第12話 勝者は本当に善なる者か? 敗者を救うたったひとつの冴えたやり方in『伊勢物語』

 惟規のぶのりさんの部屋を飛び出した私は、式部さんの部屋へと急いだ。

 とはいえ、邸は広く、私は走ることなど到底不可能な重い装束を身に付けているので、本人は急いでいるつもりでも、端から見たら亀のような歩みにしか見えないことだろう。

 この邸は、いくつかの棟が渡り廊下で繋がってひとつの邸を為す構造になっている。そして、その各棟に親兄弟が分かれて住んでいるのだ。ちなみに、西の対と呼ばれる棟に式部さん、その反対側に伸びる東の対と呼ばれる棟に惟規さん、中央の寝殿と呼ばれる建棟に主人であるお父君が住んでいる。私は、寝殿の北側にある北の対という棟に居候させてもらっていた。

 もともと体力がなく運動不足な私にとって、重い負荷をかけた東から西への大移動は、激しすぎる運動だった。式部さんの部屋の前にたどり着いたときには、額にうっすらと汗が浮かび、息が思い切り上がっていた。かなりのダイエット効果があったのではないだろうか。

 私は、呼吸を整えてから、

「式部さん、中に入れてもらってもよいですか?」

と、声をかけた。

「どうぞ」

と、涼やかな声が御簾の内から返って来る。

 式部さんは、部屋の隅の机に向かい、何か書き物をしているようだ。

「すみません、勉強中でしたか?」

「構わない。いま、切りのいいところまで書いてしまうから、そこに座って待っていてくれるか」

と、藁のようなもので編まれた丸い座布団のようなものを指し示す。

 私はそこに座って、式部さんが物を書く姿を眺めていた。

 庭にはたくさんの木々が植えられていて、花も咲いているようだったが、庭よりも式部さんを見つめていたい気分だったのだ。

 初めて見たときは、この人なぜ女装なんてしているの? と、本当に驚いたものだけれど、惟規さんから“カンナの変”という政変について聞かされたいまでは、その姿も初見とはまったく異なった印象に映る。その装束には、式部さんなりの覚悟が詰まっているのだろう。

 姿勢を正して真剣に書を見つめるその瞳は、男性にしては長い睫毛によって覆われている。化粧やお歯黒はしていないから、この時代の人から見るとアンバランスに感じられるのかもしれないが、現代から来た私にとっては、他の女性たちよりもかえって美しく見えた。

 そんな式部さんを見つめたまま、10分ほどの時間が経過しただろうか。式部さんは筆を置いて

「申し訳ない、待たせたな」

と、私の方にやって来た。

「陰陽師殿の話は役に立ったのか?」

「はい、正しい答えかどうかはその日になってみないとわかりませんが、帰れる可能性を教えてもらいました」

と、私は国時さんから聞いた日蝕と一条戻橋の話を式部さんに告げる。

「なるほど。確かに、橋は異界との境界だ」

と、式部さんも納得したように、うんうんと頷いた。

「宇治橋には橋姫という神、あるいは鬼が住んでいると言われる。『古今集』にも『さむしろに 衣かたしき 今宵もや われを待つらむ 宇治の橋姫』という有名な詠み人知らずの歌があるな。ところで、辻占つじうら橋占はしうらは、そなたの世界でもまだ行われているか?」

「どういうものでしょう?」

「辻や橋に立って、そこを通る人の言葉から吉凶を占うのだ。ただの人が発した言葉であっても、橋という異界との境界にあっては、神の託宣として我々は受け止める」

「おもしろいですね」

 式部さんの話を聞いていると、橋という場所に時空の歪みがあるというのは、陰陽師だけが持つ特別な知識ではなく、この時代の人たちみんなの共通認識のようだ。

 そういえば、現代でも有名な心霊スポットとして橋はよく耳にするような気がする。トンネルも幽霊の出る場所として有名だし、もともとは地続きではない場所を人が人為的に繋いだ所には、何らかの歪みが生じやすいのだろうか。

 そんなことをぼんやり考えながら、式部さんのもとを訪れた理由である、大事な本題を切り出すことにした。

「話は変わりますが、式部さんのところに来たのは、最初に約束した物語作りを手伝う件で話したいことがあったからなんです。一条戻橋に再び歪みが生じるかもしれない十五日までの間にできるだけお手伝いしたいと思って。話のネタ……アイデア……、つまりこういうお話はどうでしょうかという案を持ってきたんです」

「それは頼もしいな。聞かせてくれるか」

 式部さんは、私の方に膝を進める。

「はい。その前にひとつ質問させてください。この時代に、政権争いで敗れた人が主人公となった物語はありますか?」

「そうだな、『伊勢』などはそうだろうな」

「ああ、『伊勢物語』ですか」

「そなたも知っているか」

「はい、全部を読んだことはありませんが、『史記』と同じように高校の授業で習ったと思います。確か、男の人が高貴な身分の女の人を攫って逃げて……、草についた夜露を『あれは何?』と女の人が質問したと思った途端、鬼が女の人を食べてしまったとかいう……幻想的な物語ですよね?」

「確かに、表に見える物語は幻想的に感じられるかもしれぬな。しかし、その裏にはある事実が、巧妙に隠されている」

と、式部さんは意味深な笑みを、その顔に浮かべた。

「六歌仙に選ばれている在原業平あらわらのなりひらはわかるだろうか」

「はい、名前を聞いたことはありますが……。ただ、それほど詳しくはないです」

「それでは、簡単に説明するとしよう」

 そう言って、式部さんは近くにあった絵巻物を広げた。文字は読めないが、おそらく『伊勢物語』か在原業平に関するものなのだろう。縦書きの繋がった文字がバランスよくあちこちに散りばめられる中、女性に男性が言い寄っているような絵がいくつか描かれている。

「『伊勢』の主人公は“昔男”と呼ばれるが、これは在原業平ではないかと言われている。実際、物語の中に引用されている歌は、業平の詠んだものだ」

 式部さんは、男性にしては節の目立たないほっそりとした指で、絵巻の中の男性を指さした。

「在原業平は、平城天皇ならのみかどの孫に当たる。しかし、平城天皇と嵯峨天皇が対立した薬子の変で、平城天皇は嵯峨天皇に屈することとなる。嵯峨天皇の血統がその後、代々皇位を継ぐこととなり、平城天皇の第一皇子であられた阿保親王あぼしんのうは帝となることなく臣籍降下し、在原姓を名乗った。この阿保親王の子が業平だ」

「ということは、“クスコの変”? とやらがなかったら、業平は天皇になっていたかもしれないということですか?」

「業平は、阿保親王の息子と言っても五男だから、帝になられたかどうかはわからないが、高貴な血筋であることは間違いないだろう。それが、臣下としても不遇をかこち、その身を憂い、東下りをする。先ほど、そなたが話した高貴な女性を盗んだ“昔男”も当然、業平のことだが、その女性の方も実在の人物なのだ」

 式部さんは、今度は絵巻の中で男性が女性を背負っている絵を指さす。そして、中でもその女性の顔をトンと、人差し指で叩きながら、

「二条の后と呼ばれる、後に清和せいわ天皇の后となり、陽成ようぜい天皇を生み、国母こくもとなられた女性だ」

と説明を加えた。

「そして、ここに出てきた鬼も、実は物の怪や幽霊ではなくれっきとした人間だ。この第六段の最後に種明かしがされていたのは覚えてはいないかな?」

 そう言いながら、今度は絵の近くに書かれた文字を指で辿る。もちろん、私には読めないので、式部さんが朗読してくれた。

「『御兄人おんせうと堀河の大臣おとど太郎国経たろうくにつねの大納言、まだ下﨟げろうにて内裏うちへ参りたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とどめて取りかへしたまうてけり。それを、かく鬼とは言ふなりけり』……この堀河の大臣と太郎国経というのは、二条の后の兄に当たる。“昔男”に攫われて泣いているところを聞きつけて兄たちが救ったと書かれているが、その助けた家族の方を“鬼”と表現しているのは実に面白いね」

「本当に誘拐されて怖くて泣いていたなら、助け出してくれたお兄さんたちは、鬼ではなく仏ですよね? それを鬼と言っているということは、その未来のお后様も、助けてほしくはなかった……業平と逃げたかったということですか?」

「もちろん、そこまでははっきりと書かれてはいないけれどね。しかし、愛している男との仲を裂き、自分たち一族が外戚となって権勢を振るうという栄達のために妹を救い出した兄たちは、“鬼”と蔑まれても仕方がないだろうね。よく読めば、そんな皮肉が浮かび上がってくる」

 私の正体を見破ったときのように、不敵な笑みを浮かべながら、式部さんはそう話を締めくくった。

 高校の授業で習ったときには、そんな深い意味が込められているとは知らなかった。

 真実を暴露しているようでいて、その実、勝者が正義とは思えないレトリックを一部にだけ使う。気付く人だけ使えばいいというこの手法は使えるのではないか。

 たとえば、現代のRPGゲームやファンタジーでは、勧善懲悪の世界が描かれるのがかつては定石だったと思う。絶対なる悪がいて、それを絶対なる善である勇者が倒す。日本昔話だって、悪者の鬼を倒すという勧善懲悪だ。勝者こそ正義。しかし、それは敗者の真実を伝えるものが存在しないからではないか。

 最近になってようやく、かつては倒される存在だった魔王が主人公になったり、乙女ゲームでも鬼を攻略対象に選ぶこともできるようになってきた。それは、21世紀になったからできるようになったことだと思っていたのに……。

 既に『伊勢物語』を作った誰かが、勝者は善なる者とは限らないということに気付いて、このようなメッセージをこっそり潜ませていたとは。

 う~む、古典文学侮り難し。

 とはいえ、そのような自分の主張を物語に潜ませ、それを読み解ける式部さんのような人がこの時代にいるということは。

 いま権力を握っている者が善とは限らないことをこっそりと物語に潜ませ、式部さんたちのように不遇な人たちの溜飲を下げるような物語だって作れるのではないだろうか。

 私は、いよいよ本題を、式部さんに切り出すことにした。

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