第22話 実況 『源氏物語』誕生の瞬間に立ち会っています

 結局その日は、わけがわからぬまま、式部さんの部屋を訪れることもせず、早々に寝てしまった。

 そして、明くる朝。

 昨日のことの真偽はわからないし、すべて私の妄想かもしれないが、とりあえず『源氏の君の物語』を読みに、式部さんの部屋を訪ねてみよう! と覚悟を決めて身を起こしたところに、侍女さんが入って来た。

 そうだ、周防すおうさんと言うのだった、と昨日聞いた名前を思い出し、

「周防さん」

と呼んでみる。

「はい。どうなされたのですか。姫君」

「いえ、昨日、式部さんから呼び名を聞いたものですから、呼んでみたくて。私も周防さんと呼んでもいいですか?」

「ええ、かまいませんが。ただ、“さん”はいらないですよ。“すおう”とお呼びください。ああ、そういえば、大切なことを忘れるところでした。一の君様と言えば、先ほど姫様宛に文を預かったのでしたわ」

 周防さんは、黄色い花に畳んで結び付けられた和紙を懐から取り出した。

 和紙もただの真っ白い紙ではなく、ほのかに緑がかっている。

「あの……、私は読めないので代わりに読んでいただけますか?」

と頼むと、周防さんは細く折りたたまれた紙を丁寧に広げて、「まあ!」と感嘆の声を上げてから、読み始めた。

「『をみなへし香をなつかしみ初雁の我が宿をこそ訪ねてぞ見む』

だそうですよ。あらあら、まあまあ、今日もゆするで髪を整えましょうね。いえ、整えばなりせん。この周防が腕によりをかけて、姫様の髪を今日も都一美しく仕上げて差し上げますわ」

と、意味深な笑みを浮かべていったん立ち去った。

 おそらく、朝の手洗いや整髪のための道具を取りに行ったのだろう。

 しかし、昨日のことは私の妄想などではなかったのだ。

 式部さんは、きちんと和歌を私に送ってくれた。意味はわからないけれど、ちゃんと手順を踏んでくれた。

 つまりはいい加減に思われているわけではない、ということだ。

 それがわかっただけでも、私は嬉しかった。

 道具を持って戻って来た周防さんに、

「さっきの歌はどういう意味ですか?」

と、尋ねてみる。

「ふふふ。まあ、まずはお着替えなさってください。今日も香を薫きしめておきましたよ」

と、答えをはぐらかしながら、周防さんは手早く私に着付けをしていく。相変わらず手早い。そして、今日の香もとても品よく素敵な香りだった。

 髪をゆするで梳きながら、周防さんは

「先ほどの歌ですが……」

と、説明を始めた。

「“をみなへし”は秋の花です。先ほど文が花に結ばれていましたでしょう。あの花が“をみなへし”です。“女郎花”と書きますので、女性を表すことが多いのですよ。初雁というのは鳥ですが、これも秋の風物ですね。“香”というのは、“をみなへし”と共におそらく姫様のことではないでしょうか。“我が宿”は一の君様のお部屋のことでしょう。部屋を訪ねてほしいというこてとでしょうが、その先が意味深ですね」

 周防さんは、「ふふふ」とまたも意味深な含み笑いをする。

「たぶん、昨日、物語を見に来て欲しいと言っていたから、そのことだと思いますが」

と言う私に

「男女の間で“見る”とは、契りを結ぶ、結婚することをも表すのですよ。もともと、深い仲にならなければ、顔を“見る”ことはありませんからね」

と、周防さんはお歯黒を全開にしつつ、にんまりと笑う。

「や、そんな、まさか……! 式部さんのことだから、そんな深い意味のはずありませんよ!」

 否定しつつも、嬉しいような恥ずかしいような、なんともこそばゆい気持ちがわき上がってきた。

「あの……私は返事ができないので、返事を書いておいていただけますか?」

とお願いすると

「わかっておりますよ」

と、またもにんまりと周防さんは笑った。


 周防さんがどのような返歌をしてくれたのか、いささか不安ではあったけれど、二日続けて見に行かないというのも物語を作る手助けをするという約束を破ることになってしまうし、私は覚悟を決めて式部さんの部屋を訪れた。

 簀子すのこえんから、御簾の内に声をかける。

「式部さん、おはようございます。入ってもよろしいですか?」

 これまで部屋を訪ねたときは平気で声を掛けられたのに、答えが返ってくるまでの間すら緊張でドキドキする。

「どうぞ、香子殿」

 式部さんが上げてくれた御簾の片端から、私は部屋の中に滑り込んだ。

 式部さんは、今日も昨日、一昨日と同じ装束を着ている。まげが幾分乱れ、衣にも皺が寄っているところを見ると、単に執筆に集中するあまり、着替えていないだけかもしれない。

 顔色があまり優れないのも、睡眠時間を削って書いているせいだろうか。

「式部さん、和歌……あの、えと……どうもありがと……ございます。嬉しかった……です」

と、まず喋り始めたばかりの子どものようにたどたどしく礼を述べてから

「式部さん、顔色があまりよくないようですが……目の下にもクマが……あの、大丈夫ですか?」

と、体調の心配をする。

「ああ、大丈夫だ。心配してくれて、ありがとう。一昨日出かけたとき、そなたが話してくれた構想が非常に興味深く、ついつい筆ののるままに書き進めてしまった」

 やはり、予想通り。

 夢中になって物語を書いていたようだ。そんな忙しい最中に和歌を詠んでくれたのだと思うと、嬉しさがさらにこみ上げてきた。

「ただ、これでよいのかどうか、自分ではわからない。昨日もやってしまったように、私はどうも恋愛事に関しては、非常に疎いようだ。だから、そなたに女性の目で見て、感情移入できるかどうか確かめてほしいのだ。あ、もちろん、私の方で読み上げるから、文字の心配はしなくとも大丈夫だ」

「わかりました! 任せてください!」

 とりあえずいまの自分のドキドキは脇に寄せて置いておく。そして、式部さんが読んでくれる物語に集中し、萌えられるかどうかを確認し、萌えツボが足りなければそれを伝えればいいだけの簡単なお仕事だ。よし、頑張ろう! と私は意識を切り替えた。


「どの帝の御代のことであったろうか。定かなことはわからないが、さほど身分が高いわけではいらっしゃらないのに、帝のご寵愛が非常に深い方がいらっしゃいました。自分こそは寵愛を得られるであろうと思い上がって入内じゅだいされてきた身分の高い方々や、そのお方よりも身分の低い方々まで、心の中は穏やかではありませんでした。そして、他のお妃様方の嫉妬を一心に受けたせいでしょうか。その方は次第に病気がちになってまいりました」

と、式部さんは物語の書かれた紙の束を片手に冒頭部分を読み上げる。

「いいですね。この寵愛を受けているのが、主人公を産むことになる女性ですね」

「そのつもりだが、冒頭はいかがだろうか」

 少女マンガで言うところの、校内一スペックの高い男子にたいしたこともないヒロインが一人愛されて、周り中から嫉妬されている、という状況説明だ。王道展開である。

「そうですね。帝に愛されすぎて、嫉妬されているというこの状況、いいと思います。たいして身分が高くないというところで、多くの読者も感情移入してくれるかと」

 ただ、この身分の高い男性一人、それに群がり争う女性たち……。少女マンガ以外で、似たようなシチュエーションが他にもなかったろうか。

 記憶を探っていて、

「あ、これって大奥! ハーレム!」

と、思わず声を上げてしまった。ハーレムはともかく、平安時代よりも先の日本の情報を伝えてしまったのはまずかったろうか、とハッと手で口を覆う。

「いや、遠い国に王様の後宮に美女が何千人といて、お妃様同士競っているというのを思い出しまして」

と、ごまかしつつ、「大奥は美女三千人だったか」と脳内で素早く考える。おそらくそれは誇張だろうが、物語なら派手にした方がよいのではないかと思い、

「日本のいまの時代の後宮に、平均してどれぐらいの女性がいるのか私にはわからないのですが。『どの時代かわからない』というだけではなく、『その後宮にとにかくたくさんの妃がいて、美女たちが争っているんだ』という様子が伝わると、身分の上下に関係なく女性の心をグッと掴めると思います。この数多の美女がいる後宮で成り上がっていくんだ、でも意地悪されるんだって、女子ウケ鉄板ですよ、鉄板。この後、展開される意地悪もよりスケール……規模が大きくなるじゃないですか? 病気になるほどの嫉妬ですよね。ちょっと恨んだだけでも人は生き霊を飛ばしているとか言うじゃないですか。あ、霊能者の受け売りですけれど。たとえば、三千人の生き霊とか取り憑いたら、それこそ死ぬほど具合悪くなりそうじゃないです? よりドラマチックに……ええと、女性の心を掴み、創作らしくなりますから、源氏を持ち上げた物語がこの後展開されたとしても、中宮様は自分たちの一族が揶揄されているとはまさか想像だにしなくなるのではないかと思います」

と、提案をしてみた。

「なるほどな、それでは『いづれの御時にか、女御にょうご更衣こうい、あまたさぶらひたまひけるなかに』と冒頭を変えることにしよう」

と、式部さんは筆を取って、新たな一文を書き加えた。

「あ、それと、いまの生き霊の話もよかった」

と、言いながら式部さんは別の紙にメモを取る。

 ……あれ、なんだかそれ……その冒頭の文章、すごく聞き覚えがあるような……?

 それって、古典の授業で暗記させられた、『源氏物語』の冒頭部分じゃないの!?

 ああ、やはりいま私たちが作っているのが、あの『源氏物語』なのか、と確信した。

 そして、いまこの瞬間に私の指摘によって、冒頭の部分が“私の記憶通り”に書き換わったということは。

 私は歴史改変をしているわけではなく、私が史実に介入することによって初めて、歴史が正しい方向に進んで行っているのではないだろうか?

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