第32話 式部さんの代わりをするだけの簡単なお仕事 手習い始めます
「他の“あ”……」
私は惟規さんの提案に、脳内の記憶をハイスピードで検索する。
そして、ふと気が付いた。惟規さんは、ただ「他の“あ”」と言っただけだ。ひらがなともカタカナとも言わなかった。と、すれば……。
「もしかして……これですか?」
私はおずおずと
「ア」
と書いた紙を惟規さんに見せる。
平成に生きる私には、これぐらいしかもう選択肢がなかった。
「それは……、確かに“あ”ですけれど。ああ、香子さんは漢籍の方がお得意なのでしたよね。ただ、女性はあまり使わないかもしれません、その文字は……」
と、惟規さんは首を左右に振る。
「え? どんなときに使うんですか?」
平成では、カタカナと言えば外国から入って来た物や外国人の名前に使われるのが一般的。他には、小説やマンガの中で「ギャー!」「バンッ!」「ドス!」といった擬音に使われることが多いだろうか。
しかし、この時代、カタカナを当てるような西洋との国交はまだないだろう。擬音も、式部さんが読んでくれた現在鋭意執筆中の『源氏物語』の中ではまだ使われていないようだった。
「漢籍や経文を読むときに、その横に読み方を記したり、送り仮名を記したりするのに使うことが多いので、女性が文の中で使うことは稀でしょうね。ただ、文字によっては、使うものもあるにはありますが……」
「ああ……」
私は、教科書に載っていた漢文を思い出していた。確かに、あそこには漢字の右下に小さくカタカナで送り仮名が振られていた。ああいった使い方が一般的だということだろうか。
だとしたら、他の“あ”とは……?
「惟規さん、降参です。私には、その他に“あ”が思い浮かびません。他の“あ”を書いてみてもらえませんか?」
と言いながら、私は惟規さんの正面に来るように先ほどの紙をすべらせた。
「わかりました」
惟規さんは頷いて筆を取る。
「本来は一文字ずつかなを書くということはしないものですが、今回は特別に……」
と言いながら、私の書いた“あ”の横に三つ、文字を書き加えた。
おそらく、文字……なのだろう。私は見たことがないものだったが。
「これは……?」
「どれも“あ”です」
「え! 同じ“あ”なのに、他の書き方があるのですか?」
なぜそんな無駄なことをと思いながら私は惟規さんに問う。
「同じ“あ”ではありますが、同じではないと言いましょうか……。香子さんが書いてくださった“あ”。これは、“安”という漢字をもとに作られたかなです。そして、私がいま書いた“あ”は、それぞれ“阿”“愛”“悪”という字をもとにしたものです」
惟規さんは、説明しながらさらにかな文字の横に漢字を書き加えていく。
「確かに……、“阿”をもとにした字は、なんとなく右と左の部分、二つに分かれているなというのがわかります。“悪”をもとにした字も、一番下の部分が“心”という部首に見えなくもない……というか。でも“愛”をもとにした字は……」
私には、“も”だと言われた方がまだ近く感じる。正直言うと、“悪”をもとにしたという字の方も、“あ”というよりは“え”に近く見えるのだ。
「まさかこれが、どのひらがなでも……?」
私は恐れていた問いを口にした。
ひらがな50文字であれば、一日に10字憶えるつもりで臨めば、総仕上げの復習の日も設けられて完璧! ぐらいに考えていた。
しかし、予想していたよりもかなり文字数が多いのではないだろうか?
「はい、そうです。大抵、どの文字も3つから5つぐらい書き方はあります。でも、すべて合わせても二百には至らないと思いますので……、漢字の数に比べれば相当少ないわけですし、熱意ある香子さんであれば、確かに出仕までの間に憶えられるでしょう」
惟規さんは邪気のない瞳で、私を見つめて微笑んでいる。今更、計算違いでした、やめます、諦めますとは言えない雰囲気である。
「そ、そうなんですね……」
私は苦笑を浮かべるしかなかった。
「そして、これが手習いの手本なのですが……」
惟規さんは、先ほど書棚から持って来た巻物を広げて見せてくれた。
「わぁ、きれい!」
以前、式部さんが読んでくれた伊勢物語のように、繋がったかな文字の塊が、まるで計算されたように紙の上に散っている。現代の印刷された文字と違って、墨の色が濃いところと淡いところがあり、それがまた美しさを醸し出していて、文字が読めなくとも、まるできれいな絵を鑑賞するように見ることができた。
「まさか、これがお手本なのですか?」
小学校のときに文字を習った練習帳のように一字ずつ文字が分かれて書かれているものが手本として出てくると予想していた私は驚きを隠せなかった。まるで博物館か美術館に飾ってある芸術作品のような、この巻物がお手本だなんて。
もちろん、これが現代まで残っていたら、間違いなく博物館のケースの中に保管されているだろうけれど。
「あいにく我が家には女性といえば亡くなった姉しかおらず、古い手本しか残されていなくて申し訳ないのですが」
「い、いえ……そんな、私には古いとか新しいとかわかりませんし……古いと困るものですか?」
「文字の書き方にも流行がありましてね。あまりに古い手本で手習いをし、その
「はあ、なるほど……」
私には新しいか古いかもわからないので、そのように答えるしかなかった。
「一文字ずつ書かれたお手本というものはないのでしょうか? もっと小さな子が使うような……」
私は恐る恐る惟規さんに尋ねてみる。
「小さな子……? 香子さんがおっしゃっていることがよくわからないのですが、一文字ずつ書かれたお手本というのは存在しないのです。かな文字の場合は、この文字の連なりの美しさに意味がありますので、手本を見ながらそれを真似て書き写すという練習を幼い頃からしていくのですよ」
「連なり……ですか。ということは、これがもし一文字ずつ書かれていたとしたら……」
惟規さんは、うーむと首をひねる。
おそらくそのようなものなど見たことがないからであろう。
「想像に過ぎませんが……もし一文字ずつ分かち書きされていたら、私たちには判読できない可能性もありますね」
私の不安な表情を見て取ったせいだろうか、惟規さんが慌てたようにフォローする。
「大丈夫ですよ、香子さんほど聡明な方でいらっしゃれば、すぐに憶えられると思います。子どもたちもこれを繰り返し真似て書くことで誰でも読み書きができるようになるわけですし。これは誰もが使う有名な“なにはづ”の歌ですから、まずはこれで練習なさってみてください。他にも、姉が使っていた手習い用の歌の手本をお貸しいたしますので、昼の間は周防にわからないところがあれば聞きながら、手習いをしてみてください。私も毎日、帰宅したら必ず伺うようにいたします」
そう言って、惟規さんはキラキラとした瞳を私の方に向ける。
惟規さんから渡された巻物の重さは、実際の重量以上に感じられたが、純粋な敬意の目を向けられてしまうと、「できません」などとは口が裂けても言えなかった。
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