第31話 式部さんの代わりをするだけの簡単なお仕事 準備編
その日の夕方。
「お帰りになられたようですよ」
という周防さんの言葉に、私は我に返る。
「そのまま部屋にいらして下さいとお返事はいただいておりますので、どうぞ。行ってらっしゃいませ」
お辞儀をしながら私を送り出す周防さんに
「ありがとうございます」
と礼を言いながら、私は惟規さんの住む対屋へと急いだ。
朝、式部さんとの話し合いが物別れに終わった後、私は居候部屋に戻ってしばらく泣いた。
しかし、ただ泣くだけでは自体は一歩もよい方向に向かわない。
私は「式部さんの身代わりとして自分が中宮様の元に出仕するとしたら何がまず必要か」を考えた。
そして、どう考えても家庭教師役として最低限必要なのは、まずこの時代の文字の読み書きができることしかないだろう。当たり前だが、その結論に至ったのだ。
ただ、それを式部さんに提案しても受け入れてはくれないような気がしたので、私は惟規さんにお願いすることにした。
まだ出仕している昼のうち、周防さんに代筆を頼んだ手紙で事情は説明してある。また惟規さんからの返事では、部屋に直接伺ってよいとのことで、私はいまこの長い廊下を歩いているのだった。
「惟規さん、お帰りなさい。お疲れのところすみません」
私は、御簾越しにまず話しかける。
「ああ、香子さん。どうぞ部屋に入っていらしてください」
惟規さんの言葉に、私は「失礼します」と言いながら、御簾を片手で上げ部屋の中に入る。
「手紙でおおまかな内容は聞きましたが、それで兄上はご自身が女性として中宮様の元に出仕するおつもりで?」
惟規さんにすすめられ私は部屋の中、惟規さんの正面に座った。
「そのようです。私は宮中でどのようなお仕事があるかわかりません。でも、他の方とお話しされたら、すぐに男性だとばれてしまうんじゃないかと思うのです」
「確かに香子さんの推察通りだと思います。だから、これまで父上も出仕の話をのらりくらりと
頭を深々と下げる惟規さんの前で私は必死に手を左右に振る。
「そんな、やめてください、惟規さん! 頭を上げてください! それよりも、出仕が断れない話としたら、今するべきことはどのようにしてこの出仕の依頼という難題を乗り越えるかということです」
「ありがとうございます」
惟規さんはようやく頭を上げてくれた。
「それで、私も一日考えたのですが……。式部さんが男性だとばれてしまったら、とてもヤバイ……大変なことになるのではないですか?」
私の知っている後宮の知識は、中華風ファンタジーだったりアラブ風ファンタジーだったりで、正しい知識とは言えないけれど、後宮と言えば男子禁制ではないかと思う。三国志の世界では、男性機能を切除して後宮に上がる「
「後宮は、男子禁制ですよね? 日本の後宮は……中国のように宦官がいたりはしないのですか?」
私は、式部さんが男性だとバレて、宦官にされちゃう……なんてことがあったらと思い恐る恐る尋ねた。
「香子さんは本当に
「では……」
バレてもそんなに大事にはならないのか、とホッと胸を撫で下ろそうとしたところに、惟規さんの声が被さる。
「でも、女性と偽った男性が中宮様のすぐお傍に仕えていたとなったら話は別でしょうね」
「……え……?」
「中宮様への不義密通をたくらんだ不埒な輩として間違いなく罰せられるでしょう」
「だとしたら……そんなのすぐに、バレてしまうじゃないですか!?」
と、私は声を荒げる。
「やはり、私が式部さんとして行きます、後宮に上がります!」
思わず興奮して立ち上がりながら、私は惟規さんに懇願した。
「だとしたら、女性がそういった立ち居振る舞いをしてはいけないと思います……」
「……!」
私は、急いでその場に座った。私の精一杯でなるべく大人しく座ったつもりだけれど、がさつと思われてしまっただろうか。
「あの……文字を教えて欲しいんです」
私は、なるべくおしとやかに、でも惟規さんの目を見つめながらお願いをした。この時代の女性は、こんなふうに男性の目を見つめて頼み事なんてしないのかもしれない。それでも、私の時代の常識では、頼み事をするときには相手の目を見つめて誠心誠意お願いするということが常識だ。
「15日の夜までに中宮様の元に上がればよいと聞きました。ならばまだ、出仕するまでに約一週間の間があります。その間にひらがなだけでも……文字の読み書きを、憶えたいのです」
そこまで言って私は、深く頭を垂れた。
額を床につけたまましばらくじっとしていると、
「はあ……」
という、惟規さんの溜息が聞こえて来る。
やはり、無理……なのか?
「香子さんならそう言うだろうと思っていました」
「では……」
私は頭を上げる。
「誤解しないで下さい。私も兄上と同じ考え、香子さんに元いた場所に帰っていただくのが一番だと思っています。我が家の都合で、ここにお引き留めするわけにはいかない、と思っているのです」
惟規さんは、言いながら壁際の書棚をゴソゴソと探り、いくつかの巻物を手に戻って来た。
「しかし、その香子さんの思いに打たれたと申しましょうか……」
「だって、これほどお世話になっているのですから……少しぐらい恩返しはしたいと思っているのです。ひらがな50文字憶えるぐらいならなんとか私でも……」
「50文字……?」
惟規さんは巻物を開きながら、私の顔をまじまじと見つめる。
「香子さんの世界では、かなは50文字しかないのですか?」
「……え……? あいうえおかきくけこ……50音って……」
「あい……うえお……?」
「あ、この時代だと……いろはにほへと?」
「いろ……は……?」
どうも、先ほどから惟規さんと私の間で文字についての認識が合致しないようだ。後宮についての話をしていたときよりも、二人の間の常識に開きがあるような気がして、おそるおそる尋ねる。
「まさかと思いますが……かなは50字以上あるのですか……?」
「はい」
即答だった。
「紙……いらない紙を貸していただけますか、あと……筆を」
「では、こちらに」
私たちは、惟規さんの仕事机の方に移動する。
「この
惟規さんが机の上に出してくれた紙と筆を使って、私は楷書で「あ」と書いた。
「この文字……、読んでいただいてもよいですか?」
一瞬の間の後、
「……あ……?」
と、惟規さんの答えが返って来る。ホッとした。
しかし、次の惟規さんの問いは、私を不安に陥れるに充分なものだった。
「他の“あ”を書いてみてもらえますか?」
「他の“あ”……って何ですか? まさか、“あ”が他にもあるんですか……?」
惟規さんは当然のように、首を縦に振った。
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