第23話 私は『源氏物語』最初の巻の名付け親になってしまったようです

「香子殿? 大丈夫か? そなたこそ疲れているのではないか?」

 式部さんの問いかけに、我に返る。

 正しい『源氏物語』を作り出すという重責が私の肩に一気にのし掛かったため、一瞬意識が飛んでしまった。この先のストーリーなんて、私はうろ覚えだ。

 高校の授業で習った部分、確かこの「桐壺きりつぼ」巻の冒頭と、「若紫」巻の一部分ぐらいしか、原文は読んだことがない。

 あとは、マンガで読んだことがある程度という、乏しい知識のみが頼りである。そのマンガが正しいかどうかも、私には見当がつかないのだが……。

 ただ、とりあえずここまで、自分の萌えツボを信じて、自分の読みたい物語の展開を式部さんに伝えることで、正しい『源氏物語』が少しずつできあがってきている。

 私自身は、「正しい『源氏物語』はこうだから、ここは修正を加えなければならない」という思いで、式部さんに意見を提案しているわけではない。

 だったらこの後も、自分の萌えツボと王道展開は時代を超えても不変だということだけを信じて、突き進むしかない。

「大丈夫です。どうぞ続けてください」

と、私は覚悟を決めて言った。

「わかった。では、続きを読むぞ」

と、式部さんは朗読を再開した。

「更衣が病気がちなため、実家にたびたび戻ってしまうのも、帝にとってはかえって愛しさを覚えるようで、周囲からの批判もまったく気になさらず、世間の噂になってしまいそうなほどのご寵愛ぶりでした。上達部かんだちめ殿上人てんじょうびとといった帝に仕える身分の高い方々も、何を言ってももうどうにもならないと目を背けました。そして、『たいそうなご寵愛ぶりだ。唐土もろこしの国にもこのようなことが起きて、国も乱れてしまったことよ』と次第に天下の悩み事となっていったのです。“安禄山あんろくさんの乱”を招いた楊貴妃の例まで引き合いに出され、更衣ご自身はいたたまれない気持ちになっていきましたが、帝の愛だけを頼りに宮中での生活をお続けになったのです。

 この更衣の父である大納言は既にお亡くなりになられていましたが、母は由緒ある家柄の教養のある方でしたので、両親が揃って華々しい身分のお妃様たちに対してひけを取らぬよう、この母君が宮中の儀式のためいろいろと苦心してお支度などされてきました。しかし、やはり後ろ盾のある方とは違うので、あらたまった場では更衣は心細そうな様子でいらっしゃいます」

 そこまで、読んで式部さんは一呼吸置いた。

「この母方は由緒ある家柄だけれど、父が亡くなったために後ろ盾がなくて……といった辺りが、業平や源融のように、家柄はいいけれど不遇を味合わされた人々を表しているのですね」

と問うと、

「そうだ。そして、この後ろ盾のない状態の妃から、この後、主人公が産まれる。既に、後見のしっかりとした右大臣の娘である女御が、第一皇子を産んだ後に産まれるから、これが現実の話だったら、確実に業平や源融のように苦汁を舐めることとなるだろう」

と説明を加えてくれた。

「なるほど、最初からリードした、帝になって当然の人や、権力を握って当然の大臣家が存在しているわけですね」

「その通り。ここの部分だ」

と言って、指で追いながら朗読を続ける。

「第一皇子は右大臣の娘である女御にょうごがお産みになられた方で、後見がしっかりしています。疑いなく第一皇子が皇太子になられる方だと、大切にかしずかれていました。ところが、ご寵愛の深い更衣がお産みになられた第二皇子の美しさは比べることもできないほどだったので、帝は第一皇子を大切に扱いはされていましたが、この第二皇子の方をとりわけ可愛いと思われ、ひいきするようにお育てになられたのです」

 その箇所を聞いて、

「ということは、これ、右大臣側が悪役キャラ決定ですね!」

と、私は指摘する。

「悪役きゃら……?」

「つまりは、主人公を引き立てるための悪者が必要なわけですよ。主人公が苦しめば苦しむほど、読者は、『頑張れ! 負けるな!』と応援したくなります。それだけ、主人公に肩入れしたくなってくるわけです。それには、ただ父親の帝から、ひいきして育てられているだけではダメなんです。この右大臣やその娘を思いっきり悪役にしましょう。源融に対しての藤原基経のように、邪魔する立場にするんです」

「なるほど、さすがそなたは聡いな、言われてみれば面白い物語とは、感情移入できる物語に他ならないな」

 褒められて嬉しくなったが、いまは妄想を語るという役に徹し続けることにした。“式部さんから褒められちゃった、キャハ、嬉しい!”的なことを一瞬でも考えたら、私は『源氏物語』ではなく、私自身の物語に没入してしまいそうだったからである。

「たぶん、この右大臣の娘の女御というのは、母親の立場としても、同じ男を奪い合う女同士という立場からしても、主人公の母、えっと更衣でしたっけ? に、ものすごく嫉妬するはずです。女ってそういうものです。これ確実に男の方が悪いよな~、ってことでも、女の嫉妬は女にしか向きません。これ、覚えておいてくださいね!」

 “ここテストに出るから”的な言い方をすると、

「香子殿は、ものすごく恋愛の心理に詳しいのだな」

と、またも褒められてしまう。

「いえいえ、そんなことは……」

と答えるのは、謙遜ではない。事実、リアルな恋愛は知らないのだ。ただ、マンガやゲームの中での恋愛とはそのようなものだというだけの話である。

「えっと、一方で、女御の父親の右大臣という人は、政治家として実権を握りたいわけですよね。だから、一昨日の話に出てきた基経のように、もし主人公の源氏の君が出世してきたら、逐一、この右大臣は邪魔を仕掛けるはずですよね」

「まあ、藤原のうじの長者であれば、代々そうしてきたであろうな」

「すると、邪魔をすればするほど、主人公に肩入れして読んでいる読者……、源融側の人は『このクソ親父、超ムカつく!』となるわけです。つまり、すごく苛つく、嫌いだと。しかし、その障害を設けることによって、主人公は物語の中でいくつものハードル……山を乗り越えて、成長していくわけですね

「おお、すごいな。それは面白くなりそうだ!」

と、式部さんは急いでまた別の紙にメモを取っている。

「そういえば、そなたの話を聞いていて思い出した。この更衣がいじめられる場面を書いたのだが、そこについてもそなたの意見を聞きたい。なるべく、この前の香子殿の話を参考にしたつもりだが」

と、コホンとひとつ咳払いをしてから、式部さんはまた朗読を始めた。

「帝のご寵愛が深く、ひっきりなしに帝からお声がかかるので、更衣はたくさんのお妃様たちの前を通って帝の待つ清涼殿にお渡りになられます。それを見てお呼びのかからない他のお妃様たちが気をもまれるのも当たり前のことです。あまりに更衣ばかり呼ばれるときには、打橋うちはし渡殿わたどのといった清涼殿までの通り道に汚物がまかれ、更衣に付き従う女房たちの裾が見るに堪えないほど汚れてしまうこともあるほどでした」

 ここまで読んで、式部さんはいったん物語の紙束を机に置いた。

 トイレの便器に顔を突っ込まれ「身の程知らずめ!」と先輩たちから罵られるという少女マンガの王道パターンを取り入れてくれたようだ。

 しかし、考えてみると、いまは平安時代。時の流れで言えば、この汚物まき散らしシーンの方が少女マンガよりも先に成立していたわけである。ただ、私がヒントを得たのは、未来の少女マンガの王道シーンからだ。式部さんもそこからヒントを得て、この場面を書いたはずである。

 ということは、これはどちらが先に成立したと断言できないことになり、「鶏が先か卵が先か」という永遠に答えの出ない問いと同じになってしまうということだ。考えていると混乱してきてしまう。

 いやはや、タイムスリップとは、複雑な状況を生み出すものである。

 別のことに思いを馳せていて、答えが遅れた私に、式部さんは顔を寄せ、

「どうだろうか」

と問いかけてきた。

 突然、思考から現実に引き戻されて、息がかかるほどすぐ目の前に式部さんの顔を見た私は、思わず

「わっ!」

と声を上げてから、

「ご、ごめんなさい、えっと、う~ん、いじめがまだ足りない感じですね」

と何とか自分の心を騙し騙し、批評を続けた。

 式部さんの距離感のズレは、和歌を送ってくれるようになったいまも治っていないらしい。また動悸が収まらなくなる前に、物語に集中しなければ、と気を引き締め、脳内の検索機能を使って少女マンガの王道いじめシーンから使えそうな場面をソートしていった。

「たとえば、これ更衣をどこかに閉じ込めることってできます?」

 私の頭に浮かんだのは、少女マンガによくある“彼のフリをしてヒロインを呼び出し、体育用具室に閉じ込める”といういじめだった。しかも、そのことによって、彼との大事な約束や、彼の試合の応援に間に合わなくなって、後々誤解からもめ事に発展したりする。しかし、もめることによって愛は更に強く、深くなるのだ。

「そうだな……殿舎と殿舎を結ぶ“馬道めどう”だったら、入り口と出口に戸が付いているので、更衣が入ったところを見て、入り口側と出口側、両方で示し合わせて閉めてしまうことができると思う。そうすれば、その通路の中に閉じ込められるのではないかな」

「いいですね、そこに閉じ込めちゃいましょう! あと、私は後宮がどういう造りになっているかわからないのですが、帝のいらっしゃるところから一番遠いのはどこですか? その一番遠いところに部屋をもらっている設定にしたら、おのずと後宮中、全員の妃たちの前を通って帝のところに行かないといけなくなりますよね?」

「確かに、その通りだな。そうしよう。確か……一番遠いのは淑景舎しげいしゃだ。あまりに不便なので、ほとんど使われたことがないと聞く……。むしろ摂政の詰め所として利用されることが多いようだが。その庭に桐が植えられていることから、通称“桐壺きりつぼ”と呼ばれている」

「……桐壺!?」

 驚く私を、式部さんは不思議そうに見つめている。

 ああ、とうとう私は、『源氏物語』最初の巻の名付け親となってしまった。

 あまり妃の住まいとして使われていないということは、式部さんがそこまで考えていたとは考えにくい。

 私の一言が、「桐壺」という巻の名前を決めたのだ。

 その事実に愕然として、先ほどの式部さんとの密着によるドキドキもいまは吹き飛んでしまったのだった。

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