第30話 式部さんの代わりをするだけの簡単なお仕事に立候補したいのですが……

 大殿の部屋を辞した私は、そのまま式部さんの部屋に向かった。

 もちろん、先ほどの式部さんの父上からの話、中宮様の元への出仕の件について相談するためだ。

 いまは危急のとき。文を送らずそのまま出向いても許されるだろう。式部さんの後を追うようにして、式部さんの部屋のある対屋へと進む。

 同じぐらいに退去したはずなのに、既に式部さんの姿は渡り廊下にも見えない。この重い装束を普段から着慣れているためか、それとも男性であるゆえか。私よりも歩くのが相当速いようだ。

 息を切らしながら式部さんの部屋まで辿り着いた私は、御簾の前で跪くと、部屋の内へと声を掛けた。

「式部さん、香子です。先ほどのお話について相談したくて参りました。入ってもいいですか?」

「ああ」

 部屋の中から予想以上に機嫌の悪そうな返事が聞こえて来る。

「失礼します」

と、私は御簾を片手で上げながら部屋の中へと入った。

 式部さんは、いつもの机の前に座っている。しかし、当然ながら物語を書くときのような楽しげな様子ではなく、両手を祈るように組んだ上に顎を乗せたまま眉間に皺を寄せて何か思案しているようだった。

「先ほどのお父上のお話ですが……」

 恐る恐る声を掛ける。

 私の問いかけにようやくこちらを向いた式部さんは、

「ああ、あれは失礼した。忘れてほしい」

と渋面のまま答えた。

「忘れて……と言っても、どうするのですか? まさか、式部さんが女性の格好をして出仕するわけにも……」

「しかし、それしか方法がないであろう。出仕の日にちがよりによって月蝕の日なのだ。そなたは、安倍天文生殿と一緒に一条戻橋で月蝕の時間を待つべきだと思う」

「そう言われても……月蝕の日に必ず帰れると決まったわけではないですし。今回の月蝕は見送って、私が式部さんの代わりに……」

「駄目だ!」

 式部さんの厳しい声音に、私の言葉が遮られる。

 あまりの剣幕に驚いたが、気を取り直して私は提案を続けた。

「でも、式部さんはやはり男性ですから、体格から気付かれてしまう恐れもありますし……」

「香子殿、立ってみてください」

 突然の式部さんの指示に、その意図をはかりかねながら私は立ち上がる。

 すると、式部さんも一緒に立ち上がったかと思うと、そのまま私の方に身体を近づけて来る。

「ちょ……近いです、また……!」

 目の前に式部さんの顔が近づいて来たため、恥ずかしさのあまり思わず声を上げた。そのまま顔を背け、身体も引き離そうとする。

 しかし、式部さんの手は私の腰に回され、先ほどと同じ距離まで私の身体は無理矢理引き戻される。

 抱きすくめられたような格好になり、ますます動悸が激しくなるのを感じた。

 間近で顔を見るのは耐えられず、思わず目を瞑る。

「目を閉じないで」

 少しでも離れようとする私の顎を式部さんの指が捉えて引き戻す。

「目を開いて見てごらん。香子殿の顔の目の前、同じぐらいの位置に私の顔があるだろう?」

「……え……?」

 なぜそんな当たり前のことを言っているのだろう。だから、恥ずかしくて顔を背けているのではないか。

「つ、ま、り……」

 式部さんの声が、再び先ほどの厳しさをまとい始めた。

「香子殿と私の背は、同じぐらいなのだよ! だから、目の前にお互いの顔があるのではないか!」

 言われて初めて気が付いた。確かに、私と式部さんの身長はほぼ同じである。

 距離が近いと常々思ってはいたが、それは式部さんが非常識なのだとばかり思っていた。私は現代ではごく平均的、やや小さいぐらいの身長だ。だから、満員電車などで男性と密着することがあっても、顔と顔が近付いて困るということはない。男性の顔の方がかなり高い位置に来るため、目線の辺りにあるのはせいぜい肩や背中がいいところ。だから私は現代では、男性とこんなに顔を近づけた経験がなかったのだ。しかし、式部さんとは身長も座高もほぼ同じだから、狭い牛車の中などではどうしても顔と顔が近くなってしまっていた。そういうことだったのかと今更ながら納得する。

 惟規さんや国時さん、他の男性たちを思い出してみる。式部さんと比べて、ものすごく大きな人だとうイメージはない。つまり、式部さんが小さいわけではなく、私がこの時代の男性と同じぐらいの体格だということだろう。そういえば、周防さんは私よりかなり背が低い。

 さらに、京都で訪れた古い寺社は、現代の建物よりもだいぶ天井が低かったということまで思い出す。つまり、この時代の人たちは現代人よりもかなり背が低いのだ。毎日の食事を比べてみれば、それも当然である。

「わかったならもう座ってよい」

 式部さんは、冷たく険のある声で突き放すように指図する。

 一瞬でもときめいた私がバカみたいじゃないか。 

 恥ずかしさもあって、先ほどよりもムキになって反論を続けた。

「まあ、身長のことは問題ないというか……私が代わりになっても改善されない問題だとわかりました。でも、出仕したら中宮様とお話しをしなければならないのでしょう? いくら式部さんが美しいとはいえ、声を出せば男性だとばれてしまいますよ。いまみたいな声、女性は出さないです」

 一本取り返したとばかりに式部さんを見つめると、式部さんは咳払いをして

「もちろん、声を荒げたりはしない……しません。極力、高い声を出すつもりだ……です」

と、かみながら言う。

 先ほどよりも、声のトーンが若干上がっている。意識して高い声を出し、女性のように丁寧に話しているつもりなのだろうが、やはり成人男性。私は、現代のテレビでよく見ていたオネエタレントを思い出してしまった。

 これまで、前越前守さきのえちぜんのかみの娘として世間を騙し続けられたのは、この時代の貴族の習慣が功を奏しただけだろう。貴族の女性は、家から出ないし、顔を見せない。御簾の向こうに隠された存在だからこそ誤魔化し続けられただけで、出仕となったらそうはいかないのではないか。

「式部さん、中宮様の女房というのは、中宮様と話すだけなのですか? 他の人とも話す機会があるのではないですか?」

 私はこの時代のことをそこまでよく知らないけれど、要するにメイドのようなものだろう。あるいは、大河ドラマで見る小姓のようなものと考えればいいのではないか。中宮様は当然そこで一番偉い女性となるわけだから、下々の者とは話さないだろう。誰かが訪ねて来たときに中宮様に取り次ぐ役目もあるのではないかと予想して、そう尋ねた。

「まあ、他の女房たちとは話すであろうな」

 式部さんは口を濁す。

「それだけですか? 外からやって来た人と中宮様は直接お話しをなさるのですか? お客様がいらしたら取り次ぐ役目もあるのではないですか? そうしたら、すぐに声で男性とばれてしまいますよね?」

「ああ、香子殿は本当に聡くて困る。確かに、そういう役目もあろう。でもまだ日にちはあるし、できるだけ女性のように話せるよう練習をするし、内気で無口だということにしてなるべく声を出さないという方法もある」

 かなり無理のある言い訳だなと思う。

「式部さんが女性のように話せるようになるのと、私がこの時代のかな文字を覚えるのと、どちらが早いでしょうね」

 そう、読み書きができないのがネックなのなら覚えてしまえばいい。ひらがなだけでいいのだ。男性が女性の振りをするより、よほど現実的ではないのか。

「だ、め、だ」

 式部さんの声が再び刺々しくなる。

「どうして……?」

「香子殿のことを待っている家族や友がいるのであろう? 帰れる機会があるなら帰るべきだ」

 ぴしゃりと言い放つその声は、拒絶にも感じられて私は愕然とする。

「式部さんは……、私が帰った方がいいんですか? 物語はこの先どうするのですか?」

「物語は、自分一人で何とかしてみる。もともと、私の仕事に香子殿を巻き込んでしまったようなものだ」

 物語作りでまで私の存在価値がなくなったら……。

「私がいなくなっても式部さんは……何とも思わないのですか? もう二度と逢えなくても……?」

 私は言わなくてもいいことを口にした。

 乙女ゲームだったら選択肢を間違うことなどないのに、現実だとどうしていらないことを口走ってしまうのだろう。

「それは……」

 式部さんが口ごもる。

 その答えを聞いたら、式部さんが私に対してどういった感情を抱いているかわかってしまうではないか。

 ゲームはここでエンドだ。

「ごめんなさい……言わなくていいです」

 涙が溢れてくるのを見られたくなくて、私はそのまま背を向け、簀子縁へと滑り出た。

 答えはまだ聞きたくない。私は、まだこのゲームを終わらせたくないのだ。

 ここに……、いたい。

 式部さんとこのまま一緒に、いたい。

 私は、こんなにも式部さんと離れがたくなっている。

 自分のいた世界を手放すほどの思いかどうかまではまだわからない。

 でも、月蝕や日蝕なんて、またやって来るではないか。それが一年先でも、三年先でもかまわない。

 そう思うくらいには、私はこの時代を、式部さんを、好きになってしまっていたのだ。

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