刑事課強行犯係主任の竹下です」

西田からの紹介を受ける前に、自分で名乗った。

「自分と同じ主任の方ですか……。随分若いですね……。私も鑑識課の主任、八代です」

前回西田達が初対面した時は、もっと緊迫した状況で、このように名乗り合う悠長な場面ではなかった(伊坂太助が大吉だと判明した直後だったため)が、今日はその限りではない。しかし、同じ主任と言っても、本部の主任と所轄の主任では次元が違う。嫌味だったのか本音だったのか、西田には判断不能だった。


「それで、印刷された証文については?」

西田がせっかちに本題へ入るよう求めた。

「はいはい……。じゃあいきますよ。まずこの紙について」

証文と言わなかったのは仕方ない。証文と言う言い方をしているのは捜査に深く関わった人間達だけで、実際には紙か契約書というのが普通の呼び名だろう。

「文字の部分の成分は、もらった版? みたいなのに乗せてあったものと一致しました。間違いなくこれで印字したんでしょう。そして血判に該当する部分も血液ではなく、版に乗っていた赤いインクの部分と一致しましたよ。紙のうす茶色いシミは、現時点で断定は出来ませんが、おそらく紅茶の成分じゃないかと見てます」

「予想通り。そうだろうとは思ったが、やっぱり間違いなかったか……」

西田は安堵し、佐田が贋作を作っていたことは確定したが、もう一つ確認しておくべきことがある。

「それで版の方はどうしたんです?」

「西田さん、それね……。実際にもらった版で印刷出来るかどうかやりたいんだけど、固まっちゃってるんで、薬品で溶かしてるところ。薬は科捜研からもらってきましたよ、ウチにはなかったから」

そう言うと八代は、2つ先の机で作業してる職員を指さした。

「まだ終わってないんだけど。皆さんが来るのがおもったより早くて、昼過ぎてからでも大丈夫かと思ってたもんだから」

と言い訳した。竹下が腕時計を確認したところ、まだ11時ちょっと回ったところで、この言い分も仕方ないのかもしれない。


「どれくらい掛かります?」

吉村が聞くと、

「昼前には間に合うと思いますよ。そこら辺で腰掛けて待っててもらえますか?」

と八代は言った。そういうことなら待つしかなかろう。西田達は応接セットなどない鑑識係の部屋の、病院の待合室に使われるような長椅子に腰を下ろし、作業が終わるのを待った。


「そうそう忘れてた! このプリントゴッコの型番を朝一で製造会社に聞いたら、85年から売ってた奴だそうです。87年当時、時系列から見てもこれで偽造するのは十分可能ですよ」

座って数分経つと、突然の八代の声で、佐田が殺された87年秋の時点で、一般に入手可能だったか調査を依頼していたことをうっかり忘れていたことに西田は気付いた。他の要素から「確定」していたとは言え、後は実際に印刷出来れば問題ないと、より確信を強めた。


※※※※※※※


 作業はそれから1時間もせずに完了し、本体にマスターを装着し、試しにコピー紙に印刷してみると、一緒に出て来た偽物と同じように印字された。

「これで満足出来る結果が全て得られたでしょ?」

八代はそう言うとニッコリと微笑みかけた。

「ええ、思ったより早く片付いて助かりました」

西田が言うより先に、竹下が礼を述べ、すぐに西田に話を振ってきた。

「係長。ひとまず、報告書とプリントゴッコの本体はすぐ返却しておくべきだと思うんです」

「ああ、時間も十分あるし、部長に車借りて返却しよう。その前に電話しておいたほうがいいな」

西田はそう言うと携帯を取り出したが、竹下が妙に急かすのは、おそらく明子に「良い報告」をしたいからではないかと察した。冷徹だが冷酷な男ではない。昨日の出来事も心から望んだモノではなかっただろう。


 西田はこれから訪問して証拠物件の一部を返却することを明子に告げると、遠山部長に今日の報告を先に済ませると同時に、車を拝借する許可を得た。また、本日の午前中から既に始まった本橋の聴取は、西田達が大阪でやったことの復習のようなレベルでされることが遠山から告げられた。逆に言えば、西田達が参加するような場面は、ある程度「別のことを聴く」ことが要求されているのかもしれないと裏読みする西田だった。


 昼食後に佐田邸を再訪問すると、西田の「余計な構いは無用」の台詞に反し、明子はまた丁重な扱いをしてくれた。普段であれば返却を済ませて長居はしない立場を採るはずの西田だったが、今日は敢えてじっくり構えておくべきと思っていた。竹下に状況をじっくり解説させる方が良いと判断したからだった。


 まず資料を返却した上で、きちんと当時の推測可能な事情を説明するように命じた。そして竹下は、佐田実が伊坂を単に脅迫するつもりだったのではなく、本来の「相続人」への救済も考えていたのではないかという考えを説明した。


 その竹下の説を聞くと、明子は涙ぐみ、

「本当にありがとうございます。何から何まで気を使ってくださって……」

と何度もかすれ声で繰り返した。やはり、亡き夫が被害者でありながら、同時に加害者でもあるという見立ては、深く未亡人を傷つけているのは否めなかった。


 だが、今回の片岡探偵事務所での聞き込みから出た事実が、多少なりとも明子の気持ちを軽くすることが出来たなら、明子自身にとっては勿論、竹下にとって、いや刑事3人にとっても罪滅ぼしになったはずだ。吉村の目にも少なからず光るものがあることを西田は見逃さなかった。


※※※※※※※


「奥さん、やっぱり傷付いてたんでしょうね。純粋な被害者なら怒りをぶつけられるが、そうもいかない。伊坂が関わっていると判明した直後には、亡くなった旦那さんも半ば恐喝犯ですから……。気持ちの持って行き場がわからなくなってしまっていたんだろうなあ」

戻る車を運転しながら、吉村がポツリと語った。

「恥知らずな人間なら、自分のことだけ考えるだろうが、あの人だとそういう風には出来なかったんだろ」

「係長の言う通りでしょうけど、兄貴の譲といい、奥さん子供といい、上っ面でもない感じの上品な一族というか一家というか、そういう所の旦那が、金に困って追い詰められると恐喝して殺されるってのも、人間の業の深さというか嫌なもんですねえ。全くもってイヤダイヤダ」

吐き捨てるように吉村はアクセルを踏み込んだが、助手席の竹下は継続して無反応だった。


 後部座席の西田からは、表情は直接窺えないので、サイドミラーからだけではよくはわからなかったが、おそらく話に参加するつもりがないのではなく、思う所があったからこその沈黙なのだろう。昨日のやり方について自省しているのか、またはそれほど長くないとは言っても、これまでの刑事人生での「人間の業の深さ」について思い至るところがあったのか、はたまた両者なのかは定かではないが……。


「刑事やってりゃそういうこともあるもんだ」

西田は内心そう強く思いながらも、敢えて竹下に何か話を振ることはなかった。そして、

「佐田はその後ろめたさを消すためなのか、はたまた義心からだったかはわからんが、本来行き渡るべきだった相続人を探そうとしたんだろうから、業の深さとは言え、やっぱりそれなりの人間だったんじゃないかな」

と他人ごとのような感想を述べた。

「そりゃそうですけど、やったことはやったことですんで……。逆にそれは奥さんの人の良さにはなーんにも影響しないですけどね、自分の中じゃ」

対する吉村は何時になく割と実に対して辛口だった。

「やけに厳しいな、今日のお前は」

西田がそう言うと、

「あの優しい奥さんにあんな思いさせるんだから、馬鹿ですよ馬鹿!」

と言い捨てた。

「なんだそういうことだったのか」

と、西田はバックミラーに映る吉村を見ながら、やけに温かい気持ちになった。


 年齢差を考えれば、恋愛感情の類では当然なかったのだろうが、明子の西田達に対する物腰の柔らかさから見て、少なくとも母親に対するような、好意は抱いていたのかもしれないと思った。その上で、

「おい、苛立ち紛れにあんまりスピード出すなよ」

と吉村に注意して、深く座席に座り直した。

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