第29話 式部さんの代わりをするだけの簡単なお仕事です
自分が元いた世界に帰ることと、式部さんと物語を作ること。
これまで、私はこの二つの目標に向けて邁進してきた。
しかし、昨日の七夕の夜。
本当にそれだけでよいのか、このまま帰ってしまって式部さんと二度と逢えなくなってもよいのかという自分の心の奥底に潜んでいた気持ちと初めて向き合うこととなった。
いくら考えても答えなど出ない。
これがゲームなら……と、幾度考えたかわからない妄想を巡らせる。
たとえば、式部さんが現代について来てくれるハッピーエンドだって選べるかもしれない。でも、それは私だけを中心に世界が回っている、とても傲慢なエンドでもある。
式部さんがいま、この時代から立ち去ってしまったら、「桐壺」の巻しか書かれていない『源氏物語』だけがここに残るわけで、きっと本来の歴史とは大きく異なってしまうだろう。そんな分岐の先にある未来は、私が元いた世界とは違うのではないだろうか。
いや、式部さんのように歴史上重要な人物でなくとも。バタフライ・エフェクトのような現象は起きるのではないか。どんなに無名の人物であっても、千年前から現代へとやって来たら、産まれるはずだった子孫たちがこの世から消えて、未来には大きな影響が出てしまう可能性もある。
だから、歴史に影響を及ぼさないためには、式部さんとこのまま別れて現代へ戻るという選択肢を選ぶのが最善なのだろう。
そんなことを考えてなかなか寝付けなかったためか、鏡の中の私の顔はなんだか
「今日は、大殿が姫様をお呼びになっていらっしゃいます。朝食をお召し上がりになられたら、一の君とご一緒に、大殿のお部屋までいらっしゃるようにとのことです」
と、私に告げた。
大殿……、つまり式部さんのお父上のことだ。
式部さんだけならまだしも、私まで一緒とはどういうことだろう。
「何のご用事なのでしょうか?」
「さあ、私はそこまでは……」
式部さんのお父上は、私のことをどこかの貴族の姫君だとまだ信じているはずだ。
それなのに、男性の式部さんと一緒に来るようにというのはどういうことだろう。式部さんから聞いていたこの時代の常識とは合致しないような気がする。
多少、不自然さは感じたものの、たいしたことではないだろうと私はその疑念を追いやった。
しかし、この後、事態は急転することとなる。
式部さんの父上の前では、私は貴族の姫君を演じねばならないので、私は式部さんや父上など男性たちとは几帳を挟んで対面した。また、念のため、扇を開いて顔を隠す。
上座に座る父上は、まずは式部さんに声を掛けた。
「そなたの書いた『源氏の君の物語』。昨日の七夕の宴の折に、左大臣様にご献上して参った。さっそく目を通してくださったらしく、今朝方、左大臣様からお褒めの文をいただいた。天晴れじゃ」
「それは、それは。お褒めに預かり何よりでございます、父上」
と、式部さんは頭を下げる。今日は、初めて会ったときと同じ、女性の格好に戻ってしまっていた。
「この藤氏が栄える世に、『源氏の君の物語』などお渡しして大丈夫なものかと心配したものだが……。そなたの言うように、“鎮魂の物語”であると伝えたところ、お喜びになってな」
「そうでございましょう。源氏である
私には式部さんの話している事件が何のことかわからなかった。
ただ、この前教えてもらった源融の事件以外にも、源氏が藤原氏によってその地位を奪われた事件があったということなのだろう。
「本来ならば、御霊神社を建てるものを、物語で怨霊を慰撫するとは考えたものよ、とお褒めくださり……いや、まあ、この文をそなたにも読んでもらった方がよいだろう」
父上は満面の笑みを浮かべながら、式部さんに文を手渡した。
几帳越しに覗くと、式部さんは、その文に素早く目を走らせているようだ。最初は笑みを浮かべて読んでいた式部さんだが、その表情が途中で凍り付いた。
「父上……、これは……」
「そのままの意味だ。前々からお話をいただいていたであろう。中宮様のもとに出仕せよ、と。その期日が明らかになっただけだ」
「ええ、ええ、存じておりますが……しかし……」
「確かに、これまではそなたが男の身であることから、いろいろと理由をつけて断ってきた。しかし、いまは断らずともよいのではないかと思ってな。そのう……、記憶を失った姫君にそなたの代わりに出仕してもらうのはどうかと思ったのじゃ」
「父上……、何を!?」
式部さんは、急に声を荒げる。
私は一瞬、何を言われているのかわからなかった。
しかし、父上の言葉を自分の中で反芻してみる。
“記憶を失った姫君”……。これは、私のことではないのか?
私が式部さんの身代わりとなって、中宮様のもとに出仕せよ、ということ?
「宮中には、たくさんの貴族の
「父上……、それは
「何を言うか。それに、姫君にとっても悪い話ではないはずだ。その『源氏の君の物語』だとて、そなた一人で書いたものではなく、姫君に手伝ってもらったと言っていたではないか。漢籍の素養も、
式部さんは俯き、
「ああ……下手なことを言うのではなかった……」
と、小声で呟いた後、もう一度顔を上げ、父上に反論を続けた。
「しかし、父上。中宮の女房というのは、公達に顔を見られてしまうやもしれぬ職。もし、姫君がやんごとないご身分であられたら、どうされるおつもりなのです?
「それはない。そのようなご身分の姫であれば、まずお妃教育をするのが当たり前。それが和歌より漢籍の方が得意とは、菅原氏や清原氏、大江氏など
「中宮様の家庭教師……?」
私は思わず声を上げてしまった。
「そうじゃ、これほど
“造作もない”と言うが、家庭教師といったら、やはり読み書きができないとまずいのではないか。
現代の基準でしか判断できないが、教科書を読むことすらできない家庭教師など聞いたことがない。式部さんの力になりたいとは思う。しかし、私には……、できない。この時代の文字の読み書きができない私には……。
「いずれにせよ、もう左大臣様の中て決まってしまったことじゃ、覆すことはできまい。
十五日の夜……。
それは、私が現代に帰れるかもしれない日。
その月蝕の起きる瞬間に、時空に綻びが起きる一条戻橋ではなく、中宮様のすぐお傍にいなければならない仕事というわけか。
「それならば、私が中宮様のもとに……」
十五日と聞いたせいだろうか、式部さんの声がさらに大きくなる。
「そなたでは無理だと何度も我が家で話し合ったことであろう。中宮様のもとにはたくさんの女房が侍していらっしゃる。ただ女の格好をしているだけで、ごまかせるものではない」
「しかし……」
「話はこれで終わりじゃ。姫君、お願いできるかな。よろしく頼んだぞ」
私はもちろん、その願いに対して安易に頷くことなどできない。
その場で、一言も発することができず、ただただ固まっていた。
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