遠軽帰署編

第48話 明暗27 (148~152 遠軽帰還 伊坂組再捜索 湧泉での宴)

 10月19日、午前10時前。札幌駅の待合室で佇む、遠軽へと戻る3人の姿があった。昨夜は佐田家を出た後、十分に家族と外食に出かける時間があり、西田は結果的に家族サービスを履行出来た。そのため、短い時間ではあったが、捜査含め有意義な滞在となった。一方、竹下はやはり「大島」をどう捜査の俎上に乗せるかに腐心しているのか、いや執心しているのか、一仕事終えた後だが、顔には緊張感がみなぎったままだ。吉村は札幌でも土産を買い込んで満足気だった。おっと、竹下も大好物であるマルセイバターサンドを購入することは、何だかんだ言いつつも忘れていなかったことは言うまでもなかった。


※※※※※※※


 10月5日に東京へ向かって旅立ってからまさに2週間ぶりに、西田と吉村は遠軽の地に戻った。新千歳に降り立った時に、かなり久しぶりに道内に戻ってきた感覚があったが、今度はそれほど長く「留守」にしていたようには思えなかった。この2つの感覚の差は、吉村も遠軽駅に降り立った瞬間に似たようなことを言ったことから見て、西田だけの問題ではなかったようだ。


 西田の独断と偏見による解釈では、大阪という地から北海道へと戻ってきた時の「空気」には、風土の差とも言うべき大きなギャップがあった。しかし、一度札幌でワンクッション置いてからの遠軽へと戻った今は、同じ道内であり、せいぜい都会と田舎のギャップ程度の差しかないとも言えた。その差が、そういう幻惑を生み出したのではないか、そんな自分なりの答えに満足しつつ、3名は刑事課で沢井課長に挨拶をした。


「今回は長い間ご苦労だったな。2人を東京へ送り出した時には想像すらしなかった事態の急変があったが、こういう形であったとしても、自分達の捜査が無駄にならず、事件解明への一助になったことは間違いない。胸を張って本橋を起訴まで持っていく、これが今の我々の責務だと思う」

課長からは、普段では考えられないかしこまった言葉を掛けられ、西田、竹下、吉村の3名は背筋を伸ばした。そして刑事課全体への訓示として、

本部ほんしゃからは、札幌でしばらく本橋を取り調べた上で、現場検証を兼ねて、ウチにも聴取をさせる手順になると連絡を受けている。実質はどうであれ、俺たちも聴取するという形になるのは間違いないのだから、緊張感を最後まで持って臨んでくれ!」

と述べた。


 「帰還式」が終わると、吉村が大阪と札幌の土産を配り始め、やっと打ち解けた雰囲気になった。やはり倉敷の桃の直送土産は好評だったらしい。小村から聞いたところによれば、刑事課からのおこぼれに預かった署長の槇田も、

「さすがに本場は違う」

と満足していたらしい。わざわざ倉敷の米田母の元まで捜査結果を報告しに行った甲斐があったというものだ。


 ただ、いつまでも再会の余韻に浸っているわけにもいかない。西田は、居ない間に北見方面本部組と協力して、北見での捜査に参加していた小村と黒須に、その間の詳細な情報を教えるように求めた。


 まず聴くべきは喜多川の預けていた貸し金庫のガサ入れからだ。小村は北見方面本部の鑑識に留置してある、衣服以外の捜査報告書・資料を机の上に置いて、西田に説明し始めた。衣服関係は撮った写真が何枚かあるようだった。


※※※※※※※


「まずは係長が1番気になってるはずの証文ですけど……、これですね」

そう言って、小村は佐田実のものと似たような紙を取り出して見せた。本物であることは間違いがないので、西田は早速、出張に持っていった証文、そして佐田家から新たに見つかった4枚の偽証文とそれぞれ比較してみた。

「佐田の兄貴の譲が言ってたけど、確かにこっちの方が汚れてるな」

西田は両方を比較した印象をまず述べ、双方の文面などを並べてチェックし始めた。文面は同一、筆による筆記で筆跡も似ていることから、間違いなく同一人物、つまり佐田徹が書いたものだろう。


 そして、佐田明子から「押収」した、贋作の4枚と比較してみると、やはり完全に一致した。これを原本としてマスターを作り、印刷したことが確定した。おそらく、何かしらの失敗があって損傷しても良いように、佐田太が言うところの「汚い方」、つまり北条のモノを使ったのではないかと推測された。それにしても、完成品と言える、偽物のうちの1枚については、汚れや酸化具合もなかなか表現されていて、佐田実の苦労が伺えた。かなり本物に近づけようとした意図が垣間見えた。


「桑野欣也の分ですけど、どっちの血判も親指じゃないんですよね、やっぱり」

黒須が西田と小村の横から覗くようにして発言した。

「それな……。佐田実のところで初めて証文に『お目にかかった』時に吉村も同じこと言ってたな」

西田の発言に、少し離れた自分の席に居た吉村が、

「なんか俺のこと呼びました?」

と反応したが、

「いや、おまえが黒須と似たようなことを言ってたってだけ。だから一切気にしないでくれ」

とつれない言い方で、それ以上関わってくるなとばかりの返事をした。


「それはともかく、別に血判や拇印は絶対親指じゃなきゃいけないなんてことはないし、俺らの調書ですら人差し指で拇印押させてるんだから、何も不思議な話じゃないだろ?」

西田の説明は、まさに吉村の時と同じものだった。

「それはそうなんですけど、どうも変な感じがしまして」

黒須は納得がいかない様子だ。

「そもそも拇印の『拇』は親指の意味だったはず」

小村が、以前吉村に説明した時に西田が言ったことと同じ補足をしてきた。西田は当然知っていたが、今回は面倒でそこまで言わなかったのだが……。

「知ってるよ。ただ、拇印の習慣上は親指か人差し指どっちでも良かったはずだ」

西田は明らかに面倒臭そうな言い方をした。一々それを説明している場合じゃないから、知っていたが今回は敢えて言わなかっただけだという、西田なりの言い訳もしくは意思表示でもあった。


「でもこの桑野は、伊坂やら北条やらとは同じに見られたくなかったんでしょうか? 実の手紙や北条正人の手紙からは、結構知性派みたいな扱いですから、言葉は悪いがただの人夫みたいな連中と同じに見られたくなくて、わざわざ人差し指でやったのかもしれません」

「なんでそう思うんだ?」

西田は黒須を問い質した。

「だってそうでしょう? 証文の順番通りに署名捺印したとすれば、2人が親指で押してるのに桑野だけ違う指でしょ? 空気が読めないというか嫌な奴みたいでしょ? 実の兄貴の徹は、ちゃんと親指ですよ。係長もこんな奴嫌でしょ?」

黒須はニヤつきながらそう答えた。すると竹下が話を聞いてたか、西田達の元へと急にやって来て、

「それは違うんじゃないかな?」

と割って入ってきた。

「違いますか?」

黒須はかなり不満気だ。


「そんなに鼻にかけるような奴なら、ここまで人望はなかったと思うぞ。頭は良くても人望のない奴も世の中にはたくさんいるが、桑野は、仙崎の砂金掘りに従事していた、他の人足連中からも信頼されてる節が、徹の手紙だけじゃなく、北条正人が正治に送った手紙からも読み取れる。そういうのは態度に出るからな」

竹下の私見には西田も同感だった。ただ、以前吉村も言っていた、1番の疑問を小村が投げかけた。

「その桑野が裏切って、北条と免出の子供の分も砂金を取っちゃったって言うんですから、嫌なもんですよ」

黒須もそれに何度も頷いて、

「やっぱり本性が出たんじゃないですか?」

と反論した。実際、その変わり身は、まともな人間として許したくない裏切りだった。


「まあ、今更桑野の人間性批判したところで何も解決しませんし、佐田の殺人とは関係してないんですから、次行きましょうか」

やや「空気」が悪くなったことを察知したか、小村はそう言うと、話を変えるため、次に徹が記した手紙のコピーを取り出した。明らかにコピーであった。これを佐田実が生田原の現場で見ながら、ここからは完全な推測だが、伊坂に騙されて砂金の在処を探すために見ていたのだろう。そして殺害された後、これが喜多川達に渡って、伊坂は過去の殺害をネタに条件闘争された。そういう流れを警察として考えていたわけだ。


「これは喜多川と篠田にとって、おそらく1番大事なものだったはずだが、どういう感じで貸し金庫に保管されてた?」

西田が問うと、

「仰るとおり、カバンの中に入っていたのではなく、カバンとは別にこの封筒に入って金庫の中にありました」

と言って、大きい封筒を見せた。

「やっぱり、これが奴らの切り札になってたんだろうなあ」

西田は推理が的中したようで、得意げに言った。竹下も納得の表情だ。

「じゃあ、次行きますよ。切符です。これも気になってたましたよね?」

小村は2人が満足そうなのを見て、手紙については問題ないと考えたか、すぐに切符に話題を移した。

「当たり前ですが、指紋も佐田実のモノが出たんで、佐田自身が切符を変更したのは間違いないと思います」

黒須の補足に、

「そりゃそうだろ。死んでから喜多川達が変更するのは無理じゃないか? 現場から殺害して埋めて戻ってきて、おおとりが出発する前に北見駅の「窓口」で変更するのは」

と竹下が切符に押された、「9月26日 変更 北見駅」のゴム印らしきものを確認しながら言った。

「おそらく、佐田はチェックアウトする前に北見駅のみどりの窓口で変更したんだと思うが、そうなると、ホテルのフロントなんかの目撃情報はなかったのか? もらった資料にはそういうのはなかったが?」

と、西田は改めて疑問を呈したが、

「時間帯によっては、他のチェックアウトの客とかでざわついてますからね。ちゃんと確認出来てない可能性はあるでしょう」

と竹下はやんわりと「仕方ないのでは」と言うニュアンスで、西田に意見した。


 すると、

「係長と主任の今の会話で思い出しましたよ!」

と小村が言い出した。

「なんだよ、気になるから早く言ってくれ!」

西田は小村に苦言を呈した。

「係長。実は自分も切符の変更の件で気になって……。ホテルのフロントマンの参考人聴取について、念のために、北見の本部にある捜査資料の原本あたって調べてみたんですよ」

「そいつは良い心がけだな」

西田は小村の意欲的な捜査に打って変わって感心した上でそう言うと、

「どうも。それでですね……、残念ながら、87年9月26日の朝方については、チェックアウト以前に、一度ホテルを出て行ったという目撃情報はありませんでした。ただ、北見駅前のホテルですし、朝方は人の出入りも結構あるはずですから、そういうのは仕方ないと思ったんです。ところが、その件で調べていると、失踪前日の25日の午後10時前後、フロントに、『この近くにポストか、この時間でも開いてるような大きな本局のような郵便局があるか?』どうか、大きめの封筒を持っていた佐田が聞いたという情報が目に付きました。で、『1番近いかはわからないが、ポストなら駅前には確実にあるし、北見郵便局なら開いてるかもしれません。それにフロントで預かって出しておくことも出来ますよ』とフロントに居たホテルマンが告げると、『いや自分で出すからいい』と言って出て行って、しばらくすると、普通に戻ってきたみたいな話がありました。何かあった様子も見えなかったそうです」

と小村は語った。


「そんなことがあったんだ。俺達は捜査資料のまとめみたいなのしか見てなかったからな」

西田がそう言うと、

「いやあのまとめは十分しっかりした奴です。今回原本ごと全部チェックしましたが、ほとんど網羅してました。この情報は純粋に必要ないと思ったんでしょう。確かに郵便物を出しに行っただけですからね。ただ、少し気になったのは、戻ってくるまでに『20分ぐらい経っていたかもしれない』という証言でした。知らない土地ですから迷ったのかもしれませんし、フロントも経過時間まで一々チェックしてるとは思えませんので、それが正しいかどうかもわかりません。が、あの北見セントラルホテルは駅前の大通りの並びですから、ポストまで近く、迷うこともなさそうで……。会食でうまいこと金をせしめたと思って、気分良く散歩でもしてたんでしょうか……。それとも北見郵便局まで足を伸ばしたのか」

と見解と同時に疑問を述べた。

「封筒ねえ……。まあ前後の様子を見る限りは、何かそれが事件と関わっていた行動のようには見えない。そうである以上は、そこを捜査で広げなかったのは、大島の捜査妨害以前に仕方ないとも言えるし、今となっては、伊坂達の謀略により殺害されたのだから意味はないと言えるが、何を出したかはちょっと気になるな」

西田はそう言うと首を捻った。


 その後も小村と黒須による、西田と竹下への説明は続き、最終的には吉村も参加して、2時間程ぶっ続けで「レクチャー」は行われた。


※※※※※※※


「どおっすか?、今日は遠軽に戻ってこれたってことを祝して、大将の店で一杯やりませんか?」

一仕事終え、軽くリラックスしている西田に吉村が声を掛けた。何を祝う意味があるのかよくわからないが、捜査も進み、無事に遠軽に戻って来られたという意味では、無理に解釈すればわからないこともなかった。

「それは俺に奢れということなのか?」

西田が背もたれで伸びをしながら聞くと、

「いやあ、別に僕は割り勘でもいいんですけどね」

と誤魔化した。

「そんなら俺が奢ってやるよ。3人とも大変だったろうし、ウチに残った連中も大変だった。みんなにご苦労さんの意味で奢ってやろう」

と沢井課長の突然の「好意」に、西田と竹下以外の全員が喜んだ。


 西田は、

「いいんですか?」

と確認したが、沢井は、

「いいじゃないか。6月からここまで4ヶ月、ずっと捜査してきて、佐田の事件まで、一応はある程度解決出来そうなんだからさ。まあ米田青年の件は残念だったけれども」

とにこやかに喋った。それに対して、竹下は浮かれた様子もなく机に向かったまま、例の椎野が本橋に判決後送った手紙を読み込んでいた。仮に本橋を起訴出来たとしても、竹下の中では特に、「終わる」事件ではない、そういうことなのだろう。


「主任もそんな湿気た顔してないで、今日は飲みに行きましょうよ」

吉村が話しかけると、

「ああ、それは別に構わんけど」

と浮かない顔を上げた。

「ただ、本部から今日も本橋の取り調べについて報告受けないといけないから、それが来てからだな、出かけるのは」

と沢井が言うと、

「うらやましいなあ。俺と小村さんは夜勤ですわ。主任、そんなに行きたくなさそうなら、俺と替わって下さいよ……」

大場がうらめしそうな眼差しで竹下の背後から喋りかけた。


「ホント、主任、その手紙にこだわりすぎですよ。幾ら根を詰めたところでわからんもんはわからんですよ。大阪でも言いましたけど、一度離れてみた方がいいですって」

吉村は竹下の肩にそっと手をやった。竹下はそれを軽く払うようにしたが、その瞬間、大場が竹下に一言、

「この人随分几帳面ですよね」

と手紙に視線を落としながら言った。

「うん? 何が?」

竹下は振り返って聞いた。

「字、綺麗ですよね」

「何だそんなことか。まあ達筆ではあるよな……」

竹下はだらしなく腕を肘置きから下げて独り言のように返した。

「それもそうなんですが、この手紙……、まるで原稿用紙にでも書いてるように、1文字1文字が、綺麗に収まってるじゃないですか」

そう大場に言われてみれば、縦の罫線しかない便箋の割に、まるで原稿用紙のマス目に従って書いているかのように、言わば1文字につきそれぞれ同じ正方形のスペースがイメージされているかのように書かれていた。竹下は、文章自体に何か意味があるのではないかとこだわっていたが、そういう見方もあるのだなと、大場の意見に耳を傾けた。


「ところで課長。遠軽に護送された後、取り調べはやっぱり北見方面本部の主導になるんですかね?」

小村が尋ねると、

「基本はそうだろう。ただ、こっちに連れてくるってことは、倉野課長の性格から考えて、ウチにも聴取の時間は間違いなくそれなりに割いてくれると思うぞ」

と答えた。

「色々聴きたいことあるんですよね、正直」

竹下は暗くなった窓の外に視線をやりつつ、そう口にした。

「竹下は特にそうだろうなあ。ま、おそらく勾留延長という形になった後、遠軽に送られてくる(作者注・刑事訴訟法の問題上、本橋の聴取がこういう形になるかはかなり怪しいのですが、小説ということでご理解ください)だろうから、時間はまだある。余り焦らない方がいい」

西田はそうアドバイスを送った。それが竹下に響いたかどうかは怪しかったが……。


 遠山から電話報告があったのは、それから約1時間後の午後7時。昨日同様、これまでの聴取の再確認で終わったとのこと。時間帯もよく、小村と大場の見送りを受けて、課長以下強行犯係は、「湧泉」へと向かった。


※※※※※※※


「おう! 久しぶりだなあ! よっちゃん桃ありがとな! お客さんと一緒にいただいたよ」

大将こと相田泉の威勢の良い声が、暖簾をくぐって現れた刑事達に浴びせられた。どうも西田が気付かないウチに、倉敷で桃を大将宛てに吉村が送っていたらしい。

「やっと一息付けたんだよ。今日大阪から戻ってきたんだ!」

吉村がまず応じた。

「あの殺人鬼がやってたんだって? 凄いことになっちまったな!」

大将もテレビで佐田の事件を把握していたか、本橋の関与について話しかけてきた。西田達が護送してきた件までは見ていなかったようだ。

「悪いが、それについてはあんまり話せないんでね」

沢井は一言釘を差した。確かに捜査情報は市井にばらまくわけにはいかない。

「そういうことだよ大将」

吉村は課長の言葉を借りて偉そうだ。すると、

「そうかい。そいつは残念だな。それはともかく、JRの高宮さんが来てるよ今日は。タイミングが良かったな!」

と大将が西田に話しかけた。高宮は、一連の事件の発端である、吉見が線路沿いで「事故死」した時の捜査で、昨今の「幽霊騒ぎ」があくまで人為的なものではないかと、西田達にヒントになるような情報を与えてくれたJRのベテラン運転士だった。


「あ、本当だ! 高宮さん、どうもその節はお世話になりまして! 話を聞かなかったら、今どうなっていたことやら……」

西田は高宮を見つけてそう言うと、頭を下げて握手を求めた。

「いやいや。何かあれから色々大変なことになったみたいだな! こっちもびっくりだ」

高宮はそう言うと、西田の手を握り返した。

「あの高宮さんのアドバイスから、どうもあそこで誰かが何かマズイことをやっているという話になって、今やこれですからね! まさに我々にとっては、ここの大将と高宮さんは恩人ですよ!」

多少オーバーではあったが、実際、大将と高宮、そしてそれを聴きこんできた吉村がいなければ、捜査は吉見の事故死で終わっていただろう。


「いやあ、部下がお世話になりまして。感謝のしようもありません」

横から沢井も頭を下げて高宮に挨拶した。ポカンとする高宮に西田は、

「ウチの課長です」

と紹介した。

「そうかい、西田さんの課長さんかい! 有能な部下を持って幸せだなおい!」

と多少酒も入って気分が大きくなったか、高宮は沢井の背中をバンバン叩きながら上機嫌だ。実際「恩人」であることは間違いないので、沢井も苦笑したままだったが、自分で言った、「あんまり話せない」という言葉に縛られたか、

「細かいことは喋るなよ」

と西田に耳打ちした。


 それを見ていた高宮だったが、沢井の行動に感化されたというわけでもなかろうが、急に西田に耳打ちしはじめた。

「ところで、西田さん方が俺に聴き込みに来た後、確か……6月の末ぐらいだったかな。見ちまったんだよ、人魂をさ」

西田はびっくりして高宮の顔をマジマジと見つめた。酒が入っていたので、冗談でも言っているのだろうと思ったわけだ。しかし、

「いやホント。あれは俺が昔見たのと同じだったよ……。何十年ぶりに見たからびっくりしてねえ……。夜行で網走からのオホーツクに乗ってたんだが、心臓が止まるかと思ったよ」

と真顔だったので、嘘はないだろうと確信した。

「そうでしたか……。高宮さんが見たって言うならそうなんでしょうね」

西田はそう言うしかなかったが、

「まあ、こんな話を聞いたところで何の意味もないんだろうけど、嘘から出た真と言うかなんと言うか……。あんなこともあるんだなって話だ。皮肉なことに他の若手は見てないってね……。あ、関係ないあんたに余計なこと言って悪かったな」

高宮はそう言うと席へと座った。それを見ていた吉村が、

「何かあったんですか?」

と尋ねてきたので、

「いや別に」

と誤魔化すと、大将に指示された奥の方の座席へと他の同僚と共に歩を進めた。


 席に着いた直後は、まだなんとなくそわそわして落ち着かない感じを皆漂わせていた。これから捜査が重要な段階を迎えるから、多少緊張感があるのかと西田はこの時は考えていた。とは言え、竹下以外のメンツは、それなりに達成感を持って(しまって)いたか、課長の音頭で酒宴が始まると、気分が高揚して気分が良くなり緊張も緩んできていた。


 西田は同僚と飲みに来ていた高宮の席まで「出張」してビールを注いだりと、機嫌を取っていた。そして、「事件が解決したら奢ってくれ」と高宮に言われていたことが、記憶の片隅に残っていたので、約束を果たすなら今しかないとも考えていた。事件が本当に解決したかどうかは微妙だが、かなり進展しているのは間違いなく、やはり何時会えるかわからない以上は、今奢るのが筋だろう。

「あの2人の分、俺が払うから」

と刑事達の席に料理を置きに来た大将に伝えた。


 午後8時過ぎに高宮と連れは店を出ようとしたが、会計の際に大将から「その旨」を伝えられると、西田の方へ向き直り、

「いやあ、刑事さんこいつの分まで悪いねえ。あんないい加減な口約束約束憶えてたのかい……。警察も捨てたもんじゃないな! じゃあ心置きなくいただいとくよ!」

と手を上げて西田に挨拶すると、にこやかに笑い暖簾をくぐって出て行った。


「係長! 高宮さんはともかく、知らない人の分まで奢ったんすか? 太っ腹ですね!」

高宮に聞き込みした時に一緒だった、ほろ酔い加減の吉村と黒須が茶化したが、西田は軽くあしらうとつまみの刺し身にドバっと醤油を掛けた。


 それから程なく、他の客も全て帰ったこともあって、大将は刑事連中の席に来て、一緒に酒を酌み交わし始めた。事件のことは喋るなと課長は言っていたが、その課長も含め、「差し障りのない」程度にこれまでの捜査の苦労をお互いに労い始めた。まだ本橋の起訴すら済んでおらず、竹下流に言えば、「黒幕」すら炙り出せていないが、まあ大方終わったという意識が出るのは仕方ないことだったかもしれない。


 吉村は、今回の大阪出張ついでに訪れた倉敷にて、最初の殺人事件発覚の犠牲者・米田雅俊の母である米田美都子を訪問した時の話を、呂律が怪しい中グダグダと愚痴った。被害者の米田が元々母子家庭で、最後は母の美都子1人が残された上に、ホシを立件出来なかった(最有力の被疑者である篠田が既に死亡しているため)という結末を嘆いてみせた。そうすると、これまた母子家庭で育ったという境遇の大将は、しみじみと

「そいつは気の毒な話だなあ」

と俯きながら言った。


「米田青年の遺体は、大将が教えてくれた高宮さんの話のおかげで見つかったようなもんだよ。そう考えると、何か因縁めいたもんがあるな……。そして大将の教えてくれた北見屯田タイムスの件から事件がどんどん広がって、今やこんなことになった……」

西田も日本酒をグビッと飲み干すと感慨深げに語った。


「しかし恵まれない人間が不遇な最期を遂げるってのは、やりきれねえべや。世の中ってのは上手くいかねえもんだな……」

大将がそう言うと、沢井が、

「その悔しさを、警官である自分達が晴らしていかねばならんのですよ。まだどうなるかわからないから、こんなに浮かれてれる場合でもないんだけどな」

と、小声でありながら力強く語ったのが西田には印象的だった。大将はその台詞を聞くと、何故か無言のまま空になった皿を重ねて厨房へと引き下がっていった。


 午後9時を回り、そろそろお開きとなると、沢井が大将に何やら聞いていた。おそらく会計のことなのだろう。竹下は相変わらずだが、黒須と澤田、吉村はかなり酔っていた。いよいよ店を出ることになり、まず西田が高宮達の分を支払った。その上で5人は沢井課長に

「ごちそうさんでした」

と挨拶して、沢井が大将に支払いをしようとした時、

「西田さんが奢った分も課長さんの分も、その米田とか言う被害者の母ちゃんへの香典として送ってやってくれ」

と全額突き返してきた。

「え?」

思わずその場に居た全員が口をあんぐりと開けたまま驚いたが、

「いいから! 俺の気持ちだ! しっかり送ってやってくれ!」

と如何にも「これ以上言ってくれるな」という態度を示した。同じ母子家庭という境遇で育っただけに、思う所があったのだろう。


 沢井も西田も大将の男気に野暮なことは言うまいと、

「じゃあわかったよ。大将の気持ち、必ず米田美都子に送るから」

と言って暖簾をくぐった。


「いやあ大将かっけえな! 俺もああなりたい!」

吉村が店の外で調子の良いことを言ったが、実際大将の気持ちは刑事6人に深く伝わったと言って良い。そして各々が家路につこうとした時、沢井が西田を捕まえて、

「おまえがさっき奢った分、返しとく」

と夏目の紙幣を5枚西田に握らせ囁いた。

「いや、俺の約束ですから……」

と西田は固辞しようとしたが、

「捜査の責任者は俺だ。最終的には俺が出すのが筋だ」

と西田の手を強く握って言った。


 さっきの大将ではないが、これ以上拒否するのも野暮だろう。西田は上司の心遣いをありがたく受け取ることにした。そしてその上で、

「今貰った分も米田の家に送らせてもらいます」

と告げると、沢井は黙って頷いた。


 翌日、強行犯係分として、倉敷で西田達が渡した分とは別の香典をまとめ、更に大将から預かった分も含めて、吉村が朝一で郵便局から米田美都子へと現金書留を送付したことは言うまでもなかった。

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